雨上がりの午後
Chapter 126 弦と声に想いを乗せて
written by Moonstone
最後の一音を爪弾いて演奏を終える。密閉空間でないだけに、音は痕跡を残すことなく消えていく。
俺が右手を下ろすと、穏やかな笑顔を浮かべた晶子が拍手をする。それとほぼ同時に、周囲から拍手が起こる。
晶子の拍手だけ聞きたいんだが、これだけ人だかりが出来ていては無理な要求というものか。
「凄ーい。上手ーい。」
「なかなかやるじゃん。」
「プロかな?見たことない男性(ひと)だけど。」
「ストリートミュージシャンじゃないのか?」
色々な声が飛んでくるが、俺はそれを無視して晶子に言う。
「次は、俺が晶子に聞いて欲しい曲を弾く。歌も沿えてな。」
「何て曲ですか?」
「多分・・・、否、きっと晶子も聞いたことがあると思う。」
俺は下ろしていた右手を弦に添える。すると、騒がしかった周囲が急速に静まっていく。
まあ、周囲のことなんてどうでも良い。
俺は、以前晶子が俺に言った言葉への回答を兼ねた言葉を含んだこの歌を、晶子に聞いてもらうために弾いて歌うだけだ。
何時か晶子だけに聞いてもらおうと思って、密かに練習してきたこの曲を・・・。
俺は演奏を始める。
原曲ではピアノで弾かれるフレーズをギター用にアレンジしたイントロを弾くと、晶子ははっとしたような表情を浮かべる。
そしてそれは徐々に嬉しそうな笑顔に替わっていく。
聞いたことがある筈だ。半月前のサマーコンサートで演奏した「Kiss」と同じCDに収録されている曲なんだからな。
わざと音のタイミングを大目にずらしたアップストロークで和音を演奏して、メインに入るまでの少しの間にゆっくり息を吸い込み、タイミングを計って
演奏を再開し、同時に歌い始める。
と同時に、何も合図をしていないのに、俺の声より音程の高い、そして澄んだ声が俺の隣から流れ始める。
弾き語りがあまり得意じゃない俺が、店で演奏するレパートリーのアレンジやデータ作りの合間を縫って練習してきたこの曲、「Time after time〜花舞う街で〜」の
シアターバージョン。これが「離せって言っても離しませんからね」と言った晶子への俺なりの回答だ。
フレットを見なくても歌えるようになるまで何度も何度も練習した。気がついたら夜が明けていたこともあった。
そうまでしてでも晶子に聞いて欲しかったんだ。
俺と晶子の歌声が夏の陽射し降り注ぐこの高台に流れる。俺と晶子は見詰め合って歌う。
晶子の歌声は、俺の歌声に覆い被さるのではなく、その隣を歩くように、俺が差し出して手にそっと手を添えるように、控えめに流れる。
その顔には嬉しさが溢れている。俺も自然な笑顔を向けながら歌う。
歌詞もいよいよ最後になる。
ここは俺から晶子へのメッセージと言うより、あまりにも脆くて儚い−自分で言うのも何だか変だが−俺から晶子への願いと言うべきだろう。
まったく予感がなかったといえば嘘になるかもしれないが、それに覆い被さるように存在した、その時には精一杯のものだと思っていた愛をある日突然失い、
鉄条網で囲われた暗雲立ち込める廃墟と化した、否、自分でそうした俺の心を再生させてくれた晶子に、歌詞のとおりであって欲しい、という願い。
寄り添うような歌声を広げる、俺の隣に居る幸せそうな晶子にこの願い、届くと良いな・・・。
ブックレットに載っている歌詞を歌い終えた俺は、晶子にしか聞こえないような無声音でコーラスを口ずさみつつ最後のフレーズを奏でる。
このコーラスはそれこそ脳裏に焼き付くほど何度も聞いて、何とかそれらしく聞こえるようにしたものだ。晶子にしてみればあまりに不恰好な小細工だろうが。
最後をギターらしい発音のずれが起こるダウンストロークで締める。
音が晩夏の空気に溶けて消えた後、俺はやや猫背になっていた背筋を伸ばして小さい溜息を吐く。
と同時に、晶子が嬉しそうな笑顔で拍手してくれる。それをかき消すように周囲から拍手の波が押し寄せてくる。
俺はそれを頭の中のフィルターで遮断して、晶子の拍手だけを耳に集める。
「へえー、弾き語りも出来るんだー。」
