その日の夜、専用酒場のカウンターにはイアソンとクリスが並んで座っていた。何時もならイアソンの情報収集を兼ねた世間話やイアソンの恋愛相談で
大いに盛り上がるのだが、今日は2人共口の回転も酒の進みも鈍い。ルイとフォンの面会が決裂したことが最大の要因だ。
円満に進む可能性は低いと踏んでいたが、ルイが泣いて飛び出してきたのを見た上に、後にロムノからフォンも泣いていたと聞いた。ローズを巡る感情が
複雑に絡み合って生じたルイとフォンの親子の断絶の溝は、予想以上に深刻だ。リルバン家の継承問題もさることながら、先代の時代から続く人間関係の
負の連鎖を断ち切らなければ、フォンとの再会を果たせずに逝ったローズも浮かばれまい。
「どないすればええんやろな・・・。」
クリスが、半分ほどボルデー酒が残ったグラスを片手で軽く揺らしながら漏らす。グラスに入った氷が立てる軽やかな音は、今はルイとフォンの和解に向けた
歩み寄りの期待のように空しく聞こえる。
ルイがローズを心から慕っていたことは、幼馴染であり親友でもあるクリスはよく知っている。敬虔なキャミール教徒だったローズを模範としてルイは正規の
聖職者への道へと踏み込み、厳しい修行と蔑視の視線や蔑みの声、陰湿な暴力にも懸命に耐えて、それらを完全に覆して平伏させるに余りある地位と名声と
信頼を勝ち取った矢先にローズを失った。フォンとの再会の日を待ち望んでいたローズを思うルイの心境は分かるつもりだ。
しかし、ルイとローズの母子と家族ぐるみの付き合いを続けてきたクリスは、ルイに無理強いするつもりはさらさらないが、ローズの死によって一時身寄りを
なくしたルイにもう1つの親子の絆を見出して欲しいし、それが長い苦難の時を生きる過程で傷ついたルイの心を癒す方策の1つだと思う。
「リルバン家の継承は、現時点やとルイが『うん』て言わんことには話にならへん。そやけど、フォンさんが今後新たに側室娶る可能性はないと思とる。」
「俺もそう思う。フォン当主がリルバン家当主を継承した後なら尚更、側室を迎えるのは容易だ。にも関わらずフォン当主が今まで側室を1人も迎えなかった
のは、清廉潔白な身でローズさんを正室として迎えるためだと考えるのが自然。フォン当主は婚約の証としてローズさんに特注品の指輪を贈り、ローズさんを
処刑したと見せかけてリルバン家から脱出させた。ローズさんとの再会が婚姻の時。それまで他の女性と関係を持たないことが、せめてもの身のあり方と
考えていたんだろう。」
「ルイは、当時のフォンさんの状況を聞いとらへんし、聞こうともせんやろうし・・・。」
クリスは深い溜息を吐く。
ルイとフォンの和解に向けては、ルイが先代在位中の状況を知ることも必要だ。だが、ルイは今日までロムノや自分からフォンに関する話を持ちかけられると
直ぐに、アレンの治癒に専念すると遮った。アレンの治癒を促進するためにヒールを継続使用するなどしていたのは事実だ。しかし、一方でフォンに関する
話は聞きたくないし、フォンと極力関わりたくないとする拒絶の意図もあったのも事実。アレンが全快したから今後それを口実とすることはないだろうが、
フォンとの面会を拒否するルイの姿勢に変化は期待出来ない。
15年の時を経て、1人の女性の遺志を受け継いで再会した1組の親子が断絶したままでいることを、イアソンとクリスは共に望んでいない。ルイとの接点の
角度は異なるが、当時のフォンとローズの置かれた事情を知った者として、ルイとフォンが純粋に親子の絆を育んで欲しいと願わずには居られない。
「・・・ルイは、これからどないするんやろ・・・。」
長い沈黙を挟んで、クリスが関連のある新たな問題を挙げる。
自分が出場を強く勧めたオーディションに出場したルイは、当初予選のみ出場して万一勝利−クリスだけでなく村の人間の大半は勝利を確信していたが
−したら
辞退すると言っていたが、予選の数日前にいきなり態度を180度変更した。クリスは、前言撤回とはルイにしては随分珍しいことをするとは思ったが、本選の
舞台となる首都フィルに興味や憧れが芽生えたのかと推測していたし、それはそれで何ら不思議ではないし、母を亡くして沈んでいたルイが村や教会の仕事
