雨上がりの午後
Chapter 22 過ぎ行く師走の夜に
written by Moonstone
何時も使う駅前の、線路を挟んで反対側は俺にとって未知の世界だ。
月曜以外の平日の昼間は大学と自宅との往復だから何時も使う改札口の反対側に立ち入る余地はないし、夜はバイトだから余計に縁がない。
土日の昼間は寝てるかギターの練習か曲のアレンジかで、買い物に出るにしても食事はコンビニで済ませるし、雑誌とかを買う本屋も近いところ。
夜はやっぱりバイトだからこれまた反対側とは縁遠い。
その一角にある中華料理屋「香蘭」。
俺と井上との食事の場に選ばれたのはこじんまりとしてちょっと古びた感じがする、「Dandelion Hill」とは正反対の趣のある店だ。
センスに乏しい俺としても、こういうときの食事の場としてはちょっと不似合いだと思う。
だが、食事の場を探して思い切って駅の反対側に出て最初に目に留まったこの店が、何故か気になった。
これもセンスといえばそうなんだろうが、一般的なセンスからずれているのは確かだ。
俺がこの店でどうかと尋ねた時、井上は嫌がるかと思ったが、拍子抜けするほどあっさりとOKした。
「安藤さんが誘ってくれたんですから、安藤さんの判断にお任せします。」
こんな台詞を付け加えた。俺を立てようとしているのだろうか。
頼りにされるようで嬉しい反面、直感で選んだ責任が圧し掛かって来る。
勿論、この店に入るのは初めてだ。メニューで2人用のコースメニューを指定して待つ間、俺の意識はどうしても味がどうかに向く。
本当は駅の反対側に出なくても、何度か行ったことのある喫茶店でも良かったのかもしれない。
だが、その店は今日休みだった筈だし−飲食店は月曜休みが多い−、あの女の残像があるところへ井上を連れて行きたくなかったのがある。
井上への礼ということで食事に誘った店で、妙にメニューに詳しかったりしてあの女との事を詮索されたくない。
思い出したくないのは勿論だし、井上との食事が不味くなったら話にならない。
夕食時にはまだ時間が早いせいか、店には俺と井上の他に客は居ない。
奥の調理場から絶え間なく聞こえてくる調理する音が、軽快なリズムとなって店内に流れ込んで来る。
「どんなところに連れてってくれるのかな、って実は期待してたんですよ。」
井上が身を乗り出して話し始める。
俺に任せるとは言ってもやはり期待していたことが分かって、益々味のほうが気になる。
「でも、高いところじゃなくて良かったです。」
「?」
「私、そういうお店に今まで縁がなかったから、テーブルマナーとかよく分からないんですよ。」
「あ、そうなのか・・・。」
「この席で言うべきじゃないとは思うんですけど・・・一昨日伊東さんが食事に連れて行ってくれた時、物凄く高そうなお店だったんで
緊張しちゃって味が分からなかったんですよ。それでちょっと私と住んでる世界が違うな、って思ったんです。」
智一の言ったとおりだ。少し意外な感じもするが、井上は高級な店が肌に合わないらしい。
もっともそうでなけりゃ、自炊なんてやってないだろう。俺の場合は単に面倒なだけだが。
「智一にはそれが普通だ。あいつの家は裕福だから。」
「だから今日ももしそういう店だったらどうしようかなって思ったんですけど、こういう普段着で来れるようなお店だったから安心しました。」
「俺も高級料理には無縁の人間だしな。こういう店じゃないと入り辛い。」
「やっぱり同じ世界に住んでる人だと良いですね。」
同意を求めているように聞こえる。
否、語尾が若干上がり気味だったから念押ししているように聞こえなくもない。
