雨上がりの午後

Chapter 27 再び褥を共にするとき

written by Moonstone


 マスターと潤子さんの一方的な追及と、俺の無能代議士みたいなノーコメントと誤魔化しの連発がようやく収束した。
井上は分かったような分からないような様子だったが、俺としては分からなくてほっとしたのと同時に、
分かったらどうなっていただろう、なんて考えたり・・・。ややこしいことこの上ない。
 それぞれ片付けや掃除をしてから、風呂を沸かすという潤子さん以外は全員2階に上がる。
マスターと潤子さんの部屋は井上の部屋の隣だった。俺だけ部屋が少し離れているのは何か意味があるんだろうか?
まあ、大して気にすることでもないか・・・。
 荷物が置きっ放しになっていた部屋はさすがに冷えている。
白熱した音合わせの余韻で体が火照っているとはいえ、このままだと風邪をひきかねない。
事前に暖房は付けっぱなしで良いといわれているので−自宅では考えられないことだ−、俺は迷わずエアコンのスイッチを入れて布団に横になる。
暖かい風が部屋を駆け巡り始めるが、暖かくなるにはもう少し時間がかかりそうだ。
暖まった頃に風呂に入る順番が回ってきそうな気がする。

 風呂に入るといえば・・・他所の風呂に入るなんて数ヶ月ぶりだ。
一人暮らしを始めてから実家には一度も帰ってないし、旅行に出かけたりもしていない。
まあ、殆ど大学とバイトに染まった日々だったから当然なんだが・・・。
 一番最近の記憶は・・・3月の終わりに優子と二人きりの旅行に出たときか・・・。
2泊3日の温泉旅行。勿論互いの親や友人には秘密で−ばれたらどうなるかは考えなくても分かる−二人だけの時間を満喫していたな・・・。
揃いの浴衣を着て露天風呂に行ったり、商店街に買い物に行ったり・・・。
 あの時は・・・終わるなんて考えもしなかった。これから先にあると信じて疑わなかった二人の未来を考えていた。
でもそれは、所詮霧に描かれた幻を追っていただけだったというわけか・・・。

「祐司君、起きてる?」

 ・・・またあの女のことを考えて思考の深みに嵌っていた。
俺は素早く体を起こして立ち上がり、ドアを開ける。

「あ、はい。」
「お風呂の準備できたから、順番が来たら入ってね。」
「順番って・・・?」
「祐司君と晶子ちゃんからよ。私とマスターはその後でゆっくり入るから。」

 何か思わせぶりな台詞だ。もしかして一緒に入っているんじゃないのか?

「今、晶子ちゃんが降りて行ったから、急いで行かないと・・・。」
「な、何でですか?!」
「冗談よ。お風呂から出たら私とマスターの部屋に呼びに来てね。」
「分かりました。・・・声が聞こえたら遠慮しますんで。」
「そうして頂戴ね。」

 逆襲したつもりだったがあっさりと切り替えされてしまった。人生経験の違いが出たようだ。
俺は潤子さんに言われたとおり、井上が呼びに来るまで部屋で待つ。
暇潰しになるものは何も持ってこなかったから、布団に横になって天井をぼんやり眺めるくらいしかすることはない。
普段バイトから帰ると練習やらアレンジやらで音に浸り切っているから、音がない夜というのは記憶にない。
 住宅街の中にあるとはいっても、この店のある場所は交通量の多い通りからは離れているから、車の走行音も殆ど聞こえない。
聞こえる音といえば、意識的に立てる呼吸音くらいの静寂だ。
 天井を見ながら俺はまた考える。本当に「何もしないで居る」なんてことは、余程の人間じゃないと不可能だろう。
ぼうっとしてるっていうのは単に本人以外からそう見えるだけで、本人は何か考えているんだろう。
・・・実際、ぼうっと横になっているだけにしか見えないであろう俺も、こうして考えている。
もしかしたら動物は何も考えていないように見えるだけで、実は常に思考の大海に意識を浸し続けているのかもしれない。

俺は・・・どうしたいんだろう・・・?

