雨上がりの午後 Another Story Vol.1

Chapter7 愛しさ触れ合う時間

written by Moonstone


 ゆったりとした時間が流れていく。
私は変わらず安藤さんの傍で病状を見守っている。
熱冷ましが効いたのか、安藤さんの頬の火照りも幾分和らぎ、呼吸もかなり落ち着いてきているのが分かる。
良かった・・・。あのまま高熱に魘され続けたら、苦しいだけでおちおち寝られないだろうから。
昨日の晩だって半ば気絶したようなものだから、本格的に休息を取るにはぐっすり気持ち良く寝るのが一番良い。
 昼前になって、食事の材料が何もないことを思い出して−まだ固形食は辛いだろうからお粥を作ろうと思う−、慌てて買い物に出かけた。
出かける準備でわたわたしていたら、安藤さんが机の上に置いてある財布から必要なだけお金を使ってくれ、と言った。
人のお金を使うのはちょっと気が引けたけど、安藤さんの厚意を無駄にしたくなかったから、安藤さんの財布を借りて急いで買い物に出かけた。
普段買出しに出かけるスーパーまでは距離があるし、今の私には徒歩しか移動手段がないから、駅から安藤さんの家に来るまでにあるコンビニへ向かった。
コンビニなら大抵のものは手に入るし、お粥を作る分にはそんなにお米や材料は要らない。
私はお米2kgと梅干を−梅干は日持ちが良いから後でお茶漬けなんかにも使えると思う−買って、急いで安藤さんの家に帰った。
 昼過ぎになって安藤さんが少し何か食べたくなった、と言ったので、早速お粥を作ることにした。
準備の邪魔にならないように髪を後ろで束ねて、お米を少量砥いで準備しておいた土鍋に入れて、たっぷりの水を注ぎ込む。
塩加減はお粥が出来てからで充分間に合う。梅干そのものに塩分があるから、梅肉を入れた後で塩加減を調整した方が私としてもやり易い。
10分ほどして、蓋をしてコンロの火にかけた土鍋の穴から蒸気が立ち上り始める。
お粥にするには充分加熱してお米全体にたっぷり水分を吸い込ませないといけない。鍋料理なら兎も角、蒸気が出たからといって出来上がり、とはいかない。
お腹が空いたと感じ始めたら良い傾向。待たせないようにもっと早くした準備をしておくべきだったな・・・。ちょっと失敗。
蒸気がひっきりなしに立ち上り、蓋がコトコトと音を立てて揺れる。吹き零れないように火加減を調整してお米が充分柔らかくなるまで待つ。
調理している私は良いけど、お腹が空いた安藤さんを長時間待たせたくない。でも、生煮えのお粥なんて芯だらけで食べられたものじゃないから、
ここはじっと我慢、我慢・・・と。
 更に時間が経ったところで一度蓋を開けて、中の様子を窺う。・・・良い感じになってきてる。もう少しってところね。
私はお腹を空かせている安藤さんの方を向いて言う。

「もうちょっとで出来ますからね。」

 私の方を向いていた−できるのが待ち遠しいのかな−安藤さんは黙って頷く。私は再び土鍋の方に向き直って出来上がりを待つ。
充分熱と水がお米に行き渡っただろうと思って、蓋を開けてレンゲでとろけ具合を確かめる。・・・丁度良いくらいね。
後は買ってきた梅干から種を取り除いて梅肉を解して、お粥の中央に入れる。そしてひととおり掻き混ぜてちょっと味見。・・・ちょっと塩加減が足りないかな。
控えめに塩を入れてまた掻き混ぜてちょっと味見。・・・こんな感じかな。あんまり塩辛いと食べ辛いだろうし・・・。
私はコンロの火を止めて、下の食器棚から盆を取り出して、鍋敷きを乗せてその上にお粥の入った土鍋を乗せる。レンゲを添えて、っと。
そして零さないように注意しながら、お粥を安藤さんのところへと運ぶ。

