雨上がりの午後
Chapter 101 聖夜の楽宴−3−
written by Moonstone
俺は晶子の腕から手を離して、晶子と共に客席に向かって一礼する。
晶子はいそいそとステージ脇に下がる。その代わりに拍手と歓声に迎えられてマスターがステージに駆け上がってくる。
マスターはさっさとサックスの準備を整える。休ませてはくれないようだな・・・。「前半」最後の曲は、俺とマスターでのペア曲「HIP POCKET」だ。
この曲は以前からレパートリーにあることはあったが、あまり演奏したことがない。恐らく今日の客でも聞いたことのある人間は少ないだろう。
アレンジは俺がしたんだが、本来二つ必要なギターのパートを一つにしたし、サックスのパートも一部演奏するようにしている。
自分でアレンジしておきながら、自分が一番梃子摺った覚えがある。
マスターが俺の方を向いて頷いたのを見て、気を改めてフットスイッチを押すと同時にギターのバッキングを始める。
最初の4小節はギターのバッキングだけで聞かせる。ここでリズムを崩したら滅茶苦茶になる。俺は音を刻みながらテンポを計る。・・・これで大丈夫だろう。
その4小節が終わるとズッシリとしたバスドラムと音程が高めのスネアドラムからなるシンプルなリズムが入ってくる。俺が刻む音とテンポはぴったりだ。
俺はドラムが入ってきたことで、テンポはドラムに任せてバッキングに専念する。
少々長めのイントロがスネアのフィル(註:曲のパートとパートと繋ぐための特別なフレーズ)で締めくくられると、俺は暫し休みになる。
こういう時はサックスでも聞きながら楽しんで演奏するに限る。
マスターのサックスが加わる。「WHEN I THINK OF YOU」の時とは違い、ポップでちょっと艶っぽい感じだ。
同じサックスでも音が違って聞こえるのはマスターの腕が成せる技だな。
ドラムとベース、そして途中から俺のギターの白玉と最初の基本バッキングが混じる中、マスターはサックスで「歌う」。
客席からは客の笑顔と共に手拍子が飛び込んでくる。良い感じだ。
そしていよいよサビだ。ここもバックは殆どドラムとベースのみで、サックスが艶っぽい音を聞かせる。
前半4小節は、俺は白玉をストロークで聞かせるが、後半4小節はエフェクターを切り替えてサックスっぽい音色にしてマスターとユニゾンする。
ユニゾンといっても俺のほうが3度音程が低いから音が明確に分かれる。俺はマスターに負けじとギターで「歌う」。
サビが終わってスネアのロール(註:高速で叩くドラムの基本奏法の一つ)が入ると、俺はリズム音とSE(註:Sound Effectの略で効果音のこと)が入り乱れる中、
ひたすら基本バッキングを刻む。そして後半から音色を切り替えて音を震わせながら音量を上げる。
本当はこの部分でも基本バッキングが続くんだが、ギターはサックスとの掛け合いをする部分もあるから、俺はあえてバッキングを切り捨てて、
サックスとの掛け合いに専念するようにアレンジした。
まずは俺から。フレーズは簡単だが、音の伸びや震えが重要な要素だ。本当に歌っているような気分になる。そうでないといけないんだが。
それが終わると少し休みじゃなく、ギターの音を引き伸ばして音量をフットペダルで規則的に上下させる。
原曲ではヘッドフォンで聞くと回転しているように聞こえる部分だから、こういう風にアレンジしてみた。
サックスとの掛け合いが終わると、SEだけのサイバーチックなリズムが4小節分入って、俺は基本バッキングに戻り、マスターのサックスが艶っぽく
そしてポップな音色で聞かせる。
最初より賑やかだが、この曲全体がシンプルな作りだから一つ一つのパートがよく目立つ。
いよいよサビだ。
