ふー、疲れた…。会議室から戻って来て席に着いて思わず溜息。DFTの説明はそこそこ上手く出来たつもりではあるが、まさか極座標まで、更に最終的には研究室の2/3ほどの前で説明することになるとはな…。
説明に要した時間は30分ほど。それだけでは終わらず、その後はエイリアス(註:AD変換のサンプリング周波数が対象の信号の周波数よりかなり低いことで、AD変換の結果本来含まれない信号が出現する現象。扇風機などの順方向回転→短時間の停止→緩やかな逆回転に見える現象もこれが原因)の説明までする羽目になった。数学的なスペクトル分布の例じゃなく、波形のサンプリング周波数からありえない信号が出現する様子を説明したのがまずかったか…。妙なところで凝ってしまうのは、俺の悪い癖だ。説明が大好評で終了したのが救いと言えば救いか。…さて、これからどうしようか。帰るには少し早い。中間発表のスライドは進捗に応じて編集追加する形式だから、今日の段階で進めるところまで進んだ。
どのみち、俺が迎えに行くんだから先んじて晶子にメールを送っておく。文面は何時ものとおり。送信履歴からコピー&ペーストだと機械的だから、少々手を加える。それでも大して変わりはない。話をするなら帰る時なり帰宅してからなりで十分出来るから、メールに書くことは結構限られてる。
ボチボチ帰る準備をする。こちらも持ち物が少ないから、直ぐ済んでしまう。PCは開いているソフトの作業状況を保存したことを確認して電源を落とす。PCは起動するときに比べて電源を落とす時は早いんだよな…。鞄に荷物を詰め込み終えて携帯を見ると、緑のLEDが点滅している。晶子からのメール着信を知らせるものだ。学生居室が俺の個室じゃないし、講義のレポートや卒研といったことをするために集中や静寂を必要とする場所でもあるから、着信音を鳴らすのは憚られる。
晶子からのメールは「学生居室で待ってます」という内容。こちらは俺より語彙が豊富なのを反映して、言いまわしが細かく変わっている。鞄に荷物を詰め込んでいた時間は5分にも満たないから、着信を受けて直ぐに返信したんだろう。これも何時ものことだが。
「祐司。お帰りか?」
パーティションの向こう側から智一が顔を出す。あまりパーティションの意味がないような気がする。
「ああ。何時ものとおりバイトがあるんでな。」
「晶子さんもそうだけど、ずっとだよな。」
「ああ。」
「何て言うか、祐司が今日みたいな懇切丁寧な解説が出来たり、俺を含む学部4年の質問に悉く答えたり出来るのは、そういうところから培われてるような気がする。」
「?」
「祐司みたいなタイプをクソ真面目とか融通が利かないとか、悪いように取って言い立てる風潮だけどさ。それだからこそ、名実共に久野尾研学部4年のフラグシップに立てたんだろうな、ってこと。あと、晶子さんが一目散に祐司の嫁さんになったのも。」
智一が言いたいことは分かる。真面目さや継続を軽んじる向きが強い中、ひたすら馬鹿正直に正面突破のために取り組んできたことが、今になって色々結実して表面化しているんだろう。俺もそう思うし、それは俺だけでなし得たことじゃないと思っている。
「晶子さん、就職活動は公務員試験に賭けるんだろ?」
「ああ。企業の説明会に行くのは金と時間の無駄だし、心身の疲れが溜まるから止めた方が良いって言ったのは俺だが、その分公務員試験に賭けざるを得ない状況だ。」
「晶子さんも決して怠けてたわけじゃないだろうにな。」
そう、晶子が怠けていたから今の状況があるとはどう表現を変えても言えない。文学部では珍しい方だそうだが、4年進級の段階で卒研以外の卒業に必要単位は取得している。だから他の学生より就職活動に割ける時間は多い。それでも今まで全く手ごたえがない。それどころか詰られるだけで帰ってくる。4年進級時の成績表も見せてもらったが−学生個人で取り寄せることが出来る−6は数えるほどしかない上々の成績だった。遊び呆けてレポートを写してばかりで単位数もギリギリならまだしも、だ。
俺の成績は俺1人で獲得出来たもんじゃない。晶子の強力なサポートがあったからだ。その一方で自分の単位も確保するのは大変だった筈。俺より単位取得の条件が緩いとか卒業までの条件が緩いとかで比べられるもんじゃない。他の文学部の学生はどうかは知らないが。そういった晶子の努力や頑張りを間近で見て来たからこそ、説明会の企業は見る目がないとつくづく思う。女子学生だから、文学部だから、髪が茶色いから、指輪を填めているから、といった理由で詰るだけで追い返す。採用する気もなければ学生を見る気もないと思わざるを得ない。
