「あ、茶道で飲むお茶がどんなものか体験出来る場所が直ぐ近くにありますね。」
「何処だ?」
「あそこです。」
晶子が指差した方を見ると、竹垣に囲まれた小さな日本屋敷が見える。金閣寺周辺よりはずっと少ないが割と多くの人が集まっているようだ。
「めぐみちゃん、茶道で飲むお茶飲んでみたい?」
「どんな味がするの?」
「普通のお茶より濃くて・・・、どうかな・・・美味しいと言う人も居るし苦いって言う人も居る。好き嫌いが少し出る味ね。」
晶子は「抹茶」という単語を使わずに解説する。抹茶味の菓子は今となっちゃありふれてるが、めぐみちゃんはあの両親の下でジュースしか与えられなかった
という。「抹茶味」とはめぐみちゃんの境遇を考えると言うべきじゃない。晶子は流石に良く分かっているな。
「どうする?」
「ん・・・。飲めないとどうなる?」
「めぐみちゃんが飲めなくても、お父さんとお母さんが代わりに飲むから心配ないぞ。」
「飲めるなら全部飲んで良いし、飲めなかったらお父さんとお母さんに言えば良いよ。」
「じゃあ・・・、飲みたい。」
やっぱり自分の意思を出すという段階になると、まだ無意識に躊躇してしまうようだ。長年染み付いてきた防衛反応だ。直ぐに直せる方がおかしい。
めぐみちゃんには色々なことを体験して欲しい。その機会を積極的に作るのが俺と晶子の役目だろう。
「お菓子もあるよ。これも食べられるだけで良いからね。」
「うん。どんなお菓子?」
「えっと・・・、めぐみちゃんは納豆って食べたことある?」
「納豆・・・、食べたことない。聞いたことはある。」
「ねばねばしたお豆のこと。お菓子用に甘くしてあると思う。」
めぐみちゃんは京都に近いところに住んでいるらしいから、納豆を食べる機会は元々少ないもんなんだろうか。俺は小さい頃から良く食べていたし、晶子も
好きだから良く買うが、新京市ではあまり食べられていないらしく、売り場の面積は狭い。納豆は東の方ではよく食べられるが、西の方では食べられない
傾向がある。ステレオタイプのような気がするが、住む場所を変えて買い物をする場所が変わると、並ぶ食品に違いが見える。
俺自身、バイトと大学の学食以外の食事をコンビニ弁当に頼っていた時代は、スーパーは殆ど行かなかったし、行っても食品の並びや様相に関心を
持たなかった。晶子と買い物に行って一緒に品物を選ぶようになって分かって来たことだ。何処から東で何処からが西とするかの明確な定義はない。大体
本州を中央部で東西に分けて、境界は明確に白黒が分かれるもんじゃなくてグラデーションのように変わるようなもんだとすると、京都は西側にあると言える。
「食べられるかな・・・。」
「一口食べてみて美味しかったら全部食べれば良いし、食べられなかったらお父さんとお母さんが食べるから心配しなくて良い。」
「晩御飯をお父さんとお母さんと一緒に食べるから、そちらを優先して食べられるかどうかを考えようね。」
「うん。」
不安そうだっためぐみちゃんに、俺と晶子が残す選択肢を予め示しておく。こうしないと「食べなきゃいけないもの」と思い込んで無理に食べて、結果吐いたり
後でアレルギーに−今は結構これが問題−なったりしたらめぐみちゃんも俺も晶子も大変だし、他の客に迷惑がかかる。
「めぐみちゃんには初めて尽くしだな。」
「今は苦かったり美味しくないと思うものでも、大きくなったら美味しいと思えるようになることもあるからね。」
「お父さんとお母さんもそういうことあったの?」
「あるぞ。お父さんは今でもそれがある。」
俺は相変わらず焼き茄子が駄目だ。あの臭いと苦味はどうしても忘れられないし、今は変わっていると思えない。晶子は俺の唯一と言って良いくらいの
好き嫌いを知っているから、焼き茄子を料理や弁当に出してない。今日の夕飯はめぐみちゃんも一緒に食べる。昨日と今朝の朝飯ではなかったが、今度
焼き茄子が出たらまずいな・・・。無理矢理食べるか、上手いこと言って晶子に食べてもらうかするか。
「お母さんはないよ。」
「あそこにあるお茶とお菓子は、お父さんも大丈夫?」
「大丈夫。お父さんが苦手な食べ物は1つだけだから。」
此処でも晶子が上手くフォローしてくれる。めぐみちゃんは、俺が抹茶と茶菓子を前に躊躇する様子を想像しているらしい。うーん。食べ物の好き嫌いが
