噂の人

written by Moonstone

〜この作品はフィクションです〜
〜登場人物、団体などは実在のものとは無関係です〜

第2章

 その日、大岸は残業を終えて帰路に就いた。何時ものように途中のコンビニで夕食にする弁当を買い、車の多い大通りの歩道から何時ものとおり裏通りに
入る。ここまでは何時もの家路と何ら変わりなかった。
 ところが自転車で5分ほど進んで行くと、様相が今までと一変していた。パトカーが何台も道路脇に並び、複数の警官が民家に入ったり、集団で何やら
話し合いらしきことをしていた。脂汗が流れ始めたのを感じながら大岸が更に進んで行くと、小道に青い大きなビニールシートがかけられ、同じ制服の人間が
何かやっているのが見える。道路には標識らしきものが置かれ、微かだが白い線で何かが描かれているのが分かる。
間違いない。昨日自分が目撃した殺人事件の現場検証だ。大岸は脂汗が量を増してきたのを感じながら、自転車のペダルを漕ぐ。

「ちょっとすみません。」

 「現場」を通り過ぎようとした大岸に、背後から声がかけられる。
大岸は思わず急ブレーキをかけて自転車を止め、後ろを振り返る。一人の警官が大岸に歩み寄って来る。

「な、何でしょうか?」

 出来るだけ平静を装いながら大岸が尋ねると、警官が言う。

「貴方、此処を通っているんですか?」
「は、はい。それが何か?」
「実は昨夜、あそこで殺人事件がありまして、今、現場検証と並行して目撃者探しをしているんです。」

 警官が「現場」の方を指しながら言う。
まずい。このままではこの警官に任意同行を求められかねない。そして警察署で尋問を受けて犯人に仕立て上げられかねない。
そう思った大岸は警官が尋ねるより先に言う。

「私は何も知りません。見てません。偶々この道が私の通勤コースなだけです。」
「ほう、通勤に使っているんですか。では、昨日の午後9時頃、この辺りで男性同士の口論などを聞きませんでしたか?」
「さっきも言ったでしょう!私は何も見ていないし、何も知らないって!人を勝手に犯人扱いしないで下さい!」
「いえ、私は何も貴方を犯人扱いしているわけではなくてですね、事件に関係のある情報をご存知かどうか伺っているだけですよ。」

 いきなり語気を荒げた大岸に、警官はちょっとたじろく。まさか情報を知っているかどうか尋ねただけで、犯人扱いするな、と迫ってくるとは
思わなかったのだろう。
大岸は喉の渇きを感じて唾を飲み込み、努めて平静を装う。

「・・・失礼。私はさっきも言ったように、何も見てませんし、何も知りません。これでよろしいですか?」
「あ、はい。お帰りのところ失礼しました。」

 警官が小さく頭を下げたのを一瞥すると、大岸は再び自転車のペダルを漕ぎ始める。出来るだけ早く忌まわしい「現場」から立ち去ろうと、ベダルを
何時もより速く漕ぐ。
 警官には、その様子が不審に思えた。事件について何かを知っているが、自分が事件に関わりがないと言い張って逃げ出したような様子に見えたからだ。
警官は首を傾げつつ、事件現場近くに居る事件担当の刑事に先程の大岸とのやりとりを報告しに行く。

「警部。先程この道を通勤に利用していると言う男性に、事件に関する情報を保持していないかどうか聞きました。」
「そうか。で?」
「それが・・・私が尋ねるよりも先にむきになって事件とは無関係だ、と言って、尋ね終わったらこの場から逃げるように去ったんです。」
「・・・妙だな。」

 目つきの鋭い、悪い表現では目つきの悪い刑事が自分の顎を撫でる。

「で、その男は偶々この道を通っただけか?」
「いえ、通勤に使っているとのことです。」
「・・・その男の人相や服装は憶えているか?」
「はい。」

 警官が返答すると、刑事は警官に命令する。

「よし。その男が昨夜事件発生時刻周辺で目撃されなかったか、周辺住民に聞き込みをしろ。」
「しかし警部。その男性は事件については見てもいないし、何も知らないと・・・。」
「なら何故逃げるように立ち去る理由がある?」

 刑事の言葉に警官は答えられない。
確かにさっきの男性−勿論、大岸のことだ−の態度は妙だった。自分が質問するより前に事件とは無関係だと言い、立ち去る様子も逃げるように、という
表現がぴったりだった。刑事が、その男性が事件に何らかの関係があると睨むのも無理はない。
刑事は自分の警察手帳を捲る。そこには事件に関する情報が幾つも走り書きされている。

