雨上がりの午後

Chapter 50 年を跨ぐ二人の想い

written by Moonstone


 もう「今年」が「昨年」に、「来年」が「今年」に変わるまで1時間ほどしかない。
良好な雰囲気で年越し蕎麦を食べ終わり、晶子が洗い物を終えて戻ってくる。二人密着した状態でテレビの音声を少し上げて見る。
番組は生中継の歌番組とカウントダウンをごっちゃにしたものだ。
その番組では、俺がよく聞く系統のミュージシャンは勿論居ないから−歌はないし、所謂Jポップよりはマイナーだしな−、
俺が耳を傾ける曲を演奏するミュージシャンは今のところゼロだ。耳を傾けたくなる曲となると、あるかないかということ以前の問題だ。
 そんなJポップに対する俺の認識の中で、例外的な存在になった倉木麻衣は出るんだろうか?
晶子の新しいレパートリーにほぼ内定した「Stand up」あたりを生で歌ってくれると嬉しいんだが。
そう思っていると横に居る晶子が俺の左腕を突付いて尋ねる。

「倉木麻衣さん、どうなんでしょう?」
「何とも言えないな・・・。最初から見てたら出演者の全容が分かったかもしれないけど・・・。まあ、これを最後まで見てれば嫌でも分かるし、
新年を二人で見れればそれで良いんじゃないか?」

 俺が某有名ユニットの演奏を聞き流しながら言うと、俺の左肩にコツンと何かが軽く当たる。左を見ると、晶子が頭を俺の左肩に乗せている。
これくらいなら多少心拍数が上がるくらいで対応できる。

「そう・・・ですよね。二人で一緒に新しい年を迎えられれば、それで良いんですよね・・・。」
「・・・ああ。」
「こうしてると凄く安心できます・・・。」
「そうか?」
「ええ・・・。」

 俺はそれまでテーブルの上にあった左腕を徐に晶子の左肩に回す。今度は肩の上じゃなくて横、言い換えれば腕の付け根だ。
これだと「肩に手を置く」じゃなくて「肩を抱く」という感じだ。
それに呼応するかのように、晶子がより身体を密着させてくる。
仮に人間の体が土や泥で出来ていたら−旧約聖書みたいだな−、一体化していてもおかしくないくらいだ。
 この家は新興住宅地の中にあるから、どれだけ耳を澄ましても除夜の鐘の音は聞こえない。
音量を少し上げたテレビの音声以外、何時もならこんな時間に走る必要はないだろうと思うこと頻りの車の走行音も、
若者の集団らしい近所迷惑な大声も聞こえない。
新しい年になったら一気にそれらが街中に溢れ返るとは思えないが、本当に静かな夜だ。
 テレビ画面の左隅に表示された大型ディジタル時計は−司会者の一人が傍に立っているからその大きさが分かる−、
もうこの今年があと30分に満たない時間で過去になることを示している。
 此処までの間、晶子との間に会話らしい会話はしていない。
でも、こうして晶子の肩を抱いて一緒に居るだけで、時間は早く流れていく。それはこの時間が楽しいとか嬉しいとか、そういう時間だからだろう。
ちなみに大学の講義、特に専門教科は時間が過ぎていくのがやたらと遅い。
 過ぎ行く時間・・・色々なことがあった今年ももう残り僅かだ。
俺は間もなく訪れる新しい年に20歳になる。晶子に追いつくわけだ。
・・・そう言えば、互いの誕生日はまだ言い合ってないな・・・。折角の機会だから知り合っておくかな。

「なあ、晶子。」
「何ですか?」
「誕生日って・・・何月何日?俺は9月6日だけど。」
「私は5月2日ですよ。」
「へえ。じゃあ4ヶ月くらい、俺と晶子の年が2つ違う時があるのか。」
「そうなりますね。そう言えば、長いお付き合いなのに、今まで誕生日のことは一度も話題にならなかったですね。」
「長いお付き合いって・・・正式に付き合い始めてからまだ一月も経ってないぞ。」
「良いんですよ。こういう場合は。」
「おいおい、良いのかよ・・・。」
「良いんですっ。」

 押し切られてしまった・・・。
まあ、中学や高校なら兎も角、大学じゃ浪人や留年で同じ科の人間が全て同じ年度の年齢とは限らないし、そのほうがむしろ珍しいくらいだからな。
現に俺も実際こうして一つ年上で学年は同じの晶子と付き合ってるわけだし・・・。

・・・ん?

