雨上がりの午後

Chapter 17 遠き日の悪夢、不定形の未来

written by Moonstone


 ・・・再び視界が戻る。意識が吸い込まれた時とは逆に、暗闇の中にぱっと電灯が灯るような感じだ。
俺は雑踏の中に聳える柱に凭れて立っている。ようやく慣れ始めた大海駅の中央改札前。何時もの待ち合わせ場所に予定より10分ほど早めに来た。
前に会って以来、2週間ぶりに会う。そう、彼女と・・・。
 俺は何度となく右から左、手前から奥へと視線を動かして彼女の姿を探す。だが、待てども待てども一向に彼女の姿は見えない。
ふと時計を見ると、待ち合わせの時間を過ぎてしまっている。今まで何度かデートをしたけど、彼女が遅れるなんて事はなかったんだが・・・
まあ、そういうこともたまにはあるだろう。俺だって危うく電車に乗り遅れそうになったことがあるから、一度や二度の遅刻で目くじらを立てる資格はない。

尚も待つ。
さらに待つ。
・・・それでも彼女は来ない。


 時計を見ると待ち合わせの時間から30分を過ぎている。おかしい、いくら遅れるといっても、こんなに遅れるとは思えない。
・・・何かあったんだろうか?そう思うと、俺の胸の奥が急激にざわめき始める。どうしよう、家に電話するか・・・?
しかし、入れ違いになるってこともある・・・。もう少し待ってみるか・・・。
 雑踏の風景がめまぐるしく変化する中、俺は次第に焦りと不安と苛立ちが濃くなってくるのを感じる。
一体何時になったら来るんだ?もしかして事故でも?約束の時間からどれだけ過ぎたと・・・!
だが、半月ぶりに逢うという気持ちを増幅することで、胸の奥のざわめきをどうにか封じる。

 ふと正面を見ると、見覚えのある顔が近付いてくるのに気付く。・・・彼女だ!今まであれほど燻っていた嫌な気分が一気に霧散する。
彼女の家に電話しないで良かったと改めて思う。よく考えてみたら、待ち合わせに来ないと相手の家に電話するなんて、ちょっと間抜けな話だと思う。

「どうしたんだよ、珍しいなぁ。」

 気分がすっかり解れた俺は何時もの調子で彼女に声を掛ける。
だが、様子がおかしい。何時もなら俺に固定されている視線が妙に泳いでいる。それどころか・・・俺と視線を合わせるのを嫌がっている・・・?

「悪かったわね。良いでしょ、別に。」
「?な、何だよ、何かあったのか?」
「もう・・・疲れたのよ。」

 俺が伸ばした手を乱暴に振り払うと、彼女はぷいっと背を向けて雑踏の中へ走り去っていく。
俺は慌てて後を追おうとするが、突然立ちはだかるように数を勢いを増やした人並みに翻弄されて満足に近付けない。
その間に彼女の姿はどんどん雑踏の中に消えていく。
 もう・・・見えなくなる!
待ってくれ!一体いきなりどうしたって言うんだ!
せめて理由くらい聞かせてくれ!!

優子!!

 次の瞬間、ばっと目の前の風景が変わる。黒の濃淡で表されてはいるが、紛れもなく俺の部屋だ。
そして正面には・・・黒の濃淡に僅かに髪の茶色と肌の白さが浮かぶ井上の不安げな顔がある。
 ・・・夢だったらしい・・・。安堵した俺は眼を閉じて溜め息を吐く。溜め息の後、直ぐさま浅く速い呼吸が始まる。
心臓が嫌な高鳴りを放っている。質の悪い脅かしに遭った後のようだ。

「・・・大丈夫ですか?」

 手の横の動きに合わせて水分が拭われていく感触を額で感じる。
どうやら汗をかいていたらしい。熱のせいだけじゃないのは自分でも分かる、否、熱の要因は度外視しても良いだろう。
 最悪だ。最初に別れを仄めかされた時と、別れを宣告された時の記憶がごっちゃになった夢に不意打ちを食らってしまった。
それぞれの時の記憶が鮮明に蘇ってくる。見せつけられると言った方が良いかもしれない。

「凄く魘されてましたよ。」
「・・・そう?」
「ええ・・・。何度も譫言で『優子』って・・・。」

 !口走ってたのか?!口にしたくなかった、聞かれたくなかった名前・・・そう、俺を捨てたあの女の名前を・・・。
 俺は言い様のない気分で眼を閉じる。そうしていないと、あの時の記憶に涙腺が負けそうだ。
情けないほどに弱り切った今の俺には嫌がらせに等しい。
今になってもまだあの女の記憶をずるずると引き摺っている自分がとことん嫌に思える。

