雨上がりの午後

Chapter 356 年の瀬の争乱と福音

written by Moonstone

 年末が近づいて来た11月末のある夜。高島さんから電話が来た。

「御主人。今お時間よろしいでしょうか?」
「はい。」
「御主人のご両親が、お二人との面会を求めてきました。」

 思わず絶句する。どうしてこの時期に、否、それ以前にどうやって高島さんまで辿りついたんだ?

「…どうやって高島さんの事務所の電話番号を知ったんですか?」
「奥様のご両親が、以前使った興信所の資料を基に御主人のご両親を探し当て、状況や私の事務所の電話番号を伝えたそうです。」
「そういうルートですか…。」

 結婚前の報告以来新住所も電話番号も教えず、今の家に移り住んで2年が過ぎた。2度目の結婚記念日も恙無く過ごして、年末年始をどうするか考えていたところなのに、どうして両親がコンタクトを取ろうとするんだ?仕送りの寸断はもうどうでも良い。自分達のメンツや世間体に拘って子どものやることなすことにケチを付ける親はもう要らない。それだけだ。

「現状では埒が明かないと見て、御主人の方向から揺さぶりをかけようとしているようですね。実際、御主人のご両親も、娘を傷物にした責任を取れ、強奪された財産を弁償しろ、と迫られ、真偽を確かめるために、お二人の顧問弁護士と説明された私宛に電話して来たそうです。」
「何を馬鹿なことを…。」
「まったくです。勿論、私からは2年前に正式に婚姻届を提出して夫婦になられたこと、御主人も奥様もそれぞれ堅実に仕事をされ、円満な家庭を営んでおられること、財産云々については婚姻した夫婦への干渉が発端であって、1度目の妥結の際に公正証書に基づいて私が支払わせたことを説明しました。加えて、20歳を超えた男女の合意に基づく婚姻に傷物も何もないこと、奥様の本家の財産については、発端はむしろ奥様のご両親の側にあり、弁償の必要性などないことも説明しました。」

 本当に高島さんが居てくれて良かった。恐らく俺の両親も、いきなりおしかけたりすると自分達と同じように財産を毟り取られる、とか晶子の両親から言われて、高島さんに電話したんだろう。これが俺と晶子だけだったら、相当なストレスに苛まれ続けなきゃならなかっただろう。今でも大概だが。

「奥様のご両親には、後に私から、国の重要放棄の1つである民法に則って婚姻した男女に傷物など笑止、財産云々はそちらの公正証書の条文違反に基づく司法手続きの結果であり、御主人のご両親に弁償を要求するのは脅迫であり、警察沙汰もあり得ると強く警告しておきました。警察という言葉に相当恐怖していましたね。」
「変な知恵を付けたというか…。」
「窮鼠猫を噛む、ではないですが、余程親族から責められているんでしょう。切羽詰って御主人の方から攻めることを思いついたんでしょう。どのみち、次に同じ手を使ったら公正証書の条例違反として前回同様に制裁するだけです。そのことも伝えたら狼狽して電話を切りましたから、こちらは当面大丈夫でしょう。」
「流石にまた同じことになったら、一族追放でしょうね。そういうことが出来るのかどうかは別として。」
「土地に固まっているので、農作業では非常に支障をきたす事態になるでしょう。そうなるとその土地で生きるのは致命的です。」

 田舎ほど村八分を恐れるのは、農作業に悪影響が出るからという場合が多い。農業用の機械は驚くほど高価だから、一般の農家じゃそう簡単に買えない−簡単に買えるようなら農業が後継者問題に陥ったりしない−。だから協同組合があって地域共通の資産として扱われ、組合で融通し合うようになっている。
 村八分になると、それが出来なくなる。今の農作業ですべて手作業なところはそうそうない。だから、機械が融通されないと立ち往生してしまうわけだ。あと、用水路の権利もあって、村八分になるとこれも使えなくされてしまう。農作業に水は不可欠だから、農業どころじゃなくなる。
 地域で親族が固まっていると、敵に認定された場合、あらゆる方向から生命線が断たれてしまう。それが、高島さんの言う「その土地で生きるのは致命的」状況だ。農業を辞めて別の仕事をする手もあるし、その土地から出ることも出来るが、その土地で生きるのが当たり前という価値観があるから、なかなかそうもいかない。
 翻って、親族や土地に固執しないなら、むしろ村八分感謝とばかりにとっとと出奔することも出来る。晶子は実質そうした。今も親族、特に実の両親と兄に間接的に付き纏われているが、直接の接触が即致命傷になることを高島さんが繰り返し言い聞かせているから、流石にそうはならない。

「奥様は今、いらっしゃいますか?」
「今は不在です。店の勤務が遅盤なので。」
「そうですか。何れにせよ、御主人のご両親との面会については、お二人の意志確認が出来るまで保留と回答してあります。ご相談の上、折り返しご連絡いただければ私から回答しておきます。」
「分かりました。妻が帰宅したら早速相談して、明日にでもお返事します。」
「よろしくお願いします。」

 一番ややこしいのが両親や親族関係という事態がずっと続くな…。全部すっぱり断ち切る方法があれば、そうしたいと思うくらいだ。第一、今更面会して何を求める気だ?親族に晶子を顔見せさせたいのか?今なら結婚を許すとでも言うつもりか?晶子の意向を確認する必要はあるが、全面拒否で良いな。

「−という話。」
「状況は分かりました。…まだ懲りないんですね。」

 晶子を迎えに行って帰宅。風呂に入りつつ高島さんからの電話の内容を話すと、晶子は溜息を吐く。

「私の親族からの干渉は高島さんが抑え込んでくれますから、ひとまず脇に置いて、今回の話の中心は祐司さんのご両親との面会ですね。」
「ああ。俺は全面拒否で良いと思うが、晶子はどうだ?」
「…御両親が意図しているところが何か分からないので、この場で決断し難いです。」

 意外なことに、晶子は即断を避けた。過去を思えば即お断りとなると思ったんだが。

「ご両親が、世間体を優先して私と祐司さんの結婚に反対の姿勢を取って、制裁措置として祐司さんの仕送りを停止したことを率直に詫びて、改めてお付き合いしたいというのなら応じることも考えたいです。そうでないなら、一切お断りしたいです。」
「何が目的なのか、までは聞かなかったな。そこまで頭が回らなかった。」
「それは無理のないことです。私の親族が妙な知恵を出して、祐司さんのご両親に手を回したと聞いて驚いたでしょうし。」
「今日は流石に遅いから、明日俺から高島さんに電話で、両親が何の目的で面会を求めて来たのか、聞いておく。」
「お願いします。その内容が謝罪の上での交流の申し出でなかったら、祐司さんがその場でお断りしてもらって構いません。」
「分かった。」

