シャルがこの店に諜報部隊を展開したと聞いて、店から出ることにする。ノイズキャンセラーが有効だから聞こえはしないけど、子どもそっちのけでママ友との会話に入れ込んでいる。子どもは店を好き勝手に移動して、備え付けの調味料をぶちまけたりもしている。従業員が急いで片づけたりしているけど、人数と勢いが追い付かない。
『従業員の疲弊が進んでいますね。料理が良かったので、少しばかり助けます。』
シャルが僕にダイレクト通信で話すと、子どもの動きが止まる。シャルが光学迷彩を施したヒヒイロカネでその場で拘束したようだ。ヒヒイロカネは体内に何の違和感もなく侵入して一体化することが出来るから、もがいても指1本動かせなくなる。しかも、声帯に干渉すれば声も出せなくなる。従業員は、突然その場で硬直した子どもの群れに少々当惑しながらも、邪魔が入らなくなったことで、片付けや掃除に専念する。子どもはぎくしゃくした動きで通路を歩いて、かなりの面積があるキッズスペースに集まる。シャルの説明では、キッズスペースの設置もカノキタ市の条例で義務化されているという。
「子育て世帯優遇という権利は貪欲かつ敏感な一方で、子育てという義務は曲解や暴論で委任或いは放棄する。腐ってますね。」
「こんな惨状を目の当たりにすると、残念だけど否定のしようがない。」
「権利は正しく行使されなければ利権と化します。カノキタ市の状況は子育て世帯の利権そのものです。」
シャルは食事や入浴を楽しみにしている。人型を取ったからこそ出来ることだけど、それを邪魔されることを特に嫌う。勿論、僕にしたのと同じようにシャル自身もノイズキャンセラー機能で喧噪を遮断したはずだけど、ゆったりパンケーキを味わいたかったところを邪魔されたら、良い気分がする筈がない。
店の傾向や雰囲気にもよるだろうけど、飲食店はどこもかしこもこんな様子だろう。これじゃまともな客は寄り付かない。逆に、子育て世帯の極端な優遇で、それ以外の世帯や人は肩身の狭い思いをしているだろう。僕とシャルが入った時も、何で子育て世帯のための店に子育て世帯じゃない奴が来るのかという目で見ていた輩もいた。
「他のお店も見てみましょう。」
「飲食店は止めておいた方が良いと思う。」
「このSCに入っているお店は、飲食店だけじゃありません。書店に洋品店、楽器店、色々あります。」
「どうやら、ヒロキさんの推測が正しいようですね。」
SC内を順に見て回ると、嫌な予感が当たっていることを目の当たりにする。好き勝手に店内を徘徊する、備品や商品を使い物にならなくする、従業員や他の客の邪魔をする、咎めた従業員を集団で罵倒して謝罪や賠償を要求する、などなど。子育て世帯を王侯貴族のように扱わないと犯罪者のような扱いすらされる。子育て世帯の無法の裏で、従業員は疲弊し、他の客は足が遠のく。僕とシャルが入ったカフェもそうだったけど、子育て世帯は何時までも子育て世帯じゃない。やがて子どもは成長して社会に出ていく。今は我が世の春とばかりに利権を貪る子育て世帯は、時間の経過で自分達の行き場がなくなることが想像できないんだろうか。
「そういう知能があれば、子育てを利権として権益を貪ることはしないでしょう。」
「そう認識するしかないね。彼方此方でこの惨状を見ると。」
「私は人格OSを搭載されなければ、単なる金属の一種です。子どもや動物は、躾や教育をしなければ野獣です。子育て優遇策の数々は、子育ての美名の下、野獣を量産しているのと同じです。」
「優遇策自体は行き過ぎの感もあるけど、必要なものもあると思う。それを正しく使わなかったら、たちどころにこうなっちゃうんだね。」
まともな子育て世帯、子どもをきちんと躾けて、万一粗相をしたら謝罪や弁償をする親と、ふざけたりはしゃいだりしても一線は超えない子どもからなる世帯はいないんだろうか?朱に交われば云々というから、まともな世帯もこの「楽さ」に染まってしまうんだろうか。躾や教育は面倒で大変なことの方が多いから。
「SCの各店舗には諜報部隊を配置しました。これで店側の内情を調査します。あと、馬鹿親と野獣には同士討ちしてもらいましょう。」
