魔術大学付属病院を入って直ぐのロビーは広々とした造りになっている。壁や天井は大理石の滑らかな輝きを放ち、幾何学模様を描く床のタイルも掃除が
行き届いているらしく、滑りこそしないものの表面は滑らかだ。高級ホテルを髣髴とさせるロビーには、待合席がずらりと並び、そこには老若男女問わず
沢山の人でごった返している。
ドルフィンはそんな中シーナの手を引いて、天井から吊るされた案内にしたがって受付へ向かう。入り口から直進したところに受付はあり、先に何人かが
並んでいる。ドルフィンとシーナはその列の最後尾に付く。受付はきびきびしたペースで進み、程なくしてドルフィンとシーナの番が回ってきた。
「いらっしゃいませ。初診ですか?」
「街の魔術師に紹介状を書いてもらった。これだ。」
ドルフィンは懐に締まっていた紹介状の入った封筒を取り出し、受付の女性に差し出す。受付の女性は封筒を開け、中身の紹介状を確認する。
少しした後、紹介状に判を押し、ドルフィンに返して言う。
「確認させていただきました。魔法治療科第3受付へお進みいただき、そこで改めて紹介状を提示して下さい。」
「分かった。ありがとう。」
ドルフィンは紹介状を再び懐に仕舞うと、直ぐ傍に掲げられている壁の間取り兼案内図を見て、シーナを連れて魔法治療科第3受付へ向かう。
受付正面向かって左側の通路−通路と言っても十分過ぎるほど広い−を歩いて、ドルフィンとシーナは魔法治療科第3受付に到着する。
ドルフィンは紹介状を懐から取り出して受付の女性に差し出す。
「受付で案内を受けた。これが紹介状だ。」
女性はドルフィンから紹介状を受け取ると、中身を取り出して目を通す。
「確認しました。それでは順番が来ましたらお名前をお呼びしますので、席に掛けてお待ちください。」
「分かった。」
ドルフィンは手短に礼を言うと、シーナの手を引いて待合席に向かう。待合席はそれほど混雑してはおらず、ドルフィンは空いている席にまずシーナを
座らせ、その隣に自分も腰を下ろす。待合席は、長時間の待機にも患者を疲れさせない配慮がなされていて、適度に柔らかく、ゆったりと座れるように
なっている。
シーナは不安そうにドルフィンに言う。
「私の記憶喪失・・・治るんでしょうか?」
「治るさ。治ると信じるんだ。」
そう言ってシーナを励ますドルフィンも、内心ではシーナの記憶が戻るのか不安でたまらない。
Sorcererの魔術師をもってしても全容を把握されるのを拒絶したシーナの頭にかけられた魔法は、上位の魔術師なら必ず解除出来るとは限らない。
魔法の正体すら分からない以上、Illusionistのドルフィンと言えど迂闊にディスペルを使うわけにはいかない。ディスペルを拒絶、或いは吸収する効果を
伴っている可能性も否定出来ないし、シーナのみに危害を加える効果が潜んでいる可能性もある。こういう時は専門の魔術師に頼るしかないのだ。
シーナの手がドルフィンの服の袖をきゅっと掴む。不安を懸命に打ち消そうとドルフィンに縋る思いなのだろう。ドルフィンはシーナに頼られていると
感じ、尚更自分がしっかりしていないとシーナが不安で押し潰されることになると思う。
シーナの記憶が戻ったら、恐らくゴルクスとの戦いで紛失したであろう医師免許、そして薬剤師免許の再発行を受けに行こう、と心に決める。
気が早い、と思うかもしれないが、そう思わないとドルフィン自身ももしかしたら、という不安に押し潰されそうなのだ。
患者の名前が断続的に呼ばれ、その度に待合席から人が立ち上がり、ある者は付き添いを受けて奥に入って行く。代わって出てくるものも居る。
その表情はどれも安堵や歓喜に溢れている。
魔法治療科はその名のとおり魔法による弊害を除去するのが専門だが、魔術大学付属病院の門を叩くということは、かなりの重体であることを意味する。
旅行者であれば魔法の罠のかかった品物にうっかり手を出してしまったか、一般市民であれば一部の心無い魔術師によって魔法をかけられてしまったか。
症状は人によって様々であり、魔術師はかけられた魔法の種類や個所、副作用などを見定め、ディスペルや特別な魔法を使って解除するのだ。そのため