 意思統一は出来たから、明日の電話次第で対応を決めれば良い。両親の考え方からして、下手に出ることはまずあり得ない。こちらも高島さんに間に入ってもらって全面拒否になるだろう。仕事よりこっちの方がはるかに面倒事が多い。仕事はこなせば収入になるが、こっちはこなしても何も得られないんだよな…。

「−ということです。どうしますか?」
「全面拒否します。妻も同じ意見です。」

 翌日の昼休みに高島さんに電話。面会を求めて来た理由を高島さんから聞いて、方向性は即定まる。馬鹿馬鹿しくて考えるだけ無駄だ。

「了解しました。では、その旨ご両親に伝えます。」
「よろしくお願いします。」
「ご両親を悪く言うのは失礼だとは思いますが、揃いも揃って実子の家庭より世間体や親族への体裁を重視するのは、典型的な村社会の意識そのままですね。」
「失礼どころか、私もそう思うしかないです。」

 両親が面会を求めて来た理由は、結婚したなら親族に挨拶回りするか披露宴をするよう言うため。あまりにも下らなくて馬鹿馬鹿しい。結婚に事実上反対して、それを無視された制裁措置として仕送りを打ち切ったことは一切触れず、ああしろこうしろと未だに平然と命令する神経が知れない。
 結婚に反対するのは構わない。だが、現在の意志表示もなく、これまでの総括も反省もなく、ただ自分達のためにあれこれさせようという魂胆は、それこそ世間体や体裁でのみ動いていることの証左。話し合い以前の問題だ。聞いて損したとはまさにこのこと。

「お二人が成人してから婚姻届を提出し、堅実に働いて生計を営む正当な夫婦であること、正当な夫婦生活への干渉に対しては、お二人の顧問弁護士である私が法的措置を取ることも申し添えます。」
「ありがとうございます。こちらで取るべき対策などはあるでしょうか?」
「基本的には、奥様の事例と同じです。直接間接問わず、申し入れは全て私を通すよう伝えていただくこと。手紙などは私に転送していただくこと。強硬手段に出ようとしたら迷わず警察を呼び、私に御一報いただくこと。適用範囲の拡大と見れば良いですね。」
「分かりました。妻にも伝えます。」

 攻撃を受け流して高島さんに向かわせる生活がまだまだ続くか。それでも、高島さんが万全の弁護活動をしてくれるから、二人だけで対処するよりはずっと楽だ。敢えて良い面を探して前向きに考えるのはなかなか大変だが、そうしないと圧力に負けて「どうにもでしろ」と投げやりになってしまう。そうなると思うつぼだ。
 今の生活は俺と晶子が築き上げて営んでいるものだ。高島さんは法的に守る手助けをしてくれるが、俺と晶子の方で崩れるとどうにもしようがなくなる。何を言われようと何をされようと、この生活を守る。そのためには労力を惜しまない。その気構えと行動が大事だ。

 その日の夜、晶子に俺の両親の面会要求の理由と全面拒否の回答を伝える。晶子は落胆と安堵が入り混じった、複雑な表情で頷く。

「祐司さんと意志統一できたのは良かったですけど…、どうしてこうも干渉しようとするんでしょうか…。」
「自分達の思いどおりにならないからだろうな。何時まで経っても俺と晶子が幼児や小学生くらいの感覚で、だから親の言うことは正しくて無条件で聞くもの、って思ってるんだろう。」
「そう考えると、納得は出来ないですけど理解は出来ますね…。」
「言い換えれば、俺と晶子が何をどうしても絶対納得しない。結婚はやめろ、結婚したなら披露宴をしろ、披露宴をしたら子どもを作れ、そんな感じで要求がエンドレスに続くだけだ。」
「実際、今がそうですよね…。」

 親にとっては子どもは何時までも子どもだという。だが、その感覚で言いなりにしようとするのはおかしい。この感覚だから、どれだけ要求に応えても満足しない。目標を次々付きつけてより自分の理想に近づけようとする。それは取りも直さず、自分のため。それらは世間体や体裁というものに繋がる。
 晶子が「出来れば着たい」と言っていたウェディングドレスは着てもらったし、結婚写真も撮った。新婚旅行と銘打って京都に行ったし、最近では初めての飛行機で遠く石垣にも行った。新居で少しずつ家具を買ったりして、着実に生活できている。
 親の年代と今とでは違う部分、特に若年層にとって不利なことやしなければならないことが違い過ぎる。酒を飲んで煙草を吸って、時に博打や買春をして、それでも定時に帰れたり、企業が金を出した世代の感覚と一緒にされたら困る。だが、今の情勢を知らないから、良く言えば緩い、悪く言えばいい加減な時代と同等以上のことを求めて来る。

「話の流れからして、俺の両親も此処の住所や電話番号を知っている恐れがある。」
「!」
「むしろ、そうだと考えるのが自然だろう。」
「確かに…。」
「幸い、此処にはオートロックがある。インターホンで必ず顔を確認して、高島さんや渡辺夫妻でなければ開けないようにすれば、かなりの確率で押し入りを防げる。」

 以前の家なら玄関前で押し問答、ひいては強行突破もあり得たが、今はオートロックがある。管理規約では、公共料金の検針は全て外壁で出来ること、宅配便は必ずエントランスに出向いて受け取ること、家族や友人も必ずエントランスに出向いて中に入れることがある。そうしないと、誰かが入った時に乗じて不審者が入る恐れがある。
 この規約を順守するだけで、別の住人の来客や宅配に紛れて入られる恐れはほぼなくなる。過信は禁物だが、現に宗教や新聞の勧誘は極端に減った。オートロックの物理的・心理的な障壁は相当大きい。オートロックを無理やり突破すれば、器物損壊や不法侵入になると高島さんが言っていた。
 電話攻勢だが、これは出ないことで対処できる。会社からの電話はまずないし−緊急の呼び出しがあるタイプの職種じゃないし、そういう職場でもない−、晶子のシフト勤務は事前に決められていて、余程のことがないと臨時の出勤はない。そしてその「余程のこと」は未だにない。
 俺と晶子の連絡は携帯でしている。携帯の番号は俺の会社と渡辺夫妻、そして高島さんしか知らない。それらはすべて登録してあるから、万一付きとめられてかけられても、無視すれば良い。一応俺の両親も店を経営しているから、延々と電話をかける暇はない筈だ。

