雨上がりの午後
Chapter 159 音と心のハーモニー
written by Moonstone
マスターの案内で、客はわらわらと出口へ向かう。
こういう時は結構早く行け、行けない、とかで混乱が起きやすいんだが、コンサートの余韻をくだらない諍いで壊したくないのか、少しずつ整然と出て行く。
出口へ向かう客の波に逆らうように、一人佇む客が居る。吉弘だ。着ていたコートは脱いで腕に引っ掛けている。
今まで何度か見た高慢ちきな雰囲気は欠片もなくて、何か言いたげな表情をしている。
大きな山場を乗り越えたことで、一つの疑問が再浮上する。
どうして吉弘がこの店のコンサートを知ったのか、そしてどうしてこのコンサートに来たのか。
吉弘は従兄の智一と同じマンションに住んでいるという。
どうやって来たのかは知らないが、大学に程近い智一のマンションからこの店までは結構距離がある。
お嬢様、否、女王様オーラを終始溢れさせていたあの吉弘が、取り巻きの男連中を従えずにたった一人でこのコンサートに来た理由は何なんだろう。
ステージ脇から晶子が降り、吉弘に駆け寄る。吉弘は晶子と何か言葉を交わす。その表情は至って「普通」だ。
よくもこんな窮屈な場所に長時間押し込んでくれたわね、とでも突っかかりそうなもんだが、そんな様子は微塵もない。
晶子と二言三言交わした後、吉弘は身を翻して出口へ向かう。その後姿は何処となく寂しげだ。
晶子が居る文系学部エリアの生協に一人で乗り込んで来た時の去る様子とよく似ている。吉弘の心に何か大きな変化があったんだろうか?
客が全て退出したところで、俺はステージから降りて出口に向かい、まずドアの鍵を掛ける。
そして全員で手分けしてブラインドを下ろしたりする。
広い店内だが、4人居ればそれほど時間はかからない。第1日目は無事終了。終わってみると、改めて充実感が心を満たすのを感じる。
「大成功だったな。思い切って曲目を刷新した賭けは当たったな。」
「『always』であんなに盛り上がるとは思いませんでしたね。」
「井上さんの後押しで入れた曲が結構多かったが、硬軟織り交ぜた良いラインナップになったようだな。何はともあれ、めでたいことだ。明日もあるけど、
祐司君と井上さんはこの調子で明日も頼むよ。」
「「はい。」」
「夜は程々にね。」
潤子さんの一撃が俺の心に釘となって突き刺さる。
昨夜は本当に場所を失念して没頭してたし、晶子の声がしっかり聞かれていたらしいし・・・。成り行きの怖さというものを思い知ったような気がする。
「さ、それじゃ一服しましょうか。ぶっ通しだったから、喉渇いたでしょ?特に晶子ちゃんは。」
「あ、はい。割と湿気が多かったのかそれほど喉の渇きは強くないですけど。」
「喉はデリケートだから、アフターケアはしっかりしないとね。皆、台所に行ってて。私が紅茶を入れるから。」
「あ、私も手伝います。」
「お願い出来る?」
「それじゃ、男二人は紅茶が出てくるのを待つとするかね、祐司君。」
「はい。」
晶子と潤子さんはキッチンの勝手を心得ている。そんなところに俺がしゃしゃり出たところで足手纏いになるのが関の山。此処は大人しく待つに限る。
俺は、マスターと共に台所へ向かう。
「指定席」に着席したところで、俺は今日の大きな疑問を口にする。
「マスター。今日来ていた客の中に、以前晶子に因縁つけてきた女が来てたんですよ。」
「ああ、そのことか。井上さんが1000円出してチケット1枚買ったから、多分そのチケットを渡したんじゃないかな。略地図はチケットの裏側に書いてあるから、
初めての客でも電車を使えば来れるし。」
「・・・買ってたんですか?晶子が。」
「ああ。店に出す前に井上さんが『1枚買わせてくれませんか?』って依頼して来たんだよ。何でも、招待したい人が居るからってことで。井上さんの性格だから、
まさか祐司君以外の男を連れてくるとは思わなかったし、井上さん、多分その女性と話をつけたんじゃないかな。」
「人の話をすんなり聞き入れるような性格じゃないと思うんですけどね・・・。」
「意外に普段突っ張っている人ほど、何かのきっかけで心を開いたりするもんだ。井上さんは、そのきっかけを問題の女性に今日のチケットとして渡したんじゃ
ないかな。」
「何を目的にこのコンサートに来たんでしょうね・・・。」
自分のテリトリーを侵害された、とあれだけ執拗に付け狙ってきた吉弘が、テリトリーの侵害者−勿論吉弘の勝手な思い込みだが−である晶子と仲直り、
なんて考えられない。
だが、文学部がある文系学部エリアの生協の食堂に単独で乗り込んで来た時以来、吉弘から何のアクションもないのもまた事実。
安心させておいてほとぼりが冷めたところで一気に、と考えている可能性だってある。
だが、晶子はわざわざチケットを買ったと言う。
マスターの推測どおり、晶子が買ったチケットを吉弘に渡した可能性もある。
吉弘は今日も単独だった。それに、文句を言ったりケチをつけたりといったこともなかった。
そう言えば、文系学部エリアの生協の食堂に乗り込んできた際の「撤収」の時と、今日の帰る時の後姿は良く似ていたな。
吉弘の心に何か変化があったんだろうか?
