雨上がりの午後
Chapter 71 愛し合った後の朝の風景
written by Moonstone
俺の意識が闇から浮かび上がってくる。
目の前が徐々に黒から白に変わり、そして木目模様がある天井へと変わる。身体が妙に重いと思ったら、晶子が俺の上で俺の首に両腕を回したまま眠っている。
すーすーという規則的な寝息が耳に入ってくる。
俺はというと、やはり晶子の身体を抱き締めたままだ。抱き合ったまま寝てしまったってわけか・・・。
こんな形で二人の朝を迎えるのは勿論初めてだ。ちょっとした気恥ずかしさと共に嬉しさと幸せな気分が込み上がって来る。
幾ら何でも俺が身体を動かして晶子を起こすのは気が引ける。このまま晶子が目を覚ますまでじっとしていることにするかな・・・。
その方が俺としても良い感触が味わえて嬉しいし。
波の音は殆ど聞こえてこない。夜が明けて人や動物が動き始めると、自然の音は案外あっさりかき消されてしまうものらしい。
そう言えば、普段目覚ましの喧騒でようやく目を覚ます俺が自然に目を覚ますなんて滅多にないことだ。
でも晶子と一緒に居るときは割と自然に目が覚めることが多いような気がする。「晶子効果」ってやつかな?
「ん・・・。」
晶子が小さい寝言と共に首を動かす。自然と晶子の唇が俺の頬に触れる。思わぬ「プレゼント」に俺の胸が高鳴る。
夜にあれだけ激しいことをしたっていうのに、夜が明けたら頬への偶然のキスだけでこんなにドキドキするなんて・・・。
このままずっとこうしていられたら、と思っていたら、晶子の唇が俺の頬から離れる。それから少しして晶子がむくっと体を起こす。
乱れた髪が頬を覆い隠していて、何だか幽霊を思わせる。
すると晶子は俺の首に回していた右手を俺の首と布団の隙間から取り出して、右側、左側の順で髪を背中に回す。
左手は俺の首に回ったままだから、至近距離で雌豹が獲物を押さえつけたような悠然とした光景を見たような気がする。
「・・・おはよう、晶子。」
「おはようございます、祐司さん。」
こんな至近距離で交わす朝の挨拶というのは、心をざわめかせる。夜の出来事が鮮明に思い出されて、身体が熱くなってくる。
もう一度晶子を抱き締めて態勢を反転させたい衝動に駆られる。だがどうにかそれを抑える。
朝っぱらから夜みたいなことをしたら絶対にマスターと潤子さんに突っ込まれる。
マスターと潤子さんと言えば・・・昨日襖一枚挟んだ向こう側で随分大胆に一戦交えていたが、今は全く物音は聞こえてこない。まだ寝てるんだろうか?
まあ、あれだけ派手にやったら朝の訪れにも気付かずにぐっすり熟睡、というのも無理はあるまい。朝食は確か8時だったっけ。今何時だろう?
「晶子。今何時か分かるか?」
「えっと・・・ちょっと待って下さいね。」
晶子は身体をもぞもぞと前にずらしていく。
恐らく枕元においておいた俺の腕時計を見るためなんだろうけど、こうやって密着した状態で動かれると・・・その・・・何と言うか、
はっきり分かるんだよな。晶子の身体の凹凸が・・・。
「・・・7時半をちょっと過ぎたところですね。」
「まだ時間はあるな・・・。隣は戦いに疲れてぐっすりお休みってところか?」
「多分そうですよ。・・・ねえ、祐司さん。ちょっと覗いてみませんか?」
晶子が小声で大胆なことを言い出す。
聞いた瞬間は確かに俺は驚いたが、襖の向こうがどんな状態なのか、興味が膨らんでくる。
裸でぴったりくっついて寝てるか?意外と一線終えた後で服を着て、何事もなかったかのように寝ているかもしれない。
「面白そうだな・・・。よし、覗いてみようか。」
「やっぱり祐司さんも興味あるんですね。」
「何と言っても、昨日の俺と晶子の火付け役だからな。」
俺がそう言うと、晶子はぼっと頬を赤らめる。夜の自分の乱れ具合を思い出したんだろうか?
