雨上がりの午後

Chapter 56 新年事始、夕暮れ時に思うこと

written by Moonstone


 暗闇一色だった俺の意識が夜明けのように徐々に白んでくる。
数回瞬きをしてぼんやりしていた視界を元に戻す。
カーテンが閉まった窓を通して光が部屋に染み込んでいる。この布団は昨日の晩、俺と晶子が一緒に寝た布団に間違いない。
枕はせずに布団の外側を見る姿勢で目を覚ましたようだ。
 晶子は、と思って静かに起きて横を見ると、晶子の姿はない。潤子さんが脱がしたセーターもないから、俺より先に起きて下に下りて行ってるんだろう。
一体今何時なのか、と思って周囲を見回すが、この部屋には時計がないようなので自分の左腕に付けた腕時計を見る。そしてわが目を疑う。
朝どころか正午を半時間ほど過ぎている。こんな時間じゃ朝食どころの話じゃない。
俺は急いで枕元に置いておいたセーターを着てベルトを締めて、走って部屋を出て下へ駆け下りる。

「お、おはようございます、否、こんにちは・・・って、あれ?」

 ダイニングには晶子はおろか、マスターと潤子さんの姿もない。
昨日の晩、食べ物や飲み物が飛び交ったテーブルは綺麗に片付けられ、俺が座っていた席に虫除けのネットが被せられた焼き魚と漬物、
そして茶碗が重ねて置かれている。
 三人が何処に行ったのか、という疑問は直ぐに解ける。
ダイニングと廊下を挟んで繋がっている店の方から透き通った歌声と楽器音が聞こえてくるからだ。
曲は新しいレパートリーにほぼ内定した「Stand up」。まだシーケンサのデータを作ってないのに、どうして原曲どおりの楽器音や
さらにはバックコーラスが聞こえてくるのか不思議に思って−MIDIでは単純なバックコーラスしか出来ない−、俺は店の方へ向かう。
 店のキッチンに顔を出して見ると、ステージに照明が当てられ、そこで晶子がマイクスタンドに据え付けられたマイクに右手だけを添えて歌っている。
その正面やや後方の二人用の席に、マスターと潤子さんが座ってステージで歌う晶子を見ている。
二人とも身体が自然にリズムを取っている様子からして、歌に好印象を持っているようだ。
 キッチンに下りてオーディオ機器を見て、原曲どおりの楽器音とバックコーラスの「発生源」が分かる。
CDデッキが曲の演奏時間を刻んでいる。晶子が持っていたアルバムに入っていた原曲には歌が入っていたから、多分シングルにある
インストルメンタル・バージョンを使っているんだろう。
 「Stand up」と張りのある歌声で晶子が歌い終わるとCDの演奏も同時に止まり、マスターと潤子さんだけの客席から最大限の拍手が起こる。
ブラウス姿の晶子は満足げな表情で額の汗を拭う。その様子は「綺麗な女子大生」ではなく、「一人の若手シンガー」だ。

「上出来、上出来。今までのレパートリーにないポップスタイプの歌だから、客の受けも良いと思うよ。」
「練習期間が短いって言う割にはしっかり歌えてたじゃない。祐司君とも相談してだけど、これはレパートリー追加決定ね。」
「ありがとうございます。あ、祐司さん!」

 晶子がキッチンから出てカウンターのところに居た俺の存在に気づいて呼びかける。
マスターと潤子さんはその呼びかけに応じて俺の方を向く。俺はマスターと潤子さんの居る席の近くまで小走りで行く。

「おっ、祐司君。晶子ちゃんが『Stand up』を歌ってたんだぞ。どうだった?」
「最後の方しか聞けなかったんですけど、数日前に軽い音合わせをしたときより上手くなってたと思います。」
「担当の祐司君のお墨付きも得られたんだから、本格的に練習したら?」
「はい。そうします。」