「はい、出来ましたよ。」

 安藤さんは上体を起こす。力が入るようになったみたいで、さほど動作に無理がない。勿論まだすっと、というわけにはいかないけど。

「熱いから気を付けて下さいね。」
「ああ、分かった。」

 私は上体を起こした安藤さんの太腿の辺りに静かに盆を乗せる。
安藤さんが蓋を開けると、ぼわっと白い湯気が溢れ出して、その後に私の作った梅肉入りお粥が姿を現す。
そして安藤さんはレンゲを手に取ってお粥を掬って口へ運ぶ。
少しの沈黙の後、安藤さんが少し意外そうな顔で言う。

「・・・美味いな、これ。」

 安藤さんの一言で、私の胸の底からじわじわと嬉しさが込み上がって来て、思わず顔が綻ぶ。
美味しい、と言ってもらえるだけで、作っていた時の苦労が−今回は根気の勝負だったけど−一瞬で吹き飛ぶ。
安藤さんも笑みを浮かべる。満足してもらえたみたいで本当に嬉しい。

「昨日は私が来るまで何も食べてなかったんですか?」
「ああ、何も食べてない。」
「あれだけ熱があったんじゃ無理もないですね。」
「食べるってこと自体、思い付きもしなかった・・・。」

 苦しかったでしょうね・・・。でも、食欲が出てきたらまずはひと安心。少しずつでも何か食べて、栄養と体力をつけていける。
安藤さんはお粥を一匙ずつ掬って、数回息を吹きかけて口へ運ぶのを繰り返す。
余程お腹が空いていたのね・・・。そりゃあ、昨日一日何も食べてなければ当然と言えば当然だけど。
ちょっと分量が多いかな、とも思ったんだけど、この調子だと全部食べられそうね。
もしかするとちょっと少なかったかもしれないけど、多過ぎて食べきれないと勿体無いし、安藤さんのことだから無理して全部食べかねない。
私は安藤さんの食事の様子を見ながら、少しでも早く安藤さんの具合が良くなってくれることを祈る・・・。

 10分か15分くらい経って、安藤さんはお粥全部を食べ終わって、土鍋の中にレンゲを入れた。

「・・・ご馳走様。美味かった。」
「良かった。もう大丈夫みたいですね。」

 私は空になった土鍋に蓋をして、安藤さんの布団の上から土鍋の乗った盆を取り除く。
幾分顔色も落ち着いてきた気がする。このまま無理せずに休養と食事を重ねていけば明日明後日くらいで良くなると思う。
念のため、もう一回熱冷ましを飲んでもらって、後は次にお腹が空くまで横になっていること。これに限る。
兎に角病気は治りかけているときと治った直後が危ない。油断するとまた逆戻り、なんてこともあるから・・・。

「もう一度熱冷まし飲んでもらって、後はゆっくり休めば良くなりますよ。」
「ああ・・・。」
「何か?」

 安藤さんが視線を下に落としている。どうしたのかしら?何か心配事でもあるとか?
その横顔は何となく寂しげに見える。私一人じゃ寂しいってこと?
でも、安藤さんは大勢でわいわいするのとはあまり縁がなさそうだし、寂しいってことはないと思う。・・・私だけじゃ力不足な面はあるかもしれないけど。
私は下から安藤さんの顔を覗き込む。やっぱり元気がないみたい。さっきまで具合良さそうだったんだけど、気分悪くなったのかしら?

