大学でこれだけ安心して卒研に打ち込めた日は久しぶりだ。前日に引き続き、信号処理回路にリバーブとディレイ処理を組み込もうとした。リバーブは
昨日の段階で基本が出来ていたから、機能の拡張に重点を置いた。ディレイは基本部分の構築だった。
1日2日で飛躍的に進展するわけじゃないが、リバーブは入力信号の周波数に応じて効き具合を変えることが出来るようになった。今は単一波形だから音響
信号を相手にするにはまだ課題があるが、これを発展させれば音源に応じてリバーブの効き具合を変えることで、前後の位置関係は実現出来そうだ。
立体音響の実現に向けて、立体的な音響を掴むための実験をする運びになった。マネキンあたりの頭部に幾つかマイクを仕込み、色々な音を色々な方向
から発した際にどんな波形や音量になっているかを記録して検証するというものだ。この実験を繰り返して聞こえ方の傾向を掴めれば、信号処理回路も
具体化しやすくなる。
周波数の他、音量に応じてもリバーブやディレイを細かく制御する必要があれば、回路規模が大きくなるだろうからFPGAの更新も視野に入れる必要が出て
来るだろう。FPGAの更新は割と簡単だったりする。
研究費との相談は必要だが、FPGAに組み込んでいる信号処理回路はVHDLで作っているから、組み込む前の回路構成情報ファイルを生成するまでは、
開発環境のみで出来る。その際現在使用中のICには入らなくてエラーになっても、内部の回路規模が大きい−それは新しいICとほぼ等価−ICに変更
すれば良い。
ICのピン配置情報は、現物がなくてもICの供給企業から無料で提供されるデータシートを見れば分かるし、開発環境のピン配置決定ツールでは、
グラフィックで一望出来る。電源やグラウンド(註:基準電位のこと。通常は0V)など使用不可のピンも色と表記で一目瞭然だ。だから、ICが入手出来るまでは
開発環境上でどれだけでも試行錯誤出来る。
ICの更新でも、IC供給企業が同じならピン配置が同じものを選べばその配置に大きな違いはない。FPGAなどの場合、電源とグラウンドと一部のピン以外は
全て入出力に使えるから、多少違っても回路基板の修正で直ぐ対応出来る。回路規模とコストだけ考えれば良い。
ICの更新が必要な状況になったら、大川さんが久野尾先生や野志先生と折衝してくれるそうだ。それより研究テーマが進捗する方が望ましいし、大きな
進展や重要な結果が見込めるようなら、十万程度の拠出は全く気にしなくて良いらしい。それには現状をしっかり把握し、簡単であっても纏めておく方が
良いとも言われている。
大川さんとの打ち合わせ終了後は、卒研の現状についての纏めに着手した。今後の進捗に応じて久野尾先生や野志先生にプレゼン出来るようにして
おけば、研究費の拠出も頼みやすくなる。大川さんは俄然やる気らしく、回路基板の設計に注力すると意気込んでいた。
何時もの時間に学生居室を出て、晶子が居る文学部に向かう。何時もの道を通って文学部の研究棟に入る。何時もの廊下と階段を使えば何時ものとおり
戸野倉ゼミの学生居室の前に到着。ドアをノックすると応答が返ってくる。
「失礼します。」
「あー、晶子の旦那じゃなーい。いらっしゃーい。」
「晶子は今、戸野倉先生と面談中よー。知ってるだろうけど。」
戸野倉ゼミでは、学部4年を対象に個人面談が行われている。昨日から始まって今日は2日目。晶子は先週いっぱい休んでいて病み上がり間もないこと
から、面談を今日に延期してもらっていたそうだ。
1人1人に結構時間をかけているらしく、時間は長引く傾向にあるらしい。晶子は面談が始まる前に面談が今日あることを伝えるに併せて、「終わるまで待って
いて欲しい」とメールを送って来ている。そんな経緯があるから事情は十分把握している。
生憎学生居室は文字どおり学生が自分の卒研などをする仕事場だから、来客を待たせるような設備はない。椅子すらもないから立ちっ放しだ。幸い
バイトで4時間ほど立ちっ放しで動き回っているから慣れている。壁に凭れるのは自由だから十分待てる。
