「失礼しました。」
リルバン家本館邸宅の執務室のドアが静かに閉まる。執務室から出たアレンは小さい溜息を吐く。隣に居るのはルイではなくクリス。こちらの表情はやや
硬いアレンとは対照的にのほほんとしてたものだ。
ロムノを介して執務室に呼ばれたアレンとクリスに、当主フォンはルイがヘブル村に一時帰還する際の護衛を依頼した。フォンの表情や口調からは、ルイの
ヘブル村帰還に消極的だがルイの心情を害したくないためやむなく承諾するという意向がアレンには見えた。ルイに特別な感情を抱いている上にルイの
口から直接ルイの出生の秘密を聞いた関係で未だにフォンに対するわだかまりが消えていないアレンは、フォンがルイをリルバン家に束縛しようとしていると
穿った見方をしてしまい、フォンの依頼を言葉どおりに受け止められない。
「良い思い持っとらへんみたいやな。」
クリスの指摘に、アレンは再度の小さい溜息で応える。
ルイを護衛することそのものは決して嫌ではない。今やルイとカップルになったアレンは何としてでもルイを護り続けたいから、まだルイからの申し出はないが
申し出があれば即答で快諾するつもりで居る。だが、フォンがルイの行動を快く思っていないと感じられることに引っ掛かりを感じる。
フォンが当主でなく、絶大な権勢を揮(ふる)う先代とその威を借りたホークとナイキが幅を利かせていた時代では、ローズを切り捨てるようなフォンの選択は
やむを得ないものだったのだろうとは思う。思うが、愛する異性より当主継承の道を選択したことは家柄に無縁で居たアレンにはどうしても腑に落ちないし、
父親の立場より一等貴族当主の立場を先行させるように見えるフォンにアレンは良い感情を抱けない。
「将来のお義父さんとの付き合いを円滑に進めるようにしといても、損やあらへんで。」
「なっ・・・。」
クリスが話を飛躍させたことに、アレンは絶句してしまう。表情には照れくささではなく唐突に出された話に対する当惑が色濃く表れている。
「アレン君はルイとの関係を一時のもんやと思とらへんやろ?」
「・・・そ、そりゃあ・・・。」
「そやったら51)、当然アレン君にとってフォンさんは将来のお義父さんになるで。」
「・・・ルイさんと結婚したら血縁上はそうなるんだろうけど・・・、出来るのかな・・・?」
「結婚か?大丈夫やで。アレン君がこの国に永住するとなれば戸籍作れるし、結婚にも支障あらへんようになる。二等三等貴族あたりが五月蝿いやろうけど、
気にせんときゃええことや。」
ランディブルド王国での結婚では男女とも18歳以上という制約がある。年齢を証明するのは戸籍だが、ランディブルド王国で生まれた際に親が町村の
役場に出生届を提出するか、永住申請書を提出して許可が下りることで登録される。つまり、ランディブルド王国の戸籍がなければ幾ら実年齢が18歳以上
だと明らかでも結婚出来ないということだ。
永住申請書は申請者が犯罪者として名が知れていなければ大抵許可される。国家としては税金の出所となる国民の数が増えることは基本的に歓迎事項
だし、国際捜査機関がないこの世界で複数の国を跨ぐほど悪名を轟かせる犯罪者でなければ素性を隠すのは容易だ。
ルイの母ローズもランディブルド王国では少数民族で差別や蔑視の対象でもあるバライ族の1人だが、抹消される対象となる戸籍はあった。遠い異国の
生まれであるアレンは幸か不幸か色白故バライ族に見えないから、ランディブルド王国に永住するために戸籍を取得するのはさほど難しいことではない。
「結婚そのものもそうだけど・・・、外国人の俺がすんなりルイさんと結婚出来るかな・・・?」
「戸籍作れば後は年齢だけや。アレン君は16やであと2年くらい辛抱すればええ勘定やな。」
「年齢とかより・・・、ルイさんがリルバン家を継承するかどうかは分からないし、俺は干渉するつもりもないけど、仮にルイさんがリルバン家を継承する場合、
ルイさんと結婚したら俺はどういう立場になるのかな、って・・・。」
「ああ、そのことか。アレン君は当主継承権第1位になるよ。ルイが病気とかで執務出来へんようになったらアレン君がリルバン家当主になるんや。子どもが
