雨上がりの午後

Chapter 140 心安らぐ深夜の出迎え

written by Moonstone


 23:30過ぎ。日付が変わるまであと30分を切った。
実験はどうにか終了した。だが、平穏無事とはとても言えない。
智一他実験グループのメンバーは担当教官の設問に半分も解答出来ず、散々説教を食らっちまった。その後俺が残りをどうにか答えてようやく解放と相成った。

「うー、もうすぐ0時じゃねえか。まさかこんなに長引くとはなぁ。」
「それは俺の台詞だ。」

 実験室がある建物を出たところで出た智一のぼやきに俺が半ば反射的に斧を振り下ろす。
全員で取り組んで出来なかった、っていうならまだ納得がいく。
だが、結局今日も俺が終始動き回り、設問に答え、おまけに説教を食らっちまった。その結果終電を過ぎたんじゃ、俺は一体何をしてたんだ、と思う。

「1時間経たずに戻って来たと思ったら、声を揃えて『分からなかった』。前のグループの情報だけで突破出来るほど設問が甘くないってことは、
もう十分分かってるだろ。」
「そりゃそうだけどさ・・・。」
「全員揃って取り組んでもどうしても出来なかった、分からなかった、なら仕方ない。けど、俺におんぶに抱っこで乗り切ろうって魂胆が許せない。」
「あう・・・。」
「終電は過ぎちまった。この責任、どう取ってくれる?」

 俺が視線だけ向けると、智一はさっと顔を逸らす。気まずいと思ってるだけましと思っておくか。

「お、俺ん家に泊まってけよ。大学から近いしさ。」
「否、胡桃町駅まで送っていけ。自分の家に帰る。」
「無理に帰らなくても良いじゃねえか。・・・あ、飯か。近くに24時間営業のファミレスがあるから、そこで食えば良い。メニューも豊富だし。
勿論、金は俺が持つからさ。」
「そういうわけにもいかない。待ってるんだ。飯が。」
「あれ?お前、自炊してたっけ?お前は普段月曜の夕飯は大学で食ったり食わなかったりしてるけど。」
「約束があるんだ。一緒に食おう、って。俺が帰って来るのを待ってるんだ。」
「ま、待ってるって、お前・・・。」
「電話してくる。」

 俺は程近い生協の店舗へ向かう。・・・流石に怒ってるかな。待ちきれなくて先に食べた、って言われても文句は言えない。
俺は実験が終わるまで色々してたからまだしも、晶子はずっと狭い室内で何時帰って来るかはおろか、次の電話が何時かさえも分からないのを待ってるんだから。
 兎も角、約束どおり電話しないと。
生協の店舗前にある公衆電話に辿り着くと、俺は財布からテレホンカードを取り出し、受話器を上げてスロットに差し込む。
自分の家の電話番号を押して受話器を耳に当てる。コール音が鳴り始める。1回目。2回目。3回目。そこでガチャッという音がする。

「はい、安藤です。」
「あ、晶子?祐司だよ。」
「祐司さん。今何処ですか?」
「まだ大学。ようやく実験が終わったんだ。」
「この時間だと、最終電車は出ちゃってるんじゃ・・・。」
「智一に胡桃町駅まで送ってもらう。それより・・・夕飯は?」
「準備は出来てます。後は温めたりすれば良いだけの状態にしてありますよ。」
「まだ食べてないのか?」
「約束したじゃないですか。一緒に食べよう、って。約束を守るのが円滑な人間関係構築の基本ですよ。」

 こういう時は頑固だな、本当に・・・。一刻も早く帰ること。それ以外に電話の向こうに居る女神を動かす手段はない。

「それじゃ、今から帰る。車だとどのくらいかかるか分からないけど、30分くらいかな・・・。」
「気を付けて帰ってきてくださいね。」
「ああ。それじゃ・・・。」

 俺は少しの間を挟んでから受話器を静かに置く。
スロットから吐き出されたカードを素早く取って財布に仕舞う。
そして踵を返して智一が居る交差点に戻る。

「待たせたな。」
「否、別に待つほど時間経ってないが・・・、祐司。お前が電話したところって・・・。」
「俺の家だ。」
「てことは晶子ちゃん、お前の家に居るのか?」
「合鍵は渡してあるからな。」

