雨上がりの午後

Chapter 287 不穏を払拭するための休日へ(前編)

written by Moonstone

 金曜日。学生居室に篭っての演習問題解答と卒研の過去の蓄積の吸収という日々は変わらない。大川さんの信号処理回路の改良に時間がかかっている
から、次の実験が出来ない。俺はまだ過去の蓄積を吸収しきれていないし、大川さんは修士2年だから修士論文と就職活動を並行させないといけない。
大川さんの指導で進める俺が進捗をああだこうだ言える立場じゃない。
 今日も終わりの時間を迎えた。何時ものとおりこれから晶子を迎えに行く。PCをシャットダウンして荷物を持って準備完了。冬場はコートを羽織って
マフラーを巻く作業が加わるが、4月も下旬に差し掛かる頃にはそれらも不要ですっかり身軽になる。
 研究棟を出て図書館脇を抜けて文学部の研究棟に入る。階段を上って廊下を進めば晶子のゼミの学生居室前に到着。この行動は身体に沁みついた
レベルだ。ノックをすると応答がある。俺はドアを開ける。

「こんにちは。」
「いらっしゃーい。」

 間延びしたような気だるいような、面倒なような声が迎える。この辺はもう馴染んだ感がある。晶子は…居ないようだな。居れば直ぐに席を立って駆け寄って
くるから。

「奥さまはゼミの書庫に行ってるから、直ぐ戻ってくると思うよ。」
「それじゃ、此処で少し待たせてもらうよ。」
「ご自由に。」

 投げやりに聞こえるが、これでもここ数日ましになった方だ。やっぱり…あの影響は確実に出ているようだ。兎も角、部屋の隅に立って晶子の帰りを待つ。
ゼミの書庫の場所は知っているが、そこに出向いてまで迎えに行く必要はないだろう。
 学生居室は静まり返っている。否、重苦しい沈黙に包まれていると言うべきか。人は半分くらい。俺の研究室も落とした講義への出席で平均すると在室率は
同じくらいだが、適度に会話もあって和気藹藹としている。やはり就職活動の状況が部屋の雰囲気に如実に出ている。文学部の就職活動の先が見えない
状況は今も続いているという話は晶子から聞いている。採用試験まで進めれば御の字で、説明会に出ても門前払いされるだけの状況が続いている。そんな
調子だから内定など夢のまた夢だ。一方、俺の研究室では採用試験の受験の話がちらほら出ている。早ければ来月中旬には内定が出そうな様子だ。
落とした講義の合間を縫って企業に出かけていることが、学生居室の空白率を比較的高い水準にしている原因でもある。企業訪問などは基本的に企業側の
都合に合わせるから、内定が出るまでは基本的に卒研より講義、講義より企業訪問という優先度の違いがどうしても出る。
 俺自身は昨日高須科学への学校推薦が出た。就職課から正式な求人票が届き、それは増井先生と久野尾先生を経由して俺を推薦して欲しいという内容
だった。増井先生と久野尾先生の連名での推薦により、俺は正式に高須科学の採用試験を受験する運びになった。採用試験は今月末の連休前。結果
発表は連休明けというスケジュールだそうだ。それと同時期に、高須科学の和佐田さんからメールが届いた。大学の就職課を通じて俺を推薦するよう依頼
する求人票が人事部から提出されたという情報が入ってきたこと、課長の山下さんなど、前の訪問時に居た管理職クラスが全員一致で俺を推薦したと聞いた
ことなどが書かれていた。内定に向けてまた大きく前進した状況だ。
 俺以外の研究室の面々も似通っている。大川さんにしても第1志望の企業を含めて複数の内定の話が進んでいる。それに向けて断続的にコンタクトを
取ったり出向いたりしていることで、研究テーマの進捗が鈍っている。内定を決めてから修士論文に専念したいと思うのは自然なことだ。そんな状況だから、
内定の話が現実のものとして浮上するのは別に珍しいことじゃないし、この部屋では一転して全く手が届きそうにない遠い星のようなものだということに、同じ
大学でも別世界に来たような気がする。内定が出ないことは俺じゃどうしようもないし…。

