雨上がりの午後

Chapter 234 臨時親子の旅日記(3)−金閣寺見物(2)−

written by Moonstone

 暫くして、旅館の人との交渉が終わる。こちらも呆気ないほどあっさり了承された。
何でもこの3日間ほどは俺と晶子以外宿泊客が居ないとのことだ。食事もそれ専用に用意するからということで預かる子どもの年齢層を聞かれ、幼稚園の
年長と回答しておいた。その年代でも問題なく食せるようメニューも配慮するとのことだ。
何だか簡単にことが進みすぎて、後で反動が一気に来やしないかむしろそっちの方が不安だ。携帯を畳んで胸ポケットにしまう。

「あ、終わったんですか。」
「ああ。旅館の方にも話を通した。食事は別途用意するし、布団も用意してくれるそうだ。」
「良かったですね。」
「上手く話が進みすぎるような気がするけどな。」
「此処は皆さんのご厚意に甘えておきましょうよ。」
「そうだな。」

 旨い話にはご用心というが、思ったことを率直に言うし態度や行動にも出る晶子はめぐみちゃんを預かろうと自ら進言したし、旅館の人も少し驚きはしたが
−驚かない方が難しいだろう−用意する料理の範囲や種類まで尋ねてきてくれた。何かあるんじゃないかと疑うより、厚意に甘えておく方が良いだろう。
 晶子は屈んだまま微笑んで頷く。俺の方を向いているめぐみちゃんは喜びと安堵が混じった表情を浮かべている。今まで常時怯えて自分の家でありながら
自分の居場所がない息苦しいことこの上ない状況とは違って、同じ家で言い争いを見せ、罵声と暴力をぶつける対象でしかなかった親と切り離されても
安心して居られるんだから、嬉しいし安心するんだろう。幼稚園児にあるまじき境遇だが、幸せな夢を見られる時間があと2、3時間から約24時間に延長
されたんだから、これも素直に喜んでおくべきだろう。

「さ、金色の建物をもっと見ような。」
「うん。」
「お母さんが抱っこするね。」
「うん。」

 晶子が引き続きめぐみちゃんを抱っこする。めぐみちゃんも安心を再認識して深まったせいか、最初に晶子に抱っこされる時より自分から抱っこされに行く
度合いが強くなったように見える。この方が自然なんだが、自然で居られる今が恵まれた状況なんだよな・・・。その分、今を大切にしないとな。俺も晶子も。
 人は多いが、入場券売り場やもぎりを受ける場所と違って流れが滞っているわけではない。普通に歩く分には不便や待ち時間を感じない。次第に迫って
くる金閣寺の全容に、めぐみちゃんの目が輝きを増す。

「うわー、金色に光ってるー。」
「これだけ近づいて見ると、やっぱり凄いもんだな。」
「本当に全部金ですね。」

 金閣寺だから金色づくしなのは当然だろうが、写真で見たことがある銀閣寺は銀箔が貼られなかったことで銀色じゃない。俺の修学旅行でも銀閣寺は
コースに入ってなかった記憶がある。銀閣寺がどれほど観光客を集めるのか知らないが、日差しを浴びて金色に煌く風貌は、京都と言われてイメージする
ものの代表格の1つに相応しいし、観光客を集めるには十分な要素だ。

「もっと近づこうな。」
「バスの中とか写真とかより、ずーっと近いところで見られるわよ。」
「うん。」

 めぐみちゃんの声が弾みを増してくる。
今までがあまりにも張りがなかったんだが、四六時中怯えてなきゃならない環境にあってはそれが染み付いちまっても仕方ない。今めぐみちゃんは防衛の
ために硬い殻で閉じていた心を少しずつ開き始めているんだろう。
 俺の記憶からも消え去っていた、「間近に迫った金閣寺」が迫力を増してくる。今日は天候が良好だから、青空に輝く金色がより映えて見える。観光客の
大多数が建物周辺に陣取っている。団体客らしい集団も見える。金閣寺の集客力の凄さを改めて実感する。

「凄い凄い。全部金色だー。」

 めぐみちゃんの目の輝きが増している。バスの中からしか見られなかった金閣寺が手の届きそうなところまで大きく迫ったことで、興奮してるんだろう。
かく言う俺も、写真の角度と大きさよりぐんと大きく迫った金閣寺の輝きと迫力に魅入られそうだ。

