雨上がりの午後
Chapter 77 突然の怒声、そして慟哭
written by Moonstone
それから俺と晶子は当初の約束どおり晶子の家に向かい、中に入って一息吐くなり晶子の「尋問」が再開された。
俺は思っていたとおりのこと、即ちあと一歩というところで寝てしまったのは勿体無いことをしたと思うこと、そして勢いに任せて一線を超えなくて
良かったとも思うことを素直に言ったら、晶子は拍子抜けするほどあっさり納得した。
私もそう思ってたんですよ、という言葉をおまけして。・・・だったら尋問なんてするなよな。
旅行気分がまだ抜けない俺は、BGMが品良く流れる中、晶子が用意してくれた紅茶と−ちなみにラベンダーだ−お茶菓子を飲み食いしながら、
終わったばかりの旅行のことを話題に晶子と談笑していた。
晶子はやっぱりと言うべきか、俺と宮城の話し合いのことが今尚若干引っ掛かっていたらしく、俺に宮城とのことに区切りはついたのか、と
不安げに尋ねてきた。
勿論、俺としてはあの話し合いで二人共未熟ななりに−今は成熟したというわけじゃないが−精一杯恋愛をして、あの場ですっきり別れて、
「かつての」彼氏彼女であり、高校の同期という関係になったつもりだ、と言った。
もうわだかまりも消えたし、妙な感情を抱くこともなくなった、とも言った。
神妙な面持ちで聞いていた晶子は十分納得したようで、俺もひと安心した。
BGMに使っていたCDを晶子が別のものと交換して晶子が再び俺の隣に腰を下ろした時、流れ始めたBGMにプルルルル・・・、という軽やかな音が乗ってきた。
デスクの上にある電話のコール音だ。晶子はちょっと待ってて下さいね、と断りをしてから立ち上がって、電話の方へ向かい、受話器を取る。
「はい、井上です。」
そう応答した晶子の表情が少し変わる。驚いたような感じだ。
一体誰からなんだろう?胸が俄かにざわめき始める。
「・・・お母さん・・・。」
晶子が呟くように言う。電話の相手は晶子の母親らしい。
ちょっとほっとするが、同時に何で表情があまり明るくないんだろう、と思う。
まあ、俺も実家からの電話を嬉々として受けないから、人のことは言えないんだが。
「・・・うん。元気でやってる。・・・バイトは順調。皆良い人だから。」
どうやら近況を尋ねられているらしい。この辺は俺と同じだな。
子どもが自分の元を離れて元気に暮らしているかどうか気になるのは、どこでも同じなんだろう。俺は紅茶を口に運んで電話が終わるのを待つ。
「何言ってんのよ!!」
突然の怒声に俺は紅茶を噴出しそうになる。
見ると、晶子の横顔は明らかに、それも相当怒っている。一体何があったんだ?
「どうしてそんなに簡単に帰って来いなんて言えるのよ!!私に生き恥晒させるつもり?!・・・私がどんな思いをしたか、全然分かってないじゃない!!」
「・・・?」
「・・・そんなに言うなら、あの時を返してよ!!私から何もかも奪ったくせに!!・・・悪かったと思うなら、二度と帰って来いなんて言わないで!!
それが出来ないなら、もう二度と電話してこないで!!」
晶子は窓ガラスを震わさんばかりの怒声に続いて、受話器を本体に叩きつけるように置く。
肩で息をしながら受話器を持ったまま、険しい目つきで電話機本体を見詰めている。今までにも何度か晶子の怒った様子を見たが、
これほど凄まじかったのは初めてだ。
俺はティーカップを置いて晶子を見る。
暫く重い時間が流れた後、晶子はそれまでとは打って変わって酷く悲しげな表情で、重々しい足取りで俺の隣に座る。
その口は堅く閉ざされていて、開かれる気配はない。横顔は痛々しいほど悲しげで、見ているのが辛い。
だが、晶子の苦しみや悲しみを少しでも和らげたい。
「・・・晶子・・・。」
俺が呼びかけると、晶子はゆっくりと俺の方を向く。
その大きな瞳には哀情の水が溜まっている。懸命に泣くのを堪えているのが嫌でも分かる。それが余計に痛々しい。
少し見詰め合っていると、晶子の瞳に映る俺の顔が益々滲み、とうとう哀情の水が溢れ始める。
次の瞬間・・・晶子が俺にがばっと抱きついて大声で泣き始めた。
耳を劈(つんざ)くほどの大声で。
子どもみたいにわあわあと泣く晶子を、俺は黙って軽く抱き締めることしか出来ない。
あの電話は一体何だったんだろう?