患者の数葉比較的少なくても時間がかかる。シーナは待ちくたびれたのか、口を押さえて小さく欠伸をする。
「眠いなら寝て良いぞ。まだ時間がかかりそうだし。」
「良いんですか?」
「名前が呼ばれたら起こしてやる。」
「それじゃ・・・。」
シーナはドルフィンの肩に凭れかかり、目を閉じる。間もなくシーナは規則的な寝息を立て始める。ドルフィンはその肩をそっと抱く。
シーナが眠りに落ちて約30ミム後、白衣姿の広げたファイルを持った女性が奥から出てきて良く通る声で名前を呼ぶ。
「ミール・シェングラントさん。ミール・シェングラントさん。第1診察室へどうぞ。」
ドルフィンはシーナの頬を優しく軽く叩く。それでシーナが目を覚まして姿勢を直す。
「名前が呼ばれた。行こう。」
「はい。」
ドルフィンは先に立ち上がり、シーナに手を差し出す。シーナが微笑んでその手を取ると、ドルフィンはぐっと引っ張ってシーナを立たせる。
そして手を繋いだまま、ドルフィンとシーナは名前を呼んだ白衣姿の女性の元に歩み寄る。
「ミール・シェングラントです。」
「お待たせしました。では第1診察室へどうぞ。」
シーナが偽名を名乗ると、女性は奥へ二人を案内する。「第1診察室」と書かれたプレートのかかった部屋の前まで案内されたところで、ドルフィンが軽く
ドアをノックする。中からしわがれた老女の、どうぞ、という応答が返ってくると、ドルフィンはドアを開けてシーナを先に中に入れる。
「失礼します。」
「はいはい。えーと、ミール・シェングラントさんは・・・?」
「私です。宜しくお願いします。」
「はいはい。それじゃそこのベッドに横になって下さいな。」
二人を出迎えた推定年齢6、70歳の白色のローブを纏った老女−魔術師だ−は椅子から立ち上がり、ベッドに横になったシーナの傍に歩み寄る。
ドルフィンは魔術師の診察の邪魔にならないように、離れた位置から診察の様子を見守る。
魔術師は、街の魔術師がやったのと同じように、シーナの上で何やらぶつぶつと呪文を詠唱する。すると白いもやのようなものがシーナの上空に現れ、
魔術師が更に呪文を唱えていくと彼方此方でもやが渦を巻き始め、頭部では複雑な模様を描いていく。魔術師の額から滴る汗を、横に居た若い男性の
助手がタオルで拭う。
魔術師が尚も呪文を詠唱していくと、頭部の模様が更に複雑なものへと変わっていく。男性が魔術師の汗を拭う回数と頻度が増す。ドルフィンはその模様を
見ながら、魔法の種類や副作用などが判明することを願う。
頭部の模様が何とも形容し難い複雑な模様を描いたところで、もやの動きが止まる。そうなったところで魔術師は呪文の詠唱を止める。すると白いもやが
すっとかき消される。男性に汗を拭われつつ、魔術師は息を切らしながら言う。
「これは・・・太古の強力な封印の魔法ですじゃ。」
「太古の魔法・・・?」
「うむ。脳内の記憶を司る部分に干渉し、記憶をほぼ完全に封印するというものですじゃ。このような魔法が存在するとは知ってはおりましたが・・・。」
「で、解除は出来るんですか?」
ドルフィンが畳み掛けると、魔術師は苦渋の表情で首を横に振る。
「わしも一応Wizardじゃが、一人ではとても解除出来ない強力な魔術ですじゃ。魔法構造を検索してみたんじゃが、わしの知識では及びません。」
「そんな魔術が一体どうして・・・。」
「分かりません。ただ、こうして現に存在するということは、何者かが偶然か研究の成果か分かりませんが発見し、自身の魔力を総動員する形でこの魔法を
かけたことは分かりましたですじゃ。」
魔術師の言葉を聞いたドルフィンは、シーナに魔法をかけたのがあのゴルクスだと直感する。何らかの意図をもってシーナの記憶を封印したものの、
代わりにシーナの魔法で木っ端微塵にされてしまったと考えるのが妥当な線だろう。
それはそれとして、Wizardの力をもってしても解除出来ない魔法だと分かって、ドルフィンの心に絶望という名の闇が立ち込めてくる。魔術大学付属病院の
Wizardが解除出来ないということは、事実上解除の手段がないと宣告されたに等しい。ぐっと唇を噛むドルフィンに、魔術師は言う。
「大学の学長殿なら・・・知っておられるかも知れませんですじゃ。」