 晶子は嬉しそうに答える。俺はマスターと潤子さんが座っている席の隣の席に腰を下ろす。

「祐司君、もしかして昨日疲れてたの?晶子ちゃんは10時ごろ起きて祐司君を起こそうとゆすったり声をかけたりしたけど、
全然目を覚ます気配がなかったって言ってたわよ。」
「別にそれほど疲れてたわけじゃないと思うんですけど・・・、酒が大量に入ってたせいですよ、多分。」
「それなら良いんだけど・・・明後日からお店開けるから、体には気をつけてね。勿論、晶子ちゃんもね。」
「「はい。」」
「マスターと潤子さんの方は大丈夫なんですか?」
「あれくらいなら平気だよ。ぐっすり寝られたしな。」
「私も全然二日酔いなしよ。」

 あれだけ飲んでたというのに・・・やっぱりこの夫婦、相当の酒飲みらしい。

「あ、それはそうと祐司君。お腹減ってる?」
「え、あ、はい。」
「じゃあダイニングに行きましょう。祐司君の分も朝昼兼用で食事作っておいたから。ここに来る途中で見たと思うけど。」
「ああ、蚊帳みたいなのを被せてあったあれですね。」
「そうそう。晶子ちゃんは少し休憩しててね。」
「はい。」
「その間、俺が今年最初のステージに上がるかね。」

 マスターと潤子さんがそれぞれ席を立つ。俺は潤子さんの後を追ってダイニングへ向かい、晶子はステージを降りて
マスターと潤子さんが座っていた席の隣の席に座る。
ステージに上がったマスターはアルトサックスをケースから取り出し−大掃除のときに仕舞った−、同じくケースに仕舞ってあったリードを取り付けて
演奏の準備に入る。何を演奏するのか、ちょっと気になる。
 椅子に座って、潤子さんが魚の干物を焼き始めるのを見ていると、ブロウが効いたアルトサックスと共にそれに合わせた楽器音とドラムが、
激しいイントロを奏でる。これは確か「Break out」だ。
マスターがどうにかシーケンサのデータを作ってみたまでは良かったが、拍子を取るのが難し過ぎて客が混乱する、という理由で
お蔵入りになったといういわくつきの曲だ。
アップテンポのリズムに乗って、マスターのサックスが聞こえる。新年は豪快に行こうぜ、と言われているような気がする。
 「Break out」が薄く流れてくる中で、魚が焼ける匂いがダイニングに漂う。
魚を焼きつつ、味噌汁の火加減を調整する潤子さんの後姿が醸し出すほのぼのした様子と、耳に届く曲調のアンバランスさが凄い。

「あの人、今年も最初は『Break out』ね。」

 魚を裏返して潤子さんが言う。

「今年も、って毎年やってるんですか?」
「そうよ。あの人、『Break out』が相当お気に入りでね、あれが入ったアルバムが出て直ぐにシーケンサのデータ作ったのよ。
でもあの曲はテンポを取るのが難しくて、お客さんが混乱するからってことでレパートリーから外したってことは、前に祐司君に話したわよね?」
「はい。」
「でも、お店がお休みのときは必ずと言って良いほど、あの曲を演奏するのよ。あの人はサックスを吹くのが大好きだし、
自分が好きな曲を演奏するのが楽しくて仕方がないのよ。だから表向きにはお蔵入りさせたけど、自分の中ではレパートリーで1、2を争う曲になってると思うわ。」
「根っからのサックス奏者なんですね。」
「そうそう。一回、私とサックスのどちらが大切なの?って聞いてみようかしら。」

 潤子さんは再度魚をひっくり返して、俺の方を向いて笑ってみせる。
答えは分かってるんだろう。潤子さんとサックスとは比べられないって。
それが分かっているからこそ、二人は夫婦で居られるんだと思う。
 『Break out』が終わり、続いて『Still I love you』の甘美な音色が流れてくる。
この曲を耳にするとほろ苦い記憶が蘇る。宮城に捨てられて−あれが宮城からの「変化球」的な想いの試験だったと言われても、俺の認識は変わらない−
間もない頃、マスターが俺の心の癒しとして演奏した一曲だ。あれから結構日も経ったが、今尚このメロディとサックスの音色が心に染みる。

