雨上がりの午後

Chapter 336 親族の逆襲と自滅

written by Moonstone

 12月に入った。年末はどうしても慌ただしくなる。俺はOJTの一環として開発の一部を任され、時折共通の講習を受けつつどうにか進めている。ファンクションジェネレータの中枢と言えるDDS(註:Direct Digital Synthesizerの略。ディジタル式の発振素子で近年の発振器は大抵これを使用している)制御回路だが、大学で愚直に勉強しておいて良かったと心底思う。
 年末年始は、正月あたりにめぐみちゃんに会いに行く計画を立てている以外に特別な予定はない。少し前に高島さんに打診したところ、是非という返事だった。年末年始は俺は会社全体の休暇があるし、晶子も働く店が休みになる。可能なら2泊くらいして、めぐみちゃんを何処かに連れて行くのも良いかと考えている。
 何時ものように電車に揺られて帰宅。冬場の電車は服の厚みが増すから電車の混雑が何割か増すように感じる。マンションのエントランスを通って玄関に向かう。

「ただいま。」
「おかえりなさい。」

 晶子の出迎えを受ける。これだけで1日の疲れが消えていく気がする。晶子が休みの日はこの出迎えがある。店が定休日の月曜+それ以外の曜日という変則的な休日だが、そのため得られるこの瞬間と癒しがある。

「今日、高島さんから電話がありました。元旦でも全く構わないし、寝泊りする部屋も用意します、と。」
「部屋も用意してくれるのか。」
「滞在日数によらず、ホテルと高島さんの御宅を行き来するのは大変だろう、と。」
「後は日程を決めれば良いな。」

 往復は新幹線と在来線を使うことが確定している−それ以外に選択肢はない−。宿が決まればそこからの道のりや行動を決められる。今回は高島さんの自宅を拠点にして行動するのが、めぐみちゃんと遊んだりするにも都合が良さそうだ。

「あと…、高島さんから別の要件を伝えられました。」
「何だ?」
「…私の親族の本家が、正月に来るように伝えて欲しい、と申し出て来たそうです。」

 それほど驚きはない。「そう来たか」という感じだ。晶子の出身地、すなわち晶子の親族が集中している地域は、盆暮れ正月に親族が集合するのが決まりみたいなもんだろう。それ自体は俺の両親の親族も似たようなもんだし、さほど珍しくはない。
 問題は、それをほんの2カ月ほど前まで干渉していた俺と晶子にさも当然のことのように迫って来たことだ。300万払わされて次からは即金で600万、と公正証書にもなったことで、流石に直接の接触はしなかったようだが、「来るように」という表現からして、全く懲りてないことが分かる。

「勿論、そのつもりは一切ないと回答していただくよう、高島さんにはお願いしました。まだ…自分の言うことを聞くと思っているんでしょうね…。」
「考え方はそう簡単に変えられないからな。ましてや、その考えに間違いはないと信じて疑わない状態だと、変えようとも思わないし、変えることは敗北や屈辱だと思うんだろうな。」
「そう…なんでしょうね…。」
「高島さんの自宅に行く日程とは別に、早めに京都入りするのも良いな。年末年始に痺れを切らして来襲する恐れもある。」

 今考えられる最も面倒なパターンはこれだ。顧問弁護士である高島さんを介して伝えたのに一蹴されたとなれば、本家のメンツは丸潰れ。怒りに我と公正証書を忘れて突撃して来る確率は十分ある。そうなると、早めに京都入りするだけじゃ足りないな…。

「明日、管理会社に電話して、親族を名乗った依頼にも鍵を貸さないよう依頼しておこう。」
「あ…、電話にも出ないから事故とかに巻き込まれたんじゃないか、と心配するふりをして中に入ろうとする、という。」
「そう。興信所に依頼して俺と晶子の周囲を嗅ぎまわっていたから、住所は当然知ってるし、それくらい考え付くだろう。」

