雨上がりの午後
Chapter 135 切なる想いを確かめて
written by Moonstone
食事は終わり、晶子が後片付けをして俺の隣の「指定席」に戻った後、俺は話を始めた。
バンドのリーダー、すなわち耕次が自分の進路指導が本格化してきたことに伴い、成人式会場前でのスクランブルライブの後で俺が進路で迷っていることを
思い出して電話してきたこと。そこで前の大学での個人面談の経緯を話したこと。
そして今の彼女とはどうするんだ、と唐突に聞かれて、俺が左手薬指に指輪を填めていることが話題になり、あれは今の彼女も填めているペアリングだ、と
宮城が詳細な背後関係まで付けて解説したことでバンドのメンバー全員が俺に新しい彼女、すなわち晶子が居ることを知ったことを話した。
続いて俺も晶子も今の付き合いを大学時代の思い出にするつもりはないこと、晶子は俺の将来設計に自分を当てはめるつもりだということを話したら、
晶子が自分を崖っぷちに追い込んでまで俺と一緒に暮らすと決めたという心理を見抜き、俺にもその覚悟があるか、と問い掛けたが即答出来ず、即答出来ないことは
心の何処かで晶子と親とを天秤にかけているということ、本気で晶子と一緒に暮らすつもりなら自ら親子の縁を切ってでもそれこそ地獄の底まで一緒に行くくらいの
覚悟を持て、それが晶子に対する俺の責任だ、と諭されたことを話した。
そして話が突然切り替わり、宮城から聞いた晶子の容姿と俺への呼び方を話し、二人一緒に映った写真はあるか、と聞かれて、ある、と答えたら、その写真を
バンドのメンバー全員に送れ、と言ったこと。
そこで宮城とその友人が知ってるのにほぼ3年間行動を共にして来たバンドのメンバーが知らないのは理不尽だから、という強引な理由を話したこと、
そしてバンドのリーダーの権限を持ち出して送れ、と念押ししてきたことを話した。
晶子は俺の長話を時折頷きながら真剣に聞いてくれた。
晶子が俺と一緒に暮らすことを真剣に考えているのに俺がその覚悟はあるかと聞かれて即答出来なかったことを話すのには躊躇したが、晶子は表情を変えることなく
黙って聞いてくれた。
「−話はこんなところ。」
「良いお友達に恵まれましたね。」
「俺もそう思う。」
俺は溜息を吐く。
結局俺の優柔不断ぶりが遺憾なく発揮されたというわけだ。晶子も心の中ではいい加減にしろ、と言いたい気分だと思う。
なのに黙って最後まで話を聞いてくれたのは本当にありがたいし、それが今回いきなり押しかけてきたことと重なって余計に申し訳なく思う。
「・・・私は、幸せをズタズタに引き裂かれたことに反発して自分から親と断絶状態にしたから良いんですけど、祐司さんはそうじゃないですから、そう簡単に
踏み切れないですよね。」
「否、耕次に言われたとおりだよ。俺は心の何処かで晶子と親とを天秤に掛けてるんだ。ずっと一緒に居よう、って願掛けまでしておきながら、まだそれに
踏み切れない・・・。覚悟が出来てない・・・。これじゃ、晶子が自分を追い詰めてまで俺と一緒に生きることを決めた気持ちに応えられない・・・。」
「祐司さん・・・。」
「今日いきなり晶子の家に来たのも結局は・・・、自分の迷いを自分一人じゃどうしようもないから晶子に半分押し付けに来たようなもんだよ。・・・すまない。」
「謝る必要なんてないですよ。」
呟くように謝罪の言葉を口にして俯いた俺の肩に、軽い重みが加わる。
見ると、晶子が深い慈愛の篭った瞳で俺を見て、俺の肩に右手を置いている。
「進む道によっては本当に親御さんと衝突することになってしまうでしょうし、祐司さんが親御さんの苦労を思って感謝している気持ちを全て断ち切って、
私と一緒に暮らすことを選ぶのに二の足を踏んでしまう気持ちはそれなりに分かるつもりです。・・・祐司さんは何も悪くないですよ。だから・・・、謝る必要なんて
ないですよ。」
「・・・。」
「私は・・・何処までも、何時までも、祐司さんと一緒に居ますから。譬えどんな道を歩むにしても・・・二人手を取り合って・・・生きていきましょうね。私は・・・
祐司さんと一緒に暮らせれば、それで良いんですから。」
「・・・すまない。」
急激に目頭が熱くなってくる。俺は肩に乗っている晶子の手に右手を被せて目をぎゅっと閉じる。
晶子への愛しさと親への感謝の気持ち・・・。どうすれば良いんだ?