「今のって倉木麻衣の歌だよな。それにしちゃ声も結構ハマってたな。」
「やっぱ、プロなんじゃないか?」
「それっぽいよね。様になってたもん。」
「見た目かなり若いけど、結構年期積んでるんじゃない?バンドやってるとか。」
周囲が色々言っていることを右から左に聞き流し、拍手を止めた晶子に目で感想を求める。
「まさか此処であの曲が聞けるなんて思わなかったです。それも歌まで・・・。私、あの曲大好きなんです。」
晶子は俺からの無言の求めに応じて笑顔を崩さずに言う。
良かった。気に入って貰えて・・・。晶子が大好きな曲だったなら尚更だ。
「歌も上手かったですよ。私が歌ったのは邪魔でしたね。」
「否。歌詞みたいに一緒に歌えて良かったよ。練習してたのか?」
「祐司さんが帰ってからパソコンで日記をつける時にBGMを流してるんですけど、あの曲はリピートさせて何度も聞いてたんですよ。歌詞が凄く好きで・・・。
だから何時の間にか憶えちゃったんです。何度も聞いていれば憶えて当たり前と言われればそうなんですけどね。本当はレパートリーに加えたかったんですけど、
アレンジや演奏データ作りをしてくれる祐司さんにこれ以上負担をかけるわけにはいかない、と思って言わなかったんです。」
そうだったのか・・・。気遣ってくれてたんだな。
確かに耳コピーのみでのアレンジとデータ作りは結構手間がかかる。何回も聞かなきゃならないし−数回聞いたらすらすら作れるというレベルじゃないからな−、
確認のために楽譜を入手しようにも出版されるまでに時間がかかるし、必ずしも目的のアルバムの楽譜が出るとは限らない。
それに楽譜を買う金があったら俺はギターの弦を買う。
だけど、晶子が歌いたい、って言うなら、俺なりに時間の分配を考えて、必要なら睡眠時間を多少削ってでもデータを作る。
俺も定期的にとはいかないまでもレパートリーを少しずつ増やしていってるし−最近はそうでもないかもしれないが、店の客は常連の比率が高いから
レパートリーに変化がないと飽きられる−、今までも晶子のレパートリーのデータを作ってきたんだから、遠慮なく言えば良かったのに。
「それに・・・。」
晶子は何か言いかけたところで口を閉ざし、見ているだけで心和む柔らかい笑みを浮かべて俺を見詰める。
「それに?」
「レパートリーに加えたい、っていう気持ちがあったのは確かですけど、一方ではレパートリーにしたくない、とも思っていたんです。」
「どういうこと?」
「何て言うか・・・、聞いているうちに、この曲をお客さんの前で歌うのは惜しい、っていう気がしてきて・・・。」
晶子はそう言って俺に微笑んでみせる。
凄く好きになったからこそ逆に人前で披露するレパートリーの一つにしたくなくなった、っていうわけか・・・。
その気持ち、分からなくもない。
こんなことを例えに挙げるのは晶子に悪いが、宮城と付き合っていた時は、出来ることなら宮城を他の男の前に出したくない、と思っていたからな。
晶子と付き合っている今は不思議とそうは思わない。
凄く好きじゃないのか、と問われれば勿論迷わず凄く好きだ、と答える。
だが、晶子の場合はむしろ見せびらかしたいって言うか・・・、そんな感じだ。
俺はボキャブラリーが貧困だから、そんな感じ、という曖昧な表現しか出来ないし、そう思うのは好きな相手に対する見方や考え方なんかが変わったせいなのか、
それとも別の要因なのかは分からない。
「今度は私が尋ねますね。」
「ああ。」
「祐司さんは、どうしてあの曲をレパートリーにしないか、って私に言わなかったんですか?」
「・・・晶子だけに聞いて欲しい、と思ったから。」
「どうしてですか?」
「きっと・・・晶子と同じ理由だと思う・・・。」
そうとしか言えずに笑みを浮かべる−苦笑いと言うべきだろうか−俺に、晶子は微笑みだけを返す。心底嬉しそうな微笑みを・・・。
晶子以外の人間に聞かせてしまったのは残念だが、場所が場所だけに仕方ないと思うべきだろう。
晶子が喜んでくれて、しかも一緒に歌ってくれて凄く嬉しいし、幸せだ。
それで十分なんじゃないか?