「高島さんも言ってたけど、続けている対策を適用範囲すると見れば良い。要求への対処は高島さんに任せて、俺と晶子はこの生活を守っていこう。」
「はい。この生活は私と祐司さんのものです。絶対に邪魔させません。」

 高島さんは、万一電話がかかって来たら転送して良いとも言ってくれている。晶子の言うとおり、この生活は俺と晶子のものだ。婚姻届を提出して2年を過ぎた、れっきとした夫婦だ。二人でこの生活を守り続ける。ただ、それだけだ…。

「−という内容です。予想どおりとも言えますね。」
「やっぱりそういう内容でしたか…。」

 年の瀬がひたひたと迫る12月も早中旬。俺と晶子の家の集合ポストに封書が届いた。差出人は俺の両親。もしや、と思ってそのまま高島さんに転送して、内容の確認を依頼した。3日後の昼休みに俺の携帯に連絡が来たが、こういう予想は本当に当たるもんだとつくづく思う。
 便箋3枚に渡って書かれていた内容は、要は結婚したならけじめをつけろ、そのために帰省して披露宴をしろ、というもの。3年の交際の結果が婚姻届の提出と夫婦生活の開始であり、それが2年以上続いてもけじめにはならないらしい。こちらも、披露宴がけじめとなる理屈も理解できない。
 結局のところ、自分の子どもが結婚したことを親戚に知らしめるため、或いは、否、それ以上に「常識」に従って披露宴をさせたいだけ。その披露宴の費用はどうするのか、まったく言及はない。大体、年末年始に披露宴をすると言って、来る客がどれだけ居るんだ?
 ただ、俺と晶子に○○させたい、言うことを聞かせたい、という意志ばかりが先行して、肝心のことは碌に考えていない。俺でも披露宴が百万の単位の費用がかかることくらい知っている。食事会ならその点はクリアできるが、所謂「披露宴」の体裁でないと納得しない輩は絶対いる。そういう輩をフォローするつもりはない。

「披露宴をする義務は全くありません。婚姻届の提出を以って夫婦になりますから。」
「流石に罪には問えないと思いますが、要求は全面拒否します。その旨伝えてください。」
「了解しました。奥様には御主人からお伝え願います。」
「分かりました。」

 晶子の両親と実兄の方は定期報告のみだが、相変わらず執拗な電話攻勢を続けているらしい。その上、俺の両親まで加わるんだから、高島さんも内心うんざりしているだろう。こういう案件を淡々と処理できないと弁護士は難しいんだろうか?何れにせよ、高島さんに任せるのが賢明だ。

 その夜、店が早番の晶子の出迎えを受けて夕飯を済ませる。封書の話は「食べ終わってから話す」と断ってある。食事中にこういう話題はあまり出したくない。折角の晶子の料理が楽しくなくなってしまう。食器を洗い終えて、晶子が淹れた茶を飲みながら話す。

「−ってわけ。考え方がシンクロしてるみたいだ。」
「私と祐司さんが考えて協力して何かをしても、自分達が言ってのことじゃないから満足しないでしょうね…。」
「そのとおりだな。手紙や電話はひたすら高島さんに転送することの繰り返しで行こう。これまでと同じだ。」
「それしかないですね。でも、こちらが根負けしたら付け入られるだけですし…。」

 そう、根負けした時が全ての崩壊が始まる時でもある。退屈でつまらない、何も得るものがない根競べだ。だからこそ、機械的な対策が最適なのかもしれない。感情を交えず、ただひたすら同じことを続ける。それが、この根競べに負けない唯一の方法だろう。

「…全然違う話になるけど、良いですか?」
「ああ、それは全然構わない。何だ?」
「…今度の年始に、高島さんのご自宅にお邪魔しますよね?その時、高島さんとめぐみちゃんに話したいことがあるんです。」
「…まさか…。」

 俺の中にある回答が浮上する。その回答が当たっていたら…、尚更厄介事から晶子を隔離しないといけない。高島さんにも当然話しておくべきだ。法的に守るのは高島さん、夫として守るのは俺なんだから…。

「お父さーん!お母さーん!」

 少し雲がある青空の下に、めぐみちゃんの元気な声が響く。駆け寄って来ためぐみちゃんを、膝を落とした晶子がしっかり抱きしめる。様式美となって久しい光景の後、高島さんと森崎さんが近づいて来る。

「あけましておめでとうございます。ようこそお越しくださいました。」
「あけましておめでとうございます。」
「今日も良く冷えますし、中へどうぞ。」

 夏よりまた大きくなったように見えるめぐみちゃんを、晶子が抱っこする。俺が荷物を持ち、揃って中に案内される。去年も使わせてもらった部屋に荷物を置き、リビングへ。めぐみちゃんは晶子にピッタリくっついて離れない。これも様式美だが晶子に会えた感慨に浸りきっているのがよく分かる。

「こちら、お持ちしました。」
「ご丁寧にありがとうございます。」

 まずは手土産を渡す。今日は新幹線での移動前に「フロラ・グレンデ小宮栄」で買ったショートケーキだ。森崎さんの分を含めて5個買って来た。

「あら、美味しそうなケーキですね。」
「わーっ!美味しそうー!」
「森崎さんの分もありますので、是非。」
「お気遣いありがとうございます。」

 ケーキを買う時一番悩んだのは、どれを買うか。定番や人気商品を除いて入れ替わりが激しく、季節によっても入れ替わるから、どうしても目移りしてしまう。結局、無難な線を選んで苺のショートケーキを選んだ。チョコレートやチーズは結構好き嫌いが出るから、生クリームと苺の組み合わせが一番万人受けする。
 森崎さんも高島さんに呼ばれて来室。高島さんが紅茶を淹れて全員で食す。ケーキを食べる機会はそうそう多くないし、こうして多人数で食べると結構楽しい。めぐみちゃんは、晶子の隣に座って、美味しそうに食べる。苺のショートケーキは大好物だそうで、それを晶子と一緒に食べられれば大満足だろう。
 ケーキを食べながら、主にめぐみちゃんの近況報告となる歓談。夏休みの宿題のうち、各所の温度を図る自由研究は、その後自宅近辺も同様の条件で測定した。結果、京都の自由研究のコンクールで学校代表の1つに選ばれた。そこでも佳作に選ばれ、全校集会で表彰された。
 自宅近隣を模型にする工作も、やはりコンクールの学校代表に選ばれ、こちらは銀メダル。家を数種類の色画用紙でパターン化したこと、木を色付けした綿で表現したことなどが、デザイン的にも優れていると評価された。こちらも全校集会で表彰されたが、銅メダル以上だったから表彰状の全文を読まれた。
 それらもあってか、2学期の成績も上々。良い状況を維持するのは時に良い状況にする時より難しいが、よく頑張っているのが分かる。友達とも元気に遊んでいて、勉強を教えることも増えて来た。人に教えるには自分がきちんと理解してないといけないから、より勉強に熱が入る。
 今日俺と晶子が来て2泊3日で滞在することを楽しみに、毎日勉強に遊びに頑張って来たことが話をしていても分かる。実際、日程調整を始めた12月初頭あたりから、カレンダーと睨めっこしたり、地図や雑誌を食い入るように読んだりしていたそうだ。それだけ待ち遠しかったんだろう。

