雨上がりの午後

Chapter 323 Last day, Last live

written by Moonstone

「お先に失礼します。」
「おやすみー。」
「お疲れさまでした。」

 「仕事の後の一杯」を済ませて店を出る。京都から戻って最初のバイトの終わりは、バイト生活が残り1日になったことでもある。マスターと潤子さん、そして新しく入った増崎、勝田、小野、青木、石川の5名と過ごす時間は、明日1日を残すのみとなった。
 5人の新メンバーはまだぎこちなかったりミスをしたりすることはあるものの、致命的なものはない。5人入ったことで接客が兎に角楽になった。終始店内を歩き回ることから、ある程度の間隔で休憩も出来るようになった。少しの変化に見えるが、4時間連続稼働より休憩をはさみながらの方が楽に決まってる。
 俺は4月1日の入社まで一時的に無職になるが、晶子はずっと働き続ける。晶子は新メンバーの先輩として、キッチンの主力の1人として役割が大きくなる。俺は家で何をしていれば良いのか。朝から大学、終わってすぐにバイトに直行、って生活を続けて来たし、晶子も居ないとなると過ごし方がちょっと分からない。

「あと1日か…。」
「労いの挨拶は明日に取っておきますね。」
「そうしてくれ。あと1日は何時もどおり働く。その後晶子に言ってほしい。」
「はい。」
「それにしても…、バイトを卒業してから入社式までの2日間はどうしたもんかな。」

 改めて考えてみるが、取り立ててすることが思いつかない。家での生活に食い込んでいた大学のレポート、4年になってからの卒研もすっかりなくなり、その中でもペースを落としながらも続けていた演奏曲のデータ作りももうする必要がない。せいぜいギターを爪弾くくらいしか思いつかない。

「ゆっくりしていれば良いんですよ。ゴロゴロしてても良いですし、ギターを弾いても良いし、外を散歩しても良いし。」
「…夜から晶子は何時もどおり働くのに、何だかな…。」
「祐司さんは4月からまったく新しい世界に入って働くんですよ。その間の少しの休みを自由気ままに過ごしても、誰も文句を言う資格はないですよ。」

 自由気まま、か…。年末年始もそんな過ごし方だった。あの時は晶子の希望でひたすら互いと幸福と快楽を貪ることに主眼を置いた。今度は晶子が居ないから…、それこそ「何もしない」も選択肢。ただ寝るだけってのもありだろう。そんな生活が出来るのは谷間の2日間しかないかもしれない。

「時間帯が限られてるとは言え、独りで過ごすのは…何時以来だ?」
「私が憶えている限りでは…、祐司さんが成人式に出るために帰省した時だけですね。」
「あの時か…。そこまで遡らないと、俺と晶子が一緒に居なかった時はないのか…。」

 耕次達との約束を果たすため、2年前の年末年始に1週間ほど帰省した。その間、晶子との繋がりは夜に晶子からかかってくる電話のみ。あの時はまだ携帯を持つことを考えてなかったし、それほど変化があるとは思えなかったから毎日電話をする必要はないだろうとも少し思っていた。
 だが、毎日1回、せいぜい10分あるかないかの時間しか晶子の声を聞けない、晶子の顔は当然見えない、という状況が物足りなくなるのは直ぐだった。成人式以外俺がしたいことはなかったから−正直親戚回りはしたくなかった−、帰省期間はその前後くらいにしておけば良かった、と後悔するのも直ぐだった。
 俺の独りの2日間は、晶子がバイトに出る時間帯だけ。一方、あの時は終日だった。一時マスターと潤子さんのところに行っていたとは言え、ずっと独りだった晶子のその時の心境は、寂しいなんてもんじゃなかっただろう。「寂しい」と一言も言わなかったが、それだけ必死に抑え込んでいたに過ぎなかったわけだ。

「その時からもう、俺と晶子は2人一緒に居るのが普通になってたんだな。」
「はい。だから…、語弊があるかもしれませんけど、別居になることも覚悟の上で受けた公務員試験も全滅して、祐司さんと離れずに済んでほっとした面もあるんです。」
「別居になったら1週間どころじゃなくなるよな…。」

 俺も正直なところ、別居婚にはなりたくなかった。俺独りで今の生活水準、単に収入の多い少ないじゃなくて、清潔で快適な環境で暮らせることを維持出来るとは思えないし、何より晶子が居ない生活ってのが想像出来なかった。晶子が俺の家に住みつくようになって、俺の生活は意識のレベルでも晶子なしでは考えられないところに達していた。
 だから、晶子が就職活動に全滅して別居婚の可能性が潰えたのは、正直ほっとした面もあった。就職活動にしたって晶子は全力で取り組んでいたし、その結果精神的に限界に達したことで、保険として用意されていた今の店で働き続けることを選んだ。望んで叶わなかったものを望んでも手に入るわけがないし、今が最善の状態だと思う。