「同士討ち?」
「SCに居る間はノイズキャンセラーを継続しておくべきでした。御免なさい。」
「否、それは良いよ。何があったの?」
「同士討ちです。野獣に野獣をぶつければどうなるかの社会実験でもあります。」
何事かと思っていると、周囲から血相を変えた母親らしき女性達が集まってくる。これまた激しい口論を展開して-ノイズキャンセラーのおかげでごく平均的な音量になっている-、これまた殴る蹴るの大乱闘を始める。親子がそれぞれ店の前の通路で大乱闘をしている。階級別のバトルロワイアルそのものだ。
「何をしたの?」
「簡単なことです。連中の脳に相手の声色で直接罵倒の言葉を送り込みました。それだけで口論をすっ飛ばして乱闘ですから、まさに野獣ですね。」
「親も?」
「親には、相手の声色で、お前の子どもを怪我させているのは私の子どもだ、と送り込みました。こちらも野獣そのものです。」
だけど、これがカノキタ市の現実だ。子育て世帯の優遇策が利権になって子育て世代が貪り、その一方で躾や教育がないがしろにされて、我慢や協調性といったものが放棄されている。これらばかりが強調されると主体性のなさや自己肯定感の低さに繋がるけど、躾や教育はそれらと相反するものじゃない筈だ。カノキタ市の子育て世帯は、それが分かっていない。
乱闘が彼方此方で起こる。何処でも親も子どもも全力で殴る蹴るする。相手を殺すことが決着とする野獣の価値観を剥き出しにして、SCの彼方此方で血塗れの乱闘が繰り広げられる。此処はもはやSCじゃない。サバンナやジャングルだ。否、見た目には人間のこちらの方が野生を剥き出しにしているとすら思える。
「警察を呼びました。もっとも、条例を盾にされてまともに逮捕連行できるかは疑問ですが。」
「どうして?」
「カノキタ市の条例には、警察や児童相談所の子育て世帯への不当な介入を防止するという条文があります。」
或いは…そうなることを想定して組み込んだか。
もしそうだとすると、そこにヒヒイロカネが絡んでいる可能性がある。ヒヒイロカネの目くらましで、冷静に考えればとんでもない条例を制定して、住民の目がヒヒイロカネを持つ者に向けさせないようにするというのは、タカオ市であった。あれも、偶然発掘されたヒヒイロカネの独占を狙った市長が産業廃棄物処理業者の一家を纏めて殺害して遺体を遺棄して、それを暴かれないように市長が条例を制定して、手配犯の1人がそれに便乗していた。「シャル。カノキタ市の議員や市長、市の幹部を調査できる?」
「十分可能です。」
「条例に対する態度や関与の度合い、制定後の見解とかも頼むよ。」
「分かりました。」
ヒヒイロカネと強欲は不思議と惹かれ合うらしい。確証はないけど、カノキタ市のディストピア化を招いた子育て世帯優遇、否、子育て世帯利権の条例の背後には、ヒヒイロカネが関係しているように思う。シャルの調査で何処からか、その断片でも浮上してくれると良いんだけど…。
カノキタ市を巡ったけど、本当に酷いという言葉しか出ない。どの店先でも子連れの客が集団で屯して、店の中で子どもを放牧して自分達は見栄とマウンティングを込めた会話に終始する。従業員は誰も彼も疲弊している。余程他の客が寄り付かないのか、昼食で入った和食店では、僕とシャルに驚いた顔をした。
合間を縫って従業員を労ったら、嬉しそうかつ申し訳なさそうに礼をして、「こんな状況で申し訳ありません」と言った。店や従業員が悪いわけじゃない。悪いのは子育て世帯優遇策を利権にして我が物顔で跋扈する親子の集団だ。従業員を労ったら、僕とシャルがカノキタ市の市民じゃないことを知って、現状を教えてくれた。
カノキタ市は、子育て世帯が最上位層として君臨して、市議会も行政も支配している。学校も学級崩壊は当たり前。教師はもはや親の奴隷と化していて、心身を病んで休職・退職する教師が続出している。病院も酷いもので、子育て世帯が我こそ先だと順番を争い、他の患者がどんどん後回しにされる。夜間・休日診療も昼間と同じ感覚で無遠慮に受診する。
