「よいしょ、よいしょ。」
フィーグ邸の井戸の底から規則的な掛け声が聞こえて来る。煉瓦で作られた井戸の縁に、白く華奢な右手がかかり、続いて左手がかかる。「よっと。」
アレンは両腕を立たせて上体を井戸から出して、転げ落ちるように井戸から出る。「アレーン。大丈夫―ぅ?」
井戸の中からフィリアの声がする。「大丈夫。上がってきてよ。」
アレンは井戸の中に顔を突っ込んで答える。暗闇の中から釣瓶を少しずつよじ登って来るフィリアの姿が見えて来る。「ありがと、アレン。」
「痛ててて…。取り敢えずどいてくれない?」
「うーん。そんな冷たいこと言わないでぇ。」
「ちょっと!何やってんのよ!早く手貸しなさいよ!」
井戸の中から苛立ちが多分に篭ったリーナの声が響いて来る。「さ、ほら、あの娘を引き上げないと…。」
アレンは体よくフィリアをどかして、井戸の中に身を乗り出して手を差し出す。リーナの表情もやはり必死だったが、その目にはフィリアの時とは違い、「引っ張るから、しっかり捕まっててよ。」
リーナは黙ってアレンの腕を掴む。アレンは一気にリーナを井戸から引っ張り上げる。その勢いでリーナもフィリアと同じ様にアレンの上に乗りかかる。「もうちょっと丁寧に扱いなさいよ!」
「ご、ごめん…。」
「な、何すんのよ!いきなり!」
リーナは服の水分を吸って泥になろうとしている土を払いながら怒鳴る。フィリアはそれに答えず、目前で何が起ったがよく飲み込めていないアレンの「アレン!自分が何してるか分かってんの?!」
「え?!」
「え?!じゃないわよ!女なら誰でも良いの?!よく考えなさい!」
「ふーん…。あんた、やきもち焼いてんだ。」
フィリアはアレンを揺さぶっていた腕を止めてリーナを見る。「あんた、あたしがそいつの上に馬乗りになったんで、変なこと考えたのね。くっくっくっ…。」
「な、何がおかしいのよ!ええ?!」
「後で思う存分、そいつに馬乗りになれば良いじゃない。逆でも良いけど。くくくくく…。」
率直なことを平気で言うリーナに、アレンとフィリアは唖然としたままリーナを見る。リーナはくすくす笑いながら立ち上がる。「あんた達、そういう関係だったんだ。どうりであんなにむきになる訳だ。こりゃあ、悪いことしたわねぇ。」
「い、良いでしょ!自分の彼氏なんだから!」
「ちょっと待てよ。何時の間にフィリアの彼氏に…むがっ?!」
「いちゃつくなら、これからどれだけでも出来るわよ。」
リーナは笑うのを辞めずに、二人の横を通り過ぎて通用口のドアを数回叩く。少しして、廊下を走って近付いて来る足音が聞こえてきた。「どちら様でしょうか?」
「あたしよ。」
「お嬢様?!一体どちらへ…?」
「良いから開けなさい!」
「た、只今。」
「お嬢様。こんな時間に一体…?それにずぶ濡れ…。」
「あんたには関係のないことよ。」
「何ぼけっとしてんの?!早く入らないと閉め出すわよ!」
アレンとフィリアは慌てて立ち上がり、建物の中に駆け込む。ドアが閉まり、女性が再び鍵をかける。「只今タオルをお持ちしますので。」
「早くしてよね。」
「そう言えばあんた、お父さんを助け出すんだってね。ドルフィンから聞いたわ。」
「あ、ああ。そうだけど…。」
「平和なもんねぇ。ドルフィン巻き込んだ挙げ句、彼女まで連れちゃって。そんなお気楽な旅なわけ?」
「ち、違うよ!フィリアは…。」
「あたしはアレンといつも一緒なの。言い換えれば一心同体。あんたも何だかんだ言ったって、本当は羨ましいんでしょ?」
「別に。」
「やせ我慢しない方が良いわよ。」
「あんたも悲惨よねえ。こんな狂暴でがさつで胸のない女に付きまとわれて。これだけは同情してあげるわ。」
