雨上がりの午後

Chapter 171 ある雪里の光と陰−後編−

written by Moonstone


 伯母さんに案内されて、細い路地を入った途中にあった民家に入る。
傘に乗った雪を払ってから畳んで、玄関脇に置く。中は外見とギャップがない。柱や梁(はり)は年季を感じさせる渋い黒味を帯びている。薄暗い屋内は静まり
返っている。
 お邪魔します、と言ってから靴を脱いで上がる。伯母さんと子どもは家の奥に進み、襖(ふすま)を開けて中に入る。
続いて中に入ると、ほんわかした温もりが頬に当たる。ストーブが端で熱を発している室内は随分広い。俺の自宅くらいはあるだろうか。
中央にコタツがあって、子どもはその一角に滑り込むように座る。

「どうぞお座りください。ぜんざい持って来ますんで。」
「ありがとうございます。」

 伯母さんは部屋を出て襖を閉める。俺と晶子はコタツに入る。
俺が子どもと向かい合う位置に、晶子がその左隣、子どもの右手側に座る。伯母さんを含めて4人だから、この配置で良いだろう。

「この町ではな、冬はぜんざいを作るんやで。」
「何か特長とかあるの?」
「餅が一口サイズなんや。あとな・・・。小豆がいっぱい入っとる。甘くて美味いんや。」

 晶子の問いに子どもが答える。
ぜんざいはあまり食べたことがないが、「主に冬に食べる温かくて甘い食べ物」というイメージを覆すような奇怪なものは入ってないようだ。
見知らぬ土地で奇妙なものを出されると食べ辛いし、かと言って厚意で出されたものを無碍にするわけにも行かない。

「兄ちゃんと姉ちゃん、結婚して何年になるん?」

 この子ども、随分突っ込んだことを聞いて来るな・・・。昨日指輪を見せたが、やっぱり気になるんだろうか?

「去年の5月だから、まだ1年経ってないんだ。」
「なら、此処へ来たんは新婚旅行なん?」
「俺の高校時代の友人との一足早い卒業旅行なんだけど、実質的に新婚旅行を兼ねてるかな。友人はスキーに行ってるし。」
「ふーん。で、スキーせんと二人でこの町歩いて回っとるんか。」
「そういうこと。」

 子どもは意外そうな表情を浮かべる。
新婚旅行でこの町に来たというのが珍しいのか、「セオリー」に反して昼間町を観光しているのが珍しいのか分からないが、珍しい存在として映っているのは
間違いないようだ。
 珍しく思われるのは別に苦にならない。周囲の動きに倣わないといけないとは思わないし、高校時代バンド活動で生活指導の教師と度々対峙してきた経験もあるからだ。
大学に入って単独行動の割合が急に強まったことで、そういう考えはより強くなったように思う。耕次には及ばないだろうが。

「兄ちゃんと姉ちゃんって、歳幾つなん?」
「俺は21歳。」
「私は22歳よ。」
「姉さん女房なんやな。」

 随分詳しいな・・・。今は情報が溢れ返っているから、そういう単語を知っていても不思議じゃないか。

「そういう君は何歳?」
「7歳。小学校2年生や。」
「あの祭りに参加出来るのは、幾つまでなの?」
「6年生までや。兄ちゃんと姉ちゃんは特別や。」
「ありがとう。」

 晶子が礼を言うと、子どもは嬉しそうに照れくさそうに頭を掻く。・・・ちょっと良い気分じゃないが、子どもにいちいち目くじら立ててても仕方ない。
 襖が開く音がする。振り向くと、大きな両手鍋を持った伯母さんが入って来る。それを待っていたかのように、子どもがコタツから出て俺の背後にある戸棚に走り、
何やらごそごそしてから戻る。鍋敷きだ。子どもがコタツの上に置いた鍋敷きの上に乗せられた鍋の隙間から、ほこほこと湯気が立ち上っている。

「ちょっと待ってくださいな。椀(わん)と箸持って来ますんで。」

 伯母さんはいそいそと部屋を出て行き、程なく盆に椀を乗せて戻って来る。
4辺に椀と箸が並べられ、伯母さんが鍋を開けて、一番近い俺の椀から順にぜんざいを入れていく。目の前に置かれたぜんざいは鮮明な小豆色で、そこに幾つもの
白い餅らしいものが浮かんでいる。温かくて美味そうだ。

「ささっ、どうぞお食べくださいな。」
「「いただきます。」」

 親指の先ほどの大きさの餅を1つ、汁を一口飲む。
・・・うん、美味い。餅は口の中でふわりととろけるような柔らかさで、ぜんざいの甘みを十分含んでいる。
ぜんざいの汁は甘いがくどくない。さっぱりした味わいと適度な温かさが絶妙だ。