 俺は歩き始める。程なく智一が横に並ぶ。その表情には驚愕と疑念がごちゃ混ぜになって浮かんでいる。

「・・・何時から一緒に住むようになったんだ?」
「まだ一緒に住んでない。今日は俺と晶子の事情が合致したから来てもらっただけだ。」
「そうか・・・。ま、結婚してるなら夕飯作りに来てても不思議じゃないか。お前が今日やけに苛立ってたのは、早く晶子ちゃんと夕飯食べたかったからか?」
「夕食作らせておきながら、それを目の前に長々と待ちぼうけを食らわせるわけにはいかないだろ?ましてや『今日は帰らない』なんて言えるかよ。」
「そりゃそうだな。・・・悪いことしたな。今回ばかりはマジ悪かった。」
「もう良い。とりあえず胡桃町駅まで送っていってくれ。」
「任せとけ!駅までじゃなくて、お前の家まで送っていってやるからよ!」
「その元気とやる気を実験でも見せてくれりゃあな・・・。」
「お、お前さん。それは言わない約束だよ?」

 何処かで聞いたような台詞を何処かで聞いたような口調で言う智一を見て、思わず笑ってしまう。
これまで何かの度に晶子に対するアプローチの態度を見せていた智一は、本当は口惜しくてならないんだろう。
だが、そんな憎っくき恋敵の俺を、こともあろうに「標的」の女が夕飯作って待っている、っていう新婚家庭さながらの状況を演出する手伝いを快く引き受けてくれる。
果たして俺と智一の立場が逆だったら、こんなことが出来ただろうか?

 智一の車が夜道を疾走している。平日、しかも時間が時間ということもあってか、道は閑散としている。
一応大通りらしいが−電車通学だし自転車と徒歩以外に交通手段がないしそもそも出歩かないからよく知らない−このくらいの時間だとこの辺は空いているらしい。
 運転席の隣にはカーナビがあって、中央にある矢印がほぼ上、すなわち北を向いた状態で地図がじりじりとスクロールしていく。
ちらっとスピードメーターを見ると・・・80km?!おいおい、チラッと見たが標識では制限時速50kmってなってた筈だぞ。

「智一。お前、スピード出し過ぎじゃないか?」
「ん?この時間でこれだけ広い道を突っ走るのにスピード出さなかったら、罰があたるってもんだ。」
「警察が追いかけてくるぞ。」
「大丈夫大丈夫。この道のこの時間帯じゃネズミ捕りはやってない。あれはこういう目立つ道じゃなくてバイパスみたいな道で、しかも流れから離れて
ぽつんと走ってる車をターゲットにするもんだ。」
「つまり、警察が来ないことを承知でぶっ飛ばしてるってわけか。」
「そういうこと。」

 なるほど・・・。抜けがないと言うか何と言うか・・・。
智一が休日とかにドライブに出かけるって話は聞いたことがあるが、その甲斐あって−と言って良いものかどうかは別として−走り慣れてるな。
ぶっ飛ばすにしてもまったく躊躇してる様子がないし。

「それに、お前の到着がこれ以上遅くなったら、晶子ちゃんが可哀相だからな。元はと言えばお前の言うとおり、お前におんぶに抱っこで実験を進めてる
俺やあと二人に責任があるんだし。」
「・・・。」
「謝るついでに会いたいしな〜。晶子ちゃんに。」
「智一。謝るの『ついで』じゃなくて、会う『ついで』に謝るの間違いだろ。」
「チッ、ばれたか。」
「最初から俺の家まで車走らせる気だったんだろ?晶子見たさで。」
「ご名答。超能力が開花したか?」
「そんなこと、その辺の似非(えせ)占い師でも当てられる。」

 俺と智一は笑う。
車に乗る前に、俺は胡桃町駅前までで良い、と言ったんだが、智一はカーナビがあるからお前の家まで送ってやる、と言った。
その時はあまり深く考えずに承諾したが、やっぱり下心があったのか・・・。
 暫くして車は住宅街らしいところに入る。
らしい、というのは闇に浮かぶ建物のシルエットが家らしいものばかりだからだ。
車はおろか、人どおりもない。ゴーストタウンとはまさにこういうのを言うんだろうか。
 尚も走って行くと、何となく見覚えのある風景が目に入って来た。
点々と灯る街灯、闇に浮かぶ似かよった建物のシルエット・・・。これって、俺の家と晶子の家を結ぶ通りの延長線上じゃないか?
カーナビの画面を見ると、赤く点滅している一角に向かってほぼ一直線に道が走っている。