 先回りして相手の出方を封じておくのが、今出来る最大の防衛策だ。幸い時間はある。管理会社への依頼と併せて、高島さんを介してもう1回釘を刺しておくのも有効だろう。なかなか面倒だが、投げやりになったらそこを突かれる。冷静に、徹底的に対決するしかない。

「高島さんからの伝言は他にはないか?」
「はい。」
「じゃあ、早速管理会社に依頼しておくか。」
「晩御飯を出しますね。」

 俺は携帯で管理会社に依頼、晶子は夕飯の準備。こうして分担して同時進行させることも2人なら出来ることだ。その条件を生かして2人の生活を護る。そのために出来ることをして、協力が得られるなら受ける。この戦いは…恐らくどちらかが屈服するか死ぬかするまで終わることはない。残念だが、親族とのトラブルが骨肉の争いになるのは古今東西変わらない。
 恐らく、今回の要求−口調からして申し出とは言えない−は、これだけでは終わらないだろう。まさしく本家のメンツがかかっているからだ。どうしようもないメンツだが、当人にとっては命にも等しいもの。それを潰されたら「残念」で終わらせる筈がない。…もう、潰すくらいのことをしないと駄目かもな。
 翌日。土曜日だから俺は休み。晶子は早番で出勤。俺は晶子が用意してくれた昼飯を食べつつ、今後のことを考える。管理会社への依頼は簡単に了承された。元々親族であることを理由に居住者の家庭に干渉したり、何らかの理由で強制送還しようとする親族は珍しくなく、その理由は親族が居住者の家族や家庭環境を気に入らなかったり、それが原因になって疎遠になったところを強引に接近したりするものも多いそうだ。
 管理会社が不動産業者を介して賃貸契約をしているのは居住者。その居住者が明らかに賃貸契約違反−例えば近隣の迷惑になる騒音をまき散らしたり、ゴミをため込んで異臭を放ったり、ペット負荷の物件でペットを飼っていたりしなければ、管理会社は一方的に契約を破棄できないし、居住者の鍵を無断で第3者に貸与することも出来ない。
 だから、居住者からの申し出があれば、居住者の鍵を親族にも貸与しないことは十分可能であり、それは管理会社がデータベースに登録することで完了するそうだ。このあたり、管理会社があって基本的な建物の管理がなされる賃貸住宅の強みかもしれない。
 高島さんからは昼飯の直前に電話があった。晶子の依頼どおり、一切接触の要求に応じるつもりはないことと共に、公正証書は今も当然有効であり、いかなる理由があろうと直接接触すれば即金で600万払わされることになる条件を忘れないように、と釘を刺してくれたそうだ。
 だが、俺が驚いたのはそこからだ。晶子の本家当主−晶子の伯父は、公正証書は本家の召集の前には無効であり、召集に応じるのは分家の娘として当然のことと主張したそうだ。高島さんは公正証書は偏狭な地域や親族のルールを凌駕する国の法律に基づく証明書であること、公正証書の条項に違反すれば国の機関である裁判所が強制執行するものだ、と説明した。
 晶子の伯父はそんな証書は違反だ、と抵抗したので、無効を主張するなら弁護士を立てて提訴しろ、もっとも提訴したところで勝てる見込みはかけらもないし、どう転んでも負ける訴訟に応じる弁護士は居ない、と警告した。公正証書がどうして公証役場という公的な場所で原則当人が同席して作成されるか考えろ、とも付け加えた。
 前のように暇を持て余す晶子の実兄−家業手伝いとなっているが実質アルバイトのようなものらしい−などを派遣して接触したら、その時点で公正証書の条項違反であること、その時点で前の300万の倍、600万を即金で支払わせること、拒否しても裁判所が強制的に支払わせること、それが公正証書というものだ。高島さんはそう警告した。
 分家の娘が何を、と言ったところで、本家分家の区別は法的には完全に無効であること、ましてやそれを盾に独立した健全な家庭に干渉することは、公正証書を出すまでもなく不法侵入や脅迫、場合によっては逮捕監禁など刑事犯罪であること、そうなれば警察沙汰は当然であり、全国に名が知れることになる、と高島さんは強く警告した。