「はい、お待たせー。」
潤子さんの快活な声が俺の推測を打ち切る。
ラベンダーの良い香りを漂わせる紅茶が、晶子が並べたタンポポのワンポイントロゴが入ったティーカップに注がれる。
テーブルの中央にはクッキーが入った皿が置かれる。
最近、潤子さんは紅茶とクッキーに嵌まっている。紅茶は紅茶専門店で仕入れたもので、クッキーは手作りだ。
何でも、晶子と店で料理をしながら話をしていたら紅茶の話になったのが発端らしい。
潤子さんは「昼の顔」として紅茶とクッキーを導入して、今じゃ紅茶も各種取り揃えていて、平日は近所の主婦、土日は女子中高生の間で
大好評になっているそうだ。
紅茶専門店を潤子さんに教えたのは、他ならぬ晶子だ。
晶子の家の台所の戸棚は小さな紅茶陳列棚の様相を呈しているが、それだけの品揃えに出来るだけの品数を揃えている専門店は、晶子が週末買い物に行く
ルートの延長線上にある。車で行けば10分とかからない。
潤子さんの紅茶好きはマスターも乗り気だ。
「夜は祐司君と井上さんが居るから良いけど、昼がねえ」と思っていたところに、喫茶店の王道の一つとも言うべき紅茶のラインナップ向上が自然な形で
実現出来るとあって、マスターは紅茶専門店に車を走らせ、紅茶専用の棚とクッキーを焼くためのオーブンまで購入した。
オーブンはグラタンを作ったりするために前からあるが、クッキーを焼くためにわざわざ買ったのだ。元は十分取れてお釣りが来るほどだ、とはマスターの弁。
4人で潤子さん手製のクッキーを齧り、紅茶を飲んでコンサートの余韻を味わう。一昨年と昨年とはまた違った充実感や達成感を感じる。
今までの流れに沿った曲目でも良かったんだろうが、あえて少し違う方向に変えてみるのもまた一興、というところか。
クッキーの量はそう多くない。夕食はコンサートの前に済ませてあるし、コンサートは明日もある。
今日はこれからしっかり寝て疲れを取って、明日に備える。本格的な打ち上げは、明日のコンサートが終わって店を元の状態に戻してからだ。
潤子さんと晶子が共同で作ったケーキがあるって言うし−当日まで秘密ということで見せてもらえない−、明日に向かって頑張ろう。
ささやかな宴は終わった。風呂に入った俺と晶子は、マスターと潤子さんに挨拶してから階段を上って部屋に入る。
灯りを消して揃って布団に潜ったところで、消えない疑問を口にする。
「なあ、晶子。今日どうして・・・彼女、吉弘さんが来てたんだ?」
俺と向かい合っている晶子は、ひと呼吸置いてから口を開く。
「吉弘さんに、きっかけをプレゼントしたんです。私が買わせてもらったチケットで。」
晶子は、もう一度ひと呼吸置く。
「吉弘さんには、心に秘めているものがあると思ったんです。前に大学の文系エリアの生協の食堂に私を訪ねて来た時、祐司さんが作ってくれている
『明日に架ける橋』と『Fly me to the moon』を聞いて見せたあの表情を見て・・・。誰かに聞いて欲しい。だけど今の自分では言えない。吉弘さんの
そういう心の痞えを取り除くきっかけになれば、と思って、チケットをプレゼントしたんです。住所を大学のPCで検索して調べて、封書で送ったんです。
『もし良かったら来てください』って手紙を添えて・・・。」
「で、今日来たのか。」
「はい。」
吉弘が此処に来るまでの経緯は分かった。
要約すると・・・吉弘が何か心に秘め事を抱えている。そう思った晶子が吉弘の住所を調べてチケットを送った。そして吉弘が来た。・・・こんなところか。
