雨上がりの午後

Chapter 265 発祥の地を訪れて

written by Moonstone

 バスを降りると、直ぐ傍に深い森が広がっている。銀閣寺で存分に晶子のコートになって俺は晶子を湯たんぽにした後、銀閣寺近くの日本料理店で食事を
済ませて、今日の最後の目的地になるであろう下鴨神社へ移動を開始した。
 移動開始まで時間を食った。バス路線図をよく見ると複数のルートが考えられたからだ。網の目のようなバス路線図は彼方此方で円を描いている。東京の
山手線のように右回りも左回りもあればどれに乗っても目的地に着くが、こちらの円は右回りか左回りかどちらか一方しかない。しかも1つのバス路線は京都
市内の限られた区間を円運動しているものが多い。何も考えずに乗ると目的地に近付くどころか、かえって遠ざかってしまう。
乗り換え回数を少なくするか移動時間を短くするか話し合った結果、乗り換え回数が少ないコースを選んだ。往路で降りた銀閣寺前でなく銀閣寺道まで
出て、そこから少し角ばった円弧を描く上終町京都造形芸大前→高野→洛北高校前の路線に乗り、洛北高校前から真っ直ぐ南下する路線で下鴨神社前
まで乗った。
移動時間は、晶子が絶賛した計算方法からおおよそ90分と予想した。バスで1時間半は普段の感覚からだと随分長く感じるが、それこそ修学旅行で1時間や
2時間バスに乗っていたことを思い起こせば、でたらめな時間じゃない。彼方此方で細切れの渋滞に遭遇した結果、銀閣寺から境内の森を間近に見る下鴨
神社前までの総所要時間は約1時間だった。

「着きましたねー。」

 移動時間が長かったが、晶子の声や表情は喜びと安堵に満ちている。バスの車内で立っていた時も洛北高校前までの路線の後半で座っていた時も、
晶子は俺が広げる観光案内を覗き見て下鴨神社の予備知識取得に熱心で、不満な様子はかけらもなかった。

「間違えずに到着出来て一安心だな。」
「間違っても戻るか乗り直すかすれば良いですからね。」

 この言葉だけでも、晶子が行程に正確さや効率より俺と行動することに圧倒的な比重を置いていることが分かる。俺と行動出来るのなら反対方向のバスや
電車に乗って終点に着いたところで間違いに気づいても、行動時間が増えたと喜びそうだ。

「さて、今はどの辺りか…。」

 俺は一旦コートの懐に仕舞っておいた観光案内を広げる。歴史や歳時記を集約した最初の見開きの次にイラスト風の境内全容が描かれているのは、他の
建物や場所と同じだ。

「下鴨神社前バス停は此処だから、境内からすると西の端なんだな。東方向に直進すると本殿に入れるらしい。」
「楼門の直ぐ傍に縁結び関連のものがありますね。…あ、祐司さん。これ見てください。」

 楼門傍に表記されている縁結びの御神木などを見て晶子のその方面への目ざとさに感心していると、晶子は境内イラストの東の端を指さす。

「…『みたらし団子発祥の地』…?みたらし団子って、屋台とかで売ってるあれのことだよな?」
「ええ。間違いないと思います。」

 午前中に赴いた平安神宮には大きな結婚式場があったように神社と結婚式は密接な関係があるから、この下鴨神社にもそういったものはあると思って
いた。しかし、みたらし団子の文字を此処で見るとは思わなった。しかも「発祥の地」という珍しさの度合いが高いものを伴って。
 みたらし団子は普段の生活で意外と馴染みがある。晶子と買い物に行くスーパーの中には親子連れを主なターゲットにした飲食店が入っている。メニューの
中にはラーメンやハンバーガーなど一般的なものの他にみたらし団子がある。
幾つかのメニューは客寄せも兼ねてか実演販売をしている。みたらし団子はその1つで、たれが香ばしい匂いを周囲に拡散させている。飲食店の規模は
たまに行くもう少し遠くの大型ショッピングセンターのテナントで言えば小規模な方だが−スーパー自体が売り場は平屋建てだからそれほど大きくないのも
ある−店は大抵賑わっているのはみたらし団子の匂い攻撃も大きな要因だろう。
 みたらし団子はてっきり何処かの飲食店か菓子店が創作したものと思っていた。ところが、観光案内の表記には「発祥の地」を伴ってみたらし団子の名前が
ある。勝手に発祥の地を名乗ってもさして良いことはないし、場合によっては裁判沙汰になりうるから、この表記の信憑性は十分高いとみて良いだろう。しかし
また、何で神社とみたらし団子が関係あるんだ?