どっちも大切にしたい。でも、道によっては・・・親への気持ちを切り捨てなきゃならない。
耕次は言った。彼女が地獄の底まで俺と一緒に行く覚悟を決めているならお前もそれくらいの覚悟を持て、それが彼女に対するお前の責任だ、と。
晶子との絆をずっと保ちたい。もう幸せを手放したくない。でも、親への気持ちはそう簡単に切り捨てられないのも確かだ。
どうすりゃ・・・良いんだ?
どれだけ時間が流れたか分からない。
俺が目を開けると、晶子は俺の肩に手を乗せたまま俺を見詰めていた。
目を閉じる前の時と同じだ。ずっと傍に居てくれたんだな・・・。
そう思うと余計に晶子が愛しく、そして自分が余計に情けなく思う。
こんな愛しい存在の狂おしいまでの愛を悲しみの涙に変えることは、絶対したくない。
自分が抱いていた真剣な気持ちを裏返しにされることの辛さは、同じような経験をしてきた者として分かるつもりだ。
晶子は俺と付き合う前に大恋愛をして、それを親に引き裂かれたことで実家から遠く離れているという今の大学に入り直し、親とは絶縁状態になっている、と言った。
そんな悲しみを乗り越えて偶々出会った俺の凍てつき朽ち果てた心を癒し、潤いを与えてくれた。そして俺と一緒になるためなら喜んで本当に絶縁する覚悟を
決めている。こんな切なる想いを引き裂きたくはない。
だが、親の苦労は一人暮らしをするようになって、この歳になってそれなりに分かるようになった。
殆ど口に出さなかったが、親として子どもにだけは苦労をさせたくない、というこの前の年末年始に帰省した時の夕食の席でふと漏らした父親の言葉が、
今でも頭に焼き付いている。
決して楽とは言えない家計の中で条件付きながらも俺の大学進学と一人暮らしを許してくれた。
当初は厳しい条件と思ったが、金を稼ぐことの苦労を知るようになってからは、むしろ甘いとすら思える。
どちらも大切にしたい。でも、進む道によっては・・・やはり・・・親子の縁を断絶する可能性を選ぶしかない。
身を切られるような選択だが、お遊びのつもりで今でも左手薬指にペアリングを填めているわけじゃないし、今でもこうして晶子と付き合っているわけじゃない。
性的関係を持ったから、という理由じゃない。
本当に晶子を愛しているから、それと同じ、否、それ以上の愛を抱いている晶子が居るから・・・二人手を取り合って生きていきたい。
耕次の言葉を借りれば、地獄の底へでも行くつもりで。
晶子と出会って2年が過ぎた。今度の冬で交際2周年を迎える。
晶子は俺と一緒に暮らすことを前提に職探しをする、と言っている。
進路指導でもその主張を貫き通したと言うし、晶子の性格を考えれば嘘を言っているとはとても思えない。
だが、晶子には悪いが、そんな悠長なことはやっていられないと思う。
ただでさえ女子学生の就職率は低いという。
理工系学部より全体的に不利という文系学部、しかもこれも晶子に悪いが、それをやっていて何が出来るのか、と就職面接の際に突かれかねない学部だ。
それに、晶子の髪が茶色がかっている、というのも就職の際に企業側から突かれる「弱点」だ。
個性を大事に、とか言いながら画一的な言動を要求するという話は聞いている。
しかし晶子のことだ。就職のために髪を黒く染める、なんてことは絶対しないだろう。
生まれつき茶色がかっている。ただそれだけの理由で中学高校の6年間、辛酸を舐めさせられてきて、大学に入ってようやく解放されたんだ。
企業に媚を売るために自分の個性を捨てるようなことはしないだろう。
俺は晶子の手に重ねていた右手を、晶子の髪に持っていく。滑らかでよく手入れしていることが分かる。
晶子は一瞬少し驚いた様子を見せたが、俺に頭を近づけて髪を触りやすいようにする。
何度か晶子の髪に手を通していると、不思議と心が安らいでいく。
俺は手を晶子の頬に当てる。晶子は目を閉じて愛しげに、うっとりした表情で頬擦りをする。
「・・・愛してる・・・。」