「あと1日頑張ってから考えるかな。」
「その方が良いですよ。明日まで祐司さんは店のスタッフの1人なんですから。」

 休みと言っても昼間は晶子も居る。4時間の過ごし方なんて、それこそ寝ていたら直ぐ過ぎてしまうだろう。まだ残り1日あるバイト。生活の糧であり晶子との交流の場でもあった、大学時代の多くを過ごした場所と時間を最後まで全うしたい。それは、後を引き継ぐ5人の新メンバーへのメッセージにもなるだろう。

「この時間帯は当店恒例のリクエストタイムですが、本日は特別編成でお送りします。」

 何時ものとおり慌ただしく、だが、人数が増えたことでゆとりがあるバイトの時間は瞬く間に過ぎ、リクエストタイムとなったところで、何時ものようにステージに上がったマスターが何時もと違うフレーズを並べる。

「本日を以って、安藤祐司君が本店を卒業します。」

 客席からは驚きの声と一部から悲鳴のような声が上がる。常連のOL集団からのようだ。4年間通ってくれたし、俺が一番最初に顔を覚えて覚えてもらった客だ。昨年のクリスマスコンサートにも来ていたから俺が今日で店を卒業することは知っている筈だが、改めて告知されたことで思い出したのかもしれない。

「安藤君は丸4年もの間、一貫して接客業務を担ってくれました。お客様の注文を伺ってキッチンに届け、キッチンで作られた料理をお客様にお届けすることは、料理と並ぶ店を示す顔です。重労働ですが、4年間のうちたった1週間足らずしか休まずに続けてくれたことは、店の運営において大きな支えでした。」
「…。」
「一方で、本業の学業での成果も堂々たるものです。御存じの方も多いと思いますが、安藤君が通っていた新京大学の工学部は、入るのも難しければ進級も難しい学部です。最終的な留年率は50%を超えると言われる条件にもかかわらず、ストレートでの進級・卒業に加えて、学部学生では珍しい部類に属する学術学会での発表をはじめとする大きな成果を上げ、折しも就職難と言われる時期において大学の推薦で優良企業から内定を得ました。学業との高レベルの両立に成功した稀有な例でしょう。」

 凄い持ち上げだな…。マスターの言うことそのものは事実だが、俺一人での成果じゃないし、これだけ大勢の前で称賛されるのはなかなかないからな…。

「安藤君は無事新京大学を卒業し、この4月から内定を得た企業で社会人としての第一歩を踏み出します。そのため、当店でのバイトは卒業となります。当店としては非常に残念ですが、安藤君の栄えある未来を祈念して、今日ご来店の皆様と共に送り出したいと思います。では安藤君、ステージにどうぞ。」

 こういう時は当人の挨拶が不可欠だよな。こんなイベントがあるなんて今日初めて知ったからまったく考えてないが、マスターの言ったことをなぞるような形で言えば良いかな。ステージに向かう最中、ステージに上がる最中に拍手が止まない。慣れないシチュエーションに違和感を覚えつつ、俺はマスターからマイクを譲り受ける。

「…皆さん、こんばんは。安藤です。マスターからご紹介いただいたとおり、本日バイトを卒業して4月から社会人になります。」

 ステージから見る光景は何時もと変わらないところもある。満席近い客席。飲食や談笑を止めてこちらを見る客。違うことろは、マスターと潤子さんの他、俺の後を引き継ぐ新スタッフ5人、そして晶子も注視していること。普段はそれぞれの仕事を続けているから、この空間に居る全ての人の視線を浴びることはない。

「大学に入ると同時に新京市に移り住んで、大学に通いながら今日までバイトを続けてきました。進級するごとに大学が忙しくなって、両立は正直大変な時もありましたが、こうして無事卒業の日を迎えられるまでやり通せて、ひと安心しています。」
「…。」
「私はバイトを卒業しますが、お客様だった人も含めた新スタッフが5人も加わりましたし、妻は引き続き働きます。充実したスタッフでお客様をお迎えできますので、これからもご来店いただければ幸いです。…御清聴、ありがとうございました。」

 客席から暖かい拍手が起こる。晶子にプレゼントした指輪が結婚指輪として早々に広まったことで、店の客層の主力の1つである男子中高生から殺意が籠った視線を向けられることも多かった。それでもこうして最後は拍手で送られるんだな…。何だかんだ言ってもこの店の客は温かい。温かい客に支えられるこの店も温かい。
 俺はこの温かい環境を巣立って、新しい環境である高須科学の社員として生きていくことが決まっている。悪い企業じゃないことは分かっているが、世帯主と新入社員を兼ねる立ち位置はかなり微妙なバランスだ。周囲に守ってもらえるという感覚は持つべきじゃない。この店での思い出を糧に前を向いて歩いて行くしかない。

「ありがとうございました。それでは今夜は特別編として、安藤君主体の演奏を繰り広げて行きたいと思います。」

 俺が戻したマイクでマスターが締めくくると、客席からの拍手の中、新スタッフのうち増崎君と小野君、そしてマスターが上がる。増崎君はギターを持ち、小野君はキーボードに向かい、マスターはアルトサックスを手に取る。新旧メンバーによるセッションか。