大きぃなっとっても、当主後継が指名されとらへん限りはアレン君が最優先や。」
一等貴族の当主継承順位の優先度は傍系より直系が大原則で、女性より男性は基本事項だ。性別は基本事項だから女性が当主に就任することに大きな
制約はない。法律で性別と年齢で当主継承順位の序列が定められては居るものの、後継者を指名する権限を有するのはその時の当主だ。法律上で優先
順位が高くても当主がその人物に当主継承の器がないと判断するか、本来あるべきではないことだがその人物に当主を継承させたくないとの意向を持てば、
優先順位は法律で規定されたものと異なって来る。
女性の一等貴族当主は現在アルフ家とアルキャネク家が該当するし、過去には何度も女性当主就任がある。私生児なる出自の方がむしろ懸案事項だが、
ルイが併せ持つ全国屈指の正規の聖職者なる地位と名誉と実績があれば戸籍問題の解決に教会関係者の助力を受けるのも容易だし、教会の実力と権威は
二等三等貴族が大半を占める王国議会強硬派を黙らせるのも容易だ。
ルイがすんなりリルバン家当主を継承するとは考え難いが、アレンとクリスへの依頼の席でもフォンは今後正室も側室も迎えるつもりはないと明言していた
から、やがてはルイがリルバン家当主に就任する流れになると考えられることは出来る。となれば、アレンも疑問を呈したようにルイと結婚する相手の処遇は
どうなるかだが、普段は当主の補佐役となり、当主に不測の事態が生じた場合には最優先で当主就任と相成るという。代役でも一国で大きな権力と影響力を
持つ貴族の当主に就任する自分の様子は、アレンには想像し難い。
「ルイが里帰りする時はええチャンスやで。」
「何のだよ。」
「子作りの予行練習に決まっとるやんか。」
ルイと深い関係に進展させるよう明らかに匂わせるクリスに、アレンは言葉が返せない。
アレンとて普通の年頃の少年だ。異性の身体や性的関係に興味がないわけではない。これまでは女性的な顔立ちと体つきから生じる大きなコンプレックスが
抑圧していたが、ルイとのカップル関係成立に至るまでに克服に向けて大きく動き始めたから、性的関心もそれなりに抱くのはごく自然なことだ。
「ルイはな〜。服着とるとあんま分からへんけど、ええ身体隠し持っとるんやで〜。胸もでかいしな〜。」
「な、何を・・・。」
アレンはクリスの妙な誘惑をかわそうとするが、このようなシチュエーションに不慣れだから思うように言葉が出ない。その脳裏に、滞在中のホテルで偶然
目撃したルイの下着姿が浮かび上がる。意識しないようにと思うほど鮮明になって来る半裸のルイは、確かにメリハリに富んだ身体のラインだった。
動きやすさを最優先させるため肌の露出が多い方のクリスと対照的に、ルイは普段の肌の露出が少ない。更に何度かその腕で抱き締めた時に自分の胸に
感じた柔らかい感触が思い起こされ、ルイの胸に対する想像がアレンの意思とは裏腹に強く鮮明になっていく。
「顔、赤ぁなっとるよ。」
「・・・。」
クリスの指摘どおり、アレンの頬は紅潮している。元々色白だから紅潮するとより赤色が目立つ。
「んでもさ。アレン君が女の身体に興味持つんは自然なことやと思うで。」
「・・・そういう目で見て良いのかな・・・。」
「躊躇することあらへんよ。アレン君も男なんやし、恋愛は感情だけでずっと維持出来るもんと違うよ。あたしはそう思とる。」
方言の影響で茶化しているような口調だが、クリスの表情から感じられるものはからかいや冷やかしではない。ルイの親友でありアレンの友人として、異性の
見解の1つを示している。
「いきなりそこまで進むんはあたしもどうかと思うけど、ルイと手ぇ繋ぎたいとかキスしたいとかいう気持ちが強ぅなって来ても、あんま抑え付けへんでええと
思うよ。ルイかて嫌がらへんやろし、ムードを考えて進めることやな。」
「・・・アドバイス、か?」
「勿論や。現場を見たいっちゅう気持ちもあるけどな。」
俄かに弾んだ口調で恋愛の現場に対する好奇心を見せるクリスに、アレンは思わず苦笑いする。親友や友人として進展を期待するのと、ギャラリーとして