「…晶子の旦那ー。ちょっと聞いて良い?」
「答えられることなら。」
静かと言うより重苦しい雰囲気の中、1人立っているのは居心地が悪い。かと言って文学部の建物の中身はよく知らないからうろつくわけにもいかない。会話
していた方が気が紛れる。
「旦那の研究室では、面談ってないの?」
「今のところはない。卒研を進めるか単位を落とした講義を受けに行くか、就職活動に行くかのどれかだから。」
「てことは、就職活動は順調そのものってわけ?」
「順調かどうかはまだ結果が出てないから分からないけど、まったく就職先が決まらないって話は聞かない。」
「そっかぁ…。」
この前の問答と重複するのは致したかないというか必然か。個人面談の開催理由はまず間違いなく就職活動の状況についての情報や意見の集約と交換。
とは言え、学生から出せるのは「全滅で先が見えない」しかない。誰か1人に聞くだけでも良さそうな気はする。
相違があるのは、仮に就職先が決まらないまま卒業することになった場合どうするか、だろう。派遣やバイトで働きながら正社員を狙うか、公務員試験を
再受験するか、或いは実家に帰るか…。今回の面談はどちらかと言うと、最悪だが想定しておくべき事態になった場合の対策について聞いておくことが主体
かもしれない。
「晶子の就職が全滅だったら旦那はどうするわけ?」
「どうするっていうのは?」
「そのまま専業主婦させるのか、バイトやパートはさせるのかとか、そういうこと。」
「バイトかパートはする筈。少なくとも子どもを作るまでは働くってことは、晶子自身が決めてて俺も納得したことだし。」
「ふーん…。じゃあさ。子どもが出来たら専業主婦させるの?」
「そこまでは話しあってないけど…、働けるようになったら働くと思う。俺におんぶに抱っこにはなりたくないって言ってるし、今でも就職活動を止めて専業
主婦になることも可能なのにそうしないのは、そういう信念があってのことだから。」
この答えには言葉どおりの意味もあるが、晶子が身体を壊して働けないとか特段の事情もなく、卒業後はそのまま専業主婦になって優雅な生活を送る
算段と思って今でも妬んでいるであろう彼女達への皮肉も含めたつもりだ。
彼女達は元々俺と晶子を不釣り合いとさえ思っていた。晶子は機会を見つけて俺の良さを力説したが通じず、公然と乗り換えを勧めたほどだ。それ自身は
別に気にしていない。不釣り合いと言われて怒っていたのは晶子の方だし、俺は晶子にとって1番ならそれで十分だと思っている。
彼女達が今になって先見の明を言い出したことを晶子はどう思っているんだろう?ちょっと優越感に浸っているか、或いは内心穏やかではないか。両方かも
しれない。晶子は俺が貶されることを我がこと以上に怒るからな。俺としてはそれに対して悪い気はしないが。
「こんにちは。」
聞き覚えのある声が後ろからかかる。田中さんだ。何時ものとおり小ざっぱりした服装と、何か含みがあることを感じさせるごく薄い笑み。今までは何とも
なかったが、晶子を寝込ませるトリガを引いたことが分かってから、無意識に警戒してしまう。一応平静を装っているつもりではあるが、俺では隠せてない
ような気がする。
「こんにちは。」
「知ってると思うけど、奥さんは戸野倉先生と面談中。少し時間がかかるだろうから…待ってて。」
「はい。そうします。」
田中さんは俺の横を通り過ぎて学生居室の奥に消える。戸野倉先生との打ち合わせだろうか。…と思ったら折り畳み式の椅子を持って戻ってきた。
「戻ってくるまで待つくらいならまだしも、何時になるか分からない来客を立たせたままにしておく神経が知れないわね。」
田中さんは椅子を広げながら、何時もの口調で厳しい批判を彼女達に向ける。すると部屋の雰囲気が更に硬くなり、彼女達からひっ、と小さい悲鳴すら
上がる。この前は俺に対してぞんざいな態度を取ったことを厳しく叱責したそうだから、強力無比な教育係としても田中さんの存在感は強いことが分かる。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。お姫様気分で居られる現況に安住して、それが通じない社会に接して狼狽するような人達のぞんざいな扱いに懲りないで。」