俺は溜息混じりに答える。
「まあ・・・確かにな。」
よく考えてみれば、俺は井上を食事に誘っているんだから多少は気の利いたことを言っても良いものだ。
まったく俺は素直じゃない。こんなことだから起こさなくても良い諍いを起こして、智一まで巻き込んじまうんだ。
だが、同意が得られて嬉しいのか、井上はテーブルの上に両肘を立てて組んだ両手に顎を乗せて微笑んでいる。
井上のこの顔を見ていると、あれこれ悩んでいたことが頭の中からすうっと消えていくような気がする。
暫くして断続的に料理が運ばれてきた。
どれも大皿に盛り付けされている形なので、同時に運ばれてきた食器で適時分け合いながら食べ進めていくことになる。
問題の味の方は・・・こう言っちゃ店に失礼だが、予想以上に美味い。
最初に運ばれてきたスープから既に、その辺の店を凌駕している。これは思わぬ掘り出し物だ。
その店に入ろうと思うかどうかの判断基準はやっぱり見た目に拠るところが大きい。
料理は食べてみなきゃ分からないが、建物や窓から見える調度品が綺麗ならちょっと入ってみようか、という気分になるものだろう。
だから、デートのときの食事場所がマニュアルなんて形で紹介されるわけだ。
これは外食の目的が生活の一部としての必要条件か−人間食わなきゃ生きていけない−、自炊より割増な値段と引き換えにより良い味を求めるか、
それともファッション感覚でお洒落な気分を味わいたいかによって決まる。俺の普段の食事は一番目の目的の為だが、今日は二番目だ。
潤子さんと一緒にキッチンを切り盛りできる腕を持つ井上を誘ってきたわけだから、井上の作り出すそれと同等以上の味でないと、
これなら何時もどおり井上の家で食事を食べた方が良かった、というみっともないことになる。
「美味しいですね、ここの料理。」
「ああ、本当に美味いな。」
井上が目を輝かせて言う。俺は料理を口に運びながら相槌を打つ。
雰囲気の演出なんか何処吹く風。何時もの月曜夜の団欒をもう少し賑やかにしたくらいだ。。
智一の話からも今日お世辞にもお洒落とはいえないこの店に入ることをあっさりOKしたことからも、井上は3番目の目的、
つまり洒落た雰囲気を味わいたがるタイプじゃないようだ。
だから、料理の味が思いのほか良かったのは俺にも井上にも都合が良かったわけだ。
考えてみると、俺は井上を彼氏だ彼女だと立場を意識し合うような関係じゃないように思う。
勿論、井上は明らかに俺を異性として好きだと言ったんだろうし、気持ちが掴み切れていない俺にしても、
井上が他の道行く女や大学に居る女よりずっと特別な存在であることはもう疑いようの無い事実だ。
だが、構えたり出方を伺ったりするような、異性関係にありがちな駆け引きとは縁遠い。
他愛も無い話をしたり共通項の音楽を嗜んだり、こうした界隈の店で一緒に食事をしたりと、肩肘張らずに気兼ねなく付き合える存在に思える。
これが本当に好きだという気持ちなのか、或いは恋愛の意味で好きなのか友情の意味で好きなのか、俺にはまだ判らない。
唯一つ、今の俺がはっきり望んでいると言えることは・・・
この関係を失いたくない、ということだ。
そして・・・俺が井上の告白に言葉を返すとき・・・この関係がどうなるんだろう?
何れ返事をすると約束はした。だがもしどんな返事をするにしても、この関係が壊れるようなら・・・返事をしないままで居るべきなのかもしれない。
かと言って、返事をしなければこの関係が続くかといえば、そんな保証は何処にも無い。
それに待ちきれななくなった井上は別の男の元に走るかもしれない。
このままで居ることは・・・許されないんだろうか?