「安藤さん、どうぞ。」

 俺もギターを取ろうとした時、増崎君がギターを両手で持って差し出してくる。今まで自分でステージ脇のスタンドまで取りに行くのが当たり前だったから、ちょっと戸惑う。大学と学部学科が同じで、演奏楽器も同じの増崎君からギターを受け取るなんて、新旧交代の構図そのものだな。

「ありがとう。」

 俺は増崎君からギターを受け取り、ストラップに身体を通す。こうしてステージに立つのは今日が最後。気合を入れていくか。

「まず最初は、『UNITED SOUL』です。」

 道理でマスターと増崎君がステージに上がるわけだ。この曲はギターが中心だが、サックスが不可欠。勝田君もサックスが出来るが、此処は送る側としてマスターが出て来たわけだ。マスターとセッションしたことは思いのほか少なかったが、かつてライブハウスを席巻した名プレイヤーの腕前は今も健在。こうしてセッション出来ることはわくわくする。

「それでは参りましょう!」

 スタートは俺が担う。ひととおりステージを見回す。増崎君、小野君、そしてマスターが準備完了と小さく頷く。俺はシーケンサのフットスイッチを踏む。軽めのスネアによる2拍分のイントロが始まる。弱起だから聞き終えてからスタートとはいかない。…滑り出しは上々。さあ、行くか!

 ギターと共にパーカッションが全てフェードアウトする。顔を上げると同時に客席から大きな拍手が起こる。マスターとのセッションも少ないが、増崎君とは今回が初のセッション。これまで−と言っても半月程度だが、その間は個別にステージに上がっていたからだ。
 増崎君の腕前はやっぱり上々だ。高校時代にギターを始めたことは聞いているし、俺が託した演奏データを使って練習に励んでいるとも聞いている。だが、単独とセッションでは呼吸と言うのかフィーリングと言うのか、そういうものが違う。ステージ度胸も大したものだし、後継のギタリストとして十分だ。

「メンバー交代。続いてはしっとり行きましょう。『I'M IN YOU』のギターユニゾンバージョン。」

 マスターは勝田君と、小野君は何と潤子さんと交代。思わぬ番狂わせに客席からどよめきと歓声が上がる。潤子さんがステージに上がるのは今も日曜限定。それが何の前触れもなくステージに上がるんだから驚きを呼ぶのは当然だ。『I'M IN YOU』はピアノソロがある。これには潤子さんが必要だ。
 『I'M IN YOU』は現曲だと前半にギターのフレーズがあるが、俺が作ったギターユニゾンバージョンはピアノソロ以外は全てギターがメロディを担う。1曲目の『UNITED SOUL』がアップテンポだったが、『I'M IN YOU』は一転して落ち着いた曲調になる。クリスマスコンサートじゃないから、アップテンポ一辺倒じゃなくてバリエーションを豊富にすることに主眼を置いているんだろうか。
 ともかく準備は整ったようだ。やはりスタートは俺。曲もギターから始まるから丁度良い。ギターのエフェクタの切り替えを確認。ついでフットスイッチの位置を確認。…よし、OK。ナチュラルトーンでメロディラインを爪弾く。静まり返った客席に響く弦の音。やがてサックスが加わり、ピアノも加わる。初めての組み合わせによるセッションが始まる…。

 サックスの緩やかな締めが終わる。全ての楽器音が消えると、客席から大きな拍手が起こる。『UNITED SOUL』の時の盛り上がりや興奮と違って、感動や味わい深さを表している。アップテンポ一辺倒だとライブは良いが、こういう会場では聞いている方が疲れるだろうし。これも選曲の妙だな。

「ありがとうございました。アップテンポでは勢いで圧倒し、ミディアムやバラードではしっとり聞かせる。この演奏技術が4年間、お客様を楽しませ、店を支えてきました。本日はメンバーが頻繁に入れ替わりますが、安藤君が最後までメインを張ります。引き続きお楽しみください。」

 収束しかけた拍手が再び大きくなる。拍手がこだまする中、潤子さんが小野君と、勝田君とマスターが交代して、増崎君が再びステージに上がる。曲順も一切聞いてないから、メンバーからどんな曲か想像するくらいしか出来ない。こういう場だから即興演奏はないと思うが。

続いては『Jungle Dancer』です!」

 これが来たか。動物の鳴き声をギターでどう表現するか、苦心した末にデータも含めて作った記憶が今も鮮明だ。その甲斐あってか俺がステージに上がる際には定番の1つになった。増崎君がサブで支えてくれるから後顧の憂いはない。
 全員の準備が完了したのを確認して、俺はフットスイッチでスタートさせる。パーカッションに乗せて俺はギターで動物の鳴き声を表現する。遠吠えを模した部分で拍手が起こり、シンセとサブのギターが加わり、リズムが本格化する。数ある曲でも馴染み深い曲をたっぷり楽しんで演奏するかな。