「水用意しますから、身体冷やさないように横になってて下さいね。」
「・・・そうする。」

 安藤さんはちょっと暗い表情のまま横になって、掛け布団を被る。
私は土鍋の乗った盆を一旦床に置いて、掛け布団を安藤さんの肩口まで引っ張り上げて体全体を包むようにする。今、身体を冷やすのは絶対良くない。
私は床に置いておいた盆を持ってキッチンへ向かう。洗い物をした後、安藤さんに熱冷ましを飲んで貰う段取り。
あまり使った形跡のないスポンジに、これまた残量に充分余裕のある洗剤を少量つけて、蛇口を捻って出てきた水に浸して何度か揉み解して泡立てる。
一旦水を止めて、土鍋とレンゲをスポンジで洗って、再度蛇口を捻って水洗いする。泡が完全に消えたのを確認して洗い桶に入れる。
 手を洗った後、濯いで洗い桶に入れておいたコップに水を入れて安藤さんのところへ戻る。
今朝飲んで貰った熱冷ましは確か食前か食間に服用って書いてあったから、別の熱冷ましを探す。私としたことがうっかりしてたな・・・。
幸い、熱冷ましは別のものがあった。箱の側面にある使用上の注意を見ると、食後に服用、とある。飲み合わせがちょっと怖いけど、この際仕方ない。
私は錠剤を書いてあるとおり3錠取り出す。安藤さんがそれに呼応するように身体を起こす。
動きはかなりスムーズだけど、私が飲ませてあげるから無理しなくても良いのに・・・って、看病に自分の希望を入れちゃ駄目よね。
私が錠剤とコップを差し出すと、安藤さんはそれを受け取る。そして錠剤を口に含んで、そこに水を流し込む。
水も残さず飲んでいく。さっきのお粥で汗をかいて喉が乾いたのかしら?それならむしろ良い傾向なんだけど。
安藤さんは水を全部飲み干すと、空になったコップを私に差し出す。私がコップを受け取ると、安藤さんは再び横になって掛け布団を被る。
私はコップを一旦枕元に置いて、掛け布団を肩口まで引っ張り上げる。余計なお世話かもしれないけど、身体を冷やすのは避けないといけない。
 ふと安藤さんを見る。何だか頬がさっきより紅潮してるみたい。
熱冷ましを飲んだ直後だから効果が出てこないのは当たり前だけど・・・、また熱が出てきたのかしら?

「あ、また熱出てきました?」
「い、いや、これは・・・。」

 どういうわけか安藤さんは動揺してる。・・・何故?
それは兎も角、熱がどのくらいか確かめないと・・・。体温計が何処にあるか分からないから−体温計で計るより自分で計りたいっていう気持ちもあるし−、
自分の触感が頼り。私は安藤さんの額に右手の掌を乗せる。洗い物した後だからちょっと冷えてるだろうけど、安藤さんにとっては気持ち良いかもしれない。
・・・それを差っ引いても熱が出ているのが分かる。薬が即効性じゃないのが辛いところ。安藤さんにはもう少しの間辛抱してもらうしかない。

「まだちょっと熱いですね・・・。」
「・・・さっき薬飲んだばかりだから・・・。」
「顔色ほどじゃないから多分大丈夫だと思いますけど、もう少し様子を見た方が良いですね。」

 薬を飲んだからといって安心は出来ない。顔の火照り具合の割にはそれ程熱くないのは幸いだけど、注意深く様子を見てないと駄目ね。
安藤さんの表情も昨日の夜みたいに死にかけてる人のそれじゃないし、瞳も透き通ってるから快方に向かっていると思う。そうであって欲しい。

「何かあったら遠慮なく言って下さいね。」
「・・・まだ居て・・・くれるのか?」
「治ってないのに放り出して帰るなんて、出来ると思います?」

 そんなことできる筈ないじゃないですか。こんなろくでなしの私が傍にいることを許してくれた、私が本当に好きな人を放り出すなんて・・・。
安藤さんは首を横に振る。良かった。薄情な女だって思われてなくて・・・。
 私は右手を安藤さんの額から頬へ伝わらせる。
安藤さんが私を見詰める。その瞳が私に全てを託すと言っているように感じる。
思い上がりかもしれないけど、今、安藤さんの看病が出来る人間は私しか居ない。私が・・・決めたことだから。

「今、安藤さんの傍に居られるのは潤子さんでも、優子って女性(ひと)でもなくて・・・」
「・・・。」
「私だけなんですからね・・・。」

 優子って女性は安藤さんを捨てた。潤子さんはマスターの奥さん。一人暮らしの安藤さんの傍に居られる女性は私しか居ない。
安藤さんは潤子さんに特別な感情を持ってるような気がする。安藤さんには私の方だけ向いていて欲しい。