 高島さんに言われて晶子の伯父はぶつくさ言いながら電話を切ったそうだ。とても理解や納得はしてないことくらい、伝え聞いた俺でも分かる。何となくまたひと悶着ありそうな気がする。高島さんはもし事態が勃発すれば、公正証書を武器に場合によっては相手から身ぐるみ剥ぐことも視野に入れて行動するそうだ。
 前回、1府2県にまたがる弁護団を結成して晶子の本家に強烈な圧力を加えて、圧倒的に俺と晶子に優位な公正証書を作成した高島さんなら安心だが、身ぐるみ剥ぐことも辞さないとは強気な姿勢だ。無論、誇張ではないだろう。公正証書には間違いなく倍額の即金支払い条項があるし、それ以上の賠償金を払わせることもあり得るということだ。
 前回の公正証書作成時に、高島さんは晶子の本家の不動産価格を査定依頼した。結果、詳しい額は教えてもらっていないが、何度も賠償金を支払えるほどの不動産的価値はないという。普通、何百万という金額をポンポン出せる家庭はそう多くない。場所や物件にもよるが、2回3回とか払うと家が1件建てられる額になって来る。
 そんな金額をやすやすと支払いたくないと思うのは、むしろ普通の感覚。更に本家から見れば格下の分家、しかも更に格下の存在である娘相手に大金を払わされるのは、向こうの感覚からすれば納得しようがないだろう。だが、強制的に払わせる手段がこちらにはある。それが公正証書の威力だ。
 手続きなどは一切合財高島さんがしてくれるそうだが、公正証書に賠償金支払い条項がある以上、条項を満たす条件や証拠と共に裁判所に申し立てすれば強制執行と相成るらしい。強制執行は妨害するとその名のとおり強制執行妨害罪という犯罪になる。しかも、裁判所の執行官が実行するから嫌でも人目につく。世間体を殊更重視する人間には余計に恐怖だ。
 しかも、土地信仰と言われる日本人の所有地に対する並々ならぬ執着心が強い地域や人間にとって、強制執行でその土地を剥奪される精神的なダメージは計り知れない。ましてやそれが本家となれば、もうその地域で暮らすことは出来ないと言える。だから公正証書の作成前に晶子の本家の不動産価値を調べさせた、と高島さんは言った。
 つまり、高島さんは公正証書作成で完全決着するとはまったく思っておらず、俺と晶子に再び攻撃を仕掛けて来たところで完膚なきまでに叩き潰す下準備をしておいたわけだ。「弁護士が法律ヤクザと言われる側面があるのは致し方ない」と高島さんは自嘲気味に言っていたが、晶子の本家にしてみればヤクザ以上に恐ろしい相手だろう。
 晶子の本家にとって不幸なのは、ローカルルールが未だに最高法規であり、そのローカルルールで最高位に位置する本家は絶対的存在と信じて疑わないことだ。その感覚のままに俺と晶子に再び干渉したら、その時点で高島さんが制裁に向けて動く。繰り返せば先祖代々の土地をも剥奪する。その強大な罠に気づいていない。
 否、高島さんは警告という形で罠の存在とダメージの強さを丁寧に教えている。「見てのとおりあの檻には猛獣が居る。檻に手を入れたり入ったりするな」と。そのとおりにすれば殺されもしないし怪我もしない。猛獣も檻を破ることは出来ない。だから近寄るな。そう分かりやすく警告している。
 それでも「自分は大丈夫」或いは「たかが檻に入れられた動物だろう」と高を括って檻に入るなら、予想以上の大怪我を負う。最悪殺される。度重なる警告を無視して檻に入った以上、もはや入った人間の自業自得でしかない。高島さんはそういうスタンスだ。決して法律ヤクザではないと思う。
 年末年始が晶子の親族が固まる地域にとってどんな重要性を持つのかは知らない。だが、本家が招集するというから、一大イベントなんだろう。何しろ檻に手を突っ込むどころか入りたがろうとする連中だ。そんな連中とまともに対決するのは消耗するだけだから、早々にめぐみちゃんに会いに行く方が良いかもしれない。
 翌週の金曜日。帰宅した−晶子が働いている店にだがこう言う−俺を、晶子が明らかに動揺した顔で出迎えた。

