雨上がりの午後

Chapter 73 過去と現在(いま)の交錯

written by Moonstone


 昼前に俺は晶子に起こされた。何時の間にか眠っていたらしい。
やっぱり疲れが溜まってたのね、と潤子さんに言われた俺は、そうみたいですね、としか言えなかった。
心の疲れは身体の疲れになって現れるみたいだな。
 俺は寝起き間もないことでちょっと頭がぼうっとしたが、それも程なく収まったので、マスターと潤子さん、それに晶子と一緒に昼食を食べに食堂へ向かった。
その頃には気分も随分楽になっていた。
朝食に刺身を加えたような昼食を食べ終わり、30分ほど部屋で休んだ後、全員揃って海に向かった。
その前にマスターと潤子さんが着替えをするということで俺と晶子が締め出されたことは止むを得ないだろう。
 昼過ぎの浜辺は昨日と同じかそれ以上の混雑ぶりだった。
俺と晶子は防波堤からの見晴しで目測した位置を頼りに、マスターと潤子さんを朝確保した場所へ案内した。
場所はきちんと確保されていて、クーラーボックスの中身もきちんと残っていた。やっぱり世の中、まだまだ捨てたもんじゃない。
 俺達一行は少しの間、ビーチパラソルが作る濃厚な黒い影の下でくつろぐことにした。
別に相談して決めたわけじゃなくて、成り行きでそうなったという感じだ。
それに最高潮に達した熱気と強烈な陽射しの下にいきなり繰り出そうという気にはなれない。
昨日は海へ来たのが久しぶりということもあって行こうとなったら即飛び出したが、二日目の今日は余裕というか、行き交う人々を高みの見物と
洒落込もうという気が強い。
 俺は時折視線を左右に動かして様子を窺う。何時あの集団が宮城をつれて再び「襲撃」してくるか分からないからだ。
とはいってもこの混雑じゃ、人波に紛れて気がついた時には手遅れ、という可能性が高い。出来ることならマスターと潤子さんには見られたくないんだが・・・。
 何時「襲撃」して来るか分からない不安が、時間が流れていく毎に肥大してくる。こうなったら「来襲」の前に「避難」するのが一番だ。
俺は立ち上がってマスターと潤子さんに告げる。

「俺、海へ行ってきます。」
「午前中具合が悪くなったのに、大丈夫なの?」
「もう平気ですよ。十分休みましたし。」
「あ、じゃあ、私も行きます。」
「二人の方が安心だな。祐司君も井上さんを置いて行くわけにはいかんだろ?」
「そりゃあ・・・勿論ですよ。」
「行きましょ、祐司さん。」
「ああ。」
「行ってらっしゃい。具合が悪くなったら直ぐ戻ってきなさいね。」
「「はい。」」

 俺と晶子はジャンパーを脱ぎ、ごく自然に手を取り合って人波を掻い潜りながら海へ向かう。
そうだ・・・。今、俺には晶子という彼女が居るんだ。
宮城のことは昔のこと。今は今を大切にするべきだ。何時までも過去に振り回されてちゃ駄目だ。
・・・とは分かっちゃいるけど、いざ宮城を前にすると宮城の未練を断ち切れないで自分の心に暗雲を広げる自分が居る。
やっぱり宮城と顔を合わせないようにするのが一番だろうな・・・。
 浜辺に隣接する波打ち際は人でいっぱいだが、胸まで海水に浸かるくらいの場所へ行くと極端に人影は減る。
足が海底につかないくらいのところまで行けば、それこそプライベート・ビーチ気分を満喫出来る。
俺と晶子は浜辺周辺の人ごみを抜けて、二人きりが存分に味わえる沖の方へ泳いで向かう。

「やっぱりこの辺になると人は少ないですね。」
「普通は浜辺や砂浜で遊ぶからな。海水浴って言っても浜辺や砂浜で遊ぶのが殆どで、本当に泳ぐ奴なんてそうそう居ないさ。」
「泳ぐのって気持ち良いし、人も少ないからゆったり出来るのに。」
「溺れる危険もあるし、さっき言ったけど、海水浴だといって泳ぎに来る奴なんてそうそう居ないだろうからな。」