無茶苦茶な現状が普遍化している。まともな子育て世帯はいないのかと聞くと、「主流派」の子育て世帯に感化されてしまうことが殆どだという。まさに朱に交われば何とやら、だ。「主流派」に染まらないまともな子育て世帯は、「主流派」に排撃されて小さくなって生きるか、カノキタ市を見限って出ていくかの何れかだそうだ。
「狂ってるね…。」
「店や学校、病院を我が物顔で使えて、気に入らなければ怒鳴りつけて使役する方が楽ですから、知能がない人間ならその方向に流れるでしょう。その末路がカノキタ市と言えます。」
これまで訪れた町でも強欲から生まれた狂気が存在した。だけど、町全体がここまで狂気に覆われているのは初めてだろう。人狩り集団に支配されていたオクラシブ町やホーデン社と関係者が我が物顔で町を車でひた走るココヨ市でも、これほど露骨な狂気の蔓延はなかった。
このカノキタ市の狂気が、少なくとも現状ではタザワ市には見られないのは、逆に不思議だ。子育て世帯の極端なまでの優遇策は、それだけ見れば子育て世帯には魅力に映るだろう。隣のタザワ市でも導入しようという動きがあってもおかしくないと思うけど、今のところそんな様子や噂は聞かない。
「カノキタ市がどうしてあんなところまで狂ったのか、経緯が分かると見えてくることがあるかもしれないね。」
「その可能性は十分あり得ます。カノキタ市の店舗に諜報部隊を送り込みましたが、現場の疲弊の度合いは深刻です。」
「あんな扱い、小間使いより酷いよ。奴隷という表現がピッタリだった。」
「子育て世帯からすれば、まさに奴隷という感覚なんでしょう。条例に裏付けられた絶対的存在である子育て世帯である自分達の。」
「タザワ市など周辺自治体のカノキタ市条例への見解や、子育てに関連する政党や団体の動向も、合わせて調べておきます。」
「うん。頼むよ。もしかすると、カノキタ市をある意味実験台にしている連中がいるかもしれない。」
カノキタ市のまともな市民にとっては迷惑どころか有害なことこの上ないけど、仕掛ける側はそんなことを気に留めない。気に留めるくらいの良心の呵責があれば、そもそも実施しないし、他人の迷惑や被害を考慮しないからこそ出来ることがある。そんな事例は今までヒヒイロカネがあるところで嫌と言うほど目にした。
シャルの話だと、店に送り込んだ諜報部隊の情報収集と解析に1週間、条例制定の経緯や背後関係の調査に3日を予想している。店の方が時間がかかるのは、1週間で曜日ごとの傾向や客層の違いなどを観察したいためだ。定休日や立地、取り扱うメニュー、営業時間帯は様々だから、1週間調査するのは良い考えだ。
「調査で1週間、最短でも条例制定の調査結果待ちの3日間は待機することになるけど、その間、何かすることはある?」
「タザワ市の名所を巡りましょう。」
「思ったよりずっと広かったね。」
「ホテルから見るとジオラマのようで小さいと錯覚しますよね。」
夜になるとかなり冷え込みが厳しくなってくる時期に入った。北国と言われるこの地方は冷え込みに加えて雪がちらつく。今日も朝から雪が降る中、シャルの防寒サポートを受けて、ホテルから一番近い巻籐園を中心にタザワ市の市街地を巡った。雪も実害がなければ、冬を彩る装飾だ。うっすら雪化粧した巻籐園は、適度な賑わいもあって良い雰囲気だった。
タザワ市は北西で海に面していて、南東部に山が並ぶ。僕とシャルが泊まるホテルから徒歩10分程度で、新幹線も止まる大規模駅に着く。この駅から南北方向に路面電車が走っている。この路面電車に乗りたいというのが、シャルの今日の、否、この3日間のタザワ市巡りのメインイベントだったようだ。
どうもシャルは電車に乗るのが好きらしい。しかも新幹線や快速とか高速タイプじゃなくて、各駅停車のローカル線の方が好みに合うようだ。時刻表や乗り継ぎを事細かに調べたり-シャルの情報収集力と解析力からすれば造作もないことではある-列車の種類にこだわったりしないから、所謂「乗り鉄」とは違って、ゆったり走る電車に乗って車窓から見える風景を眺めるのが好きなようだ。