もう一つ気になることがある。コンサートが終わって残っていた吉弘と晶子は何を話していたのか、だ。
少なくとも口論ではないと思うが、何を話していたのか気になるところだ。
「もう一つ。コンサートが終わってから残っていた吉弘と、何を話してたんだ?」
「ごく一般的なやり取りですよ。『チケット送ってくれてありがとう。久しぶりに良い夢が見られそう。』そう言ってましたよ、吉弘さん。」
「良い夢、か・・・。」
吉弘が一体何を求めてコンサートに来たのか、気にならないと言えば嘘になる。
だが、詮索するのは好きじゃないし、探られたくもない腹を探られる時の嫌な気分は、多少なりとも分かるつもりだ。
好きか嫌いかで言えば、吉弘は後者に属する。どうしても今までの高慢ちきな態度から来る負のイメージが消えない。
だが、好き嫌いと事情を探ることとは別次元の話。とりあえず、晶子の身に危険が及ばないのなら、それで良い。
「聞かないんですか?」
「何を?」
「吉弘さんと私のやり取りの詳細・・・。」
「聞きたくないって言えば嘘になるけど、そういう探偵みたいなことはしたくないから、しない。吉弘さんも何か思うところがあって今日来たんだろうし、
晶子には言っても良いけど俺には知られたくない、ってことかもしれない。だから、聞かないでおく。」
「優しいですね、祐司さん。」
晶子は微笑む。別に優しくしているつもりはないし、好き嫌いを前提にして言うなら「綺麗事は言わない」となる。
だけど実際、吉弘があれほど敵視していた晶子から送られてきたチケットを持って、しかも単身−取り巻きをつれてきても「チケットがないと入場出来ません」で
追い返したが−来たんだ。何かわけがあってのことだろうし、「良い夢」、それも「久しぶり」と言うんだから、やっぱり何かあるんだろう。
元々詮索するのは好きじゃない。それに晶子は、もう俺にも自分にも危害が及ぶことはないと言った。
吉弘も文系学部エリアの生協の食堂に単身乗り込んで来て以来、何の音沙汰もない。
久しぶりに姿を見たと思ったら今日も単身で、立ちっぱなし、食べ物も飲み物もなし、という状況にも何ら文句を言わず−文句を言われてもコンサートが
ああいう形式だからどうしようもないが−、晶子と会話してごく普通に帰って行った。それならそれで良い。それだけの話だ。
「俺は別に優しくないさ。ただ、言いたくない、知られなくない、って部分は誰にでも多かれ少なかれあるだろうし、それを口にするのは余程相手を
信用してのことだと思う。」
「・・・。」
「俺に限って言えば、吉弘さんの信用を得ているとは思えないし、今日吉弘さんが来たのは晶子の送ったチケットを持ってのことだから、吉弘さんのことは
晶子の中に仕舞っておけば良いんじゃないか?」
「そうですね。そうします。」
晶子は再び微笑んで俺に擦り寄ってくる。甘い匂いと微かに伝わってくる柔らかい弾力が小さな羽根となって、俺の鼻と欲望をくすぐる。
俺は右腕をゆっくり動かして晶子の身体に回す。そしてゆっくり体重をかける。晶子の上に覆い被さった俺は、晶子の首筋に唇を触れさせる。
疲労感はあるけど・・・、それよりも何よりも今は「晶子が欲しい」という気持ちが上回っている。
唇を動かしてきめ細かい肌の感触を堪能していると、その気持ちがより膨らんでいく。
・・・。
・・・じさん。祐司さん。・・・あ、誰か呼んでる・・・。