あるとこういう時にみっともない思いをするんだな。少しずつでも慣らしていくべきか・・・。でも、あの臭いと苦さはやっぱりなぁ・・・。
茶道の世界を体験するために、晶子が見つけた場所へ向かう。竹垣の向こうには平屋建ての日本家屋があって、外の赤い大きな椅子が幾つかある。外でも
飲食出来るようだ。人は居るが、此処までのハードルのせいか席が空くのを待つ必要はない。座る場所の目安をつけて建物の中に向かう。座敷に横に並んで
座っている女性達は、意外にも和服じゃない。
「3人分お願いします。」
「はい、ありがとうございます。お一人様500円になります。」
あ、やっぱり金が要るのか。どうやって財布を出そうかと思うと、晶子が財布を出す。
「私が出します。」
「ああ、頼む。」
晶子と見聞きする同世代の女性を比べて「違う」と思うのは、こういう金の支払いだ。晶子は自分が出すのを何ら躊躇わないばかりか、率先して出す。毎週の
買い物でも俺と適当に分割して払っているし、後で自分の分の補償を求めない。
そういう払い方が普通だと思って周囲を見聞きしていると、晶子が「違う」ことが良く分かる。デート代は付き合っていても男が全部払うのが当たり前。
食事にしても遊び場所にしてもだ。更にはクリスマスだのバレンタインデーだので、女から男に渡すプレゼントより男から女に渡すプレゼントの方が数倍も
高価なのが当たり前とされる。割り勘を求めると返ってくる評価は決まって「甲斐性なし」。
どうも世間の女性の認識は、「女性の地位向上」や「男女同権」を言いつつ、「女性は男性から庇護されるもの」「経済的負担は男性が負うもの」という従来の
価値観はそのまま「生かして」いく方針らしい。恐ろしく身勝手で良いとこ取りだが、そんな二重基準が「男女平等」「女性の地位向上」でまかり通ることが当然
として憚らない。聞いただけでもうんざりするが、それは多くの男性の共通認識でもあるようだ。
「お出ししますので、少しお待ちください。」
「座敷に上がるんですか?」
「ご賞味いただくだけですので、作法などは必要ございません。座敷でも野点席でもお好きなところでどうぞ。」
茶道の作法を体験する場所じゃなく、あくまで茶と茶菓子を味わう場所らしい。言われてみれば、座敷に居る人達も正座じゃなく、足を崩してめいめいに
食している。出されるまでに特にめぐみちゃんが長時間の正座を我慢出来るかと思ったんだが、その必要がないのはありがたい。
「正座とかはしなくて良いの?」
「此処ではね。」
「お嬢ちゃん、お父さんとお母さんと一緒にちょっと待っててね。」
「はーい。」
めぐみちゃんは五月蝿くない程度に幼児らしく元気の良い返事をする。今まで押し殺していた感情を出せるようになって来たんだな。
一般の湯飲みより一回りほど大きい器に湯が注がれる。丼のような一抱えあるものかと思ったんだが、誰でも飲める量を考えているんだろう。3枚の皿に
菓子が盛り付けられ、3枚の盆に器と共に載せられる。
「はい、お待ちどうさま。」
差し出された盆を、晶子が1人分持つ。俺は晶子を空いている席に案内する。外で飲み食いするにはちょっと寒いかもしれないが、めぐみちゃんが居るから
座席より外の席が良いだろう。茶や菓子をこぼしても被害は最小限で済む。
俺がめぐみちゃんを座らせて待っていると−短い時間でもめぐみちゃんを1人にしておくのは何かと危険だ−、晶子が3回往復して3人分の盆を運ぶ。俺が
めぐみちゃんと一緒に居ることを踏まえてのことだが、俺は運ぶよう頼んでいない。「阿吽の呼吸」に近いものがある。
「皆で食べようね。」
自分の分を置いた晶子は、俺の隣じゃなくてめぐみちゃんを挟んだ左側に座る。正面から見て左から俺、めぐみちゃん、晶子という座り位置だ。
俺がめぐみちゃんをフォロー出来なくても晶子がしやすいし、逆に晶子がフォロー出来なくても俺が手を出す余地がある。並んで座る形式のこの場所では
こういう座り位置が一番良いだろう。
「凄く濃い緑色してる・・・。」
普通の茶−めぐみちゃんが満足に色を見たりする機会があったのかどうか不明だが−を想像していたのか、抹茶を目の前にしためぐみちゃんは尻込み