「祐司さん、これ…。」

 今日出勤する前に郵便ポストを覗いたら入っていたという郵便物は、俺宛の訴状。由緒ある井上家の財産である晶子と勝手に婚姻し、傷物にした罪は重い。更にこともあろうか弁護士と結託して300万もの大金を強奪し、更に強奪を目論む強欲ぶりは筆舌に尽くしがたい。よって1000万の損害賠償の支払いと晶子との早急な離婚を求める訴訟を提起する、というもの。
 内容だけ見れば何を寝言を、と一笑に付すものだが、住所と電話番号が明記された安倍野法律事務所なる法律事務所と、弁護士の肩書がついた安倍野一郎という人物とその人物のものらしい捺印。切手も貼られているし宛先も正確に俺宛。どうやら向こうも弁護士を立てたと見て良いようだ。

「私、どうしたら…。」
「晶子ちゃん、それが気になって今日は大変だったのよ。包丁で怪我しちゃうくらい動揺しちゃって…。」

 晶子の左手の人差し指には、うっすら血が滲む絆創膏が巻かれている。晶子が包丁で指を切るなんて今まで見た覚えがない。表情を見るまでもなく相当動揺している。

「…ひとまず、帰宅します。」
「そうして。私達が助けられることがあるなら何でも言って。」
「お気遣いありがとうございます。」

 食事を済ませた俺は、今にも倒れそうな晶子を支えるようにして店を出る。向こうも弁護士を立てて来たとなれば、裁判になる場合もある。裁判でもし負けたら…最高1000万の賠償と晶子との離婚が命令される。法律や裁判という武器が自分に向けられた格好だ。
 …まず、高島さんに報告だな。裁判となれば高島さんに弁護してもらうしかない。こういう訴状が届いたからどう対応すれば良いか、損害賠償はまだしも、晶子との離婚は避けられないか、出来ることを提案してもらい、可能なことは有給を取ってでもする。これしかない。
 帰宅するや否やへたり込んだ晶子を抱きかかえてベッドに運び、俺は重い気分で高島さんに電話する。3回目のコール音の途中で高島さんが出る。

「ご主人ですか。どうしました?」
「…今日、私宛の訴状が来ました。相手は晶子の、妻の本家です。」
「訴状、ですか。」

 高島さんの反応はあっさりしたものだ。弁護士だから訴状くらい見慣れてるか。ちょっと慰めを期待していたが、弁護士相手にそれは無理な相談か。

「ご主人。その訴状なるものに弁護士事務所と弁護士の記載はありますか?」
「はい。」
「では、その弁護士事務所の住所と電話番号、そして弁護士のフルネームとその漢字、そして登録番号を読み上げてください。」
「…はい。」

 一瞬何を言ったのか分からなかった。それだけ俺も動揺しているということか…。兎も角、訴状の末尾の部分を項目と共に順次読み上げる。登録番号って初めて聞くな…。そんな番号らしいものは何処にもないんだが、任意のものだろうか?

「ご主人、どうしました?」
「登録番号ですけど、それらしい記載はないんです。」
「そうですか。では、その他の項目を確認させていただきます。」

 高島さんのゆっくりした読み上げで、俺は訴状の該当項目を確認する。間違いない。動揺しているといってもそれほど難しくない漢字の日本語を正確に読めるくらい頭は回るか。

「…状況は分かりました。フフフ…。なかなか愉快なことをしてくるものですね。」
「ど、どういうことですか?」
「失礼しました。一般にはあまり知られていない展開だと分かりましたので。ところでご主人。その訴状の要求はどうなっていますか?」
「…損害賠償1000万の支払いと妻との早急な離婚、今ならまだ多少の融通は利かせられるから、来週の日曜日に私1人で指定の場所に来るように、と。」

