雨上がりの午後

Chapter 317 山あり谷あり、迎える一つの結実

written by Moonstone

 やれやれ…。結局大して卒論は書けなかった。序文と概要が図面を含めて固まったくらいだ。ひっきりなしに質問が来るし、兎に角結果と関連資料だけ持ってくるから、学生居室のデスクじゃ対応が難しいと判断して、大川さんのノートPCを貸してもらってそこに卒論をコピーして、会議室に詰めて対応にあたった。
 バイトが休みの月曜、しかも年明け初出勤。幾分「慣らし」も考えていたのに、最初から最後まで卒論を書きつつ質問攻勢に対処する羽目になるとは…。止むに止まれず、晶子に急遽メールして1時間帰宅時間を遅らせたいと伝えた。
 幸い、晶子からの返答は快諾で、先に帰って夕飯の準備をしておくこと、もし更に遅くなるようならメールして欲しい、というものだった。申し訳ないと詫びてから気合を入れ直して全力投球。1時間遅れで強引に切り上げて−データを纏めて何が問題かきちんと考察しておくよう言った−帰宅の途に就いた。
 胡桃町駅を出て自転車に乗って家路を急ぐ。晶子には先んじて「今から帰る」とメールを送ってある。「気を付けて帰って来て」返信が間もなく届いている。大学は年明けから大変だったが…、家に帰れば晶子が待ってる。そんな楽しみがあるから、早く帰りたいしそのために頑張ろうと思う。
 自転車置き場に滑り込んでエントランスを通り抜け、晶子との我が家に駆け上がる。電灯が灯っているのは外から確認した。インターホンを鳴らせば…。

「お帰りなさい。」
「ただいま。」

 ポニーテールに纏めてエプロンを着けた晶子が笑顔で出迎えてくれる。これだけで溜まった疲労が何割か解消されるような気がする。

「悪い…。遅くなった…。」
「気にしないでください。晩御飯は出来てますから、一緒に食べましょう。」

 兎も角鍵とチェーンをかけて、玄関を上がる。リビングは暖かく、テーブルには2人分の食膳が並べられている。料理がまだなのは冷めるのを防ぐため。俺は急いでコートとマフラーと鞄を片づけて、洗面所に走って手洗いとうがいをして大急ぎでリビングに戻る。

「そんなに慌てなくても、晩御飯は逃げませんよ。」
「もう待たせるわけにはいかないからな。」
「この家で待っていれば必ず帰ってくるって分かってますから、心配要りませんよ。」

 帰宅時間を含めて1時間半待ったにもかかわらず、晶子は上機嫌だ。食卓に料理が並び、晶子はエプロンを外して俺の向かい側に腰を降ろす。待ちに待った夕飯の始まりだ。
 …満腹。腹を減らしていることを予想していたのか、量も豊富な料理は空腹を解消して疲労を更に解消するには十分だ。自分の食器を運んでリビングに戻り、茶を飲む。息を吐くたびに疲れが和らいでいくように思う。これが「癒し」ってもんなんだな…。
 リビングを見回す。東側に固まっている俺が持ち出した音楽関係のものと、ほぼ中央にある食卓になる小さなテーブル、それと西側にある俺の家と晶子の家から持ち出した不揃いの茶ダンスが2つ。やはりそれぞれの家から持ち出したカーペットを東西に並べた、統一感のない貧乏くさいとも言える空間。
 だが、凄く落ち着くしほっとする。喧騒と焦燥から隔絶された空間。此処に帰れば自分の空間と時間がある。そして…晶子が居る。大学やバイトから完全に気分を切り替えられる。帰りたくなる家がある。世間的には勇み足だろうが、この空間と時間とパートナーを得られたから結婚して良かったと思う。

「落ち着きました?」

 晶子が切ったリンゴを持って来る。さっきまで洗い物をしていたと思ったら、直ぐ終わったんだな。

「もうすっかり落ち着いた。早く帰りたかったんだが…。」
「年明け早々大変でしたね。」
「自分のことで大変なら自業自得だから受け入れるしかないんだが、他の研究テーマの面倒を見るのはなかなか…。」

 そこまで口にしたところで、続く言葉を飲み込む。晶子は何も知らない。それに俺のある意味人の良さで1時間半待つ羽目になった。俺の愚痴とも自慢とも取れない話を聞かされてもつまらないだろう。残った茶を触媒にして溜息に変換する。