「俺の親の会社で雇えれば良いんだけど、こっちも事務の採用は絞ってるし、俺が介入する余地はないからな…。」
「気持ちだけで十分だ。それじゃお先に。」
「おう。お疲れさん。」
俺は学生居室を出て文学部へ向かう。こうして晶子を迎えに行くのもあと何回だろう。卒研が追い込みの時期になると難しいかもしれないが、こうして一緒に帰る時間はこれからの生活に繋がっていくように思えてならない。時間そのものもそうだが、それを作る、作ろうとする気持ちが…。
何時もの道を通って晶子のゼミの学生居室に赴く。心なしか、建物の中も偶にすれ違う学生も全般的にどんよりした雰囲気が漂っている。内定が全くと言って良いほど取れない状況が、学部全体を支配しているのか。よく「女が多い文系学部は華やか」「男ばかりの理系学部は陰欝としている」と言われるが、今の4年に限っては全く違う。文学部は建物の中からして暗く淀んだ雰囲気が垂れこめているが、工学部はそれぞれ楽しく忙しく過ごす学生で賑わっている。
色々な情報に聡い智一の話では、工学部は全学科と院生の就職希望者のほぼ全てが内定を1つ以上確保しているそうだ。学科によって若干の相違はあるが、大抵の場合推薦を得て企業に向かえば、場合によっては面接だけで内定が出ることもさほど珍しくないらしい。就職の良さでは電気電子と双璧を成すと言われる−その分留年率の高さも双璧を成す−機械工学科は、「この時期に内定が取れない学生は失格」とまで言われているそうだ。機械というと自動車メーカーあたりしかないように思う人も居るが、電気関係や一見機械と関係がない材料や化学関係の企業からも多数求人がある。むしろ、そういった機械と無関係な企業からの求人が殺到している。
機械工学科は所謂機械の組み立ても学生実験とかでするが、多くは熱や力学、流体といった理論、そしてCADを使った設計だ。大型小型を問わずデザインされたものを加工して実物にするにはCADを使った設計技術が不可欠だし、自動車やロボットになると省エネルギーなどを重視することもあってロスの少ない設計が求められる。それらの背景になるのは流体力学や熱力学といった理論だ。
これからの時代、オートメーションや省力化の流れに乗るためにはどうしても機械や電気電子の分野が必要になってくる。そんなこともあって機械の状況は電気電子と似ているが、就職先の心配をする暇があるなら卒業することを考えろと言われるのは決して慢心や誇張じゃない。それに、卒研レベルになると学生居室で個人スペースがもらえる。趣味のポスターやフィギュアという精巧な人形を飾ったり、PCの壁紙を趣味方面で固めている人は珍しくない。それぞれの趣味で固められたスペースに対して、研究や学業に支障を来さなければ文句を言う人はまず居ない。言ってみれば内政不干渉は不文律になっていて、共通の趣味の話題で盛り上がることもやっぱり珍しくない。
女性が居れば雰囲気は変わるかもしれないが、居れば良いというもんでもないことは、去年の学生実験で嫌と言うほど思い知らされている。あれなら居ない方が良いし、女の気分でセクハラやストーカーが決まる側面は決して否定出来ない昨今、距離の取り方で余計な神経を使うだろう。通常は居ない方が何かと気楽で良いという考えもある種の共通事項になっているように思う。就職活動を巡る状況のあまりの落差は、男女比では到底説明がつかない雰囲気の違いを生みだしている。学生個人や学部学科、ひいては1大学だけではどうになるものでもないが、この落差は大学生活最後の段階で強烈な重しとなって学生にのしかかっているのは間違いないだろう。
「失礼します。」
「あ、晶子の旦那か。いらっしゃーい。」
重く沈んだ空気は此処でも変わらない。状況が変わらないから変わりようがないか。企業で内定を取れる見込みがないとなれば、やはり今月から順次やってくる公務員試験に賭けるしかない。今まで内定が取れていない分、後がないことから来る危機感は非常に強い。切羽詰まっているという表現がぴったりだ。
