雨上がりの午後
Chapter 118 夏の楽祭−2−
written by Moonstone
拍手と歓声と指笛に迎えられて、晶子が小走りでステージ脇から出てくる。そしてマイクをマスターから受け取り、スタンドに戻す。
俺はフットスイッチでエフェクターを選択して演奏準備に入る。青山さんのスネアで頭一つ出てから演奏に入ることになっている。
俺は、これまでシーケンサに任せていたぷわぷわした感じのシンセらしい音を担当する。
難しくはないがミディアムスローのこの曲の雰囲気の一翼を担うパートとして油断はならない。
兎も角この曲が終われば一旦休憩。それまでの辛抱だ。
気のせいか耳の聞こえが多少良くなってきたように感じるが、熱で沸騰している頭の感覚に頼るより、冷静沈着なリズムの音に頼るのが賢明だろう。
晶子のステージを滅茶苦茶にするわけにはいかない。プレイヤーとして。そしてパートナーとして。
タンタタ、とスネアが演奏開始を告げる。ベースとドラムと共にやや硬いアタック音を持つエレピが入る。
晶子はマイクに両手を乗せるスタイルではなく、マイクの前でゆらりゆらりと身体を揺らしている。
イントロの間にも晶子はハミングのようなコーラスを入れる。原曲とは違ったタイミングだが、これはこれで良い感じだ。
2回目のストリングスのフレーズが入ってきたところで、晶子のヴォーカルが入る。
ここでの俺のパートは音数が少ない分かなり目立つから、テンポを崩すことは厳禁だ。
晶子はしっとりと、そして切なげに歌を紡ぐ。広がりのあるストリングスが加わると、心なしかヴォーカルの切なさが増したような気がする。
曲はサビに入る。晶子は両手を胸の前で組んで歌う。その様子を見て、俺は心臓を鷲掴みにされたような気分になる。
こんなこと、リハーサルではおろか店のステージや練習でも見せたことがなかったのに・・・。
思わずフレットから手を離しそうになったところで何とか堪えて演奏を続ける。
思いもよらない「隠し球」を用意してたんだな。心臓に悪いぞ、晶子。
Aメロに戻る。晶子は胸の前で組んでいた両手を両脇下に広げて歌う。
バッキングはコピー&ペーストしたようなものだから、ただ自分のパートをリズムを崩さずに演奏することに専念すれば良い。
そういう余裕がある分、晶子の歌う姿に目が行ってしまう。切ない内容の歌詞も相俟って、歌声が切なさで溢れ返っている。
何だか俺に向かって歌いかけられているような気がするが・・・高熱で沸騰した脳みその妄想だろう。そう思わないとやってられない。
そしてサビに入ると、晶子は再び両手を胸の前で組む。
歌詞の内容が進むべき道を迷っている俺に向かってのメッセージに聞こえる。やっぱり熱で頭が沸騰してるな。
それにしても、この歌い方と歌声は反則だ。リハーサルの時や普段のステージの時より数段切なさに磨きがかかっている。
こんな歌い方を二人きりの時にされたら、いとも簡単に晶子に心を奪われてしまうだろう。まさにセイレーンだ。
曲は盛り上がりの部分に入る。
俺のギター音とストリングスのリフの中で繰り広げられる歌声は一層切なさを帯び、そこに両腕を斜め下に広げて歌う姿が加わって、客席に居る男性客、
否、全ての客を魅了するには十分な雰囲気を醸し出す。
徐々にボリュームを上げていく歌声とその歌詞が俺に向かっての愛のメッセージに聞こえてならない。
・・・思い過ごしだ。演奏に専念しないと・・・。
曲は落ち着きを取り戻す。だが歌声に込められた切なさは健在だ。
むしろボリュームが元に戻り、ウィスパリングが若干加わった分、聞く者を魅了する要素が増したように思う。
サビに入る直前に2度歌われる疑問形の歌詞が、やっぱり俺に向かってのメッセージに感じられる。
敵わないな・・・。俺が高熱で頭が沸騰状態にあることを忘れてやしないか?むしろそれを狙っているとか・・・。
そんなわけないか。
曲はいよいよラスト、サビの繰り返しに入る。晶子はやはり両手を胸の前で組み、客席全体に向かって歌いかける。
