雨上がりの午後
Chapter 110 夏の楽祭に向けて
written by Moonstone
それは突然のことだった。
外は相変わらずと言っても差し支えない雨模様、しとしと音もなく降り続ける雨が窓ガラス越しに店の照明に照らし出される夜。
何時ものように慌しいバイトを終えた「仕事の後の一杯」の席上でいきなり俎上のものになった。
「サマーコンサートをやろうか。」
俺は失礼だが、一瞬梅雨のじめじめした気候でマスターの頭にカビでも生えたのか、と思った。
コンサートは毎年12月24、25日の両日やっている。2回しか出演していないとは言え、俺の中では年間行事の一つになっている。
そのコンサートを夏にやるだって?今年は意表を突いて、とでも言うんだろうか?
「俺がジャズバーで演奏していた頃の面子から連絡があってね。梅雨が明けたら景気付けを兼ねて久しぶりにセッションをしないか、って話になったんだ。」
「で、マスターはそれをOKした、と。」
「御名答。」
御名答って・・・これまた失礼だが、マスターは気楽で良いよな。
俺は大学じゃ講義に実験にゼミ、家じゃレポートや宿題や−絶対高校時代よりよく勉強してるぞ−ギターの練習に追われる毎日だ。
そんな状態で、顔も知らない人とセッションするための時間も心理的余裕もないんだが。
「これは俺の個人的な感情もあるが、祐司君。君の可能性を試す機会でもあると思ってる。」
「俺の・・・?」
「君はまだ将来の道を模索している段階だろう。仮にプロのミュージシャンを目指すなら、長年経験を積んだプロとのセッションを経験するのは
良い機会だと思うんだ。」
俺は返す言葉が見つからず口を噤(つぐ)む。
確かに将来の道はまだ決めていない。否、日々の生活に忙殺されて考える暇がないと言ったほうが良いかもしれない。
このままじゃ普通に就職活動、普通に就職、っていうある種の王道、言い方を変えればお決まりのレールに乗っかることになってしまうだろう。
だが、プロのミュージシャンになるという決断が出来るか、と言われれば、それはちょっと待ってくれ、としか言えない状況でもある。
俺の将来は俺のものだが、親や親戚の思惑が絡んでくるのは目に見えている。
潤子さんのように勘当されてでもプロのミュージシャンへの道を選択する覚悟は出来ていない。それだけのバックボーンがあるかどうか疑わしいからだ。
「音楽のプロっていうのは、何もCDをレコード店に並べる人間だけを指すものじゃないと思う。日々音楽と共に歩み、少人数の前ででも、
或いは誰も聞いていなくても音楽を奏でることが出来る人間のことを指すと思う。」
「・・・。」
「俺がジャズバーで演奏していた時代の面子は、そういう観点からすれば一流のプロだ。俺のようにオーディションを受けても落っこちた人間も居るが、
逆にオーディションに合格出来る腕前を持ちながらあえて今の道を選択した人間も居る。そんな奴らから話を聞くだけでも、将来を選択する上で
参考になるんじゃないかな?」
「確かにそうですけど・・・。」
「別に今回セッションしたからといって、絶対プロのミュージシャンを目指せというつもりはない。そんな権利もないからね。就職活動の一種だとでも
思ってもらえば良い。」
マスターの言葉で俺の不安は解消された。
今回のセッションを契機にミュージシャンへの道へ身体を向けられることになったら、道が違うだけで状況に流されるがままにレールに乗っかることには
何ら変わりない。
それだけは御免だ。自分の将来なんだから、出来ることなら誰にも干渉されずに歩む方向を選択したい。
「それから祐司君。連中も君とセッションしたがっているんだ。」
「え?」
俺は思わず聞き返す。
何で顔も名前も知らないマスターのジャズバー席巻時代の人達が俺のことを知ってて、尚且つ俺とセッションしたいなんて思うんだ?