以外のことに目を向けるのはむしろ良いことだと前向きに受け止めた。
ルイの態度変更の理由は、母の形見であるフォンが贈った特注品の指輪をフォンに渡すためだった。その目的が果たされたかどうかは未確認だが、直接で
なくともロムノなどを介して間接的に渡せば、ルイがフィルに赴いた目的は達成されたことになる。これからルイはどうするのか、クリスは気がかりだ。
今までは以前アレンに語ったとおり、辛い過去が凝縮されている村に留まらずに、毎回束になって押し寄せる異動要請を受けて出世コースを邁進するのも
良いし、男性との交際に興味すら示さなかったのだから、フィル辺りで良い男性と出逢ってそのまま交際し始めるのも良いし、兎に角ひたすら母と村人の
ために注力してきた分ルイには自分の人生を満喫して欲しいと思っていた。今もその気持ちに変わりはない。しかし、ランディブルド王国で生まれ育った者と
しては、ルイにフォンとのを親子関係を認め、絆を育むことで、ゆくゆくはリルバン家を継承して欲しいとも思う。
先代が筆頭格だった強硬派が優勢だったことで、国民の多数は基本税率引き上げなど苦しい生活を強いられてきた。フォンの当主就任によって穏健派が
優勢となり、更に小作人はもとより小作人を雇用する貴族の生活を多方面から豊かにする政策を進めたことで、国民全体の生活水準は目に見えて向上した。
それは逆に言えば、フォンの王国議会に占める存在感が非常に大きいことを示している。
そのフォンの後継となり得る唯一の存在であるルイがリルバン家継承を拒絶し、やむなくフォンが新たに後継候補を作ったとしても、フォンの後釜に
相応しいだけの力量が備わるとは限らない。それより、村の中央教会祭司部長に就任したことに伴い、村の行政方針を決定する評議員会の一員になり、
祭司部長の職務と見事に両立している実績を有するルイがリルバン家を継承する方が、穏健派にとっても、穏健派が優勢であるために進められる施策の
恩恵を受ける国民の多数にとっても望ましい。
二等三等貴族の強硬派議員が提出した弾劾決議が全会一致で却下された背景には、思想の違いを脇に置いてフォンの執務能力の高さが評価されている
ことと、ルイがフォンの後継候補としてリルバン家に入ることでルイが辞職すると次代の有力な幹部候補が失われるという危機感が、王国議会議員を輩出
或いは兼任している教会幹部にあったためだ。フォンが引退の時期を迎えるまで、ルイが一定の期間教会が輩出する王国議会議員の職務を経験すれば、
教会と密接且つ良好な関係を確保した有能な後継候補となるだろうし、我が身で慈善施設の厳しい生活環境を体験したルイが次期リルバン家当主に就任
することは、国民の多数の今後にとっても非常に好ましい可能性を有する。
貧しさを肌身で実感した者が大成した場合の傾向は、自身の経験を国民に味わわせまいと福祉重視の施策を推進するか、欲求不満に置換した自身の
経験を掌握した権力で遡って満たし、今度は自分の番とばかりに権勢を振るうかの2種類に大別される。前者の代表例はボリビアの先住民族出身である
モラレス大統領であり、後者の代表例は日本の田中角栄元首相だ。
ルイと長年暮らしたクリスは、ルイが権力を得ることで報復措置に乗り出す、言わば「逆強硬派」となることなく前掲した事例の前者の側、すなわち穏健派の
政策を推進すると確信出来る。それは、自身が村の中央教会祭司部長就任と村の評議員会入りで生じた、自身を散々な目に遭わせた二等三等貴族などを
社会的に抹殺しようとした動きを阻止した実績からも間違いない。そういった観点からも、ルイの今後の動向が気になるところだ。
「ルイがアレン君とくっつくんはええけど、アレン君は父ちゃんの行方を追っとるんやろ?」
「ああ。それに元々この国を訪れたのは、アレンの父親を拉致したセイント・ガーディアンの仲間にドルフィン殿が強力な呪詛を伴う負傷を治癒させるためだ。
ドルフィン殿は完治したし、アレンもルイ嬢救出の際に負った負傷から回復した。この国に留まる理由はなくなったと言える。」
「そやと19、アレン君がどないするかでルイはこれからの行動決めるんと違うやろか?」
