雨上がりの午後 Another Story Vol.1
Chapter10 一夜明け、夜がまた訪れる
written by Moonstone
さて・・・。安藤さんは大学へ行ったし、早速部屋の掃除をしますか。
それにしても・・・改めて見ると、お世辞にも綺麗とは言えない。CDや雑誌が床に散乱していて−朝食の時、テーブルにあった分は取り敢えず纏めたけど−、
それに加えて全体的に埃っぽい。これは本格的にやらないと駄目ね。見方を変えれば掃除し甲斐があるっていうものだけど。
まずは棚の埃を落とさないと駄目ね。床は後で掃除機を書ければ良いから。
お風呂場の蛇口からバケツに水を汲んで、これまた埃っぽい雑巾を洗う。
埃だらけの雑巾で拭き掃除したって、埃を塗りつけるようなものだからね。
数回洗うと十分使える白さになった。まずはこれで拭き掃除を・・・。
水を汲んだバケツと雑巾を持って部屋の中央付近へ運ぶ。ここを拠点にして拭き掃除をしよう。
・・・あ、そうだ。安藤さんの許可も貰ったことだし、CDをかけて掃除しよう。何時も家の掃除はそうしてるし。
無音だと何だかつまらないと言うか・・・楽しくないのよね。やっぱり楽しんでするのが一番理想的だと思う。
雑巾を絞って手始めに食器棚の上を拭くことにする。その前にポットやオーブントースターをどけないと・・・。
う、物が置いてあったところとそうでないところで色がかなり違う。これは少なくとも一月二月は掃除してないわね。
拭き掃除の前に手をキッチンにあるタオルで拭いて−タオルはかなり綺麗ね−、散乱するCDの中から「LIME PIE」を選んで、コンポの電源を入れて
CDデッキにCDを入れてリピートモードにして演奏をスタートさせる。ボリュームは控えめにして、と・・・。
さ、準備が整ったところで食器棚から拭き掃除を始める。ひと拭きしてみると、その部分の色に被さった白色が消えてくっきりと拭いた跡が残る。
雑巾は早くも黒く染まってる。・・・ま、やり甲斐があるってものね。
雑巾の裏表を使って食器棚全体を拭く。拭き終えると新品同様になった。その分、他の家具とかの中から浮いて見えるのは気のせいじゃないわね。
雑巾を念入りに洗って、コンポやお店でも見たことがある音源モジュールとかいうものやパソコンといった電化製品を除いて拭き掃除を続ける。
これらは柔らかい布で−使ってない布巾がある筈−乾拭きしないと壊してしまうから、雑巾を使った拭き掃除の後で纏めて乾拭きするとしよう。
私の家とそれ程違わない広さの拭き掃除は程なく終わった。
家具が全部新品同様になった。途中でバケツの水を何度か替えて雑巾を洗っただけのことはあると我ながら思う。
床に散乱していたCDや雑誌は取り敢えず部屋の隅に纏めておいた。CDラックらしいものがあるから、CDはそこに入れれば良い。
問題は雑誌なんだけど・・・これは勝手に捨てるわけにはいかないから、一まとめにしておくだけに留めておくのが無難ね。
カーテンは意外と綺麗。安藤さん、煙草を吸わないみたいだから脂(やに)が付かないんでしょうね。
次は電化製品の拭き掃除か。まずは柔らかくて綺麗な布巾か何かを探さないと・・・。
多分食器棚の下の方にあると思う。試しに食器棚の下の両開きの扉を開いて中を探すと・・・やっぱりあった。
これもご両親が用意してくれたものなんだろうけど、日の目を見るのは恐らく今日が初めてなんじゃないかな。
手始めにコンポから拭き掃除を始める。裏側までは無理だけど手が届く範囲はしっかり埃を落とさないと・・・。
変に衝撃を与えないように慎重に拭いていくと、こういう製品らしいメタリックな輝きが復活する。CDを聞ければそれで良いかもしれないけど、
やっぱり綺麗な方が気持ちよく使えるんじゃないかな・・・。少なくとも私はそう思うし。
次はデスクの上に乗っている音源モジュールとかいう機械。音源モジュールはケースに組み付けられているから表面とケースの側面くらいしか拭きようがない。
ボリュームやつまみを動かさないように−多分この条件で使ってるだろうから−慎重に表面を拭く。ここはあまり埃がない。よく使ってるからかしら?