「意外なところで意外なものを見つけたな。知ってたのか?」
「いえ、全然。私はただ、帰りに祐司さんと川岸を歩いて帰れると思って選んだんです。」
「偶然の産物ならでは、だな。こういう意外な発見は。」

 平安神宮での経験から、深い森や結婚関係の施設はあると思っていた。だが、割と馴染み深い食べ物のみたらし団子の源泉があるとは全く予想して
なかった。境内で飲食物の販売はしていないだろうから−寺社仏閣で飲食物を販売しているところを見たことはない−、どんな場所なんだろうか。

「霊水とかあるし、川らしい場所と隣接してるから、水に関係がある場所らしいな。縁結びの御神木を経由して行くか。」
「あ…、はいっ。」

 縁結びの御神木は正面入り口に当たる楼門傍にある。今居る場所は境内の西端だから、南側に迂回する必要がある。だが、清水寺境内の縁結びの神社
でも随分はしゃいでいたし、念には念を入れて此処でも参拝だの願掛けだのしておきたいところだろう。
俺自身、そういうことに抵抗やアレルギーの類はない。神社をどれだけ参拝したところで当人が浮気したりトラブルが起これば離婚するもんだから無意味、と
参拝そのものを切り捨てる向きもある。それも一理あると思うが、一緒に生きようと決める契機としたり、初心に帰るきっかけになるなら良いと思う。
 最初の目的地である縁結びの御神木に到着。直進して本殿に入って一旦出て、とかどうも変に感じたから、本殿敷地に沿って南に迂回した。ご親睦の傍
にはごく小さい社(やしろ)に明るい朱色の鳥居を添えた神社がある。近くにある看板には相生神社とある。この社に祭られている祭神も縁結びの神様らしい。
 揃って賽銭を投じて参拝。社の周囲は、特に近くの絵馬を奉納する場所がカップルと思しき人達や若い女性の集団で賑わっている。こういう場所は女性の
集団と切っても切れない関係が生じるようだ。これもある種の縁結びの結果だろうか。

「・・・さて、次に行くか。」
「はい。」

 晶子は早速俺の左腕に自分の腕を回す。手を繋ぐだけでは色々な意味で満足出来ないらしい。悪い気はしないしむしろ嬉しいが、何分普段ここまでしない
から気恥ずかしさが出てしまう。
 次は、此処への興味や関心を俄然高めたみたらし団子発祥の地。晶子に軽く拘束された左腕も使って、仕舞っておいた観光案内を開く。本殿敷地に
入って川につきあたるまで東に進み、川に沿って北上すれば良いようだ。みたらし社なんて興味をかきたてる名前の場所もある。境内で飲食物の販売はまず
ないから記念の場所か何かなんだろうが、興味は尽きない。

「祐司さん。」

 楼門を潜って舞殿−名前からして神楽で使う場所だろう−の前で東に折れたところで、晶子が俺の左腕の拘束を少し強めて話しかける。

「絵馬が奉納される場所で、祐司さんがかなり注目されていたんですよ。」
「俺が?」
「ええ。私を見て次に祐司さんをまじまじと見る、ってパターンで。」
「そうか。全然気付かなかったな。」

 参拝して御神木を見たら−途中で2本の木が1本になっていたのは不思議−晶子も満足した様子だったし、その次は俺自身一番興味があるみたらし団子
発祥の地だから、観光案内を見てそこへの道のりを把握することしか考えてなかったから、絵馬周辺からの視線や動向に向ける分はなかった。