「綺麗だねー。出来るだけ近づいてみようねー。」
「うん!」
「晶子。そろそろ代わるか?」
「いえ、まだ大丈夫です。」
「かなり混んでるから、気をつけてな。」
「はい。」

 金閣寺との距離が縮まるにつれて人数が増えてくる。「あの金閣寺を間近で見られる」という期待感があるんだろう。俺もそうだし。これだけ混んでくると
めぐみちゃんを抱っこしていて両手が完全に塞がっている晶子を、押し合い圧し合いで翻弄されたり、間違っても転んだりしないように注意していないと
いけない。万一転んだら晶子も負傷しかねないのは勿論だが、抱っこされていてかなりの高さに浮き上がっているめぐみちゃんは、大怪我に繋がりかねない。
預かっている責任感もあるし、怪我をさせるわけにはいかない。
 やっぱりと言うか、団体客が多い。観光シーズンの本格化は桜の満開頃だろうが、それだと京都市内がごった返して満足な観光どころじゃなくなるだろう。
晶子の高校時代の修学旅行が紅葉のシーズンでそんな感じだったらしいし、それを避けてのスケジュールやツアーもあるだろう。それほど人の考えることは
大差ないようだ。

「凄い凄い!凄く綺麗!」

 金閣寺がどうだろう、視界いっぱいに金閣寺が鎮座するくらいになって、めぐみちゃんの興奮が増してくる。暴れては居ないが、身を乗り出しかけてるから、
落ちないように支える晶子が大変そうだ。
俺はめぐみちゃんが落ちないように予防線を張る。万が一めぐみちゃんが晶子の両腕から落ちた場合、即受け止められる位置と状態を整える。

「めぐみちゃん。もっと大きく見えるようになるから、お母さんの腕から落ちないように気をつけてな。」
「あ、うん。」

 めぐみちゃんは呆気ないほどすんなり言うことを聞く。めぐみちゃんの後ろの晶子が少し安心した顔をする。落ちやしないかと心配だったんだろう。
事前に事故を防げて何よりだ。
 自分達から預かると言い出しておいて事故で怪我をさせた、なんてことになったら、あの両親が自分達のことを棚にあげて猛烈に抗議してくるだろうし、
そうなったらめぐみちゃんが「迷惑かけて」とこれまた自分達のことを棚にあげた両親の八つ当たりの標的にされかねない。

「念のために、めぐみちゃんは晶子の服を掴んでおく方が良いな。」
「あ、良いですね。」
「・・・良い?」
「勿論。めぐみちゃんに怪我して欲しくないから。」

 今までのことを思い出したのか急に遠慮が強くなっためぐみちゃんに、晶子が微笑みながら言う。贔屓目だが、この微笑みは反則だ。見ていると今まで
感情を高ぶらせていたことがどうでも良くなってしまう。
 めぐみちゃんは晶子のコートの襟を掴む。めぐみちゃんの手には少々大きいようだが、掴まる分には問題なさそうだ。めぐみちゃんは掴まっていられることを
確認出来たことで、金閣寺に向き直る。目の輝きがさっきまでのものに戻って、少しほっとする。

「団体客が多いな。大きな人垣が出来てる。」
「指折りの観光スポットですからね。」
「団体客はある程度時間が経てば移動するから、移動するまで待つか。」
「そうですね。安全の観点からしても。」

 俺と晶子だけなら、人垣を多少強引にでも掻き分けてでも前に進み出ることは一応可能だ。だが、今はめぐみちゃんが居る。晶子のコートに掴まっている
とはいえ、不安定な状況に「浮いている」ことは間違いない。
 混雑で危険なことの1つは、転倒したらその後踏まれたり、更なる混雑や混乱を引き起こしたり、最悪将棋倒しで大事故になる可能性を含んでいることだ。
めぐみちゃんを事故に遭わせたり怪我をさせたりすることを回避するのが、今の俺と晶子が行動する上での最優先事項だ。マナーの問題も含めると、人垣を
強行突破するより移動を待つ方がずっと良い。幸い、俺と晶子とめぐみちゃんには時間の余裕がある。俺と晶子は言うに及ばず、めぐみちゃんは今日明日
限定だが無闇にせかされたり、それに怯える必要がない。安心して行動出来るし、安全を優先した選択肢を選べる。安全とスピードは両立し難いもんだと
いうことは、大学の実験でも嫌と言うほど経験している。
 俺と晶子が立っている中、人の流れは止まらない。込み合ってはいるが割とスムーズに流れていく。観光シーズン真っ只中−京都だと何時がオフか不明
だが−だとこうはいくまい。流れは自然に俺と晶子を避けていくから動く必要はない。
 少し待っていると、金閣寺の最も近くに居た団体客がぞろぞろと移動を始める。100人は・・・居るか?初老以上の年配で男女比は見たところ同じくらい。
職場の定年を迎えた、若しくは定年が近い夫婦やその友人達というところか。団体客が移動して出来た空白に、俺と晶子は向かう。そこを待っていたのは
俺と晶子だけじゃなく、他からも人が集まってくる。だが、押すな押すなの大渋滞にはならない。両手が塞がっている晶子と晶子に抱っこされている
めぐみちゃんの安全に良いのは勿論だ。