「めぐみちゃんは頑張ってるね。コンクールに入賞したりすることは勿論、めぐみちゃんの努力の結果だから凄いこと。お父さんとお母さんは、毎日頑張ってこうして会う度に元気な様子を見せてくれることが嬉しいよ。」

 晶子に褒められ頭を撫でられ、めぐみちゃんは少し得意げな満面の笑みを浮かべる。めぐみちゃんが味わうのは達成感か充実感か。全部かな。この時のために頑張って来たと分かる瞬間が欲しいのは誰でも同じ。違うのはそれを酒や料理で感じるか、こうして誰かに褒められるかといった手段でしかない。
 全員がケーキを食べ終えて、森崎さんは退席。高島さんから現況の報告を受ける前に、高島さんとめぐみちゃんに知って欲しいことがある、と前置きして晶子に話してもらう。

「恐らく、今後の高島さんのご活動にも影響すると思いますので、この場でお話させてください。」
「何でしょうか?」
「…私のお腹に赤ちゃんがいることが分かりました。」

 高島さんとめぐみちゃんは驚きで目を見開く。そう、晶子が高島さんとめぐみちゃんに話したいと言ったのはこのこと。11月下旬あたりから身体の変調を感じ、産婦人科を探して12月中旬に受診−予約の関係で直ぐにとはならなかった−。結果、妊娠2カ月であることが判明した。
 まだ安定期じゃないから油断ならないし、ストレスは特に危険だと、次の受診に俺も同席して医師から聞いた。だとしたら、尚更ストレスの元凶である両方の親族の喧騒から晶子を遠ざけないといけない。だから、無償で弁護を続けてくれる高島さんと、晶子を慕うめぐみちゃんに先に話す必要があった。

「何とまあ…、正月早々おめでたいお話ですね。」
「赤ちゃんってことは、めぐみはお姉ちゃんになるんだよね?」
「そうだよ。」
「楽しみー!」
「そういう事情が出来たのでしたら、より強力な対処が必要ですね。奥様とお子様に万一のことがあってはなりません。」

 高島さんの目が俄かに鋭くなる。直感で「この人は敵にしてはならない」と感じる。

「話の性質上、この件についてはご主人に話を集約して、奥様は出来るだけ関与しない方が良いですね。」
「私も同じ意見です。」

 今後については晶子と先に話し合ってある。ストレスが大敵である以上、晶子は出来るだけ関わらず、俺が高島さんとのやり取りや偶に来る手紙の転送など、窓口業務の一切を請け負う。晶子は申し訳ないと謝罪し、俺に全権委任することを明言している。
 晶子はめぐみちゃんを連れて退室。冬休みの宿題を見てもらったりするというから、この点でも晶子が退室するのが良い。めぐみちゃんにとっては弟か妹が出来る見込みだから、その話も弾むだろう。面倒事は夫である俺が引き受ける。

「改めて、奥様のご懐妊、おめでとうございます。お伝えいただいたことで、弁護活動の方針をより明確にすることが出来ます。」

 高島さんは現況報告の後−これまでと何ら変わらないのが何とも馬鹿らしい−、新たな一手を打つことを挙げる。晶子が体調を崩したことを理由に、一切の接触を禁止する警告文を発することだ。それぞれの地元警察署と管轄の県警にも出向き、相談として実績を作っておき、警告を無視した場合は警察を動員する。

「勿論、新京市の所轄警察署と県警にも出向いて相談の実績を作っておきます。」
「証拠と外堀を固めるわけですね。」
「そうです。幸か不幸か、御主人に転送いただいた手紙の他、こちらに届いた手紙や電話の録音音声も全て保管してあります。連日の脅迫行為とするには十分です。」

 ある意味、どちらも証拠をご丁寧に送付し続けたと言える。封書には消印があるから、投函された範囲の郵便局が絞り込める。更に住所氏名もあるから、誰が投函したかわざわざ明かされている。電話の録音も日時を記録しているそうだから、そのとき電話はしていませんという言い逃れは通用しない。
 もしかすると、高島さんは敢えて晶子の親族を泳がせ、一線を踏み越えないよう警告しつつ証拠を十分蓄積させていたのかもしれない。そして、俺の両親に情報が流れて干渉攻撃に加わることも予想して、対策を講じていたのかもしれない。万全の態勢を整えて総攻撃を仕掛ける算段なんだろうか?

「今後、状況報告などはすべて御主人の携帯に行います。留守電でも構いません。これまでの対策を継続していただければ十分です。」
「妻が妊娠していることは伝えないんですね?」
「勿論です。伝えるとかえって干渉を激化させると考えた方が良いくらいです。連日の干渉によって体調を崩したとだけ伝えます。」
「分かりました。よろしくお願いします。」
「お任せください。奥様とお子様に万一のことがあっては、めぐみにも顔向けできません。」

 法的には高島さん、それ以外では俺が晶子を守る。特に晶子は念願叶ってついに子どもを宿した。それを万が一台無しにするようなことをされたら、正直殺してやりたい。そうさせないためには、より強い態度で臨むことと、何より根負けしないことだ。

「−そう。それで良い。」
「ようやく分かった。お父さんとお母さんの説明は分かりやすい。」
「なかなか難しい問題もあるな。応用問題とはあるが。」
「応用問題は出来なくても良いけど、中学校を受ける子はやってみるように、って言われてる。」
「中学受験対策か。」

