昼飯を済ませ、後片付けを終える。食器や料理器具の数が少ないから俺1人でも直ぐ終わる。リビングに戻ると、本を広げていた晶子が待ち切れなかったように腰を少し浮かす。俺は定位置に腰を下ろす。その瞬間、晶子が後ろを向いて俺の懐に飛び込んで来る。
特にすることがないのんびりした午後の昼下がり。しかも晶子中心の今日にしたいことと言えば、おおよそ想像はつく。洗い物をするから待ってて、と言った時と、リビングに戻った時の表情の明らかな違いは、「御主人大好き」オーラが溢れる子犬そっくり、否、そのままだった。
晶子は俺に身体を預けて、改めて本を広げる。晶子が望んだのは、この時間を俺が人間座椅子になって本を読んで過ごすこと、ただそれだけ。こうしている間、俺は晶子が本を読む邪魔にならない程度に身体を触ったりしていれば良い。休みの日によくある時間だし、晶子にとってそれが至福の時間の1つでもある。
まだ入社してひと月、しかも先週1週間は研修だったが、基本的に俺は座っての仕事だ。部屋を移動したり今後は出張とかで長距離移動もあるだろうが、身体を使うより頭を使う仕事なのは間違いない。対して晶子は基本的に立ちっ放しで多くの時間に身体を動かす仕事だ。その中で立ちっ放しは結構厳しい。
学生実験をしていて、実験準備や装置の起動・停止などで立ち続ける場合があった。その後で座ると−当然ながら纏めやデータの解析は座っての作業−、腰のあたりに硬直したような違和感を覚えることがあった。立ち作業はそれを支える脚や腰に疲労が蓄積するというのが分かる。店でバイトしていた時も頻繁に感じたことだ。
その反動だろうか、晶子は休みの日に出歩くより家で寛ぐことを重視する。本を読むことがその一環だ。大きくて重いフライパンを操る必要もなく、時間の流れに任せて好きな本を読む。あれこれ高価なものを買い求めるより自分を癒すのがこれだと晶子自身が良く分かっている。
「その本、何巻まで出たんだ?」
「10巻です。丁度先月出たばかりなんですよ。」
書庫には主に晶子の本が詰まっているが−俺は大学時代の専門書や音楽関係の理論書くらい−、その中で一番のお気に入りが「Saint Guardians」。ファンタジーの体裁だが策略や謎解きの方が主体という、作者同様の変わり種。以前よりペースは落ちているが、それでも半年に1巻くらいのペースで新刊が出ているようだ。
お気に入りだが、何しろこの手の小説には珍しいハードカバー。当然ページ数も結構ある。ある程度の時間がないと十分読めない。だから、こうした休日や余裕のある時に書庫から持ってきて読む。読む時のスタイルは俺に膝枕をするか、こうして俺に凭れてかのどちらか。それだけリラックスして読む本だという認識なんだろう。
俺の質問はそれで留める。今は晶子がお気に入りの体勢でお気に入りの本を読み耽る時間。その時間を会話で途絶させるのは無粋ってもんだ。晶子が本に視線を固定する中、俺は晶子のウエストあたりに両腕を回して軽く抱きすくめる。こうしていると密着できるのは勿論、晶子の髪に鼻先どころか顔を突っ込める。
手入れが行き届いている晶子の髪は1本1本の存在を感じられるように滑らかで、しかも良い匂いだ。毎回風呂の度に洗うのは相当時間がかかっている。正直晶子としてはバッサリ切った方が楽だと思う。だが、俺が長い方が好きだからという理由でこの髪を維持し続けている。
こうしていると心地よいが、唯一の懸念は欲情が湧き上がって来ることだ。こればかりはどうしようもないから理性で抑え込む。幸い、今は晶子のために安寧の時間を維持しているという大前提があるから、理性が強く働く。少々生殺し感は否めないが、「晶子のため」を常に意識してこの時間を過ごす。
晶子にとっては読書の時間、俺にとっては座椅子になりきるのとやや生殺し感を味わわされる時間が終わり、夕飯。これも当然今日は俺が作る。野菜サラダは昼に作ったものを冷蔵庫に入れているから、それ以外のものを作る。まず米を研いで炊飯器にセットする。これは流石にレシピを見なくても出来る。
