雨上がりの午後 Another Story Vol.1
Chapter8 待ち焦がれた時は流れ行く
written by Moonstone
「行って来ますね。」
安藤さんとの触れ合いの時間はあっという間に過ぎてしまった。
何時もバイトに出かける時間より10分ほど早めに−此処からだとお店までの距離が増えるから−、私は安藤さんの家を出た。先の一言を残して。
もっと気の利いたことが言えれば良かったんだけど、それしか言葉が見つからなかった。
大分具合が良くなったとはいえ、まだ熱もあるし歩けば足取りがふらつく安藤さんを置いていくなら、もっと安心出来る言葉を残すべきだった。
普段日記まがいの小説を書いて表現能力を高めようとしているのに、全くの自己満足で終わってることが良く分かった。
お店には何時もとほぼ同じ時間に着いた。マスターと潤子さんが何時もと変わらない様子で出迎えてくれたのは驚いたし、嬉しかった。
そして何時ものように潤子さんお手製の夕食を食べて−そのとき初めて、今日初めて食事をとることに気付いた−、エプロンを着けてバイト開始。
今日は日曜日、即ち潤子さんがリクエストの選考対象に入るということで、お店は直ぐに大賑わい。
リクエストタイムが始まるまで、私は注文取りに調理に料理運びと大忙し。マスターが注文取りと料理運びを手伝ってくれたからまだ良かったけど。
安藤さんが言ったとおり、今日も休んだらマスターと潤子さんに大変な迷惑をかけてしまうところだった。
安藤さんの進言を改めて思い知ると同時に、自分以外のことに神経が行き届く安藤さんの一面を知って嬉しく思うと同時に心が痛む。
私は自分のことしか考えてなかった。自分の思いどおりにことが進むのを望むばかりで、相手の心情を考えることをしなかった。
それで安藤さんと伊東さんを振り回して傷つけた。・・・本当にどうしようもない女ね、私って・・・。
常連の若い女性のグループから、安藤君はどうしたの、と問われた。
私が高熱を出して寝込んでいると答えると、その女性達は驚いて何時復帰出来るのか、具合はどうなのか、と真剣そのものの表情で尋ねてきた。
多分明後日からは復帰出来ると思うということ、順調に回復している「らしい」と−こう言わないと安藤さんとの関係を問い質されかねない−答えると、
その女性達は安堵の溜息を吐いて、安藤君のギターを楽しみにしてたのに、などと口々に残念そうに言った。
安藤さんはリクエストではあまり目立たない−私や潤子さんのように熱狂的なファンが居るかどうかという意味で−と思っていたけど、
その腕前は確実なファンを獲得していることを知った。
私は嬉しく思うと同時に、その女性達が安藤君、と気兼ねなく呼ぶことに少々引っ掛かるものを感じた。
立派に独占欲が出来てる証拠だろう。こういうところだけはしっかりしてるのよね、私・・・。
問題のリクエストタイムでは、日曜日にはもはやお約束とも言って良い潤子さんの「Energy flow」、マスターの「WHEN I THINK OF YOU」と「MEGALITH」、
そして私の「Fly me to the moon」がリクエストされた。
潤子さんの演奏は店内を一瞬にして静寂に包むほどのもので、マスターの「WHEN I THINK OF YOU」は甘く切なく、私が初めて聞く「MEGALITH」はアップテンポの
難しい曲で、よくサックス一つでこれだけ表情の違う演奏が出来るものだと感心するしかなかった。
対する私は無難に歌えて拍手と歓声を貰ったけど、隣に安藤さんが居ないのには違和感を感じずにはいられなかった。
全ての演奏が終わった後、マスターが、今日も事情により1時間早く閉店します、とアナウンスした。
常連のお客さんが多いせいか、お客さんの中から不満の声は挙がらなかった。
今日も、とマスターは言った。当然昨日も同じアナウンスをしたんだろう。
安藤さんの容態について聞いてきたあの女性達は、アナウンスを聞いて心配そうな表情で何やら話し合っていた。