「凄ーい!金色がいっぱいだー!」

 鳳凰−だったと思う−が立つ最上部が見上げるほど近づいた金閣寺を前に、めぐみちゃんの興奮は最高潮に達する。
これだけめぐみちゃんがはしゃげるのは、もしかするとこれが初めてかもしれない。今までの抑圧から一気に脱せるほど興奮してはしゃげるなら、良いに
越したことはない。

「金色だねー。凄く綺麗だねー。」
「これだけ金を貼れるなんて、造った人は凄いお金持ちだったんだね!」
「そうだろうなぁ。」

 快晴の日差しを受ける金閣寺の金色は、目に眩しいほどだ。何から何まで金で出来ているわけではないが−金は柔らかいから建材にはまず使えない−、
直ぐに剥離しない程度の厚みでこれだけの建造物に金箔を張り巡らせるのには、相当な金額がかかったのは間違いないだろう。

「どうして建物全部に金を貼ったのかな?」

 めぐみちゃんに聞かれても答えられない。晶子も突然の質問に驚いたようで、それが根本的に生じる疑問だということか、答えられずに当惑した様子だ。

「うーん・・・。やっぱり建てた人がお金持ちだったからじゃないかな。」
「祐司さん。私のコートの右ポケットに観光案内がありますから、それを見てもらえますか?」
「ああ、分かった。」

 晶子のコートの右ポケットに手を入れて、観光案内を取り出す。晶子がコートの右ポケットに入れたのは知っていたが、事情だからといきなり手を突っ込む
のは流石に憚られる。
 ページを素早く捲って金閣寺の紹介部分を見る。定番とも言える角度から撮影された写真と共にある解説をざっと読んでいく。・・・へえ。金閣寺は本名じゃ
なくて鹿苑(ろくおん)寺が本名なのか。・・・此処は今関係ない。概要、金閣寺がある敷地のポップ調の地図と概要、年表形式の歴史。色々あるが、金閣寺が
何故金箔で覆われるようになったかの説明は見当たらない。めぐみちゃんの表現を借りれば「凄いお金持ちだったから」、それなりに言うと「自身の権勢を
示すために富裕の象徴である金を建物に使った」ってところだろう。

「金を貼った理由は書いてないな・・・。めぐみちゃんが言ったとおり、建てた人が金持ちだったってのが理由だろう。」
「今は屋根に隠れて良く見えないけど、一番上に鳥が立ってた。あれも金色だった。」
「あれは鳳凰(ほうおう)っていう伝説の鳥よ。」

 疑問形にはなってないが感じたことを言っためぐみちゃんに、晶子が応える。

「ほー・・・おー・・・?」
「そう『ほ・う・お・う』。おめでたい時にだけ現れるって中国で伝えられてる鳥のこと。確か、今の1万円札にも載ってるよ。」
「ちょっと待ってな。今実物を出すから。」

 1万円札はめぐみちゃんの歳ではまだ馴染みがないだろうし−俺とて馴染み深いとは言えないが−、想像するのは難しいだろう。こういう時は説明するより
見せた方が早い。
俺は観光案内を畳んで自分のポケットに仕舞い、代わりに財布を取り出して1万円札を1枚取り出し、鳳凰が描かれている方をめぐみちゃんに広げて見せる。

「こういうカッコをしてるんだ。」
「鶏に似てる。」
「そうね。鳳凰の嘴(くちばし)は鶏のものだから、余計にそう見えるのかもね。」

 晶子はかなり詳しい。鳳凰が伝説上の生き物だということくらいは俺も知っていたが、それ以上のことは知らない。晶子の所属は文学部だが、文学部だから
読書好きと簡単に決められない。耕次の表現を借りれば「数学や理科系教科の成績が悪いから文系にいく」人だと、「成績と偏差値で条件分岐して入りやすい
大学や学部に入る」ことがままあるからだ。