「この先500mを左折です。」
「もう直ぐだぞ、祐司。」
「そう・・・なのか?俺にはよく分からないけど。」
「普段通ってる道でも昼と夜とじゃ随分違って見えるもんだからな。だが、お前の家に近付いているのは確かだぞ。」

 そうこうしていると、眼前の光景と脳裏にある光景がはっきり重なってくる。ああ、確かにこれは晶子の家から俺の家に向かう道だ。
遠くに視線を移すと、コンビニの看板とその近くに幾つかの人影が見える。年中無休、24時間営業のコンビニには、常に誰かが居るものだ。
 車が左折し、スピードを落とす。程なく見えてきたものは、間違いなく俺の家があるアパート。
カーナビの画面を見ると、周辺の太さ様々の道に−通ったこともないな−矢印と赤い点滅が隣接している。

「祐司。降りて良いぞ?」
「あ、ああ。」

 カーナビの画面に気を取られて、降りることをすっかり忘れていた。俺は鞄を抱えてからドアを開けて車を降り、ドアを閉める。
闇にうっすらとシルエットを浮かべる見慣れた建物の、最も西寄りの一角の窓が白い明かりを放っている。
普段は真っ暗な筈のそこがこんな時間でも明るいことで、心まで明るくなっていくような気がする。
 俺は小走りで晶子が居る筈の自分の家に向かう。何時もなら「今日も1日終わったか」と溜息混じりに向かう道程が妙に心躍る。
近付いていくにしたがって、俺の家に灯りが灯っていることが実感出来る。ドアを前にしたところで足を止める。

「おいおい。置いていくなよな。」

 インターホンを押そうとしたところで智一の不満混じりの声が聞こえる。
そう言えば智一の奴、晶子を見たいんだっけ・・・。
思わず笑みが零れたのを感じて、俺はインターホンを押す。
 ピンポーン、と外からでもよく響く音がした後、中で何かが近付いて来る気配を感じる。
ガチャッという音がしてドアがゆっくり開く。
幅約10cmのところで止まったドアの中央部にはドアチェーンに続いて、茶色がかった髪がゆっくり見えてくる。

「どちら様ですか?」
「祐司だよ。」
「そして伊東智一様もご一緒でーす。」

 嬉しさが溢れてきた晶子の表情が見えなくなる。智一が俺を横に押しやって陽気に名乗り出たからだ。
その拍子に壁にしこたま身体をぶつけてしまう。何か勘違いしてやいないか?智一。此処は俺の家。晶子が待ってたのは俺だぞ。

「あ、伊東さん・・・。どうして?」
「いやあ、祐司を送って来たついでに、祐司をこんな遅くまで帰らせなかったことを晶子ちゃんに謝ろうと思ってね。」
「実験が長引いてる、って祐司さんから電話で聞きましたけど・・・。」
「やっぱりこういう時は面と向かって謝るのが、人間関係の基本でしょ?」
「は、はあ・・・。」
「智一。いい加減にしろよ。」

 俺はされたのと同様に智一を押し退けて、ドアと壁との隙間に身体を戻す。当惑気味だった表情が急速に歓喜へと戻っていくのが分かる。

「すっかり遅くなったな。」
「いえ・・・。それじゃ、開けますね。」

 晶子はドアを一旦閉める。金属同士がぶつかり合う音がした後、ゆっくりドアが開く。
今度は晶子の姿と俺の家の玄関が見えるくらい広く。髪はおろしているが、エプロンは着けているその服装は今朝見たものと同じだ。

「ただいま。」
「お帰りなさい。」
「ううう・・・。新婚家庭そのものじゃねえかよ・・・。」

 家に入ろうとしたところで、智一の恨み節にも取れる呻き声が聞こえる。

「祐司が晶子ちゃんに合わせてその場限りの言い逃れをしたんじゃないか、って少しばかり思ってたけど、本物だったのか・・・。エプロン姿と笑顔でお出迎え。
何て羨ましいシチュエーションなんだ・・・。」
「これで確認出来ただろ?俺が何で今日あんなに苛立ってたかって。」
「さっきのやり取り見聞きしたら嫌でも分かるさ。はあ・・・。晶子ちゃんはもう俺の手の届かないところに行っちまったのか・・・。」

