「主計官と猿は、西方面に移動しています。」
僕がシャルと食事や入浴や営みを堪能している間、主計官と代表は霞が関を中心に追いつ追われつを続けていた。当初ホテルに立て籠もっていた主計官は、代表の接近を知ってホテルを脱出した。主計官と代表に情報を流したのは勿論シャル。情報網を利用して情報を流すのは造作もない。一方、代表は断片的に入る情報を基に、主計官を追跡していた。立ち寄ったところで近くにいた人に尋問すると、主計官と思しき人物がいた。情報の出所より信憑性が重視される状況だから、代表の行動はシャルの掌の上。シャルが言うとおり、「掌の上の猿」になり果てたわけだ。
少々予想外だったのが、代表の執念深さと追跡速度の速さ。代表はシャルに仮面を装着されたことで、痛覚などが麻痺している。不眠不休で身体はとっくに限界を超えているだろうけど、ある種のランナーズハイみたいな状態になって、予想を超える速さで霞が関を出るに至った。
シャルが選んだルートは、東京直結の東阪高速や第2東阪高速じゃなくて、タカオ市に入る時にも使った中央横断自動車道。東京の霞が関に近いところじゃなくて西側のY県都の県境側から入るのが当初は疑問だったけど、主計官と代表の追いかけっこのルートを見れば、こちらの方が近いことが分かる。
「主計官と猿は、オウハチ市を経由するルートでタカオ山に向かわせています。」
「タカオ山か。僕でも名前は知ってるよ。でも、どうしてそこに?」
「タカオ山は天狗伝説があります。参拝者も多いですし、外道の最後の舞台としては適切でしょう。」
「ヒヒイロカネのことはどうするの?」
「そこは勿論伏せさせます。安心してください。」
HUDには、最寄りのタカオ山インターまでの距離と所要時間、そして主計官と代表のおおよその位置関係が表示されている。主計官が逃げて代表が追う形と、およそ4~5kmの距離を保っていることが変わらないのが、何処か不気味だ。必死に逃げる主計官と、肉体の限界を超えてそれを追う代表。当人たちには地獄絵図だ。
途中休憩を入れつつ、タカオ山インターを目指す。中央横断自動車道の東京方面は今回初めて走る。全体的に下り坂で、カーブが多い。シャルのサポートがあるけど、かなりスピードに気を使う。そういえばこの界隈、よく事故や渋滞が起こるところだ。渋滞で頻繁に名前が挙がるトンネル-カンノントンネルが近い。
「トンネルを含む範囲で2kmの事故渋滞です。」
「こんな時に。」
「トンネル内の走行車線で、乗用車3台とトラック2台が絡む玉突き事故です。」
「このトンネル、事故が良く起こるところらしいけど、こんなタイミングで起こるなんて…。」
「追越車線でスピードを出し過ぎて曲がり切れずに走行車線のトラックに追突。そのあおりで後続の乗用車とトラックが間に合わずに続々と追突。よくあるタイプの事故ですね。」
「此処からだと、渋滞を抜けるのにかなりかかりそうだね…。」
「所要時間は30分です。主計官と猿はまだタカオ山以前にオウハチ市にも到着していません。焦る必要はありません。」
シャルのサポートも受けて緩やかに進んでいく。トンネルに入る。更に車列の動きが鈍くなってくる。走行車線をギリギリまで走行してきた車が、車線閉鎖で何とか追越車線に入ろうとしている様子が見られる。これも渋滞でよく見られる光景だ。意地悪をしても仕方ないから、ファスナーのイメージで間隔を開けて入れる。
「親切ですね。」
「そうかな…。」
「ヒロキさんの前は5台無視しました。後ろも3台。渋滞の緩和には交互に車線に入れる方が効果的ですが、それが出来ない人の方が多いのが事実です。」
「車線変更のタイミングがつかめなかったとかは仕方ないけど、事故で車線が減るって分かってるのに、少しでも先に行こうとする人に譲るのは、正直あんまり気が進まない。だけど、意地悪しても仕方ないからね。」
「行動の背景が妥協でも実行したことには変わりありません。十分です。」
渋滞は相変わらず酷い。シャルのサポートでスピードの調整が不要なのがありがたい。右カーブを曲がったところで事故現場が見えてくる。うわ…。これは酷い。車もトラックも大きくひしゃげている。警察の事情聴取を受けているらしい人が居るところを見ると、死者多数の大事故には至らなかったようだ。