恐らく安藤さんの具合がどうとか、店の関係者が皆揃ってお見舞いに行くんだろうとか言っていたんだろう。
実際、お店が9時に閉店となって、何時ものように後片付けと掃除をした後、「仕事の後の一杯」もそこそこに出発の準備をすることになった。
私は一刻も早く安藤さんの家に戻って、回復するまで看病を続ける決心を固めていた。
私はマスターに店の裏側に行くように言われたので、準備を終えて直ぐにお店を出て裏側に回った。
初めて見る店の裏側には、黒の乗用車があった。これで安藤さんの家に送ってもらえるんだろう。
程なく裏口から、黒のロングコートに白のマフラーという、暴力団の幹部みたいな格好のマスターと、ベージュのハーフコートにお洒落なショールを
羽織った女優さんみたいな潤子さんが出てきて、マスターが車のドアロックを解除して私に後ろの席に乗るように言った。
私は言われたとおりに後ろの席に乗り込み、マスターが運転席、潤子さんが助手席に座って車がゆっくりと動き始めた。
そして何時も行き来する坂を下って通りに出たところで、マスターが車を止めて尋ねて来た。
「井上さんの家は何処?」
私は一瞬何のことか分からなかった。
「晶子ちゃん、昨日駆け込みだったんでしょ?祐司君の家に。」
「え・・・あ、はい、そうです。デートを途中で打ち切って安藤さんの家に駆け込んでそのまま・・・。」
「じゃあ、尚更晶子ちゃんの家に寄ったほうが良いわね。祐司君の家に泊まりこむなら着替えとか持っていった方が良いでしょ?」
潤子さんの「説明」で私はようやく事情を飲み込んだ。
確かに服も下着もそのままだし、泊り込むなら着替えとかを持っていった方が良いに決まってる。
安藤さんの家に戻ることばかり考えていて、そういうところまで頭が回らなかった。・・・やっぱり私って馬鹿。
「そうですね。じゃあマスター、すみませんがお願い出来ますか?」
「勿論。言い出しっぺはこっちだしな。道案内頼むよ。」
「はい。まずはそのまま通りに沿って真っ直ぐに進んで下さい。」
私は道案内をして、私の家につれて行って貰った。
私の家があるマンションの直ぐ傍の路肩に駐車してもらって、私は急いで自分の家へ向かった。
エレベーターが来る時間も乗っている時間もまどろっこしくて仕方なかった。
私は鍵を開けて家に駆け込むと、すぐさま物置からボストンバッグを取り出して着替えと洗面用具、あとパジャマとバスタオルと普通のタオル数枚を詰め込んで、
急いでマスターと潤子さんが待つ車へ戻った。
息を切らせて車に乗り込んだ私に、潤子さんは言った。
「そんなに慌てなくても大丈夫よ。」
潤子さんの言うとおりかもしれない。でも、万が一ってこともある。
私は一刻も早く安藤さんのところに戻りたい。そして治るまでずっと付き添っていたい。
「よし、じゃあ、安藤君の家へ向かうか。道案内宜しく。」
「はい。」
とはいっても、私の家から安藤さんの家へどう行けば良いか分からないんだけど・・・。
あ、でも、この通りを真っ直ぐ下っていったところに安藤さんと初めて出会ったコンビニがあったから、この通りを下っていけば良いのか。
「この通りを駅方向に下って行ってください。そうすれば安藤さんの家があるアパートが見えてくる筈ですから。」
「はい、了解っと。」
マスターは車を発進させると180度方向転換させて、駅の方へ向かって車を走らせていく。
スピードはかなり落としてくれている。勢い余って通り過ぎないようにする為だろう。
私はマスターの気遣いに感謝しつつ、安藤さんの具合が少しでも良くなっていることを祈る・・・。
「マスター、あそこです。左手の方向に『デイライト胡桃ヶ丘』ってあるでしょ?」
「ん?ああ、あれか。思い出した思い出した。祐司君がバイトするようになって直ぐ、いざという時のために家の電話番号と場所を教えてもらったからな。」
「そうなんですか。」
「親御さんと一緒なら良いけど、祐司君は一人暮らしでしょ?それに男の子だから洗濯はまだしも、料理とか薬とかは用意できてないんじゃないか、って
思って聞いてみたら案の定。そこで教えてもらっておいたわけ。」
