雨上がりの午後

Chapter 302 夏の夜の熱愛(後編)〜温かい朝へ〜

written by Moonstone

 湯船に浸かっていたら確実にのぼせていたと思うくらい長い風呂を終えて、俺は晶子と部屋に戻る。俺は腰に、晶子は胸から下にバスタオルを巻きつけている。俺は抱きかかえて来た晶子をベッドに降ろし、俺はその隣に腰を降ろす。
 裸のまま晶子を運んで、ベッドで即始めることは十分可能だ。バスルームで始まることも十分想定していた晶子だから、バスタオルを巻いてベッド脇に並んで座ることはむしろ不思議に思うかもしれない。俺もバスルームで最高潮に達したままの興奮をそのまま発散したい。だがやっぱり今日はもう少しムードを大切にしたい。
 晶子は俺の左肩に凭れて、左腕に両腕を絡めている。窓際で夜景を見ていた時と服装と場所が違うだけだ。バスタオルを巻きつけている胸元は、半分ほど露わになっている。少し圧迫された2つの膨らみとそれが織りなす深い谷間は、目を引き付けて「もっと見たい」という欲求を高める効果が抜群だ。

「こういう格好って、普段はしないよな。」
「パジャマを着ますよね。ですから余計に…ドキドキします。」
「見方によっては…、裸よりエロティックだな。」
「ご希望でしたら、毎晩しますよ?」
「本当にしそうだな。」
「勿論ですよ。祐司さんが望むなら…。」

 晶子と見つめ合う。切なげで物欲しげでもある表情に惹きつけられるように、俺は晶子を抱き寄せてキスをする。晶子がキスをしたまま俺の左腕から離れ、身体は密着させながら俺の正面に来る。俺に跨って首に両腕を回し、改めて密着する。バスルームでの光景の再現に近い体勢で、少し沈静化していた興奮が再燃する。
 俺は晶子を抱きしめて身体を後方にゆっくり倒す。その後、晶子と体勢を入れ替えてずらすような動きで全身をベッドに乗せる。暫く深いキスを堪能してから唇を離す。両手を晶子の脇近くに突いて仰向けの晶子を見る。目を開けた晶子は俺から視線を逸らさない。

「綺麗だ…。」
「嬉しい…。来て…。」

 訴えるような晶子の声が、俺の欲求の琴線を強く刺激する。俺は晶子のバスタオルに手をかけ、ゆっくり左右に開く。俺が手で直接隈なく洗った身体が全容を現す。一糸纏わぬ身体は素焼きの陶器のような白さと凹凸が明瞭な曲線を携えている。何度も見て触れて感じた晶子の身体は、その魅力と艶っぽさが全く色褪せないどころか見るたびに洗練されているように思う。
 俺は自分のバスタオルを取り払う。俺と晶子の間を遮るものは何もない。改めて身体を沈めて晶子を抱きしめる。柔らかくて滑らかで温かい身体…。全部俺のものだ…!

…。

 身体の硬直が解ける。深い溜息に続いて荒い呼吸が始まる。下を見ると、目を閉じて荒い呼吸をしている晶子が仰向けで無防備な姿を晒している。最初から激しかったからな…。

「大丈夫か?」
「平気です…。もっと…。」

 無防備な姿はそのままに、目を開けた晶子は呼びかけに応じて求める。俺とて終えるつもりはさらさらない。まだまだこれからだ…。

…。

 身体が硬直するとほぼ同時に、上で嬌声が勃発する。硬直の解消に併せて目を開ける。俺に跨っている晶子が天を仰いで息を切らしている。俺は晶子の腰から手を離して様子を見る。暫くすると、晶子が俺の腹に両手を突き、その両手を俺の両脇傍にずらし、次は両肘を折って俺に覆いかぶさるように倒れ込む。軽い衝撃と圧迫感と共に、布団とは違う柔らかさが伝わってくる。
 耳元では晶子の荒い呼吸音だけが繰り返される。晶子は上になると兎に角激しく動く。回数を重ねることで俺が興奮して放出を促せる動きを体得していった結果だが、その分疲労が強まる。晶子が1週間寝込んだ要因の1つは、俺が説得して休ませるまで夜に必ずこの激しい動きを伴う体位を続けたこともある。

