二人は徐々に傾斜をきつくしてきた斜面を登り続ける。
道らしい道など全くないため、足元を確認してアレンが先を進み、そのすぐ後をフィリアがついて行く。
もう何度も通った道であるからアレンも道に迷うことはなく、警戒を怠らないようにしながら慎重に進む。
暫く斜面を登ると次は下りになった。
勢いに任せて転げ落ちないように慎重に降りていくと、やがて急に目の前が開ける。
それまでの厳しい傾斜が嘘のようななだらかな窪地に、色とりどりの花が豊かな自然の色彩の競演を繰り広げている。
ここが目的の薬草の群生地である。
町とは丁度二人が登ってきた山を挟んで反対側に位置することと、交易路から離れていることで誰にも知られることなく貴重な薬草の宝庫として
存在し続けてこれたのである。
フィリアは早速持ってきた大きめのバスケットの蓋を開いて、目的の薬草を物色し始める。
アレンは何もすることがないため、地面に腰を下ろしてフィリアが薬草を摘み終わるのを待つことにした。
魔術が使えるわけでもなく、薬草の種類や効用を知るはずもなく、まして薬草とそうでない植物との区別もできないアレンが手伝おうとしても足手まといに
なるだけであるから、おとなしくしているのが最も賢明である。
フィリアがいつになく真剣な表情で、薬草を見つけては丁寧に摘み取って、それをきちんと仕切られたバスケットの中に薬草毎に分類して入れていくのを
眺めていたアレンは、よくもまああれだけ面倒なことを覚えられるものだ、と素直に感心する。
アレンは呪文を覚えないと使用できない魔術が不便に感じられて仕方がなく、フィリアと共に入学した魔術学校をたった3日で逃げ出すように中退した
経験を持つほどである。
アレンが魔術を不便でしかないものと考えるようになったのは、自分の女性的な容姿に対する劣等感に他ならない。
頑強な体格の父親と華奢な体格の自分とを比較して、男は父のように強く逞しくなければならないとアレンは常々考えていた。
だが、どういう訳か成長するに従ってますます優美さが目立つようになってきたことに、アレンは耐えられない。
重量のある武器を持ち、鎧を身につける剣士と違い、体を鍛えることが特別に必要とされない魔術はアレンにとっては、ますます女性化に拍車を
掛けるものにしか思えないのである。
アレンは豊かに広がる大自然に目をやる。
起伏に富んだ地形、そこに上等の絨毯を敷き詰めたかのように広がる草原、頭上に広がる真っ青な初夏の空と、そこにぽっかりと浮かんで風に乗って
ゆっくり流れていく雲。
そこにはゆったりとした時間の流れが感じ取れる。
アレンが神経をすり減らすようなフィリアの護衛役を辞退しないのは、壁の内側にいては分からない、この雄大な自然を存分に味わうことができるからだ。
暫くして、フィリアがアレンの元に駆け寄って来る。
「お待たせ。そろそろお弁当にしようよ。」
「待ってました。丁度腹も減ってきた頃だし。」
フィリアは薬草の詰まった区切られた容器を取り出し、中から二人分の弁当を取り出す。
蓋を開けると、香ばしい匂いが二人の鼻と胃袋を擽る。
中の料理はかなり手間がかかっているらしく、種類も豊富で彩りや盛り付けにも細かい気配りがなされていることが窺える。
「へえ。随分豪勢だなあ。」
「前にアレンが作ってくれたお弁当に負けないように一生懸命作ったのよ。朝5ジムに起きたんだから。」
「じゃあ早速、お味のほどを・・・。」
アレンがそう言って料理に手を伸ばすと、フィリアの手がアレンの手をぴしゃりと打つ。
「な、何するんだよ。」
「駄目じゃないの。ちゃんとお絞りで手を拭いてからじゃないと病気になっちゃうわよ。」
母親が子どもを叱り付けるような口調だ。
「・・・結構細かいなあ。分かったよ。」
「分かればよろしい。はいどうぞ。」
フィリアはバスケットの中から皮製の入れ物に入ったお絞りをアレンに手渡す。
アレンはそれで手を拭いてから、改めて弁当に手を伸ばす。
フィリア自身は手をつけずに、固唾を飲んでアレンの反応を窺う。
