雨上がりの午後 Another Story Vol.1
Chapter6 遠き日の悪夢、不定形の未来
written by Moonstone
カーテンが閉じられたこの部屋に、街灯の白色光が僅かに滲んで広がる。
部屋の家具やお店のステージの奥の方にあるものに似ているMIDIの音源モジュールとかいう機械、そしてソフトケースに入ったギターなんかが
燐光を帯びたように輪郭を淡く闇に浮かべている。
この部屋には生活感というものがあまり感じられない。
キッチンや冷蔵庫といったものは在るには在るけど、キッチンは水を飲んだりちょっとした洗物をする場所、冷蔵庫はビールの保管場所っていった感じ。
ふと机に目を移すと、雑誌が散乱している床同様、乱雑に書類らしいものが散らばっている。
安藤さんを見ると、早く浅い呼吸を繰り返して眠っている。この隙にっていうのも何だけど、ちょっと見せてもらおう。
私は音を立てないように静かに席を立って、机へと足を運ぶ。
まあ、音源モジュールとかいう機械が収められた、私の身長くらいあるラックと並んでベッドの直ぐ傍にあるから、大した距離じゃないんだけど。
机の上の書類らしいものを手に取って、窓からの微かな光に照らしてみる。
五線譜に明らかに手書きと分かる音符や、音符のまとまりの一部を丸で囲って「この部分をギター向けに」とかいうメモが彼方此方に走り書きされている。
上部を見ると、筆記体か走り書きか分からない字で「THE GATES OF LOVE」と書いてある。・・・喧嘩する前、レパートリーに加えようって言ってた曲だ。
他の紙を手に取って光に照らしてみると、やっぱり「THE GATES OF LOVE」と上部にタイトルが書かれた五線譜に音符とメモが書き連ねられている。
安藤さんはCDから音を聞き取ってこうして楽譜に起こして、自分が演奏したり私が歌う時に演奏するようにアレンジしているんだ・・・。
CDからこうして幾つものパートを聞き分けて、さらに違和感なく聞こえるようにアレンジ出来るなんて、安藤さんはやっぱり凄い。
こういう陰の努力や積み重ねがステージの上での演奏になると思うと、その重要性を感じると同時に、私の分まで手を焼かせていることを申し訳なく思う。
私は自分が歌う時に、安藤さんが一緒にステージに上がって演奏してくれると安心出来た。
それは全て、安藤さんのこういう陰の苦労や作業の賜物だと思うと、演奏してくれて、歌えるように用意されていて当たり前だなんて、とても思えない。
ちょっと考えれば分かることよね。CDの音がMIDIとかいう規格の音源モジュールの音や安藤さんのギターにストレートに変換される筈がないって。
なのに私は毎週自分の練習のために、最初はそれこそ楽譜の読み方とか一から教えてもらうために安藤さんに通ってもらっていることを、
心の何処かで、初心者なんだから「担当」の人に教えてもらうことは自然なことだって思っていたような気がする。
「こんなことだから・・・色んな人に迷惑かけるのよね。」
私の口から自嘲の呟きが漏れる。自分の思いどおりにいかなかっただけで安藤さんを怒らせ、伊東さんをその気にさせて振り回した。
友情を一つ壊してしまったかもしれない私が、本当にこの場に居て良いものか、とも思う。
だけど、安藤さんは私に傍に居て欲しいと言った。私を責めることは一度もなかった。
今は熱を出して寝込んでいる安藤さんの傍に居て、安藤さんの世話をすることが、私に課せられた使命でもあり、罰でもあると思う。
私は楽譜を机に置いて、席に戻る。
安藤さんは相変わらず速くて浅い呼吸を繰り返しながら眠っている。
額にそっと手を当ててみる。熱を出していることが嫌でも分かるくらい熱い。
今は眠っているというより気絶しているといった方が良いのかもしれない。
安藤さんの額から手を離して、私は安藤さんの様子を見守る。
微かで短い間隔の、喘ぐような呼吸音だけが聞こえる静まり返った部屋で、私はじっと安藤さんの顔を見る。
「う、うう・・・。」
安藤さんの呼吸に苦しそうな声が混じる。熱で魘されているのかしら?
あれだけ熱が出ていたら、魘されるのも無理はない。出来ることなら代わってあげたい。だけどそれが出来ない以上、私は見守ることしか出来ない。
それがもどかしくて悔しくてならない。
「・・・こ・・・。優子・・・。」
優子・・・?一体誰の名前なんだろう?