「嘴は鶏だと、他は違うの?」
「うん。身体の前部分は麒麟−これも動物園に居るものじゃなくて伝説の生き物だけど、後ろ部分は鹿、頸(くび)は蛇で背中は亀、頷は燕なのよ。」

 晶子の説明に合わせて、俺は広げた1万円札の鳳凰の身体を指差す。1万円札の絵柄なんてじっくり見るのは、これが初めてだ。
今までは気づかなかったか気づいても「変わった鳥」という程度の認識で見過ごしていたところだ。めぐみちゃんが何気なしに発した疑問が思わぬ展開を
生んでいる。

「何食べて生きてるの?」
「綺麗な水と竹の実。特別な生き物だから特別なものしか食べないんだろうね。」
「竹って実が成るの?」
「竹も花が咲くし、実は成るよ。だけど滅多に見られるものじゃないの。それだけ特別なものって意味もあるんじゃないかな。」
「ふーん・・・。」

 めぐみちゃんは面白いことを聞けて、頻りに頷いている。素朴な疑問から派生した謎が明らかになる過程ってのは、嬉しいもんだ。
俺が「楽器の音はどうしてこう聞こえるのか」と疑問に思って、周波数、エンベローブ(註:音の発生から消滅までの音量を図表化したもの)と疑問や謎の範囲が
拡大・展開していって、音を電気的に鳴らす音響工学、ひいては電気電子工学に興味を持ったのと似ている。
 「好きこそものの上手なれ」というが、あれはかなり的を得ていると思う。好きで取り組み始めたものはそう簡単に諦めないし、上昇速度に差異はあっても
能力は上昇する。中学からギターを始めた俺は、決して音楽が得意なわけじゃなかった。小学校時代はむしろ苦手な方だった。ギターを通して聞くだけから
楽器を弾くことの面白さを知り、最初の難関といわれるFコードも乗り越えた。
ギターがなかったら高校時代の出会いはなかっただろう。それに今の店でバイトをしてなかっただろうし、晶子と出会うこともなかったかもしれない。
俺にとってギターは大きな転機となったことは間違いない。めぐみちゃんが将来どうなるのか、何をしたいのかは分からないが、何かに興味を持ってそれに
取り組める環境が出来て欲しい。

「お母さん、物知りだね。」
「本が好きだからね。めぐみちゃんもいっぱい本を読んでおくと良いわよ。」
「どんな本が良いの?」
「めぐみちゃんは今幼稚園だから多分ないと思うけど、小学校に入ったら図書室っていう本がいっぱい置いてある部屋があるから、そこへ行くと良いわね。
そこにある本なら、小学校に居るうちは何でも読めるし、字の勉強にもなるからね。」

 晶子は小さい頃から本が好きだったようだ。俺は小学生時代は野球だのサッカーだので殆ど図書室に行かなかったな。図書室に行くようになったのは
高校になってからだ。特に2年以降は割とよく通った。大学では図書館は欠かせない。図書館がなかったら専門教科のレポートは書けないだろう。
専門書はどういうわけか安いものでも2、3千円、高いものだと5、6千円を超える。医学系は更に高価らしいが、その手の書籍を日常的に使うかといえば
そうでもない。「その時必要だから見る」という程度の方が多い。それを毎回買っていたらとてもやっていけない。

「お父さんは電気関係の本を読んでるよ。」
「お父さんとお母さんって、大学は同じなのに違うの?」
「大きな区切りで学部っていうものがあるんだ。幼稚園にもあるクラスや何々組とよく似たもの。それがお父さんとお母さんでは別なんだ。」

 めぐみちゃんにはまだ工学部とか文学部とかを理解するのは難し過ぎるだろう。今の幼稚園はクラスというのか何々組というのか知らないが、クラス分けと
似たようなものだと分かってもらえれば十分だと思う。

「めぐみちゃんが通ってる幼稚園でも、クラスや何々組ってあるでしょう?」
「うん。めぐみはバラ組。」
「大学にも勉強する目的別に、人が分かれてるんだ。その分ける単位を学部っていうんだ。分かったかな?」
「うん。分かった。めぐみにも、違う組のお友達が居るから。」