あの時はお互い頭のブレーカーがぶっ飛んでいたから、隣ほどではないにしてもかなり大胆な行動に出た。
頭が冷えた今思い出すと、やっぱり何とも言い難いものがあるんだろう。俺だってそうだしな・・・。
晶子は頬を赤くしたまま俺から離れて、さっさと浴衣を調えると音を立てないように四つん這いになって襖の方へ向かう。
俺もそれに倣って、出来るだけ音を立てないように襖へと向かう。
果てさて、どうなっているやら・・・。俺の頭の中で様々な状況が浮かんでは消える。妄想機能は早くも機能全開らしい。
男って生き物はこういうことに敏感なんだが、女の方も結構敏感なようだ。隣の様子を覗いてみようと言い出した晶子もそうだが、
宮城も二人きりの時には結構大胆なことを言ったりしたっけ・・・。
俺と晶子は襖にそっと耳を当てて、向こう側の様子を伺う。
音は何も聞こえてこない。まあ、夜のあの音が朝っぱらから聞こえてきたら、あの二人の頭の中を疑わざるを得ないが。
音が聞こえてこないことを確認して、俺は晶子と顔を見合わせて小さく同時に頷く。これからすることは只一つ。向こう側の様子を覗き見ることだ。
襖が閉じられた場所に近い俺は、念のためと逸る自分の心を静めるために人差し指を唇の前に立てる。晶子は真剣そのものの表情で小さく頷く。
俺は心臓がバクバクいうのを感じながら、音を立てないように襖をほんの少し、黒目の部分が入るくらい開ける。
そして緊張で生唾を飲んで、出来た襖の隙間から向こう側を覗いて見る。
だが、隙間が狭過ぎてはっきり見えない。布団があって、それが盛り上がっていることくらいは分かるんだが・・・。
「よく見えないですね。」
俺の下側に潜り込むようにして覗き込んでいた晶子が小声で言う。もう少し開けないと部屋の様子は見えそうにない。
俺はもう一度襖に手をかけて、蝸牛(かたつむり)が動くのと大差ない速さで、襖の隙間を目全体が入る分まで拡張する。
流石に良く見えるようになったが、音を立てて気付かれたら大変なことになるだろう。
あくまでも注意深く、慎重に慎重を重ねて向こう側の様子を窺う。それで俺は思わず声を上げそうになって、慌てて口を押さえる。
布団の近くにはマスターが着ていた服と潤子さんが着ていた浴衣が乱雑に脱ぎ捨てられていて、胸の中程まで−勿論素肌が見えている−
掛け布団を被ったマスターの左肩口を枕にして、潤子さんが素肌剥き出しの二の腕をマスターの胸に抱きつくように乗せて眠っている。
仲睦まじい夫婦を絵に描いたような様子だ。「激戦」の後は仲良くお休み、ってことか・・・。全く見せ付けてくれる。
俺が晶子に目配せして襖を閉めようとした時、潤子さんがもぞもぞと動いてマスターの肩から体を起こす。
晶子と同じくポニーテールを解いた長い黒髪が、素肌が見えるはずの首から胸を覆い隠す。
その穏やかな目と笑みは、眠っているマスターに向けられている。ドラマのワンシーンを思わせる。
「あなた。そろそろ起きて。」
潤子さんが愛しげに言うと、マスターがうーん、という深呼吸か鼾(いびき)か分からない声を上げてから目を開ける。そして潤子さんの方を向く。
潤子さんは穏やかな笑みを崩さない。
「もう朝か・・・。早いな。」
「なかなか寝させてくれなかったのは、一体誰よ。」
「お互い様だろ?」
「んもう。私が疲れて動けないのを良いことにしたい放題したくせに。」
潤子さんが少しむくれる。潤子さんのこんな表情を見るのは初めてだ。夫婦だからこそ表れる、見せる表情なのかもしれない。
そう思うと何だか二人が羨ましくて、こっちまでほのぼのした気分にさせられる。
マスターが笑みを浮かべながら潤子さんの頬に手を伸ばす。潤子さんは目を閉じてその手にうっとりとした表情で頬擦りする。
こんな表情も見たことがない。誰の手にも届かないほど深く愛し合っていることがこれでもか、というくらい伝わってくる。
普段は夫婦らしいところを見せない二人だけど、店を離れて二人きりになっている今、夫婦の絆を満喫しているのかもしれない。