「あり得るな。十分。」
アレンとルイが両想いであることは、最早当人同士が相手に口にしていないだけの事実と化している。ルイがフォンとの和解を拒否し続けるなら、アレンの
誘いを受けてパーティーに加わり、行動を共にする可能性は十分にある。恋敵を超えて宿敵と認識しているフィリアが承服するとは到底思えないが、攻撃力と
防御・治癒力のバランスが著しく攻撃力に偏っているパーティーの今後を考えると、正規の聖職者であり称号以上の魔法も多数使えるらしいルイの参入は、
攻撃と防御の均衡を改善する大きな要素だ。参謀格のイアソンは、パーティーの今後という観点からはルイの参入は何ら不都合ではないと考えているし、
リーダー格のドルフィンとシーナも歓迎こそすれど反対はしないだろう。
「んなら、アレン君にルイを説得するよう頼む・・・んは無理やな。」
1つ提案をしかけたクリスは、その可能性の低さを想像して自ら否定に回る。
アレンはルイと両想いの上、先にルイからローズの末期(まつご)の出来事を聞いたことで、フォンにわだかまりを抱いている。今日のルイとフォンの面会も、
アレンから後に聞いた話ではルイに母の遺志を叶えるために形見の指輪をフォンに手渡して欲しいと言い、ルイが面会を決意したことでようやく実現した
くらいだ。
アレンがルイにフォンとの話し合いに応じるよう提示しなかったことを叱責するつもりはない。しかし、先代在位中のフォンとローズが置かれた事情を頭では
分かっているがどうしても腑に落ちないでいるアレンに再びルイの説得工作を行うよう依頼しても、その方向で動くことは望み薄だ。
クリスはグラスを傾ける。空になったグラスで氷が立てる音が、これほど軽々しく空しく聞こえたことはない。
ウェイターがクリスのグラスにボルデー酒を注ぐ。鋼鉄の肝臓を持つクリスを酔わせる難易度は、解決困難な問題に直面した今日は更に上昇している。
ウェイターは酒蔵の酒を発注してはいるが−それだけクリスが飲んだということ−、今日だけでクリスに飲み尽くされないかと少々不安だ。
「・・・アレンが事態打開に向けた鍵になるのは、間違いない。」
同じくボルデー酒がまだ半分以上残っているグラスを少し傾けた後、イアソンが言う。
ドルフィンとシーナは、私生児として出生し、しかも戸籍上死んだことになっている女性の子どもということで苛烈な過去を持つルイの心の傷をこれ以上抉り
たくないとして静観の構えだ。リーナは相変わらずと言おうか、自分には関わりのないこととばかりに素知らぬふり。フィリアはアレンを巡ってルイと激しく対立
しているから、説得の依頼は対決を煽ることになりかねない。イアソンもドルフィンとシーナと同じく、ルイの心情を思うと静観せざるを得ない。
ルイの苦難を間近で見てきたクリスは尚更。
となれば、ルイを説得出来る可能性を有するのは、自ずとアレンに絞られる。
「んでも、それやとアレン君をどないして説得するかが問題やない?」
クリスが先に提示しかけて直ぐ否定に回ったように、アレンがルイを説得する可能性は極めて低い。その可能性に賭けるくらいなら、アレンとルイのどちらから
告白するかに賭けた方が、他愛もないが現実的ではある。
「アレン君は先に、ルイからルイの立場からの事情聞いとるでな・・・。アレン君もルイも責めるつもりはあらへんけど、それが話ややこしぃしとる。」
「そうだな。ただ聞いただけならまだしも恋愛感情が先行してるから、無意識にでも好きな相手の側に回っちまう。」
「アレン君のお父ちゃんを探す旅は、何時再開するんや?」
「未定だ。オーディションを通じて関わった以上リルバン家の問題を解決してから、って流れになるだろう。ドルフィン殿に確認を取ってないから推測の域を
出ないが。」
「せっか・・・。んなら、まだまだチャンスはあるっちゅうことやな。」
クリスは陽気でお調子者であるだけでなく、前向きな性格だと分かる。この性格があったからこそ、村人がこぞってルイを敵視・蔑視する中たった1人でルイを
護り続けて来られたのだし、ルイに味方したことで村八分にされても屈せずに来られた。ドルフィンとの勝負で触れることすら出来ずに完敗しても、臆する