続いてパソコン。これはディスプレイと本体の表面、キーボードを拭くくらいしかない。
キーボードは埃が殆どないけど、ディスプレイと本体の表面は埃っぽい。ディスプレイは静電気で埃を吸い寄せるから、
こまめに掃除した方が見た目は勿論、使うにしても良いと思うけど・・・。その辺は気にしないのかな。
予想外の短時間で電化製品の拭き掃除は完了。使わない時は布を被せておけば良いと思うんだけど・・・私が言うと余計なお世話に思うかもしれないから
また今度にでもやんわりと進言しよう。この掃除自体、余計なお世話かもしれないし・・・。
そういえば安藤さん、今日伊東さんと顔を合わせてるんだろうな・・・。どうなってるんだろう?
安藤さんにしてみれば、私は友人とのこのこデートしていながら途中で看病しに押しかけた厄介者だろうし、伊東さんにしてみれば、万全の態勢で
デートに臨んだ筈が、こともあろうに心其処にあらずで途中で一方的に打ち切った身勝手な女だろう。・・・喧嘩になっても無理はないわね。
二人には本当に悪いことをしてしまった。原因が私にある以上、きちんと謝らないと駄目ね。安藤さんは許してくれたみたいだけど・・・、
私から好きだ、って言ったんだからその相手の看病に向かうのは当然と言えば当然。安藤さんは心底では私を許してはいないと思う。
・・・今は兎に角、余計なお世話と思われても良いから、せめてもの償いのつもりでこの部屋を綺麗にしよう。
CDを入る限りラックに収納して、入らなかった分はラックの上に積み重ねる。雑誌はこうして床に重ねて置いておけば良いわね。そうするしかないし。
拭き掃除が終わった後は床に掃除機をかけて、拭き掃除の時に舞い落ちた埃や元々あった埃や塵を吸い取るんだけど、掃除機は何処かしら?
部屋を見回すと、部屋の電灯のスイッチの傍にドアがあるのに気付く。今まで全く気付かなかったけど、多分あの中だろう。
問題はその中がどうなってるかだけど・・・一先ず掃除機をかけてから考えることにしよう。部屋全体を綺麗にするのが先決だし。
少々覚悟を決めてドアを開けると、どっさりと雑誌が積み重なっている。でも意外にも−失礼な言い方だけど−綺麗なのは、恐らく引っ越してきた時に
雑誌をここにしまうことにしたからだろう。それにしても凄い量・・・。これは数年分あるわね。これをなくせば充分別のものの収納に使えるのに。
まあ、それは私の個人的見解だから別として肝心の掃除機は・・・あった。下の棚に自転車の空気入れやティッシュなんかと一緒に置いてあった。
私は掃除機を取り出してホースや吸い込み口を組み合わせてから、電源コードを引っ張り出して直ぐ近くにあったコンセントにプラグを差し込む。
そして電源スイッチをONにすると、掃除機が動き出す。私は掃除機本体を引っ張り回しながら部屋の隅々まで念入りに掃除機をかける。
固形物を吸い込むときのカラカラという音はしないけど、床に見え隠れしていた髪の毛や小さな塵がどんどん吸い込まれていく。
掃除機をかけるのって意外に大変なのよね。安藤さんが掃除機を使ってない−ちょっと埃を被ってた−理由は分からないでもない。
私も掃除機を引っ張り回すのは結構負担に感じるし。でも、床って意外に埃が溜まり易いのよね。特に絨毯の場合は。
私は絨毯のある部分に掃除機をかけた後、板張りの床が剥き出しのキッチンやお風呂場付近に掃除機をかける。