後はこのまま風呂に入って寝るだけの筈だ。だが、俺には終われない筈の理由がある。
井上の告白に対する返事をどうするか、ということだ。
コンサート前の音合わせで一つ屋根の下で夜を明かすことになったことは、気持ちをはっきりさせて井上に伝える絶好の機会なんじゃないか?
 井上と二晩一緒に夜を過ごしたことはある。ただ、あの時俺は熱を出して寝込んでたし、井上はその看病のために夜通し居てくれた。
それに自分の中にそんな気持ちがあることに気付いたばかりだった。
今は・・・違う。
部屋は違うがほんの少し・・・10メートルにも満たない廊下の先に、壁数枚と幾つかの空間を隔てた先に・・・井上の部屋がある。
そして、霧でぼやけた向こうにある気持ちが見えることも、勇気を出して霧に手を突っ込めば、その気持ちが何であるか分かるだろう。
これからの展開は・・・俺次第というわけだ。

 実際「好きだ」と一言言ってしまえば済むことだ。それで万事丸く収まるだろう。
井上は喜ぶだろうし、「付き合ってくれ」と添えたら感激するかもしれない。
だが、半ば結果が分かっていて「好き」が強く深くなっていく過程は前にもあったことじゃないか?
それで後であんなことになったら・・・俺はまた同じ思いをしなきゃならない。もうあんな思いは御免の筈だ。
 だが・・・全てが前と同じなのか?・・・否、そうじゃない。あの時は初めて「好きだ」と言われたことに対する感動が先にあった。
今度は・・・最初も、今日までの過程も、井上に対する印象の変化も・・・違う。
全てが前と同じじゃない。ならば・・・結果は違うと考えても良いんじゃないか?

「安藤さん。」

 軽いノックの音の後に井上の声が聞こえて来る。
俺は思考を中断して跳ね起き、ドアを開ける。潤子さんのときと同じだ。

「お風呂、空きましたよ。」
「あ、ありがとう。」

 その短いやり取りの間に俺の視線は井上の全身を動いた。
湯冷めしないようにと羽織ったらしい半纏の下には、前にも目にしたピンクのパジャマがある。
髪を洗ったのか茶色がかった髪がしっとりとしていて輝きを増し、一部が頬や首筋に張り付いている。
ほんのりと赤味が差した肌は頬だけでなく、首筋やV字型の胸元にまで広がっている。
 ひととおり「観察」が終わると、いけないとは思いつつもどうしても胸元に視線が向いてしまう。
少し井上が前屈みになれば、前みたいに胸元の奥が見えるのに・・・って、何考えてるんだ俺は?!

「?どうかしました?」
「い、いや、何でもない・・・。」

 その場で固まっていたみたいだ。俺は井上の胸元に固定されていた視線を逸らして、着替えとタオルといった荷物を取りに行く。
鞄の中をごそごそ弄って荷物を取り出して部屋を出ようとすると、まだ井上がドアの前に立っていた。

「・・・どうしたんだよ。」
「・・・安藤さん。あの・・・。」
「・・・。」
「・・・。」

 息苦しい沈黙が垂れ込める。逸らした視線を時々井上に向けると、井上は俯き加減でやや床の方に視線を泳がせているようだ。
何度目かの繰り返しで視線が合う。と同時に磁石が反発するように視線を逸らしてしまう。
反射的というか無意識というか・・・。視線を合わせたくないんじゃない。合わせる心の準備が・・・未だに出来ていないというべきか・・・。

「・・・湯冷めするから・・・早く部屋に戻った方が良い・・・。」
「・・・そうします。」
「おやすみ・・・.」
「おやすみなさい・・・。」

 ありがちなやり取りを終えると井上はくるっと背を向けて歩いていく。俺は気まずさを感じながら、少し離れてその後に続く。
階段は井上の部屋の近くにあるから、そこまでは井上の背中を見ながら歩いていくしかない。
 階段への分岐点に差し掛かる。井上は振り向かずに俺に少しだけ横顔を見せて部屋に消える。儚げで・・・悲しげな横顔・・・。
ドアが静かに閉まった後も、俺は階段の手前で立ち止まったままドアを見詰める。
さっき井上が何を言いたかったのか、否、俺に何を望んでいたのかは何となく分かる。
・・・違う。立場を変えただけで同じことを考えていたんだと思う。
 ・・・風呂に入ろう。廊下で今更推測を巡らせてももう遅い。
俺は足元に注意しながら階段を下りていく。風呂の熱で気持ちも固まれば良いんだが・・・。
それより前に、俺自身に気持ちを固めようという意思があるかどうかを確かめた方が良いかもしれない。