どころか新たな目標と位置付けてトレーニングに力を注いでいるように、問題や課題を受け止めるだけでなく、打開に向けた可能性を見出し、それに向けて
行動するポジティブな思考は、特に逆境においては自分だけでなく他人を信頼し、また信頼されるための強固な支柱となる。ルイが正規の聖職者として名を
上げるに至ったのは、何物にも屈しないクリスの底抜けの明るさと心身の力強さを間近で見てきたことも要因だろう。苦難を共にしてくれる存在が居るだけでも
心強いものだ。
正規の聖職者として大きな到達点に達したルイには、1人の女性として、1人の人間として、これからの人生を歩んで欲しい。
薄い琥珀色のボルデー酒にルイの行方を思い描いたクリスは、静かにグラスを傾ける・・・。
翌日。ルイはベッドに伏した体勢で目を覚ました。
フォンが純粋に親子としてではなく、一等貴族後継問題と絡めて自分との面会に臨んだと先読みし、言葉を連ねるに従って増してきた、母への愛情が一等
貴族後継のためだったのではないかとの疑念や不振、怒りや悲しみが頂点に達したところで、指輪を置いて応接室を飛び出し、自分の部屋に駆け込み、
声を聞かれないようにと口を手で塞いで泣いた。そのまま泣き疲れて眠ってしまったと悟ったルイの中で再び怒りや悲しみが活性化し、平静に振舞え
なかった情けなさややるせなさが加わる。
重い表情で自嘲の溜息を漏らしたルイは徐に立ち上がり、涙の感触を感じる頬をハンカチで拭い、部屋に飛び込んだ衝撃で若干乱れた服装を整えてから
部屋を出る。程なく使用人数人と出くわし、丁寧な挨拶の後に使役の申し出を受ける。ルイはまだ多大な違和感を感じつつも丁重に礼を返し、着替えと
入浴を依頼する。
専用浴場へは別途呼ばれた
専任の使用人とメイド20)に案内され、着替えはメイドに用意される。メイドが退室した脱衣所に据え付けられた鏡で、泣き
腫らした目が充血しているのを見る。情けなさややるせなさで再び溜息を吐いた後、ルイは入浴と着替えを済ませて専用浴場を出る。動き難かったドレスから
ホテルで着ていたものに近い服に着替えたことで、ルイは少し気分転換が出来たような気がする。
食事のために専用食堂に向かう。専用食堂には誰も居ない。北側に据え置かれたルイの身長ほどはある柱時計は、7ジムを半分ほど過ぎた時刻を指し
示している。5ジム起床の毎日を過ごしていたのに随分長く寝ていたものだ、とルイは自嘲気味に思う。
案内されたテーブルに腰を下ろし、出されたメニューの中から朝食の1セットを選んで依頼する。案内された際に出された水を一口飲んで、ルイは今後の
ことを考える。
アレンの勧めを受けてフォンとの面会に臨み、母が死の間際に託した指輪を渡した。これでオーディション本選出場の真の目的は達成された。
当初は目的を達成すれば速やかに村に戻り、村の中央教会祭司部長に復職して職務に励むつもりだった。しかし、アレンと出逢ったことでルイは村への
帰還を先送りにしている。オーディション本選の前夜にアレンと交わした約束、すなわち1人の女性として1人の男性に話を聞いてもらうことを果たしたい
ためだ。
その後はまだ決まっていない。無論アレンの父を探す旅に同行出来るならしたいと思う。しかし、それなら村の中央教会祭司部長を辞職する必要があると
思う。帰還が何時になるか分からないのに休職のままでは、村の教会関連行事の他にも村の評議員会委員が欠員のままになってしまい、職務遂行に支障を
きたすからだ。しかし、それを村の人々が容易に承諾するとは思えない。
自身がオーディションの予選で8割以上の票を得たのは、オーディション本選が終わったら自分が村に帰還するものと人々が思ってのことだと、ルイ自身
分かっている。村の教会関係者や村長などが、将来的には自分に村の中央教会総長に就任してもらいたい意向だと、何度か耳にしたことがある。村の人々の
期待を一方的に反故にするのは憚られる。
他の町村からの異動要請は増えることはあっても減ることはない。特に此処フィルにある国の中央教会や6つの地区教会からの異動要請には、王国議会