まずはマスターのみで4小節。そして音色を切り替えた俺のギターが3度下で加わった4小節、そして俺が更に3度下げた8小節と積み重ねていく。
その時は音合わせの時の打ち合わせどおり、俺とマスターがステージの左右で向き合って演奏する。コンサートではこういう「見せる」要素も大切だ。
そして俺がサビのフレーズを続ける中、マスターのサックスがソロを響かせる。
原曲では直ぐにフェードアウトしてしまうが、俺がアレンジして16小節分たっぷり演奏してもらうようになっている。
マスターは比較的簡単なフレーズだからといって手を抜かず、艶っぽさとポップさを兼ね備えた音を店内いっぱいに広げる。
ラストを俺とマスターのシンプルなユニゾンで締めくくる。俺がマスターのフレーズより3度下げているところがミソだ。
演奏が終わると、大きな拍手と歓声が沸き起こり、指笛が飛び交う。
安心して気が抜けた俺の左腕が掴まれ、高く掲げられる。俺が「Tonight's the night」が終わった時にしたことをマスターがしたんだ。
客席からの拍手や歓声がより一層大きくなる。何かしらの反応があるとやはり嬉しいもんだ。
俺の腕を下ろすと、マスターはサックスを手で支えたまま、ステージ中央のマイクスタンドからマイクを抜いて言う。
「まずは三つのペアによる三曲をお聞きいただきましたが、いかがでしたでしょうか?」
そう言ってマスターはマイクを客席に向ける。
それに対して観客が歓喜と興奮入り混じった表情でそれぞれの思いを発する。
「良かったぞー!」
「もう言うことなし!」
「最高ー!」
マスターが観客からの歓声を拾ってからマイクを自分の元に戻す。
「お褒めいただいて光栄です。今年は安藤君と井上さん、特に安藤君が学業多忙でコンサートに間に合うか難しいところだったんですが、
よくやってくれていると思います。皆様、どうか安藤君と井上さんに拍手を!」
マスターの要請に応えて観客から温かい拍手が送られる。俺はステージ上で一礼する。
チラッとステージ脇を見ると、晶子も客に向かって一礼していた。流石にこの辺はしっかりしてるな。
「前半は比較的ノリの良い曲をお届けしましたが、後半はしっとりした曲を中心にお届けしたいと思います。安藤君と潤子による『EL TORO』、
私と潤子による今年の新曲『TWILIGHT IN UPPER WEST』、そして安藤君と井上さんによる同じく今年の新曲『Mr.Moon』。この三曲をお届けしましょう。」
マスターの紹介で、客席から再び拍手が沸き起こる。
俺は急いでストラップから身体を引き抜いてエレキギターからアコースティックギターに切り替える。
これがワンタッチで出来れば便利なんだが、それは贅沢と言うものだろうな、やっぱり。
客席からどよめきが起こる。見ると潤子さんがステージに上がってピアノの前に向かっている。
ステージに上がるだけでどよめきを起こせるなんて、潤子さんの存在感は相当なものだな、と再認識させられる。
「演奏の準備が整った・・・ようですね。それでは演奏前に、主役に脇役に忙しい安藤君にちょっとインタビューなど。」
客席から拍手が起こるが、俺は突然のことに戸惑う。
こんなこと、昨日のリハーサルにはなかったぞ。何を聞かれるんだ?まさか晶子との関係を聞かれやしないだろうな。
もし聞かれたら・・・どうしよう。
「安藤君。君は理工系の学生なんだよね?」
「あ、はい。そうです。」
「学科は?」
「電子工学科に在籍してます。」
俺が半ば反射的に答えると、客席からどよめきが起こる。
理工系で音楽っていうのはイメージが合わないんだろうか?それとも電子工学科っていう単語が高尚なイメージを与えるんだろうか?
「将来の展望として、ギターのプロを目指すつもりはあるかな?」
マスターの質問を受けて客席が静まり返る。俺の答えを待っているということか?
