written by Moonstone
「修之。先に風呂に入っちゃいなさい。」
俺が数学Tを見ていたところで、母さんが臨時家庭教師の会場としている修之の部屋に入ってくる。俺の家では午後10時が入浴の時間にほぼ固定されている。「祐司もついでに入っちゃって。」
「ああ、分かった。」
「あ、井上さんに先に入ってもらわないとね。」
「1日くらい入浴しなくても平気ですので、どうぞお構いなく。」
「そういうわけにはいきませんよ。大切なお客さんなんですから。」
「井上さんは、私の服じゃ合わないし。」
晶子の身長は165cm。170cmの俺と大して変わりないし、女性にしては背が高い方だ。修之がモデルを連想しても無理はない。逆に母さんは150cm後半と「あ、そうだ。祐司の服があるわ。」
割とすんなり思いついたと思ったら、その母さんが口にした「名案」は単純といえば単純だ。「確か整理箪笥の中に・・・。」
当事者の晶子や俺が何か言うより先に、母さんは駆け出していく。やる気満々だ。「俺の服って・・・そんなに残してあったっけ。」
「兄貴、服殆ど買わなかったもんな。」
「ああ。だから思い当たるものがないんだよな・・・。」
「あったあった。これこれ。あんたの部屋着。」
そんなことを思っていたら、母さんが問題の服を持ってきて見せる。高校時代の俺が帰宅した後や休みの日に着ていた、明るいグレーのトレーナーだ。「井上さん、背が高いから、祐司の服が着れるでしょ?ちょっと合わせてみてもらえます?」
「はい。」
「あ、丁度良いくらいの大きさね。これで良いですか?」
「はい。勿論構いません。」
「下着は・・・。」
「今着ているもので十分ですから、どうぞお気遣いなく。」
「そうですか。すみませんねぇ。じゃあ井上さん、先に入ってください。」
「よろしいんですか?」
「ええ、勿論ですよ。さ、どうぞどうぞ。」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。祐司さん。引き続き修之さんの勉強をお願いします。」
「ああ、分かった。」
「兄貴、井上さんと一緒に風呂には入らないのか?」
続きを見ようとしたところで、修之が鳩尾(みぞおち)に食い込むデッドボールを投げつけてくる。「な、何言ってんだ、お前。」
「だって、井上さんと兄貴、同じ指輪填めてて兄貴の家にも出入りしてるんだろ?だったら一緒に風呂に入ってるんじゃないかって思ってさ。」
「入ってない。」
「ふーん。じゃあ、一緒のベッドで寝たりしてるのか?」
「・・・別だ。」
「でもさ。井上さんって珍しいよな。」
「何がだ。」
「兄貴が井上さんを晶子って呼ぶのはまだしも、井上さんが兄貴を祐司さんってさん付けで呼ぶのがさ。今時そんな女居ないんじゃない?」
「それは・・・確かに。」
「井上さんって、兄貴と同い年だろ?」
「・・・否。学年は同じだが、年齢は晶子の方が1つ上だ。事情があって大学を入り直したからな。」
「ふーん。入り直して兄貴と同じ新京大なんだから、やっぱり凄いよな。」
「井上さんの方が年上だと尚更、兄貴をさん付けで呼ぶのって珍しいよなぁ。」
「話が戻ってるぞ。」
「だって実際そうじゃん。両方名前呼び捨てならまだ分かるけどさ。兄貴がそう呼べって言ったのか?」
「否、言ってない。」
「それより、時間が勿体無いから問題を解いていけ。」
「はいよ。」
「−良し。三角関数や因数分解はしっかり出来てるな。あとは繰り返し解いて公式の使い方を覚えることだな。特に確率。公式自体はややこしいもんじゃないから、
機械的に問題の数値を当てはめないよう気をつけるようにすると良い。」
「うーん・・・。兄貴に教えてもらって割と分かるようになってきたけど、確率って何となく意味がないように思うんだよなぁ。そうなるかならないかは
五分五分じゃないかって思えて。」
「それは言葉どおり、確率の事象を二択に矮小(わいしょう)化した場合の話だ。数学的な考え方じゃそうはいかない。」
「兄貴。頼むから難しい言い方しないでくれよ。」