 動物の咆哮を模したギターの音がゆっくりフェードアウトしていく。音が全て消えると、それと入れ替わりで大きな拍手が起こる。ステージに上がる機会が多かった俺の定番の1つだから、馴染みがある客も多いだろう。タイトルが宣言された時に「あの曲か」という顔をした客も少なからずいた。
 3曲演奏して思ったのは、プレイヤーによって同じ曲でも音色や曲の雰囲気が微妙に違って聞こえることだ。特にサックスは違いが鮮明に出ていたと思う。簡単に言えば、マスターは自由で息遣いが伝わるような生々しさ、勝田君は精密に音階と表情を制御して表現する精巧さ、ってところか。
 サックスはプレイヤーと一体化しやすい楽器と言われる。息遣いやマウスピースの操り方で同じ音を吹いても全く異なるものになりやすい。鍵盤楽器は初心者でも楽譜通りに弾けばそこそこ「らしく」聞こえるが、吹奏楽器は初心者と熟練者の差が如実に出てしまう。初心者が演奏しようとしても最悪音が出ないのも吹奏楽器の特徴だ。
 マスターは店主だから当然この店のこのステージに立ち続けるし、勝田君もレパートリーを増やしてステージに上がる機会も増えて来るだろう。まったく毛色の違う音色でユニゾンするのもライブならではの醍醐味。店に来たら聞けるかもしれないな。

「メンバーを入れ替えながらどんどん進めてまいります。」

 マスターが青木さんと、小野君が潤子さんプラス石川さんと交代する。一気にステージ上の女性比率が上がる。青木さんはステージ奥からフルートを持ってくる。客席から驚きの声が上がる。まだステージに上がる機会が殆どないから知られていないが、青木さんはフルート奏者だ。しかもかなりの上級者だったりする。
 青木さんは幼少時からフルートを習っていて、中学高校と吹奏学部でフルートを担当してきた。最近知ったことだが、新京高校の吹奏楽部は全国大会の常連だそうだ。元々進学校だから入るには相当の学力が必要だが、全国大会レベルの吹奏楽部ということで競争は激しい。その中でも1年から出場メンバーとして活動してきたそうだ。
 そんな、高校社会のトップスターの座にあったと言える青木さんがこの店に来たのは、親に半ば強制的に塾に通わされるようになったことがきっかけだった。元々部活に専念して音大への進学を夢見ていた青木さんだが、両親の猛反対にあい、考え直させるために塾に通わされるようになった。
 強豪の部活でレギュラーを持って成績を高い水準にするのはなかなか難しい。どうにか両立することで吹奏楽部を辞めさせられたりすることはなかったものの、強いストレスは避けられなかった。毎日イライラしながら通っていたところに、2年で同じクラスだった増崎君と小野君がこの店の話をしているのを耳にした。
 美味い料理があって良い演奏も聴けるから、行くと気持ちが落ち着く。そんな話を聞いて「そんな都合の良い話が」とせせら笑う気持ちと「それが本当だったら」という希望を感じた。そのまま暫く葛藤したものの、それが影響したのか定期テストの成績が芳しくなく、両親に叱られて落ち込んだことで塾帰りにこの店に足を向けた。
 その時丁度増崎君と小野君が来店していて、帰りに一緒になった。増崎君は俺と同じ大学・学部学科に進学できたくらいだから、新京高校でもかなり上位の成績。なのにストレスを抱える様子もなく部活−彼はテニス−も楽しんでいるのか疑問が強くなり、思わず尋ねた回答がこれだ。

何か楽しい場所や時間を見つけりゃ良いんだよ。俺にとってはあの店に居る時間がそうなんだ。

 一見難なく物事をこなす人も、内心ではストレスや葛藤を抱えていたりする。成績が上位だとそれが当たり前になり、低下が許されないようなプレッシャーが周囲からかかる。上位になると更に上げるのは容易じゃないから、維持するだけでも大変だ。
 俺も経験したそんなストレスや葛藤は、増崎君も、そして小野君も同じだった。新京高校での成績争いは熾烈の一言。その中で自分の好きなこと−部活動だったり彼氏彼女との交際だったりを守るため、必死に毎日を生きている。その中でふと心安らぐ時。それが増崎君と小野君にとっては店に居る時だった。
 新京高校だと塾通いが普通。増崎君と小野君は部活動で遅くなることがあって、それから帰宅して塾に行くのは時間的に無理なこともあった。不思議なことに、塾へ行くなら中高生でも夜に外で食事をしたり、夜遅くに出歩いても良いとなることが多い。増崎君と小野君はそれを利用して店に来ていた。
 両親からのプレッシャーと部活で出場メンバーを維持することのプレッシャーの板挟みになっていた青木さんは、そこからの逃避のため、この店に通うことにした。やはり塾に行くことと部活で遅くなることを組み合わせることで、店に行く時間を捻出出来た。
 店に行って必ずこうしなければならないということはない。食べるにしても夕食としても良いし−そのための定食メニューが喫茶店にしては多い−、小腹が空いたのを満たす程度の軽めのものでも良い。食べることに専念しても良いし、食べつつ歓談したり宿題をしても良い。常識的な範疇なら席を立つまでの間何をしようが構わない。
 部活が別だし同じクラスで行動を共にしていると色々噂になりやすいから、連れだって来店することはなかったが、塾は大手予備校だから新京高校だとまず同じだし、学校か部活が終わってからだと塾に行く前か後かの違いくらいしかない。店で会って気ままに話をしたり、試験について情報交換をしたりしてたそうだ。