「凄かった…。」
「俺の台詞だ、それは…。」

 俺は晶子の動きに誘発されて魂ごと吸い取られそうな感覚を覚える。淫靡さはこれ以上ないくらいだし快感と幸福感は最高だが、サキュバスの化身なんじゃないかと思ってしまう。

「もっと…ください…。」
「俺もそのつもりだが…、ちょっと小休止…。」

 2回目でかなり多く放出したような気がする。晶子は上になった時以外は基本的に動きを受ける側だが、俺はその逆。結構体力を使うから適度に休息を挟む。その間、顔を上げた晶子が俺の顔にキスの嵐を降らして催促するのはご愛敬…。

…。

 3回目の身体の硬直が解けていくのと交替で、強い疲労感が襲ってくる。下と言うか斜め下方には、うつ伏せの晶子がシーツに顔を埋めている。シーツを握りしめていた両手は力を緩めているのと、肩で息をしているのは分かるが、表情や疲労の度合いは窺い知れない。
 3回目となると俺も相当動かないと放出に至らない。京都旅行で最後のタガが外れたことで、気の向くままか流れかの何れかで体位を変える。そして激しく動く。晶子は抵抗しないし−初めての体位だと恥ずかしがることはある−、先に上になって終わると相当体力を消耗している。体力は俺の方が上だから晶子は思うがままに出来る。
 ある程度呼吸が落ち着いたところで晶子の臀部から両手を離し、身体も離す。だが晶子の姿勢は直ぐには変わらない。無防備に突きだされた下半身に欲情の炎が再点火されたのを感じつつ、俺は晶子の隣に身体を横たえる。それに合わせるかのように晶子の下半身が徐々にベッドに沈んでいく。

「は…、激しかった…。」
「そうしたつもり…。」

 晶子はシーツに突っ伏していた顔を、首の角度だけ変えて俺に向ける。汗で顔に髪の一部が貼り付き、乱れた後の独特の色っぽさを醸し出している。俺は晶子の左手を取って軽く握る。晶子の左手が緩やかに握り返す。体力を消耗しつつも俺との繋がりを感じたいという意志の表れだ。
 晶子は結構スキンシップを好む。京都旅行で偶然晶子のツボに嵌った人間座椅子もそうだし、一緒に風呂に入るのもそうだし、セックスもスキンシップの延長線上と見ることが出来る。だから回数を重ねても飽きるどころかより求めてさえ来るんだろう。
 手を繋ぐのは前から好きで、俺がその希望を叶えられるようになったのは割と最近のことだ。何故かどうにも照れくさい気持ちが先行してなかなか出来なかったが、こうして繋げる時に繋ぐだけで喜ぶのが晶子だ。今も…疲労が濃い表情に安堵と喜びが滲んでいる。

「嬉しい…。」
「手を繋ぐの、本当に好きだよな。」

 俺はかなりの気だるさを感じながら、もう片方の手で晶子を抱き寄せる。すっかり体力を消耗した晶子は、シーツの上を滑るように移動して俺に密着する。俺の手を握る晶子の手に、残された僅かな力が込められる。

