翌朝。リルバン家の正面玄関前に大きな人の輪が出来た。フィリアとイアソンを見送るために、パーティー全員とクリスとルイ、そしてフォンとロムノをはじめと
するリルバン家の人々がほぼ全員揃ったためだ。昨晩の盛大な壮行会で十分満たされたフィリアとイアソンが恐縮さえする中、フォンの指示で
警備兵38)が
フィリアとイアソンを囲むように隊列を作り、先頭に立った兵士が赤と青と白が横にストライプを描き、中央にビクタの枝を両側に添えた金の十字架を据えた
ランディブルド王国の国旗を掲げる。これは流石のイアソンも知らない、一等貴族が行う最高の送別形式だ。
リルバン家の使用人やメイドが拍手を送る中、隊列は進み始める。フィリアとイアソンは強固且つ荘厳な兵士の壁に守られ、恐縮しながら決意を新たに
リルバン家を出発する。シルバーカーニバル真っ最中でお祭り騒ぎのフィルの市街地を、隊列が進む。人々は酔っている者も含めて素早く隊列に道を譲り、
深々と頭を下げる。一等貴族が最高の送別形式を採用する対象は、通常国王や一等貴族当主とそれらの後継者−後継候補ではないところが重要−、
そして教会の重鎮に限定される。兵士達に囲まれて送別される人物は窺い知れないが、一等貴族の最高の送別形式を見れば、ランディブルド王国の国民は
即座に最高の敬意を払う。
フォンが一介の外国人に過ぎないフィリアとイアソンにこれほどの送別を採用したのは、ランディブルド王国の行方を大きく左右する権限を有する一等貴族
当主の1人として、フィリアとイアソンが国の危機を救おうと名乗り出たフィリアとイアソンに最高の敬意を示すのが当然と思ったからだ。国の行方を握る
権限を持ちながら肝心なところでは自分自身で何も出来ない、と隊列を見送るフォンは改めて自分は無力な存在だと自嘲する。
昨晩の壮行会で激励の挨拶として述べたとおり、フィリアとイアソンには任務遂行は元より生還を願ってやまない。特にイアソンはフォンにとって、ローズの
忘れ形見でもある愛娘のルイがオーディション本選出場までホテルに滞在している間、アレンと連携して身の安全を保障してくれた恩人だ。立場上口には
出来ないが、任務遂行より生還を願わずには居られない。
「何だか・・・凄いって言うか仰々しいって言うか・・・。」
「それだけ期待が大きいと認識しておけば良い。」
恐縮の他戸惑いを隠せず頻りに左右を見回すフィリアに、イアソンは恐縮しながらも冷静に言う。
自分だけで展開し続けてきたアレン争奪戦−アレン誘惑作戦と称するのが適切か−に突如名乗りを上げ、あろうことか自分を追い越してアレンの心をほぼ
手中にしたルイからアレンを「隔離」すべく、シェンデラルド王国への潜入・諜報活動に参入したフィリアは、諜報活動の機密性や緊張感を認識する前に
梯子を外されたからまだアレンとの一時の別行動という意識から脱却していない。一方のイアソンは「赤い狼」時代に諜報活動の最前線で活動し、レクス王国、
カルーダ王国、ランディブルド王国と自分が居る場で常に諜報活動に取り組んできたから、緊張感や危険性に四六時中心身を晒すストレスに対抗すべく、
早々と心構えをしている。
フィリアが自分と2人だけでシェンデラルド王国での諜報活動に取り組むことが本意ではないことは十分分かっている。だが、本意でなかろうがどうだろうが、
魔物と同様に説得や話し合いなど通用しない悪魔崇拝者が蔓延ると予想されるシェンデラルド王国に旅行気分で乗り込めば、間違いなく悪魔崇拝儀式の
生贄にされる末路を歩むことになることには変わりない。諜報活動の初心者、否、ど素人のフィリアを保護しながら任務を遂行するには、フィリアをリードする
くらいの気構えが必要だ。
西の門で隊列から出たフィリアとイアソンは、それぞれドルゴを召還して跨る。フィリアのドルゴは昨夜の壮行会で尊敬するシーナから譲り受けたものだ。