「事故原因の車の運転手は骨折など重傷ですが、意識はあります。他は全員軽傷です。不幸中の幸いでしょうか。」
「車はもう使い物になりそうにないけど、命があったから良かったと思うべきところだね。」
「事故原因になった輩がそう思えれば良いのですが。」
事故現場をゆっくり過ぎて、左カーブで見えなくなったあたりから、少しずつ車列のスピードが上がり始める。トンネル脇の電光掲示板にも「スピード回復願います」と出ている。このカンノントンネルを抜ければ、タカオ山まではインター2つ分。思わぬアクシデントだったけど、HUDの表示からすると十分間に合いそうだ。
「到着予想時刻を更新しました。主計官と猿は、それぞれ武央(たけおう)線に乗車しました。」
「同じ電車…じゃないか。」
「車内では他の乗客に迷惑が掛かりますし、電車の遅延で被害が拡大します。それでも良いですが、最後の舞台に相応しいのはタカオ山の方です。」
「外道だから、か。」
スピードが元に戻る。HUDとナビに従って中央横断自動車道を東に走る。山が周囲を囲む緩いカーブの下り坂を進んでいくと、一気に開ける。東京の西端に位置するオウハチ市。タカオ山の玄関口でもある。まさか此処に、しかも車で来ることになるとは。
「オウハチ市は知っているんですか?」
「オウハチ市は大学が多い町で、僕が受験した大学も1つはオウハチ市にあるんだ。残念ながら不合格だったけど。」
料金所を通ってインターを出る。付近に大きな山が見える。これがタカオ山か。本当に直ぐ近くだ。HUDには車線変更指示が出る。左車線に入って分岐点で左側へ。ナビを見ると、分岐点で右側に行くとかなり長いトンネルがある。相当迂回することになるようだ。
左車線から国道24号に入る。直進していくと、集落が見えて来る。タカオ山の門前町か。駐車場の表示が見えて来るけど「満車」と出ている。通りも混み合っている。此処からタカオ山に登ろうとする人達だろう。この分だと駐車は難しいそうだ。
「誘導します。HUDの指示に従ってください。」
「分かった。」
HUDに減速指示と左折が近い表示が出る。駐車場がある。HUDの指示どおりに左折すると、小規模な有料駐車場がある。迷わず入って空いているスペースにシャル本体を停車させる。まずはひと安心。此処から電車で門前町にUターンするのか。
「正解です。駅はこっちです。」
シャルに手を引かれて通りを進み、交差点を渡るとかなり大きな駅が見えて来る。この駅、受験で降りたオウハチ市駅だ。あの時は駅を降りてすぐ、受験した大学がある南口に降りたから分からなかった。あの頃より建物が増えて、より町が大きくなったように感じる。改札や駅構内もかなり奇麗になったかな。乗るのは武央線じゃなくて、並行する私鉄線。確か、武央線は西で隣接するY県を経由して、中央横断自動車道と似たルートを辿る。案内表示にも、タカオ山に行くにはこの私鉄、オウキュウ線を使うことが書かれている。丁度ホームに待機していた電車に乗り込む。少しして電車のドアが閉まり、ゆっくり動き始める。
「電車だと1駅です。終点ですから分かりやすいですよ。」
「パークアンドライドだね。」
「はい。オウハチ市も整備を始めましたが、市街地が広がっているのでなかなか進んでいないようです。」
電車は両側に山が聳える谷を走る。ついさっきHUDの指示どおりに走った国道が見える。程なく減速して停車。終点のタカオモンゼン駅だ。他の客に交じって僕とシャルも降りる。人の流れに乗って改札を出ると、山間に広がる集落が出迎える。人の混雑が増してきている。
「此処から山に登るの?」
「はい。ケーブルカーがあるので、それで山頂付近まで行けます。」
『主計官と猿には徒歩で登ってもらいます。』
『それほど高くないみたいだけど、相応に準備してないと厳しそうだね。』
ケーブルカーに乗ると、タカオ山の登山はごく簡単かつ安全に出来る。混んでいるから順番待ちは必要だけど、大した苦にはならない。食事を済ませておこうかと思ったけど、シャルが山頂に美味しい蕎麦屋があると言うから、ケーブルカーに乗ることを優先する。