食事を終えた俺と井上は店を出る。二人分で5000円。料理の量と味に比べればお得な値段だ。
食事が終わって店を出ようとした頃になると、閑散としていた店内に徐々に客が入り始めた。
多分会社員だろう。スーツ姿の男性がこの店の客層らしい。知る人ぞ知る店、というタイプのようだ。
そんな中で俺と井上は明らかに浮いているように見えた。特に井上は男性ばかりの客の中では嫌でも際立つ。
客観的に見て−否、主観的に見ても−人目を引く容姿なせいか、客の視線が井上に集中しているのが俺にも判った。
井上もその視線を感じたらしい。
席を立ったときから俺のコートの袖を掴んで離そうとしなかった。それは今でもそのままだ。
そして俺はもう、それを振り払うかどうかということを考えることはない。
「今日はご馳走様でした。」
俺が支払いを済ませて揃って店を出たところで、井上が礼を言う。
「いや、良いよ。今日は俺が看病の礼に誘ったんだから。」
「でも、ご馳走になったのは変わりないですよ。」
井上はかなり律儀なタイプだ。誘った側としてもこういうタイプだと多少自分の財布が痛んでも嫌な気はしない。
こういうときは男が金を出して当然、なんて考えが結局未だに幅を利かせているから、余計そう思う。
・・・その一方で、毎週月曜日に井上の料理をさも当然といわんばかりに食べていた俺が居る。
礼を言わなきゃならないのはむしろ俺の方だというのに・・・今になって気付くなんて・・・。
「・・・今までありがとう。」
「え・・・?」
「毎回練習の度に料理食わせてもらったのに、一度も礼を言ってなかったから・・・。」
「ああ・・・、それなら良いんですよ。何時も丁寧に教えてもらってるんですから。それより、さっきのはちょっとびっくりしました。」
「?」
「今まで、って何だか今生の別れみたいで・・・。」
井上の表情が少し雨降り前の重みを帯びる。
俺は文字どおり「今まで」の井上のもてなしに感謝したつもりで言ったんだが・・・。
「あ、そんな意味じゃない。今まで言ってなかった分の礼を言おうと思っただけだから。」
「・・・じゃあ、これでお別れじゃないんですね。」
「そんなつもりは・・・ない。」
無意識のうちに最後の一言に力が篭る。これで終わりだなんて・・・俺だって御免だ。
ほんの一言が言えなかったばかりに招いてしまった、本当なら必要ない筈の行き違いがどんなに辛いか、もう嫌というほど判った。
ほんの一言の取り違えでも同じ事が起こり得る。言葉ってやつは本当に恐ろしい。
俺と井上は並んで夜道を歩く。何時も使う改札口の側に出て歩き慣れた道を辿って行く。
当然、自転車より時間はかかるが、このまま歩けば何れは俺の家に着く。
俺を泊り込んで看病するために井上が荷物を置いたままだから、それを取りに一旦俺の家に帰ってから、井上の家まで送っていくつもりだ。
「本屋・・・寄っていきませんか?」
店を出てからめっきり口数が少なくなった井上が不意に問い掛けてくる。
此処から近い本屋というと、俺が雑誌を買うのによく行く本屋だ。雑誌はこの前買ったばかりだし、特別行く用事はない。
だが、俺の顔をじっと見る井上の視線が行きたい、と強く訴えかけているように感じられてならない。井上は目で訴えるのが本当に上手い。
まあ、二人とも一人暮らしだし、門限なんて自分次第だから別に家路を急ぐ必要はない。
「・・・行くか。」
「ええ。」
井上は嬉しそうに頷く。感情がそのまま顔に出るのも井上らしい。
その手は俺のコートの袖を掴んだままだ。それが当たり前のようになっている。そしてそれに何も違和感を覚えない俺がいる。
夜になっても本屋の賑わいは変わらない。否、むしろより盛況かもしれない。
家ですることがないのかどうか知らないが、本屋には何時でも客が居るものだ。買う買わないは別として。
俺と井上は適当に店内を回る。このくらいの時間帯の客層は男一人が多くて、俺と井上のように男女二人連れというのはかなり目立つ。