 何度かめぐみちゃんの口から友達が出て来ているから、友達関係は良好なんだろう。幼稚園で苛められたりして自宅でほっとするという話もあるが、
めぐみちゃんの場合は逆か。自宅に居る時間の方がずっと長いだろうから、幼稚園に居る間がめぐみちゃんにとって救いの時間になっているんだろう。
それすらなかったら、あまりにも過酷だ。

「そう言えば、めぐみちゃんは幼稚園の年長だったよな?」
「うん。」
「じゃあ、来月から小学校に入学だな。」
「うん。お婆ちゃんにランドセル買ってもらった。」

 めぐみちゃんの顔が綻ぶ。両親は虐待や育児放棄の可能性が濃いが、その他の人間関係は良好なようだ。ランドセルも買ってもらえて嬉しかっただろう。

「めぐみちゃんのランドセルの色ってどんなの?」
「赤だよ。」

 晶子の質問にめぐみちゃんは即答する。当たり前だろうけど、話は繋がるな。

「黄色とか緑色とかを買ってもらったお友達も居るよ。」
「?!」
「あー、やっぱり居るんだね。」
「黄色とか緑色って、そんなランドセルあるのか?」
「うん。普通に売ってるよ。この建物みたいに金とかもあるよ。」

 ランドセルって、男は黒で女は赤が定番じゃなかったか?俺の質問にこれまた即答しためぐみちゃんは、「何か変なこと言ったのか」と思っているようだ。
表情がきょとんとしてるし。

「黄色や緑のランドセルって・・・、良いのか?」
「良いみたいですよ。黒と赤も明文化されていない既成概念だそうですし。」

 応えた晶子は、知識として知ってるが違和感を感じていると表情から読み取れる。
確かに「男は黒で女は赤」ってのは校則−小学校にそういうものがあったのかどうかは疑問だが−にもないだろうし、それを変な表現だが逆手に取れば、黒や
赤以外も選択肢になりうる。黒と赤以外のランドセルに違和感を感じるのは、ジェネレーションギャップってやつだろうか?
 めぐみちゃんとは15歳の差がある。たかが15年がされど15年ってことは、工学をやってればむしろ日常茶飯事だ。工学以外でも数年の差がその時では
想像も出来なかったほどの差になっていることもある。だが日常生活、しかも衣食住により密接したものになると「これは」と思う差を感じることは時々ある。
ランドセルの色もその1つ・・・なのか。

「晶子はどうして知ってたんだ?今のランドセルの色のバリエーションが豊富だってこと。」

 晶子は少なくとも知ってはいたような口ぶりだった。何処で知ったんだ?俺と一緒に居る時にそういう話が出たことはなかったし、買い物に行っても
ランドセルの売り場に行くことはなかったと思うが。

「私が所属するゼミには、女性向けのファッション雑誌も結構あるんですよ。年齢層を問わずに。その中に若い母親向けと位置づけてあるものもあって、
確か・・・1月号か2月号あたりですから此処最近のものですけど、その中に『今流行のランドセルはこれ!』とかのキャッチコピーでランドセル特集があったん
ですよ。」
「ファッション雑誌は知ってるし、年齢層もあるだろうからその中には若い母親向けのもあるだろうな。そこでの特集、か。」
「講義の合間にゼミの学生居室で手に取ってパラパラと見た時偶然目に入ったんですけど、私も意外でしたね。」

 晶子は苦笑いする。知ってはいたが俺と同じく違和感を持っていたと分かってちょっと安心。
ゼミの居室にファッション雑誌があるっていうのは、女子学生の比率が高い文学部ならではかもしれない。俺が居る学科だと、知っている限りでは娯楽に相当
するものはせいぜい漫画くらいで、後は大なり小なり専門分野に関連する書籍や雑誌で、その点では色気も飾り気もない。
 目的の機能を電気電子的に実現することからすればデザインは二の次だから、そんなものかもしれない。だが、今の電子機器はデザイン優先−優先とは
いかなくても「デザイン先にありき」で、そこに機能を強引に押し込むから無理が生じて、時に事故沙汰になったりするんだと思う。家庭用電化製品の発熱
発火問題もその1つだ。デザイン至上主義は甚だ問題だが、工学分野の人間は多少でもデザインのセンスを身につけておく機会を持ったほうが良いのかも
しれない。