ちょっと待てよ・・・。
俺は現役で且つ飛び級なしで今の大学に入ったから、大学1年で19歳。これはこれで不具合はない。
だけど晶子は誕生日が5月2日で今20歳。だったら・・・晶子は来年の−もう間もなく「今年」になるが−成人式出席者に該当するんじゃないか?
・・・そうだ。間違いない。

「晶子って・・・今20歳だよな?」
「そうですよ。」
「で、誕生日は5月2日・・・。だったら今度の成人式の出席者に該当するんじゃないか?なのに実家に帰らなくて良かったのか?」

 晶子からの返答はない。見ると、俺の左肩に凭れている晶子は視線を下に落して押し黙っている。
答えたくないのか?だとしたら・・・どうして?

「晶子・・・。」
「・・・祐司さん。お願いですから・・・そのことについては聞かないで下さい・・・。」

 呟きにも似た晶子の声には全く普段の張りがない。その表情は長い髪に隠れて見えないが、どうやら訳ありらしい。
それも、俺が優子とのことについて触れられた時と同じ、或いはそれ以上に思い出したくないことがあるらしい。

「・・・分かった。もうこのことについては聞かない。」
「・・・御免なさい・・・。」
「晶子が謝る必要なんてないさ。誰だって一つや二つ、聞かれたくないことはあるしな・・・。かく言う俺だって、あんまり優子とのことは聞かれたくないし・・・。
悪かったな。妙なこと聞いたりして。」

 晶子は俺の左肩に凭れて視線を下に落したまま首を横に振る。その動作にもやっぱり普段のきびきびした様子は見えない。
相当なことがあったんだと推測するしかない。
まさかこんなことになるとは思わなかったが、幾ら彼氏彼女の関係といっても無闇に相手の心の暗部に踏み込むべきじゃない。
本当に悪いことをしたと今更ながらそう思う。それに・・・知らなきゃ良かった、と後悔して、挙句、俺と晶子との間に皹(ひび)が入るようなことになったら、
それこそ・・・最悪だ。

「祐司さんって・・・優しいんですね。」

 気まずい雰囲気が漂う中、晶子がぽつりと漏らす。

「そんなことないよ。まさかそうなるとは思わなかったと言っても、晶子に嫌な思いをさせてしまったくらいだし・・・。」
「それは祐司さんが知らなかったから仕方ないです・・・。それよりも、私を労わってくれたことが凄く嬉しい・・・。」
「こんなこと言うのも何だけどさ・・・、俺と晶子は互いに心に傷を抱えてる身なんだよな。何か嫌なこととかあったらずっと自分の心の奥深くに
封印しておくのもひとつだし、言った方が気が楽になるようだったら相手に言える。そういう関係になれると良いな。」

 慰めるつもりで俺がそう言うと、突然晶子が俺の肩から離れて俺の両肩をがっしりと掴んで唇を唇で塞ぐ。
突然のことに俺は目を大きく見開く。視界いっぱいに映る晶子の閉じた両目からは涙が流れている。

「・・・む・・・むさこ・・・ちょ・・・ちょっと・・・!むぐっ!」

 少し開いていた俺の口に柔らかいものが押し入ってくる。・・・舌だ!
俺は抵抗する術もなく、晶子の舌を受け入れる。
晶子の首が少し傾き、さらに晶子の舌が俺の口の奥深くに進入してくる。そして俺の舌に絡み付けてくる。
]突然のことに混乱したか、或いは興奮からか、何だかもうどうでも良くなった俺は目を閉じて、晶子と舌を絡ませ、互いの口の中に舌を行き来させる。

・・・。

 ・・・俺と晶子の間にようやく距離が出来る。距離と言っても5cmあるかないかというところだが。
俺と晶子の口の間には、電灯で照らされて彼方此方で煌く粘性のある橋が架かっている。
俺は晶子の頬に出来ている涙の筋を指先で軽く拭ってやる。晶子の涙は・・・見たくない。

「・・・付き合い始めて1週間経つか経たないかで、さっきみたいなキスは・・・ちょっと・・・刺激が強すぎたかな・・・?」
「好きだって意思表示をするのに時期なんて関係ないでしょ?私は・・・祐司さんに大好きだって言う代わりにキスしたんです。それに・・・」
「それに?」
「祐司さんも最初のうちは戸惑ってたみたいですけど、結構積極的だったじゃないですか。」
「う・・・。」

