雨上がりの午後

Chapter 58 ある穏やかな春の日に−2−

written by Moonstone


 一頻り笑った後、俺と晶子は弁当の残りを食べて片付ける。
暖かくなってきたということは、イコール食べ物が傷み易いということだ。
こんな楽しい場で食中りなんてことになったら、つまらないことこの上ない。現実的な話だがこれは注意するに越したことはない。
 弁当箱が全て空になったところで、晶子が手早く、しかし丁寧に箱の蓋を閉めてバスケットに入れる。
そして水筒からコップを取り外して湯気が仄かに立ち上る茶を注いで俺に差し出す。

「はい、どうぞ。」
「ありがとう。」

 俺はコップを受け取って、少し茶を口に含んでそれ程熱くないことを確認して一気に飲み込む。晶子らしい、程よい加減の熱さだ。
この季節、冷水を飲むにはまだ早いし、かと言って冬場みたいな熱さだと飲み辛い。
晶子はこの辺りをきちんと心得ている。こういうことにまるで疎い俺には、本当に嬉しい気配りだ。
 俺は茶を飲み干したコップを晶子に手渡す。
晶子は茶を新たに注いで口をつけて、俺とは対照的にゆっくりと飲む。
言動も性格も対照的と言って良い俺と晶子だが、こうして順調に仲が続いているのは不思議にも思える。
 変に自分を飾ったりしないし、そうしないといけない雰囲気でもないのもあるだろう。
俺も晶子もやれ買い物だのやれ旅行だのと言わないタイプだというのもあるだろう。
でも、こうして仲が順調に続いているのは、やっぱり俺が仲を深めようとしないところにあるんだろう。
 俺自身一応健全な(?)男だ。晶子との仲を深めたいと思わないということはない。
だが、無理に進めようとして晶子に嫌われるのだけはまっぴら御免だ。自然に、お互いの理解と了承の元で進めていくのが一番良いだろう。
互いに一度は恋愛で傷を負った身だから、暗黙の了解でこういう仲の続け方が出来るのかもしれない。
そういう意味では、失恋も一度は経験しておくべきことなんだろうな。

「祐司さん。2年から実験が始まるんですか?」

 コップから口を離して晶子が尋ねる。
中身までははっきり覚えてないが・・・1年の最初のオリエンテーションでカリキュラム一覧を配られた。
その記憶を手繰り寄せると・・・確かあったな。物理と化学の実験が。

「ああ。確か物理と化学の実験があったと思う。うろ覚えだけどな。」
「実験で帰りが遅くなると、バイトも休まなきゃならないんじゃ・・・。」

 晶子の表情が少し沈む。
今まではバイトのある日は勿論、休みの日でもこうして何らかの形で顔を合わせているが、実験が入ってくるとそうもいかなくなってくるかもしれない。
だけど、可能な限り顔を合わせる時間を作りたい。実験や忙しさを理由にしたくない。

「まあ、バイトに行く時間が遅くなるかもしれないけど、行くようにはするつもりだよ。レポートはバイトが終ってからとか
週末の昼間とかに片付けるようにすれば良いと思うし。」
「そうですか・・・。でも、無理はしないで下さいね。」

 晶子の表情が再び晴れてくる。晶子に沈んだ表情なんて似合わない。第一俺は晶子のそんな表情は見たくない。
そのためにも、俺が学生の本業と生活費の重要な一翼を担うバイトを両立させないといけない。
これは俺に課せられた試練だろう。この試練なら喜んで受けてみせよう。そして必ずやり遂げよう。

「私が何か力になれれば良いんですけどね・・・。」
「これは俺の問題だから、俺が処理すべきことだよ。そういう学科を選んだ宿命みたいなもんだし、学生の本業なんだからやり遂げないとな。」
「私、祐司さんのそういう真面目なところが大好きです。」