「お父さんとお母さんは、ランドセルは黒と赤だったの?」
「それしかなかったと思う。」
「お母さんも同じ。」
「ランドセルって、重かった?」
「最初に背負った時は、そう思ったな。幼稚園の時はそんなのなかったから余計にそう思えたんだろうけど。」
「お母さんもランドセルは大きいし、重く感じたよ。」

 素朴な疑問を次々投げかけてくる。目が輝いてるから色々聞きたいし知りたいんだろう。それが、今まで迂闊に喋ることさえ出来なかったであろう生活
環境の反動なら、複雑な気分だ。
・・・今は自分の過去を振り返ることにもなるめぐみちゃんの質問に出来る限り答えよう。めぐみちゃんの境遇に囚われてちゃ、めぐみちゃんの幸せな時間を
無駄にしてしまう。

「お父さんとお母さんは、小学生になる時どう思った?」
「うーん・・・。『小学校ってどんなところだろう』っていう楽しみと不安が半々、かな。」
「小学校は幼稚園よりたくさん本があるって聞いてたから、お母さんは楽しみが殆どだったなぁ。」
「お母さん、小さい頃から本が好きだったんだね。」
「うん。大好きだったよ。」

 小さい頃、中学生くらいまでと限定して成長期から好きだったものは大人になってからも好きなもんだ。俺がギター好き−それが高じて作曲まで手がける
音楽好きになった−なのも中学以来だし。

「お母さんが金閣寺や・・・えっと・・・天辺にある鳥。」
「鳳凰。ほ・う・お・うね。」
「それ。その『ほーおー』をお母さんが良く知ってるのは、本をたくさん読んだから?」
「そうね。今のめぐみちゃんみたいに『これって何だろう』『こうなのはどうしてなんだろう』って不思議に思って、それを人に聞いたり本で読んだりして分かって
いくの。1つのことが分かると『これも知りたい』『あれも知りたい』って思うようになって、もっと色々本を読んだりしようって思うものよ。」

 めぐみちゃんの現状を交えて答えるあたり、晶子のめぐみちゃんへの愛情が見える。本当にめぐみちゃんの母親みたいだ。あのヒステリックに怒鳴り散らす
だけの母親より、晶子が母親だった方がめぐみちゃんにとってずっと良かっただろう。
いきなり完全矯正は無理だとしても、せめてめぐみちゃんが日々怯えながら暮らさなくて良いように、警察でしっかり絞られてきてもらいたい。絞られてきて
もらわないと、めぐみちゃんのためにならない。

「金閣寺って、中に入れるのかな?中も金でいっぱいなのかな?」
「えっと・・・。全部は無理だけど、入れるみたいだぞ。行く?」
「うん!行きたい!」

 めぐみちゃんは即答する。金色の建物だから中も金色と考えたくなるだろう。一部という写真はあるが、写真で見るだけと実際に見るのとではどちらが良いと
いうレベルではないが、実際に見る方がインパクトの面では確実に強い。少なくとも今日1日あの両親から解放されて幸せな夢を見続けている
めぐみちゃんに、もっと良い夢を見せてやりたい。

「じゃあ、行こうか。その前にそろそろ、抱っこをお母さんからお父さんに交代しよう。お母さんは休憩だ。」
「うん。」
「ありがとうございます。」

 晶子が言う前に抱っこ役を交代する。晶子はかなり我慢するタイプだし、建物の中に入ってからだと今より混雑への対処がぐっと難しくなる。中の混み具合は
分からないが、こういう時は悪い方向を想定した方が無難だ。
 晶子からめぐみちゃんを受け取って−物みたいな表現だが−、晶子に観光案内を持ってもらう。めぐみちゃんも今までのように毎回年長者の顔色を窺わ
なくても良いと判断したのか、俺が言うより先にコートの襟を掴む。めぐみちゃんが落ちないようにしっかり抱っこ出来ているのを確認して、出発。

「あー、一番下は金じゃないー。」

 めぐみちゃんの驚きの声で、俺もようやく気づいた。金の部分に気を取られて、それが全部だと思い込んでいた。一番下、つまり1階は金箔で覆われて
いない純和風の建物だ。金閣寺って名前が先行して思いつかなかったが、此処って「寺」なんだよな。