「美味しいですね。」
「凄く美味しいです。」
「そうですか。喜んでもらえて何よりですわ。」

 伯母さんは嬉しそうに目を細める。今日初めて顔を合わせて言葉を交わした間柄だ。出した食べ物を喜んでもらえて嬉しくない筈はない。

「お二方はどちらからいらしたんですか?」
「新京市です。」
「新京市っていうと・・・、小宮栄の南にある。」
「はい。」

 小宮栄は、新幹線だとのぞみも停まる大きな町だからよく知られているが、新京市自体の知名度はそれほど高くない。
俺が中学2年の頃に5つの市町村が合併して出来た新市ということもあるが、名前がやや安直というのもあるだろう。「新しい東京」という由来を聞くと、
安直さが際立って感じる。

「お二方は・・・学生さんですか?」
「はい、そうです。学部は違いますけど同じ大学に通っています。」
「新京市に住んどるっちゅうと・・・、新京大学ですかね?」
「はい。私は文学部で、夫は工学部です。」
「はーはー、そうですかー。随分立派なところに通ってらっしゃるんですねえ。」

 伯母さんは感心した様子だ。
新京大学は、所在地の新京市の知名度がさほど高くないのに、大学の名前は全国的に知れ渡っている。
晶子が居る文学部の他、教育学部、法学部、俺が居る工学部、医学部、理学部の6学部からなる総合大学でどの学部も偏差値でのレベルは高い。だから高校や
塾の卒業者の進学実績として大書されたり上位に名前が挙がったりする。
大学の名前で何もかもが決まるもんじゃないと思うが、合格を報告した後の親の狂喜ぶりや、去年帰省した時の親戚周りでの歓迎ぶりは、その辺の意識改革が
全然進んでいないことを如実に証明している。

「お二方大学生っちゅうことは、学生結婚ですかね?」
「はい。」
「結婚したん、去年の5月なんやて。」
「んなら、新婚ほやほやですなぁ。」

 伯母さんは感嘆の声を挙げる。こちらは全然悪い気がしない。
俺自身、指輪を大学で学部で披露した時に結婚は指輪を渡した時だ、と言ったし、その方向で固められることに何ら異論はない。
本当に入籍する時も、晶子の誕生日とか分かりやすい方にした方が良いだろう。俺はそういうことをついうっかり忘れてしまうことがあるし、女はそういうことを
大切にする生き物だ、って前に晶子も言ってたし。

「昨日、指輪見せてもろたんや。」
「そうか。私にも見せてくださいませんか?」
「はい。」

 断る理由は何もない。俺と晶子は左手を伯母さんに差し出す。左手薬指に揃って輝く指輪を見て、伯母さんは納得した様子で何度も頷く。
この位置に指輪を填めることの意味は、全国共通且つ世代間のギャップも殆どない重要事項のようだ。

「んでも、お二方お若いのに、スキーには行かへんのですか?」
「最初から、この町に来るのは観光が目的だったんです。スキーはしたことがありませんし。」
「私もスキーをしたことがありませんし、夫の旅行に急遽同行させてもらうことになったので、元々あれこれ言う資格はないと思っています。」
「今時珍しいですなぁ。若い人がこの町にスキーせんと来るっちゅうのは。」

 そんなに珍しいかな・・・。確かに昨日今日とこの町を回ってみて、俺と晶子と同年代の観光客には出会わなかったな。観光客だと彼方此方見て回るから無意識のうちに
きょろきょろする傾向がある。その判別手段を元にすると、高年齢の観光客は居たが、若年層は居なかった。

「この町も、随分変わってしもうて。」

 伯母さんは小さい溜息を吐く。

「昔は静かな町だったんですわ。春夏秋冬、それぞれの季節に応じた祭りがあって、山に行けば蕨(わらび)やらぜんまいやらがいっぱい採れましたんよ。
私が子どもん頃は山を含めた町全体が遊び場やったんですわ。」
「「・・・。」」
「んでも、最近は不景気で人が来んようになって来てね。この町は観光でもって来た町ですんで、どうしようかて騒ぎになって。で、今の町長さんや議員さんが、
山削ってスキー場作って、町の一角を若者向けの繁華街にしようて言い出したんですわ。」