客の表情は暗くて分からないが、晶子に視線と意識を集中させているに違いない。それだけのものを晶子の歌声は持っている。
歌詞の内容が今の俺と晶子の関係を表現しているような気がする。
ものは有形無形問わず壊れてしまう時が来る。俺も晶子もそれを体験した。それぞれに辛い思いをした。
だが、今俺と晶子を繋いでいるものは何時までも変わらない。そう信じたい。信じなきゃ駄目だ。愛は信じる力の強さに比例するものなんだから。
ストリングスのリフが加わり、「Secret of my heart」の繰り返しが始まる。
8回繰り返すと歌声は止み、シンバルとベースとストリングスの白玉が静かに終わりを告げる。
十分な残響を伴ったそれらの音が消えると、客席から大きな拍手と歓声が大きな津波となって押し寄せて来る。
両手を胸の前で組んでいた晶子は手を解き、客席に向かって一礼する。
茶色がかった長い髪が照明を浴びて鮮やかに煌く。頭を上げた晶子の表情には充実感と達成感が滲んでいる。
さて、次は潤子さんの出番だ。桜井さんと青山さんは左側、俺と晶子と国府さんは右側にそれぞれ退散する。ステージ上には潤子さんだけが残される。
潤子さんは横からステージを降り、中央のピアノの前に座る。そして前に垂れ下がった髪をくいと両手でかきあげる。
照明がピアノだけを照らすスポットライトに切り替わる。潤子さんの演奏に期待が高まる。
「祐司さん、大丈夫ですか?」
晶子の声が頭に流れ込んでくる。その声で改めて自分の状況を確認してみる。
身体が宙に浮いているような感覚は殆どなくなり、耳の聞こえもかなり良くなっている。
どうやらステージ上で照明の熱に晒されつつ演奏に熱を上げたために大量に汗を流したのが功を奏したらしい。
「大分良くなってきた。晶子の声もきちんと聞こえる。」
「これで聞こえますか?」
俺は頷いてから晶子の方を見ると、晶子は俺の耳元から顔を離して俺の傍に普通に立っている。晶子の顔は安堵感に包まれる。
心配してくれていたんだな・・・。俺は嬉しさで口元が緩むのを感じつつ、晶子の耳元に顔を近づけて、ありがとう、と一言言う。
そして晶子と共にステージを見詰める。
静まり返った会場は、潤子さんの演奏を今か今かと待っているようだ。
演奏は静かに始まった。
クイとアルペジオが混じった音のキャンバスに単音の優しいタッチのメロディが描かれていく。
あくまでも優しく。涼しい風が吹く夕暮れ時を思わせるフレーズが、自然なテンポの揺れを伴って一音一音会場の空気に放たれていく。
まるで微風に花弁を撒くように・・・。
子守唄のような静かで優しく心地良い雰囲気を保ちながら、曲は中盤に差し掛かる。
一音一音丁寧に、それこそ赤子をあやすようにフレーズが会場の空気を優しいタッチで彩る。
徐々にアタックが強くなっていくが、決して曲調の劇的な変化を予告するものじゃない。
西の空に沈む前の夕日がより鮮やかな紅を見せるように、美しい響きを保ったまま静かにゆったりと盛り上がりへの緩やかな階段を上っていく。
自然なタメ(註:わざとテンポを落として次に繋げる時間を稼ぐこと)を持った後、メロディがクイに変わる。
だがそれは荘厳さを演出するのではなく、あくまでも優雅に空気のキャンバスに音を塗り重ねる。
今日はさようなら、また明日会いましょう、と沈む夕日が言い残すように。
二回目のフレーズはアタックが最も強くなるが、それでも曲調を壊すことなく、濃い藍色に変わる前の、真紅の薔薇の花弁を敷き詰めたような
鮮やかな紅をイメージさせる。
そのままエンディングへ向けて突進するのかというとそうではなく、太陽が黄金色の光を残して西の空に沈んだような静けさに戻る。
何処となく寂寥感を帯びたその優しいフレーズと演奏は、黄金色の光が昼間の終わりを告げるのと同じように演奏の終わりを告げ始める。
高音部へと届くアルペジオを交えた演奏はその残像を残しながらゆっくりと消えていく。
最後の低音と高音の両方を使った白玉の響きが消えるが、客席からは反応がない。