「これまで当店になかった楽器であるフルートを加えてお送りするのは、『DAISY FIELD』と当店と同じ名称の『Dandelion Hill』のギタープラスバージョン。2曲続けてどうぞ!」

 アレンジはサックスのパートをギターに置き換えただけ。軽いオーバードライブをかけたエレキはサックスと似た音色になるから、使い勝手が良い。普段はサックスプレイヤーのマスターが居るから練習用くらいの位置づけだったが、今日ばかりは違う。
 それより、2曲とも普段はキーボードだったフルートが生演奏になるのが決定的に違う。ギターではエフェクトをいじってもフルートの素朴な音色は出ない。エフェクト自体が音を複雑にする性質だからエフェクトで素朴な音色を出そうとするのが無理な話だが、おかげでデータを作ったは良いがキーボード、すなわち潤子さんが必須の曲で日曜限定になった。
 日曜も塾はあるから、潤子さん目当てに来る客が時々リクエストしたが、平日に演奏するのは初めてのこと。客によっては初めて見る新メンバーが今までなかった楽器を演奏するんだから、興味と不安が半々というところか。だが、青木さんはやや緊張した様子ながらも自信がみなぎっている。
 準備完了を確認して、俺はフットスイッチを押す。軽いドラムのフィルで「DAISY FIELD」が幕を開ける。ベースとドラム以外全てのパートを人間が演奏するが故の微妙な揺れが、逆に心地良い。複数でステージに上がるのは晶子の時を除いて普段は限られていた。クリスマスコンサートなど限られた機会しかなかった。
 青木さんのフルートが加わる。思わず口笛を合わせたくなるような素朴で軽快な音色。しかも生演奏。初めて見る人も多いのか、客が驚いた様子でステージを注視する。春の日差しが降り注ぐ丘で口笛を吹いているような感覚すら覚える。この分だと新たなリードパートは当面安泰だな…。

 全てのパートが揃っての締めが全て虚空に消える。同時に大きな歓声と拍手が起こる。青木さんはフルートから口を離すと、一礼して客席を見ないように佇む。ステージ度胸は十分だったが、初めてかまだ数度目のステージは、これまでの演奏会とは勝手が違うだろう。
 青木さんも良かったが、やはり潤子さんが際立っていた。「DAISY FIELD」もかなり難しいソロがあるが、「Dandelion Hill」はパラティドルを使った超絶難易度のソロが最後にある。うまく弾きこなせば拍手喝采だが失敗するとかなり悪い方で目立つ。それを見事に弾きこなすのは潤子さんならではだ。

「これだけの人数が一度にステージに上がることは、普段はありません。このステージならではの妙をお楽しみください。」

 客からのリクエストが一切ないから客の反応が気になるところだが、普段見られない多人数でのセッション、そして俺の卒業公演が重なって大いに盛り上がっている。メンバーがひっきりなしに変わるのも、「次は何か」「次は誰が出るのか」を予想する楽しみを生んでいる。
 今度ステージに上がったのは、青木さんに替わった勝田君、増崎君、潤子さんと替わった小野君、そして今回初登場の石川さん。俺以外全員新スタッフのフレッシュな組み合わせだ。石川さんがステージ奥からもう1つの弦楽器、ベースを抱えて出て来たことで、少し落ち着き始めた客席が大きくどよめく。
 石川さんの担当楽器はベース。かなり意外な感もあるが、石川さんは新京高校で軽音楽同好会を発足させて活動してきた実力派。高校卒業で同好会から離れてこれからどうしようかと考えていたところで、3年で同じクラスだった青木さんに誘われてこのバイトに応募したそうだ。
 シーケンサを使っていると知って、正直ベースは要らないんじゃないかと思ったそうだ。それはベースが居ないが故の代替え措置であり、ベースが居ればステージに上げていく、というのはマスターが説明した。初ステージをこの場に選んだのは、青木さん同様ステージ度胸と実力を公開試験するためだろう。
 これまでシーケンサに任せていたのを人間、しかも加入したばかりの新スタッフに任せるだけでも注目度合いは高い。そこに女性とは直ぐに結びつかないベースとなれば、期待の高まりは青天井。だが、流石に同好会でも定期的なライブを開催してきたというだけあって、石川さんは多少の緊張感はあっても平然とした様子だ。

「基本的にシーケンサに頼らざるを得なかったベース担当を加えてお送りするのは、『BIG CITY』と『KNIGHT'S SONG』の2曲。人間ならではのリアルタイムで躍動するベースラインと共にお楽しみください!」