「前に・・・付き合ってた女だよ・・・。夢に出てきて・・・夢の中でも捨てられちまった・・・。忘れたつもりでも・・・潜在意識の中ではまだ・・・
忘れちゃいないって・・・ことか・・・?はは、未練がましいったら・・・。」
「・・・。」
「別によりを戻したいとか思ってや・・・しないのに・・・、何でだろうな・・・。何もかも壊して、破いて・・・捨てちまったってのに・・・。
記憶も・・・そう出来たら・・・どんなに楽か・・・。」

 独り言か、それこそ譫言みたいに俺の気持ちが言葉になっていく。こんなこと、井上に話したところでどうにもならないのに・・・。
まさか聞いてもらって同情してもらおうとでも無意識に思っているんだろうか?
 だとしたらますますそんな自分が嫌だ。こんなこと、隠して葬り去るならまだしも他人に易々と語るようなもんじゃない。
月並みなコメントで相談に乗った気になる恋愛評論家にネタをくれてやるなら話は別だが。
 頬に何かが触れる。井上の指だろう。
そう思うと自然と呼吸が落着いていく。自棄気味に口走ることで勝手に昂ぶっていた気持ちが空気を抜くように静まっていく。
何というか・・・ぐずっているのをあやされるような・・・。それだけ俺がガキっぽいということか?

「忘れるなんて・・・出来ませんよ、きっと。」

 囁くような井上の声が聞こえる。子守り歌や寝物語でも聞いているような気分になる。これも天性の才能なんだろうか?
それともやっぱり俺のガキっぽさ故にそう思うだけなんだろうか?
熱を出して初めて素直に居て欲しいと言ったり、拗ねてみたり甘えてみたりする辺りは、ガキっぽいと言うにぴったりだ。

「だって・・・安藤さんはその優子さんって女性(ひと)が本当に好きだったんでしょ?結婚したいって思うくらい・・・。」

 俺は眼を閉じたまま無言で小さく頷く。もう今更隠し立てすることもない。

「そんな女性のこと、一月やそこらでなかったことにする、なんて出来ないですよ。ううん、ずっと心の何処かに残ると思うんです。
もし全部忘れることが出来たら・・・きっとその好きだった、って気持ちは嘘だったか、心の何処かで何時か別れるだろうなって思ってたか、どちらかですよ。」
「・・・。」

 俺は目を開けて井上を見る。
微笑んではいるが何処か切なげで・・・、忘れ去られた太古の女神像にも思えるその表情に俺は見入ってしまう。

「だから・・・忘れようなんて思わない方が・・・良いと思うんです。忘れようとしたり、否定しようとする方が・・・負担になると思うから・・・。」
「・・・時の流れに身を任せろ、って・・・ことか・・・?」
「私の考えですけどね・・・。」

 そんな悠長な、とも思う。
だけど、あの日以来忘れようとして、否定しようとして一体何の進展があっただろう?自分にとって何の得になっただろう?
思い返してみると・・・何もない。
あったといえば、井上に対する粗暴な言動とその後の自己嫌悪くらいだ。それ以外は本当に・・・何もない。
 それよりも、きっかけこそ成り行きや押しの強さに負けたりといった、決して主体性のあるものとは言い難いことだが、
受け入れた方が何かと良かったことが多かったように思う。
今までは成り行きで何時の間にかそうなったと思っていたようなことも、元は受け入れたから生じた結果なんだと思う。
むしろ、感情に任せて直ぐ頭がヒートアップする普段の方がよっぽど考える環境には相応しくないということなんだろうか・・・?