晶子と母親の間に何があったんだろう?
帰ると生き恥を晒すことになるというのはどういうことだろう?
だが、今そんなことを尋問する程俺は無神経じゃないつもりだ。
今は気が済むまで泣かせてやろう。それだけしか出来ないが、それだけでも出来るならした方が良い。
泣き声が徐々に嗚咽へと変わり、至近距離で大きな泣き声を受けたお陰で機能不全に陥っていた左耳がようやく回復してきた。
どのくらい泣いていたのか分からない。だが、晶子が泣きたいだけ泣けたのならそれで良い。
俺は晶子の頭や背中をさすって俺の存在を示す。晶子、お前は独りで泣いてるんじゃないんだぞ。
「・・・御免なさい・・・。取り乱しちゃって・・・。」
嗚咽の合間を縫うように晶子の声が聞こえて来る。
その声は震えていて弱々しい。何時もの晶子の声とはとても思えない。
余程辛く、悲しいことがあったんだろう。
泣いたって仕方ない。泣ける時に泣けた方が良いってかつて言ったのは他ならぬ晶子自身だ。
俺は首を横に振って、頭や背中を擦り続ける。
こういう時は、下手に慰めようとしない方が良いだろう。
疑問は幾つかある。だが、今は思う存分泣いてもらって少しでも楽になったほうが良い。
俺の場合は自棄酒を飲みながら思い出の品を自分の手で引き裂き、潰し、壊した。晶子の場合はそれが大声で泣くのと等価だろう。
「・・・聞かないんですか?」
「何を?」
「私が何で電話口で怒って、そうかと思ったら大泣きした理由・・・。」
「・・・話せるなら話して良い。だけどそれが辛いなら無理しなくて良い。俺はそう思うから。」
俺が至近距離にある晶子の右耳に囁くように言う。
晶子は何も言わない。徐々に嗚咽が小さくなってくる。ようやく本当に泣き止み始めたようだ。
宮城の時もそうだったが、女に泣かれるのはやりきれない思いがする。
話すことで辛さや悲しさがぶり返してまた泣く羽目になるなら、心に留めておいた方が良い。
「・・・私、この町に来てから一度も帰省してないんです。」
「一度も、って・・・今のバイトを始める前、否、俺と出会う前もずっと?」
晶子は首を小さく縦に振って言葉を続ける。
「私、今まで帰省しないことについて色々言ってきましたけど・・・本当の理由は・・・もう実家に帰りたくないからなんです。
もっと踏み込んで言えば・・・親と顔を合わせたくないからなんです。」
「・・・それってもしかして・・・晶子の兄さん絡みのことか?」
俺は一歩踏み込んだ問いを投げかける。
俺と出会った時も、それから暫くも晶子は俺が自分の兄に似ていると言っていた。
晶子と両親の間に何か深刻な確執があったんじゃないだろうか?
晶子はそれで兄さんを相当頼りにしていて、大学進学を機に離れ離れになった寂しさの中で兄さんと似ているという俺と出会って、
俺に接近してきたんじゃないだろうか?
だが、その一方で晶子は以前、帰省しない理由として兄への依存を断ちたいとも言った。
・・・何やら頭が混乱してきたが、少なくとも晶子の兄さんが晶子にとって大きな存在だということには間違いないと思う。
「・・・そうです。」
晶子は俺の問いに短く答えてから言葉を続ける。
「私は兄が大好きでした・・・。でも親はそれを快く思わなくて、私と兄の間に大きな距離を作ったんです。私はそれに反発して
通い始めたばかりの大学を辞めて、実家から遠く離れた今の大学に入り直したんです。」
「だから俺より学年が一つ上の筈なのに、俺と同じ学年なのか。」
「ええ・・・。親も世間体を気にして、私の行動にストップはかけませんでした。今の住まいを勧めたのは親ですけど、お金は出すけど口は出さない、という
条件をつけて私はそれを受け入れたんです。」
晶子と兄さんとの絆は相当深かったんだろう。
しかし・・・兄妹が仲良くするのは良いことではあっても悪いことではない筈だ。
俺なんて弟としょっちゅう喧嘩してたから−理由は他愛もないことばかりだった−、一人しか居ない兄弟なんだからもっと仲良くしろ、と
親に説教されたもんだ。
なのに何で晶子の両親は晶子と兄さんを「強制隔離」したんだ?俺には理解出来ない。
疑問はまだある。
何で帰省することが生き恥晒すことになるんだ?