フィリアは気にしていることをずばりと言われて、怒りで顔を歪めて言い返す。「何よ!あんたみたいな、冷酷で背の低いウエストのない女よりはましよ!」
リーナの表情が少しずつ怒りのそれに変わっていく。こちらも気にしていることを言われて、相当感情を害したようだ。「…言ったわね。胸なし女。」
「お互い様よ。ウエストのない女。」
「相変わらずだな。ちょっとは良くなるかと思ったんだが…。」
「ドルフィン!」
「待ってたぞ。三人とも、本当に良くやった。」
「彼女がタオルを抱えて『お嬢様達がずぶ濡れで通用口に現れた』って知らせてくれてな。」
「まだ水浴びには早いけどね。ドルフィンとの約束だからね。」
「取水口が近道になることを前に話したことが、こんな形で役に立つとはな。」
「ドルフィンがこの町に来て取水口を初めて見た時、それに興味を持って調べたんだもんね。」
「あの時は下らん好奇心だったんだが…。意外な時に役に立つことが在るもんだ。」
「どうだ?リーナの道案内は役に立ったか?」
「そうですね。道案内は良かったんですけど…。勝手にどんどん先行かれちゃうのは、ちょっと…。」
「リーナ…お前…。」
「だ、だって…。夜中にこいつらの道案内するために水浴びするの厭だったんだもん…。」
「しょうがないな、全く・・・。」
「御免なさい…。」
「気が進まなかったのは分かるが、引き受けた以上はちゃんとやらなきゃいかんぞ。」
「でも、彼女がいてくれて助かったよ。」
ようやくフィリアの手の蓋から解放されたアレンは言う。「ほう。そうか。」
「うん。往復の道案内はちゃんとしてくれたし、それに、あんなに強いしょ…。」
「い、痛い…。」
「あーっ!!何すんのよ、あんたぁ!!」
「あたしを殴ったのはまだしも、アレンを殴ったのは絶対許さない!!」
リーナは何故か当惑しているような表情で自分の右手とアレンを交互に見ていたが、フィリアにはそんな事など目に入る筈はない。「お、お嬢様!」
「フィリア、止めろ!」
「止めないか!」
「放して、放してー!こいつ、絶対殺す!!絶対許さない!!」
物凄い力で暴れ狂うフィリアを、アレンは羽交い締めにするのが精一杯だ。「お嬢様! 大丈夫ですか?!」
リーナは相当強く殴られたらしく、顔を赤く腫らし、鼻と口から赤い筋が滴り落ちている。「放してったらぁ!!」
「な、何て力だ…。」
「お嬢様。鼻血が…!」
女性はハンカチをポケットから取り出し、リーナの赤い筋を拭う。しかし、鼻からの赤い筋は、その勢いを止める気配はない。「いかん。早く手当てしてやってくれ。」
「は、はい!」
「許さない!!絶対許さない!!」
「止めろってば!フィリア!」
「止めないでーっ!」
「やれやれ。魔術師より剣士か武術家になった方が良かったんじゃないか?」
ドルフィンもフィリアの暴れようには驚いたらしい。「何をしたの?」
「『気』を送り込んで脳を沈静化させたついでに、眠ってもらった。これ以上暴れられたらお前がもたんだろう。」
「た、確かに…。」
「すまんが部屋に運んでやってくれ。リーナには俺から言っておく。」
「痛かったか?」
「かなり…。平手打ち食らったのって、これが初めてなんだよね…。まだヒリヒリする…。」
「とんだ初体験だな。しかし、お前達は本当によくやった。一応付けておいた護衛も発動しなかったようだし。」
「護衛?」
「何これ?」
「オーディン31)だ。お前達に生命の危険が及ぶようなら即座に援護するようにしておいた。」
「そうだったの?何時の間に…。」