「こんにちは。」

 出入り口の方から声がする。晶子じゃないこの声は…田中さんだ。数冊の本を片手で持って器用にドアを閉める。

「今日もお迎え?」
「ええ。これからバイトがありますから。」
「毎日大変ね。」
「もう3年以上続けてますから、慣れましたよ。」

 当たり障りのない会話だが、どうしても緊張してしまう。田中さんが俺を注視しているからだ。今までも話し始めた時の流れで向き合うことはあったが、途中
から入ってきて俺から見て90度右側に居た田中さんが、俺の方を向いて話をしているのはそれなりに親愛の情があるからだろう。
 前情報がなかったら嫌われてはいないと思う程度だっただろう。だが、この前田中さんの真意を伝え聞いた。俺の方を向いていることが、一方通行で
明らかになっている感情の表れだと分かっているから、話をしながらも今後どう対応すれば良いのかあれこれ考えてしまう。

「うちのゼミの子達、貴方に失礼なことを言ってない?」

 田中さんの問いかけで、学生居室の雰囲気が一気に張り詰めたものになる。どうやら相当厳しく言われたようだな。もしかすると禁を破った場合の制裁も
込みなのかもしれない。

「いえ、何も。」
「そう。来客にそんな態度を取るようでは内定が取れなくて当たり前、と釘をさしては置いたんだけど、今のところ有効なようね。」

 就職活動の状況に繋げて釘をさしたのか。言われた側は相当堪えただろうな…。だが、学部4年の面々には田中さんに反抗出来るだけの実績や能力は
ないのも事実だ。田中さんが居ない場ではそれへの不満から少しぞんざいな態度になっても仕方ないかもしれない。
 ドアが開く。入って来たのは晶子だ。こちらも本を数冊抱えている。帰宅してから読む卒論用の本だろう。俺を見て表情がぱっと明るくなるが、田中さんを
見て一瞬表情が硬くなる。

「お待たせしました。」
「いや、全然。」
「…。」
「直ぐ準備しますね。」

 晶子は俺と田中さんの間を抜けて、自分の席に向かう。少しして鞄を持って駆け寄ってくる。

「では、失礼します。」
「お先に失礼します。」
「お疲れ様。」

 俺は晶子と一緒に学生居室を出る。同じ大学の同じ学年、卒研−文学部では卒論と言うようだ−に取り組むのも同じなのに、学部4年の居室の雰囲気は
まるで違う。4年になって日が経つにすれてその傾向が強まる一方だ。学部学科の就職事情の違いが出ているとは言え、あんな雰囲気の場所には好んで
居たくないもんだ。

「祐司さん。私が来る前に田中さんと何を話していたんですか?」
「今日もこれからバイトがあることとか、ゼミの人達が俺に失礼なことを言ってないかとか、そんなこと。当たり障りのない会話だよ。」
「実際どうですか?ゼミの子達、祐司さんにまで嫌なことを言ってて、せめてそれは止めて欲しいと言っていたんですが…。」
「そういう声はなくなった。不満はあるらしくて投げやりな応対だったりするけど、気に障るレベルじゃない。」
「そうですか。田中さん、凄く厳しく言ったそうなんです。『自分の不満を他人にぶつけるのは八つ当たりでしかない。』『男性の立場や主張を受け付けないで
一方的に貶めるやり方が通用する女性天国の文学部の感覚で何時までも居るから、就職説明会でも門前払いされ続ける。』とか…。私はその場には
居なかったんですけど。」
「田中さんがそれについて言及した時、学生居室の雰囲気が一気に変わった。相当厳しく言われたらしいな。」

 晶子が居ない時に言ったのは、当事者の1人だからと配慮したのもあるだろう。だが、今はもう1つの意図を感じる。俺が学生居室の雰囲気を嫌悪して来なく
なることを避けるためだったんじゃないかという見方だ。むしろ、後者の目的が大きかったんじゃないかと思えてしまう。それは晶子が来る前の会話でも
感じられた。自分が釘を刺したことを明かしたり、それが「有効」なことを確認したりと、叱った際にそれを公表しないとされている−叱られた本人が恥を
かかされたと思う場合があるからだ−ことからの逆行は、自分が不在の時でも俺に失礼な応対をしないレベルまで釘を深く刺した自負があったのもあるんじゃ
ないだろうか。