 智一は明らかに肩を落としている。何だかんだ言っても目の前で展開された状況を見てショックだったんだろう。
俺もかつて想いが届かず、好きな相手が自分と違う男と仲良さげに話していたり、一緒に下校するのを見てやるせない気分になったことが何度ある。
今度は結婚、しかも相手が夜遅くまで夕食を作って待っていた。ショックに思わない方がおかしいか・・・。

「あーあ、羨ましいなぁ〜。これから二人で温かい夕食タイムか・・・。癒されるだろうなぁ〜。」
「智一・・・。」
「この目でしかと確認させてもらった。それじゃあな。」
「ああ。」

 智一は手を挙げてから背を向けて立ち去っていく。闇に消えていくその後姿がやけに寂しげだ。
自分から見たいと言っておきながら、なんて気持ちは少しも湧き上がってこない。

「祐司さん。」

 智一の後姿を見送っていた俺に声が掛けられる。
・・・外堀も内堀も埋められ、自分でも埋めてのこととは言え、俺も晶子も思い描く将来像を展開していることには変わりない。今はその幸せに甘んじるとするか。

「悪い。つい、な。」

 俺は家に入り、晶子に代わってドアを閉めて鍵をかける。そして改めて晶子と向き合う。

「ただいま。」
「お帰りなさい。」

 後ろに両手を回した晶子と挨拶と笑みを交わして、俺は靴を脱いで上がる。
微かに漂う味噌汁の匂い。ランプがついている炊飯ジャー。テーブルに伏せて並べられている食器の数々・・・。
今夜この家に居るのは俺だけじゃないってことを嫌が応にも実感させてくれる。

「今から温めますから、その間に顔を洗ってうがいをしてください。直ぐ出来ますから。」
「分かった。」

 俺は先にデスクの椅子に鞄を置いて、流しの蛇口を捻って顔を洗い、うがいをする。
その横では、晶子が2つのコンロに乗せられた鍋を火に掛けている。片方は味噌汁というのは匂いで分かったが、もう一つは何だろう?
 タオルで顔の水気を拭って、隣を覗き込む。
少し湯気を立ち上らせているのは味噌汁。もう一つは・・・煮物か?
まあ、焼くのは程度やものにもよるがある程度時間がかかるし、揚げるなら専用の鍋が必要だし、揚げ物が出来る程度の量の油を加熱するのには結構時間が
かかることは、今まで晶子の手料理を食わせてもらっているから分かる。何の煮物だろう?

「晶子。もう一つの鍋って何だ?」
「魚の煮付けですよ。」
「あ、魚か。」
「祐司さんが食べたお昼ご飯と重なっちゃったかもしれませんけど、料理の種類が違うということで見逃してくださいね。」

 今日の昼は魚だったから重なってると言えばそうだが、フライと煮付けじゃ全然違う。
「温めたりすれば良い状態にしてある」と言ってたが、煮物なら後で加熱し直すことも容易だから、何時帰るか分からない奴を待つ料理としては一番適切だろう。

「もう少ししたら出来ますから、席で待っててください。」
「あ、良いのか?」
「料理の準備は私がすることですからね。特に今日は、私が此処で準備する、って言い出したんですから、祐司さんは待っていてくれれば良いんですよ。」
「それじゃ、向こうで待ってる。」
「はい。」

 香ばしい匂いに惹かれてその場に突っ立っていた、というのが本当のところなんだが、邪魔にならないように退散した方が良いな。
俺は自分の席に向かい、途中でブレザーを椅子に引っ掛けて腰を下ろす。部屋に何時以来かの生活感豊かな匂いが充満してくる。楽しみだな・・・。
 程なく、軽い足音が近付いて来る。
晶子が蓋をした鍋を持って来て、鍋敷きの上に置く。それを2回繰り返してから戻り、今度はラップに包まれた皿を運んで来る。
サラダに冷奴、それに・・・ほうれん草のおひたしってやつか。
夏場はとうに過ぎたとは言え、この手のものを出しっぱなしにしておくと乾燥して味気がなくなるってことくらいは、学食で経験済みだ。
 それが終わると、今度はやかんと炊飯ジャーを持ってくる。そこでようやく料理が皿に盛り付けられていく。
魚の煮物、味噌汁、茶、ご飯。どれも温かいことが嬉しいものだ。
盛り付けが終わると、晶子は皿を覆っていたラップを取ってエプロンを外し、髪をポニーテールにして俺の向かい側に座る。