兵士達が敬礼して微動だにせず見送る中、フィリアとイアソンは手綱を叩いてドルゴを走らせ始める。地図はロムノから供与されているが、それを見ながら
ではドルゴをしっかり制御出来ない。地図を頭に叩き込んで概要を把握しているイアソンが先を走り、フィリアが後に続く。フィリアは不意の遠距離攻撃から
防御すべく、出発直後から結界を張っている。
フィリアとて何時までも環境の変化に順応しないわけではない。待ち受けるのは悪魔崇拝者の巣窟と化しているらしい国。うかうかしていれば死体をカラスに
突かれるどころか、自分自身を悪魔崇拝儀式の生贄に差し出す羽目になる。昨夜一頻り感触の味わいに耽ったアレンの唇をもう一度堪能したいなら、生きて
帰るのが絶対条件だ。町を出れば魔物や盗賊が蠢く無法地帯であるこの世界に生きるフィリアは、イアソンよりは遅いが潜入・諜報活動に向けて心を固めて
いく・・・。
フィリアとイアソンを見送った面々は兵士達の帰還を受けて散開する。クリスはルイを捕まえ、ルイを引っ張って廊下を奥へ奥へと走り、数回曲がった
ところに引っ張り込む。
「ルイ。アレン君に告白するんやったら今がチャンスやで。」
ルイに告白を促すクリスの表情はいたって真剣だ。
クリスは昨夜の壮行会後にリーナと出発前の対面を終えたフィリアとイアソンを二次会と称して酒場に誘い、フィリアとイアソンから巧みに話を聞き出した。
フィリアもイアソンもそれぞれ片想いの相手と対面し、満足出来る結果を得られたところに酒が入ったことで饒舌となり、フィリアはアレンの唇を再び奪って
キスを堪能したこと、イアソンは過日にプレゼントしたレアチーズケーキが美味かったと率直な感想をもらったことを自慢げに語った。
フィリアがアレンとのキスを「再び」と言ったことを受けて更に言わせたところ、レクス王国でアレンが一時ザギ配下の特殊部隊に拉致監禁されていたリーナを
捨て身で救出し、生還した後療養していたところを奪ったのが最初、とこれまた饒舌に語った。
「酒は最強の自白剤」という表現もあるように、酒が入ると舌の回転が良くなることが多い。酒を浴びるほど飲んでもまったく酔わない強靭な肝臓を持つ
クリスは、イアソンとは異なる角度で話術に長ける。イアソンを伴わせることで二次会と確信させ、フィリアがアレンと2人きりになって何を話し、何をしたのか
聞き出すことがクリスの最大の目的だった。
フィリアがアレンと2度目のキスをしたことには驚いたが、アレンと合意の上でのものではないことも分かった。フィリアの自慢話を聞いたイアソンは「俺もリーナと
キスしたい」とぼやいていたが、そのことでアレンの心がフィリアに傾いたわけではないことも分かった。
アレンが今朝からルイに対して少し余所余所しい素振りを見せているのは、奪われたとは言えフィリアとキスしたことがルイに後ろめたい気持ちだからと推測
出来る。動揺しているアレンの気持ちを確固たるものにするには、ルイから行動を起こすことが最善の策だ。
「チャンスって・・・。」
「フィリアが居らへん間に抜け駆けするんは気が進まんっちゅうのは分かる。んでもな、ルイ。待っとったら駄目やで。」
アレンに自分の気持ちを聞いてもらうと約束しているとは言え、他人に自分からの告白を促されると躊躇してしまうのはやむを得ない。
ルイが異性に関心を持ち、好感を超えて恋愛感情を抱いたのは今回が初めてだから、尚更躊躇する気持ちも分かる。だが、傍目から見ていてじれったい
ほど、アレンは億手だ。アレンがルイに告白した様子もないし、ルイから行動を起こした様子もない。
フィリアの目が光っていたから少なくとも日中は接近する余地がなかったのもあるが、アレンとルイの関係は今のところ停滞している。アレンは移り気体質では
なさそうだが、このままフィリアにアドバンテージを許していると、アレンの気持ちが揺るぎかねない。