「私がこうやって、左手を祐司さんの腕に置いていることで見えた指輪に驚いてましたよ。視線が明らかに私の指輪に向いてましたから。」
「どうして指輪でそんなに驚くんだろうな。」

 指輪に関するエピソードは枚挙に暇がないのは事実だ。プレゼントした時から晶子が左手薬指に填めるよう譲らなかったこと、智一が見て半ば錯乱した
こと、バイト先で見つかって事情を話して以降男子中高生の視線が非常に鋭く痛いものになったこと、実験の最中に晶子の説明の真偽を問うべく大挙して
押し掛けられたこと、などなど。
 最初からこれは晶子への誕生日プレゼントだと説明しても、全くと言って良いほど効果はない。むしろ、誕生日プレゼントと説明する方が嘘だと言われた
くらいだ。填めている場所が場所だけに俺の説明を信じてもらう方が難しいのかもしれないが、俺の左手薬指にも填まっている指輪は、俺にとってはもはや
身体の一部になって久しい。
 填めて1年くらいだろうか成人式に出ることで俺が帰省したあたりまでは、指輪を見られることがかなり照れくさくて恥ずかしくて、発見された次の瞬間から
矢継ぎ早に飛んでくる質問への返答にかなり困った。だが、肌に馴染んで身体と一体化していくにつれて、質問にも平静に答えられるようになった。これも
慣れというものだろう。

「あの視線の動きを見て、私は祐司さんにこの指輪を填めてもらって良かったと改めて思いました。」

 晶子の言葉から強い安堵感が伝わってくる。指輪を填めて以降大学内外で声をかけられることが激減したことや、声をかけられても指輪を見せれば退散
することは、晶子から喜びの声として通販番組か何かのように聞いている。
 俺からすると少々羨ましいと思う異性からの注目は、晶子にとっては嬉しくないものだ。男性からちやほやされて貢物や大層なもてなしをされることを
目指していない上に、邪な−まず性的なことが関係すると考えて良い−意図を感じてならないからだという。
それに疑いの余地はない。そうでなかったら、何も知らせずにどうにか入手した指輪を見せた時から左手薬指に填めるよう譲らないなんて、わざわざ男性を
遠ざけるようなことはしない。ましてや、俺とは対照的に指輪を積極的に見せて嬉々として説明するなんてことはしない。
 晶子が言うことから、男性の注目には今回も色々嫌なものを感じたんだろう。それが指輪で一挙に弾き飛ばされたとなれば、晶子が改めて指輪の虫除けの
強力さに感服や感謝をするだろう。指輪1つで晶子が不快な視線や手を弾き飛ばせられるなら、指輪の入手に費やした時間や手間は安いもんだ。
同時に、晶子の思い切りの良さはやはり凄いと思う。指輪をプレゼントしたのは付き合い始めて半年程度。寝てもいないし−この辺は男と女では違うよう
だが−俺の素性もあまり知らないうちから、自ら結婚指輪という位置づけにして存在を公のものにしてるんだから。
 この旅行に出るに至った根本には、晶子が俺への信頼を揺らがせたことがある。それは晶子の行き過ぎた想像に端を発するんだが、晶子は俺に指輪を
填めさせた時の真っ直ぐな信頼を維持していけば良いと思う。活性化した状態を維持するのは発生させるのと同等に難しいもんだし、俺自身「やっぱり信頼
していて良かった」と思えるようにしていく必要はある。