「実はね、連中とセッションしようという話になった後、この前のバイトの時間に君の演奏を録音しておいたんだ。向こうはギタリストが居ないし、
君の腕が連中にどう映るか試してみたかったんでね。」
「何時の間に・・・。」
「ほら、半月ほど前かな?君に頻りにステージでの演奏を勧めた日があっただろう?あの時だよ。」
俺は自分の記憶の大地を掘り返す。・・・ああ、確かに言われてみればそんな日があったな。
何時ものとおり忙しい中、マスターから接客は俺がするから演奏を頼む、と頻りに言われて、何が何だか分からないままにレパートリーを演奏しまくった日があった。
あの時録音してたのか・・・。
「連中は君のギターの演奏を聞いて、君の腕前に非常に興味を持ったみたいだ。特にアコギの演奏は下手なプロを凌駕する、と絶賛していた。」
「俺の演奏がですか?」
「ああ。さっきも言ったように向こうはギタリストが居ない。だから尚更、これだけの腕を持つギタリストとセッションしたいと思っているんだろう。」
知らない間に演奏を録音されていたのは別に何とも思わないが、マスターと一緒にジャズバーを席巻していたプロのミュージシャンから高い評価を
得られたというのは正直嬉しい。
そんなに評価されているのなら・・・逃げるのは損だ。
正面からぶつかって、自分の腕が何処まで通用するか試すのも、マスターが言ったように就職活動の一種になって良い経験になる筈だ。
残る問題は曲だ。こっちでは専らジャズ・フュージョン系を演奏しているが、向こうはジャズ専門だろう。
そうなると一から新曲を幾つも練習しないといけないだろう。正直言って、今の俺にそんな時間的余裕はない。
「マスター。演奏する曲はどうなるんですか?」
「それはこっちで決めてくれ、ということだ。セッションを申し込んできたのは向こうだし、連中も此処で演奏している曲を即興で演奏出来るだけの力はある。
聞いたことがあるか楽譜があれば問題はない。日程も梅雨明け以降、君達が夏休みに入った頃を目安にして調整しようということになってる。
だから安心して曲選びと練習に専念してもらえば良い。」
「そうですか・・・。」
マスターの回答でまた一つ不安が消えた。向こうがこちらに対応出来るのなら問題はない。
しかし、聞いたことがあるか楽譜があれば問題ない、というのは流石プロだな。
そう言えば俺も此処の「採用試験」で「Fly me to the moon」の楽譜を渡されて、即興でアレンジして演奏しろ、って言われたっけ。
何て試験だ、と思いつつ楽譜をパラパラ捲(めく)ってその場でアレンジして演奏したら、客とマスターと潤子さんから拍手を貰ってその場で採用、となったんだっけ。
「どうだ?やる気になったかな?」
「俺は良いですけど、晶子は・・・。」
「井上さんも、向こうには居ないヴォーカルということで、勿論参加してもらう。大体、君を引き離したら井上さんに何をされるか分からんよ。」
「マスター。人を化け物みたいに言わないで下さいよ。」
「スマンスマン。それは兎も角、二人共何曲か選んでおいてくれ。大体5、6曲を目安にしてくれれば良い。」
「今度ご一緒する皆さんの演奏楽器は何なんですか?」
「あ、言うのを忘れてたな。サックス、ピアノ、ベース、ドラムだ。俺が引退する少し前にサックスが加入したんだ。だから俺とは違うサックスが聞けるぞ。
向こうのサックスはフルートやEWIも出来るマルチプレイヤーだ。そうそう、勿論、ピアノもな。潤子とはまた違うタッチだ。」
不安が消えた俺の胸の中で希望的観測が幾つも浮上してくる。
プロのミュージシャンとのセッション。マスターと共にジャズバーを席巻した人々に評価された俺の腕試し。
更にマスターじゃないサックス、潤子さんじゃないピアノも聞けるという。
これまで心で膨れ上がっていた不安に代わって、胸躍るようなワクワク感が膨れ上がってくる。
「私の人生が変わったのは、マスターと今度のお相手のセッションを見たからなのよ。きっと祐司君も晶子ちゃんもカルチャーショックを受けると思うわ。」
潤子さんの言うとおりだろう。
それまでOL生活を送っていた潤子さんが、親に勘当されてまでマスターと一緒になって、一風変わった喫茶店を切り盛りするようになったんだ。
きっと俺にとっても晶子にとっても衝撃的な出会いが待っているだろう。
「あ、そうそう。肝心なことを言うのを忘れてた。」
「何ですか?」
「今度のセッション、というかコンサートは、新京市の市民公会堂を借りてやることになった。」
「ええ?!」
俺はまた思わず聞き返す。
てっきりこの店でするのかと思ってた。まさかそこまで大々的にやるとはとても思わなかった。
「場所の確保は日程の調整と絡むが、まず大丈夫だろう。チケットもそれにあわせて作る。市民公会堂の大ホールで確か1000人収容だから、
チケット代は1000円から2000円ってところかな。」
「ちょ、ちょっとマスター。何で此処でやらないんですか?此処なら場所取りの必要もないのに・・・。」
「今度はベースやドラムも入るし、人数も多い。それに相手はプロだ。学園祭じゃあるまいしプロの演奏を無料で聞かせるわけにはいくまい。」
「それはそうですけど・・・俺と晶子っていう素人も居るんですよ?」
「アマチュアでも金とってライブやってるだろ?何ら問題ない。それに、此処2年間のクリスマスコンサートの入場者数の推移を考えると、とても此処じゃ入りきらん。」
「そんなに来ますかねぇ・・・。」
「金払ってでも聞きたいと思う連中は間違いなく来る。チケット代も学生でも出しやすい金額にすれば、来る可能性は十分ある。普段コーヒーやら
サンドイッチやら飲み食いしながらこの店に通ってる常連だぞ?飲食費がチケット代に変わると思えば安いもんだろう。」
随分楽観的な見通しだな。新京市の市民公会堂が何処にあるのかは知らないが、果たして学生連中が金を払ってまでそこまで出向くだろうか?