 面と向かってそう言われるとかなり照れる。俺は内側から体が熱くなってくるのを感じて、思わず晶子から視線を逸らして正面を向いてしまう。

「どうしたんですか?」
「て、照れるじゃないか。面と向かって大好き、だなんて言われると・・・。」
「だって、好きなものは好きなんですもの。自分の気持ちには常に正直でいたいです。」
「そ、そうか・・・。俺も・・・」

 俺は晶子の方に向き直って、思い切って自分の気持ちをぶつけてみる。

「俺も、いつも朗らかで俺を気遣ってくれる晶子が大好きだよ。」
「ゆ、祐司さん・・・。」

 晶子は驚きで顔を強張らせた後、頬をじわじわと紅潮させて俯く。
俺も自分で言っておいて何だが照れくさくなって視線を落す。
互いに好きだって面と向かって言い合うなんて、もしかしたら、否、多分今日が初めてじゃないだろうか?そう思うと尚更照れくさい。
過去の「経験」はこういうときにはあまり役に立たないようだ。
 まあ、「経験」でも好きだと言い合うときは人目を避けるように言っていたから、あまり「経験」になってないのも事実なんだが・・・。
困ったな。どうやって話を切り出そう?俺は可能な限り頭をフル稼働させて今後の展開をシミュレーションしてみる。
あくまでも自然に、そして照れくささを払拭できるような方法は・・・思いつかない。情けない話だが、恋愛事に関しては素人同然の俺ではこの程度が関の山だ。

「・・・私、凄く嬉しい・・・。」

 あれこれ考えが浮かび、そして消えていく中、晶子が辛うじて聞こえるような少し上ずった声で、しかし俯いたままで言う。

「面と向かって好きだって言われて・・・私、凄く嬉しいです。」
「お、俺も・・・その・・・自分の気持ちをはっきりさせておきたかったから。」
「私と祐司さんの気持ちは同じなんですね。」
「あ、当たり前だろ。俺と晶子はこうして付き合ってるんだから・・・。」

 照れくささを隠そうとしてついぶっきらぼうな言い方になってしまう。言ってからしまった、と思って慌てて言葉を継ぎ足す。

「ご、御免。言い方に刺があったみたいで・・・。付き合ってるからってお互いに好きだとは限らないんだよな。上っ面だけの付き合いってこともあるし・・・。
俺はそういう意味で言ったんじゃなくて・・・。」
「祐司さんが言いたいことはちゃんと分かったつもりですよ。」

 晶子の声が何時もの快活で労わるような声に戻る。俺は内心安堵しながら晶子の方に再び向き直る。

「私と祐司さんがこうして付き合っているのは、気持ちが向き合っているから。そうでしょ?」
「ああ。」
「気持ちが向き合ってなかったら付き合えませんよね。譬え出来たとしてもそれは、偽りの仮面を被った付き合い。
そこにはどちらかに何らかの打算や策略がある・・・。」
「・・・。」
「祐司さんと優子さんの遠距離恋愛がそうだったとは言い切れません。当人でない私には推測しか出来ませんから。
でも、初詣に行く時に出会った時の優子さんの言動と祐司さんの話を見聞きした限りでは、優子さんの側に何か考えがあったからとしか思えないんです。」
「晶子もそう思うか・・・。まあ、今となっちゃどうでも良いことだけど。」
「吹っ切れたんですか?」
「今更よりを戻す筈もないし、良い思い出だけ残しておきたいしな。これ以上宮城に関わってると、良い思い出まで無茶苦茶になっちまうような気がするんだ。」
「・・・。」
「思い出にしがみついて、必死に抱え込んで生きていくつもりはないけど、たまには、ああ、こんなこともあったな、って思い出して
ひと時の感慨に浸る余地は残しておきたいんだ。・・・晶子からすると、ずるいって思われるかも知れないけどな。」