メニューはポークステーキ。晶子にしては珍しい部類のメニューだが、料理に関して初心者レベルの俺でも作りやすいものを選んだんだろう。とは言え、することはそれなりに多い。まず、豚肉を仕込むところから始まる。包丁の先で肉に筋を入れて、包丁の裏で両面を叩く。これで肉を元の面積の2倍くらいに広くする。
これを怠ると、焼いた時に丸まって綺麗に焼けない、とある。これだけ叩いて広げると薄くなってしまうんじゃないかと思うが、晶子のレシピに嘘はない筈だからそのとおりにする。広げ終えたらそれを酒と醤油を混ぜたボウルに浸して、更に薄切りしたニンニクを入れて冷蔵庫に入れる。
味をしみ込ませる間に付け合わせの野菜を用意する。ジャガイモとニンジンを手頃な大きさに切り、ほうれん草の根元を落として、湯を用意する。沸騰したらジャガイモをまず投入。3分経過したらニンジンを投入してそこから5分茹でる。ほうれん草は別に2分茹でる。
ざるに上げて水を切りつつ、チラッとリビングを見る。晶子はやっぱり本を読みながら待っている。朝昼と何とかそれらしいものを作れたから、最後の夕飯で失敗は出来ない。豚肉の調理に入る前にレシピを読んでイメージトレーニングをしておく。
茹で野菜の水気が十分切れたことを確認する。…OKだな。先に茹で野菜を皿に盛り付けて、ラップをして冷蔵庫に。入れ替わりに豚肉をニンニクと一緒に浸けこんでおいたボウルを取り出す。フライパンを出してコンロに火をつけ、サラダ油と小麦粉を出す。
キッチンペーパーを広げて、その上に小麦粉を軽く広げて、ボウルから出した豚肉に軽くまぶす。揚げ物を作るんじゃないのに小麦粉をまぶす…。どういうことだ?小麦粉が付き過ぎないように注意、とあるが、流石に理由までは書いていない。きっと何らかの意味があるんだろう。晶子を信じるしかない。
フライパンから煙が上がり始めたら、サラダ油を大匙1杯分入れて全体に広げる。そして火を少し弱めて、漬け込む時に使ったニンニクを入れる。両面を少し焦げる程度に焼く。薄めに切ったしフライパンを十分熱しているから、焼き上がるのは早い。焼き加減を見てそれらを小さい器に入れておく。
小麦ををまぶしておいた豚肉を入れて、少し水を入れて直ぐ蓋をする。かなりの量の蒸気が瞬く間にフライパンの中に広がり、一部がフライパンの縁から溢れ出る。キッチンタイマーで3分間このまま蒸し焼きにする。小麦粉を入れたことでどんな焼き具合になるのか気になる。
ん?そう言えば…偶に豚肉のステーキは弁当に入ってるな。綺麗に焼けていて美味いという記憶しかない。小麦粉をまぶすのが今日になっての思いつきということはありえない。何しろこのレシピを作ったのは昨日俺が晶子の誕生日だから料理をすると言い出した、連休初日の夜だからだ。俺が食べた記憶がある豚肉のステーキは、今日と同じ工程を経て作られていると考えるのが自然だ。
キッチンタイマーが3分の経過を知らせる。フライパンの蓋を開けて、豚肉を素早くひっくり返して少量の水を落として蓋をする。そして再び3分蒸し焼き。裏返って見えるようになった側は、見たところ綺麗な焼き色だった。間違って火を強めたり時間を無視したりしなければ、少なくとも生焼けや黒焦げは防げるだろう。
キッチンタイマーが焼き上がりを知らせる。フライパンの蓋を開けて、ジュージューと細かい泡を立てては弾けさせる豚肉を取り出して一時待機用の皿に移す。…綺麗に焼けてるな。厚みも仕込みの前くらいに戻っている。焼くと肉は縮むから、あれくらい薄っぺらくしておいて丁度良いくらいなんだな。
おっと、のんびりしてられない。フライパンをキッチンペーパーで軽く拭いてから、豚肉を浸けこむ際に使った汁を回すように投入する。若干温度は下がっていたようだが、それでも火に翳し続けていたフライパンの熱は相当なもんだ。投入した汁が激しい音を立てて沸騰し始める。焦げ付かないようにフライパンを動かしたり箸でかき混ぜたりする。