俺の方に向けられた視線が心なしかちくちくと気になる。多分その最大の要因は・・・未だコートの袖から井上の手が離れていないせいだろう。
「?どうしたんですか?」
「いや、ちょっとな・・・。」
井上に尋ねられて俺は曖昧に答える。
羨望と嫉妬の視線を感じるなんて勘違い男の言い草みたいだし、話題には似つかわしくない。
「安藤さんはこういうの、あんまり好きじゃないんですか?」
「こういうのって・・・?」
「今、私がやってるようなこと。」
「・・・慣れてないんだ。あんまり・・・やったことない。」
「前の彼女とも?」
「・・・人前であんまりくっつく方じゃなかった。学校だと何かとからかわれるし。」
「嫌じゃないんですね?」
「それは・・・ない。」
嫌だったらとっくに払い除けてるだろう。もう、こうして袖を掴まれることに俺はすっかり馴染んでいる。
しかし、前の彼女、という言葉が出てきたときはちょっとどきっとした。
しかもその問いに答えるなんて、俺自身驚いている。
「井上は・・・気にならないのか?」
「何がですか?」
「・・・前に俺が付き合ってた相手のこと・・・。」
井上は少し間を置いて俺の問いに答える。
「・・・ええ、安藤さんが好きだった女性(ひと)がどんな女性だったとか、どんな付き合いをしてたのかとか、やっぱり・・・気にはなります。」
「・・・。」
「・・・こういうことは誰かに聞いてもらった方が良いと思うんです。少しは楽になれるかも知れませんから・・・。」
そうかもしれない。自分の内側に溜め込んで押し込んで、その歪みが心にまで及んでいた。
誰かに話すことで心の整理が出来ていくものなのかもしれない。
被害者意識ばかりでもなく、加害者意識ばかりでもない、本当の意味での思い出に変える為には必要な通過儀礼なのかもしれない。
「・・・なんて言って、でしゃばりですよね、私。」
「いや、良いよ。今は聞かれてもそれ程嫌じゃないし、それに・・・隠してばかりだとあの女に何時までも拘ってるようで、自分でも嫌だし。」
「・・・。」
「ただ・・・納得行かないっていうか・・・どうして他の男に乗り換えたのか聞きたい気持ちはある。そうしないと・・・気が済まない・・・。」
言ってからで何だが、こんな愚痴めいたことまで話して良いものか、と思う。
だが、同時に話したい、聞いて欲しい、という相反する気持ちがある。複雑な気持ち、というのはこういうことを言うんだろうか。
「・・・ふられた方は納得なんてできないですよ。どれだけ理由を話されても・・・。」
「・・・そうかも知れないな。」
井上も以前ふられたことがある、と言っていた。だからだろうか、無意識に相槌を打たせるものを感じる。
恋愛のカリスマ−この言葉自体、安っぽく感じる−とやらが言っても多分知ったことを、と鼻で笑うところだ。
「安藤さんは・・・優子って女性とやり直したいんですか?」
「もうよりが戻るなんて思ってないし、戻したいとも思ってない。ただ、納得行かないだけ・・・。」
井上が言ったとおり、譬えあの女、優子に会って理路整然とした理由を何度となく聞かされてもそう簡単に納得はしないだろう。納得することを拒むかもしれない。
だけどどうして俺を捨てたんだ、って俺が問えば優子が理由を説明したことはその瞬間に水の泡と化す。そのまま物別れになるのがオチだろう。
そう言えば潤子さんも前に、恋愛で定義とか公式とかは有り得ないし、考えない方が良いって言ってたな・・・。
こういうことなんだろう、と今なら分かるような気がする。
まあ、こうもあの女に拘っていると未練がある、と思われても仕方ないだろう。
実際のところ、今尚納得行かないなんて言っているのは未練がましいという言葉がぴったりだ。
しかし、俺があの女とやり直したいのかと尋ねた井上の表情にはかなり不安の色が出ていたように思う。
思い過ごしか思い上がりか知らないが、やっぱり気になるんだろうか?