「そう言えば・・・住民の中に、『誰だ、そこに居るのは!』という大声を聞いた人間が居るな・・・。」
「はい。犯人は何者かに現場を目撃された模様です。」
「となると・・・、お前がさっき尋問した男が目撃者か、或いは・・・。」
「犯人ではないか、と?」

 警官の問いに刑事は小さく頷いて尋ねる。

「その男は徒歩だったか?」
「いえ。自転車を使っていました。」
「となると、聞き込みの対象を広範囲に広げる必要があるな。」

 刑事は推測を口にしてから、再度警官に命令する。

「よし。南町全域を対象にもう一度聞き込みをしろ。そして、お前がさっき尋問した男を見なかったかどうかも聞き込め。」
「はっ!」

 警官は敬礼すると、その場から走り去る。大岸の、事件に関わりたくない、という発想からの言動は、予想だにしない方向に向かいつつあった・・・。
 2日後。
南町全域を対象にした聞き込み結果が、俵警察署に設置された捜査本部に持ち込まれた。事件担当の刑事は、警官からの聞き込み情報に耳を傾ける。

「事件発生時刻近くに、傘を差さずに走っていく男性の姿を目撃した、という、散歩中だったという付近住民からの目撃情報が寄せられました。」
「ふむ・・・。」
「で、その住民によると、事件当日雨だったにも関わらず、しかもその男性は傘を持っていたのに傘を差さず、必死の形相で走り去った、とのことです。」
「人相は分かったのか?」
「その点なんですが・・・暗くてはっきりとは分からなかったものの、2日前自転車で現場付近を通りがかった帰宅途中の男性の特徴を挙げたところ、
よく似ていたとのことです。服装は明るいグレーのスーツで、身長170cmくらい、標準的な体型で、いかにも一般的なサラリーマンという様子だった、と。」
「なるほど・・・。」
「また、同じく南町の住民の中で、事件現場からかなり離れている場所で、ずぶ濡れになって辺りをきょろきょろ見回しながら歩いている不審な男性を
目撃したという情報が数件寄せられました。」
「その男性の特徴は?」
「これもやはり暗くてよく分からなかったものの、目撃された現場の地理に明るくないらしく、頻りにきょろきょろしていたこと。また、先程報告した目撃情報で
登場した男性の特徴を挙げたところ、スーツの色は覚えていない住民も居ましたが、覚えていた住民はやはり明るいグレー、そして体型は身長170cmくらい、
標準的な体型のサラリーマン風の男性だったということはどの目撃情報にも共通しています。」
「その男は傘を差していたのか?」
「はい。差していたそうです。しかし、スーツの色が濃く変色していたことから濡れていると分かったそうです。」

 警官からの報告を受けて、他の刑事や警官が口々に言う。

「警部。その男性、事件に何らかの関わりがある可能性が高いですね。」
「それに傘を差さずに走り去ったという男性と、傘を差しながらもずぶ濡れできょろきょろしていたという男性は、同一人物と見るのが自然でしょう。」
「目撃者か、或いは犯人か・・・。そこまではまだ断定出来んが、事件に何らかの関わりがあると見るのが自然だな。」
「警部。その男性は事件現場を偶然目撃し、犯人に気付かれて追いかけられ、逃げ回った結果迷い込んでしまった、と考えられませんか?」
「それも一つだがもう一つ。その男は事件の犯人で、目撃者を追いかけているうちに迷い込んでしまった、という可能性も考えられる。」

 事件担当の刑事は、大岸にとって不利な可能性を推測する。

「確か・・・ガイシャ(註:被害者の隠語)は事件現場の南町から離れた錦町の住民だったな?」
「はい。中小企業の経営者ですが、昨今の不況で経営が傾き、多数の知人から総額約300万円を借りていたということです。」
「錦町の人間が南町で殺された・・・。犯人はガイシャの知人で、しかも南町の地理に疎い、言い換えれば南町に在住していない男、という線が濃いな。」
「金の貸し借りを巡って口論になり、カッとなって刺殺してしまった、と。」
「うむ。それに聞き込みで得られた、雨の中傘を持っていながら差さずに走り去ったという男、そして南町できょろきょろしていた男は、犯行現場を目撃され、
目撃者を追いかけたものの見失ってしまい、南町の地理に疎いがために迷ってしまった、という線が考えられるな。」