 それに宮城もまさか此処に俺がいるとは思うまい。
そう言おうとしたところで俺は慌ててその言葉を飲み込む。晶子に俺がまだ宮城のことにこだわってると思われたくないからな。
 海水が絶え間なく小さく揺れて、その度に横っ面を軽く叩かれる。
音といえばそのくらいのもので、浜辺から聞こえて来る音は横っ面を叩く海水の音より小さくて、ラジオの雑音か録音された雑踏を
遠いところから聞いているように思える。

「祐司さん。また、潜りっこしません?」
「よし、やるか。」
「今度は昨日より深いところまで行きましょうね。」
「そんな深くまで潜れるのか?」
「私について来れたら、の話ですけど。」

 晶子が珍しく挑発じみたことを言って、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
貴方に出来るかしら?と言っているように思える。むっとなった俺は言う。

「だったら実際に証明してやるよ。」
「じゃあ、『せーの』で潜りましょう。・・・せーの!」

 晶子はそう言うと大きく息を吸い込んで海に潜る。俺も遅れまいと息を最大限吸い込んで潜る。
長い髪を海藻のように漂わせる晶子と向き合った瞬間、俺の手が晶子に掴れて、俺は晶子に引っ張られる形で潜っていく。
 海に潜れば波の音もなく無音と言って良い。
優に20mはあろう深さの先に見える光景は青の濃淡を主体としたもので、群青色の世界と呼ぶにふさわしい。
此処が水面を隔てただけの同じ地球だとは思えにくい。
見ていると奈落の底に吸い込まれていくような、少し恐怖が混じった神秘的な感覚を覚える。
 晶子は俺の手を引きながら足をふわりふわりと上下に揺らしてゆっくりと潜っていく。一体何処まで潜る気なんだ?
段々耳の奥から圧迫感が伝わってくる。成る程、ついて来れたらの話だと晶子が言った理由が分かった。
晶子の奴、潜水に相当慣れてるんだ。素潜りでこれだけ潜れるなら、あの挑発じみた言葉にも納得がいく。
ふと見上げると、青白く輝く水面が遠くに広がっている。多分10mくらいは潜ったな・・・。
耳の圧迫感に加え、胸にも締め付けられるような感覚を覚える。
まさかこんなに潜るとは思っていなかっただけに、俺はただ晶子に引っ張られるしかない。
 と思ったら、晶子は潜るのを止めて俺を自分の方に手繰り寄せる。
無音の青の世界の中で俺は晶子と向かい合い、そしてぐいと抱き寄せられ−晶子の細い華奢な腕の何処にそんな力があるのかと思うくらい−、
唇を晶子の唇で塞がれる。そして例によって例の如くと言うか、舌が俺の唇を割って歯をノックする。
 俺が口を開くと、晶子から空気が吹き込まれてくる。
締め付けられるような感覚の上に長時間の−晶子にとっては多分短時間だろうが−潜水でちょっと苦しくなってきたんだが、
その息で俺の肺が空気で満たされる。そして胸を締め付けられる感覚が弱まる。
俺はそのお返しにと息を送り返すが、その度に肺が圧迫されるような気分が強くなってきて息苦しく感じる。
早く息を送ってくれないと窒息しそうな感じだ。
だが、晶子はいたってゆったりとしたテンポで呼吸を返してくる。それでようやく救われたような気がする。
 でも、息を吹き戻す度に襲ってくる胸の圧迫感はかなりのものだ。昨日みたいに水中での口移しに浸っている余裕は殆どない。
何度目かの「吸引」で俺は我慢の限界に達して、こちらはすっかり浸っている様子の晶子の肩を叩いて親指を縦に向けて上に行きたいと合図する。
晶子は唇をそっと離して頷き、俺の手を取ったままゆっくりと浮上していく。俺は急いで浮上しようとするが、晶子が首を横に振って制する。
そういえば深く潜ったところから一気に浮上すると潜水病とかいう厄介な病気というか症状になるって聞いたな・・・。
俺は苦しさを堪えて浮力に任せて白く輝く水面へと向かう。
 水面に出たところで、俺はまず最初に酸欠気味だった全身に荒い呼吸を繰り返すことで酸素を行き渡らせる。
晶子は太陽光で煌く髪を後ろにやりながら、平気な顔で浮かんでいる。