まあ、この店の常連はマスターの言うとおり、結構飲み食いしてる。だから接客に演奏にと忙しいんだが。
「ま、梅雨明けまでにはまだ大体半月くらいかかるだろう。曲選びと練習に専念してくれれば良い。曲が決まったら俺か潤子に伝えてくれ。」
「「分かりました。」」
「プロのミュージシャンとセッション出来る機会なんてそうそうないことだ。ま、人生の思い出に残るように普段どおりの良い演奏を聞かせてくれ。期待してるぞ。」
「「はい。」」
「突然のことでびっくりしたと思うけど、祐司君も晶子ちゃんも何かの縁があってこの店でバイトするようになったんだから、今回もその縁の一環として大切にしてね。」
「「はい。」」
マスターと潤子さんからの言葉に身が引き締まる思いがする。
確かにバイト先でプロのミュージシャンとセッション出来るなんて滅多とない絶好の機会だ。
この店でバイトするようになったのも、晶子と知り合ったのも全て何かの縁。その縁を大切に、思い切りセッションを楽しみたい。
店を出た俺と晶子は、相変わらずしとしとと降り続ける雨の中を歩く。
ちなみに開いている傘は一つだ。店に行く時間が違うし、今日は朝から雨だったから傘が別になって当然だ。
だが、二人一緒ということで晶子が傘を畳み、俺が開いた傘の中に入っている。所謂相合傘だ。
梅雨に入ってから結構相合傘をする機会が多くなったが、普段する機会が少ないだけに新鮮で胸がドキドキする。
「サマーコンサートか・・・。」
ぼそっとした呟きが俺の口から漏れる。
マスターの話を聞いている時は気分がだんだんと高揚していったが、店を離れて冷静になってみるとまた不安が大きくなってきた。
CDを出していないとはいえ−CDを出しているかどうかでプロかアマチュアか区別出来るものじゃないが−、相手はプロのミュージシャン。
しかもマスターと共にジャズバーを席巻して、今でも活動中の現役だ。
そんな人相手に俺のギターが通用するのか、甚だ疑問だ。
「プロの人と共演するなんて、こんな機会があるなんて思いませんでしたよ。」
晶子が−相合傘のせいか、普段より更に距離を詰めている−やや興奮気味に言う。
晶子にしてみれば、俺を追いかけた結果あの店でバイトをするようになったことで、プロのミュージシャンと共演する機会が出来たのは幸運以外の何物でもないだろう。
気負いがない晶子が羨ましい。
「何かドキドキしますね。プロのミュージシャンの演奏をバックに歌うなんて想像したこともなかったですから。」
「晶子のドキドキの中には不安はないのか?」
俺が尋ねると、晶子は一瞬きょとんとした表情を浮かべる。
だが、直ぐにそれは消えて、宝物を見つけた子どもみたいに目を輝かせる。
「まったくないといえば嘘になりますけど、それよりプロのミュージシャンと共演出来る、ってことが嬉しくて楽しみで・・・。今まで祐司さんのギターと
シンセサイザーの演奏をバックに歌ってきましたけど、それがプロのミュージシャンに置き換わると思うと・・・どうなるのかワクワクします。」
「そうか・・・。」
俺は小さく溜息を吐く。
やはり晶子はまったくと言って良いほど気負いがない。興味と興奮をそそられる機会と捉えているようだ。
良いな、晶子は・・・。何の気負いも不安もなく共演の機会を待っていられるんだから・・・。
「祐司さんが不安に思うことはないと思いますよ。」
「そう言われてもなぁ・・・。」
「だって、マスターも言ってたじゃないですか。祐司さんのギター演奏にミュージシャンの人達も凄く興味を持ってる、って。祐司さんは期待されてるんですよ。
それもプロの人達から。もっと自信を持って良いですよ。」
「期待されてるって言われても、実感がないからなぁ・・・。」
「大丈夫。祐司さんの腕はプロの人さえも唸らせるものなんですから、普段の演奏を聞かせてくれれば良いんですよ。」
「普段の演奏か・・・。」
「私も楽しみにしてるんですよ。祐司さんがプロのミュージシャンと共演するところを。きっと祐司さんなら何ら遜色ない演奏を聞かせてくれると信じてます。」
晶子ははっきりした口調で言い切る。
果たして俺はこの期待に応えることが出来るんだろうか?