ここは物が置いてある所に埃や塵が溜まり易い。私は調味料の入れ物や、箸やバターナイフが入った小さなテーブルや椅子を動かして塵を吸い取る。
やっぱり固形物を吸い込むときのカラカラ音はしないけど、埃や塵がどんどんなくなっていくのは見ていて結構爽快な気分になる。
予想以上に掃除機かけは時間がかかった。この間、CDの演奏は全く聞こえなかった。掃除機って意外に五月蝿いのよね。
掃除機の電源スイッチをOFFにすると、CDの演奏が再び聞こえるようになる。
不意に玄関の方でガタガタと音がする。
私は緊張しながらそっと様子を窺う。音はさっきのを最後にもう聞こえない。
郵便受けを見ると何かが入っている。取り出してみるとピザ屋さんのチラシだった。
私は思わず安堵の溜息を吐いて、そのチラシを塵箱に放り込む。多分安藤さんには必要ないだろう。こう言っちゃ何だけど、音楽以外ではいい加減な
安藤さんがわざわざピザの出前を取るとは思えない。そんな手間とお金があるならコンビニに走る筈。
私は電源プラグを抜いてコードを収納して−掃除機なんて操作の場所は大体決まってる−、掃除機を分解して元あった場所に仕舞う。
これでまず一段落。次は水を使う場所の掃除、つまりキッチンやお風呂場、それにトイレね。
身体に火照りを感じた私は額を拭う。滲み出ていた汗が指にくっついてくる。掃除ってしっかりするとかなりの運動量になるのよね。
さてさて、休むのはこのくらいにして掃除に取り掛からないと。まずはキッチンから行きますか。
全体を見回してみると・・・正直言って掃除の必要性は殆ど見当たらない。まあ、自炊してなかったら当然なんだけど。
それでも昨日使わせて貰ったし、流しもステンレスならではの光沢があるに越したことはない。
私は洗い桶とコンロの金属の枠を取り外して洗い桶を直ぐ傍のテーブルに、金属の枠をキッチンの棚に立てかけて、まずスポンジに洗剤と水を含ませて
泡立ててから全体を拭く。やっぱり汚れは殆どない。
続いて雑巾をもう一度水洗いしてしっかり水気を切ってから、洗剤の泡を拭き取る。水気を若干残したキッチンは見た目にも気持ちが良い。
あとは自然乾燥に任せれば良いわね。じゃあ次はお風呂場へ、と。
とはいってもお風呂場は昨日掃除したばかりだから必要ないかな。・・・安藤さん、手抜きして御免なさい。
最後はトイレ。果てさてどんなものか・・・。ちょっと緊張する。汚いトイレはちょっと手を出し辛いのよね・・・。
覚悟を決めてドアを開けると、臭気は全くない。便器も意外に綺麗。流石に安藤さんもここは時々掃除してるみたいね。
これなら気後れすることはない。便器を備え付けの洗剤とブラシで洗って、床と便器の回りを雑巾がけすればOKね。
早速掃除に取り掛かる。便器の掃除は直ぐ終わった。水を流して便器とブラシの泡を流した後、床の掃除に取り掛かる。
ここは掃除してないみたいね。塵がけっこうある。ここは雑巾で拭き取れば・・・ほら、直ぐ綺麗になった。
もう一度雑巾を洗ってから便器の回りを拭う。洋式の場合、便座の奥が死角になって塵が溜まるのよね。・・・案の定。
其処を含めて便器の回りを拭き終ってトイレの掃除は完了。同時に部屋の掃除も完了。
シャツの袖で額の汗を拭うと思わず溜息が出る。最後は雑巾を洗って元あった場所に戻せば全部終わりね。
お風呂場で雑巾をしっかり洗って水気を切って、バケツも水洗いして元の場所に戻して・・・完了!