・・・そうすると、こうして襖の隙間から覗き見していることが悪いことをしているように思えるな・・・。
マスターの手に頬擦りしていた潤子さんが、如何にも幸せに浸りきっているという風にうっすらと目を開けてマスターを見る。
本当にドラマや映画のワンシーンを思わせる構図だ。
そう言えば以前、晶子と恋愛ものの映画を見に行ったな・・・。あれにもラストの方で愛し合った二人が朝を迎えるシーンがあったけど、
こっちの方がよりリアルだ。何と言っても本当の夫婦だからな・・・。
「・・・こんなこと言っちゃ、いけないってことは分かってるけど・・・。」
「子どもが作れたら良いな、って言うのか?」
「・・・ええ。子どもを作らないってことは貴方と一緒にお店を始めることにした時に決めたことだし、今更前言撤回なんていうつもりもないわ。
お店どころの話じゃなくなるって分かってるから。だけど・・・貴方とどんなに愛し合えてもその結晶が作れないのは・・・ちょっと寂しいな、って。」
「男と女の違いかな・・・。生ませる側にとっちゃ、生む側の心理が分かっているつもりでも核心までは掴めないものなのかもしれない。」
「これだけは誤解しないで。私は親に勘当されてまでも貴方と一緒になったことを少しも後悔してない。一緒に夢だった私達のお店を作ることと
引き換えに子どもを作らないって決めたことも後悔してない。ただ・・・ちょっと我が侭を言ってみたくなっただけ。」
「俺だって、お前との子どもを見たいっていう気持ちはあるさ。普通の夫婦なら、そう思っても不思議じゃないんじゃないか?」
「ええ・・・。」
そうか・・・。マスターと潤子さんの間にはそんな取り決めがあったのか。
それにしても、潤子さんが親に勘当されてたなんて初めて知った。
そうまでされてでもマスターと一緒になりたかったんだな・・・。それだけ深く、強く愛してた、否、愛してるだな・・・。
俺も晶子とそんな強い絆を持ちたい。
俺の場合、俺が音楽の道に進むと言ったら、親は何て言うだろう?
そんな明日の我が身も分からない道を進むな、って強く止めるだろうな。
それを押し切ってでも、場合によっては勘当されてでもその道を進む程の覚悟は、俺にはあるだろうか?
それは晶子の人生をも左右することになる。それだけの覚悟が今の俺にはあるだろうか?
・・・今は・・・まだそれだけの固く強いものになっていないような気がする。
こんなことじゃいけないことは分かってるつもりだ。来年にはもう、自分が進む道を決めなきゃならない時期に差し掛かるだろう。
何より、俺をバックアップしてくれると言ってくれる晶子の気持ちに対して明確な返事をしなきゃならない。
俺に残された時間は・・・あっという間に終わりを迎えてしまうだろう。それまでに結論を出さなきゃいけない。難しいことだが・・・重要なことだ。
「本物の子どもじゃないけど・・・今はあの二人が居るじゃないか。」
「そうね。私も祐司君と晶子ちゃんが、私達の子どもみたいに思えるわ。」
「あの二人が店に居てくれる時間は限られてる。あの二人が店を巣立っていく時は、笑って見送ってやろうじゃないか。二人の明るい前途を祈って。」
「私は・・・泣いちゃうかもしれない。ずっとお店に居て、って泣きついたりして・・・。」
「潤子は結構涙脆いからな。でも、あの二人には二人の人生がある。俺達が無理矢理それを自分達の方に引き寄せちゃ駄目だ。
二人の未来に幸多きことを祈って、送り出してやろう。それが『親』である俺達の使命だ。」
「そうね・・・。二人が手を取り合って障害を乗り越えていって欲しい・・・。そして何時か一緒になって欲しい。二人もきっとそう思ってると思うから・・・。」
マスター・・・潤子さん・・・。俺と晶子のことを色々真剣に考えてくれてるんですね。
今の俺はその思いに応えられるだけのものは持ってないですけど、必ずその思いに応えられるようにします。
ふと晶子を見ると、その横顔は感動に溢れている。晶子もマスターと潤子さんの思いに共鳴したんだろう。
たかが、と言っちゃ何だが自分達の店のバイトの身である俺と晶子のことを真剣に考えてくれている。