そうか・・・。だから昨日お店に電話をした時、潤子さんが安藤さんの家の場所を詳しく教えてくれたわけだ。
それにしても、マスターと潤子さんはよく気が回るなぁ・・・。安藤さんもそうだけど。私も少しは気配りが出来る人間にならないと駄目ね。
車は左折してやや細い路地に入り、安藤さんの家があるアパートの直ぐ傍に辿り着く。
マスターは車を道路の端に寄せてハンドブレーキを引いてエンジンを止めると、車のドアロックを解除する。
私はボストンバッグを持って真っ先に車を降りる。マスターと潤子さんがそれに続く。
私はマスターと潤子さんに続く形で安藤さんの家へ向かう。三人の足音が静かで冷え込んだ夜の空間に良く響く。
「・・・安藤さん、どうしてるでしょう・・・。」
「寂しがって泣き疲れて寝てるぞ、きっと。」
「まさか・・・。」
小さな子どもじゃあるまいし、そんなことはないでしょう。でも、寂しい思いをさせてしまったかもしれない。そう思うと胸が痛む。
出来ることならずっと付き添って居たかった。安藤さんと一緒に居たかった。
でも、渋る私にバイトへ行くように進言したのは他ならぬ安藤さん。もしかして・・・無理してたのかな・・・。なんて、思い込みか。
安藤さんの家に近付くにつれてキッチンに隣接する小窓が見えてくる。そこから仄かに白い光が漏れている。
「あ、電気は点いてますね。起きてるのかな?」
「祐司君、玄関で待ってたりして。」
「あ、あり得るな。『お帰り、待ってたんだよ』って。」
「もう・・・、からかわないで下さいよ。」
そうは言うものの、内心ではちょっとそうであって欲しい、なんて思っている私が居る。
立って歩けることは歩けるけど、足取りがおぼつかなかったあの様子からするに、玄関で待ってるなんて無理な話よね。
でも、安藤さんが嬉しそうな顔をして出迎えてくれれば、と思ったりする。それくらいは・・・構わないわよね?
玄関の前に来ると、私がスカートのポケットから安藤さんの家の鍵を取り出して開ける。
バイトに出かける前、安藤さんに場所を聞いて借りたものだ。何時か何時でも出入り出来るようになれれば良いな・・・。
私はドアを静かに開ける。奥の方に布団の中からこっちを向いている安藤さんが見える。
その目が心なしか嬉しそうに、そして安心したように見えるのは、私の目の錯覚かしら?
私は靴を脱いで家に上がり、安藤さんの傍に駆け寄る。
「ただいまぁ。・・・あ、起こしちゃいましたか?」
「・・・いや、良いよ。」
「御免なさい、遅くなっちゃって。思ったより時間が掛かっちゃって。」
ありがちな言い訳だけど、実際自分の家に行って泊まる準備をしてから此処に来たから、遅くなったのは事実。
御免なさいね、寂しい思いさせちゃって・・・。でも、もう大丈夫ですからね。
私は心の中でそう言いながらコートを脱いで、そのままになっていた安藤さんの椅子の横にボストンバッグを置いて腰を下ろす。
安藤さんが安心したような表情を浮かべる。やっぱり病気の身で一人は寂しかったんでしょうね・・・。
「おっと、早速二人だけの世界に突入か?やってくれるねぇ。」
「茶化しちゃ駄目よ。こういうときは黙って見てないと。」
その声で我に返って後ろを振り向くと、何時の間にかマスターと潤子さんが私の背後に居た。・・・全然気付かなかった。
マスターはニヤニヤ笑ってるし、潤子さんは何故か嬉しそうに私と安藤さんを見ている。
私は安藤さんのことしか頭になかった自分が急に恥ずかしく思えて、全身がかあっと熱くなったのを感じて俯く。
「マスター、潤子さん。どうして此処に?」
「断っておくが、別に見物に来たわけじゃないぞ。井上さんを送り届けたんだ 。一人じゃ何かと物騒だしな。」
「その前に晶子ちゃんの家に寄ってきたのよ。荷物を纏めるためにね。」
「?荷物って・・・?」
「着替えとか色々よ。」
安藤さんが何事かとばかりに上体を起こす。そして私のボストンバッグに視線を向ける。
意外そうな顔をしてる。まさか・・・泊まり込みまでされるのは迷惑だとか?