アレンの口に料理の一つが入り、アレンの口が歯触りと味を確かめるようにゆっくりと何度か動く。
「・・・どう?」
フィリアが不安そうに尋ねると、アレンは大きく頷く。
「うん、美味しいよ。前より随分進歩したな。」
アレンの誉め言葉を聞いて、不安いっぱいだったフィリアの表情が一気に明るくなる。
「そうでしょ?前にアレンから教えてもらったこと、しっかり守ったもん。これなら大丈夫って自分でも思えたから。」
「立派立派。大変よくできました。」
アレンは軽く拍手する。
フィリアも自分の弁当の出来栄えを確認するべく、お絞りで手を拭いてから料理を口に運び始める。
「ねえねえアレン。これならあたしもいいお嫁さんになれるかしら?」
「なれるんじゃない?少なくともこれを食べた分には料理面では合格だと思うよ。」
含みを持たせた問いかけに対するアレンの答えは、フィリアを少し拍子抜けさせる。
暫く食べた後、アレンが料理を口に運ぶ手を休める。
「ところでさ、フィリア。前から気になってたんだけど、どうしてまだ魔術学校に通ってるの?確かもう卒業できるんだろ?」
アレンの言うとおり、魔術学校では普通、
Magician16)の称号を獲得した生徒は魔術に関する研究を行い、何らかのテーマで研究論文を書いて
それが認められれば、魔術学士の学位を授与されて卒業できる。
フィリアの称号はMagicianよりも上位のPhantasmistであり、既に卒業論文を書き終えて認められ、魔術学士の学位も授与されている。
つまり、いつでも卒業できるはずなのに魔術学校に通い続けているのである。
「そうよ。まあ、先生達から学費は無料にするから研究を続けないかって言われたのもあるし、
学校を出たらそれで魔術師の勉強が終わるわけじゃないしね。」
「フィリアくらいの歳でPhantasmistになってるのってそう多くないし、田舎じゃ貴重だから大事に育てようってことか?」
「そうだと思う。でもあたしはそんなことは別にどうでもいいの。あたしには夢があるからね。そう、憧れのWizard17)になるっていう大きな夢がね。」
Wizard。それは魔術師の頂点に君臨する最高の称号であり、あらゆる
力魔術18)を使いこなす究極の存在である。
その称号を獲得できるのは実に十万人に一人いるかいないかとも言われ、授与されている魔術師は全世界でも50人に満たないと言われている。
「Wizardなら魔術に関して全くの素人の俺でも知ってるよ。でも、それになるには物凄い精神力を備えないといけないし、なれるとしても大体6、70の
年寄りばかりなんだろ?」
「普通はね。でも、前に魔術学校で聞いた話じゃ、何でも18歳でWizardになった人がいて、それも女の人だって言うのよ。」
「18歳でWizard?!どんな人間なんだ?!」
アレンが驚くのも無理はない。
精神力は普通、長年の魔術の使用経験の積み重ねによって成長していくものであり、18歳でWizardになったということは途方もない素質と実力の
持ち主ということになる。
「あたしも初めて聞いた時はびっくりしたわよ。でね、その女の人ってのがこれがまた凄い美人らしいの。これを聞いた時にあたしのやる気に火が付いたの。
あたしもWizardになってみせるって。才能があっておまけに美人。あたし、そういう女性に憧れてるの。」
「所謂才色兼備ってやつか。それは誰でも憧れるよな。」
「まあ、あたしの場合「色」の方は完璧に近いからあとは「才」よ。少しでも勉強して経験を積んで精神力を高めていかないとね。」
真剣な表情で力説するフィリアに、アレンは思わず吹き出しそうになる。
「で、でもさ、『才』の方はこのまま勉強すれば良いとしても、『色』の方も何とかした方がいいんじゃないのかなあ?」
アレンの一言は、二人の周囲の空気を硬直させるに余りある。
フィリアの瞳が急に鋭さを増したのを見て、アレンはしまった、と思ったが、時既に遅し。
「それって・・・どういう意味かしら?」
「あ、いや、その・・・。」
アレンはフィリアの鋭い眼光に想わず後ずさりする。