晶子の励ましは勿論嬉しいが、今の俺には不安を膨らませる要因にしかならない。
自分の腕にまるで自信がないわけじゃない。
これでも高校時代は校内随一の人気を誇るロックバンドのギタリストとして、度々別のバンドから助っ人の依頼や移籍の誘いがあった
−宮城と付き合っていたってことで知名度が上昇したことは否定出来ないが−。
だが、今度の相手は格が違う。
実際にプロとして生活している人達相手に俺の腕が通用するのかどうかはまったくの未知数。
それに両者唯一のギタリストとして下手な真似は出来ない。
それらが俺の肩に重く圧し掛かってくる。
「私の家で紅茶でも飲んでゆっくりしましょうよ。少しは気が楽になるかもしれませんよ。」
「・・・そうだな。」
俺が今どんな表情をしているのかは分からないが、恐らく暗い不安げな表情なんだろう。
そんな俺を晶子は叱咤することなく、温かい誘いをかけてくれる。
本当に晶子が居なかったら、俺は今頃どうなっていたんだろう・・・。
俺は晶子の家に入る。湿気が多いせいか蒸し暑く感じる。
晶子はエアコンのスイッチを入れてから紅茶の準備を始める。
湿気を抜いて−エアコンはドライ設定だそうだ−涼しくなったところで温かい紅茶を飲むというのも変な話かもしれないが、自分の家に帰る前のこの一杯が
心を癒してくれる大切なものなんだよな。
晶子が俺の前とその向かい側にティーカップを置いて、そこに紅茶を注ぐ。ミントのすうっとする芳香が鼻によく通る。
晶子は俺の向かい側に座る。
俺は紅茶を一口啜ると、カップを置いてまた小さい溜息を吐く。
本当にこのままで大丈夫なんだろうか?俺の心の中でそんな不安が膨張してくる。
「・・・なあ、晶子。」
「何ですか?」
「率直に言ってくれ。晶子から見て俺のギターの腕はどんなものなんだ?」
俺の問いかけに、晶子は普段どおりの表情で口を開く。
「凄いと思いますよ。色んな曲を弾きこなせて、いいえ、ただ弾くだけじゃなくてギターで歌うことが出来る、凄い腕前の人だと思ってます。」
「歌う・・・?」
「ええ。祐司さんのレパートリーの中でギターがメロディを担当する曲が何曲があるじゃないですか。あれなんか特にそう感じますよ。ギターが歌ってる、って・・・。
あの歌声を聞くと、忙しいバイトの合間にほっと一息つけるんですよ。私のバックで演奏してくれている時はバックコーラスみたいで。」
「歌う、か・・・。」
単に上手だと誉められるのとはちょっと、否、かなり違う気分だ。
俺のギターが歌っている・・・。俺はギターで時に熱く、時にクールに、時に優しくそのメロディに相応しいと思う演奏をしているに過ぎない。
だが、それが少なくとも晶子の耳には「歌っている」と聞こえるらしい。
俺は紅茶を一口啜る。
・・・良いことなんじゃないだろうか?