 なるほど、石川さんを出したわけだ。「BIG CITY」はベースソロがあるし、「KNIGHT'S SONG」はテンポが速い曲でベースが忙しい。色々な角度から実力が試される。石川さんは早速ベースを構える。言われるまでもなくやる気満々な様子だ。
 「BIG CITY」はサビのサックスが印象を左右するし、「KNIGHT'S SONG」はEWIの高速ソロがある。勝田君はサックスとEWIを含むウィンドシンセを使える。ウィンドシンセはC管だが、この店のサックスの代名詞であるアルトサックスはE♭管だから感覚が異なるらしい。勿論息の使い方は大きく異なるから、管楽器を複数使いこなすのは難しい。
 ウィンドシンセはサックスで代用するか、ギターバージョンとして俺が担当するか潤子さんがキーボードで演奏するかだった。エフェクタをかぶせたりはするが、サックスは元々音色が違うし、ギターやキーボードは弾き方から違うから、管楽器特有の息の変動による微妙な変化は表現出来ない。ウィンドシンセを使える勝田君はステージに立つ機会が大きく増える可能性がある。
 サックスとウィンドシンセはメロディラインを司る。元々管楽器は同レベルでもプレイヤーが違うと全く違う感じに聞こえやすいが、メロディラインが違うと曲自体の印象まで変わってくる。サックスと言えばマスターという構図がずっと続いてきたこの店で、しかも高レベルとステージ度胸が求められるこの場でステージに送られたのも、やはり実力の公開試験だろう。
 何れにせよ、ここまで来た以上中断は出来ない。客もメンバー交代と準備以上の待機時間を望んでいない。フットスイッチを押すと、少し重めのドラムフィルが入る。早速石川さんが加わる。チョッパーベースはかなりのパワーが求められるが、良い感じの力強さだ。これなら心配ないな…。

 「KNIGHT'S SONG」のサビの終わりを改造した締めが終わる。同時に大きな歓声と拍手が沸き起こる。動きの激しい曲を続けたことですっかり汗だくだ。石川さんは深々と一礼する。客席から指笛も混じる。ベースと女性というあまり見ない組み合わせを不安していた向きも完全に消えたようだ。
 実際、石川さんのベースは十分な力強さだった。終始チョッパー奏法が必要な「BIG CITY」もそうだが、「KINIGHT'S SONG」は大半をフルスピードのフレーズが占める。低音を支えるベースで力強さを維持するには相当の体力も必要だ。女性とベースの組み合わせを不安視する向きはその事実に基づくものだ。
 石川さんのベースは終始ペースを維持していた。ただ力任せだったり勢いに任せてかき鳴らすんじゃなく、キチンとフレーズを爪弾いていた。同好会と言うと軽いイメージがあるが、定期的な活動をするだけでもそれなりに準備をしたり、関係者に手配したりする交渉も必要だから、一定の組織力や運営力も求められる。それらをこなしてきただけのことはある。

「卒業する安藤君の後を継ぐ5人の新スタッフも、改めて皆様に紹介するため、順次ステージに送りだしています。新たな楽器も加わり、当店の演奏の幅と厚みが増すことが期待されます。」

 やっぱり顔見世も兼ねてのことか。これで5人全員がステージに上がったが、全員演奏の腕前もステージ度胸も十分なものだ。4年前の俺よりレベルが高いんじゃないかと思う。

「新たな楽器も加えたことで、これまでなかなか披露出来なかった曲を幾つか御紹介します。『BEYOND THE DAWN』『AFTER THE RAIN』。少し落ち着いた曲をゆったりとお聞きください。」

 ステージに上がったのは、勝田君と替わった青木さん、小野君がシンセ群に移動して潤子さんが登場してピアノに、増崎君と青木さんはそのまま。新スタッフが居るのは勿論だが、かなり斬新な組み合わせだ。最初の「BEYOUND THE DAWN」に備えてエフェクタを切って少しステージ奥に下がり、青木さんを最前列に出す。
 「BEYOND THE DAWN」はフルートが必須で、ピアノの難易度が非常に高い。ピアノは最初以外両手をフル稼働させないと不可能だから、マスターがソプラノサックスで代用するしかなかった。「AFTER RAIN」はベースがメロディを担う、この店のレパートリーでは少数派の曲。曲の難易度はさほど高くないが、必要な楽器がないと演奏自体が出来ない。
 データを作ったは良いが演奏する機会が殆ど或いは全くなくて、実質お蔵入りしていた2曲がこうして登場するのは、俺が卒業する代わりに楽器の幅も広がった新スタッフで引き続きステージを飾っていくという意気込みの表れだろう。俺は小休止も兼ねてステージ少し奥から見守る立場に徹する。
 ピアノの低域による夜明け前を彷彿とさせるイントロが始まる。8小節目と同時にフットスイッチを押す。控えめなドラムに続いて増崎君のギターとベースも加わる。俺のギターがメロディとして加わっても、まだ曲の雰囲気は変わらない。フルートが加わるとようやく雰囲気が変わり始める。さて、此処からが聞きどころだ…。