フィリアの両手がアレンの細い首にかかり、その両手に力が篭る。
「何よ!あたしの美貌に問題があるとでも言いたいの?ええ?どうなのよ!」
フィリアはアレンの首を絞めながら激しく前後に揺さぶる。
「ち、違う、そうじゃない・・・。く、苦しい・・・。」
「じゃあ、何なのよ!」
フィリアはなおも激しくアレンの首を絞めながら激しく前後に揺さぶる。
「だ、だから・・・、「色」の方にもより磨きを掛けた方がいいっていう意味で・・・。お、お願いだから離して・・・。」
アレンが喉の奥から絞り出すように弁解すると、フィリアはぱっとアレンの首から手を離す。
アレンは喉の辺りを押さえて幾度となく激しく咳き込む。
「そうならそうと、ちゃんと分かるように言ってよね。」
フィリアは何事のなかったかのように平然と言う。
あの鋭い眼光も完全にその姿を消し、すっかりいつもの瞳に戻っている。
「ほ、本気で絞めたな・・・。苦しかったぞ・・・。」
「アレンが誤解されるようなこというからいけないのよ。」
さすがに殺すつもりはなかったとは言え、フィリアがかなり本気でアレンの首を絞めていたことは間違いない。
フィリアが元来プライドが高いのもあるが、年頃の女の子が容姿のことを言われれば多少なりとも気にするのは当然であるし、まして問題があるというような
ことを言われては怒っても無理はない。
それで危うく窒息寸前にまで追い込まれたのだから、女心に鈍感なアレンにとっては年頃の女の子との接し方について良い勉強になったかもしれない。
暫く弁当を食べ進めて、フィリアが不意に身を乗り出す。瞳には勇気と期待と不安が複雑な色合いが浮かぶ。
「ね、アレン。あたしがみっちり教えてあげるからさ、一緒に魔術勉強しない?」
「冗談じゃない。魔術とは二度と縁を持ちたくないよ。」
アレンは首を何度も横に振る。
「先生が悪いと呪文の暗記ばっかりだもんね。それに嫌気がさした原因の一つでしょ?」
「分かってるんなら・・・。」
「大丈夫。あたしの個人授業ならその点は任せて。」
フィリアはそれとなく含みを持たせて誘いを持ち掛けてみる。
「遠慮しとくよ。魔術は勉強したくない。」
アレンはフィリアの気持ちを察することなく、フィリアの誘いをあっさり拒否する。
フィリアは直接的な告白こそできないものの、それとなくアプローチを含ませてみることはこれまでにも幾度か試みたのであるが、アレンはどうも他人の心情、
特に恋愛感情に対して鈍感で、フィリアの気持ちに気付くことは全くないまま今に至る。
「・・・一緒にやればさ、きっと魔術以外のことでも今まで気付かなかった、何か大切なことが分かると思うけどなあ。」
フィリアはもう少しアプローチを前面に押し出してみる。
しかし、返されたアレンの怪訝な表情と言葉は、フィリアに激しい脱力感を感じさせる。
「何が分かるの?」
「・・・別に・・・何でもないわよ。」
フィリアはそう言って、重い表情で深いため息を吐く。
アレンは何故フィリアが自分の言葉や態度一つで表情をめまぐるしく変えるのか、まったく分かってはおらず、フィリアの気持ちを察するには程遠い。
少々重く気まずい空気の中で、二人は弁当を食べ続けた。
アレンは最後の料理を飲み込む。
「ご馳走様。美味しかったよ。」
「ありがと。誉めてもらえると嬉しいわ。」
こういう時に見せるアレンの屈託のない笑顔が、フィリアにとっては何ともたまらない。
先程までのもどかしい気分も、この笑顔を見てあっさり霧散する。
「もう暫く薬草摘むから、退屈だろうけど我慢して待ってて。」
「いいよ。あんまり遠くに行かないようにな。」
フィリアは弁当を片づけ、薬草の詰まった容器をバスケットに入れ直して再び薬草を摘みに出かける。
アレンは念のために剣を左手に持って、いつでも立ち上がれるように両膝を立てる。
この薬草の群生地はうっそうと木々が生い茂る山の斜面よりは安全とは言え、やはり警戒を緩めるわけにはいかない。
フィリアは相変わらず熱心に薬草を摘み続けている。
アレンはぼうっと景色を眺める。