「…でも、この家に帰りたくて頑張った。」
「お疲れさまでした。」

 どちらからともなく抱き合う。これが…一番この家に帰りたい理由。俺の帰りを待っててくれる人がいる。それを味わえるから、用事を済ませたら早く帰りたくてならない。この家に戻った実感を更に味わうために、その実感を掴める関係を確かめるために、晶子をしっかり抱きしめる。

「マッサージしましょうか。」

 暫く抱き合った後、晶子が言う。

「長い時間座って集中すると、肩や背中がこるでしょう?」
「それはそうだが、そこまで…。」
「まあまあ、遠慮しないで。」

 晶子は早くも乗り気で、俺は半ばなすがままにうつ伏せになる。晶子の両手が俺の肩を掴み、強く圧しつける。圧迫感と痛みが襲うが、それが不思議と心地良い。「痛気持ち良い」ってやつだろうか。

「痛かったら言ってくださいね。」
「このまま…暫く続けて。」
「分かりました。」

 背後から時に掌の付け根、時に指先で彼方此方強く圧される。思わず呻き声が出てしまうが、身体の彼方此方に詰まっていた疲れの残滓が喉から押し出されたようなものだと思う。現に、晶子のマッサージが終わった肩のあたりは、かなり楽になった。
 晶子のマッサージは背中、続いて腰へと移動していく。全て圧迫感と痛みはあるが、最初に受けた肩のインパクトが強かったせいか驚くほどじゃない。肩が一番酷かったのもあるかもしれない。腰のマッサージが終わると、重ねた両手で肩から順にトントンと叩いていく。

「はい、おしまいです。どうですか?」
「…あー、凄く楽になった。」

 床から起き上がって感覚を確かめると、明らかに楽になった。特に肩と腰にあった何かを詰め込まれたよな違和感がスッキリ消えた。贔屓目を除いてもとても素人とは思えないマッサージだと思う。

「随分本格的だな。」
「本を読んで練習してたんです。」

 晶子は茶ダンスの上に置いてあった本を持って来る。「読んで覚えるマッサージのススメ」とある。ざっと見ても、各所のマッサージのポイントやコツが詳細に解説されているようだ。詳しいがページ数はそれなりにある。読んで理解するのはそう簡単じゃない。

「練習台は床ですよ。誤解しないでくださいね。祐司さんの背格好は十分分かってますから。」
「本とイメージであれだけ実践出来れば大したもんだ。」
「こういう時、色々な本が山ほどある学科で良かったと思います。文学とマッサージにどういう関係があるのかと言われると答えに窮しますけど。」

 ゼミにこういう本があるのか…。このところ全然行ってないが、本の種類と数に不自由しないのは文学部ならではだろう。俺の研究室にも本は多数あるが、休憩室を除いて全部電気電子関連のものだから味気も素気もない。

「メールが来た時、研究室が大変なんだろうなと思って、その対策になるものを探してたらこの本があって…。本には事欠かない学科やゼミで良かったです。」
「研究室のことは俺の面倒事なのに、巻き込んじまったみたいで悪いな。」
「外で頑張って来る祐司さんのために何か出来ることをしたいんです。特に4月からはそういう姿勢が重要だと思って。」

 4月からは俺は社会人となる。和佐田さんに先んじて問い合わせたところ、結婚していれば当然手続きは必要になるが、きちんと扶養手当などが出るそうだ。6月までは研修期間でも対外的・社会的には妻帯者と扱われるのは間違いない。俺より晶子の方がそれを強く意識している面がある。
 俺としては勿論嬉しい。結婚してから一気に豹変してぐうたら&贅沢三昧で散財、家事は放棄で家はゴミだらけということはなく、何処もかしこも整理整頓と清潔が保たれている。その上バイトはしっかり続けている。疲労に関しては俺より晶子の方がずっと溜まっていても不思議じゃない。

「その姿勢は凄くありがたいし、感謝してる。だが、全てにおいて完璧を目指そうとして心身を壊さないようにして欲しい。」
「はい。それは十分気を付けます。私はこうして此処で祐司さんと暮らせて幸せですし、この環境に居られる私しか味わえない幸せをもっと探していきたいんです。」