 さっきまでの悲しげな表情から一転して、悪戯っぽく笑って言う晶子に俺は全く反論できない。
確かに最初のうちは何の前触れもなしに唇をくっ付けられて、さらに舌が俺の口を割って入って来たから戸惑っていたが、
結局は自分からも舌を絡めて、晶子の口の中に遠慮なく舌を出し入れしたしな・・・。
 晶子は軽く俺にキスして煌く橋を落すと、俺の正面にあった身体を俺の横に戻して、そして再び俺の左肩に頭を乗せる。
まるでさっきのことが一瞬の夢、或いは妄想だったように感じる。
 テレビの時刻表示を見ると、年が代わるまであと3分もない。
晶子とかなり長い間、少なくとも10分くらいはディープキスを交わしていたらしい。時間を早めたんじゃないかとさえ思う。
テレビでは出演者が−倉木麻衣の姿はない−シャンパンの入ったグラスを受け取っている。・・・そういえば・・・。

「なあ晶子。ビール飲めるか?」
「ええ。それなりには。」
「よし、それじゃちょっと席外すから。」

 晶子が俺の肩から頭を退けた後、俺は冷蔵庫を開けて中に置いてあった缶ビールを2つ持って自分の席に戻る。
曲のアレンジを考えていて煮詰まった時に、気分転換と高揚を兼ねて缶ビールを1本飲むことが多いから、5本くらいは常備している。
缶ビール1本で頭がふわっとした感じになって、煮詰まっていた問題が一気に解決したり、さらにはアレンジが一気に終ってしまったりもする時がある。
 酒はある意味、合法ドラッグと言えるかもしれない。実際、気分が高揚したり、飲みすぎると依存症になったりするのはドラッグと同じだ。
気分がふわっと楽になるのは良いとしても依存症になったら洒落にならないから、飲むなら1日1本と決めている。・・・あの夜は例外中の例外だ。

「あ、テレビの真似してビールで乾杯するんですね?」
「そうそう。たまには良いだろ。」
「私を酔わせてどうするつもりなんですか?」
「お、おい。俺は別にそんなつもりで・・・」
「冗談ですよ。」
「・・・あ、あのなぁ・・・。」

 まったく、泣いたと思えばにこやかに笑うし、妖しく迫ったりもするし・・・。
でも、こういう表情の豊かなところが晶子の魅力の一つなんだよな。俺は苦笑いするしかない。

「テレビの表示が10秒切ったら開けよう。」
「それで0:00丁度で乾杯、ですね。」
「そういうこと。」

 そんな会話を交わしているうちに、テレビ画面に表示されている巨大なディジタル時計は23:59を回った。
もう今年の残り時間は秒単位になってしまった。本当に時が過ぎるのは早い。晶子と一緒に居る時は尚更だ。
 俺と晶子は缶ビールのプルトップに手をかけて、ディジタル時計の値に注目する。
1秒毎に増えていく値がいよいよ50に差し掛かる。そして50になった瞬間、俺と晶子はほぼ同時にプルトップを開ける。
プシュッという空気が抜けるような音がして、少しの泡が出来た穴からはみ出て来る。

「「「10、9、8、7、6・・・」」」

 テレビで始まったカウントダウンに合わせて、俺と晶子も揃ってカウントダウンを始める。新しい年はもうそこまで迫っている。

「「「5、4、3、2、1、0!」」」

 ディジタル時計が0:00を示した瞬間、テレビから歓声とも絶叫ともつかない声が溢れ出し、ステージ上の出演者がグラスを掲げて、
続いて周囲とグラスを合わせる。俺と晶子は向き合って缶ビールを合わせる。

「「おめでとーっ!」」

 満面の笑顔で缶ビールを合わせた後、よく冷えた缶ビールを口に運んでぐいと傾ける。
泡を含んだほろ苦い液体が喉を冷やしながら腹に入る。
・・・美味い。よく飲んでいるビールがこんなに美味く感じた時はない。
 缶ビールをひと飲みした俺は、テーブルに一旦缶ビールを置く。
同じく缶ビールをテーブルに置いている晶子の頬は、ほんの少し赤みを帯びている。酔いが顔に出やすいタイプなんだな。