俺より感受性の強い晶子がそのことを知って心を揺り動かされない筈がない。
「そろそろ閉めるか?」
「ええ、そうですね。」
俺と晶子は襖の隙間から顔を離して、俺がマスターと潤子さんに気付かれないように、音を立てないように細心の注意を払いながら襖の隙間を無くす。
そして何事もなかったように布団に戻って、晶子に倣(なら)いながら布団を畳む。これもマナーの一つだろう。
さて、着替えをどうするか・・・?俺はこのまま着替えをしても良いんだが、晶子が居るし・・・。何より晶子の着替えをどうするか、だ。
俺が着替えている背後で着替えてもらう、という手もあるが、自分の着替えの手が止まってしまいそうな気がする。
着替えの最中にうっかり−故意に、か?−後ろを向いてしまって、なんてことになったら、途端に頭のブレーカーが吹っ飛んでしまうかもしれないし、
その様子をマスターと潤子さんに見られようものなら、役所へ連れて行かれて婚姻届に署名と押捺をさせられるに違いない。
そんな妄想じみたことを考えていると、襖の向こうで物音がし始める。
がさがさという物音に続いて、やや大きな物音がする。
まさかあの夫婦、雰囲気が盛り上がったところで朝から・・・、なんてことしやしないだろうな?!
その時、襖がそうっと開かれて、マスターと潤子さんが姿を現した。
マスターは昨日寝る前に着ていた白いポロシャツに薄いアーミーグリーンの半ズボン姿で、潤子さんは浴衣を綺麗に着こなしている。
夜何事もなかったかようなその姿に、俺は内心切り替えの早さに脱帽してしまう。
「あら、二人共起きてたの?」
「え、ええ。ほんの5、6分くらい前ですけど。」
「晶子ちゃんの浴衣・・・何ともなってないわね。」
潤子さんはそう言うと、少し残念そうな顔をする。
「朝起きたら、流石に多少乱れてましたから整えたんですけど・・・それが何か?」
「そう・・・。頑張ったのに。」
潤子さんは不満げな表情を浮かべる。
頑張ったのにって・・・。もしかして、昨日襖一枚隔てた向こう側で一戦交えたのは、俺と晶子がそれにつられて同じように一戦交えることを
期待してのことだったのか?
・・・成る程。ラブホテルにエロビデオが置いてある意味が−実際確かめたわけじゃないが−分かったような気がする。
他人が一戦交える様子を見て自分達も気分が盛り上がってくるってことか・・・?
そういう見方からすれば、俺と晶子はマスターと潤子さんの策に填まる寸前だったというわけになる。
見られるのを承知で一戦交えるなんて、晶子以上に策士だな。マスターと潤子さんは。
「丁度良い時間だ。朝飯食いに行こうか。」
「そうですね。」
俺達一行はマスターを先頭に縦一列になって狭くて急な階段を下りて行く。マスターに続いて潤子さん、それに俺、晶子が続く。
晶子が階段を下りる時になって手を差し出した。俺はどうして欲しいか察して、差し出された手を取ってゆっくり階段を下りて行く。
夜あれだけ大胆で遠慮のない行動に出たっていうのに、今は手を繋ぐだけで胸が高鳴るのを感じる。どうなってんだ?一体・・・。
食堂に着いて4人が座れるテーブルを見つけて、俺と晶子、マスターと潤子さんがそれぞれ並んで座る。
何だか家族揃って朝食を摂るような感じがする。
さっきマスターと潤子さんが言っていたことにも関係するが、俺はマスターと潤子さんが自分の親のように思える。
勿論、本物の両親は居るが、夏休みも帰省せずにバイトに行っていると、マスターと潤子さんの方により親近感を感じてしまう。
本当に親だったら、とさえ思うこともある。
接している時間が長いと、自然と親近感が沸くものらしい。そう思うと宮城が「身近な存在」とやらに心惹かれたのも理解出来る。
今更許す許さないを言うつもりはないが、宮城がそうなった気持ちが理解出来たことで、また一つ「良い思い出」の階段を上ったような気がする。
少しして食事が運ばれてくる。
焼き魚に付け合せの漬け生姜、卵に−小さな器に入っているところからして、多分生卵だろう−もずくと胡瓜の酢の物、そして赤味噌にご飯。
