雨上がりの午後

Chapter 16 熱い夜、労わりの触れ合い

written by Moonstone


 目覚めたがどうもおかしい。
起き上がろうにも頭が重い。何時も以上に起きたくないという感覚が強い。全身に妙な倦怠感が立ち込めている。
・・・風邪か?昨日風呂から上がってぼんやり音楽を聴いていたのがまずかったか・・・?
それに井上と口論をして以来−俺が一方的に怒鳴ってただけだが−、ろくに寝られない日々が続いているから、疲れが溜まってたんだろう。
 ・・・寝られない。その原因はたった一つ。井上が智一とデートするということだ。
二人が仲良く楽しそうに歩く姿が勝手に思い浮かんで、普段なら何気無しにメロディーを口ずさむ音楽も何時の間にやら終わっているという状態だ。
俺には関係ないと思おうとしても、二人の楽しげな姿が頭から離れない。頭の中のことだから逃げようにも逃げられない。
ただ、脳裏に展開される映像を強制的に見せ付けられるしかない。
 全身から力という力を抜かれた俺の脳裏に、再びあの映像が浮かぶ。それも今までより鮮明に。
・・・今日だ。この土曜日に智一は井上とデートの約束を取り付けたと言っていた。
近くの目覚し時計を手探りで手に取って見ると、時刻は既に12時前。待ち合わせ時間の10時はとっくに過ぎている。
・・・もう、おれにはどうしようもない。

 井上は今日バイトを休むと言っていた。それはその時間には帰れないと言っているのと等価だ。
昼食は勿論、夕食も一緒だろう。そしてそのまま・・・。
もう、それを否定することも、無関心を装うことしない。そんな気力はもう残っていない。あるのは唯・・・後悔と自己嫌悪だけだ。
俺は・・・井上に甘えてたんだ。井上がいつも俺を気遣ってくれて、俺に好意を示してくれることに・・・。
だけど、その逆はなかった。俺からは何もしなかった。ただ、待っていただけだ・・・。
 井上は結局待ってはくれなかった。普段なら、否、今までなら所詮こんなもんだ、と妙にあっさり割り切ることも出来ただろう。
でも、今はとてもそんな気分になれない。雪が降りそうな重々しい灰色の世界が心に広がるだけだ。
目を閉じると井上の顔が浮かぶ。何時も俺の方を向いていた笑顔は・・・もう見られないのか?

「・・・井上・・・。」

 弱々しい呟きが漏れる。言おうと思って言ったわけじゃない。・・・分かってたんだ。あのもやもや感が何なのか・・・。
それを認めようとする事を拒んでいただけだ。だが、それは同時に癒される可能性を放棄することでもあったんだ・・・。
分かってた。分かってたけど・・・。

怖かったんだ・・・。もう、傷付きたくなかったんだ・・・。

 身体から、心から、どんどん力が抜けていく。浅く早くなる呼吸だけがやけに耳に付く。
何にせよ、こんな身体じゃバイトに行けっこない。休ませてもらうように早めに電話しておこう。
・・・振られたショックでまた寝込んだ、と笑われても仕方ない。実際、そんなもんなんだから・・・。

「・・・はい。さっき計ってみたら39℃ほど・・・。いえ、何とか動けますし・・・。はい、はい、そうします。・・・はい、ありがとうございます。それじゃ・・・。」

 俺は受話器を置くとその場に崩れ落ちる。床に突っ伏す前に両手で支えはしたが、限界ぎりぎりといったところだ。
兎に角今は横にならないと駄目だ。そう思って立ち上がろうとするが、全く膝に力が入らない。「腰が抜けた」とはこのことだ。
仕方がないから四つん這いでベッドに戻る。我ながらみっともない有り様だが、どうせ誰も見てない筈だしこの状況で格好など気にしていられない。
 羽織っていたジャケットを脱ぎ捨ててベッドに潜り込む。
不思議と横になっていると僅かながら楽になったように思うが、状況は最悪なことには変わりはない。
身体の中に発熱物体でも埋め込まれたように熱い一方で、内側から来る強烈な悪寒は厚手の布団を被っても和らぐ気配がない。
頭を上げるなんて無理だし、身体の向きを変えるのも一苦労だ。
電話に出た潤子さんじゃないけど、本当に救急車の世話にならないといけないかもしれない。
 カーテンの向こう側はかなり明るい。人の声や車の音が良く聞こえるところからすると、どうやら晴れているようだ。
まさにデート日和ってところか・・・。
またあの映像が浮かんで来る。俺はもう否定するどころか力なく笑うのが関の山だ。不甲斐ないばかりの自分を笑うだけだ・・・。