「晶子。此処って寺なんだよな?」
「ええ。臨済宗相国寺派の寺です。」
「あ、やっぱり。」
「り・・・りんざい・・・?」

 いきなり小難しい単語が出て来て、めぐみちゃんはついていけなかったようだ。臨済宗の「りんざい」までは聞き取れたが、それ以上望むのは無理な話
だろう。

「『りんざいしゅう』。」
「りんざいしゅう?」
「そう。『りんざいしゅう』ってのは仏教・・・仏様を神様とする宗教の1つなんだ。」

 臨済宗だけゆっくり言って、めぐみちゃんが正確に言えたのを受けて概要を説明する。この時も臨済宗だけゆっくり言う。
臨済宗は所謂禅宗の1宗派で禅宗は云々と説明していたら、幾らなんでも時間が足りない。仏を神様−これは不思議と通じやすい用語だ−とする宗教と
把握しておけば、今のめぐみちゃんには十分だろう。

「お父さんの言うとおり、仏様を神様とする宗教の1つのお寺が、今から皆で入ろうとしている金閣寺なのよ。」
「へぇ・・・。金閣寺ってお寺なんだ・・・。」

 驚くと同時に興味深いことを知って、めぐみちゃんは目を見開いて俺と晶子の説明を噛み締めるように何度か首を縦に振る。
めぐみちゃんくらいだと、金閣寺という名前は知っていても漢字までは知らないだろうし、「寺」が含まれることを知っても本当に寺だという事実は見過ごして
しまうだろう。

「もう1つ。金閣寺っていうのは本当の名前じゃないの。」
「え?金閣寺って偽物なの?」

 ちょっとピントがずれためぐみちゃんの疑問に、俺は思わず噴出してしまう。嘲笑したり貶めたりする意図はないから、そこから先に笑いは続かない。ちょっと
したギャグ程度のものだ。俺自身ついさっき知ったことだし。

「違う違う。今めぐみちゃんの目の前にある金閣寺自体は勿論本物。金閣寺っていう名前が本来の名前じゃないっていう意味だよ。」
「お父さんの言うとおり、金閣寺っていう名前はは見てのとおり目立つ部分を金で覆われているから一般に使われている名前で、本名は鹿苑寺。
『ろくおんじ』っていうの。」
「へぇー。」

 新たに判明した謎の正体が分かって、めぐみちゃんの関心や興味は更に増したようだ。金閣寺が本名じゃないことは俺自身ついさっき知ったことだし、
「こんなことも知らないのか」と自分が知識を仕入れたばかりなのを他所に威張ったり貶めたりするのは馬鹿げている。

「お父さんとお母さんって、凄く物知りだね。」
「めぐみちゃんから見てそう見えるのは、お父さんとお母さんが今まで学校や家や図書館−学校にあるのとは違ってもっと大きい建物だけど、そういうところで
勉強したり調べたりしてきたからよ。その積み重ね。仏教とかも、これからめぐみちゃんが大きくなっていくにつれて学校で習ったり、自分で本を読んだりする
ことで分かっていくわよ。」
「じゃあ、めぐみもいっぱい勉強すれば、お父さんとお母さんみたいに物知りになれる?」
「ああ、勿論。」

 めぐみちゃんは喜びと期待に満ちた笑顔を浮かべる。俺と晶子は決してめぐみちゃんにとって雲の上の存在ではなく、勉強を進めていけば知るし理解も
出来ることのほんの一部を言っただけだ。他にも色々な現象や出来事があること、それを追い求めることが勉強の本質だとめぐみちゃんが何時か分かって
くれれば嬉しい。
 俺は工学分野の電気電子工学のうち、音響通信に関する事項を専門とする学科と研究室に進み、晶子は数ある言語の中で英語を使用する文学を専門と
する学科やゼミに所属している。逆に見れば、俺と晶子の進学や所属は、学問全般から見ればごく一部、ひと掴みどころかひと摘みの事象や出来事しか
扱っていない。自分が分からないや知らないことを「科学では説明出来ない」とひと括りにして解決しようとするのが、血液型性格判断に見られるオカルトや、
それを組織として遂行することで時に犯罪を起こすことがカルト団体だ。
 カルト団体大学については入学直後のオリエンテーションや学生用掲示板で何度か警告がなされているが、カルト団体に入会・入信して行動が一変
したり、大学に来なくなったりといった事例は見聞きする。耕次の表現を借りれば「学問を体系立てて学習せずに単語や断片的な知識の詰め込みに終始した
結果」だが、血液型性格判断は当たり前のように日常会話に登場するからなかなか厄介だ。