単にドレミをなぞるだけなら、それなりに練習を積めば誰にでも出来ることだ。
だが、曲に表情をつけること、そして晶子が言ったような「歌う」ことは、俺のギターの腕が単に技術的に高度なだけじゃないということの証明なんじゃないだろうか?
「祐司さんのギターは、私みたいな音楽を始めて2年経つか経たないかの素人でさえも率直に、あ、このギターの音は優しく歌ってるな、とか
感じさせるものなんですよ。プロの人も祐司さんのギターに込める思いに共鳴したんだと思います。だから絶賛したんですよ。」
「そうかな・・・?」
「そうですよ。」
晶子はこれ以外の答えがあるか、といった口調で断言する。
俺のギターが人の心に響くものになっている・・・。少なからずプロのミュージシャンへの希望を抱く俺にとっては得難い賞賛の言葉だ。
それに安住しちゃいけないが、それを自信に変えるのは良いかもしれない。
俺はまた紅茶を一口啜る。
大学じゃ講義に実験にゼミ、バイトじゃ接客に演奏、家じゃ大学のレポートに曲のデータ作りにと忙殺されっぱなしだが、こうして晶子の家でのんびり紅茶を
啜っていると、自分の現状を客観的に見れて良い。
少なくとも晶子には心に響くものを聞かせている。そして今度セッションするプロの人も俺のギターに興味を持ったと言う。
ならば今度のセッションはその興味に応えて、ギタリスト安藤祐司此処にあり、ということを示す絶好の機会なんじゃないだろうか?
譬えプロを目指さないにしても、マスターや潤子さんが言っていたようにまたとない機会だ。自分の限界をとことん追及してみるのも悪くはないだろう。
「祐司さん、心が晴れてきたみたいですね。」
晶子が言う。自分じゃ分からないが何処で分かったんだろう?
やっぱり・・・表情かな。俺の口元に笑みが浮かぶのが分かる。
「ちょっと、な。」
「祐司さん、奥手ですからね。それで萎縮しちゃったら勿体無いですよ。まあ、私はそういう祐司さんの慎重なところも好きなんですけど。」
「・・・ありがとう。」
晶子の言うとおり、萎縮してしまったら折角の機会を台無しにしてしまいかねない。
ここはひとつ一念発起して、自分の腕を存分にプロのミュージシャンにぶつけてみよう。そして自分の腕がどこまで通用するのか知ろう。
マスターの台詞じゃないが、就職活動の一種になるだろう。
俺はかなり冷めた紅茶を一気に飲み干す。すうっとした芳香が鼻と喉を通る。
よし、残された期間はかなりあるとも言えるしさほど多くないとも言える。限られた時間を曲選びと練習に全力投球しよう。
きっとこの夏も良い思い出が出来るだろう。
否、出来るんじゃなくて創るんだ。自分の未来を切り開くのは自分自身の筈なんだからな・・・。
それから1週間ほどの間に、晶子とも相談した結果、俺と晶子の演奏曲をマスターと潤子さんに順次報告した。
俺は「プラチナ通り」「Jungle Dance」、そして最近レパートリーに加えた「THE SUMMER OF '68」「CHATCHER IN THE RYE」、晶子は「Secret of my heart」
「PACIFIC OCEAN PARADISE」、そして最近レパートリーに加えた「Feel fine!」「Make my day」と各4曲ずつ。
マスターや潤子さん、そして相手方の演奏曲目を考えたら、これでも多いくらいだ。
マスターと潤子さんも演奏曲を知らせてくれた。
マスターは滅多に演奏しない曲が殆どで「MORNING STAR」「BIG CITY」「Aquatic Wall」「HIBISCUS」、潤子さんはお馴染みの「energy flow」に加えて初めて聞く
−リクエストされる機会が限られてるから俺や晶子が知らなかっただけだが−「TERRA DI VERDE」「put you hands up(piano version)」「鉄道員(piano version)」。
やはり各4曲ずつだ。
マスターの曲は俺とペアを組む曲があるので、必然的に練習する曲が増えることになる。まあこれは止むを得まい。
ギターはメロディも弾ければバッキングも出来る便利な楽器だから、必然的に出番が増えるというものだ。
前面に出なくても、リズム隊の一員としてしっかりリズムを刻む必要に迫られる。改めて自分のパートの責任感の重さを思い知る。
相手方からも演奏したいという曲目が伝えられた。幸いにも「Fly me to the moon」が入っていた。
その他には「WIND LOVES US」「NO END RUN」「AMANCER TROPICAL」。
聞いたことはあるが自分のレパートリーにない曲が殆どだ。これでまた新たに練習曲数が増えたことになる。
マスターから相手方が言ってきた曲のMDを借りた。ここから自分のパートを抽出して演奏することが要求される。思わず頭を抱えたくなる。
晶子は「Fly me to the moon」が殆どそのまま使えるらしいから、羨ましく思う。
ギターがあるということで、相手方は何か過度に期待してやいないか?