する。普通の茶より間違いなく濃い色をしているし、見た目にもどろっとしているから、これが本当に飲めるのか疑いたくもなるだろう。
「一口飲んでみて、飲めるならそのまま飲んで良いし、飲めなかったら止めて良い。ただし、器を放り出さないようにな。」
「うん。・・・お菓子から食べて良い?」
「ああ、良いよ。順番はないから。」
「お菓子も食べられるかどうか、一口食べて決めれば良いからね。」
「うん。」
俺と晶子が念入りに「中途放棄」の選択肢があると伝える。めぐみちゃんにはこの「中途放棄」の選択肢が殆ど許されなかった。ただ怒声と共に強く促される
ばかりだった。少なくとも今はそんな狭い道から解放してあげたい。
俺と晶子が見守る中、めぐみちゃんはその顔くらいある大きさの器を両手で持つ。熱さは大丈夫かと思ったが、これは大丈夫らしくめぐみちゃんは器を注意
深く持ち上げる。そしてゆっくり口に近づけ、少し傾ける。
「・・・どう?」
めぐみちゃんが器を元の角度に戻したところで尋ねる。何だか、めぐみちゃんを実験台にしてるみたいだな。
「うーん・・・。よく分かんない。」
めぐみちゃんは首を傾げる。美味いとは言えないが不味いわけでもない。飲めるもんじゃないというほどじゃない。今まで飲んだことがない不思議な飲み物と
思ってるんだろう。
「甘くないんだけど思ってたより苦くない。お茶の匂いなのかな・・・それが凄くする。」
「ジュースと違ってお砂糖は入ってないからね。もっと飲めそう?」
「変わった味がするから、もうちょっと飲んでみたい。」
「無理に飲まなくても良いからね。」
「うん。」
出鱈目なことじゃないからめぐみちゃんの意思を優先させる。めぐみちゃんは多少おっかなびっくりな様子だが、少しずつ茶を飲んでいく。受け付けないと
いうもんじゃなくて良かった。
めぐみちゃんが無事初めての茶を飲んだところで、俺と晶子も茶を飲む。抹茶アイスで知っている味よりずっと濃い。だが、匂いや味が受け付けないという
ことはない。「一風変わった茶」「本物の抹茶」という認識で飲める。高校でも茶道部はあったし、大学にも茶道のサークルはある筈だ。でも、今に至るまで
実際に茶道で淹れられる茶を飲んだことはなかった。和服を着て茶室で礼儀作法に則って、という先入観があって無意識にハードルを設けていたせいも
あるだろう。
「美味しいですね。」
「ああ。こういうのも良いな。」
晶子と寛ぐ時は専ら紅茶だ。インスタントコーヒーは買わなくなったし、晶子は紅茶は好きで色々買うが、コーヒーはあまり買わない。嫌いではなく−嫌いだと
あのバイトであのポジションはやってられないだろう−紅茶の方が好きだから、というのがその理由。
回数を重ねる度に晶子の料理が自分で美味いか不味いかを決める基準になっていった。これは「胃袋を掴まれた」状態だろう。料理は晶子が一時
マスターと潤子さんの家に立て篭もった時に作ったが、俺が晶子の水準に達するには相当の修練が必要だと思う。面識の浅い若しくはない人に食べさせて
高評価を得るのはかなり難しいことは知ってるつもりだ。晶子の場合、俺の当初の印象が悪かったから、高評価が余計に出難い。それでも普通に食べられると
思わせたのは、まさに「胃袋を掴んだ」結果だろう。
美味い食事は良性の麻薬と言えるかも知れない。それじゃないと食べても満足出来ない、あの味で食べたいと思わせるんだから。料理が出来るのも才能の
1つだろう。その背景に修練や失敗があってもだし、才能ってものは大半がそういうものだと思う。
「お菓子、食べて良い?」
器を置いためぐみちゃんが俺と晶子に尋ねる。聞かなくて良いよと言いそうになってどうにか事前に封じる。めぐみちゃんは今まで自分の意思で選択する
ことが許されなかったんだ。確認する癖が出ても何ら不思議じゃない。
「ああ、良いよ。」
「一口食べてみて駄目だったら、お父さんかお母さんに言えば良いよ。」
俺に続く晶子の承諾と「止める」の選択の提示で、めぐみちゃんは菓子に手を伸ばす。めぐみちゃんで味を試すようで変だから、一足先に食べてみることに
する。器を置いて、と。
「お父さんも食べてみる。」
「じゃあ、お母さんも食べようっと。」