インタビューは勿論、こんなこと聞かれるなんて思いもしなかったからな・・・。
「んと・・・。そうですね・・・。」
俺はその言葉の間に急いで思考を巡らせる。
ここで言ったことが俺の将来を決定付けることになるんだろうか?否、まさかそこまではいかないだろう。でも曖昧な答えはしたくない。
「まだ自分の将来について真剣に考えたことはないんですけど・・・、もし自分の技量が通用するものなら・・・プロになりたいっていう気持ちはあることは
否定出来ないです。」
「やっぱり、自分の技量が通用するかどうか不安なわけ。」
「はい。趣味を仕事にしたら仕事とプライベートの区別がつかなくなるような気がします。でも、周囲や世間体に流されるままに会社や官庁に就職っていう
安直な道を進みたくないとは思います。あと1年もないですが・・・色々模索してみようと思っています。」
「難しい状況下で自分の進路を決めなければいけない難しい時代ですが、大学の学科が全てを決めるとは思わないで下さいね。」
「はい。」
「将来を手探りで歩んでいる感のある安藤君ですが、少なくともこのステージではギタリストとしての腕前を存分に披露してください。
それでは宜しくお願いします。」
「ありがとうございます。」
客席から拍手が起こる。不思議とそれが温かく感じる。俺は客席に向かって一礼する。
この拍手には最高の演奏で応えたい。俺の身体の内に気合がみなぎって来る。良い演奏を聞かせるのがプレイヤーの使命だ。
やがて拍手が止み、店内が静まり返る。演奏を待っているかのようだ。
潤子さんがピアノの前に座り、こっちを向いて小さく頷いたのを見て、俺は右手を小さく振り上げて一呼吸おいてから、潤子さんを見ながら
手を弦に向かって下ろし、同時にフットスイッチを踏む。
・・・バッチリのタイミングでギターとピアノがそれぞれの旋律を奏で始める。
今回の「EL TORO」はストリングスやドラムなども入ったフルバージョンだ。よりテンポの計測が重要になる。
最初はテンポを刻む楽器音がないから、頭の中でテンポを考えながら演奏しなければならない。
これが結構難しくて、音合わせでも念入りに練習したんだが、今のところは順調だ。
ピアノの胸に響く旋律と共に俺はギターの弦を爪弾く。やがてストリングスが入ってくる。
この曲のストリングスはオーケストラのようにダイナミクス(註:音量の上下)が激しいから、その波に飲み込まれないようにしないといけない。
音のツブを一音一音しっかり際立たせて、存在感をアピールする。
かといって、延々と強く爪弾いているだけじゃ機械的になってしまう。ストリングスの波とは違う、ギターの波を作り出さなければいけない。
幾重にも楽器が重なった重厚な音色のストリングスにギター一本で対抗するのは、ストリングスのボリュームを控えめにしてあるといってもなかなか厳しいが、
こういう時こそギタリスととしての腕の見せ所だろう。
まず最初のヤマ場に差し掛かる。リズム音がなくなり、ギター、ピアノ、ストリングスが複雑且つ繊細に絡み合う部分だ。
ここでもしっかりしたテンポ計測が必要不可欠だ。
弦の爪弾きにメリハリを効かせ、押しては返すストリングの波とピアノの波をサーフィンするようにギターの音色を響かせる。
波に飲まれないように慎重に、しかし大胆に・・・。
よし、乗り切った。
しかし安心しちゃいられない。明確なリズム音が出てくるまでにはまだ時間がかかる。
それまではしっかりテンポをキープして、かつ歌うようにギターを奏でなきゃならない。これがこの曲の難しいところだ。
ストリングスとピアノをよく聞きながら、リズムを崩さないように丁寧に、しかし明瞭に・・・。
長かったように感じる俺のメロディーラインが終わり、潤子さんのピアノが前面に出る。ダイナミクスを生かして、ジャズの雰囲気を存分に醸し出す。
流石に上手い。しかし感心してばかりはいられない。次は俺がギターでその雰囲気を受け継いで曲の抑揚をも表現しなきゃいけないからだ。
潤子さんの熱を帯びたジャズっぽいピアノにと抑揚激しいストリングスの波の中を、俺は必死でギターの音をサーフィンさせる。
果たして客にギターの音は届いているんだろうか?