「尽きるまで…してください…。私で…。」
「何時もと同じだ。ただ…、もう少しこうしていたい。」

 ペースが最高状態で維持されている夜は、俺が尽きるまで続く。自分の腰が立たなくなっても、失神しても続けて欲しい、と晶子は以前から言っている。夜が不満で他の女に目が向くのを防げるならその方がずっと嬉しいし幸せだ、とも言っている。焼きもちとは異なる形で表面化する強い独占欲だ。
 俺自身、そうしたいしそうしている。万年発情期と言われる年代と男という性別は、やはり一旦セックスの味を占めるとなかなか「減量」出来ない。男の欲に女が十分応じられないと欲求不満が生じる。だから、可能な限り夜の求めに応じて欲しいと思うのが正直なところだ。
 その点、晶子は申し分ない。胸元どころか下着を透けて見せることも頑強に防ぐ昼間のガードの固さと比べて、同一人物かと疑うような淫靡さと、磨きがかかり続ける見事な肢体を併せ持っている。晶子が力尽きると同時に俺も精根尽き果てるが、最中には猛烈な快感と幸福感が連続し、終わってからは溢れんばかりの満足感と幸福感に浸れる。
 だからと言って、するだけして終わったら寝るだけってのはどうも好かない。それこそ性欲処理の道具に見立てているようなもんだ。好きな女だから、妻だから抱きたいし、体力のある限り抱く。小休止や終わった後は手を繋いだり会話をしたり、抱きしめたりする。営みと言うくらいだから一方的な押し売りじゃいけない。

「そろそろ…良いかな。」

 かなり体力を消耗したことを実感するが、まだ満足しきっていない。さっき晶子から身体を離した後、下半身だけを高く突きだした晶子のあられもない姿を見たからだ。適度に肉がついて引き締まった2本の脚にのみ支えられた、肉付きの良い尻。それが剥き出しですぐ目の前にあれば、興奮しない筈がない。

「どうぞ…ご自由に…。」
「御言葉に甘えて…。」

 俺は晶子と手を繋いだまま身体を起こし、晶子の斜め後方に向かう。普段見ることのない背中から腰、そして脚が全て晒されている。俺は少し開かれた脚の隙間にもう片方の手を差し込む。俺の左手が一瞬少し強く握られて、ゆっくり脚の隙間が開いていく。さあ、今夜最後の一戦も全力で行くか…。

…。

 一番長い身体の硬直が解ける。深い溜息に続いて荒い呼吸が始まる。俺の下では、仰向けの晶子が断続的に身体を脈動させている。通常の枠を超えた絶頂に達したようだ。京都旅行の第4夜とかでもそうだったが、特別なシチュエーションと俺の愛情を実感することが重なると快感が強まるらしい。
 3回目以上に俺は激しく動き、腰が立たない晶子を思うがままにした。3回目以上に俺が放出するまでに時間がかかったから、その分晶子が普段からは想像もつかない姿態を晒す時間が増える。体力が少ない分声も殆ど上げないが、見事なスタイルの女が自分の意のままに姿勢を変えるだけでも十分興奮する。
 残された僅かな力で俺は晶子から身体を離す。ようやく断続的な脈動が収まりかけている晶子は当然そのままの格好。可能ならもう1回、否、何度でもしたいが、出せるものと体力はもう限界だ。そもそも一晩で4回っていうのもかなりのものの筈。満足なのは勿論だが…しんどい。

「…はぁ…。」

 俺が倒れ込むように晶子の隣に身体を横たえると、それまで荒い呼吸を続けていた晶子の口から有声音が漏れる。半開きの口からは涎が漏れている。そしてゆっくりと首の向きを俺の方に変える。失神はしてなかったか。

「す…凄かった…。」
「手を繋いだのが…良かったか?」
「はい…。嬉しくて…。」

 体位の関係で何度か繋ぎ直したり、繋ぐのが難しい場合は離したが、それ以外はずっと手を繋いでいた。声を上げることもままならず、俺の思うがままにされるほどの体力しかなくても、手を握る力は普段とさほど変わらないように思った。手を離している時は俺の手を探しているような素振りを見せたし、僅かな体力で俺に攻められること以外の俺との繋がりを求めていたのかもしれない。
 今も手を繋いでいる。もう殆ど体力は残っていない筈だが、晶子は俺の手をしっかり握っている。それを頼りにするかのように、晶子は物凄く緩慢な動作で仰向けのまま身体を俺の方に平行移動させ−ほんの数センチだが−、顔全体が視界を埋めるほどの距離になったところで、これまた緩慢な動作で身体全体を俺の方に向けて倒す。