再び厳しい言葉を普通の口調で言う。どうやら相当腹にすえかねているようだな…。この分だと俺が帰った後で前回以上の叱責が彼女たちを迎えるような
気がする。立ちっ放しには慣れてるし、あまり気を遣われるとかえって居辛い。普段は晶子のを除いて至れり尽くせりの生活なんてしてないからな。
それでも立ちっ放しなのは変だから、用意してもらった椅子に腰を降ろす。念のため携帯で時刻を確認。3時半過ぎか…。まだ時間の余裕はあるが、面談は
どうも明確に時間を区切ってるわけじゃなさそうだし、終わるのは遅くにずれ込む可能性がある。
時間が遅くなるようなら店に電話しておく必要がある。マスターと潤子さんからは俺と晶子の現状を踏まえて、連絡を入れれば当日に休んでも構わないと
言われてはいる。だが、出来るだけギリギリの連絡は避けたいところ。この辺は俺が頃合いを見て連絡を入れれば良いことだ。
「そうそう。まだ名刺を渡してなかったわね。」
「名刺、ですか?」
「ええ。この4月から肩書きが変わったから。」
田中さんは本と一緒に抱えていたハンドバッグから名刺入れを取り出す。座ったまま受け取るのは…失礼だよな。田中さんから名刺を受取って一望する。
肩書きが変わったってどういうことだ?「新京大学大学院文学研究科 助教」…!
「助教になったんですか?」
「ええ。」
「教員の採用システムは詳しく知らないので頓珍漢な事を言うかもしれませんけど、助教って大抵博士課程を修了しないとなれないんじゃないんですか?」
「博士号取得は文理問わず前提条件みたいなものには違いないけど、博士課程修了だけが博士号取得の方法じゃないのよ。博士号はこの3月に取得した
から。」
田中さんは助教に採用された過程を説明する。
博士号を得るには、かつては博士課程を修了する課程博士か博士論文を提出して審査を経て得る論文博士の2とおりしかなかったが、最近は能力主義の
浸透なのか博士課程の途中でも博士論文の提出と審査で博士号が得られるようになってきている。
新京大学では2年前から始まった通称「博士論文早出し特例」というものだが、単に早く出せばOKなわけがない。修士以上は大学の教育水準を示すもの
だから安易に出せない。学位の最高峰である博士となれば尚更だ。
兎も角、博士論文の提出と審査を経れば課程の途中でも博士号を得られる条件は出来ている。単位は昨年度の段階で全て取れる見通しだったし、仮に
博士論文がパスして単位を落としても課程の修了にこだわりはなかったから気にしなかったそうだ。
博士論文の審査をパスしたことを知らされた後、戸野倉先生から助教採用の打診を受けた。戸野倉ゼミの助教ポストは3年前の前職の転出で空席になって
いた。公募する話もあったが、元々博士号取得者の絶対数が少ないし、居たとしても出身大学での囲い込みが強いから採用出来るかどうかは不透明。かと
言って空席のままにしておくと定員削減の憂き目に遭う。
そこで博士号を取得して間もない自分に声がかかった。助教をしながらでもこれまでの執筆出版活動は十分出来るし、今後のキャリアアップ−講師・准教授
への昇格やそれを伴う他大学への転出にはむしろ有利。助教なら学生と違って給料もあるし、非常勤の助教やポスドクじゃないからボーナスもある。断る
理由がなかったから受託して、この4月に辞令を受けて正式に戸野倉ゼミの助教に着任した。
「飛び抜けてますね。」
「運が良かったのよ。助教のポストが空いてるかどうかはまさに運だから。」
田中さんは少しはにかんだ笑顔を浮かべる。学部や研究室によって違うが、1つの研究室やゼミの助教は1名か2名。3名以上在籍している研究室は
医学部の大規模研究室などごく一部に限られる。しかも必ずこの年数で転出して空く保証はないから、博士取得時に自分の研究テーマに合う研究室の助教
ポストが空いている可能性は低い。出身研究室となると更に可能性は低くなる。