 病気になると人恋しくなると聞いたことがある。
ここ暫く病気らしい病気をしたこともない俺はまさか、と思っていたが、実際自分の立場になって見ると嫌というほどよく分かる。
大丈夫?と声をかける人も居ない。体温計を不安げに見たり薬を探したりする人も居ない・・・。
 飲み込まれそうなほど巨大な孤独感が襲う。そして、早く浅い呼吸と心臓の鼓動を感じながら、俺は死の予感さえ感じる。
冗談なんかじゃない。このまま弱っていけば、一人ひっそりと死ぬことになるだろう。妙な話だが、こういう時は冷静になれるものだ。

「・・・いのう・・・え・・・。」

 うわ言が半開きになった唇の隙間から漏れる。誰にも聞かれない最期の言葉になるんだろうか・・・?
ははは、我ながらみっともない死に方だ。あれほど嫌ってた女の名前を口にして事切れるなんて・・・。
でも、もし許されるなら・・・せめて一言・・・井上・・・に・・・

・・・Fade out・・・





















・・・Fade in・・・

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

 ・・・何処からか音が聞こえる。何だこの音・・・?あまり良い印象のない音のような・・・。

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

 ・・・視界が徐々に広がって来る。すっかり暗くなっているが、紛れもなく俺の部屋だ。
どうやらまだ生きているらしい。じゃあこの音は・・・インターホンか。
 こんな時間にしつこくインターホンを鳴らす輩は新聞か生命保険か宗教の勧誘ってところだ。
良い印象を持っていないのもその経験に基づくものだ。

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

 ・・・まだ鳴らしてやがる。生きてはいるが状況は全然変わってない。最悪のままだ。
出るまで鳴らし続ける質の悪い奴も居るが、よりによってこんな時にそんな奴が来るとは・・・。
本当に俺って奴は運がない。運を掴もうとしないのもあるが・・・。

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

 ・・・こりゃ相当しつこそうだ。仕方ない、応対してやるか。
もし倒れたらそいつに救急車でも呼んでもらうか。目の前で倒れたらさぞかし驚くだろうな・・・。
 俺は転げ落ちるようにベッドから出ると、ジャケットも羽織らずにそのまま壁を伝うように玄関へ向かう。
インターホンは相変わらず一定の間隔を置いて鳴り続けている。このしつこさは相当のものだ。
・・・そう言えば井上の最初の印象も兎に角しつこい、だったか・・・。まあ、井上は今頃智一と豪華なディナーと洒落込んでいる頃だろう。
 どうにか玄関まで辿り着くと、鍵を開けてドアを少しずつ開ける。さあ、その顔見せてもらうぜ・・・?!

「!!な、何で・・・。」

 俺はそれだけ言うと、急に膝の力が抜けてその場に倒れ込む。床に激突する寸前で井上が屈んで抱きかかえる。
・・・そう、インターホンを鳴らし続けていたのは井上だった。でも何で・・・?智一とデートだった筈じゃ・・・?
 妙に柔らかい感触を頬に感じる。この体勢で考えられる可能性は一つしかない。
顔を上げようとしても全く力が入らない。端から見れば役得かも知れないが、全身がさらに熱くなる。

「だ、大丈夫ですか?!」
「・・・デ、デート・・・は?」
「そんなことしてる場合じゃないです!」

 井上は俺の腕を取って肩に回して立ち上がる。太っていないにしても60kg以上ある俺が骨が抜けたようになっているから相当な重みの筈だ。
だが、井上は片手で鍵とドアチェーンを閉めて、ゆっくりと中に進む。
手探りで何かを探している。多分電灯のスイッチだろう。