どうしたのかと思った直後パラパラと拍手が起こり始め、やがてそれは最大の大きさとなって会場にこだまする。
拍手するのを忘れるほど聞き入っていたのだろう。
俺も気付いたら拍手をしていた。隣を見ると晶子がすっかり感心した様子で拍手している。後ろからは国府さんの拍手が聞こえる。
潤子さんは椅子から立ち上がると、客席に向かって静かに一礼する。姿勢を戻した潤子さんの顔は何時もの親しみやすい穏やかな表情だ。
潤子さんが俺達の方に向かってくる。MCが入るので一旦退場というわけか。
これまでの練習やリハーサルより更に磨きをかけた演奏を「見せて」くれた潤子さんを、俺達は惜しみない拍手で出迎える。
ステージ脇に入ったところでようやく潤子さんは微笑みを浮かべる。
その額にはうっすらと汗が滲んでいる。それが凄く綺麗で思わず見とれてしまう。
「いやぁ・・・。片や切ないラブソングを歌い上げ、片や優雅なピアノソロを見せてくれたね。」
「これからの演奏が霞んじゃわないか、心配だね。」
向かい側のステージ脇から、マイクを持ったマスターと桜井さんが出てくる。二人共、やられた、という苦笑いを浮かべている。
「でも、二人揃って僕みたいなプロじゃないんだよね。」
「ピアノは3歳からやってたそうだけど、あくまでも教養の一環として親に習わされただけだそうだよ。ヴォーカルは現役の女子大生。しかも本格的に
ヴォーカルに取り組むようになってまだ2年経ってないんだ。どっちもうちの店の顔だよ。」
マスターの説明に客席からどよめきが起こる。
潤子さんはキャリアがそれなりにあるから兎も角、ヴォーカルの晶子が素人、しかも本格的に取り組むようになってまだ2年経ってないという事実を知ったら、
驚くのも無理はあるまい。晶子を教えた俺だって驚いてるんだから。
「良いねぇ。二人も看板娘が居て。片方うちに頂戴よ。」
「そりゃ無理な相談だね。両方コブ付きなんだから引き離したらコブが怒って膨れちゃう。」
またも客席からどよめきが起こる。
おいおい、こんなMC、リハーサルじゃなかったぞ。その場の流れで進めてるんだろうけど、俺と晶子の関係を公表するんじゃないだろうな。
「自分がコブの一つだからだろ?」
「ははは。実はそのとおり。」
客席から「なにーっ」という声が聞こえてくる。
まさか美人二人のどちらかのコブがマスターだとは思わなかったんだろう。
うちの店の客は知ってるだろうが、そんなことまったく知らない客が少なくとも半数を占めてるんだからな。
「ま、この髭オヤジがコブになってるのはどっちかとかいうのは、この後のメンバー紹介で嫌でも分かるだろうけど、もう一人の方は?」
「これは自主規制。当人の了解得てないし、うちの店でも秘密だからね。あー、常連さんは分かってるかもしれない。」
「てことは、そっちの店に足繁く通うしかない、ってわけ?」
「そういうこと。新京市胡桃町の喫茶店『Dandelion Hill』をよろしくー。」
マスターが店の宣伝をする。良いのか?こういうMCって。リハーサルとまったく違うぞ。
まあ、意外性があって面白いと言えばそうだけど、冷や汗ものだったな。
俺と晶子の関係を公表されたら、コンサート終了後、裏口で殺気立った男性客が待ち構えている、なんてことになりかねない。
「さて、むさいオヤジ二人の喋りはこの辺にして、コンサートの続きといきましょうか。」
「そうだね。今度はちょっと連続しますよ。よーく聞いてくださいね。あ、バラードが殆どですから座って聞いて下さい。気持ちを楽にして、
リラックス、リラックス・・・。」
マスターが宥めるように言うと、オールスタンディングだった客が徐々に席に腰を下ろしていく。ステージから見ていると波の寄せ引きを見ているようだ。
客席からの僅かなざわめきが消えたところで、桜井さんが切り出す。
「お客さんの準備は整ったようですね。それでは参りましょうか。」