そう言えば・・・安藤さんは付き合っていた彼女にふられて間もない人。優子って名前は、もしかしたら安藤さんをふった彼女の名前?多分そうね・・・。
私の名前が出てこなかったのがちょっと悔しいけど、まだ過去の痛い茨に束縛されていても仕方ない。
私だって同じ思いを味わった人間なんだから、そのくらいは分かるつもり。
それにしても、安藤さんは夢で優子って女性(ひと)と何をしてるんだろう?ちょっと気になる。
付き合っていた頃の楽しい思い出なのかな・・・。私の手が届かないところに安藤さんの意識がある。今はただ見守るしかないのかな・・・。
「優・・・子・・・。優子・・・。優子・・・。」
安藤さんは何度も恐らく前の彼女の名前を譫言(うわごと)で言いながら、だんだん呼吸を荒くしていく。速さは変わらないから、もの凄く苦しそう・・・。
眉間に皺が刻まれる。何か切迫している状況の夢なのかしら?
どうあがいても夢の内容を見れないから、私はただ魘されている安藤さんを見守るしかない。
「ま・・・待って・・・くれ・・・。優・・・子・・・。優子・・・。」
どんな夢かは分からないけど、少なくとも楽しい夢じゃないみたい。私は不安になってくる。目を覚まさせた方が良いんだろうか?
次の瞬間、安藤さんがばっと目を開ける。夢だと分かって安心したのか、一度溜息を吐いて、再び速くて浅い呼吸を始める。
「・・・大丈夫ですか?」
私は安藤さんの額に手を伸ばして軽く拭うように動かす。・・・凄い汗。やっぱり楽しい夢なんかじゃなくて、悪夢に魘されてたみたい。
「凄く魘されてましたよ。」
「・・・そう?」
「ええ・・・。何度も譫言で『優子』って・・・。」
安藤さんは一瞬驚いたような顔をして、落胆したような表情で目を閉じる。
聞かれたくなかったのね、きっと・・・。私に自分をふった彼女の名前を・・・。隠したい過去を覗かれてしまったような気分なんだろう・・・。
「前に・・・付き合ってた女だよ・・・。夢に出てきて・・・夢の中でも捨てられちまった・・・。忘れたつもりでも・・・潜在意識の中ではまだ・・・
忘れちゃいないって・・・ことか・・・?はは、未練がましいったら・・・。」
「・・・。」
「別によりを戻したいとか思ってや・・・しないのに・・・、何でだろうな・・・。何もかも壊して、破いて・・・捨てちまったってのに・・・。
記憶も・・・そう出来たら・・・どんなに楽か・・・。」
安藤さんが自嘲を交えて悲しげに呟く。どんなふられ方をしたのか知らないけど、きっと突然で予想外だったんだと思う。
私の時は短かったけど「準備期間」があった。その分は悲しみが和らげられたと今は思える。
安藤さんにはそれがなかったんだろう。だったら・・・何かの拍子に優子って女性が出てくる悪夢を見たとしても不思議じゃない。
辛かったでしょうね・・・。でも今は私が居るから・・・安心して・・・。
私は安藤さんの頬に手を当てる。心なしか、安藤さんの呼吸が少し落ち着いたような気がする。
私がこうすることで安藤さんが少しでも気が楽になれるんなら、安藤さんの気が済むまでこうしていてあげたい。
「忘れるなんて・・・出来ませんよ、きっと。」
私は音量を落として言う。変に説教じみたりしないように注意して。
忘れることなんて出来ない。好きだった分だけ心に深くその人との思い出が刻まれるんだから。
私自身そうだし、それを泣いたり苦しんだりしながら整理して、新しい気持ちを見つけたんだから。
もっとも私は安藤さんにあの人の面影が重なったことがきっかけになったから、こんなことを言うのもどうかとも思う。
でも、せめて私の経験を語ることで安藤さんの気持ちが少しでも楽になるなら、喜んで私の心の内を語りたい。
「だって・・・安藤さんはその優子さんって女性(ひと)が本当に好きだったんでしょ?結婚したいって思うくらい・・・。」
私が問うと、安藤さんは無言で小さく頷く。やっぱり本気でとことん好きだったのね。優子って女性のことが・・・。
「そんな女性のこと、一月やそこらでなかったことにする、なんて出来ないですよ。ううん、ずっと心の何処かに残ると思うんです。
もし全部忘れることが出来たら・・・きっとその好きだった、って気持ちは嘘だったか、心の何処かで何時か別れるだろうなって思ってたか、どちらかですよ。」
「・・・。」
安藤さんがゆっくりと目を開けて私を見る。私から視線を逸らそうとしない。
私がこんなことを話すとは思わなかったのかもしれない。