「あら、今度は『Still I love you』ね。これ聞くと、涙出てこない?祐司君。」
「はは、ちょっと・・・目頭が熱くなりますね・・・。」

 苦笑いする俺に、潤子さんは優しく微笑む。

「辛い思い出はそう簡単に昇華されないのよね。ほろ苦い思い出になっても、ふとした拍子で元の色合いと苦さを取り戻して・・・。」
「そのせいで、晶子にはかなり辛く当たったときもありましたよ。また俺を騙そうとしてる、また俺を傷つけようとしてる。
・・・そんなことしか考えられない時期が続きました。」
「でも、今の祐司君は過去を乗り越えて晶子ちゃんを受け入れてるし、晶子ちゃんも祐司君の過去と合わせて受け入れてる。・・・良い関係じゃないの。」
「ええ、そうですね・・・。」
「祐司君。晶子ちゃんを大切にしてあげてね。昨日の夜は晶子ちゃんにあれこれ言ったけど、肝心要の祐司君がしっかりしてないと、
晶子ちゃんが悲しい思いをすることになるから。勿論、無理はしなくて良いけど、二人の時間くらいは大切に過ごして欲しいの。」
「そのつもりです。」
「昨日ちらっと話したけど、私とあの人は全然違う仕事をしてて、必然的に活動時間もずれるから、会う機会を持つのも大変だった時が長く続いたのよ。」

 潤子さんは味噌汁の入った鍋をかけたコンロの火を止めて、再び魚をひっくり返しながら話を続ける。目が後ろにも付いているみたいだ。

「そんなときでも、私はあの人を想っていたし、あの人も私を精一杯想ってくれたわ。一緒に過ごす時は楽しく、でも真剣に過ごしたわ。
この人とならずっと一緒にいたい。気持ちがそこまで高ぶったから結婚したの。」
「昨日マスターが言ってましたよね。会えないから嫌いになるんじゃなくて、会えないことを理由にして嫌いになるって。」
「そうよ。だから祐司君は晶子ちゃんと会えない日が続いても、晶子ちゃんを想っていて欲しいの。」
「もう二度とないチャンスだと思ってますから、尚更今の晶子との絆を大切にしたいです。」
「んー、祐司君、結構モテそうなルックスだと思うんだけどなぁ。どうして過小評価するの?」
「過小評価も何も、今まで告白する度に嫌いじゃないけど付き合えない、とか、お友達なら良いけど、とか言われてきた身ですから。」
「それは・・・ルックスの問題じゃないわね。」

 潤子さんは魚を焼いていた火を止めて、魚を皿に盛り付けて味噌汁を器に入れて俺の前に置く。
そして伏せてあった茶碗を手に取って炊飯器を開けて、湯気がぼわっと立ち上る中から御飯をよそって俺の前に置く。そして空の湯飲みに熱い茶を注ぐ。
最初からあった漬物を加えて、立派な朝食兼昼食の完成だ。
 それにしても、潤子さんの言ったことが気になる。
第一印象を決めるのはルックスと全体の容姿、服装のセンスといったところだろう。
今まで連戦連敗を続けて来た俺が、ルックスが悪いからふられたんじゃないとすると、一体何が連戦連敗の原因になったというんだろう?

「潤子さん。ルックスが問題じゃないとしたら、何が問題なんですか?」
「多分、雰囲気よ。」
「雰囲気・・・?」
「ルックスや服装のセンスもそれなりに重要だけど、その人の内面や趣味嗜好が重なって出来た雰囲気がその人から滲んでくるのよ。
女の子はそれを敏感に感じ取って、窮屈に感じたり趣味に合わないと感じたりすると、御免なさいってなっちゃうの。」
「・・・今まではドキドキしながら好きだって言ったんですけど、駄目で元々、って思ってました。それが駄目だったんですかね。」
「それはあると思うわ。自信のなさっていうのは、本人は気付かないけどかなり外に出やすいものだからね。多分その時の女の子は、
自分に自信がないってことは私を好きでい続ける自信もないのね、って思って、『御免なさい』になったんじゃないかしら。」
「そうですか・・・。晶子は俺が晶子の兄さんに似てるからってことで追い回してたんですけど、これは例外ですよね?」
「きっかけではあったと思うけどそれ以上のものじゃないわね。それよりも・・・ほら、祐司君、晶子ちゃんが初めてこの店に来た時に『AZURE』を
弾いてたでしょ?あの時の祐司君は演奏が楽しそうだったし、音楽を演奏するのが好きなんだ、って雰囲気だったわ。
あれはかなりインパクトが強かったんじゃないかな。」
「・・・ああ、あの時の。」