晶子は素早く追従する。抜け目がないというかめぐみちゃんに対する対抗意識というのか、ちょっと子どもっぽいところに苦笑い。この分だと本当に将来娘が
出来たら、娘と俺の取り合いをしそうだな。
では改めて菓子を一口。・・・うん、普通に食べられる。結構美味い。納豆入りとあったからスーパーとかでパックで売っている納豆がそのまま入ってるかもと
思ったが、そんな笑い話になりそうな菓子じゃない。
「どんな味?」
「お父さんは美味しいと思う。」
「お母さんも美味しいと思うよ。」
「じゃあ、めぐみも。」
めぐみちゃんは両手で菓子を持って、端の方に齧り付く。昼飯のサンドイッチを食べる時もそうだったが、両手で身体のサイズに比べて大きめの菓子を
両手で持って食べる様子は、やっぱりハムスターとか小動物を髣髴とさせる。
菓子から口を離して、めぐみちゃんは味わっっているらしく何度も噛む。そして何度か首を横に傾げる。不味そうな顔じゃないから食べられないことは
なさそうだ。
「ん・・・。割と甘い。ジュースと違う甘さ。」
「美味しさで言うと、どんな感じ?」
「うーん・・・。他のを食べたことないから分かんないけど、ジュースより甘さが少ない。」
めぐみちゃんの食生活の一端が此処でも分かる。あの両親、めぐみちゃんには飲み物としてジュース以外飲ませたことがないようだ。だからチョコレートや
キャンディといった他の菓子との比較が思いつかないんだろう。
「お茶と交互に食べていって、お腹いっぱいになったりもう食べられないと思ったら、お父さんかお母さんに言えば良い。」
「無理しなくても良いからね。」
「うん。」
俺と晶子から続行の許可−それほど大層なもんじゃないが−を得て、めぐみちゃんは引き続き菓子をぱくつく。食べるペースが割と速いところからするに、
今まで食べたことのない甘さや味がどうやら気に入ったらしい。
あのとんでもない両親のおかげで今まで知らないことだらけだったが、此処へ来て色々な経験が出来ているだろう。無論俺と晶子と一緒に回って見る
場所や食べる食べ物が全てじゃない。だが、今までの世界よりぐっと開けた世界の一端を直接体験出来るのは良いことだろう。
「普段のお茶時が洋風ですから、こういう和風のものって新鮮です。」
「正反対だよな。これはこれで良いし。」
「普段って、お父さんとお母さんのおやつの時間?」
「そうよ。」
「どんなの食べてるの?」
「飲み物は紅茶−赤色を帯びたヨーロッパ版のお茶で、食べ物はクッキーが多いかな。偶にプリンやシュークリームも作るわよ。」
今や店の昼間の名物になった手作りクッキーと風味豊かな紅茶を潤子さんに教えた晶子は、無論クッキーも自分で作る。生憎俺の家にはオーブンなんて
大層なもんはないから−それを買うほど料理はしてないし出来ない−、焼くのは晶子の家だ。晶子の家にはキッチンにオーブンが組み込まれている。店に
あるものよりは小型だが、2人分くらいには十分な量が作れる。
クッキーにはチョコチップやココアパウダーを入れたり、コーヒーや生クリームを加えて風味を変えたりとバリエーションも豊富だ。作る様子を何度か見て
いるが、紅茶専門店に隣接している菓子専門店で必要な材料を買って生地から作っていて、おやつには勿体無いと思うほど手が込んでいる。時々クッキー
以外のものを手がける。プリンやシュークリームが出来た時は驚いた。プリンやシュークリームは買うもので買うしかないと思っていたからな。味はクッキーも
そうだが砂糖をかなり抑えているからさっぱりとした美味さで、紅茶に合う。
「クッキーやプリンやシュークリームって、お菓子屋さんとかに売ってるのと同じ?」
「お店に売ってるものとまったく同じじゃないけど、お母さんが作るよ。」
「凄い凄い。お母さん、お菓子屋さんになれるね。」
めぐみちゃんは目を輝かせる。このくらいの年代って菓子が好きだからな。朝昼晩の食事より菓子の方が良いとさえ思うくらいだ。俺にも経験があったし、
菓子を買ってもらうために買い物について行ったりしたもんだ。
クッキーは割と手軽に作れる詰め合わせと言うのかセットと言うのか、そういうものが売ってるからそれを使う手段もある。だが、プリンやシュークリームと
なるとそうはいかない。かと言っていざ作るとなっても何を用意すれば良いのか見当さえつかない。