「そうだね。では『THE SUMMER OF '68』『CHATCHER IN THE RYE』『put you hands up』『NO END RUN』『鉄道員』の5曲連続。ステージでの人の動きも
激しいから要注意。」
「それじゃ、ステージ再開!皆さん、宜しく!」
マスターはマイクを持ってステージ脇に退散し、勝田さんがフルートを用意する。
メロディを演奏するんじゃなくて、シーケンサで演奏させるような装飾的フレーズを演奏するためだ。
国府さんもピアノの前に座る。こちらも勝田さんと同じく装飾的フレーズを演奏したり、ラストのソロを演奏したりと忙しい。
シンセを担当する潤子さんは両手をフルに使う必要がある。
メロディを演奏するのは最後のソロ以外は俺の役割だ。
本来なら万全の態勢で臨みたかったんだが、こうなっちまったもんは今更どう足掻こうが変えられるもんじゃない。
俺はアコギに切り替え、滅多に使わないピックを右手で摘むように持って演奏の準備を整える。
朝日が凪の水平線から浮上してくるようなストリングスに混じってベルの音が細かく鳴り始める。これは潤子さんがアレンジして演奏しているものだ。
ストリングスの中に鳥が囀ったり鳴き声を上げるような音が混じるが、これはそうなるようにエディト(註:編集や調整のこと)した音色だ。
ベルの音が止み、ストリングスの中で鳥の鳴き声のような音がふうっと浮き上がってくる。これが俺の演奏開始の合図だ。
チラッと晶子の方を見ると、やや不安げな様子だ。
耳がかなり回復したとは言え、微妙な部類に属するこの音を聞き分けられるのかどうか不安なんだろう。
その気持ちはありがたい。だが、もう大丈夫だ。
俺は演奏を始める。全休符を含んだ18小節は俺がテンポキープをしなければならない。
それに加えて曲の雰囲気である何処か懐かしい、ちょっとセンチな気分にさせる雰囲気を出さなければならない。
これは俺のギターの腕が何処まで通用するかの試金石的な意味で選択した。
自分で選んだ以上はそれなりに責任が伴う。ましてや自分のパートが主役なら尚更だ。
鳥の声のような音が混じるストリングスとキラキラしたベルの音をバックに、俺は演奏を続ける。
フレーズそのものはそれほど難しいものじゃない。
だが、この曲が持つ雰囲気を出すためにはスライド(註:音を滑らかに上げ下げするギターの奏法の一つ)やハンマリング(註:音程を上げるギターの奏法の一つ)を
随所に組み込まなければならない。
情感豊かに、しかしテクニックに酔わないように、「聞かせる」演奏をすることが要求される。
頭の中でテンポを刻みつつ、潤子さんの演奏するシンセの音と歩調を合わせて、一音一音を客席に語りかけるように放つ。
休符もこのフレーズでは重要な役割を果たす。
単に白玉があるからといって、弦を弾いてフレットを押さえたままにしていれば良いっていうものじゃない。
休符もフレーズの一部。それを意識してフレットの上にある左手を弦にくっ付けたり弦から離したりする。
スポットライトが暑い。だが、曲は夏の暑さを表現するものじゃない。そのギャップに翻弄されることがないよう注意しながら演奏を続ける。
最後の音を放って次の全休符の小節に入ったところで左手をフレットから離す。2小節はシンセだけになる。
だが、俺にとってはフレーズの一部だ。
俺は左手でギターのフレットがある胴を抱えるように持って目を閉じ、再び演奏を始めるタイミングを計る。
ベルが星屑のようにキラキラと落ちてくる。いよいよだ。
ベースとドラムが入る。
テンポキープは楽になるが、演奏の主体はあくまで俺だ。
リズムを司る楽器が加わった分、俺のテンポキープがより重要性を増したと言っても良い。
メロディを演奏する俺がテンポを崩したら、ベースとドラムが入る以前より演奏を滅茶苦茶にする度合いが強まる。
かと言ってギターで情感を醸し出すことを忘れては居られない。ギタリストとしての技量が試されるこの曲、改めて難しさと遣り甲斐を感じる。