進展の現場をその目で観察したい期待の共存は自然なことだし、クリスも例外ではない。
クリス自身はルイの不遇の時代から味方してきたことで村の同年代の男性の殆ど全員と対立し、彼らがルイの出世で態度を180度変えたことに怒りはしても
親愛の情は抱けないから恋愛とは縁がない。ルイに馴れ馴れしく近寄る村の男性を蹴散らすと同時にルイが聖職者ではなく1人の女性として生きる機会が
あればと願っていたところに偶然アレンが現れ、これまた偶然にも相思相愛になってカップル関係が成立した。ルイのもう1つの幸せを願う気持ちが、1つの
カップルの仲の進展を示す現場を観察したいという好奇心を派生させている。
アレンとクリスが専用食堂や専用酒場に通じる大廊下に出たところで、ルイが姿を現す。
「フォン当主とのお話は終わったんですか?」
「うん。・・・ルイさんをよろしく頼むって。」
フォンの依頼を額面どおり受け止め難いアレンはやや口篭る。自分の一時帰還を思い止まらせるようフォンがアレンとルイに圧力をかけたのではとの穿った
観測が捨てきれないルイは、ひとまず安心してアレンとルイに向き直る。
「早速で申し訳ないのですが・・・。」
癖を通り越して言葉遣いの一部として身体に染み込んだ口調で、ルイはアレンとクリスに話を切り出す。予想していた申し出を、アレンとルイは即答で
快諾する。
アレンの表情がこれまでの自分を見る時のものと微妙に異なることを、ルイは敏感に感じ取る・・・。
その日の夜。アレンが2階のテラスに佇んでいると、ルイが姿を現す。2階のテラスはアレンとルイの夜の逢瀬の場所として、当人達は勿論リルバン家に居る
人間の共通認識となっている。後者に関しては当人達は知る由もないのはよくあることだ。
敷地も含めて広大なリルバン家には逢瀬に絶好な場所が幾つかあるし、人目が気になるならどちらかの部屋に赴けば良いのだが、日中だとアレンは自分の
戦闘力を向上させるためにクリスをパートナーとして時にドルフィンの指導や助言を受けて実戦さながらの激しいトレーニングを続けているし、ルイは
悪魔崇拝者の襲撃に抗する国軍や厳しい生活を強いられている避難民の一刻も早い故郷への帰還に貢献すべく聖水作成に勤しんでいるから食事や
休憩時以外はあまり顔を合わせない。したがって2人が顔を合わせて話をするのは専ら夜になる。
カップル関係が成立して間もないと尚更寸暇を惜しんで顔を合わせたくなるものだし、アレンとルイも内心そうしたいのだが、アレンはドルフィンの助けを
得ずに自分自身でルイを護れるだけの力を得たいと思っているし、ルイは休職中とは言え聖職者の職務をないがしろに出来ない。クリスを含めたギャラリーは
幾分不満に思っているし、自分達の関係の進展に専念するよう2人をせっつかせたいのだが、2人の意識と問題だから口を挟むのは憚られる。
頻繁に顔を合わせない分、2人の時間を大切にしたいという気持ちはより強まるものだ。アレンとルイも日中別行動を執ることで恋愛感情が冷却すること
なく、新鮮さを維持する好材料となっている。
「・・・アレンさん。何かあったんですか?」
自分の申し出、すなわち生まれ故郷であるヘブル村への一時帰還への同行をその場で快諾したアレンに改めて同行を依頼して快諾を得た後、ルイは
本題に入る。フォンとの会談が終わってからアレンが何処かそわそわして落ち着かない様子で、今までのように自分を常に真っ直ぐ見つめるのではなく、
時々視線を自分の目から逸らすことが気になっている。
「否、別に何も・・・。どうして?」
「私の気のせいかもしれませんけど・・・、私と向き合う時のアレンさんの様子が今までと違うように思えて・・・。」
アレンは自分の視線の動向を悟られたと思い、ルイに責められているような気がする。アレンの視線は今までと違い、ルイの瞳だけでなく胸にも向けられて
いる。クリスの入れ知恵がアレンの異性に対する性的関心を刺激したためだ。
アレンは見ないようにしようと思ってはいるものの、どうしてもついルイの胸に目が行ってしまう。それだけにルイの指摘に答え難い。
「あの・・・、その・・・。」