「それでも、あんな雰囲気の部屋に毎日行かなきゃならない晶子は大変だな。」
「私は良いんです。女同士で孤立するのは昔からですから。祐司さんが嫌みを言われるのが辛くて…。」
「ああいうのは、言い方が悪いかもしれないが女性だとよくあることだ。京都へ旅行に行った時も似通ったことがあったし、基本そういうもんだと思ってる。」

 同調した仲間内でそれ以外の人間を貶すのは男性でもあるが、女性はその傾向が色濃く出る。特に自分達に同調しない女性と、自分達の好みでない男性
への攻撃姿勢は顕著だ。それには自分達は他人の悪口を言ったり攻撃したりして、反撃を受けても「女のすることだから」を逃げ口上に使えるという自信が
ある。その分、逃げ口上が通用しない場合−相手の地位が予想外に高かったり、反撃をものともしない強烈な攻撃をするような相手だと、防戦で手が
いっぱいになる。予想外に高い評価を得られる相手だと判明した場合は一転して低姿勢になる。「高い評価を得られる」の主語は自分自身で、「誰から」は
周囲、特に仲間内だ。仲間内での評価を高めるために男性を篩(ふるい)にかけて悦に浸ることと、より高い評価を得られる男性を得ることで自分の価値が
上がるとする価値基準が根底にあるから出来ることだ。
 晶子が伝え聞いた言葉と絡めて考えると、少々酷な言い方になるが、ゼミの面々には良い薬になってるんだと思う。薬の効き目には限りがあるし、それで
元に戻るようなら繰り返し使わないといけない。それが進むとより強い薬でないと効かなくなってくる。それでも1年程度効果が続くなら十分だ。その点では
田中さんに感謝しないといけないな。

「今日借りた本は卒論関係の本か?」
「ええ。学生居室だと次の説明会をパソコンで探したり、申し込みをしたりすることが多くて、ゆっくり読む時間がどうしても少なくなってしまいますし、家の方が
落ち着いて読めますから。」
「今度の土日は説明会はないんだよな?」
「はい。」
「だったら尚更本が読めるし、公務員試験の対策も出来るだろうな。大学で出来ない分、家で出来るならそうした方が良い。」
「はい。ありがとうございます。」

 晶子の就職活動はまだまだ終わりが見えない。その上、ゼミの雰囲気は日に日にギスギスするばかりで「一緒に頑張ろう」という雰囲気じゃない。晶子が
それを言えば嫌みにしか受け取られずに、「いざとなれば専業主婦になれるから言えること」と以前俺も聞いた嫌みを言われるのが関の山だ。
 3年の時、俺が学生実験と講義のレポートの嵐に直面した時、強力な支えと癒しを続けてくれたのは晶子だ。あの支えと癒しがあったから、俺はある意味
優雅な4年の生活を送れている。逆境にもめげずに頑張り続ける晶子と、卒研も就職活動も現時点で順調に進行している俺とでは環境が大きく違う。だったら
今度は俺が晶子を支えて癒す番だ。1人では難しいこと、出来ないことでも、2人居れば可能性が大きくなる。出来ることの幅が広がる。その関係が夫婦
なんだから。
 バイトが終わって帰宅。「仕事の後の一杯」を飲みながら話をすると、帰りは10時半くらいになる。話し込むと11時になることもある。3年の時はその後
レポートを作っていたんだから、嵐が過ぎた今振り返ってみると結構凄い生活をしていたと思う。
 うがいと手洗いをして、ホットミルクを飲んで一息。大学は土日休みだから少し開放的な気分になれる。演習問題や過去の蓄積を吸収することに徹している
卒研の毎日は、講義で中断されることは殆どないが、同じことを長時間続けるのはかなり集中力と体力を使う。

「祐司さん。」

 向かいに座っている晶子が口を開く。

「そっちに行って良いですか?」
「おいで。」
「はい。」

 このところよく繰り返されるやり取り。京都旅行で偶然発覚した晶子お気に入りの体勢、すなわち俺を座椅子に見立てて後ろから身体を預ける姿勢に
なりたがるのは、それだけ気に入っていて不安やストレスが和らぐからだろう。晶子は立ちあがっていそいそと俺の前にやってくる。俺が足を開いて受け入れ
態勢を作ると、晶子は待ってましたとばかりに出来た空間に腰を降ろし、俺に軽く凭れかかる。俺が晶子のウエストに腕を回して軽く抱いたら完成だ。