汁の量が減ってとろみが出て来たところで火を止めて、置いておいた豚肉を入れて出来たソースに絡める。焼き色とは違う黒褐色の香ばしい匂いを立てるソースが全体に付着したのを確認して、2人分の皿に盛り付ける。茹で野菜には軽く塩を振るだけに留める。
晶子の作り置きの野菜スープ−これは晶子が週2回のペースで作っているもので、これは俺が作るメニューから除外されている−をカップに盛り付けサラダを取り出してドレッシングをかけ、ご飯をよそう。そして1品ずつ2人分をリビングに運ぶ。朝昼より品目が多いから、一気に運ぼうとすると躓いたりして台無しにしてしまう恐れがある。
「わぁ…。凄く美味しそうですねー。」
「何とかそれらしくなったと思う。さ、食べてみて。」
やっぱりここは晶子が先に食べて味見してもらうしかない。見た目はそこそこ整ったが、味までは確認してない。晶子のレシピに忠実に動いたから大丈夫だと思うが…。
「凄く美味しいですよ。」
豚肉ステーキを一口食べた晶子が、満足げに断言する。俺は安心して自分の分を食べる。…小麦粉をまぶした感は全然ない。たっぷりの肉汁と少し辛めのソースが絡み合って、まさしくステーキだ。同じ厚みの牛肉と比べて安い豚肉でも、料理次第でこんなに美味く出来るんだな。
「豚肉のステーキって偶に弁当に入ってるけど、同じレシピで作ってるか?」
「ええ。どうしてですか?」
「レシピの中に、豚肉に小麦粉をまぶすってのがあったから、揚げ物をするでもないのにどうして小麦粉、って不思議に思ってな。」
「考え方は揚げ物と似たようなものですよ。」
晶子の説明だと、揚げ物は衣を高温で揚げることで旨みを閉じ込める料理法だが、小麦粉をまぶして焼くのも焼けた小麦粉で旨みを閉じ込めるのが目的だという。だから「揚げる」と「焼く」と料理法は異なるが、目的は同じということらしい。てっきり小麦粉は揚げ物の衣やムニエルの材料だと思っていたが、こういう使い方もあるんだな。
「こういう手間が重なって、普段の美味い料理が出来てるってことがよく分かる。」
「作って食べるからには美味しいものにしたいですからね。自分だけじゃなくて食べてもらう人が居る場合は尚更。」
「晶子みたいに、頭の中にレシピを展開して手際良く作るってのは、俺じゃ難しいな…。晶子の誕生日みたいな特別な日か、晶子の体調が悪くてどうしようもない時の交代要員が精一杯だな。」
「それで十分ですよ。私の仕事がなくなっちゃいますから。」
料理は晶子の趣味であり、自分が存在感を維持して実感できる重要な分野でもある。晶子はこの家で料理を手掛けることで、俺の妻という地位を維持出来るとすら考えている節がある。晶子なくしてこの家の快適さはあり得ないんだが、それだけ晶子にとって料理はアイデンティティでもあるということだ。
どうにか3食まともに作れたが、所詮晶子のレシピに従っただけの、言葉は悪いが猿真似に過ぎない。料理はこれからも晶子に頼みたい。交代要員としてひととおりのことは出来るようにしておくべきだが、晶子のアイデンティティをむざむざ侵して破壊するのは夫のすることじゃない。
それに、晶子の料理の域に達するには、相当訓練しないと無理だ。仮に毎日の夕飯を手掛けたとしても、晶子は弁当を含めた朝昼を作るし、店では膨大な数の料理を作る。3食のうちの1食を作る程度じゃ到底追いつかないどころか、差が開かないようにするのも難しいだろう。
交代要員として毎日の生活で出来ることは、何処に何があるかくらいは把握しておくこと。そのためには買い出しに付き合って、買ったものをどこに仕舞うかを知ることだ。何しろ晶子も買い出しに同行することを喜ぶタイプ。それに今まで続けていること。今の生活スタイルを維持していけば良いだけだ。
無事夕飯を済ませて、後片付け。夕飯は食器もそうだが料理器具も多いから、片づけもそれなりに時間がかかる。と言ってもかかる時間は正味10分少々。この手間を惜しむと台所がとんでもないことになる。洗いつつ紅茶を沸かす。普段は晶子手製のクッキーだが、今日は違う。