「明日は…思いっきり遅刻しそうだな…。」
「起こしますよ…。私が…。」
「俺が言うのも何だが…、無理なような…。」
「平気です…。」

 そう言って晶子は笑みを浮かべる。汗で前髪が貼りついた顔は疲労感が濃いが、何故か強い自信を感じる。今までも…晶子が先に寝入っても殆ど晶子が先に起きていて、何事もなかったかのように振る舞ってたな…。別に遅刻してもどうなるわけでもないんだが…晶子に頼ろうかな…。

「それじゃ…頼む。」
「はい…。おやすみなさい…。」

 晶子は微笑んで目を閉じていく。荒かった呼吸が規則的な寝息に変わる。眠ったというか力尽きたというか、何れにせよ晶子は当分起きないだろう。バスルームでの興奮を持ち込んで激しくなった夜は終わった、か…。目が覚めたら…何時もの俺の家のベッドの上だったら…どんな反応をするだろうな…。

…。

 …視界が開ける。…この天井は…何時もと違う。左隣は…晶子。俺を見て少しびっくりした様子だ。どうしたんだ…?

「起こしちゃいました?」
「否、自然に目が覚めた。何で?」
「頬っぺたを少し突いても全然起きる様子がなかったので…。」

 まだ靄(もや)がかかっていた意識が少しずつ鮮明さを取り戻していく。右肘で上体を支える晶子は、シーツで胸まで包んでいる。汗こそ乾いているが、髪は顔に貼り付いたままだ。やっぱり…昨夜は夢じゃなかったんだな…。

「改めて…おはようございます。」
「おはよう。…何時頃起きたんだ?」
「ベッドのアラームで見たら、6時頃でした。習慣って凄いですね。」

 6時頃と言えば、晶子が普段起きる時刻。平日は俺と自分の弁当を作り、朝飯を作って更には下ごしらえや作り置きをするために、夏休みに入っても変わっていない、晶子の1日が始まる時刻だ。その時間に今日も起きるなんて…。
 昨夜は−昨夜「も」か−激しくて、晶子は顔を上げることも出来なくなった。普段飲まない酒も入っていたし、強い疲労と重なって寝過ごすんじゃないかと思っていた。酒が入ると極端に寝起きが悪くなる俺が言えたもんじゃないし、寝過ごしても構わなかった。
 それでも、決まった時間に目が覚めて、見た限りでは全く疲労の残りや意識の霞もない。日頃の習慣というには凄い。身体に刻み込まれた精巧な時計と言うべきだろう。

「祐司さんも随分早起きですよ。まだ6時半過ぎですし。」
「え?まさか…。」

 酒が入った時の寝起きの悪さは自覚出来るレベルだ。昨日飲んだワインは舌触りの良さで調子に乗って飲むと簡単に泥酔するレベルのアルコール度数だった。それをしこたま飲んだ上、あれだけ激しい夜を営んだ後で普段でもその時間に目が覚めるかどうかの6時半頃に目を覚ますなんて…。
 身体を180度反転させてベッド内蔵の時計を見る。…6時36分。この手の時計がいきなり狂ったり止まったりすることはまず考えられない。何なんだろう…?自分のことながら全然分からないし、安心したような勿体ないことをしたような複雑な気分で脱力してしまう。

「そんなに驚かなくても…。」
「自分じゃないみたいだ…。」
「まぎれもなく、祐司さんですよ…。私の大切な夫の…。私に素敵な夜をくれた…。」

 何かの偶然か間違いかで予想外の時間に目覚めたことは納得するとして…、改めて晶子を見る。シーツに胸まで包んで少しまどろんだような表情で俺を見つめている。朝の柔らかい光に照らされた髪と肌は、昨夜の名残で一部接着している。露出した2本のしなやかな腕と胸の膨らみの上部が、夜と同じくらいの艶っぽさと爽やかな色気を同時に放っている。

「目覚めた時、直ぐ傍に祐司さんが寝ていて…、昨日の幸せな時間はやっぱり夢じゃなかった、私を力の限り愛してくれた祐司さんはずっと私の傍に居てくれた…。そう確信出来て…、幸せに浸ってました…。」
「…。」
「祐司さんが私にくれたこの時間…、祐司さんの愛…、全てが…私の身体と記憶に刻み込まれました…。この幸せを独り占め出来る私は…、本当に幸せです…。」
「…俺もだ。」