闇から急速に浮き上がってきた意識が、俺の目を開けさせる。覗き込んでいるのは・・・晶子。
俺はまだ若干残っている眠気を、目を擦ることで削り落とす。掛け布団から出した腕は、肌が剥き出しだ。
週明けの月曜の朝。2日目もコンサートは大盛況のうちに終わり、潤子さんと晶子が共同して作ったケーキを切り分け、シャンパンを開けて打ち上げをした。
ケーキは程好い食感のスポンジケーキに生クリームと共に苺や桃がたっぷり挟まれたもので、見た目も味も最高だった。
昨夜まで指を咥えさせられて待たされただけのものはあった。
そしてその後、俺と晶子が先に風呂に入って部屋に戻り、端的に言えば晶子を「食べた」。3夜連続なんて初めてだ。
一昨日と昨日は潤子さんに起こしてもらったが、今日は晶子か。俺の顔を見るその目に眠気は感じられない。
「朝ご飯が出来たから一緒に食べましょう、って潤子さんが。それに祐司さん、今日は大学に行くんでしょ?」
「ああ。レポートを出しに行くだけだけど。」
「私、下で待ってますね。」
「分かった。」
晶子が部屋を出て行った後、俺は身体を起こす。剥き出しの背中を冷気が包む。冬はこれが辛いが、なければないで後々大変なことになるもんだ。
俺は手早く近くに置いておいた服を着て、ついでに鞄を持っていそいそと1階の台所へ向かう。
「あら祐司君、おはよう。」
「おはようございます。」
「おう、おはよう。」
エプロンを外している潤子さんと、新聞を畳んでいるマスターと挨拶を交わし、席に座る。
晶子が言っていたとおり、朝食は出揃っている。ご飯に味噌汁、鮭の切り身に目玉焼き、そして漬物。出来立てを示す湯気が立ち上っている。
全員揃ったところで食べ始める。この家における何度目かの朝食の風景。
トーストとインスタントコーヒーを詰め込んで駆け出していく普段とは全然違う、穏やかでゆったりした時間が過ぎていく。
「祐司君、今日の帰りは?」
「あ、レポート出しに行くだけですから、昼には帰って来られると思います。」
「そう。じゃあ、帰る時分になったら晶子ちゃんの携帯にでも連絡してね。お昼ご飯の用意するから。」
「はい。」
月曜に補講はない。厳密に言うと「今まで単位を取っている学生なら」ない。
2年の後期に単位を落とした奴にはその講義の補講がある。単位には必須と選択があるが、何にせよ必要数だけ取ってないと留年となることには変わりない。
最悪の場合、1コマめから4コマめまでびっしり補講で埋め尽くされることもある。単位を取っているかいないかの明暗がくっきり出る格好だ。
今朝がゆったり感じるのは、時間が遅いのもある。
レポート提出期限は今日の午前中いっぱい、となっているから、2コマめに間に合う時間で行けば十分間に合う。勿論、潤子さんには予めそのことを伝えてある。
レポートを提出するためだけに大学へ行くのは何だか馬鹿馬鹿しいような気がしないでもないが、提出しないと単位を取れない。
学生実験は必須の一つ、しかも4単位も持っていて、「学生実験の単位を取得していること」が4年進級への条件の一つになっているから、提出しないと
いうことは留年します、と宣言するようなものだ。
大学進学と一人暮らしを始めるにあたって、4年きっかりで卒業というのが絶対条件の一つだし、この前大学進学を決めた弟の選択の幅を狭めないために、と
4年進級を前提にした自分での学費払いを宣言した身だ。間違ってもそこから外れるようなことは出来ない。