「他にどんなのが作れるの?」
「アップルパイとかケーキとか、洋菓子屋−ケーキとかを売ってるお店にあるものなら、大体作れるよ。」
「凄ーい!」
めぐみちゃんの晶子への尊敬が一気に上昇したようだ。店では見られるが買うしかないと思っていた菓子が自分で作れるのは、菓子好きのめぐみちゃん
くらいの年代には驚異的なことだろう。
菓子作りは出来たものの見た目以上に重労働だったりする。卵や小麦粉を混ぜたものをかき混ぜる時が特に大変だ。数回かき混ぜてOKじゃなくてある
状態になるまでひたすらかき混ぜないといけないから、根気も力も時間も必要だ。生地作りも大変だが、クリーム類を作るのもこれまた大変だ。食べた時の
滑らかな舌触りを実現するには、温度加減を調整したり、「だま」にならないよう注意してかき混ぜたり裏ごししたりとやたら手間がかかる。いい加減にすると
一挙に不味くなるらしい。そんな手間がかかる代物だから、クリームが主体のシュークリームはとても直ぐに出来るもんじゃない。出来上がるまで文字どおり
つきっきりになる。だが、晶子は出来て食べられれば呆気ないほどあっさりなくなるシュークリームも、作る過程が楽しいし、それを俺が食べて美味いと
言うことが楽しみだし、そのために作るという。
「こういうのも作れる?」
めぐみちゃんは手に持っている茶菓子を晶子に示す。めぐみちゃんには買わないと食べられない菓子を作れるという晶子が魔法使いか何かのように
見えるんだろう。
「和菓子−日本のお菓子は作ったことないから、分からないなぁ。」
チーズケーキもショートケーキも作って見せた晶子だが、和菓子の類は手がけたことがない。紅茶に和菓子は食べてみないことには分からないが、聞いた
限りでは違和感があるし、紅茶好きなことから菓子作りへと手を広げたという背景があるそうだ。
「そうなんだ・・・。」
「でも、お父さんが食べたいって言ったら作るようになると思う。」
納得した様子のめぐみちゃんに、晶子が和菓子を手がける構えを仄めかす。チラッと俺を見る晶子の目の輝きが念押ししている。この分だと、俺が作れと
言ったらフランス料理フルコースでも作りそうな気がする。
「お父さんは、お母さんが作ったこういうお菓子って食べてみたい?」
「そりゃあまあ・・・、食べてはみたいけど、お母さんには作ってもらってばかりだからな。」
早速めぐみちゃんに振られた話に答える。その時晶子をチラチラ見ながらになってしまうのは性か。めぐみちゃんの後ろから俺を見る晶子の顔が、何かを
期待するようなものに見えて仕方ない。
「お父さんは、ケーキとかとこういうお菓子とかとどっちが好き?」
「んー。食べ慣れてるのもあるだろうけど、ケーキとかの方が好きだな。ケーキはチーズケーキが一番好きだ。」
「お母さんは?」
「自分で作ってるのもあって、お母さんもケーキとかの方が好き。お菓子に限らず食べ物の好き嫌いはないけどね。」
めぐみちゃんは結構話を振るのが上手い。友達との会話の中でも自然に場を仕切って盛り上げるタイプだ。高校時代のバンド仲間で言うと耕次や宏一の
立ち位置だな。こういうのは意識していても上手く出来ないもんだから、貴重な才能だ。幼稚園児に話を盛り上げられる大学生のカップルっていうのは、
ちょっと変な話かもしれないが。
俺と晶子は取り組んでいる曲や時に料理の話で延々と話をすることがあるが、基本無理に話すより一緒に居られればそれで良いというタイプだ。晶子が
事実上住み込んでいる俺の家でも、話が盛り上がって気づいたらこんな時間になってた、ということはあまりない。そんなので間が持つのかと思う人も居る
だろうが、揃って同じ考えだから何ら問題はないし、不自由もしない。何せ俺がレポートだ試験勉強だ、それが終われば曲のデータ作りとギターの練習と
いう有様だから、晶子とくっちゃべりながらだと間に合わない状況が多いのもある。晶子は俺が机に向かっている間自分のレポートや試験勉強をしたり本を
読んだり料理の下ごしらえをしたりしているから、暇を持て余しているということはない。
「相手に何かしてもらおうとする態度ばかりだから間が持たないとかいうことになる」・・・。「暇じゃないか?」と俺が聞いた時に晶子はこう答えた。