「で、コンサートの日程だが・・・。」
相手方の演奏曲が伝えられた「仕事の後の一杯」の席上、マスターは最も重要なことを告げる。
「8月の第2週の日曜日ということで会場を押さえる方針だ。向こうも練習が必要だし、今回は初対面の相手とのセッションだから、合同の練習の機会も
必要だ、ってことで、多少余裕をもって日程を組んだ。」
「今から1ヵ月半くらいですか・・・。で、合同練習の日程は?」
「君達が夏休みに入る7月第4週以降の土日の夜、小宮栄のジャズバーで本番を想定した練習をするという方針だ。」
「それってつまり・・・お客さんの目の前で本番同様に練習するってことですか?」
「そういうこと。」
晶子の問いにマスターはあっさり答える。
答えはあっさりしているが内容はとんでもないことだ。
練習だからといって簡単にやり直しが出来ない、否、出来ないと言った方が良い。
練習を積んでから人前で披露することが常だった俺と晶子にとっては、非常に厳しい条件だ。日程的にも時間的にも。
「マスター、それって俺や晶子にとって・・・。」
「厳しい条件だとは思う。だが、彼らが集合出来る時間とこっちの営業時間を考えると、それが一番妥当な線だろう。祐司君と井上さんには申し訳ないが、
暫く大人の我が侭に付き合ってくれ。」
「はあ・・・。」
晶子は何時になく弱々しい返事をする。
いきなり本番、しかもジャズバーで披露するとは思いもしなかっただろう。
歌に自信が持てるレパートリーを出したとはいえ、ステージに立つようになって2年も経ってない晶子にとっては酷な条件だ。
俺は自分で言うのも何だが更に厳しい。
相手方から出された曲の練習も必要だし、それ以前にMDから自分のパート、即ちギターの音を拾い出す作業が必要だ。
これが馬鹿にならない。寝る時間があるのかどうか疑わしいくらいだ。
夏休みで講義やゼミがないのがせめてもの救いだ。これらまで重なったら過労でぶっ倒れるのは目に見える。
「で、問題の小宮栄のジャズバーは、俺が以前よく出入りしていた店で、潤子ともそこで知り合ったんだ。」
「そうなんですか。それじゃマスターと潤子さんの思い出の場所でもあるんですね。」
「そうね。今でもたまに行くのよ。生憎マスターは車の運転があるからお酒を飲めないけどね。」
そういう背景もあるのか・・・。
つまり俺と晶子は、マスターがジャズバーを席巻していた時代、潤子さんがOLをやっていた時代の思い出の場所に足を踏み入れるということだ。
それなら尚更二人の思い出を汚すような失態は許されない。少なくとも自分のパートは確実にこなせるようにしておくことが必須条件だな。
「君達は俺が運転する車で送迎する。で、練習時間分のバイト代も払う。厳しい条件を飲んでもらう代わりにそれなりの待遇は保障するというわけだ。
ここはひとつ、頑張ってみてくれないか?」
「・・・分かりました。やります。」
「私も頑張ります。」
俺と晶子は連続で返答する。ここまで土俵が整えられたら後には引けない。
まかりなりにも今まで様々な曲を練習してはこの店のステージで披露してきたんだ。
その場所がジャズバーに変わるだけと思えば多少は気が楽になるような気がする。
問題はそのジャズバーがどんな場所かということだ。
マスターと潤子さんにとっては思い出の場所であり、今でもたまに通っている馴染みの店とは言え、俺と晶子にとっては未踏の地だ。
店の雰囲気はどんなものか、客の耳はどれだけ肥えているのか、気になるところだ。
「マスター。そのジャズバーってどんなところですか?」
「そうだなぁ。初めてから常連まで気軽に入れてゆったりしたペースで酒を飲み、音楽を聴く。そんなところだ。常連が初めての客に店の話をして
連れて来る、っていうのは、この店とよく似てるな。だから客が聞く音楽の幅も深さも様々だ。そんなに構える必要はない。」
「そうですか・・・。」
どうやら耳の肥えた常連客が手薬煉引いて待っている、という店じゃないらしい。
この店でも俺が顔を覚えている常連から初めて顔を見る客まで色々居る中で演奏を披露しているわけだから、場所に関してそれほど神経質にならなくても良さそうだ。