「お前達が部屋を出る直前に、こそっと召喚して後を追わせたんだが・・・。敢えて言わなかった。お前達が折角自分達の力で何とかするって言ったから、
それをむざむざ邪魔したくはなかった。かと言ってアレン、お前にもしものことがあったらお前の親父さんに顔向けできん。」
「俺はそんなに冷たい人間じゃないつもりだ。」
「…分かってるよ。」
「今日はゆっくり休んでくれ。フィリアは当分目が覚めないようにしておいたからな。」
「どのくらい?」
「半日ほどだな。残りの魔水晶と腕に絡み付いているアーシルは褒美と言っちゃ何だが、お前にやるよ。」
「本当によくやってくれた。後は俺に任せておいてくれ。」
「わぁーっ!!」
「た、助けてくれーぇ!」
「腰抜けどもが。それが国家とやらに忠誠を誓う奴の態度か?!」
ドルフィンが一喝すると、その迫力だけで支えを失ったかのようにその場に座り込む兵士もいる。「アベル・デーモン。」
ドルフィンの左脇に、真紅の法衣を纏った、陽炎のような黒い妖気を漂わせる犬の頭の悪魔が現れる。「ここで見張ってろ。この建物から逃げようとした奴は遠慮なく殺せ。」
「承知。」
「な、何事だ?!ド、ドルフィン!!」
豪華というよりは悪趣味ともいうべき、派手な調度品で埋め尽くされた部屋の隅のベッドで鼾をかいて寝ていた、ブクブク太った男がドルフィンを見て「お目覚めか。ブタ。後で貴様の家に邪魔しようかと思ったんだが、此処に居るとはなかなか気が利くじゃねえか。」
「な、な、何の用だ!それに、兵士達は、兵士達は何をしておる?!」
「大半は降参したぜ。それに今逃げ出そうとしたら、悪魔の餌食になるしなぁ。」
「何の猿真似だ?」
「く、来るな!来るなぁ!」
「こ、こ、殺さないでくれ!た、頼む!命だけは!金なら幾らでも払う!」
泣きながら両手を擦り合わせて懇願する会長の首を、ドルフィンの左腕が鷲掴みにして無理矢理立たせる。「お前ら、国王の犬共とつるんでやがったな。」
「な、何のことだ?」
「とぼけるな。」
「ぐえぇぇぇぇ…。そ、そのとおりだぁ…。」
「今回の一件に関する書類は長官の部屋にあるな?」
「な、何故それを…。」
「何時だったか此処に誰かが忍び込んだろ?あれは俺だ。あの時は俺が動いてることを知られるわけにゃいかなかったんで、失礼させてもらったが、
今日は話は別だ。それを貰いに来た。」
「そ、それは、それだけは勘弁してくれ!あれが他所に洩れたら、わ、私は国王陛下に反逆罪で…。」
「何か言ったか?」
「ぐ、ぐげげげげげげ…。」
「死ぬか?」
「じゃあ、貰ってって良いな?」
会長の顔の動きは戸惑っているかのように動かない。ドルフィンの左手に更に力が篭り、蒼白になった会長の口元から涎が洩れ始める。「良いな?」
ドルフィンが念を押すと、会長は何度も首を縦に振る。「ありがとよ。」
ドルフィンが手を放すと、会長は床に落ちて何度も咳き込む。「会長!何事ですか…ド、ドルフィン!!」
騒ぎを聞いて別の兵士達やミルマ経済連の関係者が部屋に駆けつけて来ると同時に、ドルフィンを見て悲鳴に近い叫び声を上げる。「何の用だ?」
ドルフィンが彼らの方を向いてニヤリと口元を歪めると、彼らはそれだけで身を固くする。「こ、こやつを…どうにかしてくれ…。」
「ブタは黙ってろ!」
「どけ。今回の件に関する書類一切を頂いてくぜ。貴様らに関する情報収集の為にな。」
「な、何を馬鹿なことを!!」
「会長は良いって言ったぜ。な?」
「か、会長!!」
「てなわけで頂いてくぜ。」
「利口だ。」
ドルフィンは堂々と彼らの間を通り抜け、3日前に入り損ねた、主を失った長官室へと向かう。背後ががら空きになったドルフィンに、一人の兵士が「ひ、ひぃーっ!!」