「女性だから楽しませてもらうものというのは勘違いだし思い上がり」と何気にキツイ一言を続けた。まあ、そういうタイプじゃなかったら、最低限の場合しか
まともに相手にしなかった俺に熱心なアプローチを続けたりしないだろう。
めぐみちゃんはひとしきり話して満足したのか手が疎かになった−この場合「口」か−と思ったのか、少し急いで菓子をぱくつく。慌てなくて良いと晶子が
やんわり諭すと、めぐみちゃんは食べるスピードを元に戻す。遅れると叱られると思ったんだろうな。
茶を飲みつつ菓子を食べる。晴れた空を見ながら短い昼間の暖気が消えていく最中の空気に浸り、野点で寛ぐ。レポートだバイトだ試験だと続き、それが
明けたと思ったら晶子の立て篭もり騒動が起こった。年明けから駆け足続きだったから、今は時間の流れが凄くゆったりしている。
「お父さんとお母さんって、タバコ吸わないの?」
暫くのんびりした空気に浸っていると、めぐみちゃんが話を切り出す。タバコ、か。俺には全然縁のないものだな。
「否、吸わない。吸ったこと自体ない。」
「お母さんもよ。どうして?」
「・・・お巡りさんに連れて行かれたお父さんとお母さん、何時もタバコ吸ってた・・・。」
めぐみちゃんの声のトーンが急速に鈍くなっていく。俯いためぐみちゃんの顔は見るからに悲しげで、見ている方が辛い。あの両親が愛好してたものだと
タバコじゃなくて本やゲームでも印象が悪くなるだろうが、タバコとの組み合わせは最悪だな。
「だから、お父さんとお母さんがタバコを何時出すのかなって・・・。」
「大丈夫。お父さんもお母さんも、タバコそのものを持ってないから。」
消え入りそうな声で嫌なアイテムであるタバコが出るのを警戒していたことを打ち明けるめぐみちゃんに、俺は言う。元々使わないものは持たない。タバコは
吸わないから持つ必要はない。それだけのことだが、めぐみちゃんには安心の材料になるだろう。
「お母さんも持ってないよ。」
「持っても・・・いないんだ。」
タバコがよほど嫌な記憶と結びついているのか、俺と晶子がタバコを持っても居ないことを確認して急速に表情を明るくしていく。何があったのかは
めぐみちゃんの心の傷を抉ることになりかねないから聞かないが、タバコの煙を吹きかけられたりする嫌がらせ−する当人はえてして嫌がらせと認識して
ない−をされていたんだろうか。
「お母さんは特にタバコは厳禁、ご法度もの。お料理をするしお歌も歌うからね。」
「タバコを吸うと料理が出来なくなるの?」
「料理そのものは出来るけど、味は信用出来なくなるわね。タバコを吸うのと吸わないのとでは味覚が全然違ってくるそうだから。」
マスターはあの風格から見てヘビースモーカーかと思いきや、タバコは吸わない。潤子さんは晶子と同じ理由でタバコを最悪の禁じ手としている。店には
喫茶店だからということで灰皿を置いて喫煙も可としているだけで、タバコを売ってない。未成年がタバコを持っているのを見たら、即マスター直々に指導
することになっている。
幸い今まで未成年の喫煙現場に遭遇したことはない。店が店だから男性客が少ない=喫煙者が少ないというわけじゃない。中高生は未成年だから別と
して、20代あたりの若年層や30代あたりでは男性より女性の方が喫煙者が多い。「喫煙者の多く=男性」という公式は過去のものになりつつある。店の
若年層の客は、塾通いの中高生を除けば女性の比率が圧倒的に高い。殆ど女性のみと言っても良い。そんなせいもあって女性の喫煙者はかなり多く
見える。吸い始めたきっかけを接客がてら聞いてみたら「TVドラマの影響」らしい。
喫煙している様子、特にタバコに火をつける様子や仕草がカッコ良いからタバコを吸い始めるというのは、俺も中学や高校でタバコを隠れて吸っている
人から聞いたことがある。それが女性にも波及しているようだ。大学生になってからめっきりTVを見なくなったから話を聞く限りだが、TVドラマで描かれる
「仕事をバリバリこなすキャリアウーマンの一服」がカッコ良いと思うんだろう。それが周囲にどう映るかまでは考えが及ばないようだが。
俺は両親がタバコを吸わないのもあって、タバコに接する機会が少なかったし興味も沸かなかった。タバコの煙に「本格的」に接するようになったのは、