「難しく言ったつもりはないけど、表現を変えると・・・そうだな・・・その問題でありうる可能性を出るか出ないか、当たるか当たらないかの二者択一で強引に
置き換えてしまった場合、と言えば良いか。」
「此処で一つ、確率の問題でよく出るサイコロより身近な例を挙げてみる。宝くじだ。」
「宝くじ?」
「ああ。これだって立派な確率の問題だ。桁が多いとイメージし難くなるから、0から9までの数値で5桁の宝くじがあるとする。その中で1等のある数値、
例えば12345を1回で引き当てる確率はどうだ?」
「えっと・・・。」
「当たるか当たらないかだけで言えば確かに五分五分、数値にすれば1/2と出来る。だけど、0から9までの数値を使った5桁の宝くじを各1枚ずつ全部作ろうとしたら、
何枚印刷する必要がある?」
「それは・・・、00000から99999まであるんだから、10万枚に決まってるじゃん。」
「そうだな。じゃあ、その中にさっき例に出した12345っていう数値が印刷された宝くじを1回だけのチャンスで引き当てる確率は?」
「そんなの、10万枚の中の1枚なんだから、10万分の1に決まってるじゃん。」
「そのとおり。それじゃ、そうやって直感的にも10万分の1って分かる確率を、当たる当たらないの二者択一にしたら、俺が例示した確率の問題が成立すると思うか?」
「問題の成立・・・?式の証明が必要になるんじゃないの?」
「否、式の証明なんて必要ない。5桁の数値が全て違う10万枚の宝くじの中から目的の12345が印刷された宝くじを1回のチャンスで引き当てる確率を、最初から
引き当てるか引き当てないかの二者択一にしてしまってるんだから、問題が成立する筈がないだろ?」
「・・・あ。」
「改めて最初の方から順に辿っていく。0から9までの数値で5桁の宝くじを各1枚ずつ、合計10万枚印刷して、その中から12345っていう桁があるやつを
1回のチャンスで引き当てる確率、っていうのが俺が例示した問題。その確率は10万分の1。じゃあ、直感的に分かりそうなその10万分の1って値のまず10万って値は、
確率の公式を使った場合どうやって弾き出せる?」
「えっと・・・。」
「問題集とかを見て良いぞ。今は受験本番じゃないから。」
「0から9までの数値は10あって・・・。その中から1つ取り出して並べる、を5回繰り返すことと同じだから・・・!重複順列を使うのか!」
「それを俺に説明してみろ。」
「えっと、0から9までの数値は0、1、2、3、4、5、6、7、8、9の10個。その中から1つを選ぶんだから、1回につき10通りの選び方がある。1桁選ぶ際には、
前に選んだ数値を使っても良いんだから、1桁目が10通りで、2桁目も3桁目も、5桁目まで全部10通りずつある。だから、10の5乗、重複順列の公式と使うと、
10Π5。答えは10万。」
「大正解。そういうことなんだよ。その10万の中から、1回のチャンスで12345っていう数値が印刷された宝くじを引き当てる確率は?」
「12345っていう組み合わせは1回しかないから、10万分の1。」
「というわけ。ちなみにこの例題は重複組み合わせの確率とも考えられる。重複組み合わせの定義をよく読んでみれば、直ぐ分かるだろ?」
「あ、そうかそうか。0から9までの10個の数値が全部違ってて、その中から繰り返しOKで5回選ぶんだから、重複組み合わせの公式で、nが10、rが5とすれば、
10H5と同じ。それは・・・、n=10でr=5を代入して、10+5-1C5ってなるわけか。」
「そういうこと。確率の問題で言えば、問題が何を求めたいのか、どういう組み合わせを使うかをしっかり捉えて、それに応じた公式を使えば良い。」
「あー、なるほど、なるほど。そういうことってわけか。」
「お待たせしました。お母様から、次に祐司さんに入るよう言伝されました。」
「あ、ああ。それは良いけど、何時の間にそのコート・・・。」
「これですか?お風呂に入る前に祐司さんのコートが掛かっているのを見て、お母様にお風呂から出た後羽織って良いか尋ねて、了承を得たんです。」