 風呂に浸かりながらまた思考の網を巡らせる。意識的に自分で立てない限り音がしない程の静寂は思考にはうってつけだ。
思考といっても内容は「俺はどうしたいのか」という命題の回答を探すことだけなんだが・・・。
 どうしたいのか・・・もっと明快な表現をすれば、井上の告白を受け入れるかどうかということだ。
・・・何だか傲慢だな。井上と付き合いたいかどうか、といえば良いだろうか・・・。まあ結局はそういうことだ。
女は俺に害を成すもの、と言わんばかりの強固な先入観という壁が一応消えた今、井上は良い女だと思う。
変な意味じゃなくて・・・良いところを見せようとかいう虚勢を張る必要がない。
元々嫌われようとしていたからかもしれないが、自分でも分かるほどぶっきらぼうな態度でも自分を気遣うなんて、
智一が言ったようにそれこそ今時お目にかかれないタイプだろう。
少なくとも井上と付き合って早々にこんな筈じゃなかった、と思うことはないだろう。
 ・・・だから余計に「それから」がどうなるかが引っかかる。
女に縁遠い俺には数少ない折角の機会だ。このままずっと付き合っていきたい。
だけど、その願いは前に見事に反故にされた。
恐らく最初で最後だと思っていたあの付き合いは、相手の一方的な心変わりで呆気なく切られてしまったんだから・・・。

 そんなことになるくらいなら最初から付き合わないほうが良い。
むざむざ同じ痛い思いを繰り返し経験するために一歩を踏み出す必要はない。
そういう思いが確かに自分の何処かにある。
井上の接近そのものを拒否する気持ちはなくなったが、どうしても過去の経験から新しい一歩を踏み出すことに躊躇してしまう・・・。
 じゃあ、「私はずっとあなたと添い遂げます」なんて念書でも書かせるか?それこそ馬鹿馬鹿しい話だ。
紙切れの約束が絶対のものなら、この世の中もっとましになっている筈だ。
誓いの三々九度の杯を粛々と交わしたカップルでも呆気なく離婚するなんて珍しい話じゃない。
 誓った時の気持ちが色褪せて別の何かに負けてしまわないように続けていけるか・・・俺にはその自信がない。
それが返事を引き延ばしている最大の原因なのかもしれない。

「祐司君。大丈夫?」

 不意に外から声が聞こえる。湯煙で曇ったドアの向こうに人影が見える声からして潤子さんのようだ。

「はい。寝たりしてませんよ。」
「なら良いんだけど・・・祐司君って割と長風呂なのね。」
「そうでもないんですけど・・・。」
「だって、もう30分くらい入ってるわよ。」
「え?!そんなに?」

 自分の感覚では10分くらいかと思っていたが、文字どおりどっぷり浸かっていたわけか。
俺は風呂から上がって出ようとするが、さすがに潤子さんが居るところで出ようという気は起こらない。堂々と出るなんて変質者そのものだ。

「あの・・・今から出ますんで。」
「あ、じゃあ私が居るとまずいわね。晶子ちゃんなら見せておいた方が良いかもしれないけど。」
「潤子さん!」
「上がったら呼びに来てね。」

 また挑発まがいの一撃を食らってしまった。
足音が遠ざかって聞こえなくなったのを確認してドアを開ける。
暖房が効いているとはいえ、脱衣場の空気は熱い湿気を多分に含んだ風呂場よりやはり冷えている。
 俺は手早くタオルで身体を拭うと服を着て、静まり返った階段を駆け上がる。
風呂で蓄えたこの火照りが消えないうちに床に就くのが理想的だ。
 階段を昇り切ったところで直ぐ正面に見えるドアの向こうに井上が居る・・・。
だが、もう寝ているだろう。一抹の後悔と自己嫌悪を感じつつ、俺は向かって右側にあるドアを軽くノックする。

「潤子さん。お風呂空きました。」
「はぁい。ありがとう。」

 潤子さんがドアを開けて顔を出す。

「今日はお疲れ様。明日は起こしてあげるからゆっくり寝てて良いわよ。」
「はい。分かりました。」
「私が起こすより晶子ちゃんに起こして欲しいかしら?」
「ま、またぁ・・・。」
「それじゃ、お休みなさい。」
「お休みなさい。」