「私も・・・愛してます・・・。」
短いやり取りの後、また沈黙の時間が流れ始める。
こんなに気持ちが膨らんだ今になっても、愛してる、という言葉はあまり口にしない。
夏休みにドライブに出かけた後この場所で晶子を抱いた時には、何度も口にした。互いの名を呼びながら揃って絶頂に達したこともあった。
膨れ上がった気持ちがセックスという、言葉を変えれば愛の営みによって一気に口から迸った、と言うべきか。
今は晶子を愛しいとは思えど抱きたいとは思わない。
晶子を初めて抱いて以来1年余経つが、抱いた回数は4回。年数と回数を照らし合わせれば少ない方だろう。
「聖域」だと俺も晶子も思っていたこの場所でも晶子を抱いたから、極論を言えば場所を気にする必要はない。
だが、こういう雰囲気になっても晶子を抱きたいという衝動は不思議と湧き上がってこない。・・・これで良いんだろうな。
「晶子は・・・、俺と結婚する前に俺を親に紹介するのか?」
「しますよ。私はこの人と結婚する、って。紹介はしますけど承認は得ません。未成年なら兎も角、成人になった以上は結婚で親の顔色を窺う必要なんて
ありませんから。」
「そうか・・・。」
目を閉じたままの晶子の言葉は、静かだが相当、否、もの凄く強固な意思に満ち溢れている。
俺と一緒なら、本当に地獄の底へでも行くつもりなんだろう。
耕次も言ってたな。結婚は自分のためにするもんだ、親のためにするもんじゃない、って。
晶子はとことん自分の幸せを追い求めるんだろう。俺と一緒に暮らす、という、あまりにもささやかな幸せを・・・。
「そう言う祐司さんはどうなんですか?」
晶子が目を開けて尋ねる。迷うことは・・・ない。
「勿論、紹介する。その時は・・・来てくれるか?」
「はい。」
晶子は即答する。
現時点で確実なことは、俺も晶子も今の絆を大学時代の思い出にするつもりは毛頭ないということ、そして、真剣に結婚したいと思っているということ。
後は全て俺にかかっている。俺がどの道を進むか、そして何時晶子にプロポーズするか。
どちらも俺次第と言ってしまえばそれまでだ。
元はと言えば今の今になっても進路を定められないでいる、耕次に言わせれば親と晶子を天秤にかけている俺の優柔不断さに問題がある。
プロポーズはそれこそ今この場で、結婚しよう、とでも言えば良いだろう。演出や雰囲気にこだわる必要はないし、晶子はそんなことで一喜一憂する女じゃない。
問題は、何時するか、だ。
結婚しよう、と言うことそのものはそう難しいことじゃない。だが、今それを言う気にはなれない。
俺が進む道を決めていないと晶子は身動きが取れないし、そんな不安定な状態で結婚の単語を口にしたら、それこそ飯事遊びの延長線上になってしまう。
晶子を真剣に愛しているなら、真剣に一緒に暮らしたいと思っているなら、足場を固めてからでも遅くはない。
「音楽、かけましょうか。」
「え?あ、ああ。」
思いがけない晶子の申し出に、俺は少し戸惑いつつも承諾する。恐らく俺の心理的不安を一時的にでも和らげよう、という配慮だろう。
晶子は俺から離れてコンポがある棚に向かい、CDを取り出してコンポにセットする。
流れてきたのは・・・「Fairy tale」か。耳障りにならない音量でうっすら流れる曲は、混乱していた−圧迫されていたと言うべきか−俺の心を幾分軽くしてくれる。
晶子はそれで「指定席」に戻るかと思ったら、そのまま部屋を出て行く。トイレだろうか?まあ、あんな長話に付き合っていたらもよおしても当然だよな。
両腕をテーブルに置いてぼんやりしているとドアが開き、両手でトレイを持った晶子が入って来た。
晶子が俺の前とその隣に置いたものは、空のティーカップ。そしてその中央にビスケットの乗った皿。
お茶菓子まで用意してくれるとは・・・。それだけで心を縛り付けていた鎖が解けていくような気がする。
薄いBGMが流れる中、晶子はティーポットを軽く揺すってから2つのカップに交互に赤褐色の液体を注いでいく。この香りは・・・ミントだな。