 こういう幸せを安っぽいとする向きもあるだろう。正直、晶子との結婚報告パーティーでも晶子側の出席者はそんな感覚だと感じさせられた。だが、その安っぽい幸せを出発点としない限り、女性誌あたりが喧伝する優雅な生活に行きつく可能性も低くなることを分かってない。
 あのパーティーの帰り途、晶子側の出席者への批判を正面から展開した渉は、「女の95%は自分が上位5%と信じて疑わない。それが現実的と言われる女の現実認識の度合いだ。」と言っていた。数字は比喩的なものだろうが、優雅な生活に行きつくのが当然でそれを実現出来ない経済力の男性は不要とさえする向きからすると、その考え自体はさほど間違ってないと思う。
 そういった現実との乖離は、自分は何でも与えられるのが当然という意識、要求が通らないと全て他人のせいにするし、それが許される環境が融合して生じる。渉が二次会の席上でも言っていたが、今時は女性だと他人から全否定されるような批判を受けることはまずないし、受けたらその相手をセクハラだ何だと社会的に抹殺出来るシステムが出来あがっている。
 そうまでして男性を選び続けて所謂「玉の輿」に乗れる可能性は否定しない。だが、渉の表現を転用して言うなら「それほど自分が女性の中で上位の存在だと思ってるのか?」だ。渉の説のとおりそう信じて疑わないなら論外だが、シンデレラ願望と言うか白馬の王子様待望論と言うか、そういうものがあるとなかなか自分が多数派であることは認められない。
 現在広く深く浸透しつつあるフェミニズムに立脚した男女平等施策は、結局のところ女性に下駄を履かせて優遇するものでしかない。ちょくちょくそれに対する反論として、世界を相手に活躍する女性が例に挙げられるが、そんな人はごく僅か。その人は相応の能力なり技術なりがあったからであって、自分はどうなのかと問うとヒステリーを起こす。
 上位5%に居ると勘違いして、挙句5%ではなくても10%か20%が相手でも「自分には相応しくない」と撥ね退け続けていれば、やがて限界が来る。その時には望んでいた「玉の輿」はおろか、下位30%に入る状況が待っているだろう。永遠に「良い男が居ない」と言い続けるだけなら害はないが、それを男性や社会に向けるとフェミニズムの先陣を走る連中と重なる。

「こうすると、特に幸せを全身で感じられるんです。」

 言うが早いか、晶子は俺の懐に潜り込んで、俺に背中を委ねる。晶子一番のお気に入りの人間座椅子だ。その姿勢のままで、晶子はテーブルの上の林檎に手を伸ばし、加えた状態で俺の方を向く。…口移しの意向か。俺は林檎を口で受け取って食べる。

「必ず此処に帰って来ると分かってるから、帰りが遅くなっても大丈夫です。」

 晶子は俺からさっきの返礼としての林檎を口で受け取って食べてから言う。

「祐司さんは卒研の進捗が良好ですから、大学は基本9時5時で帰れますけど、4月からはそうはいかないと思ってます。研修期間が終われば尚のこと。なのに、帰ってこなくて寂しいとか私がうろたえたりしていたら祐司さんは仕事に専念出来ませんし、祐司さんの立場が悪くなります。」
「…。」
「もう祐司さんと私は結婚して、此処で1つの家庭を築いています。それなら帰りが遅くなっても必ず帰って来る。お腹を空かせて疲れて帰って来るなら、それを癒せる場にしておこう。今から慣らしておけば、環境の変化でうろたえることも少なくなる。…そう思ったんです。」

 4月からの心の準備、か。寂しい寂しいと訴えるだけでは家庭は回らない。早婚と言える俺と晶子の社会的信用を突き崩すことになりかねない。ならば、俺が必ず此処に帰って来ることを拠り所にして、帰って来たくなる環境づくりをするように方針づける。晶子の言うことは全て理に適っている。
 晶子はやはり妻としての心構えが着実に出来て来ている。その分、2人で居られる時間、すなわちこの家で過ごす時間は晶子の望むことを叶えられるようにしたい。晶子が望むものなんて、他からすれば安っぽいと思えるであろう、俺に触れあって甘えて愛し合うことくらいなんだから。

…。

「安藤君!早速頼む!」
「…。」

 翌日。昨夜の余韻で気分良く卒論を書いていたところに、一気にげんなりさせる呼び声がかかる。昨日今日で目覚ましい進展があるとは思わないし思わない方が良いんだが、だからと言って研究室に来て直ぐ俺に助けを求めるのはどうなんだろう?