 照れとも困惑とも就かない複雑な感情を抱えて、俺は部屋に戻る。
十分暖房が効いた室内は快適だ。だが、布団に潜って体温が行き渡れば暖房は勿体無いので切っておく。
付けっぱなしで良いとは言われているが、日頃の生活で染み付いた貧乏性は終夜電力を消費するようなことをするのは気が引ける。
まして他所様の家なら尚更だ。
 タイヤの空気が抜けるような排気音と共に通風孔が閉じていく。
俺は脱いで持ってきた服をビニール袋に放り込んでから電灯のスイッチを切る。
暗転してカーテンの近くが僅かな陰影を見せる以外は黒一色になった部屋の中央に敷かれた布団に潜る。
少しひんやりとしているが、じきに離し難い温もりを含むことだろう。

 ・・・布団が人肌の温もりを帯びてくる。
風呂にのんびり浸かって寝る準備が整ったことで緊張の糸が解けたのか、急に強い眠気を感じる。
起き上がるのはおろか、考えることも億劫に感じる。
・・・起き上がって何をしようと?・・・今から井上のところに行って何か言おうとでも?・・・それじゃ夜這いだ・・・。

井上が風呂が空いたことを知らせた後も佇んでいたのは、この機会に俺から返事が聞けるのを期待してたからなんじゃ・・・。

・・・もしそうだったとしたら、返事できたんだろうか・・・?

・・・さっきだって・・・目もまともに合わせられなかったくせに・・・。

・・・。

Fade out...






カチャッ・・・キィ・・・

 ・・・ん・・・何の音だ?

カチャッ・・・サッサッサッ・・・

 何かが擦れ合うような音だな・・・。近付いてくる?何で・・・?何が・・・?

「安藤さん・・・寝てるかな?やっぱり・・・。」

・・・井上?!

 眠気でぼやけていた意識が一気に晴れた俺は、がばっと体を起こす。
俺の布団の直ぐ横に、闇にかすかな輪郭を浮き彫りにしている井上が枕を抱えて座っている。
寝ているかと思った俺がいきなり跳ね起きたせいか一瞬びくっとしたが、直ぐに少なくとも表面上は落ち着きを取り戻す。
 眠りに落ちる直前に井上のところに行こうかという考えが一瞬頭を擡げたが、まさか井上の方から来るなんて・・・。
それも枕を抱えてるし・・・。
まさか一緒に寝ようって言うんじゃないだろうな?!

「・・・ど、どうしたんだよ。」

 思わず無声音になってしまう。
夜中に寝巻き姿の若い男女が密会(?)なんてマスターと潤子さんに見られたら、翌日以降無事で居られる筈がない。
仲人をしてやろうか、なんていうのは序の口だろう。

「あの・・・此処で寝て・・・良いですか?」
「?!?!」

 思わず大声を出しそうになって慌てて飲み込む。
前に目が覚めたら横で寝ていたってことはあったが、あの時は熱を出して寝込んでいたし、井上が布団に潜り込んだことに気付かなかった。
 そもそも警戒心が無いにも程がある。
熱で動くこともままならなかった前とは違って、今の俺は健康体だ−変な解釈も出来そうな言い回しだが−。
そうでなくても、緊張と恐らく理性と欲望の衝突でろくに眠れないだろう。以前の俺なら兎も角・・・。

「じ、自分の部屋で寝てれば良いだろ?」
「・・・寝てたんですけど・・・起こされたんですよ。」
「?」
「あの・・・その・・・隣の部屋の物音で・・・。」
「・・・え?」

 思わず聞き返しはしたが、どういう意味かは嫌でも分かる。
・・・仲が良いのは構わないが、時と場合を考えた方が良いのでは・・・。

「・・・そのうち・・・終わるんじゃないの?」
「・・・最初はそう思ってたんですけど・・・。」
「・・・。」
「だから・・・。」

 そりゃ無理も無いと思うが・・・だからって、横で寝られたら俺が困る。
答えあぐんでいると、井上が両手で鼻と口を押さえてくしゃみをする。
そう言えば俺も背中が冷える。暖房を切ってあるからな・・・。