「今年もよろしくな。」
「こちらこそ、宜しくお願いしますね。」

 年始の挨拶を交わした俺と晶子は、テレビを見ながら缶ビールを飲む。
少しして俺から話を切り出す。考えてみると、結構珍しいことかもしれない。

「初詣に行ける場所って知ってるか?」
「徒歩や自転車で行ける範囲では、私は知らないです。」
「うーん・・・。此処は新興住宅地みたいだからな。ちょっと遠出しなきゃ無理か。」
「電車で行ける範囲だと、確か・・・南の方に大きな神社があったと思うんですけど・・・。」
「・・・俺の地元から電車で少し行った所に結構大きい神社があるんだけどな・・・。此処からだと電車乗り継いで2時間半くらいはかかる。」
「そこでも良いんじゃないですか?」
「・・・地元だからなぁ・・・。中学や高校の時の連れに顔を会わす可能性があるから、特に高校の時の連れや顔見知りの奴に
晶子と一緒に居るところを見られたら、鬱陶しいことになるな・・・。」

 嫌な予想が俺の頭を過ぎる。それを思うと益々地元に足を向けるのが嫌に思えて仕方がない。

「鬱陶しいこと・・・?」
「会えば絶対、何で優子、否、宮城と別れたんだ、って聞かれるに決まってる。そんなこと説明したくないし、俺が無視したところで
追求が止まるとはとても思えない。それに・・・もし宮城と鉢合わせになったら・・・最悪だ。」
「それじゃ、そっちの方は避けたほうが良いですね。新年早々嫌なことに出くわすなんて、誰だって避けたいことですから。」
「・・・悪いな。場所そのものは良い所なんだけど・・・。」
「誰だって聞かれたくないことはある、って祐司さん自身が少し前、あ、もう去年ですけど、そのときに言ったことじゃないですか。
全然気にしなくて良いんですよ。」

 そうか、確かにカウントダウンの前にそんなやり取りがあったな・・・。カウントダウンに夢中ですっかり忘れてた。
でも、譬えそういうことがあったといっても、実際に自分が労わる立場になったら必ず出来るというわけじゃない。晶子の労わりが心に染みる。
晶子も俺が帰省しなかった理由を追求しなかった時にもこんな風に感じたんだろうか?

「まあ、こういう時は駅に行けば何か案内があるだろうから、駅に行ってみるか。出掛けるのは・・・何時にする?」
「早く行っても意外に人は多いですからね。昼過ぎにゆっくり出掛けるのも一案だと思いますよ。」
「それもそうだな。じゃあ、暫く缶ビールでも飲みながらゆっくり過ごして、眠くなったら素直に寝て、行ける時になったら出掛けるか。
・・・何だか凄い過ごし方だけど。」
「良いんじゃないですか?たまにはそういう時間に縛られない生活も。」
「そうだな。普段は何かと時間がないとかギャーギャー言ってるし・・・。」

 幾ら大学生といっても、時間が自由に使えるのは一日の半分あれば良い方だ。
俺や晶子みたいにバイトしているなら尚更、思い通りに使える時間が減る。
今は時間があるからこそ、贅沢な使い方をしても良いだろう。

「あ、そうだ。祐司さん。実家に新年の挨拶の電話かけたらどうですか?」
「・・・すっかり忘れてた。じゃあ、ちょっと良いか?」
「ええ。どうぞ。」

 俺がテレビの音量を絞ろうとリモコンに手を伸ばそうとした時、晶子がテレビの音声をミュートしてくれる。
リモコンの方に伸ばしかけた手をテーブルの隅にある電話機に伸ばす。
そう言えば自分から実家に電話かけるなんて何時以来だろう?・・・少なくとも思い出せないほど前のことらしい。
 俺は市外局番から実家の電話番号を押して右耳に当てる。
以前、市外局番を忘れてダイアルするのを2回連続でやってしまって、相手先に注意されたのを思い出す。
コール音が続くが一向に出ない。
5、6回コールしたところで、ガチャッと音がしてようやく出たか、と思ったら、留守番電話のメッセージが耳に入ってくる。
・・・やっぱり出掛けてたか。メッセージが終ってピーッという電子音が鳴った後で、ちょっと緊張しながら「新年のご挨拶」を話す。