タザワ市の路面電車も、シャルのお眼鏡にかなったようで、始発から終点まで乗ることになった。路面電車はそれほどスピードは出ないけど、雪が静かに降るこの地方随一の都心の街並みをゆっくり眺めることが出来る。しかも、1日何処でも自由に乗り降りできるフリーパスが買えるとあって、シャルは興味津々だった。
路面電車の北端は港に、南端は山の麓に着く。中心部はタザワ駅をはじめとする都心を巡る。だから、かなり風景の変化が大きい。駅周辺も中心部はビルが立ち並び、郊外は住宅地、北端は港湾関係、南端は山がすぐ近くに聳えるから、店の特色も豊かだ。それがシャルには特に気に入ったようで、要所要所で降りて店を巡った。
シャルは、アクセサリーの類を欲しない。「自分でイメージすれば用意できるし、何より私だけの自己満足の度合いが買って良かったかどうかの判断基準になるのが嫌だ」とのこと。少々難しい言い回しだけど、つまりは自分でどうにでも作れるものを、自分だけの満足のために買いたくないということらしい。
その代わりというか、食べ物への関心が尽きない。人型を取ったからこそ出来ることの1つが、食べること。人型を取る前から、僕が食べたり飲んだりしているのを興味深く観察していて、味覚は勿論、料理がどうして美味いと思うか分析を続けていたという。予想外の経緯で人型を取ったけど、シャルには時期が早いか遅いかの違いでしかなかったようだ。
漁港も含む港を持つ町だけあってか、海産物の食べ物や土産物が特に港湾部沿線に多い。流石に干物や佃煮は買っても食べる機会がないから、海鮮丼や刺身が対象になる。ホテルを出ての食事は昼と、レストランを利用しないなら夜も含むけど、シャルの希望ですべて海産物になった。僕は美味しければ肉でも魚でも良いから、シャルの希望を優先した。
「事前に調べた情報以上に食べ物が豊かな土地柄で、食べるのが楽しいです。」
「シャルが美味しそうに食べてるのを見られるのが良い。」
味覚はかなり主観の要素が強い感覚だ。僕が好みの味でもシャルがそうじゃない確率はあるし、その逆も然り。幸いなことに、僕とシャルの味や料理の好みは似通っている。海産物で言うと、焼いたり煮たりしたものより刺身の方が好きなこと、刺身は赤身も良いけど白身が充実していると最高なこととか。
今日の夕食は、海鮮フルコース。刺身や天ぷら、鍋料理と至れり尽くせり。このレストランは和洋折衷らしくて、こういうメニューも扱っている。冬場は特に海鮮フルコースの注文が多いらしくて、メニューに海鮮フルコースがあって驚くのは客の方というわけだ。
「緩やかに煮込むことで魚介類の旨味を取り出して、野菜や淡白な白身魚を食べる。面白い料理ですね。」
「まさか此処へ来て河豚まで食べられるとは思わなかったよ。」
「この河豚というものは、単体では殆ど味がしないですね。食感はかなりありますが。」
「高級感や希少価値を楽しむのが大きいかな。」
とは言え、料理自体に何の不満もない。席はゆったりしているし、値段の関係もあってか、騒々しい子どもを連れた客もいないから、うっすら流れるBGMが十分聞こえる。シャルは姿勢も良いし箸の使い方も上手い。何をしても様になるというのは、シャルのようなことを言うんだろう。
子ども連れといえば、カノキタ市は本当に酷かった。タザワ市を巡っていた時も子ども連れは多くいたけど、あんな無法地帯じゃなかった。子どもだから多少騒いだり、時に泣いたりするのは十分許容範囲内。カノキタ市の惨状は無法地帯、子育てじゃなくて野獣を放牧しているとしか言いようがない。
シャルの調査は、最短の項目が今日完了する。その間の進捗を聞くのは野暮というものだし、僕も気にはなるけど聞かないことにしている。明日以降、シャルがきちんと分析や報告をしてくれるし、この3日間、シャルは北国を満喫するつもりでいる。僕もあの野獣の群れと再び対峙する前に英気を養っておきたい。
夕食は少量の日本酒も伴っている。僕はあまり飲める方じゃないし、酒には詳しくないけど、このタザワ市を含む地方は日本酒が有名らしい。その日本酒はワイングラスに注がれていて、見たところ色も白ワインそのもの。飲んだ感じでも日本酒というより白ワインのような香り。日本酒ってこういうものだったかな?