「お客さんの年齢層はどんな感じですか?」
今度は晶子が尋ねる。俺より更に一歩突っ込んだ質問だ。
関係なさそうに見えて意外に重要なことだ。俺と晶子が選んだ曲が客の知らない曲ばかりだと敬遠されてしまう恐れがある。
「当然だけど若い人は20歳以上ね。他にはそうねえ・・・。30代から40代が多いかしら。ちなみに男女の構成比は大体半数くらい。女性でも気軽に音楽と
触れ合える場、ってことで好評よ。」
潤子さんが答える。
潤子さんもマスターと出会った時は20代だった筈だから、客の年齢層からすると若い部類に入っただろう。
女性でも気軽に入れる店、ということは、音楽に「通」な客もいれば平均的な客も居ると考えて良いだろう。
これも客の年齢層が幅広いことを除けば、この店と共通してるな。
「ま、あんまり構える必要はないってことだ。ステージの場所が違って、シーケンサの演奏が人間の演奏に代わる、ってくらいに考えれば良い。」
「ジャズバーなんて、行ったことないですから・・・。」
「祐司君は去年20歳になったばかりだし、大学とこの店のバイトで忙しいから行く暇もないだろうな。丁度良い機会だと思ってくれ。」
何となくだが、楽しみの方が比重を増してきたように思う。
入ったことのないジャズバー。そこでの初対面の人達とのセッション。
俺のそこそこ長い音学歴の中でも記念碑的なイベントになりそうだ。だから尚更、自分の腕をしっかり磨いておかないとな。
俺と晶子は揃って店を出る。
肌に纏わりつくような湿気が漂う中歩いていると、汗もかいてないのに肌に水分が現れて来そうだ。
そんな中でも俺と晶子は手を繋いでいたりする。湿気と共に熱気を多少含んだ空気とは違う、独特の温もりと感触が感じられる。
「私、歌えるかしら・・・。」
晶子がポツリと漏らす。見るとその横顔には真剣さと不安が入り混じっている。
馴染みの「Fly me to the moon」が入っているとは言え、不安が大きいんだろう。
バイトを始める前も遊んだ形跡がない晶子にとって、ステージが変わることは不安の材料になって余りあることだろう。それは俺にも言えることだが。
「今お店のステージで歌う時でも、失敗したらどうしよう、とか歌詞を忘れたらどうしよう、とか思ってるんですよ。今度は幾ら今のお店と似ているといっても
ジャズバーっていう独特の雰囲気があるでしょうし、一緒に演奏する人達はプロ。自分の歌が通用するのか不安で・・・。」
「俺は晶子が歌う曲が聞きたいな。特にジャズバーで聞ける『Fly me to the moon』は今から楽しみだよ。それにしてもどうしたんだ?この前は不安がってた
俺を元気付けてくれたのに。」
「・・・憶えてますか?私が初めてお店で歌った日のこと・・・。」
2年程前、俺の後を追いかけて同じバイトをすることになった晶子が挑戦することになったヴォーカルという新境地。
練習の時は不安そうな素振りを一切見せず、半ば八つ当たり気味に指導する俺にめげることなく必死に食らいついてきた。
だが、本番当日、今にも不安と重圧に押し潰されそうになっていたっけ・・・。
「ああ、憶えてる。晶子、凄く不安そうだったよな。」
「その場に立っているのも辛いくらいだったんですよ。失敗しないかどうか、失敗したらどうしようか、そんなことばかりが頭の中でガンガン鳴り響いて、
どうすれば良いか分からなくて・・・。」
「そんなにプレッシャーに負けそうだったのか・・・。不安そうだったってのは覚えてるけど、そんなに過酷な状況にあったとは思わなかった。」
「以前、祐司さんに自分の腕に自信を持って、なんて偉そうなことを言いましたけど、いざ自分がその立場になると一人で立っていられなくなる・・・。
勝手ですよね。」
「初めて、っていう条件で緊張したり不安や重圧に押し潰されるように感じるのは、誰だって同じだよ。」
晶子は俺をじっと見ている。
「俺だって初めての曲を人前で披露する時は、失敗するかな、とか上手く弾けるかな、とか思う。俺が高校時代にバンドやってたってことは知ってると思うけど、