苛烈極まりない時代からルイと行動を共にしてきた親友として、クリスはルイの淡いが真剣な想いの成就を願わずにはいられない。クリスの促しは、決して
他人の恋愛感情を知っての茶化しではない。
「ルイは、アレン君のこと好きなんやろ?」
「え・・・。」
「そうなんやろ?」
クリスが更に迫ると、ルイは頬を紅潮させつつ俯き、やがて小さく頷く。分かりきったことではあるが、ルイの気持ちに変わりがないことが確認出来て、
クリスは一安心する。
「アレン君もルイのことが好きや。これは間違いあらへん。」
クリスは落ち着いた口調で諭すように語る。
「ルイがアレン君とどういう約束しとるんかまでは聞かへん。んでもな。相手を取り合う恋愛でライバルと同じ条件で正々堂々と、っちゅうんは甘いで。
相手出し抜くくらい積極的でええ。」
公明正大を絵に描いたような生活を幼少時から送ってきたルイは、策略自体容易に思いつくものではないし、それを実行するのは良心の呵責が強力な
足枷となることだ。しかし、押しの強いフィリアと真正面からアレン争奪戦を展開するのは、ルイにとって不利でしかない。鬼の居ぬ間に何とやらではないが、
フィリアが当面不在となった今のうちにアレンの心を完全に掌握すべく乗り出した方が良い。
クリス自身は友人となったイアソンやルイに恋愛指南が出来るほど恋愛経験が豊富なわけでない。むしろ、ルイと同様初心者の域にある。
ルイを護ってきたことで女子からは当然のこと、男子からも睨まれ疎んじられてきたし、ルイの評価が180度変わってからもルイを苛めに苛めた男子のみ
ならず、見て見ぬ振りをしてきた他の男子に憤怒や嫌悪は抱いても恋愛感情を抱けない。武術家として修練を積んだこともあって村の男性の殆どはクリスの
恋愛対象になり得ないから、恋愛経験を積める余地がないままで居る。
だが、人間の醜さなど負の側面をつぶさに見てきたから、それの推測や対策を思案し、対策に乗り出す経験は豊富だ。苛めと恋愛は様式こそ異なれど、
策略が存在することには共通項がある。当事者であるアレンとルイの気持ちが向き合っているのは間違いない。だが、アレンはフィリアにキスされたことの
後ろめたさからかルイに告白するなどアクションを起こす様子はないし、アレンの億手な性格からして期待も出来ない。ならば、ルイを促してルイに攻めの
一手を打たせる方が確実だ。
「時間は十分ある。じっくり考えて思い切って行動起こしぃな39)。」
アレンへの想いを表したことで頬を紅潮させて俯いたままのルイに優しく諭し、クリスは立ち去る。残されたルイは少しして顔を上げ、溜息を吐いて壁に頭を
凭れさせ、少し上を向いて再び溜息を吐く。
ルイとてクリスに言われなくてもアレンとの約束どおり、アレンに自分の気持ちを伝えたい。だが、国の中央教会総長との謁見が数日後に控えている。
聖職者にとって国王より存在感や地位が高い国の中央教会総長から謁見を持ちかけてきたのだから、それに専念したいという気持ちが先行している。
他人を出し抜くなど人間関係の策略に疎い上、聖職者としての思考が骨身に深く染み込んでいるルイには、自分の感情を優先させることを容易に選択
出来ない。
クリスにアレンに対する気持ちを問われて自分の気持ちを再確認したルイ。初めて抱いた異性への想いを上手く育んでいくことが恋愛経験が乏しい者に
とって心地良い緊張を伴う困難な事業であるのは、時代や世界が違っても変わることはないようだ・・・。
その日の午後。ルイは専用食堂でティンルーを飲んでいた。
重傷を負ったアレンの看護と治癒の支援、フォンとの対面、国王との謁見、そしてフィリアとイアソンの装備品に衛魔術の力を封入する儀式と立て続けに
起こった事態を乗り越えたルイは、残る国の中央教会総長との謁見までの時間を「教書」の精読と聖水生産に注いでいる。