俺なんて今の大学、新京大学に合格したことを親に連絡した後、親戚中から進学祝がどかどか贈られてくるわ−当然の如く親が電話をかけまくったんだろう−、
近所中からお祝いの挨拶を受けるわで−これまた当然の如く親が仕事そっちのけで話して回ったんだろう−大変な騒ぎになった。
新京大学は世間一般でいうところの「超難関校」だから近所や親戚に自慢できても−自慢したところでどうなるものでもないが−、
少なくとも生き恥晒すことにはならないと思う。なのに帰省することで「生き恥晒させる」ことになるってのは一体どういうことだ?
それに、晶子が口にした世間体という言葉・・・。
単なる兄妹の「強制隔離」なら、親からの自立を即すためとか何とか言えば別に世間体を気にする必要はないだろう。
否、それ以前に、そんなことは世間体云々の話にはならないんじゃないか?
何だか晶子の言うことに矛盾というか、前後と噛み合わないものを感じる。晶子は俺に何か肝心なことを隠してるんじゃないか・・・?
・・・何考えてるんだ、俺は!俺が今晶子を信じなくてどうするんだ?!
相手に対して疑いをかけることは恋愛関係にマイナスにはなってもプラスにはならないということは、宮城との関係で学んだじゃないか!
「・・・要するに、晶子は大好きだった兄さんから引き離されて、それに反発して親元を離れて半ば絶縁状態になってるってことか?」
「・・・はい。」
「・・・仲良かった相手と離されるのは辛いだろうな。俺は正直よく分からないけど、仲良かった分だけショックは大きかったんだろうな。
だから、兄さんによく似てるっていう俺に近付こうとしたんだろ?」
「はい・・・。でも、これだけは誤解しないで欲しいんです。確かに最初は兄にそっくりな祐司さんに兄の面影が重なって、この人と仲良くなって
寂しさを紛らわせたいと思ってました。でも、少しずつお話したり、一緒のバイトをするようになったりするうちに、祐司さんと兄とは別人であって
兄の代わりじゃないことを悟って、それに祐司さんの優しさや真面目さを知って兄の代わりなんかじゃない、安藤祐司っていう一人の男の人を
好きになったんです。」
「俺が兄さんによく似てるからって理由で、晶子が俺をストーカーみたいに追いまわしてたのは分かってた。俺と兄さんを一緒にするな、
俺はあんたの兄さんじゃない、っていう気持ちと、宮城と別れた直後でささくれ立ってたことが重なって晶子を疎ましく思ってた時期はあった。」
「・・・ですよね。」
「でも、不慣れなことを懸命に習得しようと俺の乱暴な指導に食らいついてきたり、晶子と触れ合っていくうちに俺の中の晶子への気持ちは
確かに変わっていった。そして俺は井上晶子っていう一人の女を好きになった。これは今でも変わらない。だからっていうのも何だけど・・・俺は晶子を信じる。」
俺が自分に言い聞かせるようにいうと、晶子は俺に頬擦りを始める。
どんな表情をしているかは分からないが・・・多分安心してるんだろう。
信じるって言われて嫌に思う人間はそうそう居ないと思う。
晶子の頬の滑らかさを感じながら、俺は自然に口元が綻ぶのを感じつつ、晶子の頭や背中を擦る。
俺の中で晶子に対する新たな疑問が生じたのは否定出来ない。でも、それは今の関係を続けていく上で支障にはならないだろう。
否、支障になるようなことにしちゃいけない。
信じること。そんな簡単そうで実は難しくて、外部からの刺激に極めて脆いものを土台にしているのが恋愛なら・・・その土台を維持強化しなきゃならない。
それが今の俺に要求されていることだ。そう思う。
とんだことになったティータイムも終わり、程なく夕食の時間となった。
晶子の作った食事は文句なく美味かったが、晶子の口数は異様に少なかった。
俺は「大激震」が襲って間もない晶子の心情を察して、無理に話し掛けることはしなかった。
もっとも普段でも晶子が話し掛ける側の方が多いから、話し掛けようにも料理を誉めたりするくらいしか出来なかったが。