初めてステージに上がる前は心臓バクバクで、メンバーから顔色悪いぞ、って言われたもんだよ。」
「祐司さんは、バイトに採用される時に即興演奏の試験があったんですよね?前に潤子さんから聞きました。」
「ああ。あの時も緊張したなぁ。即興で演奏するのは高校のバンド時代に新曲を試し弾きする時にたまにやったくらいだったし、ジャンルがまるで違う曲だったから、
楽譜見ながらあれこれ考えてた。」
「その時も不安だったんですか?」
「そりゃ不安だったさ。これで失敗したら採用されないだろうし、結構客も居たから大恥かくことになる、って思うと、顔から血の気が引いていくのが
自分でも分かった。でも、いざ演奏を始めたら、演奏するのが精一杯でほかのことを考えてる余裕なんてなかった。それがかえって良かったのかもしれないな。」
あの時は必死だった。
バンドでバラードを演奏することはあったが、課題曲の「Fly me to the moon」は初めて弾くジャンル。
おまけにそれをギター用にアレンジして即興で弾け、と言うもんだから、頭は完全にパニック状態だった。
演奏が終わって拍手が聞こえてくるまで、本当にほかのことを考える余裕はなかった。失敗したら、とか考える余裕も勿論なかった。
「今度はジャズバーで演奏するけど、マスターが言ってたように演奏する場所が変わって、シーケンサの自動演奏が人間の演奏に代わるだけだから、
普段どおりにやれば良いと思う。俺も晶子も店で何度も新曲の緊張感を味わってるんだし、案外普段どおりに出来るんじゃないか?勿論、自分のパートを
しっかり練習して確実なものにしておく必要はあると思うけど。」
「・・・そうですね。」
晶子の表情が徐々に明るくなってくる。
俺は高校時代にバンドをやってた分ステージ経験があるからまだしも、晶子は音楽に本格的に取り組むようになって2年も経ってない。
それでプロと共演するっていうんだから、緊張したり不安になったりするのはある意味当たり前だ。
でも、俺は晶子には十分ステージをこなせる実力は備わっていると思う。
これまで新曲を初めて店で披露する時も失敗らしい失敗をしてないし、客がかなり居る前でもステージに上がって堂々と歌っている。
練習では無理な、声量を存分に出して歌うことも自然にこなしているし。
「問題は結局、プロの人と生演奏で共演するってことだな。」
「やっぱりそれですよね・・・。」
「俺や晶子の腕がどこまで通用するかはやってみないと分からないけど、ベストを尽くすことは出来る筈だから、そのためにも十分練習を積んでおこう。
今の俺と晶子にはそれしか出来ないし、それが最善の対策だと思う。」
「そうですね。プロの人と共演するなんて他のバイトじゃまずありえないことですし、折角の機会なんですから大切にしたいですよね。」
「ああ。精一杯やろう。悔いが残らないように。」
この湿気だらけの季節が過ぎて少ししたら、いよいよ共演の時が来る。
その時抱える不安材料を少しでも減らすには、やはり自分のパートをしっかりこなせるようになっておくしかない。
これは別に特別なことじゃない。今まで新曲を披露する時にも、馴染みの曲を演奏する時にも共通することだ。
練習に練習を重ねて不安を自信に換える以外に対策はない。
梅雨空は時間が経てば夏空にとって替わる。だが、人間はそうはいかない。
ましてや人間の技術がぶつかり合う共演というものは、時間の流れに身を任せていれば良いという都合の良いことにはなってくれない。
相手が技術を持っているなら、こっちも技術を備えて対抗するしかない。
シーケンサという便利な機械なしで人間同士が腕をぶつけ合うのは、あの成人式会場でのスクランブルライブ以来だ。
あの時は2年のブランクを感じさせない息の同調があった。
今度は息が合うかどうかは、自分の技術を最大限に高めておいた状態で初めて云々言える。
相手は自分の腕で日々の生活の糧を得ている、本当の意味での実力派なんだから・・・。
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