「事故とかでどうにも使えないものにでもならない限り、指輪を新しく作ることはしないからな。」
「はい。これからも大事にします。」

 特別な金属じゃないし、それほど特殊なデザインでもないから同じ指輪は作ろうと思えば作れる。だが、言ったとおりよほどの事態でない限り指輪を新調する
ことはしない。結婚指輪になることは予想外だったにせよ、壊れたら作り直せば良いという感覚でプレゼントしたものじゃないのは事実だ。
 みたらし団子発祥の地とやらは割と距離がある。観光案内の地図からざっと測ると、降りたバス停から楼門前までと同じくらいだ。平安神宮の神苑も随分
広かったが、下鴨神社の境内もかなり広いな。
平安神宮との大きな違いは、森の深さだ。平安神宮の境内は全体的に開けていたし、神苑も手が行き届いた庭園という感じだった。この下鴨神社は境内
全体が深い森の中にあると言った方がしっくりくる。見上げても視界に占める森の面積が多い。
陰気臭いとか何かが出そうとか−俺は幽霊の類は存在しないと考えている−負のイメージはない。神聖なものが封印された森の中を歩いている気分だ。
比較的大きな通りに挟まれているのに、道路の喧騒は森が吸収しているのか全くと言って良いほど聞こえない。その代わりに木々が時折ざわめく音−若しくは
声が聞こえて来るくらいだ。

「不思議な場所に足を踏み入れた冒険家みたいですね。」
「そんな感じだな。」

 晶子が読んでいるハードカバーのファンタジー小説で、時折洞窟や遺跡といった場所に踏み込むシーンがある。その世界の文明ではありえない高度な
技術で作られた機械や、奇妙な魔物が登場して圧倒的な力で登場人物を翻弄している。
俺は殆どたしなみがないが、架空の世界を回るゲームも進めるうちに色々な場所に向かう。その中には神や精霊といった神聖な存在や、それらが住んで
いたり封印されていたりする場所もあるそうだ。もし京都を舞台にその手のゲームを作るなら、下鴨神社は神聖なものが絡む重要地点に出来そうだ。
 深い森の中を歩いていくと川に差し掛かる。川に沿って北上していくと、森の中に白く浮かび上がる建物が見えて来る。白いのは社を囲む石の柵や柱だ。
その中に朱色の同じく柵や柱が点在していて、コントラストが明瞭だ。周囲の雰囲気は神聖さをより強く醸し出している。

「此処だな。」
「何々の発祥の地という場所のイメージと違って、厳かでひっそりしてますね。」

 有名な食べ物の発祥地だから大々的に飾り立てられていたりしていても不思議じゃないが、森の中に白と朱色の結界を形成して佇んでいる様はひっそり
したものだ。境内が張り詰めた清涼感を漂わせているから、そこに派手な装飾を伴う場所があるのは強烈な違和感を覚えさせるだろうが。
近くの看板を読む。正式名称は「御手洗社」というのか。「御手洗」と書いて「みたらい」と読む苗字があるから、読み方に違和感はない。この社の前にある
御手洗池という場所で土用の丑の日に罪や穢れを祓う神事があって、御手洗池に浮かぶ泡を人の形になぞらえたものがみたらし団子、とある。

「手足を清める場所から食べ物が生まれたんですね。」
「そうらしいな。」

 清めの神事を行うらしい御手洗池には、なぜか思ったほど水がない。目印にした川も、大きさの整った石が敷き詰められた川底と水面がかなり接近して
いる。観光案内に書いてあるかな…。

「普段は池や川にはあまり水がないけど、御手洗祭り−此処で行われる神事の名前だけど、その時期が近付くと水が湧き出してくるらしい。」
「不思議ですね。」
「今は神事の時に備えて水を蓄えている期間ってことかな。」

 どういうメカニズムなのかは知らないが、神事を行う場所にはぴったりだ。水は少ないとはいえ触れないほどじゃない。池の周りは緩やかな階段があって、
池に降りられるようになっている。
 俺は晶子を伴って池に降りる。屈んで水面に手を伸ばす。…冷たい。季節もあるだろうが氷が溶け切って間もないくらいの冷水だ。晶子も俺の左腕の拘束を
解いて水面に触れている。