 高島さんとの打ち合わせが終わり、めぐみちゃんの部屋で宿題を見てやった。俺は算数と理科。教えたところは応用問題と銘打たれた難しい問題だけ。それ以外は全てめぐみちゃんが解いていた。ざっと見た限りでは全て合っていたようだ。通知表の結果を反映している。
 めぐみちゃんに中学受験をすることを考えているのか聞くと、出来るようにしておきたいという答えが返ってくる。高島さんから「自分が出来ることを広げておくのは良い」と言われているからだそうだ。学校を選んで行きたいと思う方を選べるなら、選べる手段を使えるようにするのが良い。
 俺も晶子も中学までは学区の学校に行くことがほぼ自動的に決まった。中学受験をするには遠くの私立しかなかったし、基本的に公立優位の地域性だから、「高い金を出してまで私立に行く必要はない」という考えが強いのもある。新京市で新京大学の付属小中学校があるのを知って驚いたくらいだ。
 京都の学校事情は知らないが、大学が多いから特に私立大学系で付属中学も多いだろう。そうなると、中学受験をして大学まで楽に進学したり、より上位・難関の大学を狙うことも選択肢になり得る。ネックは学費だが、これだけの事務所兼自宅を持つ高島さんならその点は問題ないだろう。

「お友達と相談するのが良いわね。めぐみちゃん1人で中学に行くことになるかもしれないから。」
「うん。まだ中学のことは考えてないけど、友達とも話して考える。」

 公立はその学区に含まれる小学校からの生徒が来る。入試がないからあらゆる生徒がいる。義務教育だから素行が悪くても退学にはならない。私立は入試と学費という障壁があるから、それを突破できないと自動的に門前払いになる。
 私立は私立で問題がある。入試と学費のハードルがあるが、それを突破すればどんな輩でも入学できる。学費のハードルは逆に「金に物を言わせる」タイプの親を持つ子どもには好都合な面もある。金に物を言わせて素行の悪さを隠蔽・もみ消すことも可能だ。
 私立は学費の他、寄付金をはじめ色々な名目で集金がある。学費以外は大抵一口幾らという単位だから、その金額をどれだけ上積みできるかで生徒間に序列が出来やすい。学校内での序列はいじめに繋がる。更に金で隠蔽されたり訴えや公表を圧殺される恐れもある。
 だから私立が良いとは一律には言えない。それに新京市や小宮栄もそうだが、公立優位の地域だと、私立は素行が悪いか成績が低いかで公立に行けない、あるいは公立に落ちた生徒が滑り止めで行くという認識。地域性や学校の序列があるから、その地域で考えるのが無難だ。

「宿題はこれで全部?」
「うん。他は全部自分でやった。」
「偉い偉い。きちんと計画立てて出来てるな。」

 俺が褒めて頭を撫でると、やっぱりめぐみちゃんは少し得意気で満足感あふれる笑顔を浮かべる。俺がこうすることはあまりない。めぐみちゃんに接する機会は晶子の方が多いからだが、今後のことも考えてもっと積極的に褒めたりするようにした方が良いか。
 夏休みや冬休みの宿題は、自宅という学校とは異なる、終始リラックスできて基本的に何の制限もない環境下で計、画的に物事を遂行できるようにする面もあるように思う。この点でもめぐみちゃんは十分合格点だ。たっぷり宿題が残っていたら、俺と晶子が来ても遊ぶどころじゃないという危機感もあるんだろう。

「宿題が全部終わったなら、あとは遊べるね。」
「うん。でも、お母さんのお腹に赤ちゃんがいるから、あまり人が多いところとかは行かない方が良いよね。」
「え?そういうこと、誰に教えてもらったの?」
「おばあちゃんが前から言ってた。お母さんのお腹に赤ちゃんが居るようになったら、人の多いところには出かけない方が良い、って。風邪ひいたり転んだりすると大変なことになるから、って。」

 晶子の妊娠のことを話すのは、渡辺夫妻以外では今日が初めて。まだ安定期じゃないのと、何処からか漏れて俺や晶子の親族に伝わるリスクを避けるためだ。高島さんは、将来的な事態に備えて、めぐみちゃんに言い聞かせていたようだ。嫌気が差すような要求に日々対処しながらこういう目配りが出来るのは凄いことだ。

「家でも遊べることはあるから良い。それより、お母さんが赤ちゃんを産んで、めぐみに弟か妹が出来る方が良い。」
「ありがと。めぐみちゃんは優しいね。きっと良いお姉ちゃんになれるよ。」

 晶子が再びめぐみちゃんの頭を撫でる。めぐみちゃんの少し得意気で嬉しそうな笑顔は凄く純粋で輝いて見える。子どもが出来たと知られれば、高島さんも予想するとおり、より干渉が激化するのは目に見えている。どうしてどちらの親族も素直に期待したり喜んだりできないんだろうか?
 それは、取りも直さず、「子どものため」とか言いながら結局は自分のためでしかないからだろう。自分が気に入る息子或いは娘の結婚相手でないと認めない。どうしても結婚するなら披露宴をする。子どもは1人は男。1人より2人3人。そんな要求はただ自分のために子どもを動かしたいだけだ。

「お父さんが来る前にお母さんとお話してたんだけど、赤ちゃんが男の子か女の子かはまだ分からないんだよね。」
「ああ。まだ凄く小さいから、お医者さんが見ても分からないんだ。」

 俺も同席した検診で、性別が分かるか聞いたところ、2カ月の段階では分からないとの回答だった。まだ凄く小さいし、現在は臨月に近づいて明らかに判別できるようになるまで、医師も性別の判定はしないようにしているそうだ。
 理由は簡単。間違えていた時が大変だから。ベビー用品でも男の子用と女の子用では異なる。たとえば男の子と判定されていそいそとベビー用品を買い揃えて、いざ産んだら女の子だった、ということになると当然買い揃えたベビー用品は無駄になる。医師の責任も追及される恐れもある。
 モンスターペイシェント、俺に言わせれば馬鹿患者の無法ぶりは、時に地域医療を崩壊に追い込む。特に、産科はリスクが高い。福島県では、非常に難しい手術を急に求められて−しかも設備の整った大学病院への転院や子宮摘出を固辞する有様−、それが残念ながら失敗したら、執刀医の妻の出産を待って患者側が執刀医を警察に告発して逮捕させ、墓の前で土下座させるという事件もあった。
 その告発はあまりにも出鱈目なもので、結局執刀医は無罪になって復職したが、その間約2年を要した。どうにもリスクが高い症例に対する医療行為の結果次第で犯罪として立件されてはかなわない。医学会も「無茶なことを言うな」と批判するのも当然だし、その後の産科経営に重大な悪影響を与えた。
 患者側の出鱈目な告発を受理した検察の責任も重大だが、無茶な要求を続けた挙句に全て叶えられなかったら医師を告発して逮捕させ、更に墓の前で土下座させるなど暴挙を続けた患者遺族側の責任は計り知れない。患者なら、遺族なら何をしても良いという考えがまかり通るようになったら、医師はやっていけない。
 そういう背景もさることながら、ベビー用品は臨月近くになってからでも十分買い揃えられる。今の時代、量販店に行けば品切れはあるかもしれないが、余程変なこだわりを持たなければ入手不可能ということはない。性別が誰の目にも明らかになってからでも遅くはない。