「・・・風邪ひくな。このままだと・・・。」
「・・・。」
「・・・良いよ。横で寝ても・・・。」

 井上は嬉しそうな顔をするかと思ったら−期待していたわけじゃないが−、小さくこくんと頷くだけだ。
俯いたまま抱えていた枕をぐっと抱き締める。
 ・・・やっぱり緊張してるんだ。考えてみれば無理も無い。
いくら好きだと告白した相手だとはいえ、健康体の男が居る布団に入るんだからな・・・なのに俺は勝手に妄想を膨らませて・・・。
 俺は身体を横にずらして、井上が入れるだけのスペースを確保する。

「・・・どうぞ。」
「・・・それじゃ・・・。」

 井上は寒くないように気遣ってか、布団の裾をそっと、自分の体が入るくらいだけ捲り上げて潜り込むと、直ぐに裾を戻す。
・・・それだけでも緊張が一気に増す。
 この布団は一人用らしくて、スペースを十分空けたつもりでも仰向けになっていると腕が触れ合う。そうなるとさらに緊張が増幅してくる。
否、緊張というより欲望というべきか・・・。
このままだととても寝られそうにないから、俺は井上に背を向ける形で横向きになる。
だが、早まった胸の鼓動と荒くなるのをどうにか抑えている呼吸は静まる気配が無い。眼を閉じても眠気が再び意識を覆う気配はない。

・・・。

「安藤さん・・・寝ました?」

 どれだけ時間が経ったか・・・背後から井上の囁きに似た声が聞こえる。俺はどう応えて良いか迷う。
このままの姿勢だと嫌っているように思われるかもしれない。かといって体の向きを180度変えると、井上と至近距離で向かい合うことになる・・・。
内面の葛藤が極限に達しそうな気がする。

「・・・いや、起きてる・・・。」

 結論を出すより先に答えが出てしまった。
何も言わないと寝ていると思われる、ということが口を突き動かしたとでも言おうか・・・。
寝たふりを決め込むことで何か大切なことを逃してしまうような、そんな恐れとも言える予感が頭を過ぎったような気がする・・・。
 何かが背中に触れる。一箇所だけじゃなくて全体に、優しくて柔らかい感触を感じる。
これは・・・手だけじゃなくて・・・全身を俺の背中にくっつけているってことか?!

「な、な、何だよ・・・。」
「・・・どうして背中向けてるんですか?」
「どうしてって・・・。」

 どう答えれば良いものか・・・。
そっちを向くと理性の箍が外れかねないと正直に言うのか?
それともたまたま横向きになってただけと誤魔化すのか?
・・・駄目だ。背中の感触が気になって考えが纏まらない。

「私の方を・・・向きたくないんですか?」
「!」
「・・・そうなんですね?」
「・・・ち、違う・・・。それは絶対違う・・・。」

 井上の悲しげな声は聞きたくない。この誤解だけは絶対解いておかなきゃ駄目だ。
そうしないと・・・本当に全てが終わってしまう・・・。
それだけは・・・絶対嫌だ。

「じゃあ、どうして・・・?」
「・・・今、井上の方を向いたら・・・」
「・・・。」
「俺は・・・俺を止められないと思う・・・。」

 身体は実に敏感で正直だ。実際井上の方を向いたら、次の瞬間覆い被さろうとばかりに疼いている。
自分の家ならどうにか「処理」できるが、まさかここで出来る筈がない。したら返事どころの話じゃなくなるのは間違いないが・・・。
 その時、わき腹のあたりに新たな、もっとはっきりとした感触が伝わる。
これは・・・手か?だとしたら、丁度以前の二人乗りのように、背後から抱きつくような感じになってる・・・?!
荒くなり始めた呼吸を無理やり抑える。兎に角今はじっとしてるしかない。
井上の奴、何のつもりか知らないが、こういう状況で俺を挑発するようなことをしないでくれ・・・!