俺だって好きな女が昔付き合っていたかどうかが気になる、否、気にする。
井上をふったという相手のことは全く気にならないというわけじゃない。
だから好きなんじゃないか、と問われるとちょっと答え辛いが・・・詮索する気が起こらないことだけは間違いない。
何故かは俺自身分からないからどうにも答えようが無い。
すんなり井上が好きだと思えれば、事は解決するかもしれないが・・・。
暫く広い店内をぶらぶらしているうちに、数冊の雑誌や本が俺と井上の手に引き込まれていく。
俺は音楽関係の雑誌ばかりだが、井上はハードカバーの小説やら料理の本やらバリエーション豊富だ。
俺は特別この雑誌が欲しいというわけでもないんだが、たまには、という気になって何時の間にか手にとってそのまま持っている。
井上はかなりの数を脇に抱えているが、相変わらず俺のコートの袖は離そうとしない。
ふと店の時計を見ると、とっくに8時を過ぎている。
まあ、俺も井上も一人暮らしで門限なんて自分次第というやつだから、そういう意味では時間を気にする必要はまるで無い。
だが・・・このまま二人で居ると別の意味で時間が気になってくる。
・・・俺を散々な目に遭わせてくれた高熱もすっかり下がったし、あれだけの夕飯を食えるくらいだから元通りになったと断言できる。
だから井上はもう、俺の家に泊まりこむ必要はない。
俺は一旦井上と一緒に家に帰って、荷物を纏めてもらってから井上の家に送り届ける必要がある。
今や勝手に帰れ、などと言う気は微塵も無い。だからこそ、余計に時間が遅くなるのは気にかかる。
二人で長く居ると、帰したくないと思いそうな気がする・・・。
・・・否、もう既に少しばかりそう思い始めている。
帰したくないという気持ちがこのまま膨らめば、俺は仮病を仕立ててでも引き止めようとするかもしれない。
井上のことだ。俺が居て欲しいといえばそれを二つ返事で受け入れそうな気がする。そうなったら・・・
何も起こらない、否、何もしないとは言い切れない・・・。
そんなことになったら、もう返事どころの話じゃなくなる。
それじゃ、何のために智一を呆れさせるように井上を待たせているのか分からない。
俺は単なる優しさ欲しさや人恋しさを好きという気持ちと錯覚したくないから、そのために気持ちを纏める猶予期間として、井上を待たせているんだから・・・。
「安藤さん・・・。」
不意に井上が呼びかける。俺が見た井上の瞳は潤んでいる。
天井の蛍光灯が乱反射して妖しい輝きを放っているように思うのは俺の錯覚か、それとも井上の気持ちが届いているからだろうか・・・?