「井上ってさ・・・。俺より大人だよな・・・。自分が・・・ガキっぽく見えるよ・・・、本当に・・・。」
「一応、安藤さんより1年余分に生きてますからね・・・。」
「もっと・・・大人にならなきゃ・・・駄目だな、俺は・・・。」
「私だって勝手に思い込んで拗ねたりするんですから・・・お互い様ですよ。」

 井上の指が優しく俺の頬を撫でる。悪夢に強張っていた俺の顔が自然と綻ぶ。久しく感じなかったこの気分を・・・幸せというんだろうか?
だとしたら・・・このまま続いて欲しい。今は素直に・・・そう思う。

 ・・・ふと目を覚ます。今度は雑踏の中じゃなくて、ベージュ一色の無機質な天井が見える。
左を見れば相変わらず散らかっているリビングと台所が見えるし、右を見ればこれまたベージュ一色の壁が見える。
部屋全体にもカーテン越しに日の光を吸い込んでいて薄明かりの中に居る感じだ。
此処はどう見ても見慣れた俺の部屋だ。また悪夢に魘されるのかと一瞬思った俺は胸を撫で下ろす。
 現実の世界だと確信したところで、腹の辺りに重みがあるのを感じる。何だろう?
視線を腹の方へ向けると・・・交差させた両腕を枕にして突っ伏している井上が居た。着ていたコートを羽織って顔をこっちに向けて眠っている。
初めて見る井上の寝顔に−初めてじゃなかったら一騒動あるだろう−俺は思わず見入ってしまう。
 やっぱり疲れたんだろうか・・・?
智一とのデートに出掛け、俺のことを聞いて駆け込んで、ずっと付きっ切りだったとしたら・・・色々あり過ぎたと言って良い。
俺には看病の経験はないから看病疲れはあまり実感が湧かないんだが。

「ん・・・。」

 井上が少しくぐもった寝言を言って僅かに体を捩る。乱れ髪がベールのように顔を少し覆っているのもあってか、間近で見るそれはかなり色っぽい。
何だか誘っているような印象すら受ける。寝てるんだから意図的なものじゃないだろうが・・・。
 ぐっすり寝てるようだし、それを起こすのは気が引ける。
昨日より幾分全身の倦怠感は減ったが、まだ自分の身体じゃないような感覚は健在だ。大人しく眠ろうとした方が賢明だろう。
今までは熱で気を失ったようなものだし・・・。そう思って俺は眼を閉じて呼吸のリズムを落着かせようとする。

「・・・ん・・・あ、寝ちゃってた・・・。」

 そうこうしていると、井上の声が聞こえて程なく腹にあった重みが消える。井上が目を覚ましたようだ。
もしかして俺が起こしてしまったんだろうか?
そう思っていると、額に何かがそっと触れるのを感じる。井上の手か・・・?否、何かがこつんと当たったような・・・。

「熱は・・・ちょっと下がったかな・・・?」
「?!」

 井上の声が俺の顔の傍から聞こえる。唇の辺りに微かに風がかかるのを感じる。

ということは、今俺の額に触れているものは・・・!

全身に緊張が走る。此処で目を覚ましたら、それこそこうなるのを待っていたと誤解されかねない。
今は起きているのを気付かれないように呼吸を押え込むのが精一杯だ。
 額から感触がなくなる。額合わせは終わったらしい。

「起きたら熱冷ましを飲んでもらって・・・、あと、何か食べた方が良いんだけど、まだ無理かな・・・?」

 椅子の足が床を擦る音と共に井上の呟きが聞こえてくる。
足音が台所の方へ遠ざかっていく。今日もまだ此処に居てくれるようだ。・・・そう思うと本当にほっとする。
井上がまだ居てくれることが分かってもう一眠りしようとするが、1日以上満足に身体を動かしていないのでなかなか難しい。
寝るといっても熱で気を失ってそのついでに寝ていたようなものだが、多少ながらも熱は下がったようだから、それも期待出来ない−あまり良いものではないが−。
 台所の方から断続的にゴトゴトと音がする。俺は首だけ台所の方へ向けて目を開ける。
井上が流しの下にある戸棚を開けて、鍋やフライパンといった調理器具を取り出して、取り出した時とは違う順番で仕舞っていくのが見える。
どうやら整理をしているらしい。
俺は自炊をしないから調理器具なんてまともに使わないし、たまに使ったとしても洗って適当に乾かして戸棚に放り込むだけだ。でも、何で・・・?
 全て仕舞い終えると、井上は手を洗って掛けてあるタオルで拭く。そしてこっちを向いたところで俺と目が合う。
俺が自分の方を向いているのが分かったらしく、井上はこっちへ小走りで駆け寄って来る。

「あ、起こしちゃいましたか?」
「・・・いや、それよりちょっと前に目が覚めたから・・・。」
「熱はちょっと下がったみたいですけど、念のため熱冷まし飲んで下さいね。あと、出来たら何か食べておいた方が良いんですけど・・・、どうですか?」