空いていたとしても必ず採用されるとは限らない。文系では少数とはいえ、博士号取得者はそれなりの数がある。定数1のポスト争いは否が応にも厳しく
なる。出身研究室だと多少採用されやすくなるようだが−大学での囲い込みは健在だ−、他大学出身でも優秀ならそちらを採らないと研究の進捗にも
学生の教育にも好ましくない。
その点、学生時代からずば抜けた成績で、請われて博士課程に進学した田中さんは問題ない。「早出し」で博士号を取得してそのまま助教に採用された
のも、これまでの経緯や執筆出版活動の実績を考えれば、戸野倉先生や大学側としては「待ってました」と言いたい方だろう。優秀な助教を採れたゼミや
学部大学側も、きちんと給料やボーナスが出る待遇でこれまでどおりの活動が出来る田中さん側も得する理想的な取引だ。
田中さんの入室後から部屋の雰囲気が急変したのも、皮肉交じりの言葉で悲鳴すら上がったのは、助教として名実共に戸野倉先生の補佐役となった
ことと、博士課程とは言え学生だったことから教員に変わったことによる権威の増大があるようだ。
研究室やゼミを取り仕切る教授は出張や会議で不在になることが多い。その間は研究室所属の准教授以下、特に助教が学生の指導を担当する。不在で
なくても普段の学生の指導は実質的に助教が担当して、研究の進捗など要所で教授が出て来ることも多い。だから、助教の存在感は学生にとってはかなり
大きい。
これまで鳴り物入りで博士に進学し、在籍1年で博士取得と助教採用という超がつくほどのエリートコースを邁進している田中さんからすれば、就職活動で
八方塞がりになっている学部4年は失笑ものだろう。その田中さんには相当絞られているようだな。
それだけ学部4年を絞るのは、大学での女性天国的な優遇社会に安住してそれが当然と思うことが、今後は通用しないことを教えるためでもあるだろうが、
もう1つはやはり俺が来なくなることを避けるためだろう。晶子から顛末を聞いたから、その可能性を考えないことは出来ない。
学生居室の奥、田中さんが椅子を取りに行った先のドアが開いて晶子が姿を現す。俺が立ちあがると、安堵したような顔をして早足で歩み寄ってくる。
「お待たせしました。」
「否、面談だってメールで知らせてくれてあったから。」
「…。」
「バイトの時間には十分間に合うし、帰ろう。」
「はい。鞄を持ってきます。」
晶子は自分の席から鞄を持って戻ってくる。これで何時もの帰宅準備は完了だ。
「椅子は何処に片づければ良いですか?」
「このままで良いわ。来客に椅子を片付けさせるなんて非常識なことは出来ないから。」
「分かりました。じゃあ、お先に失礼します。」
「失礼します。」
「ええ。また明日。」
俺は晶子を連れて学生居室を出て、その足で研究棟を出る。外は夕暮れが迫りつつあるが、まだ日の光が最大勢力を保っている。
「面談はどんなことを話したんだ?」
「就職活動の状況と今後についてです。…文学部全体の就職状況が過去最悪で、学生の状況を把握する必要があると判断したからだそうです。」
文系学部の就職は基本的に学生の自主性に任せている。悪く言えば学生に丸投げしている。今まではそれでも良かったが、流石に今年は放置出来ない
状況と判断して情報収集に踏み切ったのか。
それは4月中旬くらいには実施しておくべきだったところだ。状況を早く把握して対策を講じるには早いに越したことはない。とは言っても、これまでの状況
からして此処まで酷い状況になるとは想像も出来なかっただろうし、合同説明会に出て行けば採用試験にこぎつけることくらいは出来る筈と思っていても
不思議じゃない。
「文学部全体が酷いのか。他の学部の状況は聞いてないか?」
「文系学部では法学部がまだ良好な方ですが、それでもこれまでより相当厳しいそうです。経済学部はかなり厳しくて、教育学部は教員採用試験に合格
出来るかどうかで天国か地獄かが決まる様子らしいです。文学部が最悪だそうです。内定獲得者が1人も居ないそうで…。」