 深刻さのかけらもないどころか笑いをこらえているような感さえある高島さんの反応に焦りと怒りを覚えつつ、訴状にある場所の所在地を読み上げる。弁護士の情報の時もそうだったが、電話の向こうで微かにキータイプの音がする。PCで確認しているんだろうな。

「…分かりました。ではご主人。小宮栄の新幹線駅の…緑出口前に午前9時に待ち合わせいただけますか?私が出向きますので。」
「それくらいはします。」
「ご主人。ご安心ください。この訴状はタネさえ分かれば指さして笑いながら読むべきものですから。」
「え?じゃあ、この訴状は…偽物?」
「はい。しかもお二人の顧問弁護士としては、相手に致命的ダメージを与える武器をわざわざ相手から提供されたようなものです。詳しいことは当日お話します。奥様にはこの訴状は一切無視して良いものですのでご安心いただくようお伝えください。」
「分かりました。よろしくお願いします。」

 通話を終える。…良く分からないが、この訴状が偽物であることは間違いないようだ。となれば、晶子に伝えないと…。あの訴状が偽物だとすると、弁護士が偽物の訴状を書いたってことか?そんなことをする弁護士が居るんだろうか?詐欺行為をする弁護士が居るとは思えないが、どの世界にも悪さをする輩は居るし…。
 年末も押し迫ってきた中、問題の日を迎えた。晶子は気力を回復したがやはり安心しきるには至らないようで、時折不安そうな顔をするし食欲も下がっている。この間にも訴状の弁護士から、俺の会社に通達することも視野に入れている、などの封書が何度か届いたのも影響している。
 高島さんからは、それらの封書もすべて自分に転送するよう指示され、そうして来た。晶子は今日は仕事が休みだが、とても出られる状態じゃないし高島さんからも出る必要はないと言われたから自宅で静養している。訴状が偽物なら一撃食らわせないと気が治まらない。

「ご主人。お待たせしました。」

 小宮栄の新幹線駅の1つ、緑出口から高島さんが出てくる。

「よろしくお願いします。」
「勿論です。めぐみからも今回の件に対して断固たる措置を取るよう厳命されてきました。特に奥様を苦しめているのが許せない、と。」
「めぐみちゃんからも依頼されているような形ですね。」
「めぐみに一生口をきいてもらえなくなる事態は何としても避けなければいけませんので。では参りましょう。」

 指定の場所とは、S県S市の日本料理店。新幹線を使わないと時間的に厳しい。高島さんは一旦降りて俺と合流して再度別の新幹線に乗るわけだ。この辺の費用も一切気にしなくて良いと言われているから、俺はあらかじめ指定された新幹線のチケットを買っておけば良い。
 新幹線は買った時間が違うから別の席になる。S県S市の最寄り駅は小宮栄からこだまで4つ先。乗る前に、疲れているだろうから寝ていても良い、そのくらいゆったり構えていて良い、と言われた。高島さんが居るから高島さんに任せるしかないが、それがもどかしくてならない。
 約1時間後、新幹線がS県S市の最寄り駅に到着。俺は新幹線を降りて高島さんと再度合流。駅前ロータリーにあるタクシー乗り場に向かう。どうもこの店はタクシーを使わないと行くのが面倒な位置にあるそうだ。この運賃も高島さんが支払ってくれる。タクシーに乗り込む前に、高島さんが徐に携帯を取り出して電話をかける。

「高島です。…はい。S市の駅前ロータリーからタクシーに乗って現場に向かいます。…はい。11時からです。では、よろしくお願いします。」

 短いやり取りだな。誰か援軍と連絡を取ったんだろうか?この前もS県の弁護士と連携していたし、再度援軍を頼んだんだろう。同行しているのが一応スーツを着ているが俺だけだと不安だろうな。
 タクシーは10分程度で店の前に着ける。結構大きな和風の佇まいの店だ。接待とかに使われそうだ。どうも緊張してしまう。