『主計官がオウハチ市駅で乗り継ぎました。猿は2本遅れて到着です。』
『2本遅れでも、この辺だと1時間とかのずれにはならないかな。』
『丁度20分の違いです。主計官は疲労困憊なので、電車でどれだけ体力を回復できるかで切迫性が変わります。』
『命を懸けた鬼ごっこだね。』
一方の僕はというと、谷間にくっつくように広がる集落と、奥に見える巨大な建造物、間近に見えるタカオ山、そしてその山肌をなぞるように昇降するケーブルカーに興味津々なシャルの手を取って、のんびりケーブルカーの順番待ちをしている。次の便で乗れるのは確実だし、主計官の到着はまだ先。慌てる理由はない。
待ち行列でも、乗り込んだケーブルカー内でも、シャルへの注目度は抜群だ。ケーブルカーではタカオ山の歴史や観光案内があるけど、大半の客はまともに聞いてない。当のシャルは、律義にアナウンスを聞いて近くの窓からの風景を見ている。斜め後方に遠ざかっていく集落や、その奥に広がるオウハチ市市街地は、シャルの関心を呼ぶようだ。
ケーブルカーを降りると、眼下に絶景が広がる。360度見渡せる景色は、東側が山を一部残しつつも市街地が広がり、西側は山が織りなす雄大なもの。都心から武央線1本で間近まで行けて、ケーブルカーで手軽に頂上まで行けて絶景が見られる場所があれば、人を呼ぶのは当然か。
「良い景色ですねー。」
「都心に近いとは思えない場所だね。」
「少し遅いですけど、お昼ご飯にしましょう。蕎麦屋はこっちです。」
待ち行列は緩やかに進んでいく。待ち行列の4番目で店内に入る。店内は外からの見た目より広い。2人掛けの席に案内されてシャルと向かい合って座る。店内でも視線の集中を感じながら、シャルのお勧め「山菜天ぷら蕎麦」を注文する。ケーブルカーで簡単に登れるとは言え、山頂に飲食店があるのはちょっと意外だ。
『主計官が山登りを始めました。スーツに革靴には少々厳しい道のりですが、頑張って登ってもらいます。』
『よりによってスーツと革靴なんて、ハイキングには最悪の装備だね。』
『手負いの猿が勢いよく迫ってきていますからね。四の五の言ってられません。猿はオウハチ市駅で乗り換えたところです。』
『1駅だから割とすぐ到着か。まっしぐらに主計官を追うだろうから、主計官は何としても逃げるしかないか。』
意図しなかっただろうけどシャルの逆鱗に触れた代表は、シャルが装着させた仮面で痛覚や疲労感が完全に麻痺している。恐らく、仮面を外された瞬間に猛烈な疲労や拷問で負った深い傷の痛みで悶絶するか、失神するだろう。最悪ショック死するかもしれない。ある種のゾンビと化した代表は、死の行軍を続けている。
山菜天ぷら蕎麦は、シャルお勧めだけあってなかなか美味しい。天ぷらは蕎麦とは別だから、乗せて食べても良いし、別々に食べても良い。天ぷらは塩と天つゆが用意されていて、どれで食べても良い。店では時々店主の妙なこだわりがあることもあるけど、この店は逆でかなり柔軟なようだ。
「山頂で蕎麦ってちょっと不思議な気分だけど、美味しいね。」
「山菜が多く取れたことで、修験道のメッカの1つになったそうです。食べないことには修行は出来ませんから。」
山菜は修験道で修行に励む人には、貴重な栄養源になった筈。その時の食糧事情は想像の域を出ないけど、今はケーブルカーでゆったり上った先で、蕎麦と一緒に良い食感の天ぷらとして食している。なんだか不思議な気分になる。
僕とシャルが凄くゆったりした雰囲気でゆったりと遅い昼食を食べている一方で、主計官と代表はこのタカオ山で激しい追跡劇を続けている。スーツと革靴でタカオ山に逃げ込んだ主計官を、痛覚や疲労を麻痺させられた無表情の代表が追う形の追跡劇は、想像するだけでホラー要素満載だ。
そういえば、マスコミがどうしてるんだろう?将来の事務次官候補の1人、政権与党から次期衆議院選挙に立候補することがほぼ確定した状況で、いきなり地元市民団体の代表との不倫関係が暴露された主計官を、マスコミが放っておくとは思えない。追跡劇にはマスコミも加わっているんだろうか?