食べ終えて洗面台で顔を洗って歯を磨いて、コートとマフラーを着けて携帯をシャツのポケットに入れて準備完了。
レポートを入れた鞄を持って玄関へ向かう。その途中台所を通るから、挨拶は忘れない。
「行ってきます。」
「おう、行ってらっしゃい。」
「行ってらっしゃい。」
「行ってらっしゃい。」
茶を啜っているマスター、洗い物をしている潤子さん、その手伝いをしている晶子の見送りの声を受けて、俺は靴を履いて外に出る。
今年も残すところあと僅か。その僅かな時間に占める大学生活がレポート提出と補講というのも何だか、という気がしないでもないが、この辺は割りきりが
必要だろう。
俺は自転車に跨って丘を駆け下り、そのまま駅へ向かう。晶子と一緒に行かないのは久しぶりだな・・・。
吉弘に晶子が狙われるようになって以来ずっと行き帰りを一緒にしていたから、寂しさはある。
だけど、レポートを提出しに行くだけの俺に同行させる、なんてさせたくない。さっさとレポートを提出して帰ろう。
「おっ、待ってたぞ。」
レポートを提出する教官の部屋がある研究棟に入ったところで俺を出迎えたのは、智一のこの言葉だった。
その待ち焦がれていたと言うに相応しい目が、何を言いたいかを率直に物語っている。俺は溜息一つ吐いて鞄からレポートを出す。
「ほら。」
「何時も悪いな。」
「何時ものことだろ。提出は忘れるなよ。俺は帰るから。」
「あ、ちょっと待て。」
レポートを受け取ったなら、後はそれを写して教官の部屋の前にあるレターボックスに入れれば済む筈だ。これ以上何の用があるって言うんだ?
「何だよ。」
「ま、まあ、そんな不機嫌そうな顔するなよ。お前がレポート出すためだけに来なきゃならなくって、来た早々レポートを要求されて不機嫌になるのは
分かるつもりだからさ。」
「分かってるなら言うな。」
「用があるのは俺じゃないんだ。」
何のことやら分からずに首を傾げる俺の前で、智一は携帯を取り出してボタンを操作して耳に当てる。
智一以外に俺に用がある奴と言えば・・・、性懲りもなくレポート写しに明け暮れる役立たずの残り2人か。そんな奴の言い訳なんか聞きたくもない。
「・・・あ、智一だ。・・・ああ、今レポートを出しに来たところだ。今、電子工学科の研究棟に居る。約束どおり引き止めたから、後はお前次第だ。
くれぐれも言っておくが、妙な真似はするなよ?・・・分かってるなら良い。じゃあな。」
もしかして、と思う俺を前に、智一は携帯を仕舞う。やけに神妙な面持ちだな。
「悪いが、順子の奴と会ってやってくれ。お前と話がしたいらしくてな。」
「・・・吉弘さんが?」
「ああ。妙な真似はしない、と確約させてある。順子が昨日俺に頼み込んで来てな・・・。会いたくないとは思うが、会ってやってくれ。頼む。」
智一が俺に頭を下げる。
ガキの頃から家族ぐるみで兄妹同様に育って来て、今でも同じマンションに住んでいる間柄だ。そんな相手の頼みを無下には出来ないんだろう。
俺とて手は焼かされてはいるが、智一は1年の頃から気心知れた希少な友人だ。その友人のたっての願いを却下する気にはなれない。
・・・こういうところが甘いんだろうが。
「分かった。で、俺は何処に行けば良いんだ?」
「順子が迎えに来る。此処の場所は知ってるし、あいつが居る情報工学科の講義室から此処まではそんなに時間はかからない筈だから、直ぐ来る筈だ。」
「そうか・・・。」
話をしたい、か。何だろう?