言えば顰蹙を買うのが普通だとはアレンにも分かるが、誤魔化すことが出来ない。優柔不断なところがもろに出たアレンを、ルイはアレンが何か言おうとして
いるのかといった様子で少し首を傾げて見つめる。
ルイの辛抱強さに救われた格好のアレンは、どうすれば言いかあれこれ考える。その脳裏にクリスの見解が浮かぶ。
女の身体に興味持つんは自然なことやと思うで。
アレン君も男なんやし、恋愛は感情だけでずっと維持出来るもんと違うよ。
これまで外見から来る強い劣等感で抑え込まれていた男性としての意識と異性への興味や関心が、皮肉にもクリスの見解で刺激されて俄かに高揚する。
視線が彼方此方泳いでいたのが一転して急に真剣な顔立ちになったアレンに、ルイは傾げる首の角度を大きくする。流石のルイも男性と1対1になる
シチュエーションをこれまでまともに想像してこなかったし経験などまったくしていないため、アレンが次に繰り出す行動を予測出来ない。
アレンはこれまでとは対照的にルイを真っ直ぐ見据え、徐に左手を伸ばす。アレンの左手がルイの右手を軽く掴む。アレンの突然且つ予想外の積極的な
行動に、ルイは反射的に少し身体をびくっと震わせる。
「ア、アレンさん?」
ルイの驚愕を他所に、アレンは右手を伸ばす。男性らしくやや筋骨による凹凸が目立つが一見女性のものと見間違う白く細く長い指が、ルイの左頬を
掠めてルイの髪に差し込まれる。
髪は女性の多くが気にかける身体の構成要素の1つだ。気にかける分、馴れ馴れしく触れられると恐怖感や嫌悪感を感じるし、切られるなどの改変は
悲しみや怒りさえ呼び起こす。逆に髪に手をやることを許す相手は、友愛か好感かのどちらかは不明としても気を許していると読み取れる。自分が相手に
どう思われているかを推察出来る「髪に触れる」という行為の重要性は恋愛初心者のアレンは知らないが、ルイはアレンの思いもよらない行動に驚きはした
ものの髪に触れられることに抵抗は感じない。
「髪、綺麗だね。」
「最近・・・きちんと手入れをするようになりましたから・・・。」
村で中央教会祭祀部長として日夜聖職者の執務に励んでいた頃は、髪を手入れすることは二の次だった。ある程度の長さを超えたら切り揃えて毎日
身体と同様に洗う程度で、アピールポイントとして手入れすることはなかった。だが、オーディション本選出場のためにフィルの町を訪れる際、「髪も重要な
お洒落の1つ」とクリスが手入れ方法を教えた。入浴の際にこの石鹸とこの
ハーブ油52)を使う、洗い終わった後はしっかり水分を拭き取るなど細かく実践的な
指導で−併せて胸を揉まれもしたが−、ルイは具体的な手入れの方法を学んでいった。
髪の手入れはオーディション本選が終わればさほど気にする必要はないと思っていたが、開催までの滞在のために入ったホテルでアレンと出会ったことで
方針は一転し、アピールポイントとして髪の手入れに力を入れるようになった。意中の相手の気を引こうという年頃の女性らしい心理が活性化したことで、
母譲りの銀の髪は艶やかさと滑らかさを増し、
パーウェルス53)を髣髴とさせる煌きを湛えるようになった。アレンの手がルイの髪に伸びたのは、アピール
ポイントとして磨きがかかった髪に無意識のうちに引き寄せられたためだろう。
アレンの指がルイの髪の中でゆっくりと上下する。アレンは自分では出来ないしするつもりもない長髪−本当に同年代の少女と間違われてしまうという
危機感故のこと−に指が引っかからずに通る感触を味わい、愛撫するかのようなアレンの指の動きによって驚きによる身体の軽い硬直が解けたルイは、
アレンが触りやすいようにと首を少し前に傾け、身体1つ分前に進み出る。これだけでもルイがアレンに相当気を許していることが分かる。
暫くルイの髪に手櫛を通したアレンは、右手をルイの髪から抜き出すと今度はルイの左肩にそっと手をかけ、ルイの右手を掴んでいた左手と同時に軽く
自分の方に引き寄せる。やはり予想外のアレンの行動でルイは小さくあっと声を上げ、アレンの身体に密着する。ルイはこれまでの慎重で丁寧な−恋慕という