 最後の音が静かに消える。同時に大きな拍手が起こる。「BEYOND THE DAWN」は最後のピアノソロに圧倒された様子だったが、「AFTER THE RAIN」は良い雰囲気を味わえたことに対する感謝のようだ。「BEYOND THE DAWN」は曲調に大きな変化はないが、ソロの難易度が高い。しかもソロの多くをピアノが占める。特に最後のソロは尋常じゃない。
 穏やかな曲調とはいえ決してテンポは遅くない曲で、6連符は当たり前、8連符すらある。必然的に高い技術を求められるパラティドルも必要になる。それを見事に弾きこなしたことで、新スタッフを加えても潤子さんのピアノの定位置は不動であることを十二分に示した格好だ。
 超絶的な技巧を示して締めた「BEYOND THE DAWN」は、一転して終始ゆったりした曲。基本はベース、時に俺が軽くオーバードライブを効かせたものと小野君がシンセを重ねて代用するバイオリンが加わる程度。バイオリンもメロディを担うのはサビくらいで、ピチカート(註:バイオリンなどオーケストラ弦楽器の弦を指で弾く奏法)の方が多い。
 今回初登場の「BIG CITY」と「KNIGHT'S SONG」と比較して曲調が正反対と言えるほど大きく違う分、勢いで押すような奏法は通用しない。しかもプレイヤーには意外と難しいスイング調(註:8分音符の後ろ側が少しずれて弾むようなリズムになる曲。ジャズに多い)。こういう曲調でも石川さんは十分適応できていた。プレイヤーのレベルの高さを十分感じさせた。
 青木さんの即興力もなかなかだった。「BEYOND THE DAWN」はフルートがメロディもソロもあったが、「AFTER THE RAIN」は本来フルートがない。ステージ上で棒立ちになると悪い方向でかなり目立つ。奥に引っ込めば十分なんだが、青木さんはサビでフルートを重ねた。スイング調の曲にフルートが加わると口笛を吹いているような錯覚を覚える。
 高い技術力を求められる局面と、曲調に合った演奏を求められる局面。それぞれで新スタッフは十分な役割を果たした。新スタッフは技量面で店のレパートリーの幅を大きく広げる可能性を見せた、否、可能性が広がることを示したと思う。公開試験としては十分合格点だ。

「今後店を支えていく新スタッフの御紹介も兼ねた、安藤君の卒業記念ステージ。そろそろ終幕の時を迎えました。」

 客席から溜息が漏れる。今までになく頻繁にプレイヤーが入れ替わる特別ステージは、店の閉店時間を考えるとあと1曲が精いっぱいだ。

「最後は幅と厚みを増した新スタッフ全員と通常は日曜限定のピアニスト交えてお送りしましょう!『GLORIUS ROAD』!」

 ステージ脇に下がっていた勝田君がステージに上がる。勝田君はウィンドシンセを手にして青木さんとで俺を挟む形に並ぶ。去年のクリスマスコンサートの最後で演奏したこの曲。あの時は晶子が初めてキーボードを演奏したが、今日は終始カウンター前で佇み、じっと見つめている。
 マスターがステージに上がらないのは、退出するかもしれない客の対応をするため。そして晶子が一度もステージに上がらないのは、俺の最後のステージを観客として見させるため。こういう思惑が想像出来るようになったのは、俺が多少なりとも成長したゆえだろうか。
 俺は万感の思いを込めてフットスイッチを押す。歯切れの良いドラムのフィルが入り、全ての楽器が一斉にスタートする。通常はイントロを待機する俺も、後半のソロで使うエフェクターをかけた音色でメロディに加わる。音の厚みが凄い。2年前の夏のコンサートを彷彿とさせる感覚に包まれながら、1つ1つ音を爪弾いていく…。

 俺のステージでの演奏が全て終わった。客席から大きな拍手と歓声が起こる。万雷の拍手ってのはこういうのを言うんだろう。俺はステージに上がった新スタッフ全員と潤子さん、今日来てくれた全ての客、そしてステージ脇に佇むマスターとカウンター前に佇む晶子に最大限の感謝をこめて深く一礼する。

「ありがとうございました。」

 大きな拍手が続く中、マスターがステージに上がる。両脇を固めていた増崎君と青木さんは少し下がり、俺とマスターが並ぶ形になる。

「当店の繁栄を支えてくれた安藤君に、今一度大きな拍手を!」

 拍手がもうこれ以上ないほど大きくなる。カウンター前の晶子も力いっぱい手を叩いている。何だか…目が熱くなってきた。俺は目を閉じて再度深く一礼する。4年間、最初は仕事を覚えるのが精いっぱいだった。大学生活との両立が大変だった時もあった。だけど、その苦労の上に…今日があるんだよな…。
 仕事を覚えながら演奏を続けることで音楽の楽しさを再発見した。公会堂でプロのミュージシャンと共演する機会も出来た。そして…晶子と出逢い、時間と経験を共有してきた。この店は俺のもう1つの、否、俺の実家だ。此処で作った色々な思い出を胸に、間もなく始まる社会人としての生活を踏み出そう。

マスター。潤子さん。新スタッフの皆。そして…晶子。ありがとう…!