「ま、晶子。お前、苦しくないのか?」
「いいえ、特には・・・。」
「肺活量の・・・違いか。・・・それにしても、あんなに・・・深く潜れるなんて凄いな・・・。」
「昔から潜水は得意な方なんですよ。それに歌を歌うようになって肺活量が増したのか、思ったよりも深く潜れました。」

 な、成る程・・・。ヴォーカルの指導の時に喉からじゃなくて腹から声を出すようにって口煩いほど言ったからな・・・。
俺はギターだから指先の動きが良ければそれで良いから、肺活量なんて関係ないんだよな・・・。
こんな形でそれぞれのプレイヤーとしての「特徴」が出るとは思わなかった。

「御免なさい。祐司さんのことまで頭が回らなくて・・・。」
「気にしなくて良いよ。・・・こんなことじゃ、人魚姫に海の城に連れて行ってもらうにはちょっときついな・・・。」
「王子様を案内するつもりが窒息させたんじゃ、駄目ですよね。まだ王子様を救う人魚姫には遠いですね、こんなんじゃ・・・。」
「考えてみれば、童話の世界じゃ女の方が何かと強いよな。色んな面で。俺はもっと鍛えなきゃ駄目だな。折角の幸運を逃しちまうから。」
「お話と現実とは別物ですよ。私がちょっと調子に乗り過ぎただけですから、祐司さんが気にする必要なんて、それこそないですよ。」
「・・・何かと晶子に救われてばかりだな、俺って。」

 昼前の宮城との遭遇の時といい、さっきの水中口移しといい、俺の不甲斐なさばかりが目立つ。
こんなことじゃそれこそマスターが宿で言ってたように、晶子の尻に敷かれちまうな。もっとしっかりしなきゃ・・・。

 それから暫く俺と晶子は、人の少ない沖合いで泳いだり、海水をかけ合ったり、潜って水中口移しをしたりして−全身が水に隠れる程度のところでだが−
存分に海水浴を堪能した後、一旦浜辺に戻ることにした。
身体もちょっと冷えてきたし−空気は熱いといっても海水はそれ程熱を含んでない−、丁度良いだろう。
俺と晶子は手を繋ぎながらゆっくり泳いで浜辺へ向かう。
 人で混み合うところまで1メートルくらいになったところで、俺と晶子は泳ぐのを止めて底に足を着いて立ち上がる。
丁度腹まで水に浸かるくらいの位置で、歩いていくのにもそんなに支障はない。手は繋いだままで進んで行くと、徐々に水面が足元まで下がっていく。
前の人垣を避け、左右に行き交う人波を抜けて、ビーチパラソルの配色と大まかな所在地の記憶を頼りに、マスターと潤子さんが待っているだろう
待ち合わせ場所へ向かう。
それにしても凄い人ごみだな・・・。この辺じゃ海水浴場は此処しかないんだろうか?
まあ、遠出してまで海水浴、とはなかなか思いつかないんだろうが。
人波の向こうに見覚えのある風景とビーチパラソルが見えてきた。どうやら歩いてきた方向は間違いなかったようだ。
俺は少しほっとした気分を覚えながらビーチパラソルの方へ向かう。勿論、晶子と手を繋いだままだ。
こんな人波の中で手を離していたらあっという間に引き離されてしまいかねないし、第一晶子目掛けてナンパ男が飛びついてくるに違いない。
 ようやく人波を抜け、マスターと潤子さんとの待ち合わせ場所であるビーチパラソルのところへ辿り着く。
お待たせしました、と言おうとした瞬間、俺は全身が硬直してしまう。
待ち合わせ場所には勿論、マスターと潤子さんが居た。
それだけなら良いものの・・・宮城とその友人達まで居るじゃないか!一体どういうことだ?!

「お帰り、祐司。」
「・・・何で貴方が居るんですか?」
「居ちゃ悪い?ちゃんと此処の人の許可は得てるわよ。」
「マスター?潤子さん?」

 晶子が眉を吊り上げて宮城とその友人達の奥に座っているマスターと順子さんの方を向く。
その視線に気迫というか恐怖を感じたのか、マスターは笑って誤魔化している。
笑って誤魔化している−正直かなり変だが−マスターはさておき、潤子さんは悠然としている。何か悪いことをしたかしら?と言われているようだ。
何でこいつらに居て良いって許可したんですか?!マスター、潤子さん!