「えーっと、祐司です。あけましておめでとうございます。早々に例の神社へ初詣に出掛けましたな?
こっちは元気でやってるんで安心してくださいませ。それじゃ・・・。」

 留守番電話だと親相手でも丁寧な言葉遣いになってしまうのは不思議だ。
受話器を置いて小さく溜息を吐く。横からくすくすと笑う声が聞こえる。

「な、何だよ・・・。」
「いえ、緊張してる祐司さんが端から見てて面白くて・・・。」
「うー、俺、電話苦手なんだよ。ほら、前に晶子に留守番してもらってた時とか、あれ何時だっけ・・・、あ、そうそう、
初めて晶子の家で練習した日にこれから行くって電話した時とか、滅茶苦茶緊張したんだぞ。」
「でも、留守番電話を相手に話す時って、意外と緊張しますよね。私も高校の時に友達の家の留守番電話でかなり緊張したんですよ。」
「何だ。晶子だってそんなに俺のこと言えないじゃないか。」
「うーん・・・。言われてみれば確かにそうですね。」
「あ、あのなぁ・・・。」

 何と言えば良いやら・・・。あっさりと俺と同じ自分の「弱点」を認めた晶子に、俺は次の言葉が見当たらない。
苦笑いを隠すようにビールを少し多めに飲む。
缶ビールをテーブルにおいて、ふと思ったことを口にする。

「・・・晶子の方は良いのか?実家に電話しなくて。」
「え、私ですか・・・。私の家に帰ってからで良いです。」
「俺は男だしあんまり実家と電話してないから、新年の挨拶くらいは、と思って電話したけど、晶子は女だしそれに一人暮らしなんだから、
新年の挨拶の電話した方が良いんじゃないか?」
「私の実家、此処から相当距離があるんですよ。だから祐司さんの電話を使うのは迷惑だと思って・・・。」
「良いよ、別に。挨拶と近況報告なら数百円くらいで済むだろうし、そのくらいの電話料金が増えても構いやしないよ。」
「・・・やっぱり私の家に帰ってからにします。」

 数百円のことなら別に気遣わなくても良いのに・・・。まあ、俺とて強要する気は毛頭ないし、強引に勧めてちょっと前みたいに泣かれでもしたら、
それこそ困る。この場は俺が引くのが賢明だろう。

「じゃあ、そうしなよ。俺も無理強いするつもりはないし。」
「・・・御免なさい。折角の好意を反故にして・・・。」
「謝らなくても良いって。ほらほら、折角二人一緒に新年を迎えたんだから楽しくやろう。な?」
「そうですね。」

 沈んでいた晶子の顔にようやく笑顔が戻る。俺は胸を撫で下ろして、缶ビールをぐいっと一気に呷る。
やっぱり新しい年の始まりには笑顔や陽気さがよく似合う。
どうも音がしないと思ったら、テレビの音声がミュートされたままだった。俺はリモコンのボタンを押して音声を復活させる。

「では、新年最初を飾るに相応しいナンバーをお送りいただきましょう!会場と中継が繋がっております!倉木麻衣さーん!」
「はい!あけましておめでとうございます!」

 テレビから聞き覚えのある名前が聞こえてきて、俺と晶子はテレビ画面に向き直る。
画面には大勢のファンからの声援を受けながら笑顔で手を振っている彼女、倉木麻衣が映っている。
 テレビの番組とは別の会場でコンサートをしていて、多分カウントダウンもやったんだろう。
そして、俺と晶子が見ている番組で新年最初の曲を歌うという。
普段あまりテレビを見ない俺だが、たまたまこの年を跨ぐ番組で彼女を、それも歌うところを見れるというのは幸運という他ない。

「倉木麻衣さん、年越しコンサートやってたんですね。」
「歌うところがテレビ放映されるのって、これが初めてなんじゃないか?」
「そうかもしれませんね。マスメディアに殆ど顔を出さない人ですから。」

 となると期待は益々膨らむ。CDで歌声だけ聞くのと歌っているところを見ながら歌声を聞くのとでは全然違う。コンサート会場ならさらに違うだろう。
出来れば一度、彼女のコンサートを聞きに行きたい。勿論、晶子と一緒に・・・。

「それでは歌っていただきましょう!曲は勿論『Stand up』!」

 興奮気味の司会者の紹介を受けて、ステージの照明が絞られた中でギターのストロークとハイハットがリズムを刻む。
8小節分続いた後ドラムが入って、倉木麻衣が歌い始めると同時に、明るい照明がステージを照らす。
カメラが歌う倉木麻衣を正面から少しずつアップにしていく。そして総立ちで曲に合わせて手拍子をする満員の観客席を映す。
 会場の盛り上がりぶりに触発されたのか、晶子が身体でリズムを取りながら歌詞を口ずさんでいる。
新しいレパートリーにほぼ内定しているだけに、歌う感触を身体で感じ取っているようだ。
かく言う俺も無意識に身体でリズムを取っていることに気付く。
 CDのブックレットの写真からは、ちょっとクールで大人っぽいイメージを受ける彼女だが、こうして軽快なリズムの曲を歌っている姿は元気いっぱいで、
如何にも若手シンガーというイメージだ。
こういうイメージのギャップを見ると、どちらが本当の彼女、倉木麻衣なんだろうと思ったりもする。
 最後の「Stand up!」を観客と一緒に歌って演奏は終る。と同時に大きな歓声が会場に噴出す。
新年最初に相応しい盛り上がりを生んだ「Stand up」を歌った倉木麻衣は観客に向かって深々と一礼した後、笑顔で手を振りながら歓声に応える。