「・・・井上・・・。」
「・・・え?」
「何で・・・潤子さんが・・・?」

 安藤さんが私の心の中を見透かしたようなことを問い掛けてきた。ど、どうしよう・・・。私が潤子さんをライバル視してるなんて知られたくないし・・・。
かと言って、適当に誤魔化すと安藤さんの心に私に対する疑念を持たせかねない。
只でさえ私は二人の男の人を振り回した「前科」があるのに、ここで適当なことを言って誤魔化すようなことをしたら、安藤さんが怒るかもしれない。
安藤さんの瞳は正直に言え、と迫っているように見える。うう、仕方ない。ここは素直に言うしかないか・・・。

「・・・だって・・・安藤さんは・・・。」
「?」
「安藤さんは・・・潤子さんが気になってるみたいだし・・・。

 肝心要の部分がどうしても小さくなってしまう。言いたいことを伝えなきゃ駄目なのに。
ちらっと安藤さんを見ると、何て言ったんだ?っていう表情をしてる。もう一回ちゃんと言わなきゃ駄目かな・・・。でもこんなこと言い辛いし・・・。

「・・・もしかして・・・焼きもち妬いてるのか?」
「!!べ、別に、そんなんじゃ・・・。」

 安藤さん、聞こえてたの?!ど、どうしよう・・・。
もう一回言わなきゃならないことにはならなかったけど、次にどう言葉を繋げば良いかなんて全然考えてなかったし・・・。
私は視線を彼方此方に動かして、その間に言葉を捜すけど全然見当たらない。半ば観念して安藤さんを見ると、安藤さんは落ち着いて、って目で私を見ている。

「潤子さんは・・・確かに奇麗で魅力的だけど・・・憧れてるだけ・・・。」
「憧れって・・・、それは・・・。」
「何て言うか・・・ほら、アイドルとか女優とかで、こんな相手と付き合いたいなぁ、とか言うだろ?あれと同じだから・・・。」
「・・・。」
「・・・疑ってるって感じの眼だな。」
「・・・だって・・・。」

 だって、安藤さんが潤子さんを見る目は単なる憧れって感じには見えないもの・・・。
安藤さんの言うことを疑いたくはないけど、安藤さんが言った、アイドルや女優さんとかで、こんな人と付き合いたいって思う気持ちがいまいち理解できない。
私自身、特に好きなアイドルや俳優さんが居るわけじゃないし、テレビあんまり見ないから存在そのものすら知らない人もいるだろうし・・・。
男の人って、憧れと恋愛感情を分離出来るものなの?私にはどうも理解し難いんだけど・・・。

「もし潤子さんを恋愛対象で見てるなら・・・一緒に居て欲しいって昨日見舞いに来た時に言ってると思う・・・。」
「・・・。」
「今まで疑いまくって何だけど・・・それだけは信じて欲しい・・・。」

 ・・・そうよね。安藤さんが潤子さんを恋愛対象としてみてるなら、潤子さんに傍に居て欲しいって言うわよね。私のことなんか放っておいて・・・。
安藤さんが言ったとおり、憧れと恋愛感情は別物なんだ。その辺はまだいまいち理解出来ないけど、安藤さんの目が私の方を向いてるならそれで良い。
 小さく頷いた私の口元が思わず綻ぶ。安藤さんも柔和な笑みを浮かべる。
また心の行き違いが生じるところだったけど、ちゃんと言葉にして相手に伝えれば、それは未然に回避出来るものね、本当に・・・。
それにしても、安藤さんが私が傍に居ることを許してくれたのに、潤子さんのことを引き合いに出すなんて先走りの一言。

「・・・また勝手に思い込んで勝手に拗ねちゃいましたね、私・・・。」
「いや、井上が悪いんじゃない・・・。これからは潤子さんとかを引き合いに出さないように気を付ける・・・。」
「・・・うん。」

 頷いた私は、安藤さんとの距離の短さに気付く。
手を少し伸ばしただけで安藤さんの額や頬に触れることが出来るくらい。安藤さんがその気になれば、簡単に抱き寄せられるくらい。
 私は胸がドキドキしているのに気付く。
このまま抱き寄せられたら・・・ううん、抱き寄せてくれたら、私は・・・どう応えるんだろう?
跳ね除けるつもりは毛頭ない。もし唇を求められたら・・・どうしよう?
そんなことを考えていると、益々胸がドキドキしてくる。安藤さんは私を見詰めたまま何も言わない。私からことを仕掛けないと駄目?