「電灯は・・・正面進んで・・・壁沿い・・・。」

 俺が途切れ途切れに言うと、井上はゆっくりと進んで手探りで壁のスイッチを探す。
間もなくパチッと音がして部屋が一気に明るくなる。
井上はそのままベッドの方へ俺を半ば引き摺るように進んでいく。爪先が少々痛いが文句を言える立場じゃない。
 井上は布団が捲れたままのベッドに俺を寝かせて布団をかける。
井上はここでようやくコートを脱いで俺の椅子にかける。明るいグレーのセーターに濃いグリーンのロングスカートと、普段着に近い格好だ。
口紅をしているのか色が少し鮮明なくらいで、デートでお目化し、という雰囲気はない。
井上はコートを掛けた椅子をベッドの傍に持ってきて座る。

「・・・不思議ですか?」
「・・・ああ。」
「電話したんですよ。お店に。そしたら潤子さんから、安藤さんが熱出して寝込んでるって聞いて、びっくりして直ぐこっちに・・・。」
「電話って・・・昨日、バイト休むって・・・。」
「ええ、言いましたよ。でも・・・どうしても安藤さんが気になって・・・。ううん、気にしてたけど意地張っちゃってて・・・。」

 井上は酷く悲しそうな顔をする。智一とデートすると言ったあの夜、最後に見せたあの顔よりずっと悲しそうな・・・。
何でそんな顔するんだ?それに気にしてたって、どうして・・・?

「安藤さんの・・・言ったとおりだったんですよ、結局・・・。デートしてて気付いたんです。私は安藤さんに止めて欲しかったんです。行くなって・・・。」
「・・・。」
「でも、止めてもらえなかったから妙に意地張って、腹いせみたいにデートしてやるって・・・。
勝手ですよね。一人で思い込んで一人で怒って、一人で意地張って一人で気にして・・・。」

 俺は目を疑う。井上の目から涙が溢れて来る。
井上は慌てて拭うが、涙は留まるところを知らない。
まさか井上が泣くとは思わなかった・・・。生きてて良かったと明るく笑うものかと思ってたのに・・・。

「馬鹿ですよね、私・・・。しつこいと思われるくらいのことしておきながら、肝心な時に変な意地張って、待ちに入るなんて・・・。」
「・・・良い。」
「私・・・安藤さんに迷惑掛けてばかりですね・・・。本当に馬鹿ですね、私って・・・。ご、御免なさい・・・。」
「・・・良い。・・・良いから・・・もう・・・。」

 俺は渾身の力を振り絞って布団から手を出して、スカートをぐっと掴んでいた井上の手に乗せる。
井上は少し驚いたように俺を見る。二つの涙の軌跡が電灯の光を反射して微かに煌く。
奇麗だけど・・・こんな煌きは見たくない・・・。だから・・・。

「何も言わなくて良いから・・・。今は・・・ただ・・・傍に居て欲しいんだ・・・。」

 それしか言えない。でも、今そうして欲しい。ただ傍に居て欲しい。
思ったままのことが・・・ようやく言えた・・・。
井上は微笑んで俺の手を優しく包み込む。

「・・・はい・・・。」

 また見ることが出来た。井上の笑顔を・・・。
心の底から良かった、と思う。これが素直になるってことなのか・・・。すっかり忘れてたな・・・。
もっと早く素直になってれば、お互い・・・苦しまなくて済んだんだ。苦しまない為に巡らした「策」に逆に苦しめられるなんて・・・本当に馬鹿みたいな話だ。

 少し落着いたところで俺は改めてデートの顛末が気になる。
あれほど井上とのデートに意気込んでいた智一だ。そう簡単に帰すとは思えない。
それに一応智一とは既知の仲だ。智一のことも気になる。

「・・・なあ、井上。」
「はい?」
「その・・・デートのことだけど・・・智一は・・・?」
「・・・お断りしました。『気持ちは嬉しいですけど、私には好きな人が居ます。だからお付き合いすることは出来ません』って。」