公務員試験は専門分野と一般分野の二本立ての筆記試験がある。専門分野は別として一般分野は兎に角範囲が広い。一定期間は準備をしないと問題を最後までこなすこともままならない。過去問を見ていると試験時間内にひととおり回答することを当面の目標にする必要があるように思えてならない。今までの就職活動でそれを見越して準備が出来ているかどうかは怪しい。卒研も殆ど放置して説明会の探索や予約をして、駄目だったら次、の繰り返しだったのは晶子の様子から窺える。はたして公務員試験に賭ける心境はどうだろうか。
「晶子ー。旦那のお迎えー。」
「はーい。直ぐ行きまーす。」
奥から晶子の声が聞こえて来る。確か奥には給湯室があって、そこから教授室に繋がっていた筈。コップを片づけていたところらしい。言葉どおり、少しして晶子が奥から姿を現す。
「お待たせしました。帰る準備は出来てます。」
「ああ。待ってる。」
晶子はいそいそと席に戻って鞄を取って戻ってくる。これで準備は完了だ。晶子が帰る段になっても学生居室には変わらず重苦しい空気が垂れこめている。晶子のことに構っていられないんだろう。見送りを求めるつもりはないし、さっさと出るに限る。
「お先に失礼します。」
「お疲れー。」
声だけの見送りだが、その声も葬列に対してのもののように聞こえる。何だか此処に居るとこっちの気分も重くなってくるような気がしてならない。晶子を連れて退室する。
「…切羽詰まってるな。」
「ええ。朝からずっとあんな感じなんです。」
晶子も幾分あの雰囲気に浸食されたのか、疲労の色がやや強く出ている。あの雰囲気だと会話も殆どないだろうし、話しかけることも忌避されるような気がする。雑談なんてもっての外だろう。終始暗く淀んでいるが張り詰めている、どうにも居心地の悪い雰囲気の中で過ごさないといけないとなると、どうしても影響が出てしまう。
体力的にきついのも大変だが、それだけなら休養と栄養を取れば回復が可能だ。精神的にきついのは休養と栄養を取る気分じゃなくなるから、それらで出来る筈の気分転換が出来ずに鬱々とした状態が続き、やがて身体面にも悪影響が及んでくる。鬱やノイローゼはその典型的な病気だ。
「口を利くのも嫌というか、それどころじゃないという雰囲気なんです。…もう実質公務員試験しかない状態ですから。」
「他の面々も、企業の内定を取るのは断念したのか。」
「同じことの繰り返しですからね…。」
公務員試験は今月中旬から下旬に集中している。残すところ実質半月しかない。半月で内定を取れるか、卒業までひたすら就職活動を続けなけりゃならないかが決まるんだから、切羽詰まるのは当然だ。
やっぱり大半の企業は事務職の新規採用を大幅に抑えている。新規に採用しなくてもバイトやパートや派遣で間に合わせることがやりやすい。じゃあ何のために説明会をしているのか甚だ疑問だ。単に人事部のストレス発散の場にしているんだろうか。
「正直、ゼミに行く意味が薄らいでます。何より公務員試験の準備が先決ですし、それならゼミの学生居室でなくても出来ますから…。」
「コアタイムの関係か?」
「ええ。戸野倉先生は場合が場合だけに今年は緩和することを考えていたんですけど、田中さんが反対して立ち消えになったんです。就職したらそれこそ決まった時間に出勤することが普通になるのに、その準備をする4年で今までのような生ぬるさのままではいけない、と。」
そう言えば田中さんは助教になったんだったな。田中さんの言うことは正論なだけに、戸野倉先生も押しきれなかったか。それにしても、田中さんは容赦ないというか…。自分と比べると学部4年は確かに大甘だろうが、自分のレベルに近づくのを求めるのは酷だろう。
その田中さんは、あれから音沙汰がない。明らかに晶子に挑戦すると宣言した筈なのに、晶子が渡辺家に立て篭もった時期の方がずっと積極的な攻勢を続けていた。一体何のために晶子に堂々と宣戦布告したんだろうか。単に晶子を混乱させたり、精神的に追い込んだりすることが目的だった、言い換えれば晶子への嫌がらせだったんじゃないか、と今では思っている。丁度晶子が4年になってからだし、文学部の就職活動が大変なことになると予測するのはそれほど難しくなかっただろうし、そんな時期に結婚だと浮かれている晶子へ嫌がらせをしたくなったとしたもさほど不思議じゃない。