「どうして・・・。」
「どうしても何も、君の看病以外に何があるんだ?」
「昨日は駆け込んでそのままだったって言うから、泊り込むなら着替えとか持って行ったらって勧めたのは私だけどね。」
安藤さん、ちょっと戸惑っている様子。・・・あ、はにかんだ顔になった。照れくさそうに頭を掻いてる
迷惑だとは思われてないみたい。ただ、私が泊り込む用意をしてきた理由が理解できてなかったんだと思う。まさか泊り込んでまで、とは思わなかったのかも。
安心して、安藤さん。準備は万全ですから、何かあったら遠慮なく言ってくださいね。
・・・と思っていたら、潤子さんが何時の間にか私の隣まで来て、屈み気味になって安藤さんの顔を見てる。
一体何をしようと・・・。私の胸が俄かにざわめき始める。
!安藤さん、緊張してる。やっぱり潤子さんを意識してる!
「どう?祐司君。具合の方は。」
「まだちょっと熱っぽいですけど、昨日よりはずっと良くなりました。」
「そう。どれどれ・・・。」
潤子さんが安藤さんの額に手を当てる。安藤さん、益々緊張した顔で額の方に視線を移してる。
「確かに熱いわね・・・。これじゃ確かにバイトなんて無理だわ。」
「・・・もしかして仮病だと思ってたとか。」
「そんなことはないけど、電話で聞いただけだからどんなものかって思ってね。」
耐えられなくなった私は、安藤さんと潤子さんの間に割り込むように身を乗り出す。もう黙って見てられない。
「安藤さん。寝てないとまたぶり返しますよ。」
私は安藤さんの両肩を押して安藤さんを横にさせる。そして掛け布団を肩口まで引っ張り上げる。
今の私の顔、どうなってるだろう?多分、怒った顔になってるんだろうな。でも、安藤さんが潤子さんにでれでれしてる−私の思い込みかもしれないけど−
様子なんて見たくないから。安藤さんには私の方だけ見ていて欲しいから。
私は勢い良く潤子さんの方を向く。
顔がきゅっと引き締まってるというか、それこそ好きな人に寄り付く知らない女に向けるものになっているのが自分でも分かる。
対する潤子さんはあっけらかんとしている。何だかからかわれてるみたいで凄く嫌な気分。
「私がちゃんと看病しますから。」
「ふふっ、そうね。その方が祐司君も嬉しいだろうし。」
「・・・。」
・・・やられた。潤子さんは安藤さんの具合を窺うと同時に私の出方を試してたんだ。腹立たしいやら恥ずかしいやらで、私は俯いてしまう。
「じゃあ祐司君。私達はこれで失礼するわね。」
「あ、どうも。」
「明日は店も休みだし、ま、ごゆっくりな。」
ご、ごゆっくりだなんて、私、そんなつもりじゃ・・・!
安藤さんががばっと起き上がる。その顔は明らかに動揺してる。きっと私と同じ気持ちなんだ。
「お、お大事にじゃないんですか?」
「ん?こういう場合はごゆっくり、の方がぴったりだろ?なあ、潤子。」
「ええ、確かにそうね。」
駄目・・・。やっぱりマスターと潤子さんの方が一枚も二枚も上だわ・・・。
私は何とかしてごちゃごちゃになった感情を鎮めて、マスターと潤子さんを見送りに行く。
マスターが靴を履いてドアを開けたところで、潤子さんが私に耳打ちする。
「こういう時、相手を安心させてあげるとポイント急上昇間違いなしよ。」
私は思わず安藤さんの方を見る。安藤さんはベッドに横になった姿勢で私を見ている。
相手を安心させてあげる・・・。簡単そうで実は難しいこと。
幸いというか、安藤さんは感情が外に出やすいタイプだから、どうすれば安心するのかは表情を見れば大体分かるけど・・・。
「それじゃ、お休みなさい。祐司君をお願いね。」
「は、はい。」
「後はよろしくな。井上さんもあまり無理しないように。」
「はい。どうもありがとうございました。」
「いやいや・・・。それじゃお休み。」
「お休みなさい。」
マスターと潤子さんが並んで帰って行くのを見送ってからドアを閉める。足音が完全に聞こえなくなったところでドアチェーンと鍵をかける。