「お母さんのお腹が大きくなる頃には、男の子か女の子かが分かるかな?」
「そのくらいかな。だからあと…半年くらいはかかる。」
「そっかぁ。楽しみだなー。」

 俺と晶子の子どもはめぐみちゃんとは血縁はないが、めぐみちゃんの弟か妹になると言って良い。一人っ子のめぐみちゃんには初めて自分より年下の存在が身近に出来る。めぐみちゃんが次に俺と晶子に会うまでの目標がまた1つ増えたかもしれない。
 その分、俺の役割がより重要になる。晶子をストレスの元凶である双方の親族からの干渉から隔離した以上、俺が防波堤として機能し続ける必要がある。初めての子どもで不安が多いが、それ以上に常時腹にもう1つの命を抱える晶子の方が不安でならないのは明らか。晶子を守ることは子どもを守ることでもある。
 子どもが生まれるまでに色々することがある。今の家に住み続けるのは全く問題ないことは確認した。他には今後の検診や頻繁かつ大量になると思われる買い物に対応するため、いよいよ車を購入すべきかとか、晶子が出産に備えて入院することに備えて、俺の家事の比率を増やすとか、激変するであろう生活環境への対処が求められる。
 高島さんからは、さっきまでの打ち合わせで、そういった相談にも全面協力することの確約を得ている。現役の弁護士が細かい生活相談に随時対応してくれることは、顧問弁護士を抱える金持ちでもない限りまずあり得ない。怪我の功名かどうかは微妙だが、この好条件を上手く利用しない手はない。
 子どもが産まれたら、産んだら終わりじゃないことは、めぐみちゃんの一件で痛いほど分かったつもりだ。それを教訓として活かすことが、高島さんの全面協力を得るまでに結び付けてくれためぐみちゃんへの恩返しでもある。新たな家族を何としても迎えたい。そのためには…何でもする。
 高島さんの自宅での夕食は鍋。温まるし色々な食材が食べられるから、この時期の定番メニューだ。妊娠中故、刺激物を避けている−元々あまり好む方じゃない−晶子も安心して食べられる。1人だけ別メニューだとどうしても疎外感が出るし、それは避けたいところだ。

「奥様は、悪阻(つわり)などどうですか?」
「幸い、食事に支障が出るようなものではないです。日によって多少気分が悪いことはありますが。」
「まだ初期なこともあるでしょうが、日常生活にさし障りないようで何よりです。」
「ご心配ありがとうございます。」

 妊娠につきものなのが悪阻。酷いと殆ど食べ物を受け付けられないとか、見るだけでも吐き気がするほどだと言うが、今のところ晶子はごく普通に飲食できる。アルコールは元々飲む機会が殆どないし、激辛タイプの食事も苦手。カフェインが多い紅茶を控えるようになったことの方が、晶子には厳しいだろう。
 「紅茶が駄目ならミルクがある」と、最近は牛乳の他、豆乳やヨーグルトなど乳製品を愛用している。俺だけ紅茶を飲むのは気が引けるから付き合っている。概ね問題ないが、豆乳はいまいち。飲めないわけじゃないが、何と言うか…微妙な味。晶子は砂糖を入れたりして楽しんでいるようだが。

「お母さん。悪阻って何?」
「お腹に赤ちゃんが出来た女の人が、食べたりすると気分が悪くなることを言うのよ。」
「今のお母さんは、今までと同じように食べてるね。」
「悪阻も、人によって差があるの。お母さんはかなり軽い方だから、こうして一緒に食べられるんだよ。」
「そっかぁ。大変なんだね。」

 周囲に妊娠・出産の経験者が居ないから、情報は限られている。だが、こういう場合情報はかえって少ない方が良いのかもしれない。たくさんある情報を適切に処理して取捨選択するのは難しい。むしろその情報に振り回されたり、耳心地の良い情報だけ受け入れておかしな方向に走ったりする方が多い。
 だから、親族が不安に付け込んで自分の思いどおりに進めようとするのかもしれない。不安な時に一時的にでも救われたと思うと、その方向や人物を盲信しやすくなる。新興宗教や悪徳商法はそのツボを心得ているが、親族でも悪い方向に鼻が利くタイプは、そういう場面を狙っている。
 体調が悪ければ無理をせず、定期健診を受ける。緊急時にはタクシーを招集してでもかかりつけの病院に走る。嗜好品や刺激物を避けて、色々な食品をバランス良く食す。健康的な生活や重症にならないための予防策は、妊娠時じゃなくても通用する。それは晶子が今まで進めて来たことだ。
 何よりもストレスが非常に害悪だ。両方の親族からの干渉は勿論だが、ああした方が良い、こうしてはいけないという妊娠・出産に纏わる雑多な情報が、ストレスにすらなる。健康的な生活を心がけるが、無理はしない。それで十分じゃないかと思えてならない。

「お父さんのお弁当はどうしてるの?」
「お父さんのお仕事がお休みになるまで、今までどおり作ってたよ。」
「お母さんはお仕事もまだ休んでないんだよね?凄く働き者だね。」
「働ける限りは働くよ。お父さんとの約束だからね。」

 妊娠初期である今もそうだが、出産まで油断ならない状況が続く。具合が悪い時は迷わず休むように、とは俺は勿論、妊娠を報告した渡辺夫妻も言っている。晶子はそうすると言う一方で、働ける限りは働くと明言している。それは依存してやがてそれを当然とする女帝にならないための自戒だ。
 かつての高度成長期からバブル時代の悪習そのままに、夫の収入を専業主婦の妻が管理することを当然とする向きがある。それだけでもおかしなことだが−男女平等の手本だと殊更男性を貶す材料にする欧米ではあり得ない話−、それをさせない夫を経済DVだと犯罪扱いする向きさえ出て来ている。
 生活費を渡さないとか借金してでもギャンブルや趣味に注ぎ込むなら話は別だが、夫の収入を妻が管理できないのが経済DVとする理屈は、あまりにも女都合で作られた犯罪の認識だ。痴漢もセクハラも、本来の犯罪行為より、女都合で作られる犯罪の方が多いんじゃないかという疑惑さえ抱いている。
 晶子が完全に休業すれば収入は俺の分だけになるが、今でも家族手当があるし、配偶者控除も加わるとそれほど大きな減収にはならないらしい。そもそも2年目としてはかなり潤沢な給与水準だから、晶子に加えて子ども1人を扶養するには、贅沢三昧でもしない限りは問題ない。
 昨今のあまりに女都合の社会情勢に毒されないよう、夫の収入を自分が管理することが当然とする意識にならないよう、働ける限りは働く。晶子はそう明言し、今も働いている。幸い、シフトはある程度融通が利くし、高水準のバイト代を稼ぎたい他のスタッフも土日祝日あたりでなければシフトの代行を歓迎する様子だ。