「一緒に居て背中向けられてるのは寂しいです・・・。止められないなら・・・私はそれでも構わない・・・。」
「・・・。」
「ただ・・・その前に返事は聞かせて欲しい・・・。それで心の準備が整いますから・・・。」
「・・・心の準備・・・?」
「・・・私の気持ちが・・・少し違ってくるだけです・・・。幸せだけか悲しみ混じりになるか・・・。」
「・・・。」

 寝間着を通した触れ合いで気持ちが固まるかどうかより真っ先に身体が反応した俺と、その俺の暴走を返事に関わらず受け入れるつもりらしい井上・・・。
端から見れば据え膳食わねば何とやら、だろう。だけど・・・

「・・・井上は・・・それで良いのか?」
「え?」
「悲しい思いをしてでも・・・抱かれたいのか?」
「・・・。」

 井上からの答えはない。
口では俺の気持ちに関わりない、と言ったがやっぱりやるせない気持ちがあるんだろう。
本当に俺はこれからどうすれば良い?
返事をするなら面と向かって言いたいし、そうするべきだと思っている。
だが、二人で居るには手狭な温もりを含んだ綿の空間で至近距離で向かい合ったら、それこそ意識が沸騰しかねない。
そうなったら返事なんて単なる事務手続きと対して変わりはないんじゃないか?
 だけど、このまま背中を向けたまま素知らぬ振りを決め込むのは・・・。
せめて井上に、嫌いだからそっちを向かないんじゃないってことを伝えておきたい。
言葉だけじゃなくて・・・。でもどうやって・・・?

・・・こういうのなら・・・どうだろう・・・?

 俺は胸の前で両腕を交差させるような形で、下になっていた右腕をわき腹の方に通して・・・井上の手を握る。
否、手の上に手を置いたと言った方が良いか。
すると背後の感触がぴくっと軽く振動する。・・・もしかして、誤解されたか?

「・・・絶対・・・嫌いだからじゃないから・・・。」
「・・・。」
「言うなら面と向かって言う。でも、今そうしたら・・・感情より欲望の方が先に出てしまって・・・返事が軽くなっちまう・・・。」
「・・・安藤さん・・・。」
「だから・・・今はこれだけにさせてくれ・・・。」

 分かってもらえただろうか?そう思っていると、俺の手の下にあった井上の手が動く。
引き抜こうといるのか、と思ったらそれは180度回転して俺の手をきゅっと掴む。
・・・手を繋いでいる。滑らかで柔らかい感覚が伝わり、身体がじんと震える。
内側で暴れていた何かが一気に整然としたものになっていく。
・・・これは「愛しい」っていう気持ちなんじゃないだろうか?

「これくらいなら大丈夫でしょ?」
「・・・井上・・・。」
「安藤さんの言いたいことは分かりますよ・・・。私だって年齢ではもう大人ですから、分かってないなんて方がちょっと珍しいんですけど。」
「・・・。」
「手繋ぐのって初めてですよね、私達・・・。

 そう言えば確かに・・・手を繋ぐのは初めてだな。
手を取って頬擦りとかは前にやったことがあるが−これも今思えば結構強烈だ−・・・掌の感触を掌で感じるのは・・・これが初めてだ。
 井上の手は本当に柔らかくて・・・滑らかで・・・。
軽く、でもしっかりと俺の手を掴んでいるのが愛しい・・・。本当に愛しい・・・。
この手を離したくない。愛しいから・・・もっと近付きたい、触れ合いたい。
井上もそう思っているんだろうか?それが「好きだ」という言葉で表せるのなら、その先の行動に進んでも良いんじゃないだろうか?
 ・・・でも、何となくしっくりこない。
時と場合がこれだけに、自分の行動を正当化するための方便のような気がしてならない。
やっぱり今は井上の方を向かないほうが正解だと思う。

「・・・安藤さん。」
「・・・ん?」
「その体制だと辛くないですか?」

 正直な話、今の体制にはちょっと無理がある。
これだと寝返りは打てまい。うつ伏せになったら腕を捻ってしまいそうだ。

「安藤さん、ギターなんですから腕や手に何かあると・・・。」
「そりゃ・・・そうだけど・・・。」
「だったら・・・。」

 そう言って井上は俺の手を握っている手を自分の方に引っ張る。
変な体勢になっている俺は、それに合わせて身体を動かすしかない。
腕をどうこう言っておいて、どうして腕を捻らせるようなことをする?
 仰向けになったところで俺は思わず横を見る。
何のつもりだ、と言いかけたところで息を飲む。
同じ仰向けになって俺の方を見る井上は口元に微かな笑みを浮かべて、そして・・・俺の手を優しく、しかし、しっかりと握っている・・・。