気になるところだが、今は演奏に集中しなきゃ・・・。左手はフレットの上を動き、右手は弦を時に強く、時に優しく爪弾く。・・・良い調子だ。
いよいよラストだ。これまで熱を帯びる一方だったピアノとストリングスが奥に引っ込み、ギターが前面に出て早弾きのフレーズを奏でる。
ここでも音の一つ一つが聞き取れるように、フレットの位置とそこに応じた弦を爪弾く強さに細心の注意を払う。
キュキュッとフレットノイズが立ち上る中、俺は最後のフレーズを客席に向けて放つ。
全ての音の響きが消えた後、客席から大きな拍手と歓声が沸き起こる。それを聞いて、俺は全身が熱く火照っているのを感じる。
汗が頬を流れるのが分かる。呼吸が荒くなっているのも分かる。
テンポや弾き方に夢中になっているうちに演奏にのめり込んでいたようだ。まあ、それはそれで悪いことじゃないんだが。
俺の隣に潤子さんが来て、客席に向かって一礼する。俺もそれに倣って一礼する。
拍手と歓声が止むことはない。むしろ更に大きさを増したように思える。
どうやら演奏は上手くいったらしい。そう思った俺はようやく表情が緩むのを感じる。
演奏が終わった後の客席からの拍手や歓声は無形の報酬だ。ありがたく頂戴しておこう。
さて、俺はこれでお役御免となってステージに引っ込むわけじゃない。再びエレキギターに持ち替えなければならない。
何時の間にかステージに上ってサックスの準備をしているマスターを見て、俺は急いでエレキギターの準備をしてエフェクターを選び、奥に引っ込む。
今回は完全に脇役、しかもサビの部分だけだから、マスターと潤子さんの演奏を聞く精神的余裕がある。おざなりに出来ないのは言うまでもないが。
客席の拍手と歓声がようやく収束して静まり返ったのを受けるように、ピアノのイントロが始まる。
この程度のフレーズなら潤子さんには楽勝だろう。だが、演奏はいたって丁寧で、潤子さんが真剣にピアノと向き合っているのが感じ取れる。
その証拠にテンポの変な揺れが全然ない。サックスにこの曲「TWILIGHT IN UPPER WEST」のテンポを知らせているのかもしれない。
イントロが終わり、ピアノの白玉のクイが響いて少ししてからサックスの旋律が始まる。
甘く切ない音色を聞くと、思わず感傷的な気分になってしまう。
曲に応じてそれに最も相応しい音色を聞かせるところは、マスターの腕の高さを否応なしに感じさせる。
潤子さんのピアノともぴったり呼吸が合っている。二人の共演に俺のギターは不要だと思う。今回加えられたのはやはり隠し味的な意味合いだろうか?
最初のテーマが繰り返される。少し複雑になった−良い表現が見当たらない−ピアノを背景に、サックスの奏でる旋律が展開される。
サックスはヤマ場へ向けて少しずつではあるが着実に階段を上っている。
やがて・・・来た。
サックスの音色がより甘さと切なさを帯びて大きく歌い上げる。
聞いているだけで身震いがする。これがかつてジャズバーを席巻したという男の奏でるサックスなのか・・・。
黄昏時の鮮やかで、でも儚いその情景が思い浮かぶ。
俺は感傷的な気分に浸りながら、タイミングを見計らってギターを入れる。
強く、しかし決して乱暴ではない上品な響きのピアノのクイが、俺のギターの上に刻み込まれる。曲はいよいよサビに入る。
サックスが甘く切なく、朗々と謳い上げる。それに合わせて潤子さんのピアノと俺のギターがバッキングを流す。
ギターはあくまで補強用。バッキングの主役であるピアノのクイが埋もれないように注意が必要なところだ。
しかし、潤子さんのピアノは、その音域を存分に使って優しい音色を響かせる。
サビが最後に差し掛かり、それまでの盛り上がりが波が引くように引いてサックスが変わらず謳い上げる中、ピアノがシンプルなバッキングを聞かせる。
ここでは前半に比べてかなり控えめだ。サックスが自然と前面に出る。こういう聞かせ方は良いと思う。
サックスの音色が消えると、ピアノが再びイントロを奏でる。今度はピアノソロに繋がる重要な部分だ。
原曲ではストリングスが入るんだが、それがなくてもピアノが静かに消え行く黄昏の光のようなフレーズを聞かせる。
全く口を挟む余地のない、素晴らしい演奏だ。
ピアノソロに入る。
客席からの視線が一斉に潤子さんに向いたような雰囲気の中、ピアノはあくまで静かに優しい詩を朗読するように音色を響かせる。
テンポの割に細かいフレーズが随所に混じるが、低音でも高音でもそれぞれの音域を十分に生かした音がさりげなく流れる。
やがて高音部のクイのフレーズになる。マスターがサックスを構える。ピアノソロの終わりと共に、サックスの出番が近いことを告げる。
サックスが再び甘く切なく、大きく謳い上げる。それを支えるピアノのバッキングも優しいが芯はしっかりしている。
俺もその中に加わり、切なさを存分に醸し出したままサビに突入する。
甘く切ないサックスの音色が、バッキングと歩調を合わせてその魅力を存分に発揮する。
俺のギターも加わってはいるが、やはり補強の域を出ない。出てはいけないんだが。
あくまでもここはサックスがメロディを、ピアノがバッキングをそれぞれの持ち味を生かして奏でるところだから。
ギターが消え、サックスが雰囲気を保ちつつ、ピアノがシンプルな、しかし印象に残るフレーズを聞かせる。
そしてサックスが余韻をたっぷり残して消えると、ピアノが三度イントロ部分を奏でる。
今度はラストに向けたものでピアノの独壇場だから、潤子さんとしても神経を使うところだろう。
ラストを飾らないことにはこの曲の締まりがなくなる。これはどの曲にも言えることだが。
ピアノがテンポを自然な感じで落とす。次のフレーズが待ち遠しく感じる。
そんな中、ピアノが高音部で消え行く黄昏の光をイメージさせるに相応しいフレーズを優しく丁寧に奏でる。
高音部の甲高い響きが切なさを演出する。この曲のラストを飾るに相応しいフレーズと聞かせ方だ。
ピアノの響きが消えると、客席から拍手が徐々に大波となって押し寄せてくる。
見事。感想はこの一言で十分だ。
見える範囲の客の顔は、どれも感嘆と歓喜に溢れている。目が潤んでいる客さえ居る。
そりゃあれだけの演奏を聞けば涙腺が緩んでも仕方ない。歌詞がなくても聞き手の心を震わせることが出来るということの何よりの証明だ。
マスターがサックスのストラップから身体を引き抜き、潤子さんが椅子から立ち上がってステージ中央に並んで一礼する。
更に拍手が大きくなり、歓声も混じる。今までのラインナップの中で一番大きな反響なんじゃないだろうか?