土曜日のコンサートに来て、終了後に晶子と何やら話をしたことは俺自身見たし、晶子から吉弘をコンサートに誘った経緯と吉弘が残した言葉を聞いてはいる。
・・・まさか、俺が智一と仲が良いことを逆手にとって智一に引き止めさせておいてお礼参り、なんてことは考えてないだろうな。
智一が確約させたと言うから疑いたくはないんだが、相手が相手だけにな・・・。
「お待たせ。」
背後から声がかかる。同時に俺と智一が居る控室−要するに溜まり場だ−にざわめきが起こる。
振り返れば、白のロングコートと白のマフラーに身を包んだ吉弘。
男ばかりのこの部屋に客観的に見てこれだけの美人が来れば、変な言い方だが活気付くのも無理はないか。
「安藤君。彼・・・智一から話は聞いてる?」
「ああ。」
「じゃあ、私について来て。」
吉弘は身を翻す。長い髪をふわりと浮かべてのその様はさながらモデルのようで、取り巻きが出来るのも何となく分かる。
俺は吉弘を刺激しないように、歩き始めた吉弘と腕一本分の間隔を置いてついて行く。
後ろでざわめきが大きくなっているように思うが、そっちの件は智一に任せよう。
吉弘について歩いて行くと、電子工学科と情報工学科の間にある中庭に着いた。
葉をすっかり落として久しい木がぽつりぽつりと点在するだけで、芝生も今は茶色の何処か寂しげな絨毯になっている。
人気はない。吉弘は木の一本に手を当てて徐に振り返る。
その表情には、今まで何度か見せた険のようなものはない。芝生と同様、何処か寂しげでさえある。
「・・・彼女から聞いた?私のこと。」
「・・・晶子からは、大学のPCで君の住所を検索してチケットを送ったことと、君がコンサートが終わった後で、『今日はありがとう。久しぶりに良い夢が
見られそう』って言った、ってことだけは聞いてる。それ以外は聞いてない。」
「彼女・・・、井上さんは何も話さなかったの?夫の貴方にも。」
「晶子は俺が要求しなければ話すつもりはなかったし、俺は聞かなかった。」
「・・・。」
「晶子がどうして君にコンサートのチケットを送ったのか疑問に思わないわけじゃないけど、小学生じゃあるまいし、聞いた話を大学とかでばら撒くつもりはない。
それに、人それぞれ事情があるだろうから、聞かなかった。だから晶子も言ってない。それだけだよ。」
「そう・・・。」
吉弘は消え入るような声で言うと、俺から見て横を向いて溜息を吐く。小さい白い塊が宙に浮かんで、一陣の風に吹かれて儚く消える。
横顔は何かの拍子で泣き出してしまいそうな・・・!あの時と同じだ。
文系学部エリアの生協の食堂に単独で乗り込んで来て、俺がペアリングを見せて携帯の着信音を聞かせた後のあの顔と。席を立って去る時一瞬見えた、
あの横顔と。
「・・・井上さんが私に頭を下げた時、謝罪の言葉に続けて、貴方には何もしないでくれ、って言った理由。そう言うまで井上さんが貴方に惚れ込んだ理由。
分かるような気がする・・・。」
「・・・。」
「やっぱり聞かないのね。相手が言わない限りは・・・。」
「俺は探偵や芸能記者じゃない。ましてや警察でもない。言いたくないことを無理矢理話させたりする理由なんて、何もないからな。そうしたくもないし。」
「徹底してるのね・・・。」
!吉弘が微笑んだ。今まで見せた勝ち誇ったようなものとは全然違う、寂しげで悲しげで儚げな・・・。
目がうっすらと潤んでいるように見えるのは気のせいか?
「私は・・・言う覚悟はしていた。言うつもりで居た・・・。」
暫くの沈黙の後、吉弘は呟くように、そして詠う様に言う。
小さな声だが、耳に良く届く。これまでの過程で形成された負方向の既成概念を除けば、潤いのある澄んだ声と言うに相応しい。
「井上さんを敵視していた筈の私が貴方のバイト先のコンサートにチケットを持って来て、井上さんと話をしてから帰ったところを見られてたんだから・・・、
私と二人で話をする機会を持ったことで、貴方は当然私を問い質すものと思ってた・・・。その時は答える覚悟は出来ていた。答えるつもりで居た。
だけど、貴方は違うのね・・・。」
「・・・。」
「智一から聞いてるかもしれないけど、従兄妹同士の私と智一は同じマンションに住んでるのよ。私のお父さんと智一のお父さんが経営する会社の子会社が