シェンデラルド王国との国境に近い町村の被害は深刻で、畑や井戸は悪魔崇拝者の放った毒によって汚染されている。言うまでもなく畑はランディブルド
王国の穀倉庫であるし、井戸は町村で暮らす住民の生活水であると共に、畑で使用する灌漑用水でもある。どちらも被害を受けた町村やそこで暮らす人々
だけでなくランディブルド王国全体の問題、と一等貴族当主や教会幹部は認識している。
国の中央教会は全国の聖職者に現地に送る聖水の生産を呼びかけている。汚染された畑や毒の浄化だけでなく、国軍では対処しきれなくなりつつある
ほど強力な悪魔崇拝者に絶大な威力を発揮する武器として、聖水の需要はこれまでにない高まりを見せている。しかし、聖水を生産するには大司祭以上が
十分な時間をかけて祈りを捧げる必要があり、ボトルに水を入れて大量生産とはいかないから、供給が需要に追いつかない。休職中とはいえ正規の聖職者で
あることには違いないと強く認識しているルイは、空いた時間を聖水生産に注ぎ込むことで協力しているのだ。
今は聖水の生産を終えて一息吐いている。生産した聖水は専任の使用人を介して国の中央教会に送付する手続きを依頼した。フィリアとイアソンを
見送った後クリスに行動を起こすよう促されたが、聖職者としての責任感が先行してしまう。アレンが今朝から少し余所余所しいのも気がかりだ。自分の情を
優先させることを知らないまま育ったルイは、ティンルーを飲みながらどうしたら良いものかと独り思い悩む。
「ルイさん。」
ルイに声をかけたのはアレン。クリスとのトレーニングで休憩を取るために専用食堂に赴いたのだ。首にかけたタオルで流れる汗を拭う様子は爽やかで、
紅潮した肌が男性の色気を感じさせる。途中アレンとすれ違った女性の使用人やメイドが、後で悶絶とも言えるほど大騒ぎしているのも無理はない。ルイも
漏れなく引き付けるアレンはしかし、何処か少し余所余所しい。今までは真っ直ぐルイを見据えていたが、今は視線が左右に不規則に泳いでいる。
ルイは敏感にアレンの異変に気づき、不安を増す。
アレンがフィリアに唇を強奪されたのが大本の原因だが、そんなことをアレンがルイに話せる筈がなく、フィリアから聞き出しているクリスもルイに話して
いない。ルイが事実を知ればどんなショックを受けるか分からないから、その可能性を排した結果だ。アレンとクリスそれぞれのそれなりの配慮が悪い方向に
向かわせているが、恋愛経験が乏しい面々にこのような局面で効果的な策を編み出せというほうが無理と言うものだ。
「席・・・良いかな?」
「は、はい。」
アレンとルイのやり取りも必然的にぎこちなくなる。訪れた使用人に冷えたティンルーを頼んだアレンは、まだ噴出し続ける汗を拭いながらどのようにルイに
接すれば良いか思案する。アレンの脳裏に、専用食堂に向かう前のクリスからかけられた言葉が浮かんでくる。
アレン君からルイにアプローチしてみぃや。
ルイは絶対嫌がらへんで、思い切り行きぃ。
アレンはルイとの約束どおり、ルイから気持ちを聞くつもりで居る。しかしそれは、ルイから告白されるのを待つ受身の姿勢でもある。
「男らしさ」を求めてやまないアレンは、恋愛においても要所要所で男性がリードすべきだと思っている。だが、これまで「可愛い」ともてはやされたりちやほや
されたりすることはあっても正面から愛の告白を受けたことがないし、「男らしさ」を追求することに執念を燃やす一方で、これまでことある毎に迫ってきた
フィリアにも幼馴染以上の感情を抱けないで来た。ルイに抱いている感情が好感を超えるものであることは、アレン自身分かっている。だが、それをどのように
行動に反映させて発展させれば良いのか分からない。
そんなところで受けたのが、昨夜のフィリアによる唇強奪だ。硬直が解けたアレンには、ルイに対する後ろめたさが生じた。合意の上ではないとは言え、