 ちょっと自嘲気味に言うと、晶子は柔らかい笑みを浮かべながら首を横に振る。

「思い出を大切にしたいのは私だってそうですし、誰だって同じですよ。」
「晶子・・・。」
「私だって過去の思い出を抱えてますし、良かったところだけ都合良く、こんな時もあったな、って思い返すときもありますよ。
私も祐司さんも20年くらい生きてきたんですから、思い出せる思い出がない方が不思議ですよ。」
「・・・晶子は、俺が宮城との思い出に浸ってても、焼餅妬かないのか?」
「それは・・・ちょっとは妬けますけど、形のない思い出に妬いてもかないませんよ。
それより、私と付き合っていくことで新しい思い出をいっぱい作って、思い出に浸る余地がないくらいにしてやるんだ、っていう気持ちの方が強いですね。」
「・・・俺は結構悔しいけどな。晶子が昔の彼氏との思い出に浸っていると思うとさ・・・。」
「それは無理ないことですよ。」
「でも、晶子の言うとおりなんだよな。形のない思い出の登場人物に妬いてもどうにもならない。それより思い出に浸る余地がないくらい、
晶子との思い出を作っていく方がずっと前向きだよな。」
「ええ。」
「ちょっと俺は頼りないかもしれないけどさ・・・折角出来た絆なんだから、大切に育んで行こうな。」
「祐司さんは頼りなくなくなんてないですよ。もっと自信を持ってくださいよ。」

 晶子は俺の左肩に添えるように手を置く。

「祐司さんは私の大切な人であって、同時に音楽の先生でもあるんですから。先生が自信持ってなかったら、生徒が不安になるじゃないですか。」
「・・・そうだよな。」

 俺は左肩に乗っている晶子の手に自分の手を重ねる。そして笑みを浮かべてみせる。晶子を安心させたい。ただそれだけの思いだ。

「俺がしっかりしなきゃな・・・。」
「そうですよ。」

 晶子は柔和な微笑みを浮かべる。春麗かなこの日にふさわしいことこの上ない、温かくて優しくて・・・安心できる微笑みだ。
この微笑みが続くように、それこそ俺がしっかりしないと・・・。

「俺は・・・絶対晶子を離さないからな。」
「祐司さん・・・。」
「それくらいの気構えでやっていかないと、これから先待っているかもしれない困難に勝てない。晶子と一緒に居られなくなってしまう。
それだけは絶対に嫌だ。だから・・・俺は晶子が安心して頼れるような存在になるように努力する。」
「・・・私は祐司さんに一方的に依存はしたくありません。お互いに支えあっていけるような関係になりたいです。」
「・・・晶子。」
「そうじゃないと・・・祐司さんの負担になるばかりでしょ?私、それが嫌なんです。自分が好きな人の重荷になることが・・・。」

 晶子の言うことに矛盾を感じる。音楽の先生として自信を持って欲しいと言う一方で、互いに支え合える関係になりたいと言う。
頼りになる先生で居て欲しいのか、互いに支え合うパートナーで居たいのか・・・よく分からない。
 これが女ならではの矛盾の両立というやつだろうか?
男に頼りたいと思う一方で、男とはパートナーでありたいと思う気持ち・・・。
宮城にもそんなところがあった。俺は頼れる存在とパートナーの二律相反をこなさなきゃいけないんだろうか?

「晶子は・・・俺にどう居て欲しいんだ?」
「え?」
「俺に頼れる先生で居て欲しいのか、俺に互いに支え合うパートナーで居て欲しいのか、どっちなんだ?」

 俺の問いに晶子からの即答はない。俺から顔を逸らしはしないが、視線は忙しなく彼方此方を彷徨っている。
自分の言ってることの矛盾に気付いてどう答えて良いか分からないのか、それとも気付いたからこそ言えないのか・・・。
俺はそれに追い討ちをかけることなく、ただじっと晶子の答えを待つ。

 草木が何度ざわめいたか分からない。
晶子の大きな瞳に俺の顔が移されてその位置で固定される。晶子の中で答えが定まったんだろう。
俺は固唾を飲んで晶子の答えを受け止める準備を整える。さあ、どっちなんだ?晶子・・・。