「凄く冷たいですね。」
「清めをする場所らしいな。」

 神社で清めるというとまず冷水だ。これだけ冷たいと反射的に背筋が伸びるし身体が引き締まる。あるべくしてある場所とはこういう場所を言うんだろう。
触れたついでに両手を軽く水に浸す。手全体が冷たさで強く引き締められて、清められたように思う。ハンカチをズボンのポケットから取り出して手を拭き、
御手洗社に参拝する。白と朱色に囲まれた社はやや小ぶりだが、決して軽んじる気にはなれない雰囲気だ。
 参拝を済ませて観光案内を開いて見る。バス停から縁結びの御神木と現在地の御手洗社へのルートで迂回した本殿の他、幾つかの建物がある。…結婚
式場もあるのか。

「本殿の方には、葵殿っていう結婚式場もあるらしい。結婚式に出くわせるかもな。」
「はい。そうだと良いですね。」

 平安神宮では出席者が出入りする様子にとどまった結婚式に遭遇出来る可能性はある。願掛けの念押しや妻としての認識の強化のために、こういうものを
見ておきたいという晶子の気持ちは変わっていないだろう。俺も見たくないことはないし、仮に遭遇出来れば幸せの門出に拍手くらいは送っても罰は当たる
まい。
 歩きながら−晶子の場合は俺の左腕を軽く拘束しながら観光案内を見る。この下鴨神社は平安神宮とは対照的に長い長い歴史を誇る場所らしい。東と
西の2つがある本殿は国宝、他の建物もことごとく重要文化財に指定されている。近代の整備された神社である平安神宮と、長い伝統と歴史を湛える下鴨
神社を午前と午後でそれぞれ訪れることになるとは、思わぬ偶然の産物だ。

「晶子のシンプルな考えが、長い歴史の両端を見ることに繋がったな。」
「川辺を歩いて帰ることしか頭にないような選び方だったんですけど…。」
「晶子は真っ直ぐ考えて行動するのが一番良い。」

 立場が逆ならストーカー扱いで警察沙汰になっていたであろう熱心なことこの上ないアプローチもそうだったし、指輪をプレゼントしてからの一直線ぶりもそう
だったが、晶子は自分の思いや考えに正直に行動すればそれを周囲に波及させるものを持っている。余分な深読みをせずに一途に純粋で居れば、俺が
二股や乗り換えをするなんてことを想像するには至らないし、その分のストレスを生じることもない。
 中門を潜ると直ぐ両側に、お地蔵様を祀る祠のような小さい社が並んでいる。本殿の方向に向かって左側に4つ、右側に3つある。言社(ことやしろ)若しくは
干支の社というらしい。これも重要文化財の1つとある。
 少し前に進むと本殿…なんだが、壁のようにそびえたつ建物−弊殿に囲まれて見えない。国宝でもあるという本殿に容易に近づけないようにしているん
だろうか。拝観そのものには特に制限はないようだ。別途拝観料を徴収する場所も見当たらない。
意図的にか、柱で狭められている入り口から本殿に向かう。柱が幾重にも林立していることで、本殿の姿をシャットアウトしている。進んでいくにつれて、立ち
並ぶ柱の向こう側に赤と金色のコントラストが映える階段と荘厳な建物が見えて来る。
柱を抜けると2つの建物が揃って完全に姿を見せる。特別大きいわけでもないが、同一に見えるが細部が少しずつ異なる建物は鎮座するだけで迫力を伴う
強い存在感を醸し出しているように思う。
此処まで来た以上は参拝しない手はない。緊張感が胸の内側で急速に拡大するのを感じつつ、東本殿から階段を上って参拝。これから先色々ある
だろうが、晶子と一緒に居られるよう祈っておく。2つの本殿を参拝しておくことで願掛けの念押しになるなら、それに越したことはない。

「さて…、結婚式に遭遇出来ると良いな。」
「こういうのは運ですけど、期待はしています。」

 中門を潜った時に結婚式場でもある葵殿を見たが、境内全体より人の密度や流れが濃かった。集まり行き来する人の服装は黒を基調とした結婚式で
見られるものだったから、結婚式に遭遇出来る可能性はゼロではない。
今日回る場所はこの下鴨神社で最後だし、宿まで歩いて帰るというのんびりしたスケジュールだ。徒歩にこだわらずにバスや地下鉄を使うのもありだ。期待
して少し待つのも良い。あとは運任せだな。
 葵殿は本殿と同じエリア−中門を潜った内側にある。参拝した本殿2つから南に振り向くと、人の流れや密度くらいは十分視界に入る。…ん?人がわらわらと
出て来る。これはもしかして…。