 今朝勝平が言っていたことと重なる。伯母さんはこの町の人間だから、より詳しいし切実だ。

「町は賛成反対で真っ二つに分かれましてね。賛成の方は町の活性化のため言うて、反対派は自然と文化を壊す言うて。今まで諍いなんてあらへんかったのに、
夜通し言い争うことなんてしょっちゅうでしたよ。んでも結局は、賛成派の方が建設業者とかが後援会の幹事やっとる議員さんとかがいっぱい居ったんもあって、
町の一角を若者向けの繁華街にしよう、山切り崩してスキー場にしよう、ってことになって・・・。」
「「・・・。」」
「確かに人はいっぱい来るようにはなりましたわ。んでも、夜でも鍵かけなくて良かったくらいやったのに、酔った若い人とかが暴れたり騒いだりするようになって、
町の大人は子どもに、危ないで夜出歩かんように言うとるんですよ。繁華街も一応反対派の言い分取り入れて外見は他の家とかと同じになったんですけど、
中身は全然違とります。ゴミも増えたし山には遊びに行けへんようになったし・・・、本当にああして良かったんやろか、て疑問に思とる人はいっぱい居ります。
んでも口には出しません。言い争いはもう沢山やて思とりますでね。」

 華やかな裏側には、やっぱり暗くてどんよりとした翳がある。
どんなものでもそうだろうが、今まで平穏そのものだった町の空気が一変してしまったことと、その過程を肌身で感じている伯母さんの言葉は重い。
昨夜を見た限りでも、繁華街は賑わっていた。だが、そこだけ隔絶されたような感があった。あれだけの騒ぎが他の家々に及ばないのがむしろ不思議と言えるかもしれない。

「ああ、すみませんでしたね。お客さんに辛気臭い話してもうて。」
「あ、いえ。」
「ぜんざい、いっぱいありますで食べてってください。この町では、冬はお客さんにぜんざいを振舞うんが慣わしなんですよ。」
「冬はぜんざい、といいますと、季節毎に異なるんですか?」
「ええ。春は雑炊、夏はそうめん、秋はきな粉餅なんですよ。」
「へえ・・・。」

 季節によってもてなす食べ物も違って来るのか・・・。どのくらいの歴史があるのか知らないが、探れば探るほど色々な発見がありそうだ。これこそ観光の醍醐味だろう。
決まりきったコースを辿るだけじゃ分からないことはいっぱいあるだろうから。
 冬のもてなしというぜんざいは本当に美味い。甘いがしつこくないからすいすい食べられる。甘いものが特別好きというわけでもない−嫌いでもないが−
俺でも違和感を感じない。

「もっと食べられますか?」
「よろしいですか?」
「えーえー、勿論ですよ。ささっ、遠慮なく。」

 伯母さんは俺から椀を受け取り、鍋の蓋を開けてぜんざいをよそって俺に手渡す。まだほこほこと湯気が立つ温かいぜんざいを存分に堪能する。

「奥様ももう1杯いかがですか?」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。」

 同じく椀を空にした晶子も、2杯目のぜんざいを受け取って食べる。
晶子は俺が居るからといって食べる量を減らすことはしない。聞けば元々太りにくい体質らしい。ちなみに体重は聞いてない。幾ら何でもそこまで聞く必要は
ないと思ったからだ。

「おばあちゃん。僕にも頂戴。」
「はいはい。」

 伯母さんは子どもの分もよそう。そして自分のぜんざいを食べる。こうしていると、自宅や晶子の家での食卓を思い出す。
和やかで寛げる雰囲気の中、ゆったりと美味しいものを食べる。普段時間にせっつかれて動いている分、そういう時間が尚のこと貴重に感じられる。

「お二方は何時まで此処に居られるんですか?」

 3杯目を食べていたところで、伯母さんが尋ねる。

「来年の3日までです。」
「随分長いこと居られるんですねぇ。」
「高校時代の友人との、一足早い卒業旅行なんです。全員違う大学へ行ってますから、こういう機会でもないと顔を合わせられないんですよ。」
「お二方新京大学の学生さん言うてましたけど、何年生なんですか?」
「揃って3年です。今年の4月から4年になります。」
「んなら、卒業論文やら就職活動やらで忙しぅなるでしょうなぁ。何でもこの頃は、就職活動もどんどん前倒しになっとるし就職のために大学院へ行く学生さんも
増えとる、って前にTVで言うてましたし。」
「楽が出来るとは思ってないですよ。」
「何かと世知辛いですけど、お二方がええように生活出来ることを祈とります。」
「ありがとうございます。」

 伯母さんは心底良い人のようだ。俺と晶子のことについて深くは尋ねてこないし、こうしてもてなしてくれている上に俺と晶子の将来を案じてくれても居る。
社交辞令の一つと言ってしまえばそれまでだが、それで片付けたくないものがある。