「私は・・・両方で居て欲しい。」
「?!」
「音楽を教えてもらう時は頼れる先生で、それ以外の時はパートナーで居て欲しい・・・。勝手だって思うでしょうけど、
私は祐司さんにそういう存在で居て欲しいんです。」

 つまりはその場その時に応じた対応が出来る存在であって欲しいということか?
晶子が言うとおり、確かに勝手な物言いだとは思う。だが、そう思う一方で晶子の言うことは分からなくもない。
まだ晶子は音楽に確固たる自信が持てないで居るんだろう。一方で生活面では俺を充分フォローできる自信があるんだろう。
実際何度も俺は証明されてるしな。だからそんな答えになるんだろう。
そう推測すると晶子の答えにも腹は立たない。それよりそんな存在になりたいと思う自分が居る。

「晶子の言いたいことは・・・俺の頭でも理解できるつもりだよ。」
「・・・勝手ですよね。自分で言っておいて何ですけど。」
「ちょっとな。でも、晶子にそう思われる存在になりたいとは思う。俺は・・・晶子が好きだから。」
「私も・・・。」

 晶子が俺の左肩に額をくっ付けてくる。茶色がかった長い髪が春の日差しを受けて煌きながらふわりと浮き上がって、再び晶子の背中に舞い降りる。

「私も・・・祐司さんが好きだから・・・絶対離しませんからね・・・。」

 晶子は自分に言い聞かせるように、呟くように言う。
何だか自分にそうなるように魔法をかけようと呪文を唱えてるようにも聞こえる。

「譬え祐司さんが離れたいって言っても、絶対離さないんだから・・・。」
「・・・晶子。」
「もう決めちゃったから・・・絶対、絶対離さないんですからね・・・。」

 顔を上げた晶子を見て、俺は思わず息を飲む。
瞳は潤みを通り越して感情の潮が溢れそうで、形の良い、きゅっと結ばれた唇が微かに震えている。

「何で・・・そんな悲しそうな顔するんだよ。」
「うっかり・・・昔の辛い思い出が飛び出してきたから・・・もう二度とあんな思いはしたくない。そう思いながら弱くなりそうな自分に言い聞かせていたんです・・・。
絶対今の幸せを、祐司さんを離さないんだ、って・・・。」

 そうか・・・。晶子も俺と同じような、もしかしたら俺より辛い思いをして、それをどうにか乗り越えて今を生きて、俺と付き合ってるんだ。
また辛い思いをしなきゃならないかもしれない、っていう恐怖と背中合わせで・・・。
だからあんな呪文みたいな口調になったのか。
俺は出来るだけ優しく話し掛ける。どうも油断すると荒っぽい口調になりがちだからな・・・。

「気弱になりがちなのも無理ないさ。何てったって俺と晶子は結婚したいとまで思ってた相手に捨てられて、また同じ思いをするかもしれない、って
心の何処かで思いながら、こうして付き合ってるんだからさ。でも、そんな脅しみたいな記憶に負けないように付き合っていこう。俺もそうしたいし。」
「祐司さん・・・。」

 晶子は再び俺の左肩に凭れてくる。今度は泣き伏すように額を当てるんじゃなくて、横になるように右の頬を俺と晶子の手が重なった左肩に乗せる。
その顔にはもう見ているのが痛々しいような表情はない。安心しきったような笑みが浮かんでいる。晶子は本当に表情がくるくるとよく変わる。
それだけに心の様子が分かり易い。
 俺と晶子はそのまま暫く会話もないまま春風に身体を晒す。
まだ微かに冬の冷気の残像を帯びた微風も、暖かい春の日差しがその残像を弱める。そんな穏やかな春の日に、俺と晶子は居る・・・。
会話がなくても構わない。ただ相手が傍に居るだけで安心できる。
こんな関係がずっと続けば、否、この関係をずっと続けたい。
俺が今願うのはそれだけだ・・・。

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