洗い終えて流し周りを軽く拭き掃除し、紅茶を淹れる準備をしてから冷蔵庫からあるものを取り出す。それを皿に乗せて紅茶を注ぎ、トレイに乗せて持って行く。
「それって…。」
「昨日買ってきておいた。」
晶子が驚いた様子で目の前に置かれた皿を見る。それはフルーツタルト。昨日晶子が仕事に行っている間に買ってきて冷蔵庫の奥に仕舞っておいた。冷蔵庫の最上段、晶子の作り置きのスープが入っている鍋の奥に入れておいたから、晶子が椅子とかに立って視線の高さを合わせないとまず気付かれないと踏んだが、どうやら成功だったようだ。
このケーキは例の有名な老舗洋菓子店のもの。他の店、何時も行くスーパーに入っているテナントの同様の商品の倍くらいする。だが、こういう日だからこそ買ってきて一緒に食べたかった。だから買って来た。それだけだ。
「ばれないか内心ひやひやしてた。…晶子。誕生日おめでとう。」
「嬉しい…。ありがとうございます…。」
蝋燭はこのサイズのケーキに立てると邪魔になるし、表面がびっしりフルーツとゼリーみたいなもの−正式名称は知らない−で覆われているから、蝋燭を立てるとそれらが台無しになる恐れもある。蝋燭を立てるのは…子どもが食べられる時期になってからで良いだろう。
晶子が一口食べて満足そうな顔をしたのを見て、俺も食べる。フルーツがびっしり乗ってるタルトは、店の定番メニューの1つとされてるだけあって、豊潤な香りと味だ。こういう味の個性が強いケーキは、アールグレイがよく合う。
「ケーキは色々あるから、選ぶのが難しいな。晶子は好き嫌いがないから余程変なものじゃなけりゃ大丈夫だと思うが、紅茶に合うかとか考えるとなかなか…。」
「祐司さんが選んでくれて、こうして一緒に食べられるから美味しいんですよ。」
「そうか…。正直、チーズケーキと迷った。時々晶子が作るし、それはそっちの方が良いかと思ってな。俺基準にしちゃいけないんだろうけど。」
「チーズケーキは近々作りますね。私はあえて言うと、こういうフルーツをたくさん使っているケーキを食べたいです。これだけのフルーツを用意するのは大変ですから。」
「2人じゃ、買っても食べきれないな。」
晶子はケーキも作れる。チーズケーキは特に美味い。だが、ケーキは材料をかなり用意しないと作れない。卵や小麦粉を中心にこれでもかというほど使う。それに、計量や調理時間は普通の料理よりずっとシビアで、計量カップと計量スプーンとキッチンタイマーが不可欠。俺じゃ到底無理な領域だ。
卵や小麦粉は他の料理、例えば揚げ物の衣とかで使い道がある。だが、フルーツはせいぜいジャムにするしか使い道がない。生鮮品だからそう長くは持たない。だから普段作れないようなものは買った方が得だとも思う。勿論、晶子が作ったものも食べたいとは思うが、金銭感覚がしっかりしている晶子は自分の趣味のために持て余す量の食材を買いこむのは憚られるだろう。
なんにせよ、俺は晶子の誕生日を祝いたくて、一緒に食べたくてケーキを買って来た。晶子は喜んでくれている。俺はそれで十分だ。こういうことは、自分はどれだけ満足出来るかより相手がどれだけ喜ぶかを基準にすべきだろう。
ケーキ1個は一般の2倍の価格だが、2個だから合わせて1000円行かない。価格だけで見れば誕生日祝いのケーキとしてはあまりに安い。だが、祝いが成功かどうかはやっぱり祝った相手が喜んで幸せを感じるかどうかだろう。俺の場合は晶子が堅実だからハードルが低めということだ。
風呂から上がり、リビングに戻る。晶子が甘えて甘えたおかげで長風呂になったからか喉が渇いて、コップに水を汲んで持ってきた。晶子お気に入りのスタイル−俺の人間座椅子になって、晶子がすっかりリラックスした様子でコップの水を飲む。
「結婚して初めて迎える誕生日が、こんなに幸せなものになるなんて…。」