 額合わせで熱を計った時の呟きと同じ様なことを言う−もっともそんな事を言うわけにはいかないが−。
食欲はまだ殆ど感じない。熱が続くとそれだけでかなり辛いから、熱冷ましは飲んでおいた方が良さそうだ。

「熱冷ましは飲むけど・・・食欲は・・・まだない。」
「昼頃食べれるようだったらお粥とか作りますね。」

 井上はベッドの傍に置いてあった紙袋の中を探って、箱を一つ取り出す。その蓋を開けて錠剤を3つ取り出すと、箱を紙袋に仕舞って再び台所に走る。
コップに半分ほど水を汲んで戻ってくる。随分忙しないが、そうさせているのは俺なんだよな・・・。
 昨日はガキみたいに甘えてしまったが、今度は自分で起きてみよう。
両肘に力を込めて上体を起こそうとするが、なかなか上手くいかない。相当体力を奪われてしまったのか、力も満足に入らない。
身体を台所の方向へ捻りつつ、いちいち気合いを入れて体を動かして、ようやく上体がベッドから少し浮き上がる。

「まだ無理しちゃ駄目ですよ。熱もまだあるんですから。」
「・・・自分で起きないと・・・。」
「病気の時くらい甘えて良いんですよ。」
「・・・。」
「さ、薬飲んで下さいね。」

 井上は枕元にコップを置くと、右手で俺の頭を支えて左手に乗せた錠剤を俺の口に近付ける。
俺が大人しく口を少し開けると、井上の指が唇に少し触れて錠剤を差し入れる。それだけでもう俺は緊張してしまう。
さっきの額合わせもそうだったが、井上は俺に振れることを何とも意識していないのか、それとも・・・。
 俺が錠剤を口に含んだところで、井上はそのまま身体を捻って枕元のコップに手を伸ばす。丁度俺の顔の上に井上の胸がある格好になる。
コップを取って戻るまでのほんの僅かな時間で俺の緊張は極限に達する。身体が再び、それも急激に熱くなるのが分かる。
 井上は俺の唇にコップを近付ける。少し口を開くと井上がコップを傾けて水を飲ませる。水がある程度口に溜まったところで錠剤ごと飲み込む。
井上はそのままコップをゆっくりと傾ける。一定間隔で含んだ水を飲みながら、俺は緊張を鎮めようとする。
 コップの水が無くなると、井上はコップを離して俺の頭をそっと横たえさせる。冷たい水が身体に浸透したせいか、少し緊張が静まってきた。
椅子に座った井上と視線が合う。・・・こういう時、何を言えば良いんだろう?以前は顔を合わせて会話することも避けていたのに、今はそんな事を考えたりする。

「今日もちょっとバイトは無理ですね。」
「・・・こんな身体じゃな・・・。」
「今は治すことが先決ですよ。まだ熱もあるから・・・。」

 井上は表情を曇らせながら、布団を掛け直す。
井上の長い髪が顔に触れる。看病してもらうと意外に距離が接近するものだ。手を伸ばせば簡単に抱き寄せられるくらい・・・。
 ・・・どうしてこんな事を思うんだろう・・・?井上から告白を受けてから、やっぱり男と女ということが、
つまりは恋愛の対象かどうかが先に頭を擡げてくるんだろうか?
そうなることをあれほど避けようとしてきたのに・・・結局、男と女という立場や恋愛の対象かどうかということ抜きには出来ないんだろうか・・・?

夢でも魘されるような記憶を刻まれるくらいなら、
もう二度と恋愛なんてしたくない。

だけど・・・そうでなかったら・・・?

 こんなことを考えるのは、俺が弱っているからだろう。何時もの調子だったら同じ様に思うかどうか判らない。
治ってからもう一度考えてみるべきかもしれない。ひとときの人恋しさに任せて流されたらそれこそどうなるか・・・判らない。
 ゆっくりと流れる沈黙の時間の中、俺は纏まりのないことをあれこれと考え続ける。
考えは纏まらなくても纏まらないことは分かるなんて妙な話だが、これも熱のせいだろうか?それより、井上は退屈しないんだろうか?