「来年の3日まで此処に居られるんでしたら、31日と1日の早朝に大通りに行くと良いですよ。年越し朝市いうて、この町で昔からやっとる朝市があるんですわ。
新鮮な野菜や漬物とか、土産物とかも色々安値で出ますんで、普通に買うより得しますよ。」
「その朝市は何時頃から始まるんですか?」
「朝の6時から8時までですわ。まだ暗い時は提灯(ちょうちん)で照らされますんで、心配要りません。」

 今更言うまでもなく冬の夜明けは遅い。朝6時なんてまだ夜かと勘違いするくらいだ。そんな闇の中でどうやって市場をするのかと思ってたんだが、提灯で
照らすのか・・・。なかなか風情があるな。

「お二方はこの町に住んでませんで、野菜とかはあまり買う意味ないでしょうけど、漬物とか土産物とかは朝市で買うとかなり安うなりますよ。年寄りは大体
朝早いんで、そこら辺を考えてのことでしょうけどね。」
「漬物だとどんなものがお勧めですか?」
「そうですねぇ・・・。山菜はこの時期あんまりありませんで、たくあんとか株とか白菜とか、冬の野菜が良い思います。値段も手頃ですし、日持ちもしますんで
土産物にも良いですよ。」

 晶子の問いに伯母さんが答える。
山菜はこの時期あまりない、ということは春とかになると山菜の漬物が出回るということだろう。この辺にも季節感が滲み出ている。
白菜は冬野菜の定番の1つだということくらい、料理に疎い俺でも知ってる。晶子がこの時期食事を作ると白菜の塩漬けが出て来ることがあるし、実家ではこの時期
野菜と言えば白菜、と言わんばかりにしょっちゅう出ていた。

「此処だけと違いますけど、朝は特に寒いんで、しっかり着込んでいかれた方が良いですよ。」
「そうします。」

 俺も晶子もそれほど寒がりじゃないが、冬の朝は肌身に染み込むという表現が相応しい寒さだ。
雪が殆ど絶えず降るということは元々降水量が多い上に、雨が雪に変わるほど冷えるということでもある。
日が昇る前から始まるんだから、しっかり防寒対策をしていかないと最悪旅館でずっと寝込んでしまう羽目になる。せっかくの旅行なんだからそれは避けたい。
 流石にこの町に長く住んでいるだけのことはあって、色々な裏話を聞けた。
中には重苦しいものもあったが、それも歴史の1つとして伝え継いでいく必要があるだろう。歴史は華やかなことばかりで作られるものじゃないんだから。

 ぜんざいをしこたまご馳走になった俺と晶子は、伯母さんと子どもに見送られて家を出た。
今は宿に居る。雪合戦とぜんざいでのもてなしを含めて3時間。4時を過ぎれば暗くなり始める時間だから丁度良いだろう、と思ったからだ。
観光目的で歩いているから、暗くなってからの遠出はともすれば岐路を見失う恐れがある。
 部屋は布団も浴衣も片付けられて、茶菓子が補充されて盆に乗せられている机がある。
コートを脱いで腰を下ろし、晶子が茶を入れてくれるのを待つ。入れたての茶が差し出される。

「どうぞ。」
「ありがとう。」

 軽く茶を啜る。茶が身体の中を通っていくと、内側から温もりが広がっていくのが分かる。
部屋は暖房が効いているが、空気を暖めたものと食べ物や飲み物の温もりとは性質が異なる。身体を内側から温める1つの手段は、こうして温かいものを飲み食い
することだ。ぜんざいは温かかったが、雪を伴う外の冷えはコートを着ていても体温を奪うには十分だ。

「楽しかったですね。雪合戦。」
「ああ。始まる前に手加減してくれ、って言われたけど、向こうからは遠慮なく雪球が飛んで来たよ。」
「私もですよ。雪を拾っている時でもどんどん飛んで来て、時々雪を払いながら続けてました。祐司さんと違って、私は手加減してとは言われませんでしたけど、
あまり力を入れないようにはしました。」
「そういうところは晶子らしいな。」

 男の俺は見た目普通でもそれなりに力があると見られるんだろうが、晶子は見た目より力がある。
見るからに重そうなフライパンや鍋を扱う。伊達に店で潤子さんとキッチンを取り仕切っては居ない。
喫茶店に限ったことじゃないが、飲食店におけるキッチンは見た目は華やかそうだが実は結構肉体労働の要素が濃い。複数人の料理を作るとなると尚更顕著になる。
 そんなことは子ども達はまず知らないから、「自分より身長がある」という基準で「背が高い=力がある」と推測したんだろう。
フライパンや鍋を使う晶子が本気で雪球を投げたら、子どもたちにはかなりの脅威になるだろう。
合戦とは言うが厄除けの祭りだし、怪我人を出したくないんだろう。古くからの町は良かれ悪かれ仲間意識が強いからな。