「学長なら?」
「うむ。しかし学長殿は多忙の上、一般市民の診察や魔術解除を行う立場にないのが現状。」
「俺は魔術大学の客員教授、シ・・・いや、ミールは客員の主任教授だ。学長とも面識がある。それに・・・ミールはWizardだ。」
「何と?!」
魔術師がシーナの左手を見ると、確かに自分と同じスターサファイアの指輪が填まっている。魔術師は驚愕の表情を浮かべた後、ドルフィンに向き直る。
「そなた・・・もしやあのドルフィン・アルフレッド殿では?そしてミールというこの女性は・・・あのシーナ・フィラネス殿では?」
「・・・そうだ。訳あって偽名を使っている。」
ドルフィンは出来るだけ本名を隠しておきたいところだが、大学の学長の名が出てきたことで、新たな解除の道が開けそうなことを察し、魔術師の問いを
肯定する。魔術師は納得したような表情で何度も頷き、ドルフィンに言う。
「お二方の名は聞き及んでおります。クルーシァの若き逸材中の逸材ということで、学長殿が客員として招致したと聞いておりまする。」
「それは良い。学長に紹介状を書いてくれませんか?」
「うむ・・・。本来なら断るところじゃが、ドルフィン殿のご依頼でシーナ殿の診察のためならば一肌脱がねばなるまい。少しお待ちくだされ。」
魔術師はデスクに戻ると、紙に羽ペンを走らせる。暫くして魔術師は羽ペンを置き、紙を丁寧に折り畳んで封筒に詰めると、ドルフィンに手渡す。
「わしから学長殿宛に診察の依頼をしたためました。これを学長殿にお見せくだされ。わしの診察結果を記録しました故。」
「分かりました。ありがとうございます。」
「神のご加護があらんことを・・・。」
魔術師は両手を胸の前で組んで静かに祈る・・・。
会計窓口で診察料を支払ったドルフィンは、シーナを連れて病院に隣接する魔術大学へ向かう。勿論目的は、シーナにかけられた魔法を解除してもらう
ためだ。ついこの前顔見せに訪れたばかりだというのに、今度は魔法を解除してもらうように依頼しに行くことになるとは、とドルフィンは内心苦笑いする。
ドルフィンに手を引かれるシーナは、不安そうな表情で呟くように言う。
「私にかけられた魔法が・・・Wizardの方をも煩わせるものだなんて・・・。しかもカルーダの魔術大学の学長様のご厄介になるなんて・・・。」
「心配要らん。記憶を失っているとは言え、お前はWizardで魔術大学の客員主任教授だ。名前も顔も通っているから臆することはない。」
「でも・・・。」
「お前を除いても、各はお前より下だが、Illusionistで魔術大学の客員教授の俺が居る。変な輩が絡んできたら俺が相手してやる。だからお前は周囲のことは
気にしないで、自分のことだけ心配すれば良い。」
「・・・はい。」
ドルフィンの手を取るシーナの手に力が篭る。そのことが自分を頼りにしている証拠だと察したドルフィンは、悲嘆にくれている間もなく新たな、そして恐らく
最後の希望に託そうと決心する。
ドルフィンとシーナは魔術大学の正門を潜る。廊下を歩いて階段を上り、そしてまた廊下を歩くこと暫し。二人は「学長室」のプレートがかかったドアの前に
辿り着く。ドルフィンがドアを軽くノックすると、中から、どうぞ、というややしわがれた、しかしはっきりした口調の応答が返ってくる。
「失礼します。」
ドルフィンがドアを開け、やはり先にシーナを中に居れて自分はその後に続く。
部屋の奥まったところにある細かい木目の彫刻が施された豪華な机の前で書類にペンを走らせていた老女、魔術大学の学長が顔を上げる。その瞬間、
それまで眉間に皺を寄せていた学長の顔が一気に緩む。
「おお!ドルフィンじゃないかい!それにシーナまで!ドルフィンとはこの前会ったばかりじゃが、シーナと会うのは久しぶりじゃなぁ!」
「ドルフィンさん。あの方が魔術大学の学長様なんですか?」
「ああ、そうだ。」
「?何じゃ?シーナ。まるで初対面のような口を利いて・・・。元々お主は控えめな口調じゃが、久しぶりだからといって臆することはないぞえ。」
「学長。実はその件でお願いがありまして・・・。」
「お願いじゃと?」