夜という時間は深まるに連れて人を秘め事へと唆す魔力を帯びてくるのかもしれない。
言葉を失った俺に井上がさらに言葉を続ける。
「体の具合、どうですか?」
・・・俺は思わず聞き返しそうになる。井上の問いは俺には予想外のものだった。
時間を気にすることから始まって井上がこれからどうするか、俺がこれからどうなるか一人で勝手に盛り上がっていたことが小恥ずかしい。
「あ、ああ、もう何ともない。」
「そうですか・・・。」
そう言った井上の顔は微笑んでこそいるが、何処かがっかりしたような色が見え隠れしている。
まさかもっと寝込んでれば良いのに、と悪意を持つようには思えないが・・・。ちょっと気になる。
しかし、井上の表情に一喜一憂するのがもう不思議でなくなっている。
今はそれを別にどうとも思わない。
井上のことは俺の心の明らかに大きな領域を覆い尽くした。それも、恐らく復興は二度と無理だと思っていた部分にまで・・・。
店をほぼ一周回った俺と井上はレジへ向かう。
レジに二人それぞれ脇に抱えていた本や雑誌をどかっと乗せると、店員はちょっと驚いたような顔をしてからレジ打ちを始める。
まあ、普通1冊か2冊くらいのところに10冊くらい出されたら驚きもするだろう。
俺のコートの袖が軽くなる。井上が手を離したようだ。
夕食を食べた中華料理屋からずっと離さなかったから、逆に軽くなって違和感を感じる。
「これ、私の分です。」
レジ打ちが終わる少し前に、井上が俺に千円札3枚を差し出す。そう言えば、支払いは別々にしてくれ、とは言わなかったか・・・。
店員がレジを打ち終えた本や雑誌は俺のと井上のとが一緒に積み重なっている。出されるレシートは1枚だろう。
「これで足りる筈ですけど、足りなかったら直ぐに出しますね。」
「良いのか?」
「もうお礼は十分して貰いましたから。」
「・・・じゃあ。」
俺は井上から紙幣を受け取ると、自分の分を概算して紙幣2枚を取り出す。雑誌も数冊あると結構かかるものだ。
直後にレジ打ちが終わって、金額が表示される。当然・・・俺と井上の出したものの合計だ。
支払いを終えた俺は井上と一緒に店を出る。
後で俺が言って二人分に分けてもらったから、それぞれ外側の脇に買ったばかりの本や雑誌が入った袋を抱えている。
そして俺の内側の腕には再び軽い引っ張り感がある・・・。
もう12月も近くなって、夜更けになると外の冷気は強さを増して身を切るような鋭さを帯びている。
店内との急激な温度差を受けて思わず肩をすぼめる俺に、井上がより身体を寄せてくる。
思わず肩を抱きたくなる衝動に駆られて寸前で思いとどまる。
井上の行動にはどきっとさせられることが本当に多い。昨日だって、今朝だって・・・。
急にさっき店の中で考えてきたことが復活してくる。
井上がこれからどうするか、俺がこれからどうなるかってことが・・・店を出たことで確実に結論を出さなければならないときが一歩近付いたわけだ。
本当に・・・どうする?どうなるんだ?俺と井上は・・・。
俺はその場に立ち止まる。否、動けなくなっていると言った方が良いだろう。
益々深みに嵌っていく思考が脱出しようと足掻けば足掻くほど、より深く沈んでいく。俺の頭の中にはこれから先のことしかない。
「もし・・・安藤さんがまだ具合良くないなら、もう一晩留まって看病しようかな、って思ってたんですけど・・・大丈夫なら、もう良いですね。」
井上の呟くような言葉は、俺にではなく井上自身に向けられているように聞こえる。自分自身を納得させるために。
かなり確信しているような言い草だが、これは多分思い過ごしや思い上がりじゃない。
何故なら・・・井上は俺の顔を見ていない。
視線を落として、通りの良い普段の喋り方じゃなくて、喋りながら言葉を咀嚼しているようなもごもごした喋り方だ。
井上も・・・俺と同じことを考えていたんだろうか?
そう思うと、余計に頭に熱が篭る。帰したくないという思いと同時に、欲望が急速に頭をもたげて来るのが分かる・・・。
俺は・・・何が欲しいんだ?
井上の気持ちか?体か?それとも・・・何もかも全てか?
否、ただ自分の思いどおりになる女が欲しいだけなんじゃないのか?
好きだと一言言えばスイッチが入る玩具が欲しいだけなんじゃないのか?