私が思う限りのことを話すことで安藤さんの傷を負った心が少しでも癒されるなら、私は自分の経験に基づいたアドバイスじみたことを話しますね。
「だから・・・忘れようなんて思わない方が・・・良いと思うんです。忘れようとしたり、否定しようとする方が・・・負担になると思うから・・・。」
「・・・時の流れに身を任せろ、って・・・ことか・・・?」
「私の考えですけどね・・・。」
そう、どんなに悲しい、辛い思い出も、時が経てば自然とセピア色になって、ほろ苦い思い出に変わる。
その人が好きだった程、その気持ちが壊れた時の傷も深い。忘れるなんて絶対出来ないと思う。
でも、忘れることは出来なくても、気持ちが楽になるように昇華させることは時の流れがしてくれる。
悠長なことを言うな、と安藤さんは思うかもしれない。
でも、忘れようとして傷ついた心に負担をかけない方が良いと思う。
思い出は、そのときの気持ちが強ければ強いほど、真剣なら真剣なほど、心の深い部分に刻まれるものだし、それを消し去るなんてことは出来ない筈。
悪夢に魘されたのは災難としか言いようがないけど、それもセピア色の思い出に変えるまでの一過程だと思う。
「井上ってさ・・・。俺より大人だよな・・・。自分が・・・ガキっぽく見えるよ・・・、本当に・・・。」
「一応、安藤さんより1年余分に生きてますからね・・・。」
「もっと・・・大人にならなきゃ・・・駄目だな、俺は・・・。」
「私だって勝手に思い込んで拗ねたりするんですから・・・お互い様ですよ。」
私の方がよっぽど子ども。自分の思いどおりにならなかっただけで拗ねて自棄になって他の男の人とデートして、それでもずっと安藤さんのことが
気になって、お店に電話をかけて安藤さんが熱を出して寝込んでいるって聞いて、デートを途中で無理矢理打ち切って駆けつけたんだから。
むしろ、身勝手極まりない私が傍にいることを許してくれた安藤さんの方がずっと大人だと思う。
私は安藤さんの熱く火照った頬を撫でる。すると安藤さんは心地良さげに顔の険を緩める。
忘れたい過去を最悪の形で夢に見るなんて、弱った今の安藤さんには辛い仕打ちだったでしょうね・・・。
こうすることで少しでも悪夢の残骸が頭から抜け落ちれば良いんだけど・・・。
勝手し放題の私が安藤さんの身代わりになれれば、それが一番良いと思う。安藤さんにとっても私にとっても・・・。
でも、それが出来ない以上、私は安藤さんの苦しみを少しでも和らげることしか出来ないし、それが最大限の償いだと思う。
安藤さんが落ち着いた表情のまま、ゆっくりと目を閉じていく。
・・・眠ったのかしら?まだこんなに熱があるから気が遠くなったと言ったほうが良いかもしれない。
でも、最初に眠った、ううん、気絶した時より心なしか穏やかな顔つき。呼吸もやや落ち着いている。
今は兎に角身体を休めることに徹して、早く食事を摂れるようになることが大事。ものを食べないと回復が遅れるし、薬に頼りすぎるのは良くない。
私は安藤さんの額をそっと拭う。・・・まだ汗ばんでいる。
これまで熱でうなされたことを考えると、水の一杯くらいは飲んだ方が良いんだけど、まさか折角意識が闇の深淵に沈んだ安藤さんを
叩き起こして水を飲ませるわけにはいかない。
私は何時安藤さんが目を覚まして何か要求してきた場合に備えて、ずっと起きていることが肝心。
そうでなきゃ、こうして傍に居て看病している意味がない。
・・・とは言っても・・・私も何だか眠くなってきた。
朝は早かったし、遊園地で歩き回って、高台では立ちっぱなしで、駅から安藤さんの家まで走ったから疲れるのも無理はないんだけど・・・。
でも・・・私が起きてないと安藤さんが・・・。
安藤さんには申し訳ないけど、ちょっと身体を休ませて貰おう。
私は着てきたコートを羽織って安藤さんのお腹のあたりに両腕を組んで、そこに頭を乗せて安藤さんの方に首を向ける。
こうすれば、私は身体を休められるし、安藤さんの様子を看ていられる。
・・・あ、何だか頭がぼうっとしてきた。駄目駄目。ちゃんと起きて・・・ないと・・・。
でも私の意識は私の希望を無視して、ずぶずぶと底なしの暗闇に沈んでいく。起き上がろうにも頭どころか身体全体が重くて起き上がれない。
こんなことじゃ駄目なのに・・・。私って・・・だらしない女ね。本当に・・・。
御免なさい、安藤さん。何かあったら・・・遠慮なく叩き起こしてくださいね・・・。
Fade out...