そう言えば、ミントには鎮静作用がある、って以前晶子が言ってたっけ。寛いでくださいね、という暗黙の意思表示が感じられる。
「話し疲れたでしょうから、ちょっと息抜き、ということで。」
「・・・晶子の方が疲れただろ?」
「少なくとも祐司さんよりは疲れてませんよ。」
俺は紅茶を啜る。ミント独特のすうっとした芳香が口から鼻を通り抜けていく。
カップから口を離すと無意識のうちに溜息が出る。胸に痞えていたものを小出しにしているという感覚だ。
寛げる空間と時間をこうして晶子は提供してくれる。
決して押し付けがましくなく、同時に嫌々という雰囲気は微塵も感じさせない。
俺には勿体無いくらい良い女、否、良い人間だ。だからこそ・・・大切にしないとな。
耕次が言ってたな。自分を崖っぷちに追い込んでまでも俺と一緒に暮らすと決めた彼女に対する俺の責任だ、って。
その責任は全うしないといけない。出来なかったら晶子は・・・死を選ぶだろう。迷うことなく。
「祐司さん、お友達に私と一緒に写っている写真を送るんですよね?」
「ん?ああ。」
「感想が来たら、聞かせてくださいね。」
「多分、表現は違っても内容は同じだと思う。凄い美人じゃないか、って。晶子の容姿の全容は伝わってるし、そのイメージを崩すことはないだろう。」
「自慢出来ると良いですね。」
「自慢すると多分こう言われる。お前、こんな美人にもう結婚指輪填めさせたのか、ってな。指輪を填めてることも伝わってるし。」
「会わせろ、って言われたら、どうします?」
「そうだな・・・。会いたいならこっちに来い、とでも言うかな。結婚式には絶対呼べ、って返されそうだけど。」
俺は笑みを浮かべ、晶子はくすくすと笑う。
その笑顔は本当に幸せそうだ。この笑顔を悲しみの濁流に放り出すことだけは絶対にしたくない。してはならない。
それが晶子の彼氏を名乗る、晶子との将来を真剣に考えている俺の責任だ。耕次の言葉を改めて実感する。
「祐司さんの理想の結婚式って、どんなものですか?」
「え?うーん・・・。結婚式や披露宴には一度も出たことがないから、実体験に基づくイメージは言えないけど・・・。まあ、シンプルなスタイルが理想かな。
親しい友人を集めた宴会みたいな感じの。TVで芸能人の結婚披露宴を見たことがあるんだけど、ああいうのはちょっと俺には合いそうにない。」
「私も同じです。でも、ウェディングドレスにはちょっと憧れてるんですよ。」
晶子ははにかんだ微笑みを浮かべる。女ってウェディングドレスには憧れてるもんなんだな。
宮城も、私もこんなの着たい、って雑誌を見ながら言ってたっけ・・・。
「教会での結婚式ってわけ?」
「形式だけは。誓いの言葉を言ってキスをして。それから後は着替えて気軽に食事、って流れが良いな、って。」
「指輪の交換は?」
「それはもうしてますからパスします。」
「これで良いのか?」
俺は左手で晶子の左手を取って自分の方に近付ける。
俺と晶子が付き合うようになって初めて向かえた晶子の誕生日に、あれこれ考えてプレゼントしたペアリングが薬指に光っている。
白銀の小さな輝きは少しも衰えていない。
「これだからこそ良いんですよ。プレゼントしてもらった時、私が左手薬指に填めて欲しい、って言って譲らなかったのは、私にとって結婚式の指輪の交換と
いう位置付けだったからなんですよ。」
「もうその頃から考えてたのか・・・。」
「ええ。」
ペアリングを注文する時、俺は左手の中指に填めることを想定していた。
右手は俺も晶子も利き手だし、料理もする晶子は包丁を持ったりするのに邪魔になるかと思ったからだ。
だが、いざプレゼントの段階で、晶子は左手薬指に填めてくれ、と言って譲らなかった。
もの凄く照れくさく思いながら晶子の左手薬指に填めてから自分は中指に、と思って填めようとしたら、私と同じ指に填めてください、と言ってこれまた
譲らなかった。