「晶子が幸せって感じられたなら、俺も満足だ。晶子のレシピに従ったとはいえ、3食作るのが大変だってことも改めて良く分かったし。」
「料理は私の仕事ですから…。今日1日でもっと頑張ろう、もっと美味しいものを食べてもらおう、ってやる気が強まりました…。」
今日1日が晶子にとって休養になったかどうか、俺の判断では微妙なところだ。俺の人間座椅子で読書三昧とケーキで祝うあたりは良かったと思うが、3食は晶子の事前準備なくして不可能だった。その分晶子が今日手出しせずに済んだだけだ。晶子もまともに食べられるものが出て来るか気が気じゃなかったんじゃないだろうか。
だが、今の晶子を見ていると、晶子にとっての幸せが俺と一緒に居られることであり、安らぎを感じる時は俺と触れ合う時だと改めて分かる。だからたとえ料理を失敗しても「こういうこともある」と軽く流しただろう。むしろレシピに沿えば食べられるものが作れると分かったから、いざという時にも何とかなると確信できたかもしれない。
結婚、正式には入籍して半年が過ぎた。俺が就職して晶子がフルタイムで店で働くようになった以外は、事実上同棲からの延長線上の生活が続いている。互いの貯金を持ち合って、互いの所有物を選別して、新居を選んで運び込んで始まった新婚生活は、居心地が良い。
その居心地の良さを維持しているのは、やはり晶子の力が大きい。仕事の休みは飲食店には珍しく週休2日だが、定休日の月曜+シフトで生じる曜日と不規則。しかも立ちっ放しで重い料理器具と大量の食材を扱い続ける重労働。だが、毎食の準備と俺の弁当作り、そして手が開けば掃除や洗濯と働きづくめだ。
料理作りがこの家での自分のアイデンティティでもあるという晶子。それは恐らく掃除や洗濯も含めた家事全般がそうなんだろう。自分のアイデンティティを維持するために、そして俺が泊りがけの出張や研修がない限り1日の最初と最後に必ず戻り、自分も必ず戻るこの家を守るために、晶子は自らそうするんだろう。
「入籍してあっという間に半年過ぎて…。堂々と一緒に居られることの幸せを実感してます…。」
「その幸せは、晶子が作って維持してる分が大きい。毎日帰れば安らげる場所があると思えるのは、晶子が毎日頑張ってるからだ。今日は…楽しめたか?」
「十分…。でも…、もう少し、もっと楽しみたい…。」
俺のパジャマの襟を掴んで上目遣いで俺を見る晶子。晶子の言いたいことは分かる。その希望に応えたいのは山々だが、今日は躊躇する。今日は晶子が幸せを感じ続ける日なのに、俺の欲求を満足させるのは…。
「…俺のためみたいにならないか?」
「私にとって…、祐司さんに愛されること自体が幸せなのは勿論で、祐司さんが私を愛して満足するのを感じることも幸せなんですよ…。」
そうだった。晶子はスキンシップを重視する。それにはセックスも含まれる。セックスは肌を全て晒してとことん触れ合わせるから、スキンシップの究極とも言える。晶子は俺とセックスすることで愛されていること、自分が愛していることを実感する。だから、今日求めることは晶子にとってごく自然なことだ。
「じゃあ、存分に…。」
俺はコップの水を一気に飲み干して、晶子を抱き抱えてベッドへ向かう。ベッドにひとまず晶子を横たえ、掛け布団を足元まで捲ってから晶子の上に乗る。いきなり始めない。晶子にキスをして抱き締める。晶子の腕が俺の首に回るのを感じる。全てを…晶子に向けよう…。
…。
傍らで俺の方に顔を向けている晶子の頬を軽く突く。…完全に寝たな。今日は受け身に徹していたとはいえ、あれだけ求めて乱れりゃ疲れるよな…。最後に大きく背中を反らして叫んで何度か痙攣してぐったりとなったから、一瞬不安になったが…満足して意識が昇天したなら良い。
東隣の部屋と壁一面のクローゼットと壁で仕切られた6畳間の和室。そこの廊下側の壁に寄せて置かれたベッドは、俺の前の家にあったものをそのまま持ち込んだ。俺と晶子が最初に寝た時からの、2人で使うには少々手狭なこのベッドは、晶子にとってアイデンティティを再確認する場所なんだと思う。