「本当に好きだな、この体勢。」
「背中を包んでもらえて凄く安心出来るんです。それにこれは、私だけが出来ることですから。」

 言葉の端々に強い独占欲を滲ませている。やっぱり自分が戻る前に俺が田中さんと話をしていたことが、独占欲を高揚させたようだ。今までだったら思い
すごしとか思わなかったが、田中さんの真意を知った今は警戒心を高めるのは自然なことと思う。俺も独占欲が強い方だし、他の同性の接近を感じて余裕
綽々で居られるほど優位な立場で居続けられるタイプでもないからな。
 これは自分だけが出来ること、か…。こちらからもそれを実感させることを…してみるかな。俺は残り半分を切っているホットミルクが入ったコップを晶子の
口に近付ける。晶子は一瞬驚いた顔をするが、直ぐにそれは微笑みに変わる。そして目を閉じて唇で俺のコップを受け止め、口を少しだけ開けて少しずつ
注ぎ込まれるホットミルクを受け止める。

「ふう…。」

 俺がコップを晶子の口から離すと、晶子は目を閉じたままの恍惚とした表情で溜息を吐く。幸福と快楽に浸っているという表現が相応しい表情だ。そして
何とも艶めかしい。もう一回。晶子はコップの接近に合わせて目を閉じ、傾けて注がれるホットミルクを口で受け止める。一定間隔で喉が鳴る。飲む表情も
さることながらその音もやはり艶めかしい。全てのホットミルクを飲ませてコップを遠ざけても、眠っているようなうっとりしているような表情は変わらない。

「美味しいです…。」
「何の変哲もないホットミルクなんだけどな。」
「こうして飲むことが出来るから、特別美味しく感じるんですよ。私だけが味わえる飲み方ですから…。」

 ようやく目を開けた晶子は、俺を見つめたまま満足感のこもった小さい溜め息を吐く。続いて舌先で唇を舐める。意識してそうしているとすれば煽っている
ことになるし、無意識にしているとすれば天性の才能と言えるだろう。

「こういうことを御所望ですか?」
「…希望はある。」

 晶子が言いたいことくらいは分かる。京都旅行の時もそうだったが、こういう姿勢で晶子に飲み物を飲ませてその様子や仕草を見るのは、晶子が俺にして
くれることを妄想して性欲をかきたてることも含まれている。晶子自身それを意識している様子が多分に感じられる。意識しているからそれを模した仕草をする
ことで、俺の性欲を煽っている面もあるような気がする。

「祐司さん、あまりさせないですよね。」
「してほしいとは思うんだが、晶子にしてもらうのは違和感があると言うか…、性処理の道具にするような気がする。高ぶってる時は話が違ってくるが。」
「事情があって出来ないのに無理やりさせるとか、ただ性欲を満たすためにお金をやり取りしたりしてそれこそ誰でも良いって感覚なら、性処理の道具にして
いると言われて然るべきですけど、恋愛関係にあるなら性処理の道具じゃありませんよ。ましてや夫婦なら。」
「じゃあ…してくれるか?風呂に入った後で。」
「はい。」

 急速に膨らんできた性欲を、キスにして一部昇華させる。俺の身体にすっぽり収まってされるがままに居る晶子に触れて感じていると、独占欲や支配欲が
高揚してくると同時に満足感や幸福感が溢れて来る。その晶子に口でしてもらえるんだから、最高だ。