恋慕の情を抱く相手以外の異性とキスをしたという、恋愛に対する古風とも言える律儀さがあるためだ。そのため、約束どおりルイからの告白を待つのが
唯一の手段とより強く思うようになった。
だが、クリスから待つことに徹するのではなく、自分から事態を打開する一歩を踏み出すことを提案された。同じく休憩を取ったクリスが同行していないのは、
気兼ねなくルイにアプローチ出来るよう気を利かせてのことだ。
日中休まず睨みを利かせてルイを遠ざけていたフィリアは当面不在。専用食堂は事実上ルイと2人きり。絶好の条件が多々重なったにもかかわらず、
アレンは自分からアプローチする手を出しあぐむ。此処まで来ると初々しいを通り越してじれったいことこの上ないが、下手に仲介するのは逆効果となり
かねない。アレンとルイの親密ぶりを特に良く知る厨房の人々は、厨房越しに見えるぎこちない2人がじれったくて仕方がない。
「・・・アレンさん。」
長く重い沈黙を破ったのはルイだ。
「今日は・・・、どうしたんですか?」
思いついた婉曲的な言い回しで尋ねたルイにどう答えて良いか分からず、アレンは口ごもる。
奪われたとは言えフィリアとキスをしたことには変わりないし、それを打ち明けるのは気が引ける。だが、このまま沈黙を貫くわけにもいかない。アレンは今まで
経験したことのない、どうしようもないジレンマに苛まれる。
何か事情があるが言いあぐんでいることは分かるのか、ルイは詰め寄ったりしない。それがアレンにとって白状を迫る圧力と感じられる。沈黙が生む悪循環が
カップル直前まで来たアレンとルイの仲の進展を停滞させているのは、皮肉な話だ。
「アレンさんに・・・話して欲しいんです。・・・何かあったのかどうか。」
ルイは慎重に言葉を選んでアレンの回答を求める。
ルイも今朝からアレンが少し余所余所しい理由を知りたくてならない。だが、回答を求めるあまりアレンの心情を害しては元も子もない。2人の接近を停滞
させている原因はアレンの沈黙であり、元を辿れば不意打ちでアレンの唇を奪ったフィリアにあるのだが、事情を知らないルイはアレンの気持ちに変化が
生じたのか、と不安を抱き始める。
「・・・キスされたんだ・・・。フィリアに・・・。昨日の夜・・・。」
言わねばならないという義務感に駆られたか、ルイから感じる自白の圧力−無論アレンの主観によるもの−に耐えかねたか、断片的にアレンが語る。
「昨日の夜・・・、フィリアとイアソンの・・・壮行会の後・・・、フィリアと話をした時・・・、フィリアに・・・キスされたんだ・・・。」
改めて時系列に沿い、相手が把握しやすいよう時系列に沿って事情を語るアレンは、後ろめたさと申し訳なさでルイと目を合わせられない。
「それで・・・今朝から様子がおかしかったんですね・・・。」
「うん・・・。」
アレンの異変の原因を把握したルイに対し、アレンは弁解も釈明も出来ず、目を伏してしまう。
「・・・それだけ・・・なんですか?」
暫しの沈黙の後、ルイが尋ねる。その口調に非難の意志はなく、純粋な確認の意志だけが篭っている。
「それだけと言えば・・・そう・・・だね。それが・・・、何て言うか・・・ルイさんに申し訳なくて・・・。」
「フィリアさんが一方的にしたことであって・・・、アレンさんとの合意の上でのことでは・・・ないんですよね?」
「うん。合意してのことじゃない。これは・・・間違いない・・・。嘘は言ってない・・・。」
「分かりました・・・。」
ルイの言葉にアレンは以降徹底的に批判糾弾される覚悟を決める。最悪の場合絶交されることも覚悟しなければならないと思う。
「怒ってませんよ。」
「・・・え?」
厳しい叱責の嵐が始まると思いきや、普段の穏やかな口調に戻ったルイに、アレンは顔を上げて思わず聞き返す。ルイの表情に怒りの色はなく、普段の
温厚なものだ。