この演奏の後に俺と晶子の「Mr.Moon」が控えているんだが、大丈夫だろうか?
ちょっと不安を覚えつつ、俺はギターをアコースティックギターに換える。
マスターと潤子さんが分かれてステージの両脇に降り、代わって晶子がステージに上がり、マイクスタンドの前に立つ。
晶子も不安を感じているかもしれないが、ステージに上がった以上泣き言を言っても始まらない。
今度は俺と晶子がマスターと潤子さんの演奏と同じ、否、それ以上のものを聞かせるという意気込みでいかないとな。
俺が前に進み出て晶子の方を見る。晶子は視線を感じたのか、俺の方を見て小さく頷く。
客席からは拍手や歓声は消え、俺達の方を中止しているのが分かる。
そうだ。今度は俺と晶子の番なんだ。俺は未だ残る不安を強引に吹き飛ばしてシーケンサの演奏開始のフットスイッチを押す。
1拍半のスネアのイントロが狼煙を上げる。俺と晶子はそれぞれのパートを歌い、奏でる。
晶子の声はウィスパリングが存分に聞いていて、「TWILIGHT IN UPPER WEST」とはまた違った切なさを感じさせる。
俺は歌につられないように、音のツブをはっきりさせると同時に晶子のコーラスをかき消さないように注意しながら、ギターを爪弾く。
流れ星を髣髴とさせるウィンドベルの音が駆け上がっていった後、俺が一人ギターを演奏する。
アコースティックギターならではの響きと音色を生かすように心がけながら、自分でも浸れるように切なく謳い上げる。
この日のために十分練習してきたんだ。大丈夫だ。晶子のコーラスを交えながら、俺はギターの音を店内いっぱいに響かせる。
再び最初のテーマを歌い、奏でる。
晶子の歌う歌詞は最初と一部違うが、ウィスパリングの効いた切ない響きに変わりはない。
俺はそれに負けじと、しかしコーラスを切り刻まないように優しくギターで歌う。
またギターの単独ステージになる。とはいっても晶子のコーラスが多少混じる。
それが優しさと切なさを存分に感じさせる。曲の雰囲気にぴったりの良いコーラスだ。
俺はそれで醸し出される雰囲気を壊さないように、あくまで丁寧に、そして優しくギターを奏でる。
短い間奏に入る。ここは原曲では変拍子が混じるんだが、4/4拍子にアレンジしている。聞き手が困惑しないようにするためだ。
アレンジと言っても一泊分伸ばすだけなんだが、するとしないとでは何となく違うように思う。原曲を何度も聞いて音をとったせいもあるんだろう。
これが終わるといよいよギターが本格的に忙しくなる。
間奏が終わるとギターのフレーズが複雑になる。フレット間の移動は激しく、弦を爪弾く力には微妙な加減が要求される。
優しい雰囲気は崩さず、メリハリを利かせるという難しいところだ。
流石にギタリストが作曲しただけのことはある。その人物が俺と同じ姓っていうのが何だか皮肉なような・・・。
原曲を知っている客は、やっぱり比較しているんだろうな・・・。
再び最初のテーマに入る。
晶子のコーラスが優しく神秘的に広がる。
俺はコーラスのフレーズにつられないように注意しながら自分のフレーズを奏でる。優しく、丁寧に、でも音のツブははっきりさせて・・・。
曲はヤマ場に突入する。
ギターのフレーズが再び複雑になる。俺は両手に神経を集中させる。左手はフレットの上を的確に移動し、右手は微妙な力加減を効かせて弦を弾く。
テンポキープも忘れちゃならない。ギタリストの腕が問われる部分だと個人的には思う。
曲が静かに盛り上がっていく。ギターを弾く手に熱が篭る。身体が熱い。
シーケンサの奏でる楽器音がうっすら聞こえる中、俺は懸命にギターを奏でる。
いよいよラストが近付いてきた。ギターのフレーズが艶っぽさを感じさせるようになる中、俺はひたすら両手の動きを注視する。