「昨日のアドバイスからそこそこ進んだんだけど、いきなりまったく動かなくなったんだ。ソースリストは全く問題ないのに…!」
「…院生の人は?」
「『レジスタの使い方をよく調べろ』の一点張りなんだ。設定は間違ってないし…!」
「…見てみるか。」

 俺は学部4年に先導されて実験室に向かう。実験室の一角にはノートPCと、それとUSB接続のロジックアナライザ、そしてオシロスコープが10cm角くらいの回路基板を囲むように配置されている。マイコンを用いた小型遠隔監視システム。制御はPCで一括管理して、多数のシステムから情報を集める。セキュリティや夜間の病院の患者の異常を即座に把握することを主目的にしている。
 システムは掌サイズだから電池駆動出来ることが大前提。となると実質マイコンで集中制御するしかない。1個の素子でA/D変換をしつつタイマで時間を計り、他の素子やPCなどと通信したりといった一人何役がプログラム次第で出来てしまう。しかも上手く使えば電池1個で何カ月も動く。利用しない手はない。

「具体的にどういう状況なんだ?」
「タイマ0の割り込みがかからないんだ。これがかからないと一定周期でA/D変換が出来ないし、A/D変換が出来ないとシステム自体が成り立たないし…。」
「空いてるピンで見たりしたか?」
「してるしてる。これなんだ。」

 学部4年がマイコンのピンの1本にオシロスコープのプローブ(註:信号を見るための専用端子)を当てる。先んじて出ているチャンネル1のシステムクロックらしい波形は…20MHzが出ているが、プローブのチャンネル2は何も出ていない。割り込みがかかっていないと見るべき状況だな。

「ソースリストの割り込み関数に入ったところでDレジスタの0番をHにして、出るところでLにするようにしたから、何も出てないってことは割り込みが動作してないってことだよね?」
「そうだな。Dレジスタ0番の設定は間違ってないな?」
「それは確認済み。なのにどうして…?」
「それはこれから検証しよう。マイコンのデータシートを見せて。特に割り込み部分のところ。」
「マイコンの?開発環境じゃなくて?」
「ビルド(註:ソフトウェア開発環境でソースコードを実行可能なファイル形式(有名どころでは拡張子exeのEXEファイル)に変換すること。エラーがあると当然変換出来ない)が出来てるなら、少なくともレジスタの設定は何かしら出来ていて、ソースコードもとりあえず問題ない状況だ。だったら、レジスタの設定の仕方に問題があると見た方が良い。それを調べるにはデータシートが必要だ。」

 立ったままだとどうもやり辛いから、会議室に移動する。間もなく学部4年が持ってきたデータシートの「割り込み」の項目を広げて、ソースリストと照合する。…割り込み関数の書式は、このメーカーの純正IDE(註:マイコンなどの製造販売企業以外の企業が、そのマイコンなどのIDEを開発販売している場合が多い。どれが性能が良いかは一概には言えない)だと正しい。
 だとすると、やっぱりレジスタの設定に問題があると見た方が良いな。さてさて、その定義部分は…此処か。別途関数(註:C言語では役割などの単位で一種のブラックボックスを作って、引数と言われるパラメータを与えて戻り値という結果を返すことを組み合わせるのが普通)を作ってる。メインからの呼び出しも…void型(註:C言語の関数は引数も戻り値も、整数か少数かなどを識別する型と呼ばれる記述(定義)が必要。引数や戻り値がない関数(今回のようにレジスタを設定するなど)もあるが、それも「存在しない」という型(これがvoid=無)を定義する必要がある)だから問題ないな。

「…これ、おかしくないか?」

 暫くデータシート−生憎全部英語−とソースリストを照合していて、おかしな点に気づく。割り込みを設定するレジスタの1つが、タイマ0じゃなくてタイマ2の割り込みを許可する設定になっている。ビットで言うと1番(註:ビットを数える場合は通常0番から始める)が0になるべきところが1になっているだけだが、以降の設定が効果なくなってしまう。
 もう1つ。これは割り込み動作の異常に直接関係ないが、分周器(註:信号を何分の1かの周波数に落とす回路ブロック。多いのは1/(2のべき乗)=1/2,1/4,1/8、…)の設定だと、ソースリストのコメントにある1kHzにならない。思わぬトラブルに遭遇する恐れがある。