「アレンさんがフィリアさんと合意してキスをしたのなら、私はアレンさんの心情を疑わざるを得ません。でも、今回はそうではなかった。フィリアさんが一方的に
アレンさんにキスをして、アレンさんがそれを申し訳なく思って、言うなれば私にどのような顔をすれば良いのか分からなくて、結果として様子がおかしく
見えた。でしたら、私にアレンさんを叱責したりする要素も意向もありません。アレンさんは一方的な被害者なんですから。」
「・・・そうなの?」
「はい。」
ルイに批判される可能性がないことをようやく悟ったアレンは、思わず安堵の溜息を吐く。
それだけフィリアにキスされたことがルイに申し訳なく、後ろめたかったのであるが、ルイにしてみれば、アレンがフィリアにキスされたことは「鎖に繋がれて
いない野良犬が物陰からいきなり飛び掛ってきて噛みつかれた」ことと同等であり、アレンは何らの落ち度も責任もない被害者だ。ルイは落ち度も責任もない
被害者を、「放し飼いの野良犬に噛みつかれた」ことを「路地を歩いているのが悪い」と叱責するようなことはしない。
「ですから、表現はおかしくなりますが、気に病まなくて良いんですよ。」
「そう・・・なんだ・・・。」
ルイに批判や叱責の意志がないことを改めて確認して、アレンは重く圧し掛かっていた肩の荷が完全に下りたように思う。一方ルイは、アレンがフィリアに
キスされたことを自分に後ろめたく思い、結果として少し余所余所しくなっていたことを嬉しく思う。アレンがフィリアを特別な異性と意識していないこと、
自分以外の異性と関わりを持つことを後ろめたくさえ思うのだから、それだけアレンはルイを特別な異性として意識しているということだ。
ルイもアレン同様恋愛初心者だが、アレンより恋愛感情に関して鋭敏だ。アレンが後ろめたさを感じる必要がないと確信し、ルイはアレンが何処か余所余所
しかった謎が解けたことで、アレンとルイの雰囲気からぎこちなさが消え、見ていて安心出来る初々しさに満たされる。
それを見計らって、使用人はアレンに注文の品を持っていく。アレンとルイは喉を潤しつつ談笑する。フィリアの睨みに阻まれて暫く共有出来なかった
穏やかな時間を、2人は寛いで過ごす・・・。
その頃、リルバン家邸宅の執務室では執務用の机に向かうフォンと、机を挟んで立つロムノが向き合っていた。フォンは書類の束を真剣な面持ちで
見詰めている。
「シーナ殿のお力添えが得られたことで、カルーダ王国に対する魔術師招聘の道は再び開けたものと思われます。」
「うむ。これほどの幸運に恵まれたことを神に感謝せねばなるまい。」
フォンは安堵の溜息を吐く。フォンが読んでいた書類は、シーナが自らしたためたカルーダ王国の魔術大学学長への実戦に対応しうる魔術師招聘を要請
する書類だ。
ランディブルド王国とカルーダ王国は定期船が就航していることに代表されるように、国民や商業レベルではかなり活発な交流があるが−ティンルーが
ランディブルド王国で好んで飲まれるようになったのはカルーダ王国との交易が背景にある−、国家レベルではさほど交流はない。クルーシァと並ぶ
力魔術の大家である王立魔術大学を擁するカルーダ王国に対し、ランディブルド王国は「キャミール教第二の聖地」と称されるほど衛魔術と聖職者が
社会的に広く深く認知されている一方で、魔術師は神の法則に反すると疎んじされさえする日陰の存在となっている、言わば対極の力を象徴する国家だ。
必然的に国家レベルでの交流は疎遠になる。そんな折に魔術師でなければ対処出来ない危機的状況に陥りつつあるとは言え、普段交流が疎遠な状況で
いきなり「貴方の力が必要だ」と支援を求めても、いきなり何を言うかと当惑させたり勝手なことを言うなと憤慨させたりはしても、好意的に応じられる可能性は
低い。
頼みの綱としていたウィーザが消息不明との回答を得て魔術師招聘が暗礁に乗り上げかけていたところに、事情をイアソンから伝え聞いたシーナが名乗り