それが目的だと仮定すると一応成功はした。その直後晶子は倒れて、丸々1週間大学とバイトを休んで療養することになった。それを通して俺は晶子にまかせっきりだった料理を多少なりとも覚えたし、晶子を看病したことで晶子はより俺に惚れ込んだ。もっとも、晶子と田中さんの全面戦争が始まることは全く望んでない。俺は研究室の中間発表が近付いてるし、晶子と揃って公務員試験がある。晶子にとっては内定を得る事実上最後のチャンスだし、俺も気を抜くわけにはいかない。そんな時期に全面戦争になられれば、晶子と揃って全滅する危険だってある。
田中さんの真意を知る術はない。田中さんに直接聞くのは愚の骨頂だし、晶子に聞くのは精神の安定を損なうだろうし、そうでなくても良い気分はしないだろう。複数の異性が自分に気があることや自分を巡る異性の争奪戦が展開されているのを喜んで自慢する趣味はない。
「私もですけど、公務員試験で全滅だともう実質正社員や正規雇用の内定を得るチャンスはないわけで…。最低でも6月いっぱいと7月上旬の一次試験結果が出るまでは、ゼミの雰囲気はあんな調子かと…。」
「…嫌がらせとかはないか?」
「はい。それは大丈夫です。」
「それなら良い。ゼミの雰囲気が悪いのは就職活動の状況からすれば仕方ないが、晶子が嫌がらせを受けて良いわけはないからな。」
ゼミの雰囲気が悪いことで俺が一番懸念しているのは、晶子への嫌がらせの発生だ。2年の秋に晶子が田畑助教授とトラブった時、田畑助教授が晶子に交際を断られた腹いせに大学全体に中傷メールを流したことがあった。その結果、晶子は男には「やらせろ」と言われ、女には距離を置かれる孤立無援の状態に陥った。俺が持たせたICレコーダーが決定的な証拠になって田畑助教授に厳罰が下されたことで完全に終焉したが、孤立無援の状態は結構長く続いた。その間の晶子は自業自得の面があっただけに懸命に耐えていたが、生きた心地はしなかっただろう。
殆ど横の交流がないゼミで過ごしていれば良くなったかと思えば、今度は空前絶後の悪さを見せる就職活動が続いている。ゼミは学部4年だけだと10人程度の少人数。そこで人間関係が悪化すると改善は難しい。特に元々同調圧力が強い女性ばかりだと、悪化した人間関係の改善は、代わりの生贄が出ない限りまず不可能と言っても良い。
俺は毎日朝と夕に送迎しているが、自分の卒研や公務員試験の準備もあるからずっと晶子を見守っていられない。ゼミが所有する空間は限られているが、そんな閉鎖空間だからこそ俺の目が届かないところで何が起こっているか分かり難い。早い段階で兆候を掴んで対策を講じる必要がある。
「嫌がらせをする余裕すらない、と言った方が正確ですね。私に構っている暇があったら自分のことをどうにかするべき…。そう思ってるんだと。」
「他のゼミの状況はどうなんだ?」
「殆ど同じです。英文学科で内定を取った人は片手で数えて余るくらい。その人達も殆どゼミに来ないでようやく1つ、といった状況だそうです。」
「ということは、その分公務員試験に集中するわけだな。」
「はい。それしか選択の余地はないですから…。私のように新京市と周辺の地方自治体に加えて、出身地の県庁や市町村役場を受ける子も居るそうです。試験を受けてその日のうちに移動して翌日別の場所で試験、とか。」
「日程が入れられる限りは手当たり次第に受けるってことか…。」
大学受験の頃を髣髴とさせる。俺やバンド仲間のように第一志望と第二志望の国公立プラス滑り止めの上位私立という人が主流だったが、中には兎に角受験できる大学を手当たり次第に受ける人も居た。どういうわけか到底無理な大学を記念として受ける人も居たが、兎に角浪人だけは嫌だから、引っかかりそうな大学をリストアップして徹底的に受験する人も居た。受験料は1回一万から三万程度だから、私立を数校受ければ十万の単位に達する。その出費と引き換えにしても何処か大学に合格したい、という人も居るわけだ。
就職となると更に切羽詰まっている。新卒至上主義と言われる新規採用が圧倒的な中、大学4年−修士は文系では殆ど居ないからひとまず除く−の就職の機会を逃したら、正社員での採用は非常に厳しくなる。公務員ならまだ可能だが年齢制限はあるし、今のように不景気だと倍率が高騰するから結局厳しいことには変わりない。
「…祐司さん。暫くの間、送り迎えを入れ換わってくれませんか?」