「い、いやね、俺と潤子が来て少ししてこの娘(こ)達がやって来てね。何でも祐司君と話がしたい娘が居るから待たせてもらえないか、って頼まれて・・・。
別に断る理由が思いつかなかったから居て良いよって言った次第なんだ、はは。」
「もしかして祐司君、この娘達に居られると困ることがあるとか?」
「・・・困るも何も・・・。」

 俺はそれ以上どう言って良いか分からない。
宮城とその友人達の目的は俺は勿論、晶子も嫌でも分かる。マスターと潤子さんにはこの場に居ることを拒否して追い払って欲しかった。
だが、マスターと潤子さんは俺とこいつら、特に宮城と関係があることなど知る由もないから、居る許可を与えたことを責めることは出来ない。
もどかしい気持ちが俺の胸の中でモヤモヤと漂う。
 宮城は友人達に守られるように−客観的に言えば宮城が一番可愛い−膝を抱えて座って俺を見ている。
一見無表情にも見えるが、その黒い大きな瞳が切なげに俺に何かを訴えているように思えてならない。
そんな目で見るな・・・。
俺は宮城から視線を逸らす。

「困るどころの話じゃありませんよ、潤子さん!」

 横に居た晶子が何時になく強い口調で潤子さんに言う。潤子さんは意外そうな表情で晶子を見る。
まさか事態が只事ではないとは思わなかったんだろう。それに潤子さんは普段おっとりしてるからな・・・。

「怒られても事情が分からないんだけど・・・。この娘達と祐司君って、どういう関係なの?」
「・・・俺の高校の同期です。そのうち一人は・・・。」

 俺は言葉に詰まる。だが、これ以上晶子の「援護射撃」を受けるようでは男が廃る。俺とこの女の中の一人との関係をはっきり言わなきゃ・・・。

「・・・以前、俺と付き合っていた相手なんです。」
「ええ?!そうだったの?!」
「そうだったの、じゃないですよ、潤子さん!この女性(ひと)こそ祐司さんの気持ちを弄んで捨てた挙句に今更よりを戻したいなんていう、
とんでもない女性なんですから!」
「ちょっと。人聞きの悪いこと言わないでくれる?」
「事実を言って何が悪いんですか?」

 立ち上がった宮城と晶子が厳しい表情で睨み合う。まさに二人の間で火花が散っているという表現が相応しい状態だ。
でもこの様子を見ると火花なんていう生易しいもんじゃなくて、爆弾が爆発していると言った方が良い。

「・・・そんな事情があったなんて知らなかったわ・・・。」
「マスターと潤子さんは知らなくても無理ないですよ。本物を見るのはこれが初めてでしょうし、まさか以前俺が話した、俺をふった相手だなんて
思いもしなかったでしょうから・・・。それより宮城。」
「何?」
「俺とお前の間で話すことはもうない筈だぞ。」
「言ったじゃない。私の中では終わってないって。」
「お前がどう言い訳しようが、お前があの夜の電話で別れを仄めかして、実際お前は別の男と付き合った。時間の長い短いは問わず。
それが俺をふったという以外、どう言えば良いんだ?一事の気の迷いとでも言いたいのか?」
「・・・それは・・・軽率だったと思ってる。でも、その人とは何もなかったわよ。一緒にお茶したり、映画見に行ったくらいだから。」
「付き合いの浅い深いも関係ない。俺以外の男と付き合ったって事実は変わらないだろうが!それを何だ!友人連れて俺を待ち伏せまでしやがって!
何処まで身勝手なんだ!」
「・・・。」

 宮城は何か言いたいが言葉が見つからないといった表情で視線を俺から逸らす。或いは俺と目を合わせるのが辛いのか。
だが、此処で下手な情けは禁物だ。終わった関係はもう修復出来ないんだから。
伏目がちになった宮城を見るのは、たとえ切れた相手であっても辛いものがある。これ以上、気分と思い出を薄汚れた色で汚したくないから・・・。

「・・・行け。話すことがない以上、お前達が此処に居る理由はもうない筈だ。」
「ちょっと待って、安藤君。」

 宮城の友人の一人が慌てた様子で口を挟んでくる。

「何だよ。」
「確かに優子のやったことは安藤君を傷つけたってことは分かる。優子が安藤君以外の男と付き合ったことも分かったし、それは安藤君にしてみれば
許せないことだってことも分かる。」
「だったら何だ?」
「ただ・・・少しだけでも良いから・・・せめて二人で話を出来る時間を与えてあげて頂戴。このままじゃ優子が可哀相だから・・・。」
「あたしからもお願い。安藤君の気持ちは分かるつもりだけど、優子に少しでも良いからけじめをつける時間をあげて。」
「「「お願い。」」」