出た。シーナは魔術師の最高峰Wizardであり、カルーダ王国の魔術大学の客員主任教授という要職にあり、力魔術のみならず医学薬学でも非常に著名な
存在であるウィーザの愛弟子だ。しかも、偶然にもシーナはランディブルド王国への渡航前に魔術大学に立ち寄り、学長直々の依頼で特別講義を開講して
いるほど学長とは知己の間柄でもある。シーナが学長宛にしたためた魔術師招聘の依頼は、真摯に検討されることはあっても無視されることはあり得ない。
新たな心強い頼みの綱を得られたことで、ロムノの言うとおり魔術師招聘に向けて大きく道が開けた。
「では、これらを次回臨時王国議会に提出する。シーナ殿に感謝の意を伝えておいてくれ。」
「承知いたしました。」
フォンから書類一式の写しを受け取ったロムノは、軽く一礼する。
「フォン様。例の件はどうなされますか?」
「うむ・・・。」
ロムノに問われたフォンは、苦悶ともいえる表情で考え込む。ロムノの言う「例の件」とは、イアソンから伝え聞いたルイの意向、すなわち国の中央教会総長
との謁見終了後にヘブル村に一時帰還したいというものだ。
今後正室も側室も一切迎える意向はないフォンが当主を務めるリルバン家の後継候補はルイしか居ない。そのルイを一時とは言え潤沢な警備体制が
敷かれているフィルの町から出すのは大きな危険を伴うことであり、おいそれと容認出来ることではない。
先に国王から直々にルイの安全に万全を記すよう命じられている。既にフィルの町では目に付く度合いは異なれど彼方此方に警備の網が敷かれているし、
邸宅内には過剰とも思えるほどの警備を敷いている。そこからルイを解き放つことは、恐らく町村間の輸送や人の出入りに伴って行き交う口コミによって
予想以上に知られているであろうルイがフォンの唯一の実子であることを踏まえれば重大な危険を孕む。誘拐や殺害の対象と目をつけられるだろうし、ルイの
身に万一のことがあればフォンどころかランディブルド王国全体に深刻な悪影響を及ぼすことになる。
しかし、ルイとまともに交流が出来ていない現状で「お前は次期リルバン家当主後継候補だから」との枕詞で説得してもルイは一切聞く耳を持たない
ばかりか、「母に苦難を齎したリルバン家に自分を一方的に縛り付けるつもりか」とルイがより一層不信感や怒りを募らせることになるだろう。ただでさえ頑なに
なっていて改善策が見出せないルイとの関係をこれ以上悪化させるのは好ましくない。フォンにとって、ルイとの関係改善は現在のランディブルド王国の国情
以上に悩ましい懸念材料だ。
「ルイ様からはイアソン殿を介して、ヘブル村帰還に際しては警備を同行させないよう依頼を賜っておりますが・・・。」
珍しくロムノが言い難そうなのも無理はない。ルイからの依頼はフォンに更なる困難を突きつけるものだ。
ヘブル村への一時帰還さえ多大な危険を伴うから、最低でも厳重な警備をつけたいところだ。しかし、警備の案を出す前にルイから封じるよう要求された。
ルイは、必要以上にフォンの力を借りたくないという一心で依頼したのだが、ルイの依頼はフォンにとって「断れば今以上に態度を硬化させる」と暗喩する
ものだ。「安全保障のため」とフォンが強引に警備を伴わせれば、「自分の要求を聞き入れなかった」「自分が頼みもしないのに自分をリルバン家に縛りつけ
ようとしている」とルイが態度を更に硬化させるのは目に見えている。
ロムノからの話も一切聞こうとせず、現在ではアレンを介しての説得も極めて困難な情勢だ。これ以上ルイとの関係を悪化させることはやがては
リルバン家の継承問題に致命的な影響を齎すし、それよりもフォンにとって愛娘に拒絶され続けるのは非常に心が痛む。
ルイの心情を害したくなければルイの要求を受け入れるしかない。だが、警備を伴わない遠出は一事とは言え多大な危険を伴う。究極の二者択一を