こうしないと厄介払いをしたみたいで、相手に失礼だから。・・・まあ、潤子さんにはそういう感情が全くないと言えば嘘になるけど・・・。
私は小さく溜息を吐いてから、安藤さんのところへ戻る。
椅子に再び腰を下ろして安藤さんを見詰める。何かあったら遠慮なく言って欲しい。
その期待に反して、安藤さんは私をじっと見詰めるだけ。やっぱりさっきのあれはちょっと気まずい雰囲気を作っちゃったかな・・・。
大人気ないところを見せてしまって、安藤さんの私に対する印象を悪くしちゃったかもしれない・・・。
「・・・さっき、何て言われた?」
「まあ・・・昨日とよく似たことですよ。」
まさかポイントがどうとか言えるわけないから、曖昧な言い方で誤魔化す。
安藤さんは特に疑っている様子はない。まあ、昨日も昨日だったし、今日も今日だし、疑う余地はないかな・・・。
互いに見詰め合った状態での沈黙の時間が流れていく。
安心させてあげたい・・・。そうは思うけど具体的にどうすればいいのやら・・・。
まさか「私がどうすれば安心出来ますか?」なんて間抜けな質問は出来ないし・・・。困ったなぁ・・・。
取り敢えず今の私に出来ることは、安藤さんの傍に居ること。只それだけ。
それだけでも安心してもらえるなら、私は嬉しいんだけど・・・。
そう言えば・・・安藤さん、お昼過ぎにお粥を食べたけど、私がバイトに出かけて以来何も食べてないんじゃないかしら?
だとすれば、結構お腹空いてるんじゃないかしら?
「何か・・・食べます?」
私が切り出すと、安藤さんは少し間を置いてから答える。
「ん・・・そうする。」
「どうします?お粥より昨日貰った食べ物の方が良いですか?」
「・・・お粥も食べたい。」
お粥も、って・・・。そんなにお腹空いてたの?
食べること自体は良いことだけど、何でまたお粥まで・・・?
「お粥・・・って、昼に食べたあれですか?」
「・・・そう。」
「普通の御飯が食べられるなら、そっちでも良いんですけど・・・。」
「・・・お粥の方が食べたい。」
安藤さんが明言する。よほどあのお粥が美味しかったのかしら?
でも、もしそうならこんな嬉しいことはない。私は胸の奥から幸福感が湧き上がってくるのを感じる。
「じゃあ、お粥も作りますね。」
「ん・・・。」
安藤さんは短い言葉で−合図と言うべきかも−了承する。
私は席を立ってキッチンへ向かう。その足取りが軽いのが自分でも分かる。
自分の作ったものをまた食べたいと言われることは、作る側にとって最高の報酬。それを貰った以上、しっかり作らないとね・・・。
私は冷凍室から魚の照り焼きの入ったパックを取り出して、ついでに付け合せのために用意してくれたらしい茹で野菜のパックの中身を皿に移して、
ラップを被せて電子レンジの中に入れて「調理」にモードを切り替える。ボタンを押すにはまだ早い。お粥が出来る直前くらいで丁度良いくらい。
キッチンの下の戸棚から洗って仕舞っておいた土鍋を取り出して、お粥を作る準備を始める。
待っててくださいね、安藤さん。美味しいお粥を作りますから・・・。
お粥が出来る2、3分ほど前に電子レンジで解凍を始めて、お粥の味の微調整に入る。
お昼に作った時より自然と気合が入る。「昼の方が美味かった」なんて言われたら最悪だから、塩加減は本当に少しずつ調整する。
何度目かの味見。・・・うん、これなら大丈夫ね。辛くもなく、無味でもなく丁度良い具合。
時を同じくしてチン、と音がして解凍が終わったことを告げる。お粥のとろけ具合もこれくらいで良いわね。
私はコンロの火を消して土鍋に蓋をして、電子レンジから魚の照り焼きと茹で野菜を取り出す。
流石は電子レンジ。ラップを取ると出来たてのように湯気を立てる。
私は予め出しておいた盆にお粥が入った土鍋と−勿論、鍋敷きは忘れてない−魚の照り焼きと茹で野菜が乗った皿と箸を乗せて、安藤さんのところへ運ぶ。
待ちきれなかったのか、安藤さんは上体を起こしてる。
私は安藤さんの太腿の辺りに食べ物を零さないように盆を静かに置く。