 宮城の友人達は声を揃えて懇願する。これ以上優子に俺との関係を修復する猶予を与えるつもりか?
そんなことをしたところで、俺の気持ちはもう変わらない。変わりようがないんだ。何でそんなことが分からないんだ?こいつらは。
 俺が黙っていると、友人の一人が言う。

「今夜8時。場所は此処から北に行ったところにある漁港傍の灯台。もし少しでも優子と話をしてあげる気が出来たら、来て頂戴。
そこに優子を待たせておくから。」
「来る来ないは安藤君次第。結果がどうなっても、あたし達は安藤君を責めたりしない。勿論優子にもそうさせない。それでどう?」
「・・・勝手にしろ。」
「それじゃ、あたし達はこれで・・・。どうもお邪魔しました。」
「「「お邪魔しました。」」」
「あ、ああ。」
「ええ、さようなら。」

 宮城の友人達は口々にマスターと潤子さんに頭を下げて、俯いたまま頭を下げた宮城を連れて人波の中に消えていく。
姿が完全に見えなくなったところで、俺と晶子はマスターと潤子さんと向き合う形で腰を下ろす。

「・・・い、井上さん、目が怖いぞ・・・。」
「そう見えますか?なら、私の気持ちが目に出てるってことですね。」
「知らなかったんだよ。まさかあの娘達が祐司君の同期で、その内の一人が祐司君の前の彼女だなんて・・・。」
「・・・晶子。マスターと潤子さんは宮城の顔を知ってる筈がないんだから、責めるのは止めるんだ。マスターと潤子さんに罪はない。
知らなかった以上、仕方なかったんだ。」
「・・・御免なさいね、祐司君。事情を知ってたら追い返してたところだけど・・・。」
「祐司君、悪かった。」
「マスターと潤子さんは悪くないです。知らなかったんですから・・・。」
「でも、知らなかったとはいえ、訳ありげな娘達を居させるなんて・・・」
「晶子。仕方ないだろ?知らなかったんだから。」

 俺は未だ許せないと言わんばかりの晶子を制する。
話をしたいといってもまさかよりを戻したいっていう話だなんて分からなくても無理はないし−分かったら大した推理力だ−、
ましてやその中の一人が俺の前の彼女だなんて思いもしなかっただろう。マスターと潤子さんを責めるのはそれこそ可哀相だ。
 今夜8時、此処から北に行ったところにある漁港傍の灯台。そこに行くかどうかは確かに俺次第だ。
無視しても構わない。だが・・・何とも言えないが心に引っ掛かるものを感じる。
話をする時間、けじめをつける時間、か・・・。
あの時の俺には、そんなもの少しも与えられなかったっていうのに・・・。それを要求されるなんて皮肉な話だ、まったく・・・。

 その日の夜、新鮮な魚の刺身や揚げたてのフライを昨日同様たっぷり味わった後−俺としてはもっと脂っこいものが良いんだが、
場所が場所だけに仕方ないか−、俺達一行は部屋に戻った。
その時点で時間は7時を過ぎていた。「約束の時間」とやらまであと1時間を切ったわけだが・・・。
 正直な話、俺は迷っている。
宮城とよりを戻すつもりはさらさらないし、どう懇願されても出来ない相談だ。
だが、妙な思惑が生んだ誤解と−そう解釈されても仕方ないと思うが−すれ違いで関係が終わってしまったことに何らかの区切りというか、
けじめをつける時間を与えてやっても良いんじゃないか?そんな気もする。
だが、こんなこと晶子には言えないし・・・。
 二つの部屋を仕切る襖は開け放たれていて、昨日と同じように二つの部屋に一組ずつ布団が敷かれてある。
部屋を仕切るものがないから、俺達はそれぞれの格好で寛いでいる。
晶子は荷物を整理していて、潤子さんはお茶を飲み、俺とマスターは横になって肘を立てた手を枕にしてテレビを見ている。
もっとも俺の場合、テレビの画像も映像も全く頭に残らない。
あのことが頭にこびりついて離れなくて、時折小さな溜息を吐きながら「約束」をどうするかを巡って、頭の中で肯定派と否定派が
激しくぶつかり合っているのを傍観するだけだ。
 そうしている間にも時間だけは過ぎていく。
ふと腕時計を見ると「約束」の時間まで10分を切っていた。
無論、俺の頭の中では未だ肯定派と否定派が血みどろの死闘を演じている。
こんな闘い、援軍なしで決着がつく筈もない。両軍全滅で翌日を迎えるのが関の山だ。