特殊なフィルターが億手を変化させて見せている−態度から打って変わって積極的な行動に出るアレンに驚きの連続だが、1人の男性との意識がこれまで
感じたことのない胸の高鳴りを生じさせる。ルイの右手がアレンの左手の緩やかな拘束の中で向きを変え、アレンの指の間に自分の指を差し込んで軽く
握り返す。ランディブルド王国で男性からの女性への交際の申し込みを受諾する風習の仕草であるが、ルイにとっては自分をアレンに委ねるという無意識から
生じる暗示でもある。
アレンは自分の左手が握り返されたことでルイが自分の行動を拒否していないと確信し、ルイの左肩を抱いていた右手をルイの背中に回して更に自分と
密着させる。驚きと何処か心地良くも感じる軽い圧迫感で、ルイは一度目を見開いた後全身から湧き上がる不思議で心地良い高揚感に浸るようにゆっくりと
目を閉じ、空いている左手をアレンの背中に回す。片方を握り合ってもう片方で相手の背中に手を回すという少し変わった抱き合い方だが、不思議と密着の
度合いは普通の抱擁より強く、より2人の想いの強さを感じさせる。
暫し抱き合った後、アレンはルイから少し身体を離して真正面から向き合う。アレンとルイは殆ど身長差がないため、少しでもどちらかが頭を前に動かせば
鼻先はおろか唇が触れ合うほどの距離に顔が近づく。アレンの顔しか視界に映らなくなったルイは最初こそ驚きや当惑が頭をもたげたものの、自分のみを
真っ直ぐに見据えるアレンの透き通った青い瞳を見ているうちに抱き合っていた時より強くて心地良い高揚と緊張感を感じる。アレンの瞳を見つめていると
何もかも許してしまいそうに思うし、許しても良いという誘惑めいた思いも浮上してくる。
ルイも年頃の女性だし、親友のクリスに色々と入れ知恵をされたことで年齢相応の性的知識を得てはいる。しかしその知識を利用したり行動に移すことは
村での生活では考えられなかった。聖職者として名を馳せるまでに年下から年配者まで殆ど全ての男性が蔑視や敵意の対象としたのに、地位と名声を確立
すると態度を完全に反転させたことや自分或いは自分の息子との結婚対象と見ていると耳にしたことで、村の男性はルイの恋愛対象になり得なかった。
アレンと出逢い距離を近づけ、ついにはカップル関係成立にいたったことで、ルイの中で店晒しになっていた知識が俄かに活性化している。
顔の距離がこれだけ近いとまず思い浮かぶのはキスだ。アレンの真っ直ぐな瞳と仄かに赤らんだ真剣な表情からは、自分とキスをしたいという願望を連想
する。ルイにアレンとのキスに拒否感はない。キスの間目は閉じるべきか、息を止めているのが良いのか息をするなら鼻で少しすれば良いのか、それだと息が
苦しくならないかといった心構えに関するめまぐるしい迷いと、今日のアレンが何時になく積極的のは何故かとの疑問が交錯している。
「アレンさん・・・。」
ルイの呟きのような呼びかけに、アレンはルイを真っ直ぐ見詰めることで応える。大きな瞳と端正な顔立ちの妙齢の男性、しかもカップル関係が成立して
間もない相手が至近距離で自分だけを見詰めている。良い意味で男性や恋愛に慣れていないルイにとって今のシチュエーションは、思考や迷いを蒸散
させて身も心も雰囲気とその流れに浸し委ねることへと走らせるには余りある。
頬を赤く染めたルイはその瞬間に備えてゆっくりと目を閉じる。アレンの左手を握る右手の力が自然と強まる。アレンは意を決したように顔を前へと動かし
始める。あと少し前に動かせば唇が触れる距離に達したところで動きは止まり、アレンは小さな溜息を吐く。
消えかけの蝋燭の炎を消すような小さい吐息がルイの唇に触れ、ルイはいよいよその瞬間が訪れると改めて覚悟を決める。だが、アレンは顔を更に近づける
のではなくゆっくりと遠ざけていく。アレンの謝罪でルイは目を開けてアレンを見詰める。アレンの表情は沈んでいる。
「御免・・・。ちょっと・・・先走り過ぎた・・・。怖かったんだね・・・。」
「そんなことは・・・。」
「震えてた・・・。」
アレンはルイが何ら抵抗しないことで関係を深めたいという意識が暴走し、キスをしようとしたところでルイが小刻みに震えていることに気がつき、沸騰して