 少しほっとすると同時に、俺は智一のことが気になる。
まさかあれほど熱を上げていた相手に振られて平気で居られるとは思えない。まあ、俺みたいになるタイプではないと思うが。

「デートに誘われた時にちゃんと言えば良かったんですよね・・・。そうすれば・・・安藤さんも伊東さんもこんなに苦しめたりしなくて済んだのに・・・。」
「・・・。」
「私、ちょっと調子に乗り過ぎてたみたいです。安藤さんが音楽のこと色々教えてくれて、伊東さんに毎日のように声を掛けられて、
何時の間にか天秤にかけるようなことをしてた・・・。嫌な女ですね、私・・・。」

 俺は首を小さく横に振る。嫌な奴なのは俺の方だ・・・。

「・・・嫌な女だったら・・・デート止めて・・・此処に来たりしない・・・。智一も俺もキープしておこうって・・・考えるさ・・・。」
「・・・。」
「俺は・・・井上に甘えてたんだ・・・。井上がいつも俺を気遣ってくれて・・・、俺に好意を示してくれることに・・・。
だけど、その逆は・・・しなかったよな。ただ、待っていただけ・・・。」
「・・・安藤さん。」
「それなのにあの時・・・俺のこと好きって言っときながら・・・どうして他の男とデートなんてするんだって・・・頭に血が上って・・・。
それならそうって・・・言えば良かったんだよな・・・。意地張ってたのは・・・俺も同じだ・・・。」

 井上は両手で包んだ俺の手を頬に摺り寄せる。
冷気に浸されていた表面の冷たさとその内側から徐々に伝わって来る温かさが交じり合って、妙に心地良い。

「・・・冷えてるな。」
「今は・・・凄く温かい・・・。」
「・・・俺も・・・。」

 俺は井上の頬の感触を確かめるように手を擦り合わせるように動かす。初めて触れる井上の頬は滑らかだ。
すると井上が頬を俺の手にさらに摺り寄せる。目を閉じて俺の手を愛しげに包んで抱き寄せる。
 時折車の走行音が遠くに聞こえるだけの静まり返った部屋で、俺と井上は互いの温もりと感触を確かめ合う。
気を失うほどの高熱と底が見えるような浅く早い呼吸が自然と静まっていく。
あのまま死んでなくて良かった。井上が傍に居れくれて嬉しい。今改めてそう思う・・・。

ピンポーン・・・

 時間が無くなったような感覚に浸っていた俺と井上を現実世界に引き戻したのはインターホンだった。
俺と井上は同時にドアの方を向く。インターホンの音ってのは妙に大きくて部屋によく響く。
こんな狭い部屋ならそれこそベルの音でも十分だ。特にこういう夜間なら。
 俺の家に来る奴は殆ど居ない。付き合っていた女と別れた以上、俺が知っている奴である可能性は極めて低い。
意識を失った俺を目覚めさせたインターホンは井上だったし、今も俺の傍に居る。
となれば、もうインターホンを鳴らすのは招かれざる客だろう。そう表現するのも変だが。

「私が出ます。」

 井上はそう言って、俺の手を頬から離して布団の中にそっと収めて席を立つ。
俺は声が届くうちにと井上を呼び止める。

「・・・ちょっと・・・。」
「はい?」
「・・・ドアチェーン・・・掛けてな・・・。夜だし・・・。」

 相手が知らない人間の可能性が高い以上、迂闊にドアを開けるのは不用心だ。
万一井上が危険に晒されても、満足に起き上がることも出来ない今の俺にはどうすることも出来ないだろう。だから用心を促さないといけない。
 井上は少し微笑むと小さく頷いて小走りでドアへと走る。
ドアの向こうに誰が居るのか気になって仕方がないが、今の俺は変な奴じゃないことを祈るしかない・・・。
 カチャッという音がする。ドアチェーンを掛けたんだろう。
そして井上が様子を窺うようにドアを少しずつ開ける。