Fade in...
・・・目の前が徐々に明るくなってくる。完全に視界が開けると、寝ている安藤さんの顔が見える。
「・・・ん・・・あ、寝ちゃってた・・・。」
私は目を擦りながら体を起こす。やっぱり寝ちゃったか・・・。何とか起きてようと思ったんだけど、身体と意識が言うことを聞かなかった。
私の腕越しに伝わる安藤さんの呼吸は・・・夜よりは落ち着いているけどまだ浅くて早い。1日2日で治るようなものじゃなかったみたいね・・・。
そんな苦しみに安藤さんが喘いでいることを他所に、私は昨日、伊藤さんをその気にさせて振り回してた・・・。本当に嫌な女ね、私って・・・。
安藤さんの枕元にある時計を見ると、時計の針は9時を少し過ぎている。完全に寝過ごしちゃったわね。看病人失格ね、これじゃ。
そうそう、安藤さん、熱はどうなんだろう?熱が少しでも下がってれば多少は楽になると思うんだけど・・・。
安藤さんはまだ寝てるわね。体温計が何処にあるかなんて分からないし、いっそのこと、こうしてみるか。
私は安藤さんを起こさないように前髪を後ろに退かして軽く押さえながら、自分の前髪を上げて、ゆっくりと私の額を安藤さんの額に触れさせる。
「熱は・・・ちょっと下がったかな・・・?」
昨日の夜ほど熱くはない。けどまだ火照っているのが分かる。
まあ、こういう時は熱を出して汗をかいた方が良いんだけど、多少は薬で和らげないと苦しくて仕方がないと思う。
それにしても・・・こうして間近で安藤さんを見るなんて初めてだな・・・。ちょっと得した気分。
私は額を安藤さんから離して髪を元に戻す。何とか起こさずに済んだみたいね。さて、これからの段取りは、と・・・。
「起きたら熱冷ましを飲んでもらって・・・、あと、何か食べた方が良いんだけど、まだ無理かな・・・?」
一番の問題は食欲があるかどうか。少しでも食べられるなら何か食べて栄養を摂らないと、治るものもなかなか治らない。
食べ物は昨日の夜、マスターと潤子さんから貰ったけど、いきなり固形食は辛いと思う。お粥が無難だろうけど・・・お米あるかな?
私は立ち上がって台所へ向かう。少なくとも冷蔵庫にはお米はなかった。もっとも普通、お米を冷蔵庫で保存することはしないけど。
台所に米びつがあるかどうかだけど・・・この家の生活感から考えると、米びつはあっても中身は期待しない方が良いかもしれない。
台所の観音開きの扉を開けてみると・・・案の定というか、調理器具はあるけど乱雑に積み重なっている。
米びつはあった。中を覗いてみると・・・これまた案の定というか、空っぽ。お米は買ってこなきゃ駄目ね。そんなに必要ないと思うけど。
とりあえず、この調理器具を整理しておいた方が良いわね。後で使うことになるかもしれないし。
それにお粥を作るのに必要な土鍋の存在を確かめないと。炊飯ジャーで作っても良いんだけど、器に移し変える手間がかかるから土鍋があるに越したことはない。
私は安藤さんを起こさないように、出来るだけ音を立てないように調理器具を整理し始める。
それにしてもまあ・・・使って洗って乾いたらそのまま放り込んだって感じね。一応最初の頃は自炊しようかと試行錯誤したみたいだけど、挫折したみたい。
まあ、自炊するのは手間がかかるし、音楽にかけている時間を考えると自炊なんてやってられない、って結論に行き着いちゃったのかもしれない。
整理する為にとりあえず出せるもの全部出すことにする。すると程なく土鍋が姿を現す。程好い大きさね。これくらいが丁度良い。
土鍋を含めて全部出し終えた後、今度はあまり使いそうにない器具から順に収納していく。フライパンとか使いそうにないから、下の方でも大丈夫よね。
体内時計で10分ほどで収納終了。これでいざという時も直ぐ使えると思う。
私は少し汗ばんだ額を拭って、流しで手を洗ってタオルで拭う。
安藤さん、何時目を覚ますかな・・・?昨日の深夜に悪夢に魘(うな)されたから、昼頃になるかもしれない。そのくらいの方がお腹も減って良いかもしれない。