「お待たせしました。それじゃ・・・。」
「「いただきます。」」

 二人の遅い夕食−夜食と言うべきか−が始まった。俺は箸を手に取るとまず魚の煮物に手を伸ばす。
俺の好みに合わせてくれるとは言え晶子の煮物は甘くなる傾向があるし、魚の煮物はあまり食べないからな。
どんな味なんだろう?期待と不安が脳裏で複雑に交錯する中、皮を剥いでほんのり煮汁の色にそまった実を口に入れる。・・・あ。

「美味いな、この煮物。」
「そうですか。良かった。やっぱり私から見て少し辛めかな、っていうくらいが丁度良いみたいですね。」

 晶子は笑顔を浮かべていかにも嬉しそうに箸を手に取って食べ始める。俺の評価を受けるまで待っていたのか。
こんな時間まで待っていてくれただけでも十分嬉しいのに。

「・・・悪かったな。遅くなって。」

 味噌汁を啜ってから晶子に言う。煮魚を食べていた晶子が顔を上げて俺の方を向く。

「日付が変わるまで、作らせた食事を前に待ちぼうけさせてしまってさ・・・。」
「そんなことなら気にしなくて良いですよ。それより祐司さんがこんな遅い時間になっても、私との約束を守ってくれて嬉しいです。お腹減ったでしょ?」
「それは俺が聞きたいさ。腹減っただろ?」
「ええ・・・。」

 晶子は少し頬を赤くして視線を落とす。女が腹減ったって言うのは恥ずかしいとでも思ってるんだろうか?
昼飯の後で約12時間も何も食わなかったら大抵の人間は腹減らす筈だ。それこそ気にしなくて良いのに・・・。

「普段は大体食事の時間が決まってますから、その時間が近づくとお腹減ってきますね。でも、それを過ぎるとお腹減ったっていう気分が不思議と
和らぐんですよ。喉が乾いたらお茶飲んでましたし。」
「そうか・・・。」
「祐司さんは実験で忙しかったでしょうから、お腹減ったらイライラするとかそっちの方に向かったと思いますけど、私は此処でゆっくり待たせてもらいましたから。
CDを聞きながら祐司さんより先に・・・この雑誌を読んで。」

 晶子は箸を置いて左脇に手を伸ばす。ガサガサと木の葉が風でざわめくような音がする。
その音が止んだ後晶子が俺の前に差し出したものは・・・俺が代わりに引き取ってもらうよう頼んだギターの雑誌。

「それにしてもあの時はびっくりしましたよ。」
「ん?」
「私が生協の店舗を出ようとしたところで地鳴りみたいな足音が近付いて来て、何事かと思ったら呼び止められて・・・。声の方を見たら伊東さんの他に
大勢の男の人がもの凄く切羽詰った顔で詰め寄って来たんです。そうしたら・・・。」
「『君って電子工学科3年の安藤祐司君の彼女か?』って聞かれたんだろ?」

 晶子の目が大きく見開かれる。元々大きい瞳がよく見える。

「どうして知ってるんですか?」
「そりゃ分かるさ。実験室に居た俺のところに、他の実験室に居る筈の奴らまで押し寄せて来て一斉に質問ぶつけたんだから。その中には実験を途中で放り出して
生協の店舗に行ったっていう智一も居たよ。」
「確認しに行ったんですね?祐司さんのところに。それじゃあ、祐司さんが言った私への質問の答えも知ってますよね?」
「勿論。その後で何をしたかもな。」
「何て言われました?」
「俺が聞かされた答えと照合するから、言ってみろよ。あんなインパクトのある言葉、俺でも今の今まで憶えてるんだから。」
「じゃあ・・・せーの、で言いましょうよ。それなら祐司さんも誤魔化せないでしょうから。」

 あくまで俺に言わせたいらしいな・・・。まあ、良いか。
俺は茶碗と箸を置いて晶子と向き合う。晶子は既に雑誌を床に置いて俺の方を向いている。その顔が何を求めているか、それこそ似非占い師でも分かる。
俺は軽く息を吸い込む。