『鬼ごっこの邪魔になるので、マスコミは偽の情報で攪乱して遅らせています。猿が山登りを終えたあたりで麓に到着するようにしています。』
『マスコミにも公開するんだね?』
『勿論です。人を踏みつけて支配者になろうとした傲慢さは、衆人環視とマスコミの報道に晒されて、プライドも経歴も破壊されるのが最適解です。』
山菜天ぷら蕎麦を食べ終えて、会計を済ませて、僕はシャルと山の道を歩く。この道は奥の薬師寺への参道でもある。木漏れ日が差し込み、鳥のさえずりが不規則に響く道は、格好の散歩コースだ。平穏そのもののこの道も、やがて壮絶な追跡劇の舞台の一部になるんだろう。
緩やかなアップダウンとカーブを含んだ道を歩いて行くと、視界が一気に開けて巨大な寺院が山肌に姿を現す。タカオ山のもう1つの姿、修験道のメッカとしての姿でもある。まさか、暴露と罵倒の応酬の舞台は此処なんだろうか?
『参拝客に迷惑ですから、此処ではありません。参拝客には見苦しい姿を見物してもらいます。』
『マラソン大会みたいだね。』
『あちらは歓声や応援ですが、こちらは野次や罵声です。必死に走るところは共通していますか。』
『見世物が来る前に、頂上に行きましょう。』
『うん。』
少々風があるけど、地形の起伏が手に取るように分かる世界の演出に感じる。来た道を振り返ると、山肌に張り付くように薬師寺の境内があるのがよく分かる。それより奥に、僕とシャルも乗ってきたケーブルカーの駅が見える。このタカオ山を挟んでオウハチ市の反対側がY県。県境に立つなんて、ちょっと不思議な気分だ。
「あれは線路?」
「武央線ですね。Y県のカミハラ市などは、武央線があることで都内への通勤圏だそうです。」
「通勤か。このあたりからだと快速でも2時間くらいかかるかな。」
「通勤っていう単語が、何だか遠い時代のように感じるよ。もしかしたら、武央線に乗って通勤していたかもしれないし。」
「転勤の予定があったんですか?」
「転勤の希望を出してたんだ。…今の環境を変えるには、引っ越しが必要な転勤しかないって思って。」
仮に東京の支社か-本社は東京じゃない-研究所に転勤できたら、住む場所によって方向が逆になることはあっただろうけど、武央線を使って通勤する可能性があった。結局その可能性が実現する前に辞職したけど、転勤希望が受理されなかったことで、今こうしてシャルと一緒に居られるんだと思う。
「都心で車を持つのはもう1件家を借りるくらいのお金が必要だし、転勤になったらあの車を手放すことになったかもしれない。転勤になる前にシャルと旅に出る選択をしたのは、その点でも間違ってなかったと思ってる。」
「ヒロキさんの選択にもっと確信を持てるようにしていきますね。」
「今でも十分だよ。」