再びキラキラとベルの音が落ちてくる。そしてこれまで控えめにテンポキープをしていたドラムにタムが混じる。この曲のサビは目前だ。
俺は耳と指と目に神経を分散させ、それぞれを正確に、同時に情感を醸し出すのを忘れずに制御する。
ピアノとユニゾンで、センチメンタルなメロディを奏でる。
ピアノは原曲ではヴィブラフォンなんだが、潤子さんの手は2つしかないから−当たり前だが−ということでピアノの高音部がピンチヒッターを務めるわけだ。
これはこれでなかなか良いと思う。
俺は単音じゃなく、ある意味ギターらしく複数の音を演奏する。複数と言っても2音だが、これだけでも音にコーラスとはまた違った厚みが加わる。
勝田さんもフルートを演奏する。だが、フルートらしくないシーケンサで演奏させるようなフレーズを低音域で演奏する。
これも本来はシンセが担当するべき部分なんだが、ヴィブラフォンと同じ理由でフルートが代役を務めることになったわけだ。
マルチプレイヤーである勝田さんが居るこのメンバーならではのアレンジだ。ちなみにアレンジは俺がやった。
三連符に休符を交えた、簡単だがリズムをキープしにくいフレーズを演奏していく。
俺が白玉を伸ばしている間にピアノが合いの手のように入る。ここが印象的だ。遠い過去の夏を回想するようで・・・。
ふと宮城と二人でプールにいった思い出が蘇る。
この部分では、何故かその時の楽しかった語らいやじゃれ合いとも言える戯れといったものが蘇ってくる。これもこの曲が醸し出す情感のなせる業だろうか。
曲は再び俺が2音を演奏するフレーズとピアノと輪唱するフレーズを経て、俺のギターを合図にするかのようにそれまでの流れが止まり、
白玉で満たされる部分に入る。
シンバルのロールが入るが決して五月蝿くなく、モノトーンの映像の場面が変わる合図のようだ。
曲は俺のソロに入る。
バッキングは基本的に俺が単独でメロディを演奏した時と同じで、ベースとドラムも最初に入ってきた時と同じであまり動きがない。
俺はと言えば、演奏するフレーズそのものはギターをそれなりに弾いて来た俺にしてみれば簡単な部類に入るものなんだが、フレーズが細かくなる分、
よりテンポキープが難しくなり、さらに情感溢れる演奏を心がけなければならない非常に難しい部分だ。
勿論要所要所にスライドやハンマリングやプリング(註:音程を下げるギターの奏法の一つ。ハンマリングとペアでなることが多い)俺はスポットライトで
照らされているのを肌で感じながら、全神経を注ぎ込んで演奏を続ける。
徐々にせり上がっていくようなフレーズを演奏していくとタムが入る。再びサビに戻るわけだ。だが勿論決して気は抜けない。
ピアノとユニゾンで2音演奏するフレーズの中で、最初のサビにちょっとフレーズを付け加えるが、基本的には同じだ。
俺は演奏に熱が篭って来たように思う。演奏に集中するのは良いが自分だけが酔う演奏はこういう曲では特に禁物だ。
俺は目立たないように深呼吸をして沸騰しかけていた頭を冷やす。
俺のギターで他の楽器の演奏が止まる。ラストは近い。心に残響を残すシンバルのロールが響く。
ハイハットを中心にしたドラムと音の伸びを生かしたベース、そして最初と同じく、鳥の囀りや鳴き声のような音が混じったストリングスとベルの音が鳴り響く。
俺は暫しの休憩だ。
思い出がポツリポツリと脳裏に浮かび上がってくるようにピアノが高音域で響きを放ち始める。
8小節目の最後の方から俺も音を加える。今度はピアノが主役で俺は補助的な役割だ。
32小節、ピアノとギターがゆったり音を放ち、過去の夏を演出する。
そして最後はピアノと息を揃えて音を出して他の楽器の音を止め、最後の音を白玉で出し、そこにシンバルの優しいロールが加わる。
俺はフレットから指を離す。ギターの残響も消え、ピアノの残響も消えていく。
ストリングスも残響を残して消えていき、シンバルも残響を名残惜しげに残して消えていく。
音が消えていく過程で照明がゆっくり落とされていき、全ての音が消えたときにはステージは淡いブルーの照明で仄かに照らされる。