「どちら様ですか・・・?え?!あ、ど、どうして?!」
「?」
「え、ええ。電話で聞いて直ぐ・・・。はい、起きてますよ。どうぞ。」

 井上の驚いたような声が聞こえて再びカチャッと音がする。
そして井上がドアを開けると、姿を現したのは・・・何とマスターと潤子さんだった。

「おーい祐司君、生きてるかぁ〜?」
「お見舞いの言葉じゃないわよ、あなた。」

 俺は両方の肘で上半身を少し起こす。
黒のロングコートを着たマスターと、茶色のハーフコートにショールを羽織った潤子さんの組み合わせは、
何だかヤクザの組長と女優みたいでアンバランスだ。

「マスター・・・。潤子さん・・・。」
「高熱出しているって聞いたから心配で、お店を早く閉めて来たのよ。祐司君一人だし、もしものことがあったら大変だからね。」
「でも、俺と潤子が来る必要はなかったみたいだな。」
「え・・・。」

 俺が言葉に詰まり、井上は少し頬を紅く染める。
マスターが持っていた紙袋を床に置く。何処かのブティックの袋のようだ。

「必要かなと思ったものを家から適当に見繕って持ってきたぞ。熱冷ましと咳止め、頭痛薬、あと店の残り物。
多分薬とか食べ物とかが足りないと思ってな。食べ物は温めれば直ぐに食べられるから。」
「・・・ありがとうございます・・・。」
「良いのよ、気にしなくて。」
「しかし、まさか本当に熱出して寝込むとはなぁ。そりゃあ井上さんがデートするのがショックだったんだろうが。」
「!マ、マスター!」
「え?」
「井上さんが帰ってから物凄く暗かったからなぁ。相当堪えてたみたいだったよ。はっはっは。」

 ・・・まったくマスターは突然余計な事を言ってくれる。
俺は顔を見られまいと横を向く。熱がまた上がったような気がする。・・・別の要因でだが。

「それで・・・晶子ちゃんはどうするの?今晩。」
「え・・・っと、その・・・。」
「居てあげた方が良いと思うけどな・・・。」

 潤子さんの同意を唆すような言葉に井上は答えない。というか、横を向いたままの俺からは見えない。
・・・出来れば同意して欲しい。だけどこんなこと、マスターと潤子さんの前ではまだ言うのを躊躇してしまう。
気持ちを認めたくないんじゃなくて・・・単に照れくさいだけだ。
それに今そんな事言ったら、後で何を言われるか分からない。

「じゃあ、私達はこれで失礼するから・・・。」
「・・・あ、ど、どうも・・・。」
「ふふっ、顔が紅いわよ。熱が上がったんじゃない?」

 潤子さんに悪戯っぽく言われて俺は視線を彼方此方に泳がす。
自分では分からないが、多分潤子さんの言うとおりなんだろう。全身が内側から火照っているのがその証拠だ。

「そうそう、祐司君。これだけは言っておく。」
「は、はい?」

 珍しく神妙な口調になったマスターに、俺は思わず身を固くする。

「ちゃんとゴムを着けてだな・・・」
「?!」

 言葉を失った俺の前で、珍しく頬を少し赤らめた潤子さんがマスターの頭を平手で殴る。
大きな音と共にマスターの首ががくんと前に折れる。不意のこととは言え、余程強く殴られたんだろう。

「・・・痛いなぁ、潤子・・・。」
「何馬鹿な事言ってるのっ。まったく・・・。さ、帰りましょ。」
「分かった分かった・・・。それじゃ。」
「祐司君、お大事にね。」

 マスターは潤子さんに殴られた頭を摩りながら手をすっと上げて、潤子さんに続いてドアの方へ向かう。
俺がベッドから出ようとすると、やはり頬が紅い井上が俺の両肩に手を置いて軽く押す。寝ていてくれ、という合図だろう。
俺は素直にベッドに横になって、井上が見送りに行く様子を見詰める。
 玄関先で何かやり取りがあった後、ドアが開いてマスターと潤子さんが出て行った。
ドアが閉まって少し間を置いてから鍵とドアチェーンを閉める音がして、井上が小走りで戻って来る。
再び二人だけになった手狭で乱雑な空間。音の種類がめっきり減った空間。
床に置かれた紙袋だけが、ついさっきまで居た来客の存在を証明している。