「これだとタイマ0じゃなくて、タイマ2の割り込み設定になる。」
「え?…あ、ホントだ…。」
「割り込み設定が本来使いたいタイマ0じゃなくて、タイマ2になってるから、幾ら他が正しくてもタイマ0が機能しないから、割り込みが機能する筈がない。」
「うわ…。これだけのことで…。」
「1ビットでも設定が違うと動作がおかしくなったりするのがマイコンだからな。あと、分周器の設定が2kHzになってるから、コメントに合わせるならこれも直しておいた方が良い。」
「…あ、ホントだ。全然気づかなかったな…。」
「これで割り込みがかかるか確認してから、次の課題に取りかかれば良い。」
「分かった!いやー、やっぱり行き詰ったら安藤君に見てもらうのが一番確実だなー!」
「もう少しソースを入念にチェックしてからにしてくれ。1からデータシートを読むのは大変だ。」

 俺の言うことを聞いているのかいないのか、随分軽い足取りで会議室を後にしていく。行き詰って八方塞だったところに打開の可能性が高い策が見つかったから、嬉しくなる気持ちは分かるが…。いちいち今後の動向にまで気を配らない方が精神衛生上は良いようだな。

「えっと…。次、良いかな?」

 俺は思わず突っ伏してしまう。一難去ってまた一難、入れ換わり立ち替わり、色々な言い方があるが、今日も当分対応に追われそうだな…。

「−うん、OKだね。」

 野志先生が満足げに何度か頷いて俺に原稿の束を返す。思わず安堵の溜息が出そうになるのをすんでのところで堪える。他より一足早い卒研の完成は、俺の卒業の条件がほぼ完全に揃ったということだ。
 年明け早々から他のテーマの学部4年の対応に追われ始め、なかなか思うように書けなかった。それでも時間をやりくりして、家にも持ち帰って少しずつ進めて、何度かの査読を経て、ついに完成と相成った。後は製本を生協に委託すれば良い。最終発表には余裕で間に合う。

「原型は殆ど夏の学会発表で出来てたとは言え、ずば抜けた出来だね。卒研にしておくのは勿体ないくらいだよ。」
「ありがとうございます。」

 返された原稿の束は、まさにこの1年の集大成だ。学生最後の夏休みを費やして実験と解析に明けくれた。学会発表に使うスライドを何度も作り直した。学会開催前に提出の必要がある論文は、何度書き直したか分からない。
 未だに着なれないスーツを着て学会開催地に新幹線で赴き、前日は緊張で眠れなかった。題目と名前を呼ばれた時は、会場の全ての視線が集中したような気がした。登壇した時は一瞬頭が真っ白になった。そういったことが全て懐かしく、何だか遠い過去のようにも思える。

「これで残るは最終発表だけだけど、スライドはそれこそ学会発表のプラスαで良いよ。時間の制約もあるからね。そちらは大川君と相談して進めてもらえば良い。」
「分かりました。」
「学会発表もそうだけど、やっぱり飯田君と被るね。」

 5年前に学部4年で学会発表をこなした先輩である飯田さんも、その出来栄えから卒研の実質的な完了と卒論作成のゴーサインが出たそうだ。他の学部4年の面倒を見つつ最終発表前に卒論を完成させたそうだし、当時助教になってまだ2年目だったという野志先生の記憶に強く残っているんだろう。
 その飯田さんから学振の研究費を分けてもらう形で、複数のフィルタとアンプの回路基板を作っている。こちらは年明けからなかなか進んでないが、シミュレーションとほぼ一致する特性が出て来ている。それらの集約と回路パターンの増強が今後のメインの1つと位置づけて良いだろう。

「学会発表終了あたりから他の学部4年の面倒を見てたのも同じだからね。そっちの方はどう?」
「進んでいる…と言えます。ひっきりなしに来るので対応が大変ですけど。」
「今まで人任せにしたりして要領良くやってきたツケが出てるよね。卒研は1人1テーマにしてるからそうはいかないよ。」

