契約家族

written by Moonstone

〜この作品はフィクションです〜
〜登場人物、団体などは実在のものとは無関係です〜

第1章

「ただいま・・・。」

 夜9時を過ぎてようやく帰宅した男を出迎える人影も声もない。
男は独身なのかというと決してそういうわけではない。結婚もしていて妻子もある、所謂世帯もちの身だ。
しかし、煌々と灯るダイニングの電気と賑やかなテレビの音声は別として、そのテレビの前に横たわるセイウチを思わせる巨体からは何の返事もない。
男は帰宅を告げるかのように敢えて聞こえるような音量で溜息を吐きながらネクタイを外すが、その巨体は向きを変えようとしない。
 今度は小さく溜息を吐いた男は、ネクタイを外してスーツとワイシャツをハンガーにかけると、置いてあったグレーの部屋着に着替えてダイニングへ
足を運ぶ。
その時点で、仕方がないという様子でようやくそのセイウチを思わせる巨体が男の方を向く。
面倒くさそうな、それでいてふてぶてしそうな表情に歓迎や労いの情は一片も感じられない。
それどころか、半ば睨みつけるように男を一瞥すると、手にしていた煎餅をひと齧りしてようやく腫れぼったい口を開く。

「今頃帰ったの?御飯はそこ。チンして食べてね。」

 その巨体−男の妻である−はそれだけ言うと、再びテレビの喧騒の方を向く。
出迎えの挨拶などというより、通過儀礼というかマニュアルどおりの接客と言った方が良いだろう。
かと言って男は何も言い返す気力もなく、言われたとおりにテーブルの上に布巾をかけられた夕食を機械的に電子レンジに運ぶ。
 男の夕食はテレビの喧騒の中、淡々と、そして黙々と進んでいく。その間、妻から何も話し掛けようともしない。男から話し掛けることもない。
妻には男に話し掛ける気など毛頭なく、男は妻に話し掛けてもテレビが聞こえないと文句を言われるのが分かっているから諦めているのだ。
夫婦の会話など、この空間には間違いなく存在しない。
やがて夕食を済ませた男は、食器を纏めると流しに運び、水道を出して洗い物を始める。
これも何時ものことだ。妻が夫の後片付けなどしたことはない。
夕食の時間に−妻が一方的に決めた時間だが−間に合わなかったら自分で片付けるというのがこの家の暗黙の掟なのだ。

 男は疲れにさらに疲れが重なるのを感じる。
仕事の上に残業、そしてようやく帰宅したかと思えば誰も自分を出迎えたり労ってくれたりはしない。
ただ給料さえ稼いでくればそれで良い。そんな雰囲気がありありである。
もっとも、そんなことは今に始まったことではない。ここ数年、この家庭は所謂「家庭内離婚」状態にある。
洗濯や料理は提供されるが、襟元程度しかかかっていないアイロン、出来合いの惣菜や冷凍食品の塊のような料理では家事とはいえない。
しかし、妻はそれが当然とばかりに「家事」をこなし、給料のうちの僅かな金額をを夫に小遣いとして「配分」する。
男女同権、仕事人間批判を言葉どおりに受け、その背後にあるものを考える能力のない妻は、テレビに洗脳されるがままに実行に移したのだ。
男は当初抗ったが、妻は頑として要求を聞き入れようとせず、やがて男の方が根負けした。
言葉そのままの男女同権、仕事人間批判に晒される男に安らぎの場はない。
 洗い物を済ませると、男はご馳走様、も言わずにとぼとぼとダイニングを去り、二階へと上がる。
階段を上るにつれ、これまたダイニングとは別の喧騒が耳に届いてくる。
それは閉じられた二つのドアの両方から聞こえてくるため、男には暴走族の騒音と大して違いがないように思う。
中学3年生の娘と高校2年生の息子。それぞれ多感とか思春期とか呼ばれる年頃である。
 音を控えるように言おうと思うが、以前そうして浴びた視線を思い出して気が引ける。
他人を、それも何か汚らしいものか奇怪なものでも見るような視線。それは扶養者を見る目ではない。妻と同じ類の目だった。
ドアを開けて音を控えるように言って、それを素直に応じるのは妻のときだけだ。
息子も娘も、この家族の長は母親と認識している。男は単に朝から晩まで仕事に明け暮れ、定期的に金を運んでくる人間としか認識していない。
それを思うと、男は喧騒を抑えるように注意する気にはなれない。子どもの前でも男には自分の居場所を感じることはない。