「非常に微妙な時期ですから、くれぐれもご無理なさらないでください。」
「はい。夫と勤務先のオーナー夫妻からも、体調に不安が生じたら迷わず休むようにと言われています。」
「大事になさってください。奥様はもう自分1人の身体ではありませんから。」
「仰るとおりです。十分留意します。」

 安定期に入るまで二月、出産まであと半月ほど、晶子は自分以外にもう1つ命を抱える。その命は周囲からの攻撃や圧力に自分で抗することが一切出来ない。無防備の子どもの命を守って無事迎えるには、やっぱり俺が夫として、そして父親として出来ることを全てするしかない。
 恐らく…、晶子が無事出産したらしたで干渉が止むとは思えない。性別をどうにかして知ろうとするだろうし、男の子だったら跡取り、女の子だったら何処其処の嫁、と決めつけて新たな干渉を仕掛けて来る。どちらも大した家柄でもないのに、何故か跡取りだの嫁要因だのそういうことに御執心だ。
 家柄が大したことないから、逆にそれらに拘るのかもしれない。どちらにせよ、結局は自分のため。子どもも孫も自分のアクセサリーであり、ステータスでしかない。馬鹿げた考え方だし、自分達が若い頃には様々な常識や世間体を批判や否定してきた世代なのに、今やその常識や世間体を率先して実践している。
 この手の議論をしても絶対に無駄。何故ならあの世代は特に自分達が絶対正しいと信じて疑わない。そうして若い時代にアナーキズム的なことを散々して、数が多かったもんだからそれが押しとおせた。その時の感覚のまま、今は年長者としての立場を駆使して来る。ゴミクズのような世代と罵られても仕方ない。
 子どもが産まれても、性別は勿論、産まれたことも伝えない。直接接触して来るなら問答無用で警察を呼ぶ。その下準備は高島さんが整えてくれる。干渉で生じる雑音から晶子をシャットアウトして、お腹が少しずつ大きくなっていき、やがて子どもがお目見えするのを心待ちにしよう。
 翌朝。晶子とめぐみちゃんに起こされて外を見ると、一面真っ白。それも結構積もっている。道理で廊下が何となく底冷えしたわけだ。

「雪だ。雪だ。」
「かなり積もってるね。めぐみちゃんは雪が好き?」
「冷たくて雪遊びが出来るから好き。」
「朝起きて雪景色を見るのは新鮮だな。」
「お父さんとお母さんは、あまり雪が降るところを見ないの?」
「お父さんとお母さんの家は、殆ど雪が降らない場所にあるんだ。勿論、寒さはしっかりあるけど。」

 新京市に住んで5年が過ぎるが、積雪は片手で数えるほどしかない。何れも朝方数センチ積もって昼頃には消えるものだったが、それでも電車やバスは遅れるし、幹線道路は渋滞更には事故、とすったもんだしていた。雪が降らない地域だから、少しでも雪が降ると大混乱に陥る。

「天気予報では昨日の深夜から降り始めると言っていましたが、最近の天気予報はよく当たるようになりました。」
「京都はよく雪が降るんですか?」
「盆地特有の強い冷え込みはありますが、大規模な積雪に繋がることはそれほど多くありませんよ。金閣寺などの雪景色は積雪時の代名詞的に映されるので、そう感じるかもしれません。」
「新京市のように、1センチ程度の積雪で交通機関がマヒすることはなさそうですね。」
「流石に10センチとかになると大変ですが、雪自体は珍しいものではないので、それなりの対策は出来ますね。」

 豪雪地帯と言われる地域からすると、雪化粧程度の積雪で交通機関が大混乱する新京市や小宮栄は失笑ものだろう。窓から見える雪は、見たところ2,3センチは確実に積もっている。新京市や小宮栄なら一部の交通機関は運休。高速道路は通行止めも出るくらいだ。
 久しぶりに見る雪に驚いた後、朝食。ご飯中心のごく一般的なもの。森崎さんも加わって5人になった食卓は自ずと賑やかになる。めぐみちゃんは雪が積もったことでテンションが上昇しているらしく、食べ終えたら外に出たいようだ。そこそこ早く寝たのもあるが、疲れた様子もなくすこぶる元気だ。

「お母さんも、雪だるまを作るくらいなら外に出ても良いでしょ?」
「雪だるまかぁ。食べ終わったら一緒に作ろっか。」
「うん!」
「相当冷えますから、防寒は念入りになさってください。」
「はい。出る前に着こんでおきます。」

 全館空調が利く高島さんの家でも廊下とかはそこそこ冷える。恐らく外の冷え込みは相当なもんだろう。風邪をはじめとする病気は妊婦にとって深刻な敵。何しろ服薬が非常に難しい。健康な大人には問題ない量でも、お腹の子どもには強烈過ぎる。同じ薬でも大人と子どもで服薬の量が違うことを考えれば当然ではある。
 事前にこの2泊3日は冷え込むと聞いて、厚手の肌着を買ったりする対策をしてきた。新京市ではまず使わないカイロも複数。晶子には寒いと思ったら躊躇わずに使うよう言ってある。カイロは使ったら買えば良いし、1日2日で何十個も消費するもんじゃない。何より子どもの安全には代えられない。

 朝食を終えて、めぐみちゃんに引っ張られるように外に出る。京都の冬をこれでもかと感じさせる冷え込みだ。風がないだけましか。雪は今も静かに降り続けている。晶子はタイツにカイロを加えて万全と思われる防寒体制。俺も似たような感じ。こういう時は格好を気にする方が負けだ。どのみち肌着は見えないんだし。
 かなりの広さがある庭は一面の雪。これまで庭で遊んだことはなかったが、万一のことを考えると此処が最適。めぐみちゃんは俺と晶子とで雪遊びが出来れば場所は拘らないようで、早速雪だるまを作り始めている。手袋や毛糸の帽子は着用しているが、寒さを感じさせない。