「およばれしたぜんざい、美味しかったですね。」
「あれは美味かったな。あの雪合戦の後でご馳走してもらえるとは思わなかったから、二重に驚いた。ああいうこともあるんだな。」
「この町の歴史も聞けましたものね。・・・やっぱりこの町に昔から住んでいる人にとって、今の賑わいは大きな何かと引き換えにしたものだったんですね。」
「歴史や伝統だけで客を呼べる時代じゃないんだろうけど、寂しいものがあるな。スキー場じゃなくたって住宅地でも山を削って作ってるんだし、その過程で
そこに住んでた動物が住む場所を失ったり、賑わう代わりに治安が悪くなったり・・・。上手く両立出来る方法があれば良いんだけど、それを考えてる余裕が
ないんだろうな。」

 この地で暮らす伯母さんが語った歴史には深みと重みがあった。
この町に定住している人間しか分かりえない苦悩、大きな事件を契機にした、長年平和に暮らして来た筈の同じ町民との諍いの勃発、繁栄と引き換えに失った
幾つもの物・・・。勝平から聞いてはいたが、肌身で感じている分重みは伯母さんの話の方がずっとあった。

「・・・明日、朝市に行きませんか?」

 少しの沈黙の後、晶子が話を切り出す。
普段なら「寝不足なんだからそんな早い時間は勘弁してくれ」と断る−勿論婉曲的にだが−ところだが、今は規則正しい生活を送っているから、携帯のアラームと
目覚ましをきちんと合わせて少し早めに寝れば大丈夫だろう。

「行ってみようか。どんなものが売ってるか見てみたいし。」
「朝市が祐司さんと私が暮らしている町でもあれば、そこで買った野菜で料理を作るんですけどね。」
「流石にそれは無理だから、土産物とか見よう。値段も随分安くなる、って伯母さんも言ってたし。」

 晶子が家で料理を作る時には、長期間冷凍したものを使わない。
元々必要な分しか買わないし、冷蔵庫に入れておいても長期間だと鮮度が落ちるらしい。
じゃあ冷凍庫はというとこちらも結構曲者で、例えば魚の切り身なら1つずつラップに包んで冷凍しないと、解凍と冷凍を繰り返す毎に品質が落ちていくらしい。
冷蔵庫は食パンとジャムとビールを入れる場所、冷凍庫は夏に氷を作る場所、という程度の認識しかない俺には想像し難いほど、食材管理にかなり神経を配っている。
 店でもそういう傾向はある。
喫茶店だから当然普通の家庭より食材の消費量は多いが−多くなかったら潰れてしまう−、クリスマスコンサート前の泊り込みの買出しに同行したのを見た限りでは、
必要な分しか買ってない。潤子さんが最近晶子の影響で凝り始めた紅茶もやっぱり必要分しか買わないし、クッキーもその日の決まった分しか作らない。
「完売御礼」と言うのかそういう理由で、店は昼夜賑わっている。
 仮に朝市で野菜を買ったとしても、料理をする場所がない以上は幾ら晶子でもどうしようもない。
買ったものを新京市に戻る来月3日までこの部屋の冷蔵庫−備え付けの飲み物が入っている−に保存しておく、ということはしないだろう。
となると、買うのは必然的に長期保存が可能な漬物や、基本的に常温で保存出来る土産物に絞られる。
 土産物は昨日今日見たところ、勝平がくれたプリントにあった猿の置物が多くて、他には饅頭(まんじゅう)とか絵葉書とか、観光地ならありそうなものがある。
目ぼしいところではやっぱり猿の置物か。何処に置くんだ、と言いたくなるほど大きいものから、机の隅にでも乗せておける掌サイズのものまで大きさは色々あるし、
ポーズも色々だ。所謂「言わず聞かず話さず」の格好をした3体が並んでいるものや単体で座っているもの、4つ足で立っているものなど、見ていて結構楽しめる。
値段も安くなるから、店頭ではちょっと手が出なかったものも買えるかもしれない。
 朝早く起きるのはあまり得意じゃない。普段の生活が夜型なのもあるし、最近はその傾向が顕著になって来たのもある。だけど、早起きした分得するものが
ありそうな気がする。今日は早めに寝て明日に備えるかな・・・。

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