「さっき・・・何言ってた?」
「え・・・まあ、上手くやれよとか、そういうことですよ・・・。」

 俺がさっきのやり取りを尋ねると、井上は照れ笑いと苦笑いが混じったような顔をして曖昧な言い方をする。
まあ、さっきのマスターの爆弾発言−潤子さんの爆弾も炸裂したが−から考えれば、大体のことは察しが付く。
 俺だってガキじゃない−まあ、ガキの方が「上手」だったりするかもしれないが−。マスターが何を言おうとしてたかぐらいはちゃんと分かる。
それは井上も同じだろう。

「・・・期待してるのかな・・・?」
「そうみたい・・・ですね。」

 井上は再び椅子に座る。相変わらず熱は高いようだが意識は不思議とぼやけない。はにかんだ笑みを見せる井上にしっかりと向いている。
鼓動の速度がゆっくりと上昇し始める。これは熱のせいじゃない。井上が俺に好きだと言った時と同じタイプのような気がする。
 俺と井上は見詰め合ったまま何も話さない。
不思議と気まずくは感じないが、さっきマスターが放った爆弾発言の余波が消え去ったといえば嘘になる。
井上も・・・意識してるんだろうか?

「・・・今、何時?」

 ちょっとは気の利いたことを言えれば良いんだが、オーバーヒートをとっくに通り越している俺の頭では無理な相談だ。
もっとも普通の時なら言えるかというと、かなり怪しい。

「えっと・・・10時をちょっと過ぎたところですね。」

 井上は律義に俺の枕元にあるデジタル時計を見て答える。そんなに時間が過ぎてたとは・・・。
俺が気を失っていた時間が長かったのか、それとも俺の手が井上と頬擦りをしていた時間が長かったのか、俺には判らない。
今気になるのは・・・井上がどうするかだ。

「・・・帰らないのか・・・?」
「傍に居て欲しいって言ったの、誰でしたっけ?」

 井上が得意の笑顔を見せる。子どもに未遂に終わった悪戯の自白を迫る母親のような・・・。
だが、今までと雰囲気が違うように感じるのは、やっぱり頬の赤みのせいだろうか?
 俺は何だか照れくさいようなもどかしいような、不思議な気分で俺は井上に背を向ける。
このままだと井上に自分の全てを曝け出してしまいそうだ。前に付き合っていた女のことも、何もかも・・・。

「あ、怒りました?」

 井上が尋ねる。俺は井上に背を向けたまま首を横に振る。少しも怒ってやしない。
ただ・・・井上が気遣うとさっきから感じている不思議な気分がより一層強くなる。何なんだろう、この気分は・・・。
考えようにも熱で頭がぼやけてどうにも纏まらない。

「そうだ。お腹減ってます?」
「・・・いや、要らない。」

 俺はやはり背を向けたまま言う。食欲なんてこれっぽっちも湧かない。
だが、井上が尋ねたことで胸の奥に立ち込めている気分がざわめく。
そのざわめきは不快じゃなくて・・・こそばゆいというか、そんな感じだ。

「・・・やっぱり・・・怒ってるんですか?」

 井上の声の調子が少し沈む。俺の脳裏を嫌な予感が掠める。
そしてそれは直ぐに強烈な思いとなって俺の口を突き動かす。

「違う・・・。ね、熱っぽいだけ・・・。」

 熱っぽいのは本当だが、言うことは口実だ。
・・・そう、単に此処に居て欲しいということを伝える為の・・・。
だったら正直に「居て欲しい」と言えば良いんだろう。だけどどういうわけか、さっきから感じる気分はこんな風に言ったりして
井上をぎりぎりのところで困らせると、さらに膨れ上がる。これって・・・。