今のバイトを始めてからだ。それでも最初、つまり1年の時より学年が進むにつれて喫煙者が目立つようになってきたのは、バイトの時間帯の主な客層を
占める若年層の女性で喫煙者が増えてきているせいだろう。
「・・・めぐみ、タバコ嫌い。煙たいから。」
「お父さんとお母さんはタバコ吸わないから、煙たくないだろ?」
「うん。煙たくない。」
タバコの煙が立ち込める中での食事は、少なくとも非喫煙者には美味さを削られるものだ。めぐみちゃんにとっては尚更だろう。改めてタバコを吸ってなくて
良かったと思う。
「安心して良いよ。」
「うん。」
めぐみちゃんは安心感を取り戻し、再び菓子を口に運ぶ。俺と晶子も菓子と茶を味わうことに戻る。これで俺か晶子がタバコを取り出していたら、
めぐみちゃんは最悪パニックを起こしたかもしれない。たかがタバコされどタバコ。幼心に植えつけられた恐怖感や嫌悪感は相当なもんだろう。
俺が晶子の家に行く頻度が増え、晶子が俺の家で過ごす時間が増えるようになって、ふと俺の家に灰皿がないことを晶子が指摘した。俺はタバコを
吸わないし実家の家族も吸わないし吸う人間は俺の友人や知り合いには居ないから置いてないし持ってない、と答えると、晶子は安心したような笑顔を
見せた。
晶子はバイトでも家でも料理をするし、歌を歌う。タバコを吸うのは舌や喉を自分から壊すようなもんだから、晶子にとっては百害あって一利なしのもので
しかない。俺との付き合いが深まるにつれて俺がタバコを吸うかどうかが気になっていたらしく、俺が我慢しているんじゃないかと思っていたそうだ。
聞いた話では、引越しでそれまで住んでいた場所を空ける際に、室内でタバコを吸うかどうかで不動産屋に明け渡す時の必要金額が大きく異なってくる
そうだ。タバコを長期間室内で吸うとヤニが蓄積し、クリーニングで落とせないレベルになるとその分は借りた側が負担することになるらしい。タバコを
吸えばヤニが発生する。それが密閉空間に漂えば嫌でも蓄積する。ヤニが蓄積したカーテンを洗濯すると本物の色が出てきて驚くこともままあるそうだから、
それだけヤニの汚れは凄いんだろう。
晶子と本当に生活を共にするようになれば、何れ手狭に感じて引越しすることになる。引越しはただでさえ金がかかるし、そこに上乗せとなると後々に
影響を及ぼす可能性もある。予想外の出費でもめるなんて話にならないから、火種になりそうなものは少ない方が良いのは当たり前だ。
めぐみちゃんの飲み食いの対象は菓子に重きが置かれてきている。抹茶は今まで経験したことがないような摩訶不思議なものだろうし、不味いと
言わなかっただけでも大したもんだと思う。菓子は少なくとも抹茶よりは味の方向性が明確で、チョコレートやケーキといったものより明確ではないが甘い=
美味いものだから、菓子にシフトするのは当然だろう。
俺は菓子を飲みつつ抹茶を飲む。ほろ苦くて濃い味の抹茶と上品な甘さの菓子は静かで緩やかで穏やかなハーモニーを醸し出す。晶子とのティー
タイムで紅茶と洋菓子を味わう時とはまた違う良さと心地良い時間が、此処にある。屋外で飲食する機会は殆どないから、今は全てが新鮮で心地良い。
「お茶・・・、もう飲めない。あと、お菓子も・・・。お腹いっぱい。」
暫くして、めぐみちゃんが恐る恐る言う。何かあると急かし、少しでも遅れると怒鳴られる生活を送ってきためぐみちゃんだから、食べ物を残すことには尚更
強い抵抗があるんだろう。焼き茄子を未だに避けている俺が言うのも変だが、好き嫌いを振り回して食べ物を粗末にするのは良くない。だが、食べられる
量には個人差がある。めぐみちゃんの身体では茶も菓子も量が多い。夕飯のことを考えるなら尚更残す選択肢が浮上しやすい。
「お父さんとお母さんで食べるから、無理しなくて良いぞ。」
「無理に食べて晩御飯食べられなくなっちゃうもんね。」
俺と晶子の「承認」に、めぐみちゃんは一時強張らせていた表情を安堵で緩める。菓子は半分ほど、茶は2/3ほど残っている。菓子にシフトしていたから残量はこんなもんだろう。
「半分ずつにするか。」
「そうですね。祐司さんからどうぞ。」