「・・・井上。」
「はい?」
「退屈じゃないか・・・?」

 井上は小さく首を横に振って、口元を少し緩めた笑みを浮かべる。

「看病で退屈なんてしませんよ。」
「・・・そう。」
「それより、安藤さんは退屈しません?何か欲しいものとかあったら言って下さいね。」

 今は別にない、と言いかけたところで、ふと何かが脳裏に浮かび上がってくる。以前よく似たことがあった・・・。
そうだ、井上がバイトの初日に高校生の団体に注文を聞いていて、最後に聞かれた奴が「これを頼む」とか言って井上を指差したんだ・・・。
まだ続きがある。店内を仰天させるようなその「注文」に井上はこう言ったっけ・・・。

既に予約を戴いていますので、お受けできません

 先約がある。そのことがずっと俺の心の何処かにこびり付いていたのは間違いない。
だから色々と誘惑(?)のポイントがあっても踏みとどまっていられたというか、踏み切れなかったというか・・・。
 本当のところはどうなんだろう?
もし居るとしたら、井上が俺に告白したのは本気だからか?だとしたら井上は、あの女と同じ様に「身近な存在」にくら替えするつもりなのか?
それが本当なら、俺は井上の気持ちを受け入れられるのか?井上のしようとしていることを許せるのか?
だって、もし「先約」が居るなら、智一は巻き添えを食らった上にまんまと騙されたようなものだ。
 今までは井上の「領域」に踏み込むのには躊躇いがあった。
井上の「遍歴」を聞きたくなかったという気持ちがあったのかもしれないし−最初井上の家に引っ張り込まれた時、かなり訝った覚えがある−、
あの女と同じ事をしようとしているということを知りたくなかったのかもしれない。
だが、何れ気持ちをはっきりさせようとするなら、「先約」がどうなのかを知ることは大きな要因になる。
今この場で・・・聞いておこう。今くらいしか聞こうという気にならないかもしれないし。

「・・・井上。」
「はい?」
「バイト初日の日にさ・・・高校生の客がその・・・『これを頼む』って言って、井上を指差したこと・・・覚えてるか?」
「えっと・・・ああ、そんなことありましたね。」

 一瞬動きを止めた井上だが、どうやら覚えていたらしい。
まあ、初日であんな経験をすることもそうそうないだろう。それにしても、俺が「注文」するみたいにちょっと躊躇したのは情けない。

「それでさ・・・、井上は・・・『先約があるから駄目』とか言ったけど・・・それは?」
「ええ、覚えてますよ。」
「その・・・こんなこと聞くのも何だと思うけど・・・先約は良いのか?」

 そう言いつつ、視線が何故か井上から壁の方へ逸れてしまう。別に俺に疾しいところがあるわけじゃないんだが・・・。
きっちり「先約は居るのか?」とかいうつもりだったのに、何だか曖昧な言い方になっちまったし・・・。

「あれは・・・とっさに口を突いて出たんですよ。」
「・・・。」
「突然のことで驚いて、あれこれ考えてる間にぱっと言っちゃったような感じですね。」
「・・・そう。」

 「先約」はそれこそとっさに繰り出した返し技だった訳か・・・。何だかほっとする・・・って・・・、俺は・・・。
また心臓が激しく脈打ち始める。全身が熱くなってくる。とてもじゃないが、今の状況で井上の方は向けない。俺は寝返りを打って壁の方を向く。

「・・・でもね、安藤さん。」
「・・・?」
「とっさに出たっていっても・・・何もないところからは出ないですよ。」

 それって・・・どういうことだ?
俺は井上に背を向けたまま、耳に意識を集中する。

「そうなれば良いなぁっていう希望があったから・・・、ああ言ったと思うんです。」
「!」
「もっともあの時はバイト初日だったのもあって緊張してたから、どうしてああ言ったかってことはあまり深く考えなかったんですけどね。」

 ・・・井上はもうその頃から本気だったんだ。ストーカーみたいに執念深く食い下がって、挙げ句の果てに同じバイトを始めたのも、
全て「好き」という気持ちが井上を突き動かした結果だったんだ・・・。

「・・・安藤さんには私のこと、彼が居るのに見えないところで浮気するような女だって思われてたみたいですね。」
「・・・。」
「私も浮気したりされたるするのは嫌なんですよ。振られたことだってあるし・・・。もし誤解されてるなら、私はそんなことはしないし、
したくないって思ってることは知ってて欲しいです。・・・でも、今の私じゃ説得力ないですね。ちょっと自分の希望どおりにいかなかっただけで、
腹いせみたいにデートしたりするくらいだから・・・。伊東さんにも結局迷惑を掛けただけだし・・・。」