議員の職を用意しているものが多数見受けられる。イアソンからは、先日フォンに対する弾劾決議が教会関係者の猛反対もあって却下されたと聞いたが、
それはフォンの辞任に伴い自分が自動的に後継当主に就任することで王国議会議員候補が失われるという危機感があってのことだと推測出来る。
村の中央教会祭司部長と評議員会委員に就任することで、自分の発言力や影響力が強大なものとなったことを常々実感してきた。断っても尚ひっきり
なしに届く他町村の教会からの異動要請は、地位上昇に伴って更に発言力や影響力が増すことを容易に想像させる。
村だけでなく国全体に関与して欲しいとの意向を自分の感情のみで一蹴して良いものか、ルイは分からない。これまで自分を圧殺し、他者への施しや信仰に
専念してきたルイには、自分の意思を優先するという選択肢が浮上しないのだ。
「ルイさん。」
これからのことを漠然と考えていたルイは、呼びかけられたことで即座に我に帰って声の方を向く。タオルを首にかけたアレンを見て、重いままだったルイの
表情が一気に晴れ上がる。
時間に余裕が出来たアレンは、今朝からイアソンとクリスの合同トレーニングに参入し、戦闘技術と体力の向上を図っている。まだ傷が治癒して間もないため
体力が低下しているから、一旦切り上げて休憩するために専用食堂を訪れたのだ。イアソンとクリスは実戦を想定したトレーニングを続けている。イアソンは
諜報活動の最前線で活動していた関係で意外に体力が高い。自らの肉体のみを武器と防具とするクリスは言うまでもない。
「アレンさん。おはようございます。」
「おはよう。今から朝食?」
「・・・はい。」
泣き疲れてベッドに伏したまま眠り、大幅に朝が出遅れたことをアレンに知られて、ルイは恥ずかしさで口篭る。
「この機会にゆっくりすると良いよ。ルイさんは今までずっと頑張ってきたんだから。」
「・・・はい。ありがとうございます。」
アレンが朝の出遅れには一切言及せず、自分を労わってくれたことで、ルイは気を取り直すと共にアレンへの好感を更に強める。
自分自身に常に叱咤激励を続けてきた、言い換えれば向上心の塊だったルイにとって、自身の労苦や休養の意思を口にすることは半ばタブーだった。
向上心は必要だ。しかし、時として自己否定に繋がる。向上心とは「今の自分では駄目だ」として自分を高めようとする気持ちだからだ。向上心が強まる
若しくは煽る煽られるばかりでそのときの自分を納得させることがないままでは、「まだまだ駄目だ」と自分に更に鞭打ち、意向に反して結果が空回りし続ける
ことでやがて心労が蓄積して、最悪過労で倒れるか鬱病を患い自殺に至る。
過労自殺が発生するメカニズムはこのように意外に簡単だが、成果主義などと称して向上心を悪戯に煽るのはその簡単な過程を把握していないか、
労働者を部品と見て使えなくなったら交換すれば良いとする文字どおりの使い捨てにひた走っているかのどちらかだ。過労自殺やメンタルヘルス問題の
多発の背景にある成果主義の本質は、出来るだけ人件費を削減したい雇用者が、労働者を長時間安く働かせることで搾取を強めることにある。「頑張ったら
頑張っただけ収入が増える」のはごく一握り、否、一つまみの労働者に過ぎない。
成果主義を持ち出したら、その人物なり労働組合−労働組合の多数が雇用者の意向を反映するだけの御用組合に成り下がっているのは厳然たる
事実−は更なる搾取を企てているとして早急に見限り対決するのが、自分の健康と安全のためだ。そういった連中が労働者個人の健康や安全を考慮して
いるなら、過労自殺やメンタルヘルスの問題が激増する筈がない。
「相席・・・、良いかな?」
「はい。勿論です。」
遠慮気味に尋ねたアレンに、ルイは二つ返事で快諾する。アレンはルイの向かいの席に腰を下ろす。休憩が目的のアレンは、応対にやって来たメイドに
冷やしたティンルーを注文する。アレンは何か言いたげだが躊躇している様子を見せる。ルイは若干嫌な予感を感じる。
「・・・昨日のことなんだけど。」
切り出された辛い出来事に言及されると知って、ルイは反射的に表情を硬くする。