客席から打ち寄せる波のように拍手が徐々に大きくなって押し寄せてくる。俺は溜息を吐いたのもつかの間、ギターをエレキに切り替える。
勝田さんが駆け足でステージから退散し、代わってアルトサックスをぶら下げたマスターが出てくる。そして俺と同じくステージ前方に立つ。
次の曲「CHATCHER IN THE RYE」ではサックスとのユニゾンがある。
しかし、他のT-SQUARE−この曲を含んだアルバムの時はTHE SQUAREだったが−のサックスとのユニゾンとちょっと違って、ギターをサックスに近付ける
エフェクトをかけずにナチュラルトーンを主軸にして演奏する。
そしてさっきの曲「THE SUMMER OF '68」と同様、ギターが主体になるということだ。
俺が主体になる曲を、ということで選んだんだが、難しい曲を立て続けに選んでしまったものだ、と少し後悔していたりする。
拍手が止み、会場が静けさを取り戻したのを確認する。弱いスポットライトが俺と国府さんを−ライトの違いで分かるんだが−照らす。
俺はイントロとして頭1つ16分音符の駆け下がりで出る。いよいよ第2幕の幕開けだ。
俺がメロディ、国府さんがバッキングというシンプルな構成で始まる。逆に言えば、それだけ目立つことになる。
ベースやドラムが入って来た時にテンポが違う、ということにならないようにテンポキープを念頭に置き、尚且つ、曲の雰囲気に合うように優しいタッチで
弦を爪弾く。難しいところだがギタリストの腕の見せ所だ。
ゆったりとしたテンポで8小節ピアノとのデュオを続けた後、音程がカーブして上がっていくベース音を合図にベースとストリングスが入ってくる。
ドラムはまだだから、俺のテンポキープの役割はまだまだ続く。
フレーズそのものは簡単だが、簡単なものほど難しいと言う。あれは本当だ。特に自分がテンポキープをする「主役」なら尚更だ。
潤子さんが担当する今度のストリングスは「THE SUMMER OF '68」とは違ってごく一般的な、SEを交えないものだ。
そしてストリングスらしくピチカート(註:バイオリンなどで弦を弓で弾かずに指で弾いて音を出す奏法)も交えたものだ。
「THE SUMMER OF '68」を一言で言うなら「過ぎ去った夏」だが、この曲は「心地良い夕暮れ時」と言ったところか。
よく聞かないと分からない音量でのピアノとのユニゾンが終わりに近付くと、それまで大人しかったストリングスが急に勢いを増してくる。
そして重量感のあるタムが一発入ってくる。照明が明るさを増す。いよいよサビだ。
だからと言って派手になっちゃいけない。あくまでも繊細に優美に演奏するのが大切だ。
ゆったりとしたテンポでしっかりリズムを刻むドラムが入り、俺はマスターのサックスとユニゾンする。
音がナチュラルだから「MORNING STAR」の時と違ってかなり目立つ。油断は決して許されない。
緩やかに流れるストリングスを聞きながら、爽やかな風が吹き抜ける夕暮れ時をイメージして演奏を続ける。
マスターのサックスもブロウこそ効いているものの、「これがサックスだ」と声高に自己主張するものじゃない。やはり情感を重視した演奏になっている。
優しいタッチの曲はあくまで優しく描くのがプレイヤーの役割だ。俺は一音一音を大切に会場に発していく。
やがてドラムが軽いシンバルワークになり、俺とマスターのユニゾンがより目立つ格好になる。照明もやや落ちる。
テンポを崩さないように、そして優しい情感を崩さないように、丁寧に演奏する。
こうしたことを積み重ねることによって、「CHATCHER IN THE RYE」という一つの曲が完成するわけだ。
だから簡単だから、といって手を抜くととんでもないことになりかねない。より慎重に、でも硬くならないように注意しながら演奏を続けていく。
さあ、次は俺のソロだ。スポットライトが仄かに俺を照らし出しているのを感じる。