オーソドックスにしてなかなか豪華な内容だ。
最後にテーブルの隅にお櫃(ひつ)と大きめの急須が置かれる。御飯とお茶のおかわりはセルフサービスらしい。夕食もそうだったな。
俺達は誰が音頭を取ったわけでもなく、いただきます、と唱和した後、朝食を食べ始める。
俺はまず焼き魚から手をつける。俺は魚の骨や皮を取るのが少々苦手なので、左手を使いながら注意深く骨と皮を取り除いて、
後で肉の部分をゆっくり食べるつもりだ。
視線だけ動かして様子を窺うと、晶子は俺と同じく焼き魚の骨と皮を取り除きながら、御飯や酢の物に手を伸ばす。
相当強く躾られたのか、晶子は和食を綺麗に食べる。徐々に骨と皮だけになっていく魚を見れば一目瞭然だ。
こういうところ、俺自身は苦手なくせに相手の様子には結構こだわる。晶子は見ていて安心出来るし、羨ましくも思う。
マスターは卵を器に割って入れて、近くにあった醤油を少し入れてよく掻き混ぜて、御飯にかけて口にかき込んでいく。
潤子さんはゆったりしたペースで焼き魚や酢の物、そして御飯や味噌汁へ手を伸ばす。
とりたてて会話もなく、それぞれのペースで朝食が進んでいく。
「今日はどうする?」
暫く朝食が進んだところで、マスターが口を開く。
俺と晶子、それに潤子さんが食べる手を休めて顔を上げる。
「食べ終わって少し休んでから海へ行こうかな、って思ってるんですけど。」
「私もです。」
「そうか。それならそれで良い。俺は午前中ちょっと部屋で休ませてもらうから。どうも身体が気だるくてな。」
「私も同じ。疲れが体の彼方此方に残ってる感じがするのよね。」
そりゃそうだろう。夜、襖一つ隔てたこちら側にも届くほどの物音を立ててあれだけ激しく一戦交えたんだ。疲れてない方がおかしい。
そうは思うが決してそれは口にしないことにする。口にしたら逆に守勢に回ることになるのが目に見えてるからだ。
どうせマスターと潤子さんは夫婦という間柄を盾に、俺如きの突っ込みをかわして逆襲してくるに違いない。
「荷物だけ、俺が持っていきますよ。」
「そうしてもらえるか?ありがたいな。昼食食べたら、俺と潤子も海に繰り出すつもりだから。」
「私も荷物持ち手伝いますよ。」
「じゃあ、手分けして行くか。」
「はい。」
「決まりだな。それにしても二人は元気だなぁ。やっぱり20代は違う。」
「俺、まだ20歳になってないんですけど。」
「でも今年なるんだろ?同じようなもんだ。19と20の差はないも同然。差が歴然と感じるのは29と30、それに39と40だな。俺が知る限りだが。」
「私もそれは実感したわ。29と30は気分的にかなり違うわね。」
「そんなもんなんですか・・・。」
俺はまだ20になることに実感が湧かない。19と20で何が変わるかと問われたら、俺は選挙権が貰えて、酒と煙草が合法的に味わえるってことくらいしか
答えられない。せいぜい成人式の日に高校時代のバンドのメンバーが勢揃いするという約束があることが他人と違うくらいだ。
この約束だって珍しくも何ともない。18でパチンコ屋やX指定の映画が観れるようになったのと大差ない。
そう言えば・・・晶子は俺より1つ上なんだよな。
でも、成人式の時には帰省しなかったし、どうして帰省しないのかと聞いた時、行かない理由を聞かないで、と言ったことは気になるが、
行っても良いことがないのか−精々市長とか教育委員会のお偉いさん方が『ありがたい』話をするくらいだというし−、
余程顔を合わせたくない人物がいるかのどちらかだろう。
顔を合わせなくない人物・・・。俺にとっては以前、幸せを一気に不幸一色に変えた宮城が該当する。でも、今となっては挨拶くらい交わせると思う。
もう戻れない過去をどうあがいたところで変わらないものは変わらないんだから。
宮城は俺と切れることになるとは思わなかった、とか言ったが、あれ以来音沙汰がないことを考えれば、所詮口からでまかせだったんだろう。
晶子も以前ふられたことがある、俺と同じような思いをした、と言った。俺にとって宮城に相当する男が帰省先に居るんだろうか?