ラストだ。白玉の楽器音が流れる中、俺は駆け下っていく感じで何かを歌うようなフレーズを奏でる。
最後の一音まで手を抜かず、優しく丁寧に・・・。今日までの練習の成果を出し切るまで気は抜けない。
全ての楽器音が止むと、一気に大きな拍手と歓声が沸き起こる。指笛も飛び交う。
演奏は成功だったと実感しつつ、俺は晶子と共に客席に向かって一礼する。
拍手と歓声は益々大きくなる。それだけの演奏が出来たんだと思うと緊張感がひび割れてそこから充実感が湧き出してくる。
俺は小さく溜息を吐く。これくらいは許されるだろう。
「皆さん、しっとり聞かせる3曲に満足していただけたでしょうか?」
「最高ー!」
「文句なし!」
「喜んでいただけて何よりです。」
マスターがマイクを持ってステージに上ってくる。
「早いもので、このコンサートもいよいよ終わりが近付いてきました。最後はDandelion Hill夢のデュオ、井上さんと潤子による『Secret of my heart』、
そして今年唯一の四人総出による『COME AND GO WITH ME』をお聞きいただきます。その前に・・・大人気のヴォーカリスト、井上さんにちょっとインタビューを。」
おいおい、そんなことリハーサルじゃなかったぞ。まあ、俺のインタビューもリハーサルじゃなかったから、不意打ちによる面白さを狙ったものなんだろう。
俺は晶子から離れてステージ奥に引っ込む。客の視線は晶子に集中しているだろうから、この間にギターをエレキギターに換える。
マスターが晶子の傍に歩み寄る。晶子は戸惑っている様子だ。
そりゃ無理もない。俺だってインタビューなんて言われた時は戸惑ったし、まさか自分までインタビューをされるとは思ってなかっただろう。
思ったとしても、まさかそんなことは、と打ち消していただろう。さて、何を聞かれるのやら・・・。俺との関係を聞きやしないだろうな?
「井上さんは文系学部なんだよね。」
「あ、はい。文学部の英文学科に通ってます。」
客席から、ほう、という声が起こる。あの流暢な英語の歌い方の背景が分かって納得、といったところか。
「井上さんはこの店で初めて本格的に音楽に取り組んだって話だけど。」
「はい。中学校の音楽の授業以来だったので最初は右も左も分かりませんでした。」
「でも、去年に引き続いて見事なヴォーカルを披露してくれてるよね。」
「最初にステージに立った時は歌うだけで頭がいっぱいでしたけど、今は自分の歌声を聞いてもらえることそのものが楽しくて、嬉しいです。」
客席から拍手や歓声が起こる。この辺はファンが多い晶子ならではだな。
それにしても、晶子も本当にステージ度胸がついたもんだ。てっきり右往左往するかと思ってたんだが。
「ヴォーカルをやっていて気をつけていることってあるかな?」
「やっぱり風邪をひいたりして喉を痛めないように注意してます。練習でもつい歌い過ぎってことになってしまいがちなので、その辺は自制するように
しています。」
「自分の楽器は自分自身ですから、自身の健康管理が大変だと思います。これからも良い歌声を聞かせて下さいね。」
「はい。ありがとうございます。」
晶子がそう言って客席に向かって一礼すると、一旦止んだ拍手や歓声が再び大きくなる。
ステージに新たに人影が現れたことでそれがより大きくなる。晶子と一緒に歌う潤子さんがステージに上がったからだ。ファンにとっては感涙ものだろう。
去年でも大好評だったから今年も、とプログラムに組み込まれたわけだが、これを期待していた客も少なからず居る筈だ。
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