よほど痺れを切らしていたのか、安藤さんは早速土鍋の蓋を開ける。封じられていた湯気がぼわっと噴出し、私お手製のお粥が姿を現す。
勿論、アクセントの梅肉は忘れてない。
「じゃあ・・・いただきます。」
「はい、どうぞ。熱いから気を付けて下さいね。」
安藤さんは箸じゃなくてレンゲを手にとる。そんなにお粥が食べたかったなんて・・・。それだけでも充分嬉しい。
安藤さんがレンゲでお粥を掬って、何回か息を吹きかけて口に入れる。
さて、味の程は如何に?自信はあるとはいえ、他人に、特に好きな相手に食べてもらうのはやっぱり緊張する。
安藤さんが何回か咀嚼して飲み込んで、私のほうを向いて「結果」を「発表」する。
「・・・美味いな、やっぱり。」
「そうですか?味は変えてないつもりですけど・・・。」
「・・・否、美味い。」
良かった・・・。気に入って貰えて。私は内心胸を撫で下ろす。
その後も安藤さんは食を進める。やっぱり相当お腹が空いていたのか、病人とは思えないほどテンポは快調そのもの。
潤子さんお手製の魚の照り焼きと茹で野菜も食べていくけど、お粥の方が減っていく速度が速い。
安藤さんって、好きなものから先に食べるタイプなのかしら?もしそうだとしたら・・・尚更嬉しいな。
安藤さんが食べていくのを見ているうちに、私の中である衝動が芽生える。
前から一度やってみたかった。けどする機会がなかった。今は安藤さんの看病という絶好の機会。これを逃す手はない。
そう思うと尚のこと衝動が膨らむ。私は思い切って話を持ちかけてみることにする。ちょっと緊張するなぁ・・・。
「・・・ねえ、安藤さん。」
「ん?」
「食べさせてあげましょうか?」
安藤さんが慌てて口を押さえる。びっくりして口の中のものを噴出すところだったみたい。
でも、この際折角だから、させて欲しいなぁ・・・。駄目かな?看病の一環だからしても不思議じゃないよね、うん。
「じ、自分で食べられるから良い・・・。」
「これも看病のうちですよ。普段だと恥ずかしくてやろうと思ってもなかなか出来ないですけどね。」
安藤さんは困ったような、戸惑ったような顔をする。安藤さんのことだから照れて拒否する可能性がある。
言い出したのは私なんだから、私からアクションを起こさないと駄目ね。
私は安藤さんの手からレンゲを取り上げる。これがないことには始まらない。
そしてお粥を掬って数回息を吹きかけて・・・と。
「はい、どうぞ。」
「・・・。」
「早く食べないと冷めちゃいますよ。」
困惑していたような安藤さんは観念したのか、口を開けてレンゲに近づける。
そこへ私がレンゲの先を差し入れると、安藤さんが口を閉じる。
私はゆっくりとレンゲを傾けて、お粥を安藤さんの口に流し込む。
最初のうちならお粥が熱いからもっとゆっくり、少しずつしないといけないんだけど、今くらいなら温かいくらいで丁度良いだろう。
安藤さんはレンゲのお粥を全部口に含むと、咀嚼しないで一気に飲み込む。
まあ、お粥だから噛まずに飲み込んでも大丈夫だけど・・・動きがギクシャクしてるなぁ。緊張してるのかな?それとも・・・嫌だったとか。
「こういうのって、看病らしいですよね。」
「・・・そうだな。」
「あ、怒ってます?」
「否・・・照れくさいだけ。」
安藤さん、結構照れ屋さんなのね。まあ、私もちょっと照れくさいけど、こういうのに憧れてたのよね。
「井上は・・・照れくさくないのか?」
「まあ、ちょっと照れくさいですけど・・・やってみたい、って気持ちの方が強いですね。」
「そ、そう・・・。」
折角の機会で照れくさいだけなら、やらなきゃ損。私自身少しドキドキしながらお粥を掬って、数回息を吹きかけて・・・。
「・・・まだ?」
「一回だけじゃ看病にならないでしょ?」
安藤さんは魚の照り焼きを摘んでから、口を開けてレンゲに近づける。
私はそっとレンゲを口に差し入れてゆっくり傾けて、お粥を食べさせてあげる。
次から次へと、だとおかずが食べられないし、ゆっくり食べられないだろうから、適当に間隔を開けてお粥を掬って食べさせてあげる。