ふと安藤さんの方を見ると、安藤さんが目を覚まして私の方を見ている。やっぱりさっきの整理で起こしちゃったのかな・・・。
一先ず私は安藤さんの傍へ戻る。何か要望があるかもしれないから。
「あ、起こしちゃいましたか?」
「・・・いや、それよりちょっと前に目が覚めたから・・・。」
「熱はちょっと下がったみたいですけど、念のため熱冷まし飲んで下さいね。あと、出来たら何か食べておいた方が良いんですけど・・・、どうですか?」
「熱冷ましは飲むけど・・・食欲は・・・まだない。」
「昼頃食べれるようだったらお粥とか作りますね。」
やっぱりまだ駄目か・・・。無理もないわね、あの熱じゃ・・・。兎に角、薬だけは飲んでもらうことにしよう。
私はベッドの傍に置いてある紙袋から熱冷ましの薬を探して取り出す。服用方法に目を通してみると・・・「成人1回3錠、小児1回1錠、食前又は食間に服用」とある。
これなら恐らく昨日から何も食べてない安藤さんにそのまま飲んでもらっても大丈夫ね。
私は蓋を開けて薬の包装を取り出して3錠を手に取り出す。薬を飲んでもらうには水が要るわね。錠剤をそのまま飲め、なんて無茶な話。
残りの包装を箱に仕舞って蓋を閉じて紙袋に戻してから、私は水を汲みに再び台所へ向かう。
安藤さんの家って、私の家と違って台所と居間の間がフリーだから、結構便利に感じる。いちいちドアを開け閉めするのって結構面倒なのよね。
昨日使って洗い桶の中に入れておいたコップに水を半分ほど注ぎ込んで、安藤さんのところへとんぼ返りする。
安堵さんが自分で上体を少し起こしている。殆ど体力がない筈だから無理しちゃ・・・。
「まだ無理しちゃ駄目ですよ。熱もまだあるんですから。」
「・・・自分で起きないと・・・。」
「病気の時くらい甘えて良いんですよ。」
「・・・。」
「さ、薬飲んで下さいね。」
私はコップを枕元の小さなスペースに置いて、左手で薬を持って右手で安藤さんの頭を支えて、左手に持った薬を安藤さんの口に近付ける。
すると安藤さんの口が少し開く。私はその口に指と掌を使って薬を一粒ずつ差し込むように入れる。
時々安藤さんの唇に私の指が触れる。柔らかくて・・・熱い。唇からも熱が噴き出てるのね。これを飲んで貰って少しでも楽になると良いんだけど・・・。
薬を全部安藤さんの口に含ませたところで、私は枕元に置いておいたコップに手を伸ばす。
右手が塞がってるから、安藤さんの上を横切る形で左手でコップを取るしかない。しまった・・・。床に置いておけば良かった・・・。
でも今更気付いても遅い。どうにかコップを手に取って、薬を含んでいる安藤さんの口に近付ける。
今度も素直に安藤さんの口が開いて、私はコップの水をゆっくりと傾けていく。
少ししたところで安藤さんが口を閉じて薬と水を飲み込む。そして再び安藤さんが口を開ける。
私は残りの水をゆっくりと安藤さんの口に注ぎ込んでいく。夜あれだけ魘されて汗をかいたから、喉が乾いてるに違いない。
安藤さんはやっぱり喉が乾いていたのか、一定の間隔で水を口にある程度含んで飲み込むことを繰り返す。
コップが空になったところで、私は安藤さんの口からコップを離して頭をそっと枕の上に横たえる。
直ぐに薬が効くわけはない。効いたとしても体力の衰えは食事を摂らないことには戻らないだろう。
「今日もちょっとバイトは無理ですね。」
「・・・こんな身体じゃな・・・。」
「今は治すことが先決ですよ。まだ熱もあるから・・・。」
椅子に座った私は、掛け布団を安藤さんの肩口まで掛ける。その動きのせいで、後ろに流しておいた髪が安藤さんの顔に触れる。
私が椅子に座り直した後も、安藤さんは私をじっと見詰めている。
時間がゆっくりと流れていく。安藤さんは尚も私を見詰めたまま。
何か用ですか?用があるなら遠慮なく言って下さいね。
暫くして、安藤さんが私から視線を逸らさずに口を動かし始める。
「・・・井上。」
「はい?」
「退屈じゃないか・・・?」