 俺は晶子を抱き寄せる。横向きからゆっくりと俺が上になる。手は繋いだままだから、晶子を抱くのは右腕だけ。それでも不思議と晶子の全てを感じられる。この温もり、この柔らかさ、この滑らかさ、全て昨夜存分に感じて味わったものだ。
 俺の背中に回った晶子の左手が、俺の背中をゆっくり撫でる。俺の存在を確かめるかのように。俺の感触を味わうかのように。俺の腕より自由が利く分撫でる範囲が広い。普通に抱き合うより密着感が強くなる。
 晶子の首筋に唇が触れる位置に頭を落としているから、晶子の香りが伝わってくる。髪に染み込んだ少し酸味が強めの香り。身体に染み込んだ甘さと爽やかさが半々くらいの香り。それと…仄かな汗の匂い。
 普段でも密着しないと分からない香りと昨日の名残、そして俺の背後の広い範囲を撫で続ける晶子の手。これらが相俟って昨夜の記憶を脳裏に蘇らせる。俺の前で晶子が全裸になっていく様子。俺の身体を手で隅々まで洗う様子。ベッドで汗を滲ませながら乱れに乱れる様子。どれも鮮明で強烈だ。

「あ…。」
「どうした?」
「祐司さんの硬いものが…私のお腹に…。」

 晶子は愛しげな笑みを浮かべる。丁度晶子の腹のあたりにあったものが、晶子の香りの三重奏に触発されたか。…この際だから…。

「…。」
「…?」
「…んっ。」
「!っはぁっ!」

 晶子が目を見開いて身体を脈動させて背中を反らす。それに併せて嬌声が吐き出される。俺が晶子を貫いたことへの反応だ。俺は動き始める。晶子は吐息と嬌声を同時に吐き出し、俺にしがみついてくる。繋いだ手に力が篭る。

「もう1回…、俺の愛を晶子の身体と記憶に刻んでおく…。」
「は…はい…。」

 俺は晶子の嬌声と吐息の二重奏を耳元で聞きながらひたすら動く。耳元の声と吐息、背中を強く抱く腕、俺の手を強く握る手。全身に感じる晶子の感触と温もり。どんどん高まってくる。全てを晶子に向けるために更に強く大きく激しく動く。
 絶頂に達した俺は俺は晶子の中に想いの全てを解き放つ。晶子が俺の下で大きく脈動して、長い嬌声を上げる。長い硬直が解けた後、俺は晶子にキスをする。本当に…尽きることがないな…。このままこうして居られるなら、と思う心境が…我が身のこととして実感出来た…。
 俺と晶子は小宮栄発の電車を胡桃町駅で降りる。新京市方面への通勤ラッシュから途中離脱した駅前は、閑散としている。普段と違う朝の行動と朝の駅前の風景に戸惑いを感じる。晶子とは手を繋いでいる。晶子が手を離そうとしないのもある。
 朝の営みを終えた後、シャワーを浴びて服を着て、レストランで朝飯を食べてからホテルを後にした。今時のホテルは朝飯はビュッフェ方式と相場が決まっているらしい。晶子はスカートで少々移動し辛そうだったから俺が取り分けた。これだけで晶子は随分喜んでいた。
 学校関係が夏休み真っただ中だから、余計に人通りが少ない駅前から住宅地に抜ける通りを歩く。車が時折通り過ぎるだけの静かな通りは、夢の時間がまだ続いていて、普通の時間にゆっくり溶け込みながらこれからも続いていく予感を感じさせる。