「結婚式が終わった直後みたいですね。」

 俺よりこの手のことに敏感な晶子は、望んでいる異変の発生を感じ取ったようだ。挙式に向けた打ち合わせという可能性もなくはないが、それは社務所で
するだろうから挙式直後の夫婦を見られる可能性は高い。
 少し見ていると、袴姿の男性と白無垢姿の女性が両親らしい複数の男女と共に出て来る。先に出ていた出席者から拍手が沸き起こる。近くに居た他の
参拝客−カップルが多め−からも拍手が起こる。俺と晶子も何時の間にか拍手している。
葵殿からの一団は、夫婦を前に据えてその前後を出席者が固める形で中門から出ていく。挙式が済んだから宿に向かうんだろうか。見届けたそうな晶子の
手を引いて、迷惑にならないよう距離を置いて一団の後を追う。考えは同じなのか他の参拝客の多くも一団についていく。
一団は楼門を出て直ぐ、俺と晶子も拝観や参拝をした縁結びの御神木と相生神社のある場所に到着。何時の間にか楼門脇には修学旅行などで目にした
ことがある木組みの段差が作られている。一団に加わっていたカメラマンは三脚を段差の正面に据えて調整を始める。一団は夫婦を中心に、職員らしき人の
指示で段差に並ぶ。

「記念撮影か。本殿か葵殿の前じゃなくて、此処でするんだな。」
「すぐ近くに縁結びの御利益がある御神木と神社がありますから、此処の方が好まれるのかもしれませんね。」

 晶子の言うことは理に適っている。挙式の記念写真も一種の縁起物だからな。歴史のある建物より御利益のあるものの近くの方がこの場合は好まれる
だろう。段差の周り、すなわち一団の周囲にはかなりの人垣が出来ている。相生神社周辺に居た女性の集団やカップルもかなりの数が足を向けている。
神社や御神木に加えて実際に挙式した夫婦、とりわけ花嫁にあやかりたいんだろう。
 段差への整列には少し時間がかかりそうだ。その間一団を見つつ観光案内を捲る。俺としては御利益がありそうなこの場所より、本殿や葵殿の前の方が
記念写真に相応しい−この辺夢がないのかもしれない−と思うからだ。・・・本殿は写真撮影が禁止されているとある。道理で観光案内にも本殿の写真が
掲載されていないわけだ。

「本殿は写真撮影が出来ないんだな。」
「確か本殿は国宝でしたよね。国宝となると撮影が出来ない場合は多いですから。」
「こういうのは仕方ないか。」
「祐司さんだと、国宝前での撮影の方が記念になりそうと思うんですね。」
「夢がない、かな。」
「いえ。国宝前での撮影も十分記念になるものですよ。どちらにするかは話し合って決めるか、可能ならどちらも撮れば良いと思います。」