そんなことあるわけないじゃないですか・・・。好きな人の看病なんですから・・・。
私は首を軽く横に振る。自分の身体より私のことを考えてくれることが嬉しくて、私の口元が思わず綻(ほころ)んでしまう。
「看病で退屈なんてしませんよ。」
「・・・そう。」
「それより、安藤さんは退屈しません?何か欲しいものとかあったら言って下さいね。」
私が言うと、安藤さんは何か言いかけたところで言葉を飲み込む。遠慮しなくて良いのに・・・。
再び暫くゆっくりと時間が流れた後、安藤さんが何か決心したような、ちょっと遠慮気味な表情で私に話し掛けてくる。
「・・・井上。」
「はい?」
「バイト初日の日にさ・・・高校生の客がその・・・『これを頼む』って言って、井上を指差したこと・・・覚えてるか?」
「えっと・・・ああ、そんなことありましたね。」
あの時のことね。あれは流石に私も面食らったわ。バイト初日にあんな「注文」を受けるなんて思わなかったから。
「それでさ・・・、井上は・・・『先約があるから駄目』とか言ったけど・・・それは?」
「ええ、覚えてますよ。」
「その・・・こんなこと聞くのも何だと思うけど・・・先約は良いのか?」
そうか・・・。安藤さんは私が言ったことの真意を聞きたかったんだ・・・。だから遠慮気味な顔で尋ねたのね。先約も何も・・・。
「あれは・・・とっさに口を突いて出たんですよ。」
「・・・。」
「突然のことで驚いて、あれこれ考えてる間にぱっと言っちゃったような感じですね。」
「・・・そう。」
安藤さんは私の言葉で安心したのか、表情を少し緩めて寝返りを打って壁の方を向く。
この時の安藤さんは照れ隠しなのよね。昨日の行動で大体分かったから。
そう、あの時は驚いてあれこれ考えている間に、自分でも気付かないうちに口走ったようなものなのよ。
「・・・でもね、安藤さん。」
「・・・?」
「とっさに出たっていっても・・・何もないところからは出ないですよ。」
使い方は違うけど、「火の無いところに煙は立たず」。何も考えずに言ったわけじゃない。
「そうなれば良いなぁっていう希望があったから・・・、ああ言ったと思うんです。」
「!」
「もっともあの時はバイト初日だったのもあって緊張してたから、どうしてああ言ったかってことはあまり深く考えなかったんですけどね。」
あの時はまだ安藤さんにあの人の面影を重ねていた。今は重ねていないかと問われるとちょっと辛いものがあるけど・・・。
でも、少なくともこれだけは理解して、ううん、知っておいて欲しい。
「・・・安藤さんには私のこと、彼が居るのに見えないところで浮気するような女だって思われてたみたいですね。」
「・・・。」
「私も浮気したりされたるするのは嫌なんですよ。振られたことだってあるし・・・。もし誤解されてるなら、私はそんなことはしないし、
したくないって思ってることは知ってて欲しいです。・・・でも、今の私じゃ説得力ないですね。ちょっと自分の希望どおりにいかなかっただけで、
腹いせみたいにデートしたりするくらいだから・・・。伊東さんにも結局迷惑を掛けただけだし・・・。」
本当に説得力がない。私は二人の男の人を、それも友人という関係の二人を片方は怒らせ、片方は振り回した。
こんなことだから、安藤さんが私のことを尻が軽い女だと思っても仕方ない。でも、それが誤解だということだけは知っておいて欲しい。
あんなことをしておきながら、と思うかもしれない。でも、解ける誤解は解いておきたい。そうでないと・・・これから先が辛いから・・・。
私が貴方に伝えた気持ちに嘘偽りはないことも・・・感じてくれると嬉しいな・・・。
安藤さんが再び私の方を向く。安藤さんの表情に怒りや怪訝さはない。
普段と同じように冷静な、落ち着いた口調で話す。
「智一は俺と違って、そういう気持ちとか理解できる奴だから・・・大丈夫だと思う。それに・・・元はといえば俺が・・・はっきりしなかったから・・・。
俺が最初からはっきり言ってりゃ・・・こんなにこじれなくて済んだんだ・・・。」