 俺は魚の皮と骨を取って食べ始めながら思い出す。
晶子は目を見開いて興奮気味に俺を称賛した。あれが晶子の中で俺への想いを決定的なものにしたのか・・・。
俄かには信じられないが、自分の演奏が人の心を動かしたなら、それはそれで嬉しいことだ。

「それに加えて、今まで冷たくあしらわれていたところに、祐司君から音楽を教えてもらう機会が出来たでしょ?
そこで祐司君が厳しいけど親身になって教えたことで、晶子ちゃんは祐司君のことを、自分が毛嫌いしている相手でも必要なら
親身になれる人なんだ、って好感を更に高めたんだと思うわ。」
「あの時にしてみれば、嫌われようとしたところが裏目に出てしまったんですね。」
「嫌われようとするならとことん邪険に扱わなきゃ駄目よ。祐司君はそこで祐司君本来の性格で親身になったから、祐司君は厳しいけど
親身になってくれる人なんだ、って晶子ちゃんの心をがっしり掴んじゃったんだと思うわ。」
「うーん・・・。難しいですね。人との交流ってのは。」
「だから人生は苦しい時もあるし、逆に幸せな時だってあるのよ。今が丁度、祐司君にとっては後者の時期でしょ?」
「ははは。そのとおりです。」

 苦笑いと照れ笑いをごちゃ混ぜにした笑みが俺の口元から零れる。
潤子さんは柔和な微笑を浮かべながら俺の向かい側の席に座る。頬杖をついて俺の方を見る潤子さん。
何かのCMにありそうな構図に、俺は内心ドキドキしつつ、潤子さんとの会話を交えながら食事を進める。
 店の方から薄く流れてきていた「Still I love you」が終り、続いてアップテンポの「HEAD HUNTER」に変わる。
マスターは演奏したい曲をここぞとばかりに演奏するつもりなんだろうか?
演奏を聞いているであろう晶子はどう思っているのか、ちょっと気になる。
そこに潤子さんから問いかけが俺に送られる。

「祐司君は進路のこと、どう考えてるの?」
「・・・正直言って迷ってるんです。このままギタリストとしてプロを目指すか、それとも無難に官庁や企業に就職するか・・・。音楽や演奏を飯の種にするか
趣味に留めておくか、晶子とも前にそういう話をしたことがあるんです。」
「晶子ちゃんからも今朝の食事の席で聞いたわ。晶子ちゃんは、もし祐司君が企業や官庁に就職するなら家庭の方にウェイトを置いた職探しをするし、
プロを目指すつもりなら、祐司君が世に出るまでの二人分の食い扶持は何とかするつもり、って言ってたわ。」
「俺と話したときの回答と同じですね。無難な道を選択する場合のことは話さなかったですけど。」
「祐司君がどちらを選択するかは自由だけど、これだけは覚えておいて欲しいことがあるの。」

 潤子さんの表情が真剣みを急激に増す。
味噌汁を飲んでいた俺は思わず器をテーブルにおいて神経を潤子さんに集中させる。
潤子さんの真剣な表情からは、それだけの迫力というか、そういうものを溢れ返るほど感じる。

「まず一つ目は、プロのミュージシャンになるのは厳しいってこと。あの人は昔、彼方此方のジャズバーを席巻していた腕前の持ち主だけど、
何度か受けたオーディションを勝ち残ることは出来なかったのよ。」
「マスターがですか?!」

 俺は思わず聞き返す。マスターほどの腕前なら何処かのレコード会社やプロダクションからお呼びがかかっても不思議じゃないと思うんだが・・・。

「そうよ。プロを目指す人は数多く居るわ。そして腕前もそれこそ即プロになってもおかしくないくらいの人が居る。
だから、祐司君は今の腕前に安住してたらプロになるのはまず不可能よ。偶然なったとしても直ぐに鍍金(めっき)は剥がれるわ。」
「・・・はい。」
「二つ目は、あの人が昔してたように彼方此方のお店を回って演奏して、稼ぐと同時に腕前を磨こうとしたり、オーディションやコンテストに
エントリーしたりするなら、必然的に晶子ちゃんと顔を合わせる時間が減るってこと。昔の私とあの人と同じように、顔を合わせるのが
難しくなると思うわ。そこでどれだけ自分の気持ちを維持できるか、これが一番大事で難しいことだと思うわ。」
「潤子さんとマスターはそれが出来たんですよね?」
「ええ。でも辛かったわ。女の子は待つことと我慢することが苦手な生き物だからね。」
「・・・。」
「崩れ易い女の子の気持ちをどれだけしっかり掴めるか・・・。男の子の側からすれば身勝手なことかもしれないけど、そこが男の子の腕の見せ所じゃないかな。」