ドラムが再び入るものの、軽いバスドラムとテンポキープにはありがたいハハイハット、そしてリムショット(註:スネアドラムの縁をスティックで叩く
奏法)だけのシンプルなものだ。
あくまでも主役は俺。それにストリングスはお休み。ピアノもベースも白玉中心だ。動いているのは実質俺だけということになる。
だからこそ、より丁寧さと慎重さが要求される。
フレーズそのものはそれほど難易度は高くないものの、情感を出すために俺はスライドやハンマリングといったテクニックを随所に織り込みながら演奏していく。
ストリングスが入ってくる。しかし曲調が変わるわけではない。繊細さと優美さはそのまま大切に保っていかなければならない。
俺が持つテクニックの全てを動員してソロフレーズを演奏する。
空を紅に染めつつ水平線に沈む夕日を広大な大地で見詰める。そんなイメージを持ちながら弦を爪弾く。
こうしたことはきっと何らかの形で客に伝わる筈だ。
ストリングスが急速に駆け上がってくる。重みのあるタムが入ってくる。照明が明るさを取り戻す。
さあ、サビだ。だが、力みは禁物。あくまでも繊細に、そして優美に・・・。
サックスとユニゾンする。こういう形のユニゾンも結構気持ち良い。
サックスに似せて競い合うのも一つだが、こうしてギターならではの音色で存在感を出すのもまた一興だ。
途中ギターらしさをちょっと織り交ぜながらサックスとのユニゾンを楽しむ。繊細さと優美さは忘れずに。
サックスが独自のフレーズ−ソロと言って良いだろう−を奏で始める。俺はサビのフレーズの繰り返しだ。
サックスとギターがそれぞれの形で情感を醸し出す格好だ。サックスはリバーブがよく効いた広がりのある音色で、俺はナチュラルトーンで、
それぞれ爽やかな夕暮れ時を演出する。
サックスもソロとは言っても決してでしゃばるような真似はしない。俺のギターの音に広がりと艶やかさをプラスするような感じだ。
流石はマスター。伊達に長い間サックスで飯を食ってたわけじゃないな。
曲はエンディングに入る。ピアノの情感溢れるリフが優しく響く中、サックスが細かいフレーズを加える。
やはり前面に出るんじゃなくて、料理で言えば付け合せの野菜のような位置付けを保っている。
徐々にテンポが落ちてきていよいよラスト。
細かく優しいシンバルワークと広がりのあるストリングスが場を演出する中、ピアノが一歩一歩音の階段を上っていく。
決して駆け上がるようなことはしない。ピアノの持つ響きを優雅に使うことで、夕日が水平線に沈んでいく黄昏時を空気のキャンバスに描く。
音の響きがゆっくりと消え、全ての音が消えたところでパラパラと拍手が起こり、やがてそれは大きな、そしてどこか温かいものに変わる。
客も曲の雰囲気を感じ取ってくれたようだ。
俺はまた一つ溜息を吐いてからストラップから身体を抜いてスタンドにギターを立てかけ、駆け足でステージ脇に退散する。
次は潤子さんのピアノソロ曲「put you hands up」だ。ゆっくり聞かせてもらおう。
「祐司さん、もう大丈夫みたいですね。」
晶子が囁き声で話し掛けてくる。俺は笑みを浮かべて晶子の方を向く。
もう足が地に付いていないような感覚は殆どなくなった。熱冷ましがようやく効果を発揮し始めたんだろうか。
「ああ。もう普段どおり行動出来る。悪かったな、迷惑かけて。」
「良いんですよ、気にしなくたって。」
晶子はそう言って微笑む。晶子には後で何か礼をしなきゃならないな。
散々心配かけて、耳が満足に聞こえなくなった俺に聞こえない言葉を伝えたりしてくれて。俺は本当に良い彼女に恵まれたもんだ。
ピアノの音が響き始める。
その優しい響きに引き寄せられるように、俺と晶子はステージの方を向く。
ステージ中央のピアノにスポットライトが当てられ、潤子さんがそのピアノに向かっている。
穏やかな春の陽射しを思わせるメロディラインとアルペジオのデュオが、優しい響きを会場に撒く。
「TERRA DI VERDE」ではよく目立ったタメが弱い、比較的一定のテンポに忠実な演奏だ。