安藤さんには失礼だけど、乱雑だった部屋はすっきり片付いた。安藤さん、驚くかも・・・。
私は流しで手を洗ってタオルで拭うと、急に空腹感を感じる。
時計を見ると11時少し前。まだ昼食には早いけど・・・掃除で結構疲れたし、休憩を兼ねて食べようかな。
おかずは一昨日の夜にマスターと潤子さんが持って来てくれたものがあるから良いとして、問題は御飯ね。
こればっかりはまさかそのまま食べるわけにはいかないから、炊かないと仕方ないわね。朝食のときに少し多めに炊いておけば良かった。読みが甘いわね、私。
後悔してても始まらない。私は1合分お米を取り出して砥ぎにかかる。砥いだら水と一緒に炊飯器に入れて「炊飯」のボタンを押す。
本当は30分くらい水に浸した方が良いんだけど、ちょっと待っていられそうにないから手抜き。自分が食べる分だから構わないわよね。
御飯が炊ける間におかずを選ぶ。冷凍物の野菜と鳥の唐揚げ。これで良いわね。
それらを食器棚から拝借した、少し底の深い皿に盛り付けて冷蔵庫に入れる。解凍は御飯が炊ける直前で充分間に合う。
御飯が炊けるまでの間、私はベッドに腰掛けてCDを聞きながら床に積み重ねた雑誌を読ませてもらう。
新しいギターやアンプの広告が続いた後、「アレンジ虎の巻」という特集らしい紙面が現れる。
安藤さんもこういう記事を読んで、試行錯誤を繰り返して腕を上げていったのかしら。
安藤さんのギター歴がどれくらいあるかは知らないけど、あれだけ弾けるんだから相当長いか、或いは相当練習を重ねたか。
何れにしても楽器を使いこなしてその上アレンジまでこなすんだから本当に凄いと思う。
ふと机の上の音源モジュールとパソコンに目を移す。あそこで安藤さんは練習をアレンジを繰り返してるんだろうな・・・。
その姿が目の前に浮かぶ。ギターを持って楽譜と音源モジュール、それにパソコンに向かう安藤さんの後姿が。
此処からあの演奏が生まれてくるのかと思うと、感慨すら感じる。
私もしっかり練習して勉強して、少しでも早く安藤さんにおんぶに抱っこの状態から抜け出さないとね。
でも、出来ることなら安藤さんの傍で練習出来て教えてもらえたら良いな・・・。
昼食と洗い物を済ませた後、私はCDを換えながら雑誌を読む。
何やら訳の分からない表記が彼方此方にあるけど、これがギターのフレットの位置を表すものらしい。
私には意味不明な図形か記号にしか見えないんだけど、これが読めなきゃギターは弾けないのね。
フレットの位置を理解してて、更に楽譜も読めてCDから音を聞き取ってアレンジまで出来るんだから、安藤さんは本当に凄い人なんだ・・・。
まだ自分は未熟だ、なんて言うけど私にはとてもそうには思えない。安藤さんは私の手の届かない領域に居るのかも。
そんな人に事細かに教えてもらっていながら気持ちを試して弄ぶようなことをしたんだから、私って本当にろくでもない人間。
思わず溜息が漏れる。全て自分の身勝手さが引き起こしたこととはいえ、安藤さんは勿論、伊東さんにも本当に申し訳ないことをしたと思う。
正直な話、伊東さんとのデートはあの時限りにするつもりだった。
元々私の思惑どおりに安藤さんが動いてくれないことで、自棄になって承諾したものだったし、伊東さんとは住む世界が違い過ぎることを
あのデートで思い知らされた。伊東さんには悪いけど、私はあんな高級な世界には馴染めない。無理に馴染もうとしても自分を偽るだけ。
私みたいな庶民感覚の人間は伊東さんの相手には相応しくない。きっと私より相応しい女性が居るから、その女性を探して欲しい。
その点、安藤さんは私と住む世界が近いように思う。私の作る料理を違和感なく食べてくれたし。私の思い込みかもしれないけど。
それに私が好きなのは安藤さん。安藤さんの住む世界には馴染もうと思うけど、そうでない伊東さんの住む世界には馴染めないし、馴染む気になれない。
・・・私ってとことん身勝手。安藤さんが怒るのも当然よね。
プルルルルル・・・。
机の上にある電話が軽やかなコール音を立てる。
時計の針は3時半を過ぎている。時間からして安藤さんからの電話かしら?・・・もし実家の人だったらどうしよう?何て説明しよう?