 グループだと人手の問題はかなり楽になるが、どうしてもする人間としない人間が生じやすい。しない人間の役割はする人間に圧し掛かって来るから、負担の差が当然生じる。事象が面倒になるほどする人間としない人間の差は大きくなる。俺は学生実験でそれを嫌と言うほど経験して来た。
 それを見越しているのか、上手く出来ているというのか、卒研は1テーマ1人の担当となる。院生は指導役だから任せきりには出来ないし、他のグループメンバーに丸投げすることも出来ない。拘束が緩いことに安住していると、何時の間にか最終報告が迫って来るし、その前哨戦である中間報告では散々な目に遭う。
 実際、先月の最後の中間発表では、俺を含む3名以外はなかなか悲惨な状況だった。俺が色々教えたりしても、今までが今までだからたかが年明けから2週間程度で大きな進捗を出すのは難しい。結局当たり障りのないレベルにしかならず、質疑応答では久野尾先生と野志先生、そして院生から徹底的に質問攻めされる羽目になった。
 流石にこれではまずいとようやく認識したらしく、絞られた学部4年は連日研究室に詰めている。それでも今まで骨身に染み込んだ姿勢の誘惑が強いし、学生実験での蓄積もないから、行き詰ると直ちに立ち往生する。そして俺のところに深刻な顔で来る。この繰り返しだ。
 学生生活最後の最後で酷い目に遭っている、という認識もあるだろう。だが、もっと早くから手掛けていれば少なくともこんな状況にはならなかった。先生や院生も放置は決してしないし、自分の手を止めてでも打ち合わせや討論に対応してくれる。中間発表の度にある程度の進捗を出すことは十分可能だ。その条件を生かさなかったのは学部4年本人だ。

「この調子だと、他の学部4年は最終発表ギリギリまで取り組んでどうかといったところだろうね。安藤君はスライドにプラスα程度で十分だから、学部4年をフォローしてあげて。」
「はい。分かりました。」

 正直もう少し何とかならないものかと思うが、代々続くフラグシップの宿命だから、出来る限りするやるしかない。どうにも分からない時は先生方や院生−特に指導役の人−に話を持ちかければ良いし、復習や知識の幅の拡大と考えて前向きに取り組む方が気が楽で良い。
 ある分野を題材に運営されるのが研究室だから、テーマは多数あっても基本となる知識や技術はある程度決まっている。ハードウェアで言うと、高速な信号処理ならFPGA、複数の処理を並行させたり低電力を指向するならマイコン。それにA/DやD/A、センサ関係や無線関係のICやモジュールが加わって来る。
 ソフトウェアは、FPGAではVHDLかVerilogだし−厳密はソフトウェアじゃないが−、マイコンではC言語、PCではVSS(註:Visual Software Stationの略で、作中におけるPCアプリケーション統合開発環境の略称)でVisual CかVisual Basic。あとはそれらをどう使ってどんな回路やシステムを作るか、だ。
 ハードウェアやソフトウェアの性能が向上して、様々なことが容易に出来るようになっても、基礎的な部分は大して変わらない。FPGAならVHDLかVerilogでライブラリを読み込み→入出力を定義→内部信号を定義→回路動作の記述と進める。更にIPコアを組み込んだり、本体となるファイルにモジュールとなるファイルを接続したりする。
 これらは言語によって文法の違いや記述の仕方があるが、することは同じ。それより問題なのはFPGAでどんな回路を作るか、その回路はどんな仕様なのか、IPコアを使うか自分で作るかといったこと。VHDLやVerilogの文法とIDEの使い方−これもそれほど大きくは違わない−さえ理解していれば、どう使いこなすかにかかってくる。
 異なるテーマの相談や質問にどうにかこうにか対応出来ているのは、そういった基本となるハードウェアやソフトウェアをひととおり使えるからだと思う。でも、それは俺が特別な訓練をしたわけでもなく、自宅で趣味で電子工作をしているわけじゃなく、講義で培った知識と学生実験の経験を融合させた結果。すなわち、特別な才能でも何でもない。

「自分で見たり院生から聞いたりしてると、やっぱり差が歴然としてる。この調子でやってもらえば良いよ。」
「はい。」
「高須科学の方針や制度の問題もあるから簡単にはいかないだろうけど、社会人院生のことを考えておいて欲しいんだ。今後は企業の研究開発者も博士が求められるようになって来る。大学や研究機関と関連がある企業なら、社会人院生を奨励すると思う。」
「高須科学は、理学系の修士博士が考案して工学系が作るっていう分担体制だそうです。工学系で博士は必要でしょうか?」
「うん。その装置やシステムがどういうものかは、研究を知っているからこそ出て来るものもある。出て来る装置が理学や工学の材料物性関係で主に使われるものなら、尚のこと研究に携わった経験が理学系の立場とのディスカッションで生きて来る。」
「なるほど…。」
「大学も社会人院生を教育研究や費用の面から積極的に支援していく方針を打ち出したし、高須科学での生活が落ち着いたら、上司とかとも相談して是非社会人院生になって欲しい。歓迎するよ。」