 男は居間に入って電気をつける。
「家庭内離婚」状態にある夫婦が褥を共にするはずがなく、男は寝室から普段あまり使われることのないこの8畳間に箪笥などと共に追い出されたのだ。
敷かれたままの布団。アイロンすら満足にかけられずに積み重なった服。男の現状をありありと示している。
 男はふうと溜息を吐き、布団に横になって天井を見詰める。
ようやく一日が終わった。そんな徒労感を伴う実感だけが男の内に去来する。
また明日も同じ。朝決まった時間に起きて用意された決まった食事を食べて、仕事場へ向かって夜遅く帰る日が続く。
これといった趣味がない夫は、週末は仕事がないだけに余計に妻や子どもから邪魔者扱いされる。
朝起きたら誰も居ず、夜まで誰も帰ってこなかった、などと言うことも珍しくない。
あと男に残されたことは、妻と子ども達の合間に風呂に入り、寝ることだけだ。
妻も子ども達も、自分は入った後に入るのを露骨に嫌がる。臭いが何だ、抜け毛が何だ、と。
一日の疲れを癒すときでさえ、男は神経を使わねばならないのだ。
 ある日、男は昼食の為に外出していた。
あの妻が夫のために弁当など用意する筈もない。「配分」された小遣いをやりくりして食いつなぐしかない。
一体自分は何のために、誰のために働いているのだろう。
男はコンビニで買った弁当を公園で食べながら、何度となく自分に問い掛けてきた問いを繰り返す。
だが、そんな問いに答えが見つかっているなら、男は何も疲れないだろう。
家庭は勿論のこと、仕事も中堅職として気の休まるときがない。上からと下からの板挟みに遭うこともしばしばある男は、心身共に疲れきっている。
それを癒す場所も時間もないのだから、男が疲れきってしまうのは無理もないことだ。
 弁当を食べ終わった男は、空き箱を手近なゴミ箱に放り込むと、とぼとぼと会社への途に就く。
食事が終わったら会社に戻り、時間が来ればまた仕事が襲ってくる。それが分かっている男は、再び溜息を吐く。

「せめて・・・安らげる場所や人が居たら・・・。」

 男は誰となく呟く。呟いたところでそれが現実になると思う筈もない。
その時、ふと見た電柱の張り紙に男の目が止まった。
人生に疲れ、安らぎの場も安らぎを与える人も居ない貴方へ

月10000円から貴方に安らぎをご提供します。勿論、風俗産業とは無縁です。
お金で得られる安らぎを、我々は自信をもって保証します。詳しくは以下の連絡先まで。

(有)メンタルケア・プランニング
TEL:XX-XXXX-XXXX FAX:XX-XXXX-OOOO
 何処かの怪しい新興宗教か何かの張り紙とでも錯覚しそうな内容だ。
お金で安らぎを与えると言いながら、壷やら仏像やらを高値で売りつけて、実際は何の安らぎもないなんてことは時々報道にも取り上げられる。
しかし、今の男には、それが真っ赤な嘘偽りの広告だとはどうしても思えない。
月10000円・・・。男に「配分」された小遣いの20%にあたるその金額は決して安いものではない。
だが、その金額で本当に安らぎが得られるなら・・・安いものではないかとさえ思う。
職場は勿論、その疲れを癒せる場所である筈の家でさえ、男の安らぎの場所はないのだから。
 男は周囲を見回して懐から手帳を取り出すと、徐にその会社名と電話番号をメモして直ぐに仕舞う。
やはりちょっと後ろめたいというか、そんな感情が何処かにあるのかもしれない。
男は腕時計を見て、足を速めて職場へと戻る。しかし、その表情は今までと違い、何処か輝いているという雰囲気がある。

「今日はちょっと職場の奴と飲み会があるから遅くなる。」
「あらそう。じゃあ。」

 夕刻、男は一応家に偽りの電話を入れるが、応対に出た妻は何時帰るの?とか、ましてや起きて待ってる、とは決して言わない。
素っ気無いにも程がある応対も面倒と言わんばかりに、妻の方から先に電話を切る。
男は多少腹立たしい気もするが、そんな気力も直ぐ萎えてしまう。
腹を立てたところであのセイウチの態度が変わる筈もないし、今日はそれよりもっと期待できることがある。
 男は一旦公衆電話の受話器を下ろしてテレホンカードを取ると、再び挿入口に差し込んで、先に取り出しておいた手帳のメモのダイヤルを押す。
発信音が数回鳴った後、ガチャッと受話器が外れる音がする。

「ありがとうございます。有限会社メンタルケア・プランニングです。」

 声は若い女性のものだった。このあたり、一般の企業と何ら変わりはない。

「あ、あの・・・張り紙を見てお電話したんですが・・・。」
「はい。ありがとうございます。当社ではご予算に応じて、お客様に安らぎをご提供いたします。」
「安らぎというのは・・・具体的にどういうものなのでしょうか?」
「お客様のご希望をお伺いして、それに添った形での安らぎをご提供いたします。そのために一度当社へお越し下さい。専任のカウンセラーがお話を
お伺いして、お客様に合った最適の安らぎをご提示させていただきます。」