今日は旅行から帰って来て疲れも残っているし、俺もギターを持って来てないから練習はなし。
食事が終わってBGMが流れる中、俺と晶子は無言で寄り添っている。
寄り添っていると言うより、晶子が俺に密着してきていると言った方が良いか。
晶子は俺の肩に頭を乗せている上に、両腕を俺の左腕に絡めている。
斜め上方から見る晶子の表情には、明らかに普段と違う色が出ている。
「祐司さん・・・。」
晶子が話し掛けてくる。
晶子の方を向くと、その顔は俺の方を向いていない。
余程思い詰めているのか・・・?まだ昼の電話の件が頭に残っているのか?だとしても無理はないが・・・。
「何だ?」
「私のこと・・・これからも好きでいてくれますか?」
「ああ、勿論。それに晶子だって昨日だったか?俺が宮城と出くわして逃げるみたいに立ち去った時言ったじゃないか。離れろって言っても離れない、
離さないって・・・。晶子のその気持ちはどうなんだ?」
「変わりません・・・。」
「なら、何も心配しなくて良い。」
俺が出来るだけ優しい口調で言うと、晶子は俺の腕にしがみつくように両腕に力を込める。
これほど動揺というか、不安げな晶子は今まで見たことがない。
それだけ晶子の心は俺を最後の拠り所とでも思って懸命に離れまい、離すまいとしているんだろうか?
双方無言のまま時間だけが静かに流れていく。ふと時計を見ると11時を回っている。
普段ならまだ寝るには早いくらいだが、旅行の疲れが噴出してきたか、俺は眠気を感じて欠伸をする。
すると、晶子が俺からゆっくり離れて立ち上がる。
「お風呂、準備してきますね。」
「今日はシャワーだけで良いよ。晶子も疲れてるだろ?シャワーだけなら給湯のボタン一つで済むし。」
「良いんですか?」
「俺は全然構わない。晶子がそれで良ければの話だけど。」
「・・・じゃあ、すみませんけどそれでお願いしますね。」
晶子は再び腰を下ろす。俺に先に入ってくれという合図だ。普段でも風呂に入るのは俺が先だしな。
俺は徐に立ち上がってバッグの中からバスタオルとパジャマと下着を取り出す。民宿ででたらめに突っ込んだから、取り出すのにちょっと手間取ったが。
元々烏の行水を地で行く俺がシャワーだけなら尚更早い。
髪と身体を洗ってシャワーを全身に満遍なく浴びせてはい、終わり。
5分かかったかかからないかで俺は風呂場から出て、バスタオルで身体に付着した水分を拭って下着とパジャマを着る。・・・我ながら呆気ない。
リビングのドアを開けて中に入ると、晶子は所謂体育座りのように膝を曲げてそれを両腕で抱えていた。
俺が入ってきたことで顔を上げたが、それまでは膝に顔を埋めていた。・・・こりゃ余程重症だな・・・。
「お待たせ。」
「早いですね・・・。」
「普段でも俺の風呂は早いだろ?今日はシャワーだけなんだから尚更さ。」
「それじゃ私、行ってきますね・・・。」
晶子は何も持たずに部屋を出て行く。パジャマは持っていかないのか、と一瞬訝ったが、下着同様−前に脱衣場近くの棚を開けてその存在を知った−
洗ったものに着替えるつもりなんだろう、と考えれば納得はいく。
俺はBGMを聞き流しながら晶子が戻ってくるのを待つ。
晶子は風呂の時間が俺に比べれば長いから、ここはのんびり待っていよう。眠気がかなり表に出てきたが、まだ耐えられるレベルだ。
BGMが次々と変わっていく。遅いな・・・。
幾ら烏の行水の俺より風呂が長いとはいっても、今日はシャワーだけだからこれほど時間はかからない筈だ。
まあ、長い髪を洗うのにはそれなりに時間がかかるだろうけど・・・それにしても遅い。遅過ぎる。まさかとは思うが風呂場で転んだとか・・・?
俺が何度かめの欠伸をした時、ドアがキイ・・・と音を立てながらゆっくりと開き始めた。
やれやれ、ようやくお出ましか。さて、どんなパジャマを・・・?!な、何?!