「祐司さん。1つお願いがあるんです。」

 何度目かのキスを終えた直後、完全に俺に身を委ねる晶子が言う。

「今度の日曜日に、小宮栄に遊びに行きたいんです。お店を見て回ったり、公園を散歩したり…。」
「ああ、良いよ。それくらい。」

 俺は了承の意味を込めてもう一度キスして、晶子を両腕で抱えて立ちあがる。風呂に入ってから夜を営む。今夜も恐らく翌朝にシャワーを浴びる必要が
生じるだろうが、何時ものことだ。それより晶子にしてもらって、お返しにたっぷり晶子を愛そう。休日の朝くらい晶子を俺より目覚めが遅くなるくらいに…。
 日曜日。俺と晶子は小宮栄の駅に降りる。流石に日本有数の繁華街で日曜となると、朝から人手で賑わう。電車でも小宮栄に近づくほど人が増えてきた。
平日の通勤ラッシュと比べてどちらが多いのか比べてみたい。
 小宮栄に遊びに来るのは久しぶりだ。普段は大学とバイトと買い物以外ではせいぜい散歩で近くの公園に行く程度で、殆どは家に居るからだ。趣味が
音楽で基本的に個人で収束するタイプだから、練習のためにスタジオに出入りすることがないのもある。そんなインドア志向は大学の学年が進むにつれて
強まっているように思う。どうしても講義や実験のレポートが多くなるし、平日は大学の後でバイトがあるから、休日を使わないと追いつかなかったのが大きい。
今は今でレポート地獄からは完全に脱却したが、バイトがあるし卒研や就職活動があるから外に遊びに行くことに頭が回らなかった。

「さてさて…、行きたいところってあるか?」
「まずは…この広い地下街を歩いて回りたいです。」

 改札を出たところで最初の行動が決まる。今日の外出は一昨日の晶子の頼みを受けてのものだが、晶子は此処に行きたいという明確な目的があったわけ
じゃない。まずは小宮栄に出てその場で考えたい。今朝家を出る時に晶子はそう言った。
 小宮栄の駅は新京市方面に延びる私鉄と、東京方面に伸びる私鉄、そして丁度小宮栄を中心に十字を描く形に走るJRと市営地下鉄の駅が一堂に会する
総合駅だ。そのため駅構内は広大で、通路を歩くと別の路線や鉄道に変わるし、出口が違えば迎える景色はがらりと変わる。その通路が地下街として整備
されている。飲食店と服飾店、駅の売店を移したような何でも屋的なものが中心で、駅に近いところになると土産物屋の比率が高くなる。その中に時々靴や
鞄の店、旅行会社の支店が混じっている。歩いて回れば1日じゃ到底足りない。鉄道の乗降客をそう簡単に外に出さないようにするトラップの一種が地下街、
という小説か何かを以前読んだ覚えがある。

「それじゃ、行こうか。」
「はい。」

 俺と晶子が乗ってきた路線から伸びる地下街は1方向しかない。少し歩けば他の鉄道や幾つかの出口に繋がる大通りに出る。そこから何処へ行くかはその
時の気分や思いつきで決めれば良い。晶子も最初からそのつもりだからな。
 歩き始めると晶子が早速手を繋いでくる。拒むつもりも理由もないからその手を軽く握る。バイトの往復では手を繋ぐが、あまり人通りがない住宅街、夜に
なると人より車の方が多くすれ違うような場所だから出来ているような面もある。だから人でごった返す昼間の総合駅で手を繋ぐのはどうも緊張する。手を繋ぐ
ことで緊張するなんて今更感満載だ。昨日もそうだし一昨日は晶子の徹底的な奉仕を受けた。そんな奉仕を受けたりするくらい互いのことは隅々まで知り
尽くしているのに、手を繋ぐことで緊張するのは…やっぱり頻度の問題もあるんだろうか。
 単一の「支流」と言っても地下街は横に広い。大通りから俺と晶子が下りた駅までの直線で買えるものを買わせようと考えてるんだろうか。土産物屋が主体
だが、土産だけでなくコンビニのような品ぞろえも加えて帰省客以外の客にも門戸を広げている。人の流れの多くは大通りへ向かっている。最寄りの出口は
1つしかなくて、それは別の私鉄へのショートカットの役割が殆どだからだ。その出口から外に出ても、別の私鉄のビル−○○鉄道ビルとかいう名称のビルと
大型ホテル群の森に出てしまう。別の私鉄への乗り継ぎか宿泊以外では殆ど使い道がない。
 大通りに出ると店の数と人どおりが本格的になる。店は土産物屋の間隔がぐっと広くなり、飲食店、食べ物屋、服飾店、宝飾店など種類も豊富になる。俺と
晶子が出た場所は大通りの西の端近く。西に歩くと複数の出口があり、東に歩くと南北に延びる大通りとの交差点がある。見て回るなら東の方が良いだろう。