真夏とは違ってまだ柔らかさを含む日差しと心地良い満腹感、そして厳しい斜面を登ってきた疲労感が重なり、アレンの頭の中にぼんやりとした霧が
かかり始める。
心地よい南の風が子守り歌のようにすら感じられる。
ここにいる限りは世界の暗い雲行きとも全く無縁のように思える。
世界は激動と混乱の渦に飲み込まれる一枚の木の葉のような状況にある。
二人の住むレクス王国では、2年前に病死した先代の国王の後を継いだ現国王が即位して以来、税金が二倍以上に跳ね上がり、貧しい人々が国内の
あちこちで減税を要求して立ち上がり、それに軍隊が投入されて大勢の死傷者と逮捕者を出すということが繰り返されている。
一連の圧政に対して、王制打倒と主権在民を唱える非合法組織「赤い狼」が、首都ナルビア近辺の町を中心に勢力を拡大しつつあり、軍隊を相手に激しい
ゲリラ戦を展開していると聞いたこともある。
隣国であり、テルサに最も関係のある国であるギマ王国では、近年終息の兆しを見せていた部族間の抗争が再び激化し始め、大勢の難民が周辺諸国に
流れ込んで国家間の問題にまで発展しつつある。
レクス王国も決して例外ではなく、とりわけギマ王国に最も近いテルサには千人近い難民が滞在しており、町の自治組織の頭痛の種になっている。
決して財政的に豊かでないテルサにとって、難民問題は町の死活問題に直結する。
大勢の難民を受け入れるほどの施設は全くと言って良いほど整備されておらず、職も自給自足を基本とする町の産業構造においてはあれば恵まれていると
言った程度だ。
職に就けないがための貧しさは喩えようのない不満に繋がり、それは些細なきっかけで爆発する。
幸いにして現在までのところ問題は発生していないが、このままでは町の住人と難民達との間に衝突が起こることも十分考えられるだけに、その対策が
急がれている。
情報伝達の手段が未発達であるため正確さを図る術はないが、神秘の国と言われるセクトス王国では昨年クーデターが発生し、民主化を推進してきた
国王が幽閉され、継承者と目されていた王子が国外に脱出したと聞いた。
また3年前には、
キャミール教19)の経典である「教書」をはじめ、各地の神話や伝説が伝えるところの、繁栄の絶頂にあった人類が滅亡の淵に立たされた
「大戦」において、悪魔の軍団を倒した天使達が残した武器と鎧があると言われるクルーシャ国で内戦が勃発し、世界覇権を目指す強硬派が実権を
掌握したと言われている。
山や海を越えた遠い国の本当の状況など分かるはずもないが、少なくとも二人の住むレクス王国が大きな問題を抱えていると言うことだけは確実だ。
「アレン、お待たせ。薬草いっぱい採れたよ。」
嬉しさの乗ったフィリアの声が、アレンの頭の中の霧を一気に晴れさせた。
フィリアは両手でバスケットを持って、アレンの元へ駆け寄る。
「見て見て。今日は大漁よ。」
フィリアがそう言って開けたバスケットの中には、仕切りを今にもはみ出しそうなほどの薬草が詰め込まれている。
アレンにとっては色や形の異なる雑草でしかないが、魔術、とりわけ触媒として多くの薬草を必要とする古代魔術系の魔術を習得したいフィリアに
とっては、何千
デルグ20)もの価値がある宝物だ。
「確かに多いな。重くないの?」
「そりゃあ少しは重いけど、何ヶ月分も小遣いを使い果たすこと考えたら、こっちの方がずっと安上がりよ。
重たいのは持って帰る間だけ我慢すればいいんだし。」
容器いっぱいの薬草を摘めたことで、フィリアはご機嫌のようだ。
その時々の感情がすぐに表情に出るところが、アレンには羨ましく思えることもある。
「それじゃあ用も済んだことだし、日が暮れないうちに帰るか。」
「えー。もう帰っちゃうの?」
「日が暮れたら帰れなくなるじゃないか。もう日は西に傾きかけてきたし、山をもう一回越えるんだから。」
フィリアとしては折角の二人だけの時間をもう少し味わっていたかったが、アレンの言い分はごく当然のことである。
日が沈んでから町の外を歩くことは、昼間の何倍もの危険を覚悟しなければならない。