「もう一回だけ、リクエストしても良いですか?」
「ああ、良いよ。」
「『Kiss』、弾いてください。」
「あれは弾き語り用にアレンジも何もしてないぞ。」
「良いんです。今度は私が祐司さんのために歌いますから。」
晶子の大きな瞳が輝いて見える。晶子が歌うと言うなら弾かないわけにはいかない。俺は三度右手を弦に添える。
するとやっぱりというか、周囲のざわめきが消えていく。完全にギャラリーと化してるな。まあ良い。
俺は左手の位置を合わせて晶子と見詰め合う。その顔は何時でもどうぞ、と言っているようだ。
俺は曲のテンポで首を小さく縦に振る。1、2、3、4。
演奏を始めると同時に晶子の歌声が流れ始める。「Time after time〜花舞う街で〜」の時の、俺の歌声に添えるような控えめな音量ではないが
−叫んでいるわけは決してない−、店のステージや晶子の家と違って無限に広がる臨時かつ特別のステージでは、俺のギターと同じく音量はやはり相対的に
小さくなる。
だが、晶子の声はよく通る。
隣に居ることだけが理由じゃない。晶子の声質に拠るところが大きい。
周囲から手拍子は起こらない。手拍子をしたら聞こえなくなる、と思っているんだろうか。
まあ、手拍子に邪魔されて晶子の歌声が聞こえなくなるよりは良い。
人の手で汚されたことがない、譬えその存在を見つけ出したとしても手を付けることが憚られる神聖さを漂わせる泉のように透き通った歌声が、
俺の耳に心地良く注ぎ込まれる。お陰で気持ち良く演奏出来る。
俺は演奏しつつチラチラと晶子を見る。
晶子は俺の方を向きながら、本当に晴れやかな顔で歌っている。プロの女性ヴォーカリストのプロモーションビデオを見ているようだ。
しかし、俺の目に映る晶子はブラウン管や液晶に映る、決して触れることが出来ない存在じゃない。手を伸ばせばしっかり届くところに居る。
胸に染み透る歌声もスピーカーやヘッドフォンというある種のフィルターを介したものじゃない。
生(なま)、と言うと文字どおり生々しいが、俺と晶子の間にある空気だけを通して聞こえるものだ。
いよいよラストに差し掛かる。
どちらかが相手に合わせるのではない、ごく自然な二人三脚のゴールがどんどん近付いてくる。
そして演奏と同時に歌声が終わる。
フレットの方に向けていた顔を上げようとしたその時、頬に柔らかいものが触れる。
一瞬何が起こったか分からなかった俺の目に、笑みを浮かべながら身体を引く晶子が映る。周囲から拍手と共に口笛が飛んで来る。
や、やられた・・・。俺は感触が残る頬に手を当てる。晶子は少し首を傾げて悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「・・・狙ってたな?」
「さあ。」
晶子はしれっと俺の追及をかわす。きっと、否、絶対狙っていたに違いない。曲の終わりと同時にタイトルどおりのことをするつもりだったんだ。
俺は未だ感触が残る頬に手を当てながら、苦笑いと照れ笑いがごちゃ混ぜになった笑顔を浮かべる。
「嫌ですか?こういうのは。」
「嫌じゃないけどさ・・・。その・・・何て言うか・・・。周囲の状況を考えて、と言うのか、此処は俺の家でも晶子の家でもないんだぞ、と言うのか・・・。」
「唇の方が良かったですか?」
「いや、だからそういう問題じゃなくて・・・。」
参ったな・・・。照れ隠しのつもりで、何するんだ、とか言おうものなら晶子を悲しませることくらいは俺でも分かる。だけどなぁ・・・。