 記念も価値観の相違が如実に出やすい。ことが写真として残るとなると、相違が衝突して諍いを生むことも珍しくない。幸い晶子は話し合いが容易だし、
目的が達成出来る範囲での妥結も十分可能だ。頑として譲らなかったのは指輪をプレゼントした時くらいだ。
 当人同士では話し合いで問題なくても、親族が口出しして来てこじれるという話もよく聞く。金は出さないが口は出すのが親族という言葉もあるくらいだ。
結婚式は家同士がするものという意識は、特に年配世代ほど未だに根強い。当人の新たな門出への援助−金銭的なこと以外に役所での手続きや生活の
知恵といった社会的なことも重要−はそっちのけで、メンツや体裁を当人のためと押しつけることとその結果生じる軋轢が絶えないのはその証左だ。
 晶子との結婚がより現実のものに近付いた今、親族の干渉が最大の懸念材料だ。段差に整列している一団を見ても、両親と思しき4人に夫婦と同年代らしい
人を除くと、出席者の多数−少なくとも過半数は親族。晶子の親族の数は知らないが、俺の親族は割と多い。数だけなら気にしなくても良いが、日頃疎遠な
親族ほど冠婚葬祭に口出しする度合いが強いという話もよく聞く。
 親族の干渉への懸念は、挙式後間もないであろう夫婦をはじめとする一団と去年の年末年始の帰省が重なったことで生じた。約2年ぶりの帰省で親戚
回りに連れ出されたが、親族の中で2人目の大学進学、所謂有名大学への初の進学者輩出ということで−親戚回りで聞かされた−、親戚の盛り上がりぶりは
尋常じゃなかった。
 酒も料理も入るその席で今の指輪を今の位置に填めていたことが、盛り上がりに拍車をかけた。その時は酔っていたのもあってたいして気にしなかったが、
次は結婚、更には一流企業への就職と当事者である俺を余所に派手な将来話を展開させていた。それを思い返すと、挙式云々になると親族がよって
たかってあれこれ指図−こういう場合は往々にして当人は相手のためと信じて疑わない−することが考えられる。

「祐司さん。」

 晶子の声でふと我に返る。

「考え事ですか?」
「ああ、ちょっとな。」
「挙式に関することですか?」
「よく分かるな。」
「目の前の光景から祐司さんが今考えを巡らせることと言えば、挙式に関することかなと思って。」
「…そのとおりだ。」

 父さんの兄の長男、俺から見て従兄が挙式した時は披露宴を盛大に執り行った。当然父方の親族が大勢顔を揃えたし、新婦側も多数の親族が居た。
今思うと、新郎新婦両方で出席者の数を競ってたんじゃないかと邪推してしまう。
 その席でも父さんと母さんの間にはかなりの温度差があった。挙式や披露宴をどうするかはどちらが正しいと言える問題ではないが、出席者の分だけ
価値観が入り乱れれば調整は難しくなる。金銭的な問題が主になってどれかを取ってどれかは諦めるという取捨選択をせざるを得ないが、それで諦められた
選択肢を出した人はメンツを潰されたという意味不明な怒りを抱く。それが挙式や披露宴以降も尾を引く場合も多いらしいから余計にややこしい。

「私は、挙式そのものにはこだわりはありません。祐司さんと結婚することが目的なんですから。」
「ドレスは?」
「ドレスに憧れがあるのは事実です。でも、それがなければ駄目とか嫌とか、そんなことは考えていません。」

 ドレスを着るのは結婚式でなくても可能だ。式場やそこそこ大きな写真屋に行けばレンタルや試着が可能だし、写真屋なら撮影も出来る。ドレス選びに熱を
上げてドレスそのものに飽きるのは本末転倒な気もするが、それだけ選択肢は豊富ということだ。

「祐司さんと法的裏付けも得て一緒に暮らすことが結婚の目的なんですから、ドレスの有無とか場所とか、そんなことは重要じゃありませんよ。周囲からの
意見の取捨選択が困難なら、挙式もしないで婚姻届の提出だけでも良いと思っています。」
「それでも良いのか?」
「はい。結婚が目的じゃなくて結婚して一緒に暮らすことが目的ということくらい分かってるつもりです。」