「やっぱり凄いですね。あんなに大勢のお客さんの前で普段以上に歌えるなんて・・・。」
「だからプロなんじゃないか?俺も高校の時に3回の学祭でバンド演奏したけど、学校関係者と外来の客を合わせてせいぜい1000人くらいでも相当緊張して、
ステージに出るまで足がガクガク笑ってどうしようもなかったな。」
「でもステージ演奏はそれだけじゃなかったんですよね?」
「ああ。でも学祭以外のライブは学校の体育館とか音楽室で、客も100人や200人、それに顔見知りも多かったから、
大ステージの緊張克服には繋がらなかったと思う。疲れ方も全然違ったしな。」
「疲れ方?」
「ライブの時は、終ってから直ぐに次はここをこうしたいとか、次に繋がる課題を列挙して考える余裕があったけど、
大ステージじゃそんなこと考える余裕は全然なかったよ。兎に角無事に終って良かった、としか思えなかった。
そのときの課題を挙げて対策を練るのは学祭が終ってからくらいだったかな。」
「大変だったんですね。」
「まあな。でもこの曲をやろうとか、MC(註:Master of Concertの略。曲間の喋り)はこんな話題にしようとか考えたり、
演奏そのものも一旦始めてしまえば楽しかった。前にも言ったかもしれないけど、やっぱり自分が楽しめないと良い演奏は出来ないからな。」

 妙に饒舌になっている自分。酒が入ったせいだろうか?それとも自分の経験談だからだろうか?元々それ程酒に強い方とは言えないし・・・。

「・・・俺、どうしたいんだろう?」
「え?」
「ギターのプロになりたいっていう気持ちはある。だけど自分の力量が何処まで通用するか分からない。それに色々なプレッシャーに
勝てるかどうか分からない。そこまでしてプロになりたいのか、それも分からない。」
「・・・。」
「このご時世だから、あと2年、否、もしかしたらあと1年くらいで自分の進路を決めないといけないと思う。
その時までに自分の行く道を決められるか・・・分からない。分からないことが多すぎる・・・。」
「・・・無責任な言い方に聞こえるかもしれませんけど・・・、祐司さんの気持ち次第だと思います。」

 晶子が俺の自問に回答する。その言葉の中に叱咤や激励の色はない。

「プロのギタリストを志すのも、企業や官庁に就職するのも、祐司さんに決定権があることですよ。祐司さんの進路に私は勿論、
誰かがアドバイスすることは出来ても咎める権利はない筈です。だから、祐司さんは自分の進路を模索して、
行きたい方向に進んでいけば良いんじゃないかと思うんです。」
「・・・そうだな。」
「祐司さんにとって大切なことなのに、私はそれしか言えません。さっき言ったとおり、私にはアドバイスは出来ても
咎めたり妨げたりすることはできませんから。でも、少しでも祐司さんの気持ちが和らげば・・・嬉しいです。」
「・・・ありがとう。それで充分だよ。」

 俺の弱気を責めることも、気持ちを高揚させようという意思もない晶子のアドバイス。だからこそ余計に気が楽になる。

「いざとなったら、二人の食い扶持(ぶち)ぐらいはどうにかしますよ。今のバイトを続ければ、結構なお金になりますから。」
「二人って・・・。」

 晶子が何食わぬ顔−頬の赤みがさっきより少し増したような気がするが−で言った一言に、俺は苦笑いするしかない。
二人一緒に住むことを分かるように仄めかしているんだから。

「嫌ですか?」
「・・・その時は頼むな。」
「ええ。」

 晶子は微笑みを浮かべて頷く。この微笑が何時までも晶子頼みにならないように、自分が進む道を今から少しずつでも探していこう。
自分の腕を信じるのも由(よし)、無難な道を選択するも由。晶子が言ったとおり、俺の人生は俺が決めるものなんだから・・・。

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