宮城と付き合っていた時はデートのときはおろか、雨の日に相合傘で登下校するだけでも十分冷やかしの対象になっていたから、キスどころか手を繋ぐのも
ままならなかった。だからこれだけの人だかりの前で−量の問題じゃないが−仲の良さを見せつけることに慣れてないんだよな。
俺は言葉に詰まって、空いていた右手で頭を掻いて誤魔化す。
晶子は俺のそんな様子が面白いのか、目を細めてくすくす笑っている。
晶子が策士だということを忘れていた俺の負けなのか?こういう場合。
「折角ですから、もっと私達のことをアピールしましょうよ。」
「何が折角なんだか・・・っ!」
俺が言いかけたところで晶子が俺の頬に両手を添えて、一気に自分の方に引き寄せる。
頬の感触が消えたと思ったら、今度は唇により明瞭な感触が生まれて、仄かな温もりと共に伝わってくる。
耳に流れ込んでくる音が完全に遮断される。目には目を閉じている晶子しか映らない。
晶子との間でゆっくり距離が出来てくるにしたがって、耳の機能が回復してくる。
周囲が少しざわめいているようだが、当の俺は晶子に人前でキスされた、ということで頭がいっぱいになって何も言葉が出て来ない。
「お、おいおい。やってくれるな・・・。」
「うわ、大胆・・・。」
晶子は俺の頬から両手を離して、悪戯が成功した子どものような、文字どおり悪戯っぽい笑みを浮かべる。
俺は身体の芯から急激に火照ってくるのを感じる。きっと顔は真っ赤になっているに違いない。
こ、ここまでやるか?そうは思うものの口が硬直して動かない。
周囲からざわめきが消えていく。
どうにか動く首を壊れかけの玩具みたいに捻って見ると、ギャラリーが手を繋いだり男が女の肩を抱いたりして続々と立ち去っていく。
中には参ったというか呆れたというか、そんな表情で立ち去っていくカップルも居る。
はいはいご馳走様でした、後はどうぞご自由に、とでも言いたいところなんだろう。
「いっそ最初からこうするべきでしたね。」
晶子はこれまたしれっと言ってのける。悪戯っぽい笑みはそのままだ。
「・・・し、心臓に悪いぞ・・・。」
俺はそれだけ言うのが精一杯だ。
人前では並んで歩いているだけでも冷やかしのネタになる、キスどころか手を繋ぐのも言わばご法度だった時代しか経験していない俺には刺激が強過ぎる。
実際、俺の胸は自分でもはっきり分かるほど激しく脈打っている。
「こういうのは嫌ですか?」
「・・・だ、だからさ・・・。こういうのは・・・その・・・。」
「電車の中とか街中とか、そういう場所だったら話は別ですけど、此処はカップルが集まるデートスポット。しかも私達の様子を見物してたんですよ。
だったら私達がカップルらしいところを見せても何ら問題ないんじゃないですか?」
「そういうもんか?」
「そういうものですよ。」
随分強引と言うか明快と言うか・・・。だが、晶子の言うこともまったく分からないわけじゃない。
晶子が例に挙げた場所、電車の中や街中とか、老若男女問わず様々な条件の人が居る場所でのキスは、一種の迷惑行為と言える。
だが、此処は俺が軽く見渡しただけでもカップルだらけ。言い換えれば、俺や晶子と同じ条件の人が集まっているわけだ。
更に頼みもしないのに俺と晶子の様子を見物していた。
ならば俺と晶子が手を繋ごうがキスをしようが、極端な話、ここでことを始めようが−する勇気はないが−、文句は言えないだろう。
見たくなけりゃ見なけりゃ良いだけのことなんだから。
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