「祐司さんは、この前の企業訪問の時にこの道を歩いたんですか?」
「ああ。俺もそれほど小宮栄には詳しくないからな。知っていて無難に行ける道を使った。」

 この道は俺が使った地下鉄の路線にも通じている。小宮栄の地理に詳しいと地下街を使わなくても出口から早く行けるそうだが、時間厳守が暗黙の了解の
企業訪問で小耳に挟んだだけの情報を頼りに近道を辿ろうとするのは無謀だ。地下街を使っても移動距離はたかが知れてる。

「私も合同説明会に行く時、此処を歩いたんですよ。」
「地下鉄も使ったのか?」
「ええ。会場によっては何番出口直ぐというのもあったんですけど、地下鉄での移動が必要な場所が多かったです。」
「今日はスーツも着てないし、気分も楽だろ?」
「楽です。ずっと…。特に気分は別次元です。」

 何せ良い成果が全く出ない、奈落みたいな状況だ。何とかして採用試験や面接に漕ぎ着けようと必死になって、結局否定されるだけされて門前払い
されるの繰り返しで気分が高揚するなんてあり得ない。それにスーツもある。晶子が言うには着慣れない分落ち着かないらしい。俺もスーツは成人式で着て
以来だったからかなり違和感があったから気持ちは十分分かる。着慣れないものを着て延々と散々な結果に終わることを繰り返していても、スーツが身体に
馴染むとは思えない。今は着なれた服を着て、時間を気にする必要もなく、俺と気ままに歩いている。別次元という表現も頷ける。

「私が出席して来た説明会って、土日が多かったじゃないですか。だいたい朝は今くらいの時間で。丁度小宮栄の景色もこんな感じだったんですよ。」
「晶子の状況が違うだけってことか。」
「ええ。説明会に行く時は、今日は良い結果が得られるだろうか、とか、今日もまた就職とは関係ないことで一方的に責められ続けるのか、とか考えてたんです
けど、今日は全然そんな心配をしなくて良いですから、同じような風景でも見え方は全然違いますよ。」
「…今日はゆっくり羽を伸ばして良いぞ。」

 晶子がふと漏らした今までの心理。落とすことが目的としか思えない説明会に足繁く出向いて、何とか良いきっかけを掴もうとあがいていたこと。その往路で
それだけ不安に苛まれていたなら、散々な結果に終わった復路はどんな気持ちだっただろう。それでもめげずに説明会に通い、今も公務員試験にシフトした
とは言え懸命に機会を探っている。そんな晶子を「努力が足りない」とか叱咤する資格が誰にあるだろうか。
 俺は晶子の手を少し強く握る。晶子が小宮栄を気ままに歩きたいと言い出した理由が分かったからだ。我儘やおねだりと言うにはあまりにもささやかなもの
だが、普段晶子の支えに頼っている俺はそんな小さな願いを叶えて充実させる責任がある。その役目は俺にしか出来ないことなんだから。

「はい。」
「ありがとうございます。」

 俺が渡したバラのソフトクリームを晶子が受け取る。水彩絵の具の赤を少し薄めたような色合いのソフトクリームは、今回初めて見る。はたして味はどんなもの
だろうか?…なかなか美味いな。舌の上でさらっと溶けるソフトクリームは程よい甘さで、クリーム全体からほのかにバラの香りがする。興味本位で買って
みたが、意外に良いもんだな。

「美味しいですし、良い香りがしますね。」
「ああ。奇をてらったものじゃなかったな。」

 クリームの先端を舐めた晶子は喜んでいる。このソフトクリームを食べてみたいと言ったのは晶子だが、もしはずれだったらどうしようと思っていたのかも
しれない。「人気!」と書かれたのぼりがあるくらいだから、一般受けするように味や香りに気を遣ってはいるだろうが、初ものはやはり食べてみないと
分からない。
 地下街を暫く歩いて見かけた洋菓子店。その出店というのか実演販売所というのか、そこに人だかりが出来ていた。店の入り口近くに掲げられていた
ポスターやソフトクリームを持って人だかりから出て来た人達の会話から、バラのソフトクリームを売っていると分かった。そして晶子が食べてみたいと言った。
ソフトクリームを食べること自体随分久しぶりだし、バラとの組み合わせは想像すると合うのか少し疑問だったが、こういう機会だし食べてみるのも良いだろうと
思って買いに行った。そんな流れだ。