「大丈夫じゃないですか。」
「・・・?」
「私の方を向いても・・・。」

 ・・・さっきまであれほど俺の内側で蠢いていたものは、すっかりどこかへ消えてしまっている。
暫くそういうことがなかったから忘れていたが、井上は相当な策士だったんだな。
知らず知らずのうちに俺の感情を制御したり、自分の考えている方へ動かしたりできるんだった・・・。俺は苦笑いを浮かべるしかない。

「確かに・・・大丈夫だな。」
「ね?そうでしょ?・・・手、繋ぎ直しませんか?」
「・・・そうするか。」

 俺と井上は同時に取り合っていた手を離して、互いに近い方の手を取り合う。
さっきは互いに身体の前に腕を通していたから窮屈だったが、これなら楽だ。
 俺は井上と向き合ったままだ。
それでも欲望の洪水を恐れて背中を向ける必要は感じない。
今はむしろ、井上の顔を見ていたい、こうして手を繋ぎあっていたいという気持ちの方がずっと強い。

「一緒に寝るのって久しぶりですよね。」
「そうだな・・・。」
「あの時も一応確認したんですよ。『此処で寝ても良いですか?』って。でも安藤さん、返事がなかったから・・・。」
「寝てるときに言われても返事しようがないって。」
「今は・・・どうですか?」

 井上の表情が微妙に影を帯びる。
その瞳は真っ直ぐに俺を見詰めて・・・俺の手を握る手にほんの少し力が入って。
・・・声にならずとも心に直接届いて来る問いは唯一つ。今更考えるまでもない。
 再び俺の心臓が高鳴り始める。血液が熱を帯び始める。
だが・・・俺の視線は井上から逸らせない。背中を向けることも出来ない。
魔法にかけられたみたいだ・・・。どうすれば良い?どうすれば・・・。

「・・・ずるいですね、私・・・。」

 井上が寂しげに微笑む。俺の手を握っていた手の力が少しだけ緩む。

「これじゃ、安藤さんに好きだって言うように仕向けてるのと同じですよね・・・。」
「・・・井上・・・。」
「御免なさい・・・。困らせるようなことばかりして・・・。」
「・・・いや・・・、困らせてるのは・・・俺の方だ・・・。」

 今度は俺の方から手に力を込める。強く握り過ぎるとひしゃげてしまいそうにも思えるくらい・・・柔らかい。

「熱が引いた次の日、智一に言われたんだ・・・。お前から井上に何かしたことってないだろ?って・・・。実際そのとおりなんだよな・・・。」
「・・・。」
「井上から好きだって言われて返事は待たせっぱなしで、今日も井上からこっちに来て何かしないと何もしないし・・・。
待たせて良い立場だって思ってるわけじゃないけど・・・。自分から何かしようとするのを無意識に避けてるのかもしれないって思う。」

「・・・やっぱり、不安だからじゃないですか?前みたいにならないか、って・・・。」
「・・・。」
「悲しい思いをしてそれをさっさと振り切って、さあ、もう一度、なんてそう簡単に出来ないですよ。
それが出来ないから悩んで、苦しんで、迷ってるんですよね。」
「・・・そうだと思う。」

 結局はあの夜の記憶がまだ心の奥底にがっしりと根を張っているんだろう。
さして気に留めなくなったとはいえ・・・あの記憶はやっぱり重い。
もう終わったことなのに、もうよりを戻すつもりもそんな期待もしてないつもりなのに、まだ・・・万の一つの可能性にでも賭けているんだろうか?

「何だか偉そうなこと言っちゃいましたね。待てるだけ待つって言ったくせに、何時言ってくれるの、みたいなことして・・・。」
「そんなの、今に始まったことじゃないんじゃないか?」
「あ、そんなこと言います?」

 井上は少し頬を膨らませる。そんな仕草も愛しく思う。
そう思っていると再び微笑みが浮かぶ。本当に井上はくるくると表情が変わる。・・・それが羨ましくさえ思う。

「こうして・・・お話出来て良かった・・・。ずっと背中向けられてるんじゃないかって不安で・・・。」
「・・・悪かったな。」
「今、お話出来てるから良いんです・・・。」

 俺もそう思う。背中を向けているだけだったら、内面の葛藤に終始して井上の気持ちを考えることなんて出来なかっただろう。
やっぱり話は・・・向き合ってした方が絶対良い。声だけじゃなくて表情からも・・・感情を考えることが出来るから・・・。

Fade out...


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