「せーの・・・。」
「『彼女でもありますけど妻でもあります。』」

 俺と晶子の即席変則デュエットが見事に一致する。
面白くて笑いがこみ上げて来た。口を手で押さえている晶子の目は明らかに笑っている時のものだ。

「ぴったり・・・一致しましたね。」
「一息で言える程度のフレーズで簡潔でしかもインパクトがあるから、直ぐ覚えられるさ。俺の答えは経過を話した奴の言葉そのものなんだけど、智一以外は
俺が以前見せた写真を除けば初対面の奴でも覚えてるんだからな。」
「それじゃあ、私のその後の言動も聞いたんですね?」
「ああ。これは俺が言うよ。左手を見せて『これが証拠です』って言った。そして最後に『午後から講義がありますので失礼します』って言って頭下げて
立ち去った。そうだろ?」
「ええ、そのとおりです。追いかけてこられることもなかったです。」
「多分、否、間違いなくその直後俺のところに向かったんだろう。晶子の言葉が正しいのかどうか。俺が同じ学科の奴等に写真を見せてから結構日が経ってるし、
その時一度しか見せてないからうろ覚えになってても不思議じゃない。それに、見知らぬ男が大挙して押し寄せてきたことに驚いた晶子がその場凌ぎで
言った嘘かもしれない、って思いもあったんだろうな。」
「祐司さんは、私の言動を聞かされた後どうしたんですか?」
「左手出して『これと同じ指輪だよ。』って言った。此処でまず一回どよめき。次に定期入れの写真を広げて見せた。もう一度どよめき。そして俺が
『これだけ証拠見せれば満足か?』って念押ししたら智一が『お前何時晶子ちゃんと結婚したんだ?!』って、愕然とした表情で聞いてきたから、
『この指輪をプレゼントした時だよ。』って答えたんだ。三度目のどよめき。」

 経過を話す俺を晶子は黙って、しかし目を輝かせて見詰めている。

「で、智一が、何時結婚式したんだ、って聞いてきて、式はまだで指輪の交換だけ先にした、って答えたんだ。智一が、その指輪は晶子の誕生日に
プレゼントしたものって言ってたじゃないか、って問い詰めてきたんだ。晶子は知ってるだろうけど、ペアリングをプレゼントしたことは智一に以前話したからな。
俺は、ものはペアリングには違いないけど、この指に・・・。」

 俺は左手を晶子に差し出す。左手薬指に填まっているペアリングの片割れが、電灯の輝きを受けて星のように煌いている。

「填めさせて填めた時点で結婚するって合意したからペアリングでも問題ないだろ、って言ったんだ。とどめって言ったら言葉が悪いけど、
俺はプライベートに関してはあまり積極的に話すタイプじゃないから必要以上は答えないでいたけど、今回は晶子に質問した後で大挙して俺に確認してきたから
一致して当然の回答を示した、って答えておしまい。・・・こんなところ。」
「今日、あ、日付ではもう昨日ですけど、朝大学に行く時言いましたよね?私との関係について聞かれたら答えてください、って。」
「ああ。」
「一応予想はしてたんです。祐司さんのいる学科の人が声をかけてくることは。祐司さんが以前、私と一緒に撮った写真を学科の人に見せたから、
見たことある顔だなと思って話し掛けてくるんじゃないか、って。伊東さんをはじめとしてあんなに大勢の人が押し寄せてくるとは思いませんでしたけど。」
「そりゃそうだよな。」

 俺と晶子は揃って苦笑いする。
数えてはいないが、俺に詰め寄って来た奴は少なくとも30人は居たと思う。
それだけの、或いはそれ以上の数の男が、それも見ず知らずの男が雪崩になって押し寄せてきたら驚いても不思議じゃない。
しかも未踏の地である理系学部でそんな事態に遭遇したんだ。思わず逃げ出さなかっただけでも度胸があると言うべきだろう。

「祐司さんの言ったとおりに答えた後真っ直ぐ自分の学部に戻ったんですけど、多分あの人達は祐司さんに確認しに行くんだろう、って思ったんです。
その時祐司さんはどう答えてくれるんだろう、って思ってました。」
「不安・・・だったか?」
「まったく不安じゃなかった、って言えば嘘になりますね。祐司さん、あまり表立って言わないですから。」