 高校時代、宮城と付き合ってたときは自然に接していればトラブルはなかった。
そりゃ男友達やバンド仲間との話に熱中して、隣に居た宮城がむくれたりすることはあったが、宮城の方に意識を向ければ直ぐに収まった。
 俺がこの町に住むようになってからも、宮城との付き合いは概ね順調だった。
だが、宮城は『身近な存在』というバイト仲間の方にも意識を向けていたようだし、二度も俺を試す行為に出て、その二度目で
俺は宮城に捨てられたと確信して宮城の望みどおり−実際は違ったらしいがそんな勝手は認めない−関係の終わりを告げた。
 あんな思いはもう沢山だ。
試さなくても俺の気持ちが晶子の方だけを向いていることと、晶子が俺の方だけを向いているようにするには、具体的にはどうすれば良いんだろう?

「・・・どうすれば良いんですか?」
「え?」
「気持ちの強さや向きを自分の方に向け続けさせるようにするには、どうしたら良いんですか?」

 俺の質問に、潤子さんからの即座の回答はない。それが俺の中にある不安をより一層増幅させる。
「経験者」の潤子さんでも分からないとすれば、一体どうやって困難を克服したっていうんだろう?
ひたすら相手を想い続けるしかないとでもいうんだろうか?

「・・・やっぱり・・・二人の時間を大事にすることに尽きるんじゃないかしら。」
「俺は、晶子より前に付き合っていた女と遠距離恋愛してたんですけど、二人で居る時間は大事にしてきたつもりです。
でも、相手は身近な存在とやらに目移りして、挙句の果てに別れを唆して俺を試したんですよ・・・。どうすればそんなことにならずに済むか、
明確な答えが欲しいんです。」
「そっか・・・。祐司君が以前ささくれだってたのは、付き合ってた女の子にふられたのが原因だったんだっけ・・・。」

 潤子さんは頬杖をつくのを止めて、両腕をテーブルにおいて俺の方を向く。

「正直言って・・・さっき私が言った手段以外、最善の方法はないわ。あとは相手の想いの強さと向きを信じるしかないと思う。」
「そんな・・・。」
「これなら大丈夫、っていう手段を教えられなくて御免ね。でも、私とあの人はそうして来たし、祐司君も晶子ちゃんもそれが出来るタイプだと思う。
祐司君が前に付き合っていた女の子はそれが出来なかった。それが悪いって言うつもりはないけど、結果的にその女の子が祐司君以外にも目を向けて
比較したりしたところが、二人の別れに繋がることになったと思うのよ。」
「・・・。」
「祐司君。晶子ちゃんを信じてあげて。晶子ちゃんなら祐司君の気持ちを裏切ることはないと思う。ううん、裏切ったりしないわ。」
「俺も・・・そう信じてます。信じたいです。」
「・・・ありがとう。」

 潤子さんの表情がようやく緩む。それを見た俺は、両肩に圧し掛かっていた恩苦しさがすうっと消えていくのを感じる。
兎に角恋愛は相手は勿論自分を信じること。それが出来たからこそ、マスターと潤子さんは会えない寂しさや別の恋の誘惑に負けることなく、
ゴールインできたんだろう。
俺もそれに続きたい。そのためには・・・俺がしっかりと晶子を惹きつけておかないことにはな・・・。

「長話に付き合ってくれてありがとう、祐司君。私はお店の方に戻るから、ゆっくり食べててね。食べ終わったら食器は流しに置いておいて貰えば良いから。」
「はい。」

 潤子さんは席を立って店の方へ小走りで向かう。
薄く聞こえる曲は「HEAD HUNTER」がとっくに終って、「LOVE FOR SPY」に変わっている。
俺は食事を再開してそのスピードを上げる。力の篭ったマスターの演奏を聞いているうちに、俺もギターを弾きたい衝動に駆られてきた。
 食べ終えると俺は食器を流しに運び、生ゴミを三角コーナーに捨てると、走って店へ向かう。
新年最初の演奏曲は俺の中ではもう決まっている。俺と晶子を結わえるきっかけになったあの曲、そう、「AZURE」だ・・・。