学長が怪訝そうな顔をすると、ドルフィンは机の前まで歩み寄り、付属病院で貰った紹介状の入った封筒を学長に手渡す。学長は封筒を開けて中身を
取り出し、真剣な面持ちで書面に目を通す。
「ふむ・・・ふむふむ・・・。」
当事者であるシーナも気になったのか、ドルフィンの傍に駆け寄って学長の様子を見守る。
学長は書面の隅から隅まで熟読すると、紹介状を机の上に置き、二人に向かって言う。
「事情は良く分かった。付属病院の魔術師では手に負えんから、私にお鉢が回ってきたということじゃな?」
「はい。」
「記憶を失ったままシーナを放置しておくのは、我が大学、ひいては魔術学会全体における重大な損失。よろしい。私が解除を試みてみようぞ。」
「ありがとうございます、学長。」
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。」
「気にすることはないぞえ。この大学の優秀な客員主任教授の危機を放っておくようでは、私の魔術師としての尊厳が許さぬ。では、部屋を移動しようか。」
てっきりこの場で解除を試みるかと思っていたドルフィンとシーナは、少し驚いた様子を見せる。ドルフィンが、紙に何かを走り書きして呪文を唱えて
紙を消した学長に尋ねる。
「学長。此処で解除を試みれば良いのでは?」
「紹介状を書いたのはWizard。しかも魔法治療科の専任魔術師じゃ。それでも解除出来なかったということは、同じWizardの私でも単独では不可能じゃ。」
「では?」
「先程主任教授全員を召集した。私も加わって総動員で解除に臨もうぞ。それくらい強力な魔法ということじゃ。一人で手に負えんのはもっともじゃ。」
学長は席を立ってドアの方へ向かう。ドルフィンとシーナもそれに続く。
「万が一のことを考えて、解除は特別実験室で行う。」
ドルフィンとシーナを先導しながら学長は言う。
特別実験室とは、大掛かりな、或いはその可能性がある魔法を実験する際に使用される、強固な防御壁で囲まれた特別の部屋である。そのため、使用には
事前の申請と許可が必要なのだが、学長はその権限で自由に使うことが出来る。逆に言えば、そんな物々しい部屋まで使用するということは、余程強力な
魔術がかけられているということが容易に察することが出来る。
学長は小柄な身体からは想像もつかない程早い足取りで廊下を進み、階段を駆け下り、廊下を進んでもう一度階段を下りて地下に入る。ドルフィンは
それに置いていかれないよう、シーナを抱え上げて走る。所謂「お姫様抱っこ」であり、シーナはすれ違う周囲の視線に恥ずかしさを覚えつつも、そうされる
ことに心地良さを感じる自分が居るのに気付く。
やはりドルフィンと自分は特別な関係なのだ。頭は覚えていなくても身体はしっかり覚えている。シーナはそう思い、自分のために奔走するドルフィンを
頼もしく思う。
廊下を進んで突き当たりの巨大な両開きの金属製のドアの前で学長が足を止める。警備にあたっていた魔術師2名が、学長を見て敬礼する。
ドアの前には、数人の初老の男女が居る。彼らがカルーダ魔術大学の研究員の最高峰、主任教授の面々である。
「皆の者。揃っておったか。」
「学長のご命令とあらば。」
「早速じゃが、シーナにかけられた魔術の解除を行う。全員心して臨むように。」
「「「はっ!」」」
初老の男女、主任教授達は学長に敬礼する。
ドルフィンはシーナを抱きかかえたまま主任教授達に一礼する。主任教授達もそれに応える。
主任教授達はシーナの姿を見て一葉に驚きの表情を見せる。若くても白髪の面々の中で、若くて美しいシーナの存在は異彩を放っている。
「ドアを開けよ!」
「「はっ!」」
学長が命じると、警備にあたっていた魔術師達がドアを開ける。ギギギ・・・と軋む音を立てながらドアが開くと、特別実験室が姿を現す。
特別実験室というと試験管やビーカーなどが多数林立しているのを想像されるかもしれないが、室内は殆どがらんどうである。
部屋の中央にベッドが置かれ、入り口付近に透明な壁に包まれた、数人が入れる程度の空間があるだけだ。
その空間は実験者或いは実験者以外の者が入り、不測の事態に備えて自らの身を守るための
水晶で作られた隔離空間8)である。