留守番を頼まれている彼女です、なんて言いたいけどまだ言えないし・・・。
と、兎も角待たせ続けるのは失礼だ。3回目のコール音の後、私は緊張しながら受話器を取って応答する。
「はい、・・・安藤です。」
「あ、俺・・・安藤だけど。」
電話は安藤さんからだった。私は胸を撫で下ろして応対する。
「安藤さん。今何処です?」
「今さっき駅に着いたところ。これから帰るから・・・。」
「はい、待ってますね。」
これって「帰るコール」よね。ちょっと心弾む気分。
一緒に住むようになったら、こういうやり取りが出来るのかな・・・。そうなると良いな・・・。
そんなことを思っていると、安藤さんの声が聞こえて来る。
「何か・・・自分の家に電話するなんて変な気分。」
「普段はそうですよね。逆に誰も居ない筈なのに出たら怖いですよ。」
「そりゃそうだ。・・・じゃあ、そろそろ切るから。」
「帰り道、気を付けて下さいね。」
「ああ、分かってる。それじゃ。」
安藤さんの言葉に続いて電話が切れる音がする。私は受話器を置いて安藤さんの帰りを待つことにする。
駅から此処まで自転車で10分くらいだ、って安藤さんは言っていた。間もなく安藤さんが帰ってくる・・・。
私は雑誌を元の場所に戻し、CDを止めてケースに入れてラックの上に重ね置いて安藤さんを出迎える準備を整える。
10分ほどして、足音と自転車を押す音が近付いてくるのが微かに聞こえてきた。キッチンに面した小さな窓に人影が映る。帰ってきたのかしら?
足音が止まって一呼吸置いてから、インターホンが鳴る。これ、本当に良く響くわね・・・。
私ははい、と応答して小走りで玄関へ向かう。
相手は誰だか分かってるけど、一応安藤さんに言われたとおり、ドアチェーンをかけた状態で鍵を開けて誰か確認することにする。
鍵を開けてドアを開くと、安藤さんが姿を現す。ちょっと緊張してるように見えるのは気のせいかしら?
「どちら様ですか?」
「この家の住人。」
「判ってますよ。今開けますね。」
私は一旦ドアを閉めてからドアチェーンを外して再びドアを開ける。
さっきと違ってほぼ全開状態になったドアから安藤さんが入って来る。
私は顔が綻ぶのを感じながら出迎えの挨拶をする。
「お帰りなさい。」
「・・・ただいま。」
「今度はきちんと挨拶できましたね。」
「ガキじゃあるまいし・・・。で、何かあった?」
「ピザ屋さんのチラシが郵便受けに一度入りましたけど、それ以外は何もなかったですよ。電話もなかったですし。」
「そうか。用心していると案外変な奴は来ないみたいだな。」
安藤さんは安心した様子で靴を脱いで上がりこむ。
キッチンを過ぎたところで辺りを見回す。部屋の変化に気付いてくれたみたいね。
「部屋、掃除してくれたのか?」
「ええ。時間もありましたし。」
「別に良いのに。」
「月曜日は私、講義がないから掃除が日課になってるんですよ。」
安藤さんは少し驚いた様子で机に備え付けの椅子に鞄を置いてコートを脱ぐ。
そして再び辺りを見回す。今回は空気を窺っているっていう感じ。どうしたのかしら?