経営してるってことでね。でも、智一はそのつもりじゃなかった・・・。智一とは小さい頃から学校もずっと一緒だったし、私が居るせいで彼女が出来ない、って
時々ぼやいてたし、私も、大学を出てからのレールが敷かれてる智一の大学生活を邪魔したくなかった・・・。だから、大学内でのことには相互干渉しない、って
約束したのよ。」
「・・・。」
「そんな智一が1年の頃、決まって月曜の夜に飲んで帰って来てね・・・。凄く楽しそうだった。どうせ聖華女子大の女と合コンでもしてたんでしょ、って私が
聞いたら、智一は『良い奴と酒が飲めて良い気分で帰って来たんだ』って口癖みたいに言ってね・・・。本当に楽しそうだったのよ。」
吉弘がまた微笑む。険がすっかり消え失せた今、儚げでもあるその微笑みは客観的に見て十分魅力的だ。
そう言えばマスターが言ってたな。「意外に普段突っ張ってる奴ほど、ちょっとしたきっかけで心を開くことがある」って。
今の吉弘は、恐らく智一くらいしか見たことがないものなんだろう。
「井上さんからチケットが送られて来て、行くべきか、ううん、行って良いものかどうか分からなかった・・・。チケットに同封されていた手紙には
『もし良かったら来てください。貴方の心に残るひと時になると思います』って書かれていて・・・。どうすれば良いか分からなくて、智一に相談したのよ。
そうしたら智一は、行って来い、って言ってから、自分と貴方と井上さんの関係を話したのよ。情けない話よね・・・。智一とは長い付き合いなのに、
それでようやく分かったのよ・・・。智一が凄く楽しそうにしていた時の飲み相手は貴方で、智一が一時期聖華女子大の女以外で真剣に目を輝かせていた時期が
あったんだけど、その相手が井上さんだったってことがね・・・。」
「・・・。」
「井上さんの手紙にあったとおり、あのコンサートは本当に心に残るひと時になったわ・・・。待っていた智一は開口一番『良い二人だろ?』って・・・。
私は黙って頷く以外なかった・・・。井上さんが貴方に惚れ込んだ理由も、あれほど井上さんに熱を上げていた智一がすんなり身を引いた理由も、やっぱり
情けない話だけど、分かるような気がする・・・。今更だけどね・・・。」
儚いと同時に自嘲さえ混じった微笑を浮かべて、吉弘が顔だけでなくて身体も俺の方を向ける。
冷たい風がふわり、と吹き抜ける。
吉弘はゆっくりした足取りで俺に近付く。その表情はいたって穏やかで、同時に寂しげで、悲しげでもある。
「智一にも事前に釘を刺されてるけど、改めて約束するわ。今後貴方と井上さんには何も手出ししない。直接間接問わず、ね。今更そんなこと言われて
信用出来るか、って言われればそれまでだけどね・・・。」
「否、君が智一を頼ってこの場を持って、自分のことを色々話した上で約束するんだ。それを信用するよ。」
「あくまでも、貴方からは聞かないのね。」
「そういう性分だから。」
俺の表情が自然と緩むのを感じる。
高くて厚いプライドの向こう側にあるのは、素直で傷つきやすくて繊細な心。
その心の奥底に秘めた思いと店のコンサートで聞いた曲が共鳴して、久しく忘れていた、そして無意識に求めていた温もりを生んだんだろう。
だから吉弘は、一部だろうけど、自分の心情を吐露したんだ。
晶子が「Can't forget your love」や「The ROSE」をコンサートの曲目に加えたい、と晶子にしては唐突に言い出したのも、吉弘にコンサートのチケットを
送ったのも、吉弘の心境を察した晶子が、吉弘の心に温もりを生むきっかけを届けたかっただろう。
何かと鈍くて疎い俺には分かりえない無言のやり取りが、晶子と吉弘の間で交わされたんだ。
「また・・・、店に行っても良い?」
「遠慮なく。定休日とかは知ってる?」
「ええ。コンサートが終わった後で井上さんから聞いたわ。」
吉弘はそっと手を差し出す。もう迷うことはない。俺はその手を取って軽く握る。
それは、俺の心の中で吉弘への印象が敵意から親しみへと綺麗に塗り替えられた瞬間でもある。
「今更だけど・・・、ありがとう。井上さん、貴方の奥さんにもよろしく伝えて。」
「分かった。」
俺は吉弘と手を離し、その場を後にする。
音楽をきっかけに一人の心が温もり、幾つもの人間関係が良い方向に変わった。音楽、そして人と人との触れ合いの大切さをまた一つ学んだように思う。