いた頭が冷却されてキスするのを止めた。冷却された頭で改めて考えてみると、付き合い始めて日が浅くこれまで信頼関係の延長線上に留まっていたのに、
今日いきなりキスしようと試みたのだから唐突な印象は否めない。クリスの入れ知恵はアレンにとって刺激が強過ぎたようだ。
キス寸前まで進みながらアレンの急ブレーキで未遂に終わったことで、2人の間にやや気まずい空気が漂う。先ほどまでの相手しか視界に映さないほどの
接近が嘘のように、2人は満足に視線を合わせることさえ出来ない。強く結ばれていた手は既に解けている。
「出発は・・・、準備が出来たら言ってね。」
「はい。・・・おやすみなさい。」
「おやすみ。」
気まずい空気に耐えられない2人は、無難に共通項であるヘブル村への一時帰還に向けての合意を確認してこの日の逢瀬を打ち切るように終わる。
アレンは気まずさに加えて関係を進展させようと暴走したことに対する申し訳なさで居た堪れなくなり、テラスから足早に立ち去る。残されたルイは心の
何処かにあった恐怖感に近い躊躇が無意識に露呈したことでアレンの願望を拒否してしまったと思い、後悔を募らせると共に純粋に1人の女性になりきれて
いない自分を責める。
カップルになったとは言え意思疎通が十分出来ているわけではない。今回ではクリスの唆しとも取れる入れ知恵で異性に対する興味や性的関心を刺激
されたアレンと、知識はあったが使う機会がないままでいたルイとでキスやそれに至るまでの進め方で認識のずれがあった。2人はまだカップルの道に
踏み出したばかりだし双方恋愛初心者だから、意思疎通が欠かせない。話し合いというレベルに達しなくとも、2人の時間をもっと過ごしたり互いの認識を
深めたりといった過程を持つことが肝要だ。
アレンは部屋に戻るとドアを閉め、ドアに凭れ掛かり首を上に傾けて深い溜息を吐く。アレンの中では「キスしようという気持ちが先走り過ぎた」との後悔が
大勢を占めるが、「ルイさんも目を閉じていたんだからあのままキスしておけば良かったかも」と後ろ髪を引かれる気持ちが確かにある。フィリアの度重なる
アプローチでもびくともしなかったのにキスへの関心が強いのは、それだけ男性という意識がコンプレックスを押し返して前面に出て来た証拠だろう。
元を辿ればルイがアレンを1人の男性だと明言したことがコンプレックス克服への大きな足がかりとなった。そのルイとカップルとなった今、男性としての意識を
性的方向にのみ走らせるのでは駄目だとアレンは思い始める。
一頻り自分を責めたルイは、重い溜息を吐いて部屋へと向かう。
アレンとクリスには早いうちにヘブル村に帰還するつもりだと言った。一村の教会における要職である中央教会祭祀部長の職務をいたずらに空白にしておく
のは良くないし、今後の身の振り方も踏まえて進退を決める必要があると思うためだ。母が眠る村への愛着は強い。だが、フィルの町で出逢ったアレンの
父救出に協力したいと思うし、そのためなら村を出るつもりで居る。それなら尚のこと中央教会祭祀部長の役職を空白にしておくことは好ましくない。
聖職者という職業を初めて足枷と感じるルイに、クリスが後ろから声をかける。
「ルイ。肩落としてどないしたん?」
「ん・・・。別に何も・・・。」
まさかアレンとキス寸前まで進んで未遂に終わって気まずくなったと言えないから、ルイは言葉を濁す。クリスはそれ以上突っ込んだ質問はしない。
「ええ時間やし、風呂行こうや。」
「ええ・・・。」
「・・・もう少しやったのにな。」
少し間を置いて何故かしみじみとしたクリスの小声で、ルイは元に戻っていた顔色を一挙に紅潮させる。
「な・・・、も、もしかして・・・覗いてたの?!」
「偶然見かけてなー。陰からこう、ちょこっと。」
覗き見ていたことそのものは否定しないから、「偶然」なる枕詞はまったく信用出来ない。
アレンと手を繋いで抱き合い更にはキス寸前まで顔を接近させたところを一部始終見物されていたと思うと、間近に迫ったアレンの顔とその時の自分の
気持ちが一斉に思い起こされ、ルイは恥ずかしさで顔から火が噴出すような思いで俯く。