「凄く…幸せな時間ですね…。」

 晶子が言葉どおり幸福感を溢れださせる表情で言う。人通りが少ないことを利用するように、手を繋いだまま身体を寄せて来る。

「楽しかったり幸せだったりする時間は、終わるとあっという間に感じますけど、今はずっと続いているような気がします…。」
「これが行きずりのものじゃないって実感出来たからじゃないか?言い換えると…今までどれだけ幸せな筈でも、もしかしたらこれが最後の幸せな記憶になるんじゃないか、って思う部分が何処かにあったか。」
「…完全には否定できないかもしれません。心の何処かにひとかけらの不安を覚える部分があったと言うか…。」
「寝る時に見る夢は目が覚めたら終わるけど、今続く夢は自分の努力や知恵で続けられる。俺はそう思うし、それを少しでも実践するようにしてる。晶子と一緒に居られる今の時間をずっと続けたいから。」
「そうですね…。今の夢なら目が覚めても続けられる…。疑心暗鬼を揺れる心とか綺麗な言い訳にしないで、今の夢を続ける方向に向かうべきですよね…。」

 晶子にはほぼ唯一の欠点とも言える「悲劇のヒロイン病」がある。京都旅行を介して釘を挿して以来それを克服しようと努力しているし、明らかにその傾向は減っている。だが、今回のイベントに酔いしれるあまり、「これから何か悲劇的なことがあるんじゃ」という考え方をすると、「悲劇のヒロイン病」が発症してしまう。
 俺はこのイベントを以て晶子との関係を終息させるつもりはない。4年になってから全く先の見えない就職活動に奔走し、頼みの綱が全て途絶えても安住することなく、子どもを安心して産み育てたいという夢のために今は昼の部から店で働き、家のこともきちんとしてくれる晶子の慰労として準備したものだ。
 同じ毎日の繰り返しだとどうしても単調になるし、することが多かったり明るい未来が見えなかったりすると精神的に疲労してくる。朝早く起きて朝飯と俺の弁当を作り、俺を送りだしてから家のことをして店に向かう日々を続ける晶子に、1日くらいそういったことから解放される時間を味わってほしかった。
 晶子は甚く喜んだし、ホテルでは文字どおり俺との愛に溺れた。それは夢でも何でもない、あのホテルの1室で実際に起こったことだ。定期的に用意出来るわけじゃないが、こういう変化を時々でも用意したり、それに向けて毎日励んだり、そういったことが今の夢−俺と晶子がこうして一緒に居られる時間を続けていけるんだと思う。
 俺の家に到着。鍵を開けて中に入る。郵便物は…何もない。妙なチラシは姿を消したが、一瞥される機会すらないチラシを念のため確認するのも意外と煩わしく思うほど、チラシは頻繁に突っ込まれる。晶子が掃除をしたであろう室内は、至って綺麗そのものだ。
 服を着替えて俺は大学へ行く準備をする。少し遅刻気味の時間だが、コアタイムはないし、元々時間にはさほど五月蠅くない。準備も今日は朝飯をホテルで済ませてるから、服を着替えたら鞄を持てば完了だ。

「それじゃ、行ってくる。」
「ちょっと待ってください。忘れ物ですよ。」

 忘れ物?ハンカチは持ったし、鞄の中身は昨日のままだし…!晶子がナプキンに包んで差し出したのは弁当箱。何時の間に準備したんだ?

「晶子。何時の間に…。」
「中身を少し考えれば、その日の朝でなくても用意出来るんですよ。」

 晶子から弁当箱を受け取る。昨日家を出る前に準備しておいたのか…。今日くらい生協の食堂で済ませるつもりだったし、それで良かったのに…。折角準備してくれたんだ。ありがたくいただこう。作った弁当を平らげることが、晶子が弁当を渡す時に臨む唯一無二の報酬だから。

「…ありがとう。」
「どういたしまして。」

 俺は改めて玄関に向かい、靴を履く。ドアを開けたところで晶子に向き直る。

「…行ってくる。」
「いってらっしゃい。」

 晶子は身を乗り出し、俺の頬にキスをする。やられた…。俺は晶子が距離を取る前に晶子の頬にキスをする。小さく手を振りながら外へ出て、ノブを回したままドアを閉める。頬にまだ晶子の唇の感触が残っている。名残惜しさのようなものを感じながら、日が高く上りつつある空の下、俺は何時もの道を小走りで辿って行く…。
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