「こういうときは護衛のアレンの言うこと素直に聞いた方が正解だよね。・・・つまんないけど。」
フィリアは残念そうに小さくため息を吐く。
その時、二人の背後の森が不意にざわめく。
鳥達が木の葉を蹴散らすように一斉に森から飛び出し、大空へ舞い上がって行く。
アレンは直感的に魔物だと分かった。
森がざわめき、鳥が空へ飛び出すのは魔物が接近しているという経験から学んだ動かぬ証拠なのだ。
アレンはフィリアを背後に回し、ゆっくりと剣を鞘から抜く。
銀色に輝く見事な刃が太陽の光を受けて水晶のように輝く。
アレンの耳には、ゆっくりと近づいてくる魔物の足音と呼吸音が森のざわめきに乗って微かに飛び込んでくるが、その音は今までのものとは何処か
違っているように感じられる。
何度も遭遇しているオークは集団行動をとるため、いくつもの足音が不規則なリズムを形成するのだが、今回の足音は単独で、一つ一つに重量感と
圧迫感が篭っているように感じる。
アレンは両手でしっかりと剣を構え、音の方向に神経を集中する。
足音が次第に大きくなってきた。
それと共に荒々しい呼吸音もはっきりと耳に届いて来る。
オークとは全く異なる、相当の大物だとアレンは直感する。
森の暗闇の中から、足音と呼吸音の主がその姿をゆっくりと現す。
それを見た二人は自分の目を疑わずにはいられない。
身長は実に3メール近くはあろう、牛の頭に巨大な斧を両手に握る大きな岩の塊にも思えるその魔物は、何と今まで戦ったことはおろか見たことすらない
ミノタウロス21)だ。
ミノタウロスは旨そうな獲物を見つけて興奮しているのか、フシューフシューと荒々しい鼻息を立てている。
「何でこんな奴が・・・。」
アレンはうめくように呟く。
本来ミノタウロスは地中深い迷宮に生息しているもので、屋外にいる限りではその姿を見ることはない。
それが屋外、それも白昼堂々と現れたことに、アレンは動揺の色を隠せない。
ミノタウロスの戦闘能力は巨大な斧を軽々と振り回す腕力と鉄のように強靭な肉体に象徴され、オークの集団などミノタウロスの前では棒切れを持った
子どもの集団に等しい。
しかし、逃げることはできない。
ミノタウロスは巨体の割に敏捷で、逃げ出したとしてもアレンは兎も角、フィリアは確実に斧の錆にされてしまう。
アレンは動揺を押さえつけ、ミノタウロスを睨み付ける。
ミノタウロスは、弱そうな獲物が最後の抵抗を試みようとしているのかと、高を括っているかのようだ。
暫く睨み合いが続いた。
緊迫した場面には場違いの柔らかい風が、木々の葉を微かに揺らす。
その音を合図として、アレンが走り出した。
ミノタウロスは獲物が自分から斧の錆になりに来たと思ったのか、雄叫びを上げて斧を振り上げる。
しかし、ここでミノタウロスの予想外のことが起こった。
アレンの機敏な動きはミノタウロスの斧の一撃に空を切らせる。
そしてアレンの剣がミノタウロスの左の脇腹に突き立てられる。
地面を揺るがすかのような咆哮が辺りに響き渡る。
アレンは次の一撃を避けるために素早く剣を抜き、ミノタウロスとの間合いを取る。
ミノタウロスは鮮血の溢れ出る脇腹に手を当ててアレンをぎらりと睨み付ける。
その瞳には、悪あがきの上に自分を傷つけた獲物に対する激しい怒りの念が篭っている。
次の一撃の機会を窺うアレンの背後で、フィリアがバスケットを開け、摘んだ薬草の中から幾つかを取り出して、目を閉じて何かを暗唱している。
ミノタウロスが逆襲のために再び斧を構えた時、フィリアがアレンに叫ぶ。
「アレン、退いて!後はあたしがやる!」
薬草と暗唱からして魔法を使うのだろうと直感したアレンは、すぐに横へ退く。
フィリアは人差し指を前方に突き出して銃のように組んだ両手で薬草を包み、早口で呪文を唱える。
「ギブロ・チグマス・ロギュミル・ハーン。万物の根源よ、光速の槍となれ!」
ミノタウロスが怒りに任せて猛然と斧を振りかざして突進して来る。
アレンは万が一の事態に備えていつでもミノタウロスを迎撃できるように身構える。
「レーザー!22)」