 それぞれのレパートリーが入り乱れた4人だけの新年コンサートが終了して、東から急速に迫る夕闇の中、俺と晶子は帰路に就く。
俺は一旦俺の家に晶子の荷物を取りに戻り、晶子をマンションに送り届けて、久しぶりに家で一人になることになる。
 明後日からバイトが始まる。振り返ってみると本当にあっという間の年末年始だった。
その間、ずっと晶子が傍に居た。
晶子が今日自分の家に戻るのが、同居していた俺と別れて俺の家から去っていくような気さえする。
 潤子さんの言ったことが思い出される。
二人で居られる時間を大切に・・・。経験者の言葉だけに俺の心にずしんと響いた。
2年になったら専門教科の数も増える上に初めて見聞きする内容が予想されるだけに、今の一般教養のように、ただ出席してテストを受ければ
単位取得、とはいかないだろう。場合によってはバイトの時間を減らす必要に迫られるかもしれない。
 そうなると、晶子と顔を合わせる機会も減ってしまう。
同じ学年とはいえ、俺と晶子は学部が違うから一般教養以外では大学での接点がない。
講義の始まる時間や下校時間も高校までのように毎日一緒じゃないから、尚のこと接点が減ってしまう。
だから余計に二人で居られる時間を大切にしないといけない。その時余計な勘繰りは禁物だ。それが原因で喧嘩別れなんて洒落にならない。

「ねえ、祐司さん。」

 後ろに居る晶子が声をかけてくる。俺は自転車のスピードを少し落す。

「何だ?」
「いっそ・・・一緒に暮らしませんか?」

 俺は思わず両方のブレーキを力いっぱい握る。
勿論自転車は止まり、旧停止した反動で前につんのめる。もう少しスピードが出ていたら、反動で二人揃って自転車から放り出されたかもしれない。

「い、いきなり何だよ?!あー、びっくりした。」
「突然で御免なさい。でも、そうした方が良いんじゃないかな、って思ったんです。」
「・・・そりゃまた、何で・・・?」
「今日、朝御飯食べてた席で潤子さんに言われたんです。祐司さん、これからどんどん大学が忙しくなってくるだろうし、それに併せて
バイトの時間を減らしたりして、私と顔を合わせる時間が減ってくるだろうから、二人で過ごす時間を大切にしなさいね、って・・・。
私は祐司さんに比べたら生活も大学の講義数もずっと楽だから、私がフォローできることはフォローしたいんです。」

 そうか。潤子さんは晶子にも俺に言ったことと同じことを言ったのか・・・。
晶子はそれを受けて、自分が出来ることを模索してたんだな。
そのこと自体は勿論嬉しい。でも、何でそれが同居に直結するんだ?

「晶子が俺のことを気にかけてくれるのは嬉しいよ。だけど、何で同居まで話が飛躍するんだ?」
「バイトの時間が減ると祐司さんの生活が苦しくなるでしょ?祐司さんは私と違ってバイトで稼いだお金を生活費の足しにしてるんですから。
同居すれば、生活費を二人で賄えますし、祐司さんが苦手な食事や掃除の面でフォローが出来ると思うんです。」
「・・・。」
「それに・・・帰るところが一緒なら、互いに安心できると思うんです。何れは自分が居る場所に相手が帰ってくることが分かってますから・・・。」

 晶子の言うことは理解できる。
講義の質と量が増せばバイトの時間を削減する必要に迫られるかもしれない。そうなると当然生活が圧迫される。
晶子や潤子さんが用意してくれる夕食は別として、朝食と昼食は−平日は大学の学食だし、大学が休みの日はコンビニの弁当だ−
自分の財布から出さないといけない。
光熱費や水道代もそれなりに必要だし、レパートリーを増やすためにCDを買ったりするにも金が必要だ。
仕送りがあってバイトで稼いだ金を丸々貯金できる晶子と同居すれば、生活の心配はなくなる。だけど・・・