「ご主人。大丈夫です。胡坐をかくくらい堂々としていても良いですよ。」
「そうは言われてもやはり不安が消えないんです。」
「此処からの展開で、ご主人と奥様にとって不利なことになる確率はゼロです。既に確実にご主人をお守りする体勢が出来ています。」
「そうなんですか?」
「こんな分かりやすく、しかも自分側に確実に有利な展開になると分かっていれば、法曹関係者で食いつかない者はそうそう居ないですよ。」

 どうやら訴状は高島さんから見れば非常に馬鹿げたものらしい。しかし、あの訴状やその後届いた封書を作成した人物は偽物には思えないんだよな…。兎も角、此処は高島さんを信じるしかない。俺は高島さんに続いて店に入る。

「井上で予約されている者です。」
「井上様、ですね。少々お待ちください。」

 応対した店員が奥に入っていく。程なく別の人が出て来る。見た感じこの店の責任者か料理長とからしい。表情が幾分硬いように見える。

「ご案内いたします。…どうか店には…。」
「お店には何らの責任もありません。むしろ被害者です。関係者がきちんと事後処理を行いますのでお店に不利になることはしません。ご安心ください。」
「ありがとうございます。」

 何だ?随分店の方が低姿勢だな。さっき高島さんが俺と晶子に不利になる確率はゼロとか、確実に俺を守る体勢が出来ているとか言っていたが、それと関係あるんだろうか?なんだか思っていたのと様相が異なるのは確かなようだ。
 店の人に案内されて、奥の座敷に通される。襖を開けると、険しい表情のスーツ姿の中年の男性と、同じくらいの年齢のやはりスーツ姿の男性が姿を現す。奥の方に座っている男性の方が、俺を見て明らかに表情が怒り、否、憎しみを露わにしたものに変わる。この男性が晶子の本家当主、すなわち晶子の伯父だろう。で、隣が安倍野という弁護士か。

「この前の弁護士まで一緒か!一人で来るようにその弁護士を通じて知らせてやったのに、どういうつもりだ!」
「顧問弁護士がクライアントの交渉に同席するのは当然のことです。」
「生意気な!この前300万をむしり取ったことを忘れたか?!」
「300万の支払いが示談の条件だったことを、もうお忘れですか。都合の良い頭ですね。」
「貴様ぁ!!」

 のっけから激しいな…。晶子と断りもなく結婚した男が、言いつけに背いて顧問弁護士を引き連れて来て、その顧問弁護士、しかも見た目かなり若い女性に皮肉られれば、頭に来るのは当然だろうが、随分な態度だ。

「顧問弁護士を伴って来たということは、示談の用意があるということでしょう。此処は冷静に。晶子さんを取り戻せるのはもう直ぐです。」
「まあ…、そういう見方も出来るな。」
「では早速ですが、名刺をお見せください。登録番号も記載されている正式なものを。」

 高島さんは全く臆することなく、自分の名刺を出すと共に安倍野という弁護士に要求する。安倍野という弁護士は、懐から名刺ケースを取り出し、高島さんに1枚差しだす。

「…登録番号の記載がありませんね。」
「そんな番号など必要ない。弁護士が自分の事務所の住所や電話番号がない名刺を持っているわけでもあるまい。」
「登録番号は?」
「何時まで番号ごときにこだわるつもりだ!!示談をしに来たんじゃないのか?!」
「外野は黙っていなさい。登録番号は?」

 高島さんは晶子の伯父を冷徹に一喝して、安倍野という弁護士に詰め寄る。その表情が俄かに厳しさを帯びる。

「…そこには記載はないが、○○○○○番だ。」
「ほう…。これが愉快ですね。」
「な、何がおかしい?!」
「登録番号はあっても、名刺や訴状に記載された住所も電話番号も氏名も日弁連に登録されていない弁護士とやらが目の前に居るとは。」
「え?!」

 日弁連くらいは俺でも知っている。確か弁護士がすべて加入する全国組織。そこに住所も電話番号も、更に氏名も登録されていないってことは…偽物の弁護士か?!