姿を現した晶子はパジャマを着てなくて、バスタオルを身体に巻きつけているだけだ。な、何のつもりだ?
・・・その顔は切なげで思い詰めたものになっている。
俺は晶子を見たまま身体が動かない。声も出ない。
視線を逸らすべきなんだろう。服を着て来いと言うべきなんだろう。だが全身が固まった俺は何も出来ない。
「祐司さん・・・。」
晶子は呟くように言うと、バスタオルの端を突っ込んだ胸元に手をもっていき・・・バスタオルを取り払う。
蛍光灯の灯りに照らされて、晶子の水分を含んでしっとりした髪と、細いラインで、それでいて豊満な肢体を晒す。勿論、一糸纏わぬ姿で・・・。
固まったままの俺を切なげに、そして思い詰めた表情で見詰めながら、晶子は俺の元に歩み寄り、両膝を床につけ、俺にゆっくりと、
そしてしっかりと抱きつく。
「私を・・・抱いてください・・・。」
晶子の呟きに似た切なげな声が俺の頭に響く。
俺もそれなりの年齢だ。晶子の言葉が言葉だけの意味じゃないことくらい知ってる。
甘酸っぱい香りが鼻を擽る。さっきの言葉といいこの匂いといい、普段の俺だったら間違いなく晶子をベッドに運んで、ことを始めるだろう。
だが、今の俺はそんな気分じゃない。否、そんな気分にはなれない。
だって今の晶子は、言ってみれば・・・自棄酒飲んで絡んでいるようなもんじゃないか。俺は晶子を軽く抱き締めながら言う。
「晶子って・・・そんな女だったのか?」
「え?」
「何か嫌なことがあったら簡単に身体を許すような、そんな軽い女だったのか?」
俺は晶子の両肩を掴んで自分から引き離す。
晶子は戸惑っているような、何と言って良いか分からないというような顔をしている。俺は晶子の瞳を見据えて言葉を続ける。
「晶子と晶子の親の間に何があったのかは聞かない。兄さんと引き離されたのが何故なのかも聞かない。何か深い事情があったんだとは思う。
だけど聞かない。晶子は以前誰かに話せば少しは楽になるって言ったけど、俺は必ずしもそうだとは思わない。思い出したくない、
話したくないことだってあるはずだから。」
「・・・。」
「だけど、これだけは言える。俺が今、晶子を抱いたら今の晶子の心が癒されるとは思えない。単に俺に抱かれることで気を紛らわせることしか
出来ないと思う。それは・・・俺が望んでいる形じゃない。マスターと潤子さんじゃないけど、双方の気持ちが向き合って、本当に相手の全てが
欲しいと思った時にそうすべきだと思う。そうじゃないと・・・これから先、俺と晶子が顔を合わせれば、俺が晶子を押し倒すか、晶子が今みたいに
身体を投げ出すかどちらかの関係になっちまう。俺は・・・そんなの嫌だ。」
「・・・。」
「欲求に全て任せれば、俺はあれこれ言わずに待ってましたとばかりに晶子をベッドに運んでさあ開始、になるさ。でも、今の晶子を抱いたら、
晶子を単なる性欲処理の道具にすることと同じだと思う。そんなことはしたくない。そんなことにはなりたくない。だから・・・俺は今の晶子は抱かない。」
俺は言いたいことを言うと立ち上がって、床に落ちた晶子のバスタオルを取って後ろから晶子の身体に巻きつける。
前に持ってきたところで晶子の胸に触れたが、今はそんなことはさして気にならない。俺は晶子の両肩に手を置いて言う。
「この部屋は冷房が効いてる。このままだと身体を冷やして風邪ひいちまう。早く服を着てくるんだ。良いか?」
晶子は小さく頷いて立ち上がり、静かに部屋を出て行く。
俺はドアが閉まるのを見届けて「指定席」のクッションに腰を下ろす。
緊張感のせいか、眠気は殆ど吹っ飛んでしまった。
BGMだけが薄く室内に漂う。俺はそれを聞き流しながら晶子が戻ってくるのを待つ。
5分ほどして静かにドアが開いて晶子が中に入って来る。今度はベージュのパジャマを着ている。
それを見て俺の緊張感が一気に緩んで、代わりに眠気が噴出してくる。俺は何度目かもう忘れてしまった欠伸をして立ち上がる。
「・・・今日はもう寝るか。ちょっと早いけど。」
「はい・・・。」