 社会人で院生、か…。二足の草鞋が言うほど簡単じゃないことくらいは俺でも分かる。平日の残業を少なくしたり、休日を丸々使ったりして時間をやりくりして研究を進めないといけない。仮に会社から出資を受けて博士を取れないまま退学となったら、評価がた落ちは避けられない。
 だが、院生生活や博士取得に全く興味がないと言えばそんなことはない。博士は学業における大きな到達の証だ。それは決して損にはならない筈。まずは仕事に順応することが重要なのは勿論だが、修士博士で構成される理学系と渡り合う武器の1つとして、博士取得を目指して見るのも良さそうだ。

「−うん、これでもう十分だね。」

 最前列に居た大川さんがOKを出す。何時の間にかほぼ全員集合していた院生、院生に連れられて来た学部4年、そして久野尾先生と野志先生から拍手が起こる。2月も下旬に差し掛かった久野尾研の会議室で、俺の実質的な最終発表が終わった。
 本来は大川さんと最終発表に向けた予行演習の大詰めのつもりだった。しかし、準備をしているところを見た木村さんが、「こういう発表を目指すように、と学部4年に見せたい」と言って自分が指導する智一を連れて来たのを皮切りに、研究室の面々が続々と集まり、久野尾先生と野志先生もやってきた。
 発表は夏の学会発表を基軸に以降の成果などを肉付けしたものだ。修正を加えたのは肉付けした部分が殆どで、それによって時間的な問題やもっと詳細に、或いは卒研の最終発表では不要な部分を削ったりといった整合性を取るものが少々あったくらいだ。
 時間は最終発表と同じく発表25分、質疑応答5分。発表はほぼ制限時間丁度。質疑応答もPCのタイマー表示を見ると残り10秒。色々な質問や意見が飛んで来たが、殆どが夏の学会発表や予行演習の段階で出たことで、分かりやすく説明することに重点を置くことが出来た。

「いやぁ、素晴らしい出来栄えでしたね。1年の豊富な成果が存分に盛り込まれていてボリュームも密度も圧巻でした。非の打ちどころがないというのはまさにこのことですね。」
「発表が最初から最後までビシッと一本筋が通っていたね。スライドもパッと見で何を言いたいのか分かって良かった。聞いていて全然退屈しなかったよ。」
「これだよ、これ。最終発表はこういう発表っていう模範的な内容だった。」
「時間だけ調整すれば、3月の学会発表にそのまま持って行けるレベルだったなぁ。」
「まさに理想的な卒研発表だった。いやはや、恐れ入りました。」

 久野尾先生と野志先生、そして院生から称賛の言葉が送られる。開始前に久野尾先生から「本番と思って発表してください」と言われたが、それに相応しいレベルに到達したと思って良さそうだ。

「あと半月ちょっとでこのレベルって…。」
「レベル1の勇者1人で大魔王に勝てって言うような現実だ…。」
「見通しが甘かったなぁ…。もっと早くからやっておくんだった…。」

 対して学部4年の表情は殆ど重い。徹底的に打ちのめされたような顔をしている人も居る。客観的に見て確かに目に見える進捗なり成果なりを含んだ内容の発表は、現時点では非常に難しい。何せ進捗や成果以前にあまりにも初歩のレベルで足掻いていることを痛感して愕然としている状況だからだ。

「安藤君は、この発表を以って卒研は全て完了したと思ってもらって構いません。」
「ありがとうございます。」
「今後は、フィルタとアンプの特性評価と学部4年対象のレクチャーに使ってください。」
「分かりました。」