「晶子。気持ちは凄く嬉しいけど・・・同居まではしない方が良いと思う。」
「どうしてですか?」
「俺と晶子はそれぞれ親の仕送りと学費の支払いで毎日を過ごしてる身だ。そんな状態で同居するのは、親を騙すことと同じじゃないか?
俺の両親からすれば女と、晶子の両親からすれば男と同居させる為に仕送りまでして大学に通わせてるわけじゃない、ってな。」
「それはそうかもしれないですけど・・・。」
「それに俺は、バイトと大学をしっかり両立させるつもりだ。講義を真剣に聞いてノートを取って、万全の態勢で試験に臨むようにする。
バイトも今まで以上に楽しく、そして真剣にする。晶子や親に余計な負担をかけさせないようにな。」
「祐司さん・・・。」
「それが当たり前のことなのかもしれないけどさ、俺は俺なりに精一杯やっていく。もしどうしても身動きが取れなくなったら晶子の助けを借りようと思う。
図々しいだろうけど、これで納得してくれないか?」

 俺が若干自嘲の篭った笑みを浮かべると、晶子が俺を抱え込むようにしっかりと抱き締める。背中に感じる柔らかい感触がより一層はっきりする。

「晶子・・・。」
「やっぱり祐司さんって真面目な人ですね。」
「真面目って・・・言うのか?こういうの。」
「ええ。普通の男の人なら下心いっぱいで同居しようって答えると思うんですよ。」
「そりゃ、晶子ほどの美人に『同居しませんか?』なんて言われたら、大抵の男は首を縦に振るさ。」
「じゃあ、祐司さんから見て、私はまだまだ美人の域に達してないことになりますね?」
「おいおい。そういう意味じゃないって。俺にとって晶子は特別な存在だから、安易にくっついたり分かれたりしたくないんだよ。」

 晶子の意地悪な問いかけに、俺は苦笑いしながら答えを返す。
背後から抱きついている晶子は頬を紅くして−寒さのせいもあるだろうが−微笑んでいる。

「祐司さんなら、きっとそう答えてくれるって信じてました。凄く嬉しい・・・。」
「試すのも良いけどさ、晶子。あんまりそういうことは・・・。」
「分かってます。何処かの誰かさんみたいなことにならないようにTPOは考えて言います。祐司さん、真面目だから、冗談で言ったつもりでも
真に受けてしまいかねないですから。」
「・・・それだけ分かってくれてるなら良いよ。さ、出発するぞ。」
「はい。」

 ちらっと宮城のことが頭に浮かんだ俺はちょっと嫌な気分になるが、晶子のフォローで気を取り直す。
あの時みたいに、俺の気持ちを確かめようと別れ話や自分への感情の疑問を持ち出されてはかなわない。
そんなくだらないことで今を逃したら・・・最悪だ。
 自転車は徐々に加速する。
晶子はしかし俺を抱き締める力を緩めようとはしない。
俺は口元が微かに緩むのを感じながら夕暮れの町に自転車を走らせる。
夜が近付くにつれて磨きをかけた冷気が顔全体に次々と突き刺さる。冬はまだこれからが本番だ。
この季節を超えたところに柔らかな日差しと花咲き溢れる季節が待っている。・・・俺の人生とよく似ているような気がする。
 晶子と一緒に居られる今が春か、それとも秋か・・・。
もし秋だとしたら早めの冬支度が必要だ。季節の冬は厚手の服を着込んだり暖房を使ったり、温かい食べ物を食すれば凌げる。
だが人生の冬は物理的なものでは乗り切れない。可能な限り顔を合わせ、その時間を慈しむ。それが何より大切だ、と潤子さんは言っていたな・・・。
 今からでも遅くない。二人の時間をもっともっと大切にしよう。触れ合いの時をもっともっと楽しもう。
まかりなりにもパートナーなんだから、助け合って冬を乗り切りたい。
・・・俺が助けられてばかりになりそうな気がしないでもないが・・・それは後で埋め合わせをすれば良いだろう。
今、何より必要なのは、俺と晶子の気持ちが正面から向き合い、触れ合うことだ。
晶子の気持ちを逸らさないように、俺がもっとしっかりしなきゃな・・・。

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