「高島さん、この弁護士って…。」
「偽物です。安倍野という人物は目の前に居るので一応存在するようですが、該当する場所にそのような氏名の弁護士は存在しません。」

 高島さんは晶子の伯父と安倍野という人物を見据えながら答える。

「多少知恵をつけて弁護士を騙って訴状を出し、ご主人と奥様に揺さぶりをかけてこの場にご主人を引っ張り出し、訴状の条件を飲ませようと目論んだんでしょうが、ご主人の側に顧問弁護士という体で本物の弁護士が居るのを考慮しなかったことが失敗ですね。弁護士がこの程度の詐称を見破れないとでも思ったのですか?随分私もなめられたものです。」
「べ、弁護士と言っているだろうが!!」
「分かっていないのか知らないのかは兎も角、尚も弁護士を騙る輩と結託してご主人を脅すのであれば、貴方方にとって最悪の事態を覚悟してもらいますが、よろしいですね?」
「なめた真似を!!ガキのくせにこれ以上俺を怒らせるなぁ!!」
「ぐっ!」
「出番です!」

 晶子の伯父がやおら立ち上がり、俺を殴る。次の瞬間、高島さんが号令をかける。前後の襖が勢い良く開き、激しい足音が近づいてくる。

「警察だ!!動くな!!」
「脅迫の容疑並びに弁護士法違反と傷害の現行犯で逮捕する!!」
「け、警察がどうして?!」
「大人しくしろ!!」
「痛い痛い!止めてくれ!」
「11時15分50秒、身柄確保!!」

 高島さんに抱き起こされた俺が見た光景は、床にねじ伏せられて右手に手錠をかけられた晶子の伯父と安倍野という人物の姿。警察が待機していたのか…。軽く10人は居るようだ。これじゃ余程の奴でない限り振り切って逃げられはしない。

「痛みはどうですか?」
「ちょっと痛みますけど、耐えられないってほどじゃないです。」
「病院で検査を受けて、診断書を書いてもらいましょう。」

 晶子の伯父と安倍野という人物は、警察に引き起こされ、両腕をがっしり抱えられて部屋から引きずり出されていく。まさか警察が出て来て逮捕されるとは思わなかったためか、ついさっきまでの勢いは何処へやらマネキン人形みたいに微動だにしない。

「大丈夫ですか?」
「私は何ともありません。クライアントが殴打されました。」
「では、私達の車で病院にお連れしましょう。」

 左の頬下、顎辺りがズキズキ痛むが歩けないほどじゃない。高島さんと恰幅の良い中年の男性に付き添われて、俺は部屋を出る。出入り口付近が騒々しい。他の客や従業員が店の外を見ている。晶子の伯父と安倍野という人物がそれぞれパトカーに押し込められているのがチラッと見える。
 その近くでは、俺と高島さんを部屋に案内した男性が、別のスーツ姿の男性数名と話している。こちらは事情を聞かれているだけで不穏な雰囲気はない。こちらと目が合うと、男性達が敬礼する。どうやら付き添いの男性が上官らしい。

「こちらの男性が被害者だ。これから警察病院に案内する。引き続き事情聴取を頼む。」
「了解しました。」

 俺は高島さんと共に覆面パトカーらしい高級車の後部座席に乗せられる。こちらはドアを運転席に居た警官に開けてもらい、そこから乗り込む。パトカーに半ば押し込まれた晶子の伯父と安倍野という人物とは大きな差だ。容疑者じゃないから当然とは言えるが、あちらは押し込むという表現がぴったりだっただけに落差が大きい。
 高島さんはこうなることを想定して、警察を張り込ませていたのか。でも、弁護士法違反は別として、傷害まで予測できるもんだろうか?結構な数の警察を前もって動員するのはそう簡単に出来ることじゃない。タクシーに乗り込む前の電話とかがカギを握っているんだろう。それらを聞くのは診察を受けてからだな。