 学部4年対象のレクチャーの方が、ほぼ完成していた卒研のスライド作りより大変だったりする。これは学部4年を個別に指導・打ち合わせをするより共通事項であるハードウェアやIDE、プログラミングなどを一括して教える、研究室内部の講義のようなものだ。
 VHDLならテンプレートに出来る記述の基本形を皮切りに、process文(註:VHDLにおける回路機能ブロック。process〜end processで囲まれた部分が、ある信号の挙動をトリガとして駆動する。これを使わないとVHDLでのロジック回路はかなり限定される)の概念、トップレベルとモジュール(註:process文を発展させたイメージで、回路機能を他でも使えるように記述したものがモジュールで、必要なモジュールを統合する回路本体がトップレベル。この概念を理解することでVHDLがより機能的になる)の使い方、主だった回路機能の作り方まで、実際のIDEを使いながら講義する形式だ。
 例えば午前はマイコン、午後はVHDLといった具合に進めているが、これがなかなか骨が折れる。スライド作りもさることながら、「どうやってするの?」という疑問を解消出来るような作りにしておかないと二度手間になる。これがVHDLだけじゃなくてマイコンもあるし、アナログ回路もあるからかなり大変だ。
 ある程度は学生実験でも経験済みのものだが、これが意外というかやはりというか出来てない。マイコンの割り込みにしても、単に関数を書けば出来ると思っている人が意外と多かった。マイコンごとに異なるレジスタを設定して、IDE特有の割り込み関数の書式を使って初めて実現出来るものだと説明するだけで驚かれて、どうしたものかと思った。
 幸いなのは、効果がそれなりに出ていること。マイコンは幾つか異なる製品が使われているしその分IDEも違うが、レジスタを設定して割り込み関数を記述することは共通している。基本さえ理解しておけば、ツールの使い方を覚えることで順応できる場合が殆どだ。VHDLやVerilogに至っては、IPコアとかIDE特有のものを除けばメーカーが変わっても変わらない(変わっちゃいけない性質のものだが)。
 マイコンだと躓くのは、割り込みの仕方とレジスタの設定が大半を占める傾向にある。割り込みもレジスタの設定が必須だから、実質レジスタの設定さえ分かればあとはそれぞれメーカーや製品−マイコンも上位機種だと機能が多くてその分レジスタの設定項目が多い−に適合するように考えれば良い。
 割り込みは大抵、レジスタで割り込みの条件−タイマか外部入力だと考えて良い−を設定→タイマなら割り込み周期、外部入力ならそのピンを設定→割り込みレジスタの所定のビットを許可にする−1か0かはマイコンによって異なる−で準備完了。あとはマイコンとIDEに応じた割り込み関数を書いて、その中に割り込み処理を書けば良い。これも基本的な流れはどのマイコンやIDEでも変わらない。
 そういったことが分かれば、曲がりなりにも新京大学に入れる程度の頭を持ってるから、自分の環境や言語に合わせて応用すればどうにか出来るようになる。ある程度レクチャーしていくと、卒研の進捗が底上げされたようで、基本的なことを聞かれることはなくなってきたし、院生も指導しやすくなったと感謝されている。
 ちなみに受講は自由としているが、前回の中間発表でも俺と共に良好とされた森崎、下屋両名以外は全て受講している。当初は受講しないとにっちもさっちもいかなかったのもあるが、俺が準備していると急かして来るのは、熱心なのか他人任せなのか判断が分かれるところだ。

「最終発表まで残すところ2週間余りです。最終発表に相応しいレベルを期待しています。」

 久野尾先生の穏やかな口調での宣言からは、猛烈なプレッシャーを感じさせる。普段学生の前に出て来て、この時期学部4年を叱咤激励するのは主に野志先生だが、研究室の統括者は久野尾先生。野志先生を通じて学部4年の動向は全て伝わっている。頭を抱えるか怒り心頭かでもおかしくない。
 だが、個人的には怒声を張り上げるよりこういう暗に迫る方が恐怖を感じると思う。尻を叩かれないことに高を括って安穏と過ごしていると、ある日深刻な現実を突きつけられる。その時にはもう手遅れで、ひたすら後悔するしかない。現に学部4年の多くがそういう状況に陥りかけている。
 あるテーマにおいて前年度と比較して明確な進捗や成果−必ずしも成功じゃなくて「これまでの方式では難しい」でも良い−を出すには、相当詰め込まないと厳しい。レクチャーは質疑応答を含めて午前午後各1時間程度だが、それでも2時間はロスする。現状で1日2時間のロスは結構大きい。
 俺は土日出ないから話に聞くだけだが、大半の学部4年は土日関係なく研究室に詰めているそうだ。それこそ帰宅するのは寝るためだけのようなものだとか。まだ実験や結果解析の時間が割りと短い方だからこの程度で済むという見方も出来る。材料物性関係だと実験の準備だけで相当かかることもあるから、帰宅も難しくなるらしい。
 ともあれ、俺はもう卒業に向けて準備がほぼ整った。教員免許と国家資格の関係の講義が合計2コマあるだけだし、それらは単位が取りやすい。久野尾先生の指示どおり、飯田さんの資金援助も得ているフィルタとアンプの特性評価と、学部4年向けのレクチャーに専念すれば良い。
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