学長を先頭に主任教授達とドルフィンとシーナは中に入る。背後でギギギ・・・と音がしてドアが閉まる。部屋全体は勿論ドアにも聖職者が施した強力な
魔法防禦の魔法が施されている。万が一室内で大事故が発生しても、外部に極力影響を及ぼさないように設計されているのだ。
学長と主任教授達はベッドの周りを囲むように並ぶ。ドルフィンはベッドに寝かせろという暗黙の合図だと察し、シーナをベッドに連れて行ってそこに
そっと横たえる。
「ドルフィンは念のため、隔離部屋に入っていなされ。」
「分かりました。」
本来なら付き添っていたいところだが、ドルフィンは素直に学長の言うことに従う。ここで駄々をこねるほどドルフィンは子どもではない。
ドルフィンが隔離部屋に入ったのを確認して、学長が主任教授達に言う。
「かけられている魔法は太古の封印の魔法じゃ。お前達は魔術の全容を現す魔法をかけ続けよ。私がその間にディスペルを試みる。良いな?」
「「「はい。」」」
「その前にシーナ。そなたには魔法の邪魔にならないよう脳を沈静化させるため、眠ってもらうぞよ。」
「はい。」
「アナスシーズ9)。」
学長が言うと、シーナは急速な睡魔に襲われてすっと眠りに落ちてしまう。
シーナが眠ったのを確認して、主任教授達が一斉に呪文を唱え始める。するとシーナの上空にあの白いもやが現れ、彼方此方で渦を巻き、頭部で複雑な
模様を形成していく。その速さは付属病院の魔術師の数倍以上だ。白いもやの描く模様がこれ以上ないというほど複雑なものを描いて停止したところで、
学長はシーナの頭部を指差して叫ぶ。
「ディスペル!」
次の瞬間、目が眩まんばかりの閃光が迸り、ドルフィンは思わず腕で目を覆う。続いて耳を劈(つんざ)くような爆発音が発生し、学長や主任教授達が
弾き飛ばされて壁に叩きつけられる。
ドルフィンは隔離部屋を飛び出し、壁に凭れてうめいている学長と主任教授達に気付を施す。そしてシーナの元へ駆け寄る。あれだけ激しい爆発が起こって
いながら、シーナには傷一つついていない。
「シーナ・・・。」
「う、うーむ・・・。すまぬ、ドルフィン・・・。シーナにかけられた魔法はディスペルが効かんようじゃ。太古の魔術故系統が微妙に異なり、私のディスペルと反応して
閃光と爆発を生んだのじゃ・・・。」
「では・・・シーナにかけられた魔法は・・・。」
「すまぬ・・・。私をはじめ、主任教授が束になっても解除は出来ん。」
学長の言葉を聞いて、ドルフィンは絶望の淵に叩き落される。
魔術大学が誇る主任教授をはじめ、最高位の学長自らが施したディスペルですら無効となれば、もはや解除する手段はない。
これで希望は完全に潰(つい)えた。もはや自分との思い出は取り戻せない。
ドルフィンはシーナを抱き起こし、ぎゅっと抱き締める。唇を切らんばかりに強く噛み、その場に座り込んでしまいそうなところを何とか堪える。
腰を擦りながらベッドに歩み寄ってきた学長は、シーナにディスペルをかけてアナスシーズによる麻酔を解除する。シーナはうっ、と短くうめいた後、
ゆっくりと目を開ける。
「ドルフィンさん・・・。私・・・。」
「・・・。」
ドルフィンは唇を噛んだまま、力なく首を横に振る。シーナは目を大きく見開き、悲しげな表情を浮かべる。
ドルフィンとの記憶を思い出したかった。でもそれは泡沫(うたかた)と消えた。自分のために奔走してくれたドルフィンに対して、シーナは申し訳ない
気分でいっぱいになる。
「御免なさい・・・。」
「お前が謝る必要はない・・・。全ては魔法が原因だ・・・。」
ドルフィンはそれだけ言うのがやっとだ。
学長をはじめ、ベッドに歩み寄ってきた主任教授達は皆一様に沈痛な表情を浮かべる。シーナに施された魔法解除の希望は夢幻と消え失せた・・・。
用語解説 −Explanation of terms−
8)水晶で作られた隔離空間:水晶には元々高い魔法防御力が備わっている。そのため隔離空間も水晶で作られている。
9)アナスシーズ:力魔術の一つで古代魔術系に属する。触媒は不要。対象に魔法による麻酔をかける。効果範囲はゼロからショートレンジ。効力はWizardで
50ミム程度。Sorcerer以上で使用可能。ディスペルで解除することが可能。