 確かにそうだ。ペアリングのことを話したのも智一に発見されて問い詰められてからだし、店でも出来るだけ見えない、否、見せないようにして来た。
晶子のファンが特に男性層に多いから無闇に刺激したくない、という思いもあったが、こういうことを公言するのに慣れてないからどうすりゃ良いのか
よく分からないから黙っておこう、というある種の逃げがあったと思う。
 晶子が過去の恋愛でどうだったのかは知らないし聞かないし、あまり聞きたくない。
大恋愛が無惨な結果に終わった悲しみを乗り越えて俺との関係に今後の全てを見出したことへの気遣いもあるが、どんな奴と付き合ってたのかなんて
聞きたくないというのもある。
だが少なくとも晶子は、今の自分の幸せをより多くの人に知って欲しいし知らせたいと思ってるんだろう。
そうでなけりゃ、俺がプレゼントしたペアリングをさり気ない振りして見せびらかすようなことはしない筈だ。

「ですから、祐司さんが大勢の人の前ではっきり答えてくれて凄く嬉しいです。後ろめたいとか否定的な感覚じゃないってことが改めて分かったから・・・。」
「後ろめたいなんて少しも思ってないよ。ただ・・・、おおっぴらにすることに慣れてないし、そう思えるだけの数をこなしてないから、まあ、これは人によって
違うだろうけど、問い詰められて答えに窮して妙なことを口走ったりしないようにしてただけだよ。それが晶子にとって良く言えば控えめな、悪く言えば
ひた隠しにするような感じに受け止められても仕方ないけど。」
「・・・。」
「今回は晶子と事前に約束したし、予想どおりっていうのかな・・・。晶子に尋ねた後で大挙して俺に確認しに来たから一致して当然の、一致しないと
俺が他に女作ってるって思われても仕方ないことを答えたんだ。朝言ったことと重複するかもしれないけど公言出来る勇気がないしプライベートに
関することだから普段は言わない。だけど必要に迫られたら言う。それだけだよ。」
「私と付き合ってることを言うのが嫌だとか、そういう気持ちじゃないんですよね?」
「それはない。」

 俺が断言すると晶子は嬉しそうに、そして安心したように微笑む。
やっぱり確かめたかったんだな。俺が自分との今の関係を気恥ずかしいものとか後ろめたいものとか、そんな風に思ってないかどうかを。
言い換えれば、衆人環視の前でも自分との関係を宣言出来るかどうかを。
 俺は恋愛ごとに関してはあまり「積極的」じゃない。これまでの環境や経験がそうせざるをえないものにさせたからだと思う。
だからようやく掴めた絆がある夜一瞬にして飛散した時、目の前に降臨した女神が差し出した手を払い除けた。何度差し出されてもひたすら払い除けていた。
 自分の方を向いて欲しい、自分が差し出す手を掴んで欲しい、と願う女神を疎ましくさえ思い、一時は背を向け合ってしまった。
所詮はつまらない意地の張り合いだった。
ようやく再び向き合えた後でも俺はなかなか女神の手を取ろうとしなかった。女神が消え去るのを怖れてようやくその手を掴んだ。
 ペアリングを贈って左手薬指に填めさせ填めたのは、女神の強い要求に押されたという側面があったにせよ、初めて俺が手を差し出した出来事と言えるだろう。
10本ある指の中でこの指に指輪を填めることは、際立って特別な意味を持つことくらいは知っていた。
改めて真剣に自分の気持ちと向き合い、彼女を愛している、という意思を彼女に、そして自分に明確に提示したんだ。
 これまで揃って指輪を填めていることは必要以上に話さないで来た。
だが、今自分が抱いている気持ちが本物なら、それが決して後ろめたいものでないと思っているなら、大学時代のひと時の思い出にするつもりはさらさらないなら、
言うべき時には言わなければならない。
今回はまさにその時だったんだろう。
約束・・・。それは相手の心は勿論、自分の心も信頼し、尊重して初めて成立するものだということを改めて実感した。
 遅い夕食、否、もう夜食と言うべき時間だが、決して広いとは言えない部屋の一つの灯火の下でそんな時間はゆったりと流れていく。
今日も色々あったけど、腹が減るのを我慢して実験を終えた後にこんな時間が待っているなら・・・空腹を我慢するのも悪くはないな。

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