晶子の表情からは悲壮感はかなり消えている。まだ不安はあるが、少なくともさっきのようなことはしないだろう。微かに頬も緩んでいたし・・・。
晶子がBGMを流していたコンポからCDを取り出して電源を切り、部屋の明かりを消す。
一転して暗闇に包まれた中、俺が先にベッドに入り、それに続いて晶子が入る。いつものスタイルだ。
俺が左腕を横に伸ばすと、晶子は俺との距離を詰めて肩口に頭を、胸に手を置く。これも何時ものスタイルだ。
俺は左腕を折り曲げ、晶子の頭にそっと置く。そして手櫛をするように晶子の髪に指を通しつつそっと撫でる。
まだ静まっていないかもしれない晶子の心を少しでも安心させたい。
すると晶子は、それこそ猫がじゃれ付くように俺に更に擦り寄って足を絡めてくる。これで喉をゴロゴロ鳴らせば完全に猫だ。
そんな子どもっぽいところを見て、俺は頬が緩む。そして晶子が顔を上げて上目遣いに俺を見る。
その表情も普段の晶子とは違ってどこかあどけない感じがする。
「祐司さん・・・。」
晶子が口を開く。その声にはもう思い詰めたようなものは感じられない。
どうやらもう大丈夫みたいだ。俺はようやく胸を撫で下ろす。
「私、祐司さんが私の彼で良かった・・・。」
「そうか?」
「だって祐司さんは、目の前で裸になった私を抱かないで、優しく諭してくれた・・・。祐司さんって、本当に真面目で誠実な人ですね。」
「・・・俺はいい加減な人間だよ。だけど・・・自分の言ったことや決めたことには忠実で居たい。俺は衝動的に、欲求に任せて晶子を抱きたくない。
だからそうした。それだけだよ。」
「そういうのを真面目って言うんですよ。」
晶子が上半身を起こして俺を見る。晶子の髪を梳いていた俺の指は、その動きに合わせて晶子の頬に達する。
それが気持ち良いのか、晶子は俺の手に頬擦りする。
「祐司さん・・・。今は・・・どうですか?」
「どうって・・・何が?」
「私が欲しいですか?」
単刀直入そのものの問いかけに、俺はしかし無言で頷く。
自分の気持ちに正直に身体が動いた。自棄酒を飲んで絡む酔っ払いと等価なさっきの晶子とは違って、今のいつもの晶子なら・・・それが欲しい。
まだ早い、という気持ちは微塵も感じられない。
晶子が俺に覆い被さるようになって、俺の顔の真上に顔を持ってくる。
俺の手はまだ晶子の頬に触れている。
俺と晶子が見詰め合ったまま、ゆったりと時間が流れていく。
「私も・・・祐司さんが欲しい・・・。」
闇の中に晶子の声が浮かんでは消える。だが、その甘い響きは俺の胸にはっきり届く。
俺の心のベクトルも晶子の心のベクトルも、互いの相手の方を向いている。
今なら・・・良いのか?
俺の心の中に一つの大きな疑問が湧き出す。
まだ早い。俺の心の中にもう一つの声が響く。
ついさっきまでまったく感じなったのに何で今になって・・・?
やっぱりこれで身体を求めるだけの関係になってしまうのが怖いからか?・・・多分そうだ、否、そうとしか思えない。
「だけど、まだ・・・止めておこう。」
「どうして?身体を求めるだけの関係になりそうだから?」
「ああ・・・。せめて1年・・・それが駄目なら俺が20歳になる日まで待ってくれないか?それからでも遅くはないと思う・・・。」
「・・・分かりました。じゃあ、今日のところは・・・。」
「キスだけにしておこう。」
俺の言葉が終わるか終わらないかの瞬間で、晶子の唇が俺の唇に重なる。
俺は目を閉じて、晶子の頬に触れていた手を晶子の頭に持って行く。
晶子は俺の両肩に手をかけて舌を差し入れてくる。
俺は迷うことなく口を開いて晶子の舌を受け入れ、晶子と文字どおり濃厚なキスを交わす。
途中何度か息継ぎをしながら、次第に呼吸を荒くしながら、舌を互いの口の中に行き来させ、絡ませ、吸う。
これだけでも身体が熱くなってくる。俺と晶子の激しいキスのダンスは延々と続く・・・。
Fade out...
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