フィリアの構えた人差し指から赤い光線が飛び出し、ミノタウロスの眉間を貫通する。
ミノタウロスの頭の前後からおびただしい血が吹き出し、突進のスピードが急速に衰える。
そして大木が倒れるかのように、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちる。
その巨体が地面に倒れた時、岩が空から降ってきたかのような振動が起こる。
フィリアは両手をゆっくりと下ろし、大きくため息を吐いてその場に座り込む。
「ふーっ、うまくいって良かった・・・。」
「す、凄いじゃないか。」
「最近覚えたばかりの古代魔術系の魔法よ。間違わないかって冷や冷やした・・・。」
フィリアは緊張の糸が切れて一気に吹き出した額の汗を手で拭う。
Phantasmistから使用できる古代魔術系の魔法は、他の魔法にない特性を持っていたり、強力な効果を持つものが少なくないが、通常の魔術とは勝手が
異なるため、効力を十分に発揮させるには慣れが必要とされる。
フィリアは一応魔術書の呪文を覚えてはいたが、実戦で使用する機会がこれほど早く訪れるとは予測しているはずがない。
使用経験を積むには十分すぎるほどの相手だが、かなり危険な賭けに出たと言えよう。
「でも、何でこんなところにミノタウロスが居るの?」
アレンだけでなく、フィリアも場違いなミノタウロスの出現に疑問を感じずにはいられないようだ。
「それは俺も思ってた。本当なら屋外でお目にかかれるはずないのに。」
「・・・こんなことって有り得ない筈なのに・・・。何か嫌な予感がする・・・。」
「・・・予感だけで済んでくれればいいけどな・・・。」
二人の心に生まれた疑問は、やがて大きな不安へと変化し、それは急速に膨れ上がる。
何かがおかしい。
額を撃ち抜かれて緑の絨毯に赤い染みを広げるミノタウロスの死体を見て、二人はそう思う。
「・・・帰ろう。」
アレンの一言にフィリアは黙って頷く。
いつもならもう少しゆっくりしていこうと散々ごねてアレンを悩ませるフィリアも、さすがに今日ばかりは違う。
アレンはふと空を見上げた。
心なしか、雲の流れが速まったように感じたのは気のせいだけではなかったのかもしれない。
用語解説 −Explanation of terms−
16)Magician:魔術師の9番目の称号。本文でも紹介したが、この称号を得ると研究論文を書き、魔術学士の学位を得て卒業できる。
いわば、魔術師の一つの目標点である。
17)Wizard:魔術師の16番目の称号。魔術師の最高峰であり、当然ながらその数は世界的に見ても希少。魔術師の羨望の的であり、大都市の魔術学校の
校長や国直属の魔術師など、要請は多い。
18)力魔術:攻撃を主目的とする魔術系統。一般に黒魔術と呼ばれるもので、魔術師が使用できる。称号の上昇と共に使用できる魔法も強力なものが
増えるが、個人の特質や志向で得意不得意な魔術属性が生じる。
19)キャミール教:この世界の三大宗教の一つ。唯一神の名の下において人は皆平等であると説く。レクス王国があるナワル大陸北西部と
トナル大陸中部で盛ん。この宗教の経典である「教書」は、本文中にも古代史に関わる文献として度々登場することになる。
20)デルグ:この世界の通貨の単位。1デルグは100エルグで、およそ100円くらいの価値。かなりの国や地域で通用するので本文中でも特に断りのない限り、
この単位を使用する。レクス王国の平均年収は7〜8万デルグなので、フィリアが必要とする薬草が如何に高価かお分かり頂けるだろう。
21)ミノタウロス:ギリシャ神話でもお馴染みの牛頭の魔物。巨大な斧を振り回して獲物を狩る。生身なので防御力は若干低いが、腕力と耐久力、
瞬発力に優れる。やはり知能は低く、本能の赴くままに行動する。
22)レーザー:古代魔術系の魔法の一つ。高エネルギーの光線を一直線に照射して対象を貫通する。非常に強力な貫通力を有するが、魔力を高密度に
集約させる必要があるため使用難度はやや高い。触媒にはラベンダーとローズマリーが1:1の割合で必要とされる。