「祐司君。行ってあげたら?」

 不意に「援軍」が入る。
肯定派が勢いづくかと思いきや、突然のことで両軍入り乱れて大混乱を起こしてしまっている。
荷物の整理を終えて潤子さんと一緒に茶を飲んでいた晶子が目の色を変えて潤子さんを睨む。その気持ちは一応分かるつもりだ。

「潤子さん!何言い出すんですか?!それこそあの女性の思う壺じゃないですか!」
「祐司君の心は決まってるんでしょ?せめてお別れの時間くらい与えてやっても良いんじゃないかな、って。」

 お別れの時間、か・・・。
あの夜の電話で俺と宮城の関係が切れたのは−宮城に言わせれば誤解されてしまったということだが−時間にすれば10分あったかなかったかくらいだ。
それもほぼ一方的。俺には懇願する猶予はなかった。もうないと思ったのもあるが。
それなのに女の場合だけ時間に加えて場所のセッティングまでさせて良いのか?
・・・何だか腹が立ってきた。

「もう祐司さんとあの女性との関係は終わったんです!今は私が祐司さんの彼女なんです!譬え少しの時間であっても、昔に戻らせるなんて許せません!」
「晶子ちゃんの気持ちは分かるわ。」
「だったら・・・!」
「でもね、このまますれ違いのままで後味悪く終わるよりは、双方合意の上でさっぱりと別れたほうが良いんじゃないかな、って思うのよ。
祐司君の心の為にもね。」
「「・・・。」」
「祐司君は恐らくだけど、心の整理の目処が立ったところで出くわして早速よりを戻したいなんて言われて混乱してると思うの。
それに前の彼女も、優子とか言ってたわね?あの娘も自分のやったことの浅はかさと祐司君に誤解されたままじゃ、まあ、それが誤解されても
仕方なかったものだと思うけど、そのままじゃ祐司君のことを思い出には出来ないんじゃないかしら?」
「・・・祐司さんに心の整理をさせるためにも、あの女性のけじめをつけさせるためにも必要だ、って潤子さんは言いたいんですか?」
「要約すればね。勿論、私は祐司君に行きなさいって言える立場じゃないことは分かってるわよ。ただ、昼間のあの険悪な雰囲気のままで、
尻切れトンボのままで終わっちゃって、祐司君がそれで納得出来るのかなって思うの。」

 潤子さんの言うことには一理ある。
確かに昼間の別れ方はそれこそ切れない包丁で切った野菜みたいに繋がっているようでいないような、しっくり来ないものだった。
あれが宮城との最後の瞬間となってこれから俺の心の中に残るのかと思うと、何だかもどかしいような、モヤモヤした気分を感じる。
 潤子さんの冷静且つ筋の通った話に、晶子も反論出来ないらしい。
もう一度さり気なく腕時計を見ると、「約束」の時間まであと5分もなくなっている。
別に俺が遅れても、それこそ行かなくても宮城の友人達は俺を責めたりはしないと言っていた。優子にもそうさせないと言っていた。
だけど・・・。

・・・。

「・・・散歩、してきます・・・。」

 俺は徐に立ち上がってそう言う。晶子はまさか、というような顔をしている。
その視線に絶えられない俺は、晶子から視線を逸らして部屋を出る。
心なしか足が重い。頭の中では否定派の残党が最後の力を振り絞って戦っているという状態だ。
その戦いももう直ぐ終わるだろう。否、終わらせられると言った方が良いか。
 晶子は追ってこない。諦めたか潤子さんに止められたか・・・。
どっちにしろ、俺を「援護」してくれる人は誰も居ない。俺一人で臨まなきゃいけない。
「約束」の場所で宮城と本当にさよならする為の儀式に・・・。

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