迫られた格好のフォンは頭を悩ませる。
ロムノも進言しかねる。何故なら、先代が絶大な権限を握っていたあの時代においてはやむを得なかったとは言え、ルイの母ローズを秘密裏にリルバン家
から脱出させ、役所に死亡届を提出することで死んだことにして追跡をかわす策を提案したのは他ならぬロムノだからだ。
加えて、ルイがアレンと非常に親密になっていることが事態を複雑にしている。
アレンとルイ本人から直接聞いては居ないが、大人数故広大な情報ネットワークを構築しているリルバン家の使用人やメイドの話題から容易に把握出来る。
フォンとロムノも、オーディション本選以後の一連の出来事からアレンとルイが、口にはしていないようだが深い信頼を伴う強い愛情で結ばれていることは
分かっている。
ホークの顧問の配下によってオーディション本選の最中にルイが拉致された後、フォンはアレンから怒りの鉄拳を受けた。
ルイが監禁されていた港の倉庫が炎に包まれた時、アレンは我が身を顧みず真っ先に倉庫に突入し、重傷を負いながらもルイを無傷で救出した。
アレンが昏倒した後、ルイはホークと顧問の魔の手から強固な防御魔法でアレンを護り抜いた。
治療のためリルバン家邸宅に搬送されることになったアレンにルイは付き添い、手術終了から完全治癒まで付きっ切りでアレンを看護した。
ロムノからもイアソンからも聞き入れようとしなかったフォンとの対面にルイを向かわせたのは、アレンの説得があってのことだった。
直ぐに思いつく一連の事項だけでも、アレンとルイが互いを特別な存在と位置づけていることが分かるし、特にルイはアレンと自分の関係に少しでも干渉
するなら、問答無用で以後リルバン家からの接触を一切断絶するつもりでいることも推測出来る。フォンもロムノもルイの心情をこれ以上害したくないし、
何より先代や自身が味わった「一等貴族の血縁者であるが故の悲劇」をルイに味わわせたくない。結婚となるとアレンの身分や国籍も絡むから困難な問題と
なるだろうが、現状を生んだのは先代でありフォンでありロムノである。アレンとルイに責任を求めたり関係の終焉を求める資格はないと認識している。
「・・・私設部隊は、どれほど動かせる?」
長い沈黙の後、フォンが苦渋の表情のまま口を開く。ロムノは即座に気持ちを切り替える。
「フィル滞在のものだけなら100。ヘブル村までの経路に駐留しているものも含めれば500は可能です。」
「そうか・・・。では、私設部隊を引き続き展開させろ。必要なら増強も行う。」
フォンは事実上ルイの要求を無条件に受け入れる姿勢を示す。それ以外に現在以上にルイとの関係を悪化させない手が思いつかないフォンの苦肉の
策だ。私設部隊は一等貴族当主が国軍とは別に雇用する傭兵集団だから、国軍の意向とは異なる方針で動かすことも可能だ。無論その結果王国の運営に
支障を来たせば厳しく責任を問われるが、私設部隊なら国軍の警備より目に付き難いから、ルイに知られ難い形でヘブル村に一時帰還するルイの安全を
保障することは可能だ。
「承知いたしました。」
ロムノは無謀とも言えるフォンの決断を受ける。執事は基本的に仕える対象に絶対服従だ。余程のことでない限り仕える者の方針に異を唱えることはない。
アレンとルイの停滞は解消されたが、ルイとフォンの間に垂れ込める重く低い雲を切り開く光明は未だ1つも見出せない・・・。
用語解説 −Explanation of terms−
38)警備兵:ランディブルド王国の貴族が各自で雇用する剣士を指す。Scene6 Act4-2でフォンがホークを叱責した後軟禁を命じて連行させた兵士もこれに
該当する。一等貴族では国軍入隊経験者を雇用するのが常識となっている。
39)起こしぃな:勧誘や促しの「起こしなさい」と同じ。方言による言い回しの1つ。