「去年からの影響で採用数が減少するのは分かるけど、此処まで極端に減るものなのか?それが腑に落ちないな…。」
「採用数の減少幅が事務職で極端に大きいのと、そこに就職希望の学生が殺到しているのが重なっているみたいです。」
去年の市場の大混乱で株価が大きく下がった。バブル経済を崩壊させた−バブルと言うくらいだから何れ崩壊するものだっただろうが−ブラックマンデーの
ように、それまでの状況を一変させる悪い方向でのインパクトを与えた。株価は回復しても採用方面への影響は変わっていない。否、採用への影響は
事件後の年度、つまり今年度に出て来たと見るべきか。
減少幅までは分からないが、恐らく100が1か2になるようなものなんだろう。大企業では採用を控えて派遣で充当するし、大企業より雇用数が多い中小企業
−1社あたりでは大企業の方が多いが総合すれば中小企業の方が雇用数がはるかに多い−では、個々の企業の体力の問題から採用数を一挙にゼロにして
いる恐れもある。
「祐司さんの情報と重なりますけど、工学部や医学部では、学科によって多少の差はあっても就職は良好だそうです。連休を挟んで内定者が出始めるという
ことも祐司さんの情報と同じです。」
「極端だな…。」
「事務職は採用しなくても派遣で間に合わせるっていう手段が簡単に使えますし、希望者は学部4年だけじゃなくて高卒の子も居ますから。」
就職を希望するのは大学4年に限ったことじゃない。新卒だけ見ても、大学進学率が増えたとはいえ50%に満たないことからも、高卒や専門学校卒も同じ
くらいかそれ以上に居る。そこに採用数の極端な減少が重なれば競争率は一気に跳ね上がる。
高卒と大卒では大卒が有利とは必ずしも言えない。単純に大卒の方が初任給が高い。企業側からすれば人件費が高いから、高卒で可能なら高卒にする
だろう。これまで地元企業と継続的に繋がりがあれば尚更その傾向は強まるらしい。
高卒だと就職がないというのは、普通科しか見ていないためでもある。地元と密着した実業系、すなわち工業系や商業系は地元企業との繋がりが深いから、
意外と就職先は多い。企業の最初から高卒枠として工業系を中心に職人や実働部隊を養成するために採用枠を持っている場合が多い。勿論景気によって
採用枠の幅は変わるが、企業側も高校との繋がりを切るわけにはいかないから一定数はその高校優先で確保しているもんだ。
衝突するのは文系大卒と商業系か普通科の一部の高卒、そして専門学校卒。企業側としては最近の人件費至上主義的な考えから、候補の絶対数が多い
事務職だと人件費が安い方、すなわち高卒に目が行く。幹部候補はやはり大卒だが、幹部候補の下で働く兵隊的なポジションは、人件費の面で高卒が
優位な場合もある。
更に人件費を削るなら、正社員ではなく派遣で間に合わせるという手段もとれる。最近の企業はむしろこちらの方を選びやすい。派遣なら3年未満で契約を
切るか、3年未満で契約を繰り返す策も使える。当然姑息な手段だが、この方策が可能な以上は正社員を雇用するより派遣で代用する策を取るのが企業や
経営側の志向だ。
「戸野倉先生には、引き続き合同説明会に出向くことと公務員試験の準備を並行して進めることと、公務員試験の方に重点を置く方針だと話しました。それは
私に限ったことじゃなくて、企業の態度に嫌気がさして公務員試験に切り替える子は多いそうです。」
「罵倒されて拒否されるだけじゃあな…。」
「そのあおりで、公務員試験の、特に事務職の倍率は例年の数倍以上になる予想も出ているらしくて…。」
「他に方策があるわけでもないし、どれを選んでも結局熾烈な競争になるわけか…。」
企業が先か公務員が先かはそれぞれだし、景気の動向もあるが、企業が全滅状況だと公務員しか選択肢はない。公務員だと試験はほぼ誰でも
受けられる。採用試験を受けるかどうかの段階で一方的に詰られて拒否されるだけの企業の合同説明会とは雲泥の差だ。
公務員だと今は女性の方が有利だ。男女共同参画やらアファーマティブアクションやらで、女性を積極的に採用することを宣言している。現に筆記試験の