顔が火照るのを感じながら左手薬指に填めたら、晶子は本当に喜んでくれた。文字どおり満面の笑顔で。
このペアリングは決して高価な部類−俺からすれば1万でも高価だが−に入るものじゃない。
給料3か月分、という誰が決めたか分からない相場からすれば、あまりにも「安上がり」じゃないか、と買う時もプレゼントする前までも思った。
だが、晶子は物の値段を気持ちに比例させて測る女じゃないことを、プレゼントする時改めて思い知らされた。
実際、晶子は指輪の値段や材質に関しては一言も口にしなかったし、今に至ってもそれは変わらない。
翌日バイトのために店に行った時、揃って夕食を食べる前に晶子は左手を見えるようにして−俺は右手で覆い隠していた−マスターと潤子さんに問われると、
祐司さんにプレゼントしてもらったんです、と凄く嬉しそうに言った。
あの時、晶子の横顔は照れくさくてあまり見なかったが、今思い返すと本当に幸せそうだったと思う。
私はこんな素敵なプレゼントを貰ったんですよ、と言っているようで・・・。
それからの俺と晶子は対照的な動きをした。
俺は照れくささから出来るだけ人に見せないようにしてきたが、それでも目ざとく智一に発見されて問い詰められ、俺が経緯を話すと半ば錯乱したし、
店でも男性客、特に晶子のファンが多い塾帰りの中高生が、俺が注文を取る時や料理を運ぶ時にこれまた目ざとく発見して驚きの声を上げ、それ以来彼らからは
強烈な敵意というか殺意というか、そんな視線をビシビシ感じるようになった。
対する晶子は、講義ではあまり見ることがなかったが−カリキュラムの相違による受講講義の違いのためだ−俺と一緒の時は必ず左手を机の上に置いていたし、
帰りが一緒になった時は智一にも見せたことがしばしばあった。
それ以外の時も極力見えるようにしていたと言う。
店ではさり気ないつもりで見せびらかし、特に常連の女性客や中高生の質問攻めに遭い−俺もだが−、プレゼントされたんです、と嬉しそうに答えていた。
これらは今でも大差ない。
晶子がペアリングをプレゼントされたことを心底喜んでいることは−他のプレゼントを喜ばなかったという意味じゃない−分かっていたつもりだった。
だが、その頃から俺と一緒に暮らすこと、その「前祝」として結婚を真剣に考えていたことを知って、晶子がどれだけ今の幸せを大切にしたいか改めて思い知らされた。
「そこまで思い詰めてまで・・・、俺との絆を確かなものにしようと思ってたんだな・・・。」
「もう二度と幸せを失いたくないから・・・。今度幸せを掴んだらずっと抱えていきたいから・・・。決めたんです。ペアリングをプレゼントしてもらうことが分かった時、
絶対左手薬指に填めてもらおう、って。」
「一応聞くけど・・・、俺がペアリングをプレゼントしようと動いていたことは、あの時知らなかったんだよな?」
「ええ。祐司さんが何かあれこれ考えているなぁ、とは思ってましたけど。」
「で、いざ俺がペアリングを出した時にその場で決めたのか。」
「ええ。」
「あの時点では・・・、キスだけだったよな。まだ、って言うと変だけど。それでも俺に決めたのか?」
「ええ。大学時代の思い出作りのためだけにキスしたわけじゃありませんから。」
勿論俺も自分の気持ちと正面から向き合い、必死の思いで晶子に交際を申し込んだ、否、返事をした。
そしてクリスマスコンサートが終わった日の夜に、手編みのマフラーと共にキスを貰った。
キスすることそのものは初めてじゃなかった。だが、今その時付き合っている相手との初めてのキスを気軽に受け入れられるほど、俺は恋愛に慣れてない。
右手に軽い圧迫感を感じ、柔らかい感触と温もりが強まる。晶子の右手を取っていた俺の右手が握り返された。
晶子を改めて見ると、その顔には笑みこそ浮かんではいるが、その瞳は痛々しいほどの切実な思いに溢れている。
「絶対・・・離しませんからね。離せって言っても・・・離しませんからね・・・。」