シャルは日本酒にも興味津々で、僕より飲むペースが速い。がぶ飲みじゃなくて、食べながら飲むペースが速いんだけど、米からこんな飲料品が出来ることに強い関心があるそうだ。興味があるなら他の銘柄も頼んで良いと言ってある。僕だと食事の量もあって、このワイングラスの量で充分だ。
結局シャルはもう1つの銘柄の日本酒も飲んで、海鮮フルコースも完食。少しふわふわした感覚がある僕と違って、シャルはまったく酔った様子がない。飲食の量が多い分には僕は気にならない。それよりカノキタ市の惨状を見たせいもあってか、食べる時の姿勢や箸の使い方の方が気になる。どちらもシャルは最高と言って良い。量産型シメジがそのSNSアプリの修正技術と比較してあまりにも出来てないのもあるけど。
「ご馳走様でした。美味しかったです。」
「それは良かった。お酒の方はどうだった?考えてみれば、初めてじゃない?」
「米が原料とは想像し難い飲料品でした。匂いや味が米と乖離していました。生成過程が興味深いです。」
「北の方は特に美味しい日本酒が多いらしいから、機会を見つけて飲んでみると良いよ。僕は飲まなくても大丈夫だから。」
「折角ですから、ヒロキさんも飲める時にします。私1人だとつまらないですから。」
「ありがとう。あまり量は飲めないけど。」
その価値観のおかげで、僕は新人時代に散々な目に遭った。胃液まで吐くような飲み方を強いられたことで、軽い食道炎になったりもした。酒が飲めないと男としてどうとか、飲みにケーションがどうとか言うけど、酒の力を借りないと出来ない関係は本物の関係じゃないし、酒の力を借りないと言えないなら、それはむしろコミュニケーション力の欠如だ。
一旦部屋に戻って、入浴のため入浴セットを持って再度部屋を出る。大浴場は僕とシャルが泊まる階の1階下にある。この大浴場の露天風呂から巻籐園を一望できる。客はそこそこいるけど、混雑というほどじゃない。洗い場も湯船も十分な広さだから、ゆったり出来る。
風呂から上がって隣接するラウンジに出る。自動販売機もあるし、コーヒーやカクテルなどが出るちょっとしたバーもある。シャルはまだいないから、近くのソファに座って待つことにする。シャルは入浴も好きだし、あの長い髪があるから、僕のようにひととおりシャンプーとトリートメントを使って終わりとはいかないだろう。
「お待たせしました。」
正面方向から澄んだ声がかかる。ゆったりした部屋着を着たシャルが側に来る。部屋風呂じゃない時用にシャルが用意したものだ。シャルは自分次第で服にも武器にも出来るから、色々な情報から自分に合う服を探して、自分にフィットさせるようにアレンジすることくらい造作もない。「行こうか。」
「はい。」
「明日は何時頃起きれば良い?」
「8時頃に起こしますから、安心してください。」
考えるのは明日にしよう。路面電車を乗り降りしながらの移動に徒歩での散策、夕食での飲酒と寝るには十分な要素が揃っている。今日は…止めておこう。シャルは何処にも行かないんだから。
「ちょっと待っててください。」
歯を磨いていよいよベッドへと思ったところで、シャルがローブを持ってユニットバスへ入る。少しして部屋着からローブに着替えたシャルが出て来る。このホテルはローブが備え付けられているけど、ローブで室外に出ることは禁止されている。このホテルにチェックインしてから、シャルは必ず寝る前にローブに着替える。「着替えなくても良かったのに。」
「今更。」
僕とシャルはベッドに入って明かりを消す。僕が横になって最初にすることは、シャルの服を…じゃなくて、左腕を伸ばすこと。そこにシャルが腕枕をする。右腕も試したけど利き腕のせいかどうも落ち着かない。シャルも左側の方が良いと言うから、このスタイルに落ち着いている。
「3日間のタザワ市観光、楽しかったです。」
「僕もだよ。楽しかったのは、シャルと一緒だったから。」
「先に言われてしまいました。」
「して…。」
今日は寝るつもりだったけど、シャルに少し上目遣いで物欲しげに囁き声で言われたら、要求に応えないわけにはいかない。僕は身体の向きを変えてシャルに乗りかかる。シャルの首筋に唇をつけると、シャルの唇から熱い吐息が漏れる。「毎日だけど、良いの?」
「毎日でもしたい…。」