 俺は体を180度捻って井上の方を向く。井上の表情は最後の方の口調を反映するように沈んでいる。
井上は俺に対しても智一に対しても、すまないという気持ちなんだろう。

「智一は俺と違って、そういう気持ちとか理解できる奴だから・・・大丈夫だと思う。それに・・・元はといえば俺が・・・はっきりしなかったから・・・。
俺が最初からはっきり言ってりゃ・・・こんなにこじれなくて済んだんだ・・・。」
「・・・。」
「智一には・・・俺からちゃんと説明する・・・。同じバイトをしてることとか・・・前に買い物に一緒に行った理由とか・・・。
あいつは俺が試合放棄を宣言しておきながら井上と一緒に居たことに腹を立てて、その流れでデートの誘いに踏み切ったようなもんだからな・・・。」
「・・・私も安藤さんも・・・互いに意地を張ったばっかりに、伊東さんを巻き添えにしてしまったんですね。」
「そうだな・・・。智一には悪いことしたって思ってる・・・。謝らないといけないな・・・。」

 一旦会話が途切れる。だが、気まずくはない。
俺はそうだし井上も恐らく、次に言う言葉を選んでいるんだろう。今回の被害者とも言える智一に説明すべき最大の要件について・・・。

「安藤さんは・・・私のこと、どう説明するつもりなんですか?」

 井上が先手を打つ。そうだ、智一に何より説明しなきゃならないことは、俺が井上をどう思っているか、ということなんだ。
俺があの時に気持ちをはっきりさせてそれを言っていれば、こんな事にならなかったと思う。
でも、こうして決断を促されて・・・未だどう言うべきか迷っている俺が居る。
 好きだ、と言ってしまうのは簡単だろう−そりゃ当然、緊張はするだろうが−。
先に井上が俺に好きだと言っているから、俺が好きと言って断られる可能性はまず無いと言って良い。安心確実な結果が約束されているわけだ。
 だけど、それで良いんだろうか?
振られる心配がないから好きだと言って、それで長続きするんだろうか?
そんな「好き」という言葉が自分の気持ちだと思うのは言いようのない違和感を感じる。
反則っぽいというか・・・気持ちを伝えたいという決断が躊躇いを凌駕して告げるんじゃないというのは、本当の気持ちだとは思えない。
 それに・・・相手から好きだと言ってきてそれに応じるパターンは、前と同じだ。
あの時、俺の気持ちはあの女、優子に向いてはいなかった。
俺自身は初対面だったし、あの時の俺には別に好きな相手が居た。当然の如く片思いだったが、あの想いは真剣だったと思っている。
 勿論あの女に対する気持ちに嘘偽りはなかった。本当に真剣だった。そうでなかったらあんなにショックを受けたりしない。
だけど・・・その時好きだった相手に「好きだ」と言わないで、あの女と付き合い始めたのは、また振られるのが嫌で
無意識のうちに安全確実な方を選んだんじゃないんだろうか?

それで良いのか・・・?

「まだ・・・好きだからとは言わない・・・。今の気持ちが本当かどうか、まだ判らないから・・・。」
「・・・。」
「今回だって・・・俺が熱を出してなかったどうなったか・・・判らないし、今好きだって言うのは、井上の優しさに便乗して安全な方を選ぶみたいだから・・・
ずるいような気がする。それが本当に好きだっていう気持ちか・・・自信がない。」
「・・・。」
「ただ・・・智一には試合放棄を取り下げるって言うつもりだし・・・、自分の本当の気持ちが判ったら・・・前の返事はきちんとする・・・。
先延ばしかもしれないけど・・・今はこうとしか言えない・・・。」

 井上は小さく頷く。ちょっと表情が沈んでいるのはやっぱり俺が返事をすることを期待していたのに、それが裏切られたせいだろうか?

「じゃあ・・・、私は安藤さんが好きだって言ってくれることを期待してますね。」
「・・・悪い。この場で決断できなくて。」
「待てるまで待ちますって言ったのは私だから、良いんですよ。」

 そう言った井上は、不意に俺の上に突っ伏す。
丁度今朝俺が目覚めた時の上体と同じ様に、両腕を交差させて顔を俺の方に向けて・・・。

「本当言うと・・・好きだって言って欲しかったなぁって。」
「・・・そんな眼だった。」
「もう一息ってところですか?」
「・・・そうかもしれない。」

 もしかしたら気持ちは固まっているのかもしれない。
だが、俺はそれが判らないんじゃなくて、それと向き合う勇気がもう少し足りないのかもしれない。
ずるいのは判ってるが・・・もう少し待ってもらおう・・・。

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