だとすれば、成人式の時にも帰省しなかった理由が分からなくもない。
幾ら口では辛い、悲しい思い出も何れ時間がセピア色のほろ苦い思い出に替えてくれるとは言えても、一度自分を痛い目に遭わせた相手を
そう簡単に過去のアルバムの1枚にすることは出来ないだろう。無論、俺は自己矛盾だ、なんて批判するつもりはない。
晶子曰く「同じ思いをした」者同士、その気持ちは多少なりとも分かるつもりだ。
朝食が終わり、一旦全員で部屋に戻る。
食後直ぐに動き回るのは良くないし、そんなに慌てなくても海は逃げて行きはしない。
潤子さんが入れてくれたお茶を飲みながらテレビを眺めて−内容はどうでも良い。どうせ大したことを言わないし−くつろぎの時間を過ごす。
自宅じゃこんな雰囲気でのくつろぎなんて考えられない。
せいぜい音取りやアレンジに一区切りがついた時、軽く缶ビールを傾けるくらいだ。この雰囲気は晶子の家でくつろいでいる時ともちょっと違う。
晶子との時はちょっと瀟洒(しょうしゃ)な感じで、今は朝の家族団欒といった雰囲気だ。
1年以上帰省していない俺は、ちょっとセンチな気分にさせられてしまう。
茶を飲み終わったところで、俺はご馳走様でした、の一言を添えて湯飲みを机に置いて海に繰り出す準備を始める。
外にハンガーで吊るして干してあった水着を取り込んでタオルとビーチサンダルを持ち、クーラーボックスを肩にかける。そこで潤子さんが制止する。
「ちょっと待った。祐司君、それにあなた。一旦部屋から出て。」
「おいおい、何だいきなり。」
「浴衣姿で昼間に海へ行くわけにはいかないでしょ?」
潤子さんに言われてようやく事情を飲み込む。
晶子は浴衣姿のままだ。このまま海へ繰り出すなんて、変人としか思われないだろう。
一旦普段着に着替えなきゃならない。それで潤子さんのストップがかかったわけだ。
「言わなくても事情は分かるでしょ?さ、行った行った。」
「はい。」
「やっぱり締め出されるわけか・・・。」
「当たり前でしょ?祐司君は夜まで我慢ね。」
「え・・・。」
「さ、祐司君。男連中はひとまず退散だ。」
俺とマスターは大人しく部屋を出てドアを閉める。
何だか悪さをして廊下に立たされた生徒みたいで情けない気もするが、場合が場合だけに仕方ない。晶子の着替えが終わるまで待つしかない。
10分ほど過ぎただろうか。
異様に長く感じられた時間が、ドアの向こうからの潤子さんの「入って良いわよ」の一言で終わりを告げる。
俺はようやくか、という気分でドアを開けて中に入る。マスターも同じ気持ちだろう。一人の着替えのために締め出されては無理もない。
まあ、マスターの目の前で晶子の着替えるところを見られたくないという気持ちはあるが。
半袖のシロのポロシャツにベージュのキュロットスカートという、昨日の夜と同じ服装の晶子は、取り込んだ水着とタオルとビーチパラソルを持っている。
クーラーボックスは本体そのものが重いし中身もまだかなり残っているから、まさか晶子にこんな重たい物体を持たせるわけにはいかない。
「それじゃ、先に行ってきます。」
「おう、頑張ってこいや。」
「いってらっしゃい。気をつけてね。」
マスターと潤子さんそれぞれの見送りを受けて、俺と晶子は部屋を出て一路海へ向かう。
窓から見た空は今日も快晴だ。夏らしい強烈な日差しと熱気、そして海が待っているだろう。
午前中だしサーフィンスポットでもない海水浴場だから、それ程人は居ないだろう。存分に夏を満喫したい。来年はどうなるか分からないしな・・・。
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