 警察病院での診察と治療が終わり、警察署に案内されて事情聴取を受けた。警察署としたが、実際はS県警察本部。所轄の交番や警察署をいきなり飛び越えて県警本部が動いていたわけだ。俺は事情聴取の際に、同席した高島さんからも含めて背景を知った。
 高島さんは、俺が最初に問い合わせた際に日弁連のデータベースを照会して、安倍野という人物が本物の弁護士ではないことを確認していた。実は訴状に登録番号がない時点で本物の弁護士ではないと察した。弁護士を詐称する詐欺や脅迫に見られる典型的なパターンの1つだそうだ。
 指定の場所に俺1人で来るようにとしたことから、訴状の内容、つまり1000万の支払いと晶子との離婚を迫るのは明白。それは脅迫であり、刑事事件として立件できるものだ。しかも、弁護士法違反の訴状やその後届いた封書が文書という形の明確な証拠が積み重なっている。
 此処まででも立件には十分だが、所轄の交番や警察署だと晶子の伯父をはじめとする晶子の親族、更には関連する議員などがもみ消しを図る恐れがある。そこで高島さんは前回弁護団を編成したS県の弁護士に依頼して、俺が転送した文書を証拠として、S県の県警本部に連名で被害届を提出した。
 弁護士が束になって証拠の文書と共に出向けば、県警本部も被害届を受理しないわけにはいかない。しかも今回は相手が脅迫する場所まで明記しているし、犯罪の事実が無防備な状況で転がっているとなれば、出向いて立件してくれと言わんばかりの状況だ。S県警察本部は店に出向き、俺と高島さんが案内された部屋の両側に張り込むことにした。
 高島さんはS県の動きを常時把握し、臨戦態勢が整ったことをタクシーに乗る前に確認した。あとは相手が適当に脅迫したり手を出してきたら、合図を出せば警察が一気に乗り込む段取りになっていた。このような輩は激昂すれば簡単に手を出すと予想できたし、念のためビデオカメラも仕込んでおいてもらった。

「今回の唯一のミスは、相手の矛先が私ではなく、ご主人に向いてしまったことです。怪我をさせてしまって申し訳ありません。」
「そんなこと気にしないでください。私なら多少殴られても平気ですから。」

 事情聴取が終わり、県警本部を出たところで高島さんが頭を下げる。殴られたのは1発だけだし、大した怪我でもない。高島さんじゃなくて俺だったのはむしろ幸いだと思っている。めぐみちゃんが顔に絆創膏を貼った高島さんを見たらショックを受けるのは間違いない。
 晶子の伯父と安倍野という人物は、今も事情聴取を受けている。証拠がたっぷりあってしかも現行犯だから言い逃れは出来ない。数日は拘留される見通しだという。既に晶子の伯父の家、すなわち本家にも逮捕拘留の連絡がなされ、場合によっては家宅捜索も行う予定だという。
 家宅捜索となれば警察が多数押し寄せるから、嫌でも周囲に知れ渡る。警察沙汰は世間体からすれば最悪極まる事態。それをある意味取引条件にされれば容疑を認めざるを得ない。認めたところで犯罪の事実は消せないが、晶子の伯父が降伏するのは時間の問題だろう。

「ご主人に要求を飲ませるつもりが、自分達の首を更に締めることになるとは思わなかったでしょう。ですが、今回は容赦しません。ご主人が殴られ、奥様が体調を崩すに至った事態は看過できません。めぐみの厳命もありますので。」
「後の処理はお任せします。」

 刑事事件にもなったから、俺があれこれ考える段階じゃない。高島さんに任せた方が何かとスムーズだ。晶子の容体も心配だし、正直これ以上あいつらの顔を見たくない。殴られて良い気分がする性癖は俺にはない。

「…ご主人。一度奥様を病院に連れて行ってください。その際、レントゲン検査は行わないよう医師に依頼してください。」
「は、はい。でもどうして急に?」
「勘と言いましょうか。」

 思わせぶりな言い方は今回もだが、表情を見る限り悪いことじゃなさそうだ。今回の件の処理は高島さんに任せて、早く家に帰って晶子に伝えよう。俺が訴えられることはない、俺と晶子の夫婦関係と幸せが壊されることはない、と。
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