「・・・井上・・・。」
「・・・はい?」
「んと・・・喉乾いた。」

 背を向けたまま言ってみる。その直後ガタッという音がして、続いて足音が遠ざかっていく。
もしや、と思ったがその足音は音色が変わってから−絨毯があるリビング部分と、フローリング剥き出しのダイニング部分の違いだ−直ぐに止まり、
食器が軽くぶつかり合う音に続いて、水が溜まっていく音の音程が駆け上がっていく。
それら一連の音の流れを聴いて、俺は安堵の溜め息を吐く。
 足音の音色が一度変わりながら近付いてくる。それはベッドの傍に来たところで止まる。
俺は何かを感じて身体を井上の方向へ捻る。すると、あの笑顔で覗き込んでいる井上の微笑む顔が間近にあった。

「はい、持ってきましたよ。」
「・・・。」
「水を飲む時は起きないと駄目ですよ、甘えんぼさん。」

 ・・・そうだ、甘えたかったんだ、俺は・・・。
俺はそのまま体を仰向けになるように捻る。井上は俺の頭と枕の間に手を差し入れて少し起こす。
俺はされるがままに、井上が唇に触れさせたコップから少しずつ注がれる水を飲む・・・。
 内側からの高熱で喉が渇いていたのは事実だ。でも、たかが水道水がこんなに美味いと思ったのは何時以来だろう。
井上は俺が飲むペースに合わせてコップを傾けていく。喉を通った水の冷たさが腹の中でじんわりと広がっていくのが分かる。
 コップの中身が空になると、井上は俺の唇からコップを離して俺の頭を枕にそっと横たえる。

「食べ物とか冷蔵庫に入れときますね。」
「適当に・・・退けたりして良いから・・・。」

 井上は小さく頷くと再び席を立って、マスターと潤子さんが置いていってくれた食料や薬が入っているという紙袋を提げて冷蔵庫の方へ向かう。
俺は首だけ台所の方を向いて井上の後ろ姿を見る。
 井上はまず袋の中からものを取り出して、パックに入った食料と薬を分ける。それを終えてから冷蔵庫を開けて、食料を収納していく。
自炊していないから冷蔵庫の中身はたかが知れている。整理がなってないのを除けば、多分食料は全部入ると思う。
入らなければ冷凍庫という手もある。そこは夏場に氷を作るくらいで、今は空に等しい筈だ。
その辺りの判断は俺がどうこう言うより井上に任せた方が確実だから、黙って見ていることにする。

 俺がベッドからぼんやり見ているうちに、井上は食料全てを冷蔵庫に収めて、薬を再び紙袋に詰めてこっちに戻ってくる。
慣れているのか物凄く手際が良い。時計を見て確認したわけじゃないが、多分10分も掛かってないだろう。
 俺は再び椅子に座った井上を見る。すると井上が徐に手を伸ばして来る。
何をするつもりだろう、と思っていたら俺の額に添えるように置かれる。
ひんやりとした心地良い感触に俺は自然と眼を閉じる。

「やっぱり、かなり熱ありますね・・・。」

 俺は再び目を開ける。井上の表情が曇っている。手はまだ俺の額の上にある。

「・・・店に電話してベッドに戻る時・・・立てなかった・・・。」
「気をつけないと肺炎とかになったりしますよ。」
「今日起きたら・・・いきなりだったからな・・・。」

 今熱がどれくらいあるのかは判らない。全身から感じる熱さや脱力感は相変わらずだから多分下がってはいないだろう。
ただ気分は楽だ。もしもの場合直ぐ傍に井上が居る、ということが精神に安定を保証しているからだろう。
 井上は俺の額に置いた手を頬へ持って来る。
俺はその手に少し凭れ掛かるように首を傾ける。丁度井上がさっき俺の手で頬擦りしたのと同じだ。

「辛かったでしょ・・・?」
「・・・身体より・・・誰も居ないのが辛かった・・・。だけど・・・今は・・・。」

 その先を言おうとすると同時に、視界が緩やかに狭まっていく。意識が急激に何処かへ吸い込まれていく。
その先が言えたかどうか、唇が動いたかどうかも、もう・・・。

Fade out・・・







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