「晶子・・・。」
「執念深さでは・・・普通の人に負けない自信がありますから。」
言葉が進むにしたがって、晶子の大きな二つの瞳がどんどん潤んでくる。
・・・思い出したんだろう。俺と付き合う前、もっと正確に言うなら、この町に移り住んで今の大学に入るまでに展開したという大恋愛を。そして、それを無残に
引き裂かれた時の古傷を。
晶子は俺との絆に残りの一生を賭けることに生き甲斐と幸せを見出した。
今後別の幸せが、もっと光り輝く幸せが現れるかもしれないという可能性を切り捨ててまで。そして親との本当の絶縁を決意してまで。
俺は過去の失恋の傷を癒すと同時に、もう二度とないと思っていた幸せを手に入れた。
しかし、それは同時に、切羽詰った相手の想いを受け止めなければならないという責任を背負ったことでもあったわけだ。
俺は晶子の左手を引き寄せ、晶子の背中に左腕を回して自分の身体に押し付ける。
愛しい。たまらなく愛しい。俺はそれだけを思いながら晶子を抱き締める。
自然と目が閉じていく。言葉は要らない。使わない。この華奢な身体が抱えた大きな想いに俺が今示せる姿勢は・・・これしかない。
俺の背中に何かが回り、前に軽く引き寄せられる。
そして俺の左頬にきめ細かくて滑らかな感触を感じる。その感触が前後にゆっくり動く。俺もそれに合わせてゆっくりと首を動かす。
「晶子・・・。」
「祐司さん・・・。」
無意識に漏らした呼びかけに、囁きが返って来る。
互いの名を呼んだだけ。だが、それだけでも本当に嬉しい。本当に愛しい。
想いが膨れ上がっていく。俺と晶子は抱き合いながら頬擦りを続ける。
どれだけ時間が経ったか分からない。
どちらが合図するわけでもなく頬擦りが終わる。左頬に感じていた感触がゆっくり離れていく。
その持ち主が、晶子が俺の真正面に来る。閉じていた目が自然に開いて正面に来た晶子の顔だけを映す。
潤んだ瞳と微かに震える唇が、何を言いたいかを無言のうちに強く訴えている。
俺と晶子は目を閉じながら唇を重ねる。
時折僅かに距離を置いて、微妙に角度を変えたり押し付ける強さを変えたりする。
俺の右手がきゅっと握られる。俺は痛くないと思う程度に握り返す。
愛しい。たまらなく愛しい。それだけを思いながら啄(つい)ばむような口付けを続ける。
「愛してます・・・。」
「愛してる・・・。」
キスの合間に短いやり取りが浮かぶ。
目を開けることはない。それ以外の言葉はない。そんな必要はない。
ただ・・・キスという行為で気持ちを伝えて気持ちを感じれば良い。それだけで・・・十分だ。
「「こんばんはー!」」
俺と晶子はドアを開け放って店に駆け込む。
「おう、こんばんは。どうしたんだ?今日は。二人揃ってご出勤はまだしも、時間ギリギリじゃないか。」
「す、すみません・・・。俺が寝過ごしたもんで・・・。」
勿論これは口から出任せだ。
晶子とキスをし続け、気が付いたら本来の出発時間をとっくに過ぎてしまっていて、俺と晶子は大慌てで晶子の家を出て通勤路を全力疾走して店に到着した、と
いうのが本当のところだ。
「こんばんは。祐司君、晶子ちゃん。」
「あ、こ、こんばんは。」
「こんばんは。お、遅くなりました・・・。」
「珍しいわね。二人揃って出勤の日に二人揃って駆け込みだなんて。ま、兎に角夕食食べちゃって。今日もかなり混んでるから。」
「は、はい。」
「分かりました。」
潤子さんの言葉に従って、俺と晶子は何時もの席に腰掛ける。
荒い呼吸を無理矢理鎮めつつ客席を見る。今日もかなりの混雑だ。のんびり食べてる暇はなさそうだ。時間ギリギリだったから尚更だが。
愛しさと幸せにどっぷり浸っていた結果、とんだハプニングを生んでしまった。これも幸せのうちだろう。
今日のバイトも忙しくなりそうだ。気持ちを切り替えてひと踏ん張りしよう・・・。
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