「井上。俺が居ない間エアコン使ってた?」
「いえ。使ってませんけど。」
「何か暖かいんだよなぁ。気のせいか・・・?」
「多分・・・気のせいじゃないと思いますよ。」
「?」
「家の外と中が違うからですよ、きっと。」
安藤さん、人がずっと居るのと居ないのとでは空気の暖かさが違うんですよ。
部屋の空気は、そこに居る人の温もりを吸収して保つんですよ。
言い方を換えれば、その部屋に誰かが居たことの証明なんですよ。
それを感じてくれたなら嬉しいな・・・。
「・・・確かに違うよな。」
「何か判りました?」
「判らせたかったくせに・・・。」
安藤さんは口ぶりこそぶっきらぼうだけど、顔は綻んでいる。どうやら私が言いたいことを判ってくれたみたい。
直接言葉にしなくても気持ちが分かり合える・・・。そんな関係になれると良いな。
今回はまだ始めの一歩。もっと広く深く触れ合っていくうちに、何時かはそうなるんじゃないかな・・・。希望的観測だけど。
私と安藤さんは向かい合って紅茶を口にする。講義を終えて帰ってきた安藤さんが一息つけるように、と私が用意したものだ。
昨日荷物を纏める時、もしかしたら、と思って詰め込んだものなんだけど、安藤さんの表情が心なしか安心したものになっているような気がする。
家は安らぎの場。私はそう考えている。
今は私が安藤さんに安らぎを提供する時。その一方で私も安らぐのを感じる。
こうやって安藤さんと一緒に安らぎの時間を持てるようになれたら良いな・・・。個人的希望だけど。
今度レパートリーに加えることになった「THE GATES OF LOVE」の歌い方やアレンジの話が続く。
次第に安藤さんが緊張してきたように見えるけど・・・どうしたのかしら?安藤さんが今の話で緊張する必然性なんてない筈だし・・・。
何か言いたそうな感じもするんだけど・・・もう治ったから帰ってくれ、って言いたいとか?・・・それは嫌だな・・・。
「・・・あ、あのさ。井上。」
話題に一区切りついたところで、安藤さんがちょっと思いつめたような表情で私を見据えて口を開く。
私は反射的に応答する。
「はい?」
「・・・え、えっと・・・。」
そう言って安藤さんは口篭もる。何か言いたいんだけど言い難いみたい。
私は兎に角待つことにする。安藤さんが話を切り出した以上、安藤さんが続きを言うのを待つのが最善だと思う。
もしかして、だけど看病のお礼とかで外出しようかって誘うとか?
私が安藤さんを誘う−というか引っ張り込む−のは珍しくないけど、安藤さんが私を誘うのは今まで一度もなかった。
少しして、安藤さんは緊張で固まった表情で私の方を向いて言う。
「その・・・今日、何処か・・・食事に行かないか・・・?」
「え?」
「ん・・・と、土日と熱出して寝込んだのを看病してもらったから・・・そのお礼というか・・・まあ、そういうことでさ・・・。」
嘘・・・。もしかしたら、が安藤さんの口から飛び出してきた。
安藤さんは私から視線を逸らしている。言うのが照れくさかったから言い難そうにしてたんだ。
私はさっきの安藤さんの言葉が夢じゃないことを確認したくて問い掛ける。
「良いんですか?」
「ん・・・今まで俺から井上に何かするってことなかったからさ・・・。」
再び安藤さんは私の方を向いて言うと、また視線を逸らす。余程言い難いのね。
安藤さん、前の彼女を誘って何処かに行ったこととかがないのかしら?単に相手が私だから緊張してるのかしら?
何にしても、安藤さんが私を誘ってくれただけで凄く嬉しい。その上一緒に食事だなんて・・・夢なら絶対に覚めないで欲しい。
「・・・別に嫌なら・・・それで良いけど。」
「いいえ。喜んで。」
安藤さんの別の選択肢の提示に、私は即答でOKする。こんな嬉しいこと、断る理由なんてある筈がない。
安藤さんと一緒に外食・・・。私が安藤さんに告白した日に一緒に夕食を摂ったけど、外食出来るなんて本当に嬉しい。
食事の前から嬉しさで胸がいっぱいになる。折角の二人の時間、大事にしたい・・・。
このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
|
Chapter9へ戻る
-Back to Chapter9- |
|
Last Chapterへ進む
-Go to Last Chapter- |
|
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3- |
|
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall- |