「アレン君、ちょいと先走り過ぎたなぁ。んでも、アレン君が迫って来たんは嬉しいんと違う?」
「・・・。」
「この先、ルイは1人の女として1人の男のアレン君と付き合っていくんや。言うこと言うて一緒に歩いてけばええ。」
冷やかし一辺倒でなく至極全うなアドバイスをするところに、クリスの人間性が感じられる。
クリスはアレンとルイのキス寸前に至った場面を偶然見かけたわけではない。夕食の最中からアレンとルイの様子を観察し、密かにルイの後をつけてしっかり
観察したのだ。アレンが男性としての性的関心を前面に出す様子はないし、ギャラリーの1人としてアレンに入れ知恵することで刺激し、進展を期待していた。
アレンが何故後1セームあるかないかまで唇を近づけておきながら目を閉じて待っていた−ようにしか見えなかった−ルイの唇をいただかなかったのかは
分からないし、刺激を与えたのは自覚しているがアレンがやや暴走気味だったような気もするから「黒幕」としては複雑な心境だ。しかし、傍から見ていて
どうも積極的でないアレンが年頃の男性らしい行動に出たのは、物心ついて間もなく正規の聖職者への道に踏み出して邁進し続けてきたルイが自分を1人の
女性だと認識するには必要だと思う。
「村に帰ったら総長とも話するんやろうけど、ルイの人生はルイのもんや。これからどう生きるかアレン君ともよう話し合って決めることやな。」
「・・・ええ。」
「あたしはルイが手伝ぅて言うたら手伝うよ。」
クリスは、ルイがアレンの旅に協力するため村を出るなら自分も出ることを仄めかす。
ホテル滞在中にアレンに語ったように、ルイはこれまで十分過ぎるほど聖職者として働き、あれだけ自分や母を散々な目に遭わせた殆どの男性を含む
村人達のために、そして母のために生きて来たと思う。その分これからの人生はルイが決めるべきだし、それに協力はしても干渉するつもりは毛頭ない。
併せて親友としてルイを護る決意を固めている。
村でも最近魔物の襲撃が続いている。元々魔物が少ない方であるランディブルド王国から出れば魔物と遭遇しない方が珍しいと推測するのは容易だ。
それに、魔物より人間の方がある意味はるかに怖いことをクリスはよく知っている。魔物は自分の生活圏を護ることに専念するが、人間は容易に他人の安全を
侵害し、時に私利私欲のために他人の生命を奪うことさえ躊躇わない。ルイが由緒ある家系の唯一人の実子と知った良からぬ輩からルイを護るため、ルイと
行動を共にするつもりだ。
「ルイが危険な目に遭うんを放ってはおけへん。」
「ありがとう。」
「ええ顔や。ルイはそうやないとな。」
クリスは、アレンと出逢ったのを境にルイが明るい笑顔を見せる機会が多くなったと分かる。
今までルイが密かに苦悶したり唇を噛んだりするところを見てきたから、その分笑顔で居られる機会を得て良いし、その大きな要因となり得るのがアレンだと
思う。ギャラリーとして見物したいという野次馬根性の存在は否定出来ないが、ルイの幸せを願うクリスの気持ちは純粋だ。そうでなければ、村という閉鎖
社会で10年以上もルイと孤独で厳しい戦いを続けられまい。
ルイの強い要望で隠密の出発となるが、教会関係者などを通じてルイとフォンの親子関係は伝わっているだろうから、ルイの一時帰還は事実上の凱旋
帰国となるのは間違いない。それは決してルイが望むものではないが、その時の人の立場はえてして当人の意向に沿わないものだ。
不遇な時代を過ごした1人の少女はこの先何処へ向かうのか、それは誰にも分からない。今は本人さえも分からない。
彼女が選ぶのは、神の教えと信仰から分離した人生か、それとも・・・?
用語解説 −Explanation of terms−
51)そやったら:「そうなら」「それなら」と同じ。方言の1つ。
52)ハーブ油:この世界におけるリンス。乾燥させた香りの良いハーブを細かく砕いて樹脂と混合して精製する。製品や国・地域によって価格は異なるが
基本的に安価で、整髪品として普及している。
53)パーウェルス:我々の世界で「天の川」に相当する。フリシェ語で「星の帯」を意味する。