 普通の人間なら多少は怪しいと思うだろう。だが、男は何ら怪しいとは思わない。
逆にそんな安らぎが本当に得られるなら、10000円くらい直ぐに出してやる、とすら思う。

「じゃあ、い、今からそちらに窺いますが、場所は・・・。」
「はい。ご案内いたしますので、メモのご用意をお願いいたします。」

 男は一度閉じた手帳を再び広げ、受話器を肩と耳で挟んでペンを握る。
そして受話器から流れてくる丁寧なアナウンスをそのまま書き写す。それはここからさほど遠くない場所にあるビルの一室らしい。
男は普段の仕事と同じ、否、それ以上に何度も頭を下げながら受話器を起き、その会社のあるビルを探しに公衆電話を後にした。
 20分程歩き回ると、そのビルは見つかった。表通りから少し外れたところにあるとはいえ、意外と言っては失礼だが結構小奇麗なところだ。
そのビルの3階の窓に「(有)メンタルケア・プランニング」とかかれているのを手帳と取らし合わせて確認すると、男はそのビルに入る。
裏通りのビルらしい(?)手狭な階段を上っていくと、すぐ正面に社名の書かれたアルミのドアが現れた。
 男は恐る恐るドアのノブに手を伸ばし、ゆっくりと捻って手前に引く。
中は小さなロビーといった感じの内装で、正面奥の受付と書かれた場所には若い女性が座って男の方を見ている。
部屋には控えめのボリュームでクラシックらしい柔らかな音色の音楽が流れている。オフィスとは思えない印象を受ける。
部屋には他に数人の客らしい人間が居る。その殆どが男性で、年代は男と同じ所謂「働き盛り」と思しき風貌だ。
男はまず受付へ向かう。もし医者と同じで予約が必要なら早めに取っておきたい。男はそうとしか思わない。

「あ、あの・・・先程こちらの場所を電話で窺った・・・」
「あ、はい。ではまず此方の方に必要事項を書いていただけますか?カウンセリングで使わせていただきますので。」

 男は女性が差し出したファイルとペンを受け取り、名前や住所、家族構成といったありがちな項目から、安らぎが欲しいと思うときや、
安らぎを与えて欲しい人物(理想でも可)など、カウンセリングの内容を思わせる項目が並んでいる。
男はそれら全てに記入して女性に手渡すと、女性は笑顔でロビーの方を手で指し示す。

「では、お名前が呼ばれるまでそちらでお待ちください。」

 男は空いているソファのような見るからに座り心地の良さそうな椅子に腰を下ろして自分の順番を待つ。
待ち時間の間、この会社で月10000円から提供されるという「安らぎ」について、男はあれこれと考えを巡らせる。
「安らぎ」というと男が直ぐに思いつくのは、若くて綺麗な女性があれこれと身の回りの世話をしてくれることだ。
現実ではあのセイウチを思わせる巨体の妻にそんなことを望むのは無駄なだけだし、母親の影響が強い娘にも期待は出来ない。
現実では到底叶いそうもないことが月10000円から実現する・・・。それなら安い買い物だと男は思う。
それだけ男の心は安らぎに飢えているのだ。否、もう飢えすぎて蜃気楼ですら見れば飛びつこうとするほどだ。
 少しして軽い音がして奥の方から男と同じくらいの年代の男が出てくる。その表情は明らかに輝いている。生きる活力に満ち溢れている。
毎朝鏡を見て、自分の表情から輝きや活力が消えて久しいと思う男は、益々この会社が提供するという「安らぎ」の内容に期待が膨らむ。

「海原壮慈(かいばら そうじ)様、第1応接室へお入りください。」

 更に時が流れ、先に居た客の顔触れが大きく変わった頃になって、男性の声でのアナウンスがスピーカーを通して流れる。
男−海原壮慈−はすっと立ち上がって奥のほうへ足早に向かう。
いよいよ「安らぎ」の正体が明らかになる。そして月10000円からそれが現実のものになる。否が応にも海原の期待は膨らむというものだ。
 海原は「第1応接室」と書かれたプレートが掛けられているドアを軽くノックする。
どうぞ、という応答が奥から聞こえてくると、海原はドアのノブに手を掛けてそっとドアを開けて中の様子を伺う。
中は会社の応接室を思わせる、豪華にしてくつろげる家具やその配置が施されていて、海原は無意識にドアを開いて身体を部屋に中に押し進める。

「ようこそ、海原様ですね?」
「あ、は、はい。」
「さあ、どうぞお掛け下さい。」

 中に居た背広姿の医師や弁護士などを思わせる風貌の男は、にこやかに自分の向かいのソファを手で指し示す。
海原は膨らむ緊張と期待の中、男の向かいにゆっくりと腰を下ろす…。
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