安藤さんも流石に観念したのか、おかずを摘みながら私のレンゲを受け入れる。
最初みたいに噛まずに飲み込むんじゃなくて、数回咀嚼してから飲み込むようになったところからすると、食べるリズムを掴んだみたい。
こうなったらしめたもの。自分中心にならないように、あくまで安藤さんの食事のリズムに加わる形で慌てずに・・・。
こうしていると、本当に私は幸せだなと思う。
好きな人の看病が出来て、さらに前から憧れていたことも出来て・・・。
何より安藤さんが私を受け入れてくれたことが嬉しい。
病気での人恋しさもあるだろうけど、こうして傍に居ることを許してくれていることで、私は幾分救われた気がする。
些細な行き違いで安藤さんを怒らせ、それで半ば自棄になって伊東さんとデートして、あろうことか途中で自ら打ち切ってしまった。
こんな罪深い私を少しでも許してくれることを、本当にありがたく思う。
もう二度とあんな勝手なことはしちゃいけない。絶対に・・・。
食事は無事終わった。
後片付けをした後、私はCDを安藤さんと一緒に聞く。
CDは『LIME PIE』。今度私のレパートリーに追加することになっている「THE GATES OF LOVE」が入っているからこれを選んだ。
それに、「THE GATES OF LOVE」自体、私には思い入れの深い曲だから・・・。
他の曲も良いものが多い。私はヴォーカルが入っているものをCDに合わせて歌ってみることにする。
私もこのCDは持っているし−初めて一緒に買い物に行ったのよね−、ひととおり歌えるようにはしてある。それを安藤さんに聞いて欲しい・・・。
4曲目の「COME AND GO WITH ME」が流れ始める。
日本人が苦手なハネたリズムに乗せて、私はブックレットの歌詞に時々目をやりながら小さな声で歌う。
時間が時間だからあまり大きな声を出すと近所迷惑になるし、安藤さんに迷惑がかかることになるから、それだけは避けないといけない。
ふと安藤さんのほうを見る。安藤さんは穏やかな表情で私を見詰めている。
私は歌いながら微笑みを送って、リズムに乗って歌詞を口ずさむ。
控えめな音量は、安藤さんにとっては子守唄に聞こえるかもしれない。
昨日は半ば気絶したようなものだったから、今日はゆっくり安心して眠って欲しい。
「CATALINA RAIN」は声域が違うからダブルヴォーカルになっちゃったけど、いよいよ訪れた「THE GATES OF LOVE」では自然と気合が入る。
私は練習の成果を見て聞いて貰おうと、左手を胸に当てて出来るだけ歌詞を見ないようにしながら気持ちを込めて歌う。
この曲を歌うことで安藤さんに私の気持ちを感じてもらって、そして告白したんだっけ・・・。
本格的にレパートリーに加えるにはまだまだ練習が必要だ。
でも、あの時よりは少しはましになっていると思う。安藤さんにはあの時を思い出しながら聞いていて欲しい・・・。
この歌詞のとおり、私と安藤さんは愛の門に立っている、ううん、私だけが先に立っている状態。
安藤さんには私の横に立って欲しい。愛が始まる庭で・・・。
曲はあっという間に最後の「PRECIOUS MEMORIES」に入る。この曲、歌うの難しいのよね・・・。男女混声コーラスだし。
でも、安藤さんにはこの歌詞のとおり、「貴重な思い出」以上のものが今の貴方に必要だということを感じて欲しい。
前の彼女との思い出は大切なものだと思う。私も同じだから良く分かるつもり。
でも、人間は思い出の上では生きていけない。貴重な思いで以上のものを見出して欲しい。そうしないと、貴方が辛いだけだから。
それは出来れば私であって欲しい。でも無理強いはしない。貴方の大切なものは貴方自身が見出すものだから。
私はありったけの気持ちを歌声に乗せる。安藤さんの心に届くように願いながら・・・。
曲がフェードアウトしてCDが終わったのを見てから安藤さんの様子を窺うと、安藤さんは目を閉じて軽い寝息を立てている。