一部始終を見ていた彼らは悲鳴を上げる。「馬鹿が。気付いてないとでも思ったか。」
ドルフィンは振り返りもせずに呟く。「後でゆっくり整理するか。」
ドルフィンは革袋を肩に担いで、意気揚々と部屋から出ようとしたところで足を止める。「・・・まだやる気か?」
ドアの前には、兵士達が武器を構えて長官の部屋をぐるりと取り囲むように陣取っていた。兵士達の背後からミルマ経済連の会長が怒りに顔を歪めて「思い上がるなドルフィン!貴様の好き勝手を指を咥えて見ているわけにはいかんのだ!」
「ほう、とち狂った国王の飼い犬の分際で、生意気な口叩くじゃねえか。」
「国王陛下を侮辱するな!」
「畜生でもそれだけ口が利けるとは驚きだ。最後に一回忠告してやる。退け。」
「良い度胸だ。」
ドルフィンはそう言うや否や、右手に持っていた剣を鞘から引っ張り出して大きく振り払う。兵士達の武器が根元から切り取られてぼろぼろと床に落ちる。「な、何をしておる!ドルフィンを抑えろ!」
「命令が聞こえないのか!」
「ほう。下っ端の方が利口だな。ならもう一度言う。退け。」
ドルフィンが言うと、兵士達はさっと廊下の脇に退く。「き、貴様ら!命令違反は重罪だと言った筈だぞ!」
「どうなるか分かっておるのか!」
「五月蝿いんだよ、あんたら。何もしないくせに。」
「な、何を言うか!」
「もううんざりだ。あんた達の犠牲になるのは。」
「重罪にできるもんならやってみろよ。この男が本気になったら、あんた達も俺達を重罪にする暇なんてないだろうし。」
「鉱山の警備隊や調査隊からも何の連絡もない。視察に行ったきりの長官も戻って来やしない。大方やられちまったんだろう。」
「この町に残ってる兵士なんてほんの少し。摘発を逃れた『赤い狼』が突っ込んだらひとたまりもないぜ。」
「あんた達の金儲けや出世欲の犠牲になるのは、もう御免なんだよ。」
「ば、馬鹿な…。」
「何故だ!何故我々を、国家を裏切るのだ!」
「当然のことさ。抑え付けていたものがなくなれば、これまでの不満が一気に爆発する。お前達のような、命令することと威張り散らすことだけ上手な
奴等への不満がな。」
「ド、ドルフィン殿!」
ドルフィンの姿を見つけたミルマ支部代表が思わず叫ぶ。ミルマ支部代表も、ミルマ商工連の代表であるフィーグの護衛役として、度々ミルマ経済連と「後はお前達がやれ。寝返った奴等もいる。」
「わ、分かりました。また後程。」
「やったぁ!ドルフィンさんがこの街を救ってくれたんだ!」
「さすがドルフィンさん!この町の英雄だ!」
「おいおい。凱旋じゃあるまいし、随分な歓迎だな。」
「何言ってるんですか!実際そうなのに!」
「そうですよ!さすがはドルフィンさん!あんな大勢の軍隊を簡単に蹴散らしちゃうなんて!」
「まあ、とにかく中に入れてくれ。」
ドルフィンが辛うじて言っても、歓喜に沸き返る彼らは全く聞いていない。ドルフィンは仕方なしに人波を掻き分けるようにして店中に入る。「ドルフィン君。お帰り。」
「小父さん…。」
「本当によくやってくれた。これで一つ大きな肩の荷が下りたよ。」
「いえ。奴等の勢力に大きなダメージを与えたのは私じゃありません。後始末をしただけです。」
「何にせよ、君が色々手を回してくれたんだろう?謙遜することはない。」
「君がここに来てから、私は助けられてばかりだな。交渉のときといい、リーナのことといい…。」
「何を水臭いことを…。私がこうして生きているのも、小父さんが救ってくれたからじゃないですか。」
「こんなめでたいことはない!今日は臨時休業だ!皆、祝賀パーティーの準備に取り掛かってくれ!」