「こんな店があったんだな。」
「私も今日初めて知りました。地下街を歩くにしてもこの辺に来る必要はなかったですから。」
「ちょっとした探検や宝探しみたいだな。」
「そうですね。」

 俺が過日の企業訪問で使った港湾線に通じる道は、この店がある方向とは全く違う。元々小宮栄から縁遠くなっていたから何処に何があるかの記憶は高校
時代のものに頼るしかないが、それも決して広くはない。知らないが故の意外な発見だ。でも、それがあるから面白い。それに、こうして外で何かを買って
食べること自体があまりない。京都旅行ではそこそこあったが、新婚旅行と銘打った特別な機会で、必然的に外に出る機会が多かったからこそのもの。普段の
生活の中でこうして外で買い食いすることは基本的にない。昨日のように食材や日用品を買いに行く定例日も店を見て回ることは時々あるが、飲食店に
入ったりすることはないからな。

「祐司さん。私のソフトクリーム食べてみませんか?」
「ん?同じものだし、食べ比べなくても良いんじゃないか?」
「そんなこと言わないで。さ、どうぞ。」

 晶子は自分のソフトクリームを差し出してくる。平たくなってきている先端には晶子の唇か舌らしいものの跡がある。一昨日の夜の奉仕を思いだして妙な
緊張と興奮を感じる。少し躊躇いながら先端の一部を口に含む。味は…やっぱり変わらない…よな。

「晶子も…食べてみるか?」
「はい。」

 どちらかと言うと、否、絶対、晶子はこれがしたかったんだと思う。俺が同じようにソフトクリームを差し出すと、晶子はその一部を咥え込んでそのまま口を
離す。一昨日の夜の奉仕そのものの仕草に場違いな興奮が高まる。

「美味しいです。」
「…分かっててやってるのか?」
「何のことですか?」
「…分かってるんだな。」

 目を閉じて飲み込んでから悪戯っぽい笑みを浮かべる晶子を見て、ソフトクリームの食べ合いが意図的なものだと確信する。俺は苦笑いするしかない。
一昨日の夜の印象が鮮明なうちにその仕草を模すことで、常に自分を強く意識させるためだろう。立場が逆だと多分思いつかないだろうし、思いついても
実行出来ないだろう。どうしても人目を気にしてしまうからな。

「バラのソフトクリームの由来は何でしょうね。」
「この店の名物なんじゃないか?ポスターに書いてあったかな…。」

 平静を取り戻そうとソフトクリームを舐めながらポスターの方に向かう。バラのソフトクリームが中央に大きく写された構図のポスターには「大人気!バラの
ソフトクリーム」というキャッチフレーズ−タイトルか?−がある。左の方に何か書いてある。「小宮栄公園の5000本のバラにちなんだ当店のソフトクリームは、本物の
バラから色と香りを抽出しています」。小宮栄公園にそんなものがあったのか。

「小宮栄公園にバラの庭園か何かがあるんですね。」
「知ってたか?」
「いえ。私も小宮栄に遊びで出るのは何時以来かですし、小宮栄の地理には多分祐司さんより疎いですよ。」
「行ってみるか。咲いてるかどうかは分からないが。」
「はい。」

 労せずして次の目的地が決まった。小宮栄公園自体知らなかったし、そこにバラが多く植えられている場所があることなんて想像したことすらなかった。
少し外に出てみると、自分の普段の世界がごく限られた局所的なものだと分かるな。
 小宮栄公園はその名前からして恐らく地下鉄に最寄駅があるだろう。路線図は手元にないし、路線名すら記憶分が正直怪しいが、これも手近な路線や
小宮栄の案内図に場所と最寄り駅の記載があるだろう。適当に歩けばどうにでもなる。地下鉄は…向こうの方だな。
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