「・・・。」
「智一には・・・俺からちゃんと説明する・・・。同じバイトをしてることとか・・・前に買い物に一緒に行った理由とか・・・。
あいつは俺が試合放棄を宣言しておきながら井上と一緒に居たことに腹を立てて、その流れでデートの誘いに踏み切ったようなもんだからな・・・。」
「・・・私も安藤さんも・・・互いに意地を張ったばっかりに、伊東さんを巻き添えにしてしまったんですね。」
「そうだな・・・。智一には悪いことしたって思ってる・・・。謝らないといけないな・・・。」
安藤さんの言葉を最後に会話が途切れる。
私は安藤さんに問いたいことがある。私がその気にさせて振り回した伊東さんに対して・・・。
「安藤さんは・・・私のこと、どう説明するつもりなんですか?」
安藤さんの口から直ぐに答えは返っては来ない。無理もない。突然私のことをどう思っているのか、って核心を突くようなことを言ったから。
私は安藤さんに自分の気持ちを伝えた。だけど安藤さんが私のことをどう思っているかは知らない。分からない。
この場で聞かせてもらえるなら聞かせて欲しい。安藤さん、貴方の私に対する気持ちを・・・。
私と安藤さんが見詰め合ったまま、どれくらい時間が流れただろう・・・?
口を結んでいた安藤さんが、ゆっくりとその封印を解き始める。
「まだ・・・好きだからとは言わない・・・。今の気持ちが本当かどうか、まだ判らないから・・・。」
「・・・。」
「今回だって・・・俺が熱を出してなかったどうなったか・・・判らないし、今好きだって言うのは、井上の優しさに便乗して安全な方を選ぶみたいだから・・・
ずるいような気がする。それが本当に好きだっていう気持ちか・・・自信がない。」
「・・・。」
「ただ・・・智一には試合放棄を取り下げるって言うつもりだし・・・、自分の本当の気持ちが判ったら・・・前の返事はきちんとする・・・。
先延ばしかもしれないけど・・・今はこうとしか言えない・・・。」
そう、そうよね。病気の時は人恋しくなるって言うから・・・。
それに私は待てるまで待つ、って安藤さんに言った。それを今になって真意を質(ただ)す方に方針転換するなんて勝手も良いところよね。
私は分かりました、という意味を込めて小さく頷く。でも・・・贅沢を言わせて貰うなら、やっぱり聞きたかったな・・・。
「じゃあ・・・、私は安藤さんが好きだって言ってくれることを期待してますね。」
「・・・悪い。この場で決断できなくて。」
「待てるまで待ちますって言ったのは私だから、良いんですよ。」
でも、本心は変わらない。やっぱり「好きだ」の一言が返ってきて欲しかった。
私は思い切って両腕を掛け布団の上で交差させてその上に突っ伏す。
そして安藤さんの方を向く。丁度私が今朝目覚めた時と同じような態勢で・・・。
「本当言うと・・・好きだって言って欲しかったなぁって。」
「・・・そんな眼だった。」
「もう一息ってところですか?」
「・・・そうかもしれない。」
もう一息、か・・・。心に深手を負って間もない安藤さんに「好きだ」の返事を求めるのは、よくよく考えてみれば酷なこととね。
もしかしたら、ううん、私の希望的観測だけど、安藤さんの気持ちは私の希望する形に固まっているのかもしれない。
ただ、安藤さんが言ったように、それが安藤さんが熱を出して寝込んでいるという状況が生み出した勃発的な感情かもしれないと疑心暗鬼になってるんだろう。
本音を言えば、早く返事が聞きたい。これは変わりない。
でもそれは、安藤さんの具合が良くなって、気持ちの整理がついてからでも遅くはないし、あやふやな状態で言って欲しくないって気持ちもある。
「好きだ」の一言にはそれだけの重みがある、って私は思ってるから・・・。
安藤さん、少しでも早く良くなって下さいね。そして・・・貴方の気持ちを私に伝えて下さいね・・・。
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