「このくらいの雪だと、両手で抱えられるくらいの大きさが良いかな。」
「うん。小さいのを幾つも作って並べる。」
「じゃあ、お母さんも手伝うね。頭と体のどっちを作る?」
「お母さんは身体を作って。」
「はい。」

 晶子は屈んで小さい雪のボールを作り、そこから雪だるまの身体を作っていく。雪を球状に固めれば良いと思うが、意外と作るのはコツがいる。ボールが上手く転がらなかったり、雪の付き方が偏ってしまっていびつになったりする。ゆっくり雪の上にボールを転がして身体を形作っていく。
 バレーボールくらいの大きさになった雪だるまの身体を、晶子がリビングに面した庭の石段に置く。そこに、めぐみちゃんが雪だるまの頭を置く。少し頭が大きめだが、それが愛嬌になって良い。庭に静かに佇む小さな雪だるまは、何の装飾もない状態でも思ったより風情を感じさせる。

「これでも可愛いけど、折角だから目や口を入れたいね。」
「小石でも良い?」
「それは何でも良いよ。」

 めぐみちゃんは雪が少なくなったところを探って、小石を持って来る。雪の下は大きめの砂利が敷き詰められているんだったか。大きさは結構揃ってるから、目の大きさが片方極端に大きいとかなることもない。色が白っぽいがどうするかだが、道具があれば使えば良い。

「マジックがあれば、それで黒く塗ると良いな。」
「マジックあるから、持って来る。」

 めぐみちゃんは早速行動に移す。少しして黒のマジックを持って戻ってくる。拾った小石を半分だけマジックで黒く塗り、雪だるまの目と口にする。口は1個だと少し長さが足りないと見たのか、3個並べる。つぶらな瞳でニッコリ微笑む雪だるまは何とも愛らしい。

「出来た出来た!」
「可愛いねー。」
「お父さん。これより少し大きい雪だるま作りたい。」
「分かった。」

 何となく、めぐみちゃんの意図するところが分かった気がする。俺が小さい雪のボールを核に、1つ目の雪だるまより少し大きめの雪だるまの身体を作り、めぐみちゃんが頭を作る。1つ目の雪だるまの向かって左側に置き、めぐみちゃんが目と口を入れる。
 続いて、今度はめぐみちゃん一人で雪だるまを作る。1つ目の雪だるまの半分ほどの小さいものが、向かって右端に並ぶ。晶子も意図を察したらしく、庭で雪のボールを転がすめぐみちゃんを温かい眼差しで見つめる。めぐみちゃんは更にもう1つ、掌に載るくらい小さい雪だるまを作って、真ん中の雪だるまの前に置く。

「お父さんとお母さんとめぐみ。それにお母さんのお腹にいる赤ちゃん。」
「勢ぞろいだな。」
「めぐみちゃん、ありがとう。赤ちゃんも喜んでるよ。」
「赤ちゃんが産まれたら、こんなふうに写真撮りたい。」
「それは良いな。それなら、この雪だるまも写真に撮っておこう。」
「良いですね。」

 俺は一旦屋内に入り、宛がわれた部屋の荷物からデジカメを取り出し、庭に戻る。そして4つの雪だるまの写真を何枚か撮る。正面から出来るだけ画面を占拠するように撮ったものが一番良いかな。めぐみちゃんの気遣いと希望から生まれた冬の置物が、不思議と命を持って佇んでいるように見える。
 雪だるまは何れ溶けてしまうが、写真に残しておけばこの瞬間の雪だるまが残り続ける。そしてそれを見るたび、今の感動が思い出として蘇る。俺と晶子の家に飾られた写真は、それぞれの瞬間に撮られた記憶が共に凝縮され、見るたびにその瞬間の思い出が蘇るアルバムだ。
 夏に水族館に行った時に高島さんに撮ってもらった3人の写真が加わって久しい。…そうだ。この雪だるまを少し前にずらして、3人の写真を高島さんか森崎さんに撮ってもらおう。俺がその考えを言うと、晶子とめぐみちゃんは諸手を挙げて賛成。めぐみちゃんが高島さんを呼びに行く。

「この子は幸せですね。」

 晶子は、自分の腹を撫でる。まだ膨らみが分からない腹には、晶子には確かに命の存在を感じられるんだろう。

「色々な人に産まれるのを心待ちにされて…。そんな子どもを産める私も凄く幸せです。」
「それだけ出産を楽しみに出来る妻を持つ俺も、幸せだ。」

 俺が妊娠を知らされてからも、晶子の生活や態度は変わらない。俺の弁当を作ってシフトに沿って働きに行き、料理や掃除もしている。家でちょっと眠いと思った時は昼寝をするそうだが、それは全然構わない。妊婦だから周囲が姫のように扱って当然という態度は決して取らないだけでも、出来た妻だ。
 明らかに妊娠前後で変わったことは1つある。腹を撫でることが半ば癖のようになったこと。食後や読書、風呂や寝る時、ほぼ必ず腹を撫でる。晶子が言うには「お腹に確かに自分とは違う命の存在を感じる」という。これは男には恐らく絶対分からない感覚だろう。
 そしてその存在は、少しずつだが着実に大きくなっているのが分かると言う。まだ性別も分からないし名前も決めていない−考えてはいる−子どもの成長を慈しんでいる。「私だけが出来ることを出来ている幸せを噛み締めている」という晶子の横顔は、妊娠や出産への億劫さなどネガティブな思考がない。
 めぐみちゃんが高島さんを連れて来る。高島さんに改めて事情を説明し、快諾を得て雪だるまを少し移動させてその後ろに並んでしゃがむ。2回撮ってもらって確認。雪だるまと同じ並びの良い写真が撮れた。これも新たに写真立てのアルバムに加わることになる。
 恐らく何処に連れて行ってもらおうかと計画を立てていたであろうめぐみちゃんには、ちょっと我慢を求めることになった。だが、めぐみちゃんは少なくとも通らない要求を執拗に繰り返すだけの両方の親族よりずっと大人だ。大人の方がむしろ子どもより駄目な部分が多いのかもしれない。
 俺との子どもを育む晶子が、半年後に向かえるであろう出産の時を安心して迎えられるように、晶子の腹の中でこの世に出る機会を待っている子どもが、半年後に俺と晶子の腕に抱かれるように、俺はまさに正念場だ。雪だるまに願いを込めためぐみちゃんに応えるためにも、負けられない…。
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