俺にとっては体力的に厳しい時もあるが、とびきりの良い女を思う存分好きに出来るから嬉しいことだ。今日みたいに晶子が受け身に徹する時は支配欲や征服欲といったものもそそられるし、それを存分に満たせる。晶子と週5くらいのペースで営んでもまったくもって困ることはない。
俺が欲求の全てを向けることで、晶子は自分が、自分だけが俺に愛されていると再確認する。そういう思考であることはかなり前から兆候が見えてはいたが、仲が深まるにつれてそれを表に出し始めた。結婚したことでもうその必要はないと収束するどころか、むしろ強くなっている。
やっぱり…、今の幸せを二度と逃したくないという強い思いがあるからだろう。俺との幸せを確実に掴むために、束縛が強いであろう実家との繋がりを自ら切断し、俺との生活を始めることを選んだ。俺に内定は出ていたとはいえ学生の時に入籍・新居での生活と進むのは相当な勇気が必要だっただろうが、晶子の決断に迷いはなかった。
金は両方に底が分かる−最低の金額が分かるという意味−収入があって、どちらも浪費タイプじゃないから、余程のことがない限り結構な額が貯まる予想が出来る。しかも、今までは親の保険証の借り物だった健康保険が、きちんとした企業の社会保険になったから、病気や怪我をしても通院を躊躇う必要はない。
そういった必要十分な収入と貯蓄があるから、もう俺との生活以外何も要らない。晶子はそう思っている。否、欲しいものはあるが、今はまだその時じゃないと我慢していることが1つだけあるか。子ども。晶子が今の生活と幸せに加えてもう1つだけ欲しいものは子ども。それも間違いない。
自分は今の状況で十分幸せだが、子どもを加えて維持出来るか、晶子は不安が拭い切れない。両方の親と絶縁した状況では、最後の頼みの綱となるのはやっぱり金。今でも7桁に達しているが−2人の総額とはいえ年齢を考えれば結構な額だと思う−もっと必要なんじゃないかという疑念を、晶子は払拭しきれない。
その理由は明瞭だ。去年の京都旅行で出逢っためぐみちゃんの一件で、不十分な環境で子どもを産むことは結局子どもへの甚大な負担となって圧し掛かることを目の当たりにしたからだ。自分は我慢が出来るが、子ども、特に乳幼児には厳しい。我慢するように無理強いしたところで軋轢が深まるだけだ。
何しろ初めてのこと。しかも周囲に相談したり経験を聞いたりすることが出来ない。だからどれだけ必要かの目安がつかないのも大きい。今の貯蓄額で子どもを産めるのか、子どもを安心して育てられるか確証が持てないから、子どもを作ることに踏み切れない。分かりやすい筋書きだが正論でもある。
行政サービスで検診や出産の費用は相当抑えられることは分かっている。だが、生活に必要な額までは補助されない。で、何かの理由で困窮しても行政のサービスはせいぜい生活保護。それで安心出来ると言えばそんなことはないし、そもそも俺と晶子の年齢で受給できると思わない方が良いと聞く。
言わば、石橋を鉄筋で補強して更にコンクリートで固めてからでないと渡れない、といったところか。俺は晶子に子どもを産ませて後はお任せ、とはしたくないから、晶子の考えを一笑に伏すことは出来ない。鉄筋やコンクリートの半分は俺が供給しないといけない。それで問題になるのはその量=金額だけと準備までの期間だけだ。
…焦ることはないか。子どもを産むことに関しては俺は晶子に委任するしかない。どう足掻いたって子どもを産むのは晶子しか出来ない。その晶子が「子どもを産んで大丈夫」と確信した時まで待てば良い。2人で今の生活に偶に家具の入れ替えとかをする程度プラスするくらいなら、貯蓄が500万を超えるのは容易。8桁も数年で可能だろう。
これからの半年には俺の誕生日も含まれる。それを過ぎれば間もなく結婚1周年。これからはどちらかと言うと結婚記念日の方が重要になるそうだから、日々の生活に精一杯でうっかり忘れてた、なんてことにならないようにしないとな…。