食欲も十分出てきたし、今日一番寝ればもう大丈夫だろう。でも、念のために熱冷ましを飲んで貰おう。
でも、折角気持ちよく寝られたところを起こすわけにはいかない。かくなる上は・・・。
私は熱冷ましの箱を取り出し、食後に服用するタイプのものを選んで、「使用上の注意」どおり3錠を取り出して残りを箱に仕舞う。
音を極力立てないように席を立って、キッチンの蛇口を少し捻ってコップに水を汲んで再び安藤さんのところへ戻る。
私は安藤さんの頭を静かに持ち上げて、錠剤を口の中に差し込むように入れる。
そして私はコップの水を口に含む。・・・本当は安藤さんが起きていて合意の上でしたかったんだけど・・・見逃してくださいね。
私は安藤さんの口を少し開いて、目を閉じて安藤さんの口に自分の口を重ねる。
そしてゆっくりと口に含んだ水を安藤さんの口に流し込む。水を含ませたところで安藤さんの顎を軽くしゃくりあげる。
ごくり、という音がして、安藤さんが薬を飲み込む。私は静かに口を離して安藤さんの頭をそっと枕の上に戻す。
安藤さんの唇を盗んじゃったけど、これは看病の一環ということにして、私だけの秘密にしておこう。
私と口移しで薬を飲まされたことを安藤さんが変に意識して、私を見る目が変わるのが怖いから。
やっておいて勝手なことを言う、と自分でも思うけど・・・御免なさいね、安藤さん。
さて・・・お風呂を借りてから私も寝よう。
安藤さんが寝る前に了承を得ておくべきだったけど・・・看病に夢中ですっかり忘れてた。
まあ、今回の看病には私の個人的願望が多分に含まれていることは否定出来ないんだけど・・・、結果的に看病になったから良いですよね?
私はボストンバッグからバスタオルとパジャマと下着を取り出して、先にお風呂の様子を見に行く。
操作は私の家と殆ど同じのパネル式。湯量が設定できて、「給湯」のボタンを押せばお湯が出せる仕組みになってるみたい。
電灯を点けて中を覗くと・・・お世辞にも掃除が行き届いているとは言えない。
この際だから、お風呂を掃除してから使うことにしよう。勝手に借りるんだし、それくらいやっても当然だと思う。
私はお風呂を掃除して、洗剤の泡を全部洗い落としたのを確認してから、蛇口のコックを捻ってお湯が出る方向を風呂桶の方にして、
蛇口を捻ってお湯を風呂桶に流し込む。
あとは合図が出るのを待つだけ。・・・でも、合図が音かランプの点灯かどうか分からないから、近くで待っているのが無難ね。
お湯の音で安藤さんが目を覚まさないように、お風呂のドアを閉めて待つことにする。
2日ぶりのお風呂で、流石にさっぱりした。
髪も洗えたし、昨日走ったせいで身体に付着していた汗と汚れも落とすことが出来た。
パジャマを着た私は、着ていた服を畳んで安藤さんのところへ戻る。安藤さんは変わらず軽い寝息を立てて眠っている。
流石にこの時期は冷える。コートを羽織って安藤さんの上に突っ伏して寝ると、安藤さんと私の立場が逆転しかねない。
それ程馬鹿げた話はそうそうないから・・・また個人的願望が入るけど、許してくださいね。
私は、掛け布団を静かに捲り上げて安藤さんの身体を壁際へ少しずつずらして、人一人分のスペースを確保する。
人一人分とは言っても狭いけど、シングルベッドじゃ仕方ない。
私はそっと安藤さんの隣に横になって、掛け布団を肩口まで被る。
こんな形で安藤さんと一緒に寝ることになるなんて・・・ちょっと罪悪感を感じるけど幸せな気分の方が圧倒的に大きい。
布団を被って程なく、バイトと看病の疲れがどっと全身に噴出す。
私は無意識に小さく欠伸をして目を閉じる。
明日の朝、安藤さんが先に起きたらびっくりするだろうなぁ・・・。ま、仕方ないよね。事実を説明すれば済むこと・・・だと思う。
私の意識が急速に闇の中へ引き込まれていく。
お休みなさい、安藤さん・・・。
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