 俺と晶子の血液型は、付き合い始めてから暫く知らなかった。俺と晶子の会話で出なかったのもある。智一がまだ俺と晶子との行動によく同行していた頃、
智一が話題を振ったのが発端だ。俺はB型で晶子はAB型。ちなみに智一はA型だ。智一は自分もそうだし、俺と晶子の性格と血液型を比較して「意外だ」と
言っていた。以降、俺と晶子の会話で血液型の話が出たことはない。
 高校時代には血液型性格判断は頻繁に話題に出た。宮城と付き合い始めた頃には特によく耳にする機会があった。最初は完全に信じてはいないが
「そうかもしれない」と思っていた。だが、バンドの面子との議論でそれは思い込みではあるが間違いだと理解した。
 血液型性格判断が少し考えればまったく根拠のないものだということは分かる。例えば「何故A、B、O、ABの4種類の区分なのか?」という問いだ。
少し調べれば分かることだが、血液型の区分は所謂ABO式だけじゃない。骨髄移植で問題になりやすい白血球の血液型であるHLA式分類もあるし、ABO式
でも偶に問題になるRh式分類など、相当数ある。その中で何故ABO式分類に「固執」するのか、ろくに説明がなされない。
 中学の数学か高校の数T−1年で最初に受ける数学だと思えば間違いない−で出る集合の概念を理解すれば、今尚色褪せない血液型性格判断がいかに
根拠のないものか分かる。集合の概念では「身長が170cm以上か未満か」は成立する。「男性か女性か」は性的マイノリティーを考慮して、念のために
「医学的に」という修飾語をつければ成立する。性器の形状で判別出来る「男性」と「女性」以外に、性同一性障害とかもあるからだ。
 ところが、「背が高いか低いか」は成立しない。定義が人によって異なるからだ。区分の単位である集合で個人差が生じては以降の話−議論という意味−が
出来ない。俺で「身長が高い」と思う−この時点ですでに駄目なんだが−のは180cm以上。「身長が低い」と思うのは160cm以下。この定義が晶子や
めぐみちゃんでも共通するかと言えば違う。めぐみちゃんから見れば、俺も十分身長が高い部類だろう。
 これは血液型性格判断でも言える。「何故A、B、O、ABの4種類の区分なのか?」という問い、すなわちA、B、O、ABの4種での分類を採用したのは何故か、
という問いにまともな回答はない。集合の定義が成立しないのに以降の話が出来る筈がない。・・・これが血液型性格判断への簡潔且つ率直な回答になる。
 この話をすると、付き合っていた宮城だけでなく大多数から「夢がない」などと不満を言われた。そんなこともあって俺は宮城と血液型性格判断の話をしない
ようにしていた。
 血液型性格判断に最も冷徹な態度だったのは、耕次じゃなくて渉だった。耕次が積極的に表に出るのに対し−そうでなかったらバンドのヴォーカルなんて
出来ないだろう−、渉は必要時以外は前に出ないタイプだった。「夢がない」などの血液型性格判断に渉が「もううんざりだ」と言いたげな表情で一度だけ
こう言ったのを、今でも憶えている。

The fool men's brains hold no meanings.

 いち早くその言葉の意味を察した耕次は、珍しく動揺した。渉がそう言った相手は渉の言葉が早口だったために聞き取り辛かったのもあってか一様に頭に
疑問符を浮かべていたが、渉はそれ以降血液型性格判断については何も言わなかった。俺と耕次を含む面子全員が話を誤魔化して終わらせたのは正解
だったと今でも思う。急進的な論陣で常に前線で展開する耕次に対し、執拗な「攻め」をギリギリまで我慢して、限界を超えたところで容赦なしに一刀両断
してお仕舞いとするのが渉の流儀だと、その時思い知った。渉のような人が一番敵に回すと怖いタイプかもしれない。
 めぐみちゃんが将来どんな道に進むのか分からない。俺自身、間近に迫っている次の進路をまだ確定させていないんだから、めぐみちゃんの心配をして
いる場合かと言われればそれまでだ。だが、多数の勢いに流されていくだけの人生にならないで欲しい。・・・本当に人のこと言ってる場合だろうか。

「中に何があるのか、楽しみね。」
「うん!」

 本当に楽しみなんだろう。遠足で来た時は遠くから見ただけだし、中の紹介はなかっただろう。俺が小学校の修学旅行で来た時は直接見たことは見たが、
中に入った憶えはない。晶子も観光客がピークとなる紅葉の季節だったから、中に入ることは出来なかっただろう。人波の一部に乗って金閣寺の中へ向かう。
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