「おっ、戻って来たか。」
控室に戻った俺にかけられた第一声は、智一のものだった。
他の面々の視線が一度俺に集まるが、程なく散開する。智一が説明したんだろう。恐らくは吉弘と従兄妹同士という関係から。
「悪かったな。順子の我が侭に付き合わせて。」
「否。以前智一が言ってたとおり、根は良い女性(ひと)だ、って分かった。」
「先に釘は刺しておいたが・・・。」
「ああ、大丈夫。」
「そうか・・・。」
智一は安堵の笑みを浮かべる。
釘は刺しておいたし、吉弘の心情の変化は俺より先に分かってただろうし、プライドの奥に隠された心の本質を知っていただろうからトラブルになることは
ないと思ってはいたんだが、もしかして、という不安は完全に消去出来ないでいたんだろう。
「じゃあ、俺は帰る。」
「ああ。レポートは出しておくからな。」
俺は鞄を手に取って、智一と軽く手を振ってから控室を後にする。
風が殆どない乾いた冬の空気が、燦燦と輝く太陽から温もりを享受している。
来る時は寒いと思った外気がこうも違って思えるのは、単に太陽が高く上ったせいだけじゃないと思う。
思いの他静かな大通りを歩き、そのまま大学から出て駅へ向かう。駅は静かを通り越して閑散と感じる。
講義の基本日程そのものは先週で終わっていて後は補講のみ、ということもあるんだろう。
新京大学の城下町として急速に発展したというこの界隈は、学生の姿が消えるとこんな感じになる。
改札を通ってホームに向かう。人はまばらだ。屋根からぶら下がっている時刻表と時計を見る。
あと5分ほどで急行が来るのか。電話しておくか。帰る先はマスターと潤子さんの家だからな。
携帯を取り出して晶子の携帯の電話番号を引き出して電話をかける。コール音は3回目が終わった直後に切れる。
「はい、晶子です。」
「あ、祐司だけど。今駅のホームに居るんだ。もう少ししたら来る急行に乗って帰る。」
「分かりました。お昼ご飯、一緒に食べましょうね。」
「ああ。それじゃ、また後で。」
「はい。」
俺は電話を切る。そう言えば、駅前の公衆電話を使うっていう手もあったな。
此処暫く何か連絡することがあると携帯を使ってるせいか、公衆電話を使うこと自体が思いつかなかった。
人間、便利な方や楽な方、そして高級な方には簡単に馴染むがその逆は難しい、と言う。携帯はその典型的な例だな。
携帯を仕舞って少し待っていたら、電車がホームに入って来た。
人の入りは此処も閑散としている。中高生は今週から冬休みだし、社会人は仕事の時間。電車を使う人間の絶対数が少ない時間帯だから、こんなもんだろう。
俺は電車に乗り込み、近くの空いている席に腰掛ける。ホイッスルが鳴ってドアが閉まり、電車が動き始める。
急行では10分程度の時間。携帯を弄るほどの時間じゃないから、俺は外を見る。特に目立ったものがあるわけでもない風景が前から後ろへと流れを速めていく。
店は今日は休み。明日明後日と営業したら年末年始の休みに入る。
今年は帰省しない。親からの執拗とも言える誘いも全部断っている。
「年末年始でゆっくり一人で考える」と言って。帰省したところで進路の話になるのは目に見えているし、頻りに公務員を勧める親と折り合いがつくとは思えない。
一方的に押されるか衝突するか、どちらにせよ居心地が悪くなるだけだ。
それならこの町に居て、晶子と、場合によってはマスターと潤子さんと話した方が良い。
試しに就職して合わないと思ったら転職、なんて気軽な考えはしていない。
合うか合わないかの判断は直ぐ出来るものじゃないし、キャリアのない状態で早々転職が出来る世相じゃないことくらい分かってる。
だから尚のこと、せめて自分で「これ」と決めた道に進みたい。そうすれば少なくとも後悔はしないだろう。妥協は後悔の元になるからな。
特に見慣れた風景がおぼろげに見えてきた。降りる駅は近い。考え事をしてたら10分なんてあっという間だ。
さて・・・、これから帰って昼飯か。携帯を取り出して時計を見る。11時半を少し過ぎたところか。
少し早い気はするが、今までずれ込むことはあっても早まることはなかったことを考えれば、たまにはこういうのも悪くはないな。
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