 何時もより、否、今までより早い時間に帰宅。リビングの明かりを点けて持っていたもの−花束をテーブルに置く。コンサートが終わり、店を出る全ての客と1人1人握手して、これまでのように店の掃除をした後で、潤子さんから手渡されたものだ。
 「仕事の後の一杯」も少し早いアイスコーヒーで乾杯。改めてマスターと潤子さんと新スタッフから労いと感謝の言葉を貰い、晶子と一緒に見送りを受けて家路に就いた。明日以降も引き続き店で働く晶子が一緒なのは、2人きりで改めて祝えというマスターと潤子さんの計らいだろう。

「家に花瓶ってあったっけ?」
「大丈夫ですよ。」

 晶子がキッチンから箱を持ってきて開ける。陶器の筒のような素朴な花瓶だ。

「用意が良いな。」
「昨日潤子さんからこっそり貰ったんですよ。今日のために仕舞っておいて、って。」
「今日の演奏も練習してきたんだろうから、色々準備してくれたんだな。」

 今日のステージで演奏された曲の大半は難易度が高い。弾き慣れているマスターと潤子さんはまだしも、今日演奏した曲を十分把握しているとは言えない新スタッフがいきなり弾きこなせというのは無理な話。恐らく今日のステージの日程を早々に決めて、新スタッフ採用と同時に練習を指示したんだろう。
 それを差し引いても、新スタッフの腕前は上々だった。フルートとベースが新たに加わり、サックスにウィンドシンセも加算されたから、演奏の厚みが増すのは今日で十分立証できた。人数も俺の-1があっても+5でトータルでは+4と、俺の卒業前の倍になった。シフト勤務も編成されて勤務形態が楽になるとマスターが言っていた。
 盛大な特別ステージを用意してもらったが、社会人になってからは客として帰りに寄ることになった。引き続き働く晶子の夕飯を食べるためだ。晶子の勤務日程は全体の勤務形態の中での調整になるからまだ分からないが、定休日以外に1日休日が出来るのは間違いないとのことだ。
 スタッフから客へと立場が変わるのは、新スタッフと逆だ。先輩面するんじゃなくて、1人の客として店の様子や変遷を見たい。キッチンには小野君と青木さんも入るそうだし、入れ替わり立ち替わり料理を作るキッチンも少しは楽になるだろう。その辺も楽しみだ。

「これでどうでしょう?」
「花があるだけで部屋の印象が変わるな。」

 晶子が茶箪笥の上に置いた花瓶は、置かれたものが少ないリビングで一際存在感を放っている。細い筒の先から溢れる薔薇やカスミ草が凄く豪華に見える。花を飾るってこと自体、今日を迎えなかったらあり得なかったことだ。

「…お疲れさまでした。」

 花瓶を置いた晶子が歩み寄って言う。この言葉、晶子から1対1の時に聞きたかった。

「今日のステージ、凄く良かったです。祐司さんが輝いて見えました。」
「あれは俺の最後のステージにしちゃ、豪華だったな。皆で練習したんだろ?」
「はい。皆さんで曲を決めて、今日までにしっかり練習しておくようにとマスターが指示を出したんです。」
「そうだよな。幾ら増崎君達の腕が高いと言っても、あれだけの数の曲をいきなり弾きこなせる筈がないし。」
「そういう演出は嫌でしたか?」
「否、全然。1人のステージも良いけど、大勢で演奏するのはやっぱり楽しい。機会そのものが少なかったし、増崎君達が頑張ってくれることもよく分かったし、満足しかない。」

 あんな豪勢なステージを用意してくれただけで十分だ。音楽の楽しさは難しい曲を弾きこなすこともあるが、最大の楽しみは複数で演奏して1つの曲を形作ることだと俺は思う。その楽しみをあれだけの時間体験できたことは、今日までバイトを続けて来たことで得られた至高の宝石だ。

「晶子が観客に徹してたのも、ステージの一環と言うかそんなところか?」
「はい。祐司さんの最後のステージをしっかり見ておきなさい、ってマスターと潤子さんに言われて。」
「じっと見てたよな。ステージから良く見えた。」
「祐司さんのお店での集大成ですから、一瞬たりとも見逃すまいと思って見てました…。」

 晶子はそう言って俺に抱きつく。

「短い春休みですけど、ゆっくり休んでくださいね。」
「改めて考えてると、何だか晶子に悪いな。」
「全然。」

 俺は2日間とはいえ大学もバイトもない完全な休日。晶子は通常どおり夕方から店で働く。休んでも良さそうなものだが、俺と晶子の居場所であるこの家とこの生活を自分でも作るために、何時か俺と晶子の子どもを万全の体制で迎えるために働ける限り働く。そんな晶子の姿勢は揺るがない。
 俺は2日間の休みを終えたら社会人になる。それは取りも直さずこの家とこの生活を守るためだ。2日間の休日をその準備期間として使おう。それが…俺の役割と言えるかな。2人で始めたこの生活と、生活を営む基盤であるこの家を守るのは、俺と晶子しか居ないんだから…。
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