合格者数に対して最終合格者数が圧倒的に女性優位な結果になっているところもある。そんな露骨な下駄を履かせる方式で男女共同参画とは片腹
痛いが、そういう背景があれば尚のこと女性は公務員試験に向かうだろう。
そういう情報をどこまで把握しているかは分からないが、企業の採用枠にあぶれた分は公務員試験に向かうだろう。去年の倍率も結構高かったらしいが、
今年はその数倍となると…10倍どころの話じゃ済まないかもしれない。晶子にとっては厳しい状況がこれからも続くわけか。
「戸野倉先生は、祐司さんの状況を知ってましたよ。」
「何で…って、久野尾先生経由か。」
「はい。クラス担任の増井先生…でしたか?その先生と合同で推薦したことや、胸を張って推薦したことを話されたそうです。」
俺の研究室を統括する久野尾先生と、晶子のゼミを統括する戸野倉先生はセクハラ対策委員だ。会合がどんな周期であるのかは知らないが、学内の
委員会だから定期的にあるんだろう。そこでそれぞれの学生が特別な関係にある間柄となれば、話はしやすい。
「『君は他の学生にはない強力なセーフティネットがあるから、それを心の支えにして就職活動を進めなさい』と言われました。あと『君の結婚話を最初に
聞いた時は正直先走り過ぎと思ったが、この状況では先見の明があったと言うべきだろうね』とも。」
「何だか嬉しそうだな。」
「嬉しいですから。寝込んだ時には看病もしてくれて家のこともしてくれる、とっても心優しくて頼れる真面目な男性を夫に出来たことを称賛されて、嬉しくない
筈がないですよ。」
学生結婚は話に聞いても、それは小説や漫画とかの話。現実になったらかなり驚くだろう。大学側も学生がそうしたと聞けばまさか、と思うだろうし、まだ
収入もないのに結婚してどうするんだ、と懐疑的な見方もするだろう。
大学生となると犯罪行為をしでかさない限り大学が学生の生活に口出ししない。それでも内心では「学生で結婚とはふしだらな」という見方もあっただろう。
正直、4年になって安藤姓を名乗り始めたことでようやく沈静化始めたところだったかもしれない。
大学側としては、内定がないまま卒業になると就職実績が低下するが、結婚しているなら別の表現が出来るから就職実績の低下にはならない。所詮学科
全体で100人程度、学部全体では1000人に達しない人数の1人では焼け石に水どころか水滴にもなりはしないだろうが、身の振り方が決まっていないよりは
ずっとましだろう。
精神的な支えになるというのは、晶子が寝込んでいた時にも聞いたことだ。以前ゼミの学部4年から嫌みを言われていたが、確かにこのまま就職に失敗
しても主婦という肩書きは得られる。対外的にも無職よりずっと通用するから、無職になるかどうかの瀬戸際より気分的にも楽になれるだろう。
これが俺におんぶに抱っこになって、俺の収入で優雅な暮らしを思い描いているなら切り捨てに向かう必要がある。そうしないのは、晶子が何とかして就職
することを模索しているし、家のこと、特に料理をきちんとしてくれるからだ。晶子が寝込んでいる間料理に苦労した俺にとっては何よりありがたい。
仮に晶子が企業にも公務員にも就職出来なかったとしても、晶子は今の店で働き続けることを選ぶだろう。安心して子どもを産み育てるための財政基盤の
構築に参加したいという強い意志は健在だ。それは俺にとって重荷にはならないし、ましてや足手纏いじゃない。
住むところは今のところで良いかとか、双方の実家への挨拶を何時するかといった問題はある。だが、それらで問題になるのは、往々にしてどちらかが
実家か相手に依存して、自分では何も決めないし実行しないのに文句だけは100人分言うか、口は出すけど金は出さない親族がしゃしゃり出て来るかだ。
その点でも、晶子は今のところ問題ない。俺の方も晶子との協力体制を確立して、外部の無用な介入を排除できるようにしておく必要がある。晶子が倒れた
時はパニックになりかけたが、どうにかやり過ごして晶子の信頼も強くなったようだし、「雨降って地固まる」ってやつだろうか。