 結婚式も披露宴も、それが目的じゃなくて共同生活に向けての公開セレモニーだ。メンツを潰された云々は元より、挙式の形式や披露宴の規模や内容に
自分の意見を押し付けるのは、結婚式や披露宴をすることが目的になっている、言い換えれば目的と通過儀礼を取り違えているためだ。
ウェディングドレスに憧れがあるという晶子もその辺は十分弁えている。元々晶子はウェディングドレスへの憧れは口にしたことがあるが、雑誌をこれ見よがしに
広げたりといった露骨な表現はしていない。ウェディングドレス至上主義や結婚式原理主義の立場はとらないから、結婚やその先の共同生活への障害に
なるのなら結婚式もウェディングドレスも諦めると割り切っている。
 晶子がこれだけ現実的な思考が出来ている以上、親族−どちらかを問わず−の干渉には俺がしっかり対応しないといけないな。この手の問題は新郎側に
メンツを押し付けることも多分にあるが、新婦側に無理難題や理不尽なことを我慢の一点張りで押しつける傾向も強いと聞く。「言うことを聞かない嫁」=
「言いなりにならない嫁」への風当たりは相当強い。
結婚して共同生活をするのは親族の誰でもなくて晶子だ。目的と通過儀礼を履き違えた意見の排除や、最終手段として親戚の干渉の場である式や披露宴
−後者は実施の可能性が低い−そのものを切り捨てる決断をして、それへの八つ当たりから晶子を守る心構えをしておくべきだな。

「私は、祐司さんについていきます。」

 晶子は俺を真っ直ぐ見据えて静かに宣言する。

「この旅行とそれに至るまでの経緯で、私があれこれ考えて決断や行動に踏み切るのは碌なことにならないと思い知らされました。私1人なら自業自得で
済みますけど、祐司さんと一緒に暮らす場合は祐司さんも巻き込んで大変な事態を生んでしまいます。」
「…。」
「加えて、祐司さんは論理的で常識的な対応がとれる男性だと強く認識しました。その男性に夫になってもらう以上、私は自分の立ち位置を弁えて支援や
協力や補佐といったことを惜しまず、その立場に徹することが肝要だと思うんです。ですから、祐司さんの決断に従います。それは挙式にまつわることでも
変わりません。」

 晶子の言葉は、めぐみちゃんの1日親代わりが終わった後でも所感として語られたものだ。晶子は自分が妻であるために必要な立ち位置−俺の強力な
サポートに徹することを認識して、徹底することを心がけている。あの立てこもり騒動を反省して教訓としているのは良いことだ。見下ろす立場じゃなく、反省や
教訓にすることは出来るようでなかなか出来ないもんだと分かっているつもりだからだ。
 晶子が俺についてくるなら、俺はついていくに値する明瞭な決断と強いリーダーシップが必要だ。リーダーシップには意見や助言と干渉や妨害を切り分ける
選択眼と、干渉や妨害の波を突っ切っていく強さが含まれる。これから先に控える物事にはリーダーシップが必要になる場合が多々ある。就職もその1つ
だろう。周囲の言葉に翻弄されていたら、ネームバリューだけで望まないところに就職して、周囲の願望のために働くことにもなりかねない。
 挙式をどうするか、しないことも含めた選択や行動にはやはりリーダーシップが必要になる。俺が決断したことでも晶子に干渉や妨害の波は及ぶだろう。
波に飲まれないように安全海域まで護って航海するのも、船の大切な役割だ。

「形式をどうするかはまだ先の話だと思うが、2人で納得出来て共同生活を良いものにしようと決意出来るものにしよう。」
「はい。」

 めでたいことの理想は膨らむ一方だが、理想ばかり膨らませても現実に反映されるわけじゃない。理想を膨らませることばかりに熱心だと、現実に適用
出来ないことへのストレスが針となって突き刺さり、膨らんだ理想の風船は破裂する。晶子だけでなく、俺も自戒しておかないといけないな。
 話をしているうちに一団の段差への整列が完了。カメラマンの合図で2回撮影される。写真撮影が終わると一様に固まっていた面々が一斉にやれやれと
いった様子で動き始めるのは、ここでも共通している。
一団は神社の職員−という呼称で良いのか不明−に先導されて、参道を南に進んでいく。駐車場から宿に向かうんだろう。親族は賑やかだが、夫婦は揃って
表情が硬い。式が滞りなく終わるまで緊張の鎖でがんじがらめになっているんだろう。たまたま遭遇したカップルだが、挙式などでは間違いなく俺と晶子の
先輩だ。幸せになってほしいと切に思う。
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