「終わったことです。もう・・・。」
「指輪は渡した?」
「え・・・?」
フォンの話を聞くべきだなどと批判される前に強制終了させようとしたルイは、アレンにフォンとの面会ではなく指輪のことを尋ねて一瞬当惑する。
指輪は極限に達しようとしていた高ぶる感情の中で指から外し、フォンの前に置いた。だから、ルイの右手人差し指には指輪はない。アレンはルイの右手
人差し指に指輪がないのを見て、指輪をどうしたのか聞きたかったのだが、どうしても昨日のフォンとの面会に言及する必要があったため躊躇っていたのだ。
「・・・あ、はい。置いて来た、と表現する方が適切でしょうけど・・・。」
「なら、良いんだよ。」
「・・・?」
「俺がルイさんにして欲しかったのは、ルイさんのお母さんの願いを叶えてあげることだから。」
昨日の面会を叱責されると思いきや、母から託された指輪をフォンに渡したことにアレンが安心した様子を見せたことで、ルイは最初こそ少し戸惑うが、
程なく深い安心感へと変貌する。アレンはルイの心の傷を刺激したくない一心なのだが、フォンとの親子関係やリルバン家継承を持ち出されないだけでも、
今のルイにはありがたい配慮となる。アレンの鈍さが結果的に功を奏した格好だ。
「ルイさんのお母さん、天国で喜んでるよ。願いが叶って。」
「・・・私もそう思っています。」
体裁は別として母の遺志を叶えたことには違いない。ルイの表情が少し緩む。
「さっきまで・・・、これからのことを考えていたんです。」
「結論を急ぐ必要はないからね。」
「はい。色々な事情が複雑に絡んでいるので、この機会にじっくり考えることにします。」
ルイが頼んだ朝食と共に、アレンが頼んだ冷えたティンルーも運ばれてくる。ルイは遅い朝食を食べ始め、アレンはティンルーで喉を潤す。
ティンルーは一般には温かいものを飲むのだが、ティンルーの銘柄によっては冷えたものが美味として推奨されているものもある。冷蔵設備が発達して
いないこの世界においては、無論冷えたものは高価な部類に属する。ティンルーの冷たさとほんのり加減の苦味、トレーニングで火照った身体に清涼感を
齎す。
「アレンさんは何をしていたんですか?随分汗をかいていますけど。」
「あ、これ?イアソンとクリスのトレーニングに加えてもらって、一緒に実戦を想定したトレーニングをしてたんだ。」
「実戦想定のトレーニング、ですか。クリスは村でも頻繁にしていました。『武術は実戦で使えてこそ真価を発揮する』とクリスのお父様も仰ってましたし。」
「俺はまだ完治して間もなくて体力が下がってるから、ってことで一足先に休みに来たんだ。」
「クリスはトレーニングを日課にしている側面がありますけど、アレンさんはどうして?」
「ルイさんが攫われた時、ルイさんを助け出すのが精一杯で顧問相手にまともに戦えなかったのが情けなくてね。ドルフィンに言われたのもあるし。」
少し神妙な面持ちになったアレンは、今朝のドルフィンとのやり取りを話す・・・。
ルイとフォンの対面が失敗に終わったことを受けて、5ジムに目覚めたアレンは複雑な気持ちで着替えて部屋を出て、朝食を摂るべく専用食堂へ向かう。
アレン達に配分されている部屋はルイとクリスの部屋を含めて全て3階にある。東側からルイ、クリス、アレン、イアソン、ドルフィンとシーナ、リーナ、フィリアと
いう順だ。意気投合して久しいクリスとイアソンは、昨夜も相当飲んだにもかかわらず一足早く起きて専用食堂で食事を摂っている。リーナは合成実験を
含めた−実験室は別途用意されている−薬剤師の勉強を再開したことで、元々の夜行性が再燃して朝は非常に遅い。フィリアも朝が弱いタイプだから
起きるのはもう少し先だ。
アレンは途中でドルフィンとシーナに出会う。アレンと挨拶を交し合ったドルフィンとシーナはアレンの表情が冴えないことから、やはりルイのことが気がかり
なのだと即時に察する。ドルフィンとシーナは、ルイやリルバン家の事情に関しては主にイアソンから間接的に聞いてきたため、第三者的な立場で居る。
一方、アレンが事実上ルイと両想いであることは勿論とうに把握している。元を辿れば、アレンがルイに関心を持ったと言い始めたのがシーナなのもあるが、