 事件担当の刑事は席を立ち、野太い声を張り上げる。

「よし!明るいグレーのスーツに、身長170cm、標準的な体型のサラリーマン風の、傘を持ったずぶ濡れの男性を目撃しなかったかどうか、南町周辺の町に
捜査範囲を広げるぞ!犯人は徒歩だ!南町に隣接する南旭町、春日町、俵町を重点的に捜査だ!勿論、ガイシャの交友関係も洗い直しだ!」
「「「「「はい!」」」」」

 捜査本部に集結していた刑事や警官は続々と席を立ち、駆け足で退出していく。
警察の捜査の手は、大岸が住む南旭町にまで及ぶことになった。事件に関わりたくない、という一心の大岸にとっては、かなり拙い展開になってきたことには
間違いない・・・。
 その日の夜。
仕事から帰宅した大岸は、着替えた後に茶を入れて、途中のコンビニで買った弁当を食べながらTVのニュースを見ていた。
事件現場付近の小道を通勤コースにしていた大岸だが、事件に関わりがあると睨まれるのを警戒して、尋問された翌日から通勤コースを変えていた。
多少遠回りになってしまうが、現場付近を通る度に尋問されることを考えればずっとましだ、と判断したためだ。
 ニュースは日銀が発表した経済動向の発表を終え、キャスターが書類を捲って次のニュースを読み上げる。大岸は、TV画面に出た「俵市殺人事件で重要
参考人浮上」というテロップを見て、急に胸が高鳴り始める。
自分は事件現場を偶然目撃しただけだ。自分は何もしちゃいない。大岸は必死に自分にそう言い聞かせてニュースを見る。

「俵市南町で発生した殺人事件について捜査本部は、事件発生時刻近辺で目撃された男性が事件に何らかの関わりがあると見て、捜査を続けています。」

 キャスターの読み上げた文章を聞いて、大岸は胸の嫌な鼓動の高鳴りが抑えられない。

「捜査本部によりますと、事件発生時刻近辺で、事件当日雨だったにも関わらず、しかも傘を持っていながらそれを差さずに走り去る男性が目撃されており、
さらに南町では雨に濡れながら周囲を頻りに見回していた男性も目撃されており、捜査本部はこの男性が事件と何らかの関係があると見て、聞き込みを
続けています。男性は身長170cmくらい、標準的な体型で、明るいグレーのスーツを着ていたということです。捜査本部は・・・」

 大岸はリモコンでTVの電源を切る。その額には脂汗が滲んでいる。
自分はあの日、明るいグレーのスーツを着ていた。犯人に捕まるまい、と雨の中傘を差さずに必死に走った。逃げおおせたと思ったら見たこともない場所に
居て、本来の通勤コースに戻ろうと、辺りを見回しながら見慣れた光景を探して彷徨った。
それらが重なって、自分が重要参考人として警察の標的になっている。
 大岸は立ち上がると、収納箪笥に仕舞ってあった明るいグレーのスーツを取り出し、出来るだけ小さくぐしゃぐしゃに丸めてビニール袋に押し込む。
そしてそれを不燃ゴミの袋に突っ込み、袋の口を固く縛る。荒々しい動作で大岸は息を切らしてしまっている。
丁度明日は不燃ゴミの日。ゴミ袋には氏名を書かないから、一旦出してしまえば誰のものか分からなくなる。このスーツを持っていたら怪しまれる。
着ていくなんてもっての他だ。疑われるものは早急に手放すに限る。自分は事件現場を目撃しただけだ。自分は何もしちゃいない。
大岸は再び自分に言い聞かせてテーブルの前に座り、無音の室内で夕食を再開する・・・。
 翌朝、大岸はゴミ袋を持って玄関のドアに鍵をかけて出勤する。
大岸の住んでいる地域のゴミ捨て場は大岸の通勤コースから若干逸れるものの、自転車を使えば大したことではない。大岸は小さく丸めたグレーのスーツの
他にも不燃ゴミが入った袋を指定の場所に投げ捨てるように置くと、出勤コースへ向かう。
 その様子を、偶然近くの主婦が見ていた。主婦は大岸が立ち去った後、ゴミ捨て場にの不燃ゴミ置き場に駆け寄り、大岸が捨てたゴミを見る。
数々の不燃ごみの中に混じって、ぐしゃぐしゃにされているものの、スーツの生地だと分かるものが入っているのが分かる。主婦は大岸が自転車で走り去って
いった方向を見詰める・・・。
第1章へ戻る
-Return Chapter 1-
第3章へ進む
-Go to Chapter 3-
第2創作グループへ戻る
-Return Novels Group 2-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Return PAC Entrance Hall-