ダイナミクスもそれほど強調されているわけではない。それでも機械的とは感じない。潤子さんの人柄をしのばせるふんわり心地良い雰囲気を感じる。
その秘密はメロディに時折混じる装飾音符(註:鍵盤楽器である音の前に入れる細かい音)にあると思う。
大胆に自己主張するわけでは決してない、それでいてその音があるお陰でメロディ本体がぐっと引き立つ、言わば名脇役だ。
装飾音符がなかったら、多分かなり素っ気無いものになってるんじゃないだろうか。勿論、そう聞かせる潤子さんの腕があってこそのものだろうが。
俺は自然に目を閉じる。本当にこのまま眠ってしまいそうだ。呼吸も自然に落ち着いていくのが分かる。
「癒し系」という言葉が一時流行ったが、本当に人の心を癒せるものは数少ない。
潤子さんの演奏は曲そのものの完成度の高さを100%引き出し、人の心を癒す見事としか言いようのないものだ。
桜井さんが、片方くれ、と言った気持ちが分かるような気がする。
クイが中心の、それまでの曲の構成とは違うが曲の雰囲気を壊すものでは決してないフレーズが入る。
そこでもダイナミクスは強調されない。その代わりと言うのも何だが、スタッカート(註:音を楽譜の表記より短く演奏すること)がメリハリを与えている。
ダイナミクスばかりがピアノの演奏の表情を形作るものじゃないということがよく分かる。
曲の構成が元に戻る。高音部に比重を移した音達が耳に優しく流れ込んでくる。
やはりここでもタメは弱いし、ダイナミクスもかなり平坦だ。それでもまったく機械的にならない。さり気なく聞こえる装飾音符が心憎い演出をしてくれる。
心安らぐ、とはまさにこういう心境を表現するものだろう。陽だまりで日向ぼっこしている気分だ。
高音部のクイによる、音の階段をゆっくり下りるような気持ち良い旋律を挟んで、曲調が少し変わる。
クイを背景にした、何と言えば良いんだろう・・・。
敢えて言うなら、穏やかな陽射しが少し雲に隠れたような、でも曲調を暗くさせはしないメロディが緩やかに流れる。
高音部の響きを生かしたそのメロディはやはり気持ち良い。ここでも装飾音符が耳に優しい。
再びスタッカートのクイを中心にしたフレーズを挟んで、曲調が変わるよ、と合図するような短い高音部のクイのフレーズを流れ、始めの構成に戻る。
ここへ来てようやくダイナミクスが目立ってくる。
とはいっても多少強弱の差が大きくなったかな、という程度なんだが、それでもこれまで形作って来た曲の雰囲気を一変させるというようなものじゃない。
日向ぼっこをしているうちに眠ってしまい、ふと目を覚ましたら陽射しが眩しく感じた、という表現がぴったりだろうか。
俺のボキャブラリーは乏しいからこの程度の表現しか出来ないんだが。
再び高音部を使った、音の階段をゆっくり下るようなクイのフレーズを挟んで、ちょっと違った雰囲気の、陽射しが薄い雲に隠れたようなフレーズが
今度はクイを多用して奏でられる。
雲を透かして太陽が見えるイメージだ。どこか清々しささえ感じさせる。
そしてスタッカートを使ったクイによる旋律が奏でられると、少し間を置いて高音部で木漏れ日が輝きの残像を目に残すような高音部の短いフレーズが流れる。
それまで曲の表情に合わせて動いていた潤子さんの頭が、ぴたりと動きと止める。
潤子さんが顔を上げると同時にスポットライトが消えて、ステージが淡いブルーの照明で照らされる。
曲の終わりを知った客席から徐々に拍手が起こり、やがてそれは大きな、そして温かいものへと変わる。
潤子さんはゆっくりと立ち上がると、客席に向かって一礼する。すると拍手が大きさを増したように思う。
俺も気付いたら、手が痛いと思うほど強く拍手していた。隣を見ると晶子がすっかり感嘆した様子で拍手している。
後ろからは国府さんの拍手が聞こえる。やはりこれも大きい。感嘆と称賛の証だ。
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