「・・・俺は・・・井上に居て欲しいと思ってる・・・。」
「安藤さん・・・。」
「ただ・・・そうすると、際限がなくなりそうな気がする・・・。もう俺は病人じゃないから・・・その・・・そういうことはないって断言できない。」
「・・・私は・・・。」
「別に汚らしいこととか言うつもりはない。でもそれじゃ、何のために気持ちを纏めて何時かは返事をするって言って、井上を待たせてるのか分からない・・・。」
「・・・。」
「そのことのために好きだなんて言葉を使いたくないんだ、俺は・・・。」
好き、という言葉を口にすることがどんなに勇気の要ることか、そしてどんなに大切なことか、俺はそれなりに分かってるつもりだ。
好き、という言葉を口にするまでに何度も迫り来る「ふられるかもしれない」という恐怖に打ち勝って、自分の気持ちをその相手にだけ集約して
それを口にすることは、多大なエネルギーを使うものだ。
俺自身が複数の相手に気持ちを振り分けられるほど器用じゃないせいもある。それほど相手に恵まれないし・・・。
だが、だからこそ、自分の気持ちの全てを注ぎ込みたい。
相手に向けた始まりの合図であって、同時に相手にそれを受容する意思を問う言葉、それが「好きだ」という言葉なんだと俺は思う。
だから・・・衝動的な気持ちや降って沸いたような欲望を満たすために・・・その言葉を使いたくない。
「少なくともこれだけは分かって欲しい。嫌いだからとか、居て欲しくないからとか、そういう気持ちじゃないってことだけは・・・。」
井上の顔を見て言う勇気は俺にはない。
井上と同じように視線を下向きにして独白するように言葉を並べる。言い訳がましく聞こえるだろうな、きっと・・・。
「そういう気持ちで言ってくれるなら・・・嬉しいです。」
井上の声に明るさが戻る。
俺が向けた視線の先には、あの心落ち着く柔らかい微笑が浮かんでいる。
「やっぱり安藤さんって真面目なんですね。」
「こういうの・・・真面目って言うのか?」
「だって、自分の気持ちがどうかってことをあんなに考えてるじゃないですか。凄く真面目って証拠ですよ。」
「・・・そうかな?」
「ええ。」
井上は何処となく嬉しそうだ。どうやら前の二の舞は避けられたらしい。
譬え誤解されたとしても、あれだけは御免だ。
「今日のところは帰りますね。」
「・・・今日のところは、って・・・。」
「何か考えてます?」
「そ、それは井上の方だろ。」
井上はわざわざ腰を曲げて上目遣いに、あの悪戯っぽい笑みを俺に向ける。
どうもこの顔は苦手だ。黙っていると何もかも秘めた気持ちを引っ張り出してしまいそうな気がする。
コートの袖から伝わっていた引っ張り感が、軽い圧迫感に変わる。
見ると、井上が俺の腕を抱え込むように腕を回している。当然だが、これまでより密着度は大幅に増す。
二人分の衣服の厚みを通して、心拍数を早める柔らかい感触が微かに伝わってくる。
意識を向けないとよく分からないような程度だから、余計に気にしてしまう。
「もう一歩ですね?」
「・・・多分。」
俺は言葉を濁す。実際には多分、ではなくてもっと近い状態、もう一歩じゃなくて限りなく近いような気がする。
もしかしたら、今この場で口にするだけの勇気がないか心の準備が出来ていないかのどちらかでしかないのかもしれない。
井上とのこの関係は、今回の経緯を辿る中で、俺にとってなくてはならないものになったと思う。
だが、俺が井上の告白に返事をしたとき、その内容に関わらず、この関係が変質するのは間違いないだろう。それが・・・怖い。
より密接な関係を選択すれば今度は、あの夜の記憶が再現されるんじゃないか、と心の何処かに不安を抱き続けなければならないかもしれない。
それならいっそ、このままで居たい・・・。俺が今この場で好きだと言えないのは、そんな気持ちがあるせいだろう。
やっぱり・・・あの記憶に決着を付けなきゃ駄目みたいだな・・・。
まだ・・・好きだとは言えない。整理が出来るまでもう少し待ってくれ・・・。
その呟きは俺の心の内だけに浮かび、そして消える。
12月の寒空に俺と井上の吐息が白く舞い上がり、やがて霧散する・・・。
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