「入れ換わるって、晶子が工学部まで来るってことか?」
「はい。祐司さんにあの悪い雰囲気の中に来て欲しくないんです。それに正直…、私もあの場所に必要以上に居たくないので…。」
「ちょっと考えさせてくれないか?直ぐには良いと言えない。」
晶子がこっちに来るには幾つか不安要因がある。1つは工学部の非常にいびつな男女比から来る、晶子への関心の集中。言うまでもなく工学部、特に電気電子と機械は男女比が圧倒的に男に偏っている。女は言ってみれば希少種。それゆえに向けられる関心の高さは相当なものになる。高校までのように付き合いが学校にほぼ絞られることはないし、情報網もかなり弱いから−高校までだと誰それが付き合っているなんて話は1週間あれば少なくとも学年全体の共通事項となる−彼女が居るかどうかの話は入ってこない。だが、俺の場合は全然違う。
晶子の存在そのものがかなり早い段階で知られていた。少なくとも晶子と田畑助教授との一件で、俺に交際相手が居ることは周知の事実になった。俺の場合、智一くらいしか親密な交流を持っている人が居なかったことと、他人のことには極力首を突っ込まないという暗黙の了解が文学部よりずっと強く働いていたことが幸いして、実害は全くなかったが。
で、去年に晶子が俺の代わりに雑誌を引き取るためにこっちの生協に来た。基本男が圧倒的多数の理系エリアで見知らぬ女が1人で来て、しかも客観的に見ても美人と言える女が来れば注目を引くのは当たり前。大騒ぎになって、実験の休憩中だった俺のところに大挙して押しかけて来た。俺はそこで初めて、晶子の存在と妻として扱っていることを公言した。プライベートを切り売りする趣味はないし、指輪の説明は長くて複雑になると思ったから言わないでおいたが、あれだけの人数に押しかけられて知らぬ存ぜぬを通すのは無理だったし、腹を括った。今も言うまでもなく交際してるし、研究室の花見の時には重箱に詰めた弁当とおでんで料理の腕前も知られたし、一度は俺の研究室に来た。色めき立っていたのは間違いないから、そんな中に晶子に来させるのは正直気が引ける。
もう1つは、防犯上の問題。俺が晶子を送迎するようにしたのは、晶子の人となりが理系エリアの生協に来たことで周知されたことだ。それで智一の従妹の吉弘さんが、自分の取り巻きの一部が晶子に流れたことに怒り、取り巻きを引き連れて俺に圧力をかけて来た。無論俺は一蹴したが、マスターと潤子さんに話したところ、晶子の安全が気になるという話になった。実験真っただ中だった俺は終わるのが深夜に及ぶことが珍しくなかったし、そんな時間まで晶子を待たせるわけにはいかない。しかし、1人にしておくと晶子に攻撃の矛先を向ける可能性は十分考えられた。その事件は見兼ねた智一の介入と、俺の身の安全を最優先した晶子の態度で呆気なく終結して、吉弘さんとも和解した。それまでに晶子の安全対策として携帯を買って晶子を送迎するようにした。
今もそれが続いているのは、一緒の時間を持ちたいという共通の希望があったのもあるし、やっぱり晶子を1人で帰らせるのは不安があることもある。大学の敷地はむやみに広いし、大通りには照明が幾つもあるが、少し裏手に回れば暗がりは沢山ある。これから卒研が進行するにつれて遅くなる可能性もあるし、大学内だからといって晶子を1人で行動させるのはどうも不安だ。
「懸念されることが幾つかある。順を追って話すし、先に言っておくけど、晶子に来てもらうことそのものが嫌なわけじゃない。」
「はい。私のことを考えてくれてのことだとは感じています。」
話す時間は沢山ある。問題はそういう機会を作るか、作ろうとするかどうかだ。相手は言わずとも分かってくれる、というのは付き合いが長ければそうなる部分も多くなってくるかもしれないが、それに甘えるのは意志疎通の努力を怠るための言い訳だ。相手が意図どおりに動かなかった時、伝えておけば良かったと反省するなら良いが、何で自分の意志と違ったことをしたんだと怒るのは筋違いだ。
晶子とて、さっきの口ぶりからして俺が判断に慎重になっていることの背景を推測出来てはいるらしい。だが、全てを掴んでるとは期待しない方が良い。そのまま突き進んで食い違いが生じた時、時に深刻な事態を生じることにもなる。それは、晶子と田畑助教授の一件で痛いほど分かったつもりだ。