俺が優先する或いは優先させるという晶子の基本姿勢は、こういう時でも変わらない。俺は晶子より食べる量が多いから晶子が食べられなくても俺が
フォロー出来る。それに、俺を立ててくれていると感じられて嬉しいし、その分晶子の夫らしくあろうと思う。残っている量が多い抹茶から片付けることにする。
俺の分の抹茶は殆ど飲んだから、それを飲みきってからだ。軽く器を傾けて自分の分を飲み干し、めぐみちゃんから器を受け取る。この量は身体の小さい
めぐみちゃんにはきついよな。まだ自分の分の菓子が残っているから、それを食べながら茶を飲む。茶は濃いから菓子を食べながらで丁度良い。晶子と半分
ずつだしこれだけの量を全部飲み食いすると、流石に後で効いてきて夕飯に影響が出る。めぐみちゃんが居るから特に食べ残しは避けたいところだから、
普段は考えない「残す」ことを前提にした食べ方をする。
自分の分の菓子を片付け、めぐみちゃんから残りの菓子を受け取る前に晶子に茶を渡す。あっちもこっちもと欲張るのはみっともない。めぐみちゃんが
今までの反動で俺と晶子の行動を手本にする可能性が高いから、自分が持てる分以上に持たないし持とうとしない食べ方だけでない物事の基本姿勢を示す
必要がある。子育てって神経を使うもんだな。
めぐみちゃんから菓子を受け取り、数回齧ってから晶子に渡す。手ぶらになっためぐみちゃんは、器を両手に持ってしげしげと観察している。めぐみちゃん
から見ると丼くらいあるかもしれない大きさだから珍しいんだろう。
「落とさないように、気をつけて持とうね。」
「うん。」
俺から受け取った菓子を食べ始めた晶子は、めぐみちゃんに注意を促す。器を落として割ったらそれなりに騒動になるだろうし、めぐみちゃんを預かって
いる立場の俺と晶子の監督不行き届きとの謗りは免れない。俺と晶子はめぐみちゃんの本当の両親ではないが、両親の代わりをしているのは間違いない。
そんな事情をいちいち話していたらきりがないし、実の両親じゃないことを言い逃れの口実にするのはめぐみちゃんを利用するようなもんだ。
俺と晶子とめぐみちゃんは、周囲からどう見えているんだろう?老け顔ではなく年齢相当だと思う俺と「若くて美人」な晶子と、見た目幼稚園児か小学校
低学年あたりのめぐみちゃんは、親子と見るには幾分無理があるように思う。周囲がどう思おうが知ったことじゃないが、どう見えるのかは少し気になる。
「ん、美味かった。ご馳走様。」
「美味しかったですね。ご馳走様でした。」
「えと・・・。ご馳走様でした。」
俺と晶子を倣って、めぐみちゃんはそれまで観察していた器を置いて、手を合わせて「ご馳走様」と言う。子どもは見ていないようでしっかり観察している。
食事の前後の挨拶は俺もおざなりになりがちだが、めぐみちゃんの手本になろうと思うと自ずと行動に反映される。
「親を見て子は育つ」−だったと思うが、当人が居ないところでその人物の批判を繰り返すばかりで自分は何もしないばかりか同じようなことをしていては、
「言うだけで口ばかり」と思われて何の手本にもならない。そんな状況で「親の言うことを聞け」と命令しても、反感は抱いても納得して行動することはない。
俺と晶子は1日限りとは言えめぐみちゃんの親だ。あの両親を反面教師と位置づけるなら、尚更行動で示さないといけない。
「そうそう。そうやって食べ終わったら『ご馳走様』って言うの。幼稚園でもしてるでしょう?」
「うん。先生が食べ終わった後に言いましょう、って言う。」
「挨拶は大事だから、何かしてもらったりした時にはきちんと言うようにしようね。」
「うん。」
晶子は贔屓目を除いても母親らしい。子ども好きだから将来子どもを儲けた時に備えて、めぐみちゃんが居る今は絶好の練習機会と思ってるんだろうか。
子ども好きだから、新婚旅行という名目での俺との旅行の最中に赤の他人のめぐみちゃんを預かることに、諸手を挙げて賛成したんだろうか。そうでもないと、
2人きりの時間をほぼ丸1日割いてまで子どもの面倒を見ようとは思わないよな。子ども好きなことに異論はない。だが、めぐみちゃんは俺と晶子の子ども
じゃない。子ども好きでめぐみちゃんの境遇に入れ込むあまり、情が移っちまわないと良いんだが・・・。ちょっと気がかりだ。