アレンが燃え盛る倉庫に脇目も振らずに突入し、重傷を負った身体に止めを刺すことになるのを承知でオーディンを召還するなど徹底的に顧問と対峙した
ことや、称号からすれば本来多大な魔力消耗を伴う筈のプロテクションをセイント・ガーディアンでなければ破れないであろうほどにまで強化して、ルイが
意識を失ったアレンを懸命に護ったことからも、2人の間に芽生えている共通の感情を把握するのは容易だ。
「考えてるのね?ルイちゃんのこと。」
「え?ど、どうして分かるんですか?」
「分からない方が不思議だと思うけど。」
いきなり核心を突かれておろおろするアレンを、シーナは微笑ましく思う。
「今後はどうなるか、どうするかは分からん。だが、出来ることはある。」
「・・・俺にまたルイさんに言え、って?」
「否。強くなっておくことだ。アレン、お前自身がな。」
再度気の進まない依頼が持ち出されるのかと無意識に身構えたアレンは、ドルフィンの真剣な表情で冗談を言っているのではないと察する。
元々ドルフィンは冗談を言ったりするタイプではない。場を和ませるのは専らイアソンと時にシーナで、ドルフィンは旅の行程やパーティーの状態を把握し、
次の行動や目的地に向けて先導する指揮官だ。抜群の戦闘力と行動力が伴うから、パーティーは各々の人間関係を超越してドルフィンの言葉に耳を
傾けるし、ドルフィンに続く。
行動せずに命令だけは頻繁且つ立派にするお飾りの上役など、特に現場では何の役にも立たないばかりか無用な混乱や対立を増やすなど、害悪でしか
ない。
「俺はお前の父親を救出するまで行動を共にすると約束した。それは今後も継続することは言うまでもない。だが、今回の事例のように、何時でもお前の傍に
居てザギやその手下の攻撃から護って居られるとは限らん。謀略など悪知恵に関してザギが秀でているのは間違いない。それに奴は一応セイント・
ガーディアンだ。今後も謀略と組み合わせてお前を俺やシーナから引き剥がして、お前を殺して剣を奪おうと仕向けてくるだろうし、そうなる方が自然だと
考えたほうが無難だ。」
「・・・。」
「クルーシァがガルシア一派の手に落ちた後、セイント・ガーディアンが衛士(センチネル)をどれだけ増やしたかは分からん。だが、ホークの顧問としてザギの
命令を受けて動いていた衛士(センチネル)ですら、今のお前では相手にならなかったのは事実だ。ザギだけじゃない。シーナが粉砕して周囲の空間ごと
異次元に叩き込んだゴルクスを除いても、ガルシア一派のセイント・ガーディアンはまだ2人居る。奴らがクルーシァに居座って今後安穏とするとは思えん。
何を企んでいるのかは分からんが、何かをしでかすつもりで居るのは確かだ。その1つに、お前から『大戦』の時代から伝わる『7つの武器』の1つである
お前の剣の争奪戦が含まれているのも確かだ。」
「・・・。」
「何時何処でザギやその衛士(センチネル)、或いはクルーシァから差し向けられたセイント・ガーディアン本人を含む援軍と対峙するか分からん。その時
パーティー全員で総力戦が出来るとは限らん。ザギはパーティーの戦力を人的か物理的か手段を選ばずに削って、お前を殺して剣を奪おうとするだろう。」
「・・・。」
「親父さんを本気で助けたいなら、彼女を本気で護りたいなら、アレン。お前自身が強くなれ。最後に頼れるのは己の力だ。」
淡々とした口調で紡がれるドルフィンの言葉は、重厚で深みがある。
アレン自身、ルイを助け出さんと勇んだは良いが、「その後」はまったく駄目だったと思う。ドルフィンの助けがなかったら、ルイの防御が破られた後で顧問に
よってルイと共に殺されていただろう。父を助け出すために住み慣れた村を出たのに、道半ばで息絶えては話にならない。
何より、護るべき相手であるルイに護られたことが悔しくてならない。負傷の治癒に大きく寄与してくれたことも含めて、ルイの助けがありがたかったのは
勿論だ。しかし、自分が「男」として本領を見せるべきだった場面で防戦一方になり、挙句の果てには吐血して昏倒した。これではルイを護るどころの話では