「祐司さんの上着はお母様が用意してくださってますから、どうぞお風呂へ。」
「・・・ああ。修之。問題を何処まで解くかはお前のペースや判断に任せるから、英語は今までどおり晶子に見てもらえ。」
「オッケー。」
「じゃあ晶子。俺が風呂に入ってる間は修之の勉強を頼む。」
「はい。」
「あ、下りて来たのね。」
洗面台もある脱衣場には、母さんが居た。「あんたの下着とパジャマと上着は用意してあるから、それを使いなさい。」
「ああ。それよりさっき、晶子が俺のコートを羽織ってきたんだけど。」
「祐司と井上さんはあまり身長差がないし、井上さんも着たそうだったから、丁度良いと思ってね。」
「ふーん。」
「あんたの着替えは去年帰省した時のものがあるから、それを着なさい。」
「ああ。」
「あと、上着はこれね。」
「井上さんには、あんたのコートを貸したから、これで良いでしょ?」
「ああ。良いよ。」
「次は修之に入るように言ってね。」
「分かった。」
「お先に。」
「もう上がったの?相変わらず短い風呂ねぇ。」
「井上さんにも言ったけど、次は修之に入るように言って。お父さんと母さんは明日の準備をして洗濯機をセットしてからにするから。」
「分かった。」
「兄貴、本当に風呂に入ったのか?」
「俺の風呂が短いことくらい、知ってるだろ?」
「そりゃそうだけどさ。さっき井上さんに英語を教えてもらい始めたところだぜ?」
「兎に角先に風呂に入って来い。母さんから言われた。」
「はいはい。」
「修之さん、以前に増してやる気になってますよ。」
「そうか。受験は結局本人と試験問題だけの1対1の勝負だから、良いことだ。」
「祐司さんに数学の基本を教えてもらったことを、目を輝かせて話してましたよ。英語も単に問題を追うだけじゃなくて、文法の基礎や単語の意味を同時に
複数調べるようにしたり、意欲的です。」
「俺が教えたことがきっかけの1つになったみたいだな。」
「流石は、祐司さんですね。」
晶子が俺に称賛を向ける。「修之さんから聞いたんですけど、確率の問題でどんなものでも結局は五分五分になるんじゃないかっていう疑問に、それだと確率の事象が成立しないことを
解説して、確率の公式を実際に使った例題を提示したんですってね。」
「数学は好き嫌いが両極端になりやすい科目の1つだけど、修之の疑問はその原因の1つでもあるし、もっともな疑問でもあるからな。それに応えないと
修之は納得しないまま、問題の解き方だけ覚えることになって、数学の意味とかを知らないまま苦行に耐えるだけでつまらないって思い続けることになるだろう、って
思ってな。大したことじゃない。」
「私も高校で数学を履修しましたし、受験でも1次2次両方であったんですけど、祐司さんに教えてもらっていれば、祐司さんと同じ学科に進学出来ていたかも
しれませんね。」
「そうだったら良かったような・・・。」
「否、やっぱり晶子と同じ学科じゃなくて良かった。」
「どうしてですか?」
「俺は一応1年の秋まで宮城と付き合っていたんだ。そんな状況で晶子が俺と同じ、男の数が圧倒的に多い電子工学科に居たら、晶子との出逢いはあんなに
上手くいかなかったと思う。」
「・・・。」
「あれが良い出会い方だったかどうかは疑問の余地があるだろうけど、晶子はあの日の夜俺とコンビニのレジで出会うまで、他に晶子の目に敵うだけの男に
出会わなかったから、俺との関係が始まったんだ。だから、男と出会う可能性が文学部より圧倒的に多い工学部に居なくて良かったと思ってる。」
「・・・そうですね。祐司さんと私の大学での位置関係が違っていたら、今までのような出会いや関係はなかったかもしれませんよね。」
「こうして付き合っている今だけは、晶子と一緒の学科に居られたら良いな、と思ってる。それだけは誤解しないでくれよな。」
「はい。」
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