ない。あの場面でろくに「男」を発揮出来なかった不甲斐ない自分への怒りとルイを護りたいという想いが融合し、アレンの中で1つの強い意志が生じる。
「・・・どうしたら、強くなれる?」
「一朝一夕には無理だ。それに、俺と同じになろうとしないことだ。」
ドルフィンに「男」の理想像を見出していたアレンは、自身を目標とすることを否定されて戸惑う。
「筋肉を増量出来る量には個人差がある。アレンは筋肉質になれる体質じゃない。だが、瞬発力と敏捷性は俺を上回る可能性を秘めている。それを攻撃力と
防御力に反映させるように強さを増す方が近道だ。」
「他人の模倣ばかりじゃなくて自分の持ち味を生かせ、ってことだね?」
「そのとおりだ。」
アレンが我が意を得たと確信したドルフィンは、薄い笑みを浮かべる。
「攻撃力と防御力に共通する基盤でもある体力も、まだまだ増強の余地がある。体力がないことには戦えん。」
「鍛えるよ。これから。」
「幾つか注意しておく。適度に休息を取ること。最初から全力を要求することをしないこと。継続すること。これらが鍛える上でのポイントだ。」
目標が明確になって意気込んだアレンに、ドルフィンが釘を刺す。自身の経験を踏まえたドルフィンの忠告は、至極当然のことだが見落とされやすいこと
でもある。
闇雲にトレーニングを継続するばかりでは、筋肉疲労が蓄積される一方で解消されない。最初から全力を出し切ろうとするといきなり壁にぶつかり、挫折
しやすくなる。所謂「体育会系」で今でも見られる「しごき」という名の非科学的な訓練は、心身を疲弊させるだけで当人には有害無益だ。
「しごき」が根強く存在するのは、「自分が経験させられたのだから今度は自分が経験させる立場になる」という年功序列の誤った認識と、「黙って言うことを
聞け」と頭ごなしに押し付ける軍隊式の抑圧が「心身の鍛錬」なる名目でスポーツに持ち込まれた名残である。何かにつけてまず精神論を唱える連中の
言動を分析すれば、そういった共通事項や背景が見えてくる。
端的な例が「美しい国」であり「愛国心」だ。「国とは何か」「愛国心とは何か」という定義もなしに精神論を声高に叫ぶ一方なのは、「国」や「愛国心」に議論が
及んで深まると、実はそれが自分自身や自分を含めた支配勢力であるとの結論に達する、ひいてはこれまで形を変えて継続してきた支配従属の構図を形成
する手段や方策や「実績」が否定されるためだ。この手の精神論やそれを口にする輩には十分注意した方が良い。
「分かった。」
「イアソンとクリスは意気投合して自主的にトレーニングに励んでいる。言えば加えてくれる筈だ。」
ドルフィンとシーナの見送りを受けて、アレンは小走りで専用食堂へ向かう。朝食の時間が惜しくてならない・・・。
「−こんな話があったんだ。」
「申し訳ありません。私のせいで・・・。」
「ルイさんが謝る必要なんてないよ。」
自分が絡んでの事態に頭を下げるルイを、アレンは少し慌てて制する。
「俺自身、もっと強くならなきゃいけないって思ってたんだ。あの時ルイさんの拘束を解くのがやっとだった自分が情けないし・・・。それに・・・。」
アレンは一呼吸置いてルイを真っ直ぐ見据える。
「俺を初めて1人の男と認めてくれたルイさんに、男らしいところを見てもらいたいから・・・。」
自分を意識しての率直な発言に、ルイは少し頬を赤らめて俯く。そんなルイを見てアレンも直球過ぎたかと思い、気恥ずかしさで俯く。
何処から見ても初々しいカップルの2人は以後ボツボツと言葉のキャッチボールをしながら、アレンはティンルーを啜り、ルイは朝食を進める。2人の様子は、
専用食堂を主な仕事場所とする使用人とメイドの話題となり、瞬く間にリルバン家邸宅全体に広がっていく・・・。
用語解説 −Explanation of terms−
19)そやと:「そうだとすると」「それだと」と同じ。方言の1つ。
20)専任の使用人とメイド:一等貴族の親族には、その人物の世話を専門に担う使用人やメイドが配置される。ルイの場合は唯一人のリルバン家継承候補と
いうこともあり、使用人とメイドが3名ずつ配置されている。ちなみにこれは当主と同じ人数である。