「安藤さん・・・。」

 私が沈黙を破る。安藤さんはお喋りじゃないから、黙っていたらこのままずっと見詰め合ったままになってるかもしれない。そんなの・・・嫌。

「・・・ん?」
「・・・これだけ近付いても・・・抱き締めて・・・くれないんですか?」
「?!」

 安藤さんの瞳が大きく見開く。まさかこんなことを言い出すなんて想像してなかったみたい。
でも、今の私は、安藤さんとより密着したい。もっともっと近付きたい。
この際、安藤さんの返事はどうでも良い。譬えひと時の衝動でも構わない。
 私は安藤さんとの距離を更に詰める。もう10cmあるかないかというところまで。
唆しているみたいだけど、そう受け止められても構わない。
安藤さんは私が距離を詰めたことに少し−内心ではかなり、かもしれないけど−戸惑っている様子。無理もないことだけど。
知り合ってまだ日が浅い私が抱き締めて、って誘うようなことをしてるんだもの。言葉にもしたし。
 私がするのはここまで。あとは安藤さんに委ねることにする。
安藤さんの二つの瞳には私しか映っていない。安藤さんの心の中では今、激しい葛藤が起こっているんだろう。
返事をしていないのに私に手を出して−変な表現だけど−良いものか、って。
私は構わない。安藤さんに抱き締めて欲しい。それで私の存在をしっかり感じ取って欲しい。優子って女性の苦い記憶を塗り潰すくらい・・・。

・・・。




プルルルルル・・・

 突然の電話のコール音で、私の意識は現実世界に強制的に引き戻される。
私は反射的に、それこそ磁石が反発するように安藤さんに殆ど密着していた上体を起こす。安藤さんは溜めに溜め込んでいたように大きな溜息を吐く。
胸が激しく鼓動している。手で触ってみると心臓に直接触れているみたい。
呼吸を整えている中、電話のコール音が続く。一体誰から・・・?

「私が出ますね・・・。」

 そう言って私は席を立って電話へ向かう。
受話器を取る段階になって、安藤さんの実家からかもしれないことに気付く。でも、それならそれできちんとご挨拶すれば良いこと。
どう言って答えよう?「安藤さんとお付き合いしている者です」?まだ返事を貰っていないのにそう答えるのには抵抗がなくもない。
でも、それで既成事実を作って安藤さんの「逃げ場」を封じるのも良いかもしれない。ずるいやり方だけど。
 そんなことを考えている間にもコール音は続く。
あまり時間がかかると相手を苛立たせる。まして実家の人なら尚更第一印象として良くない。
私は受話器を取って耳に当てて第一声を発する。

「はい、・・・安藤です。」
「もしもし。おっ、その声は井上さんだな?」
「・・・マスター。」

 誰かと思ったらマスターだった。ちょっと安心。でもちょっと残念。
安藤さんの具合がどうなのか心配なのね。普通のバイトだったらこんなに親身になってくれないだろう。
今更ながら、私は初めてのバイトが凄く恵まれたものだと実感する。

「早速なんだけど、祐司君の具合はどうだい?熱は下がった?」
「はい。ええ、かなり熱は下がりましたけど、まだ・・・。」
「本調子とはいかないわけか。」
「はい、食欲も出て来ましたから今日明日あれば大丈夫だと思います。」

 私は現状をそのまま伝える。多少希望的観測もあるけど、危険な状況からは脱したと思うし、それで良いと思う。

「で、昨日の晩、祐司君とはどうだった?」

 マスターが唐突に尋ねてくる。如何にも興味津々といった口調で。
さっきがさっきだっただけに、私の頭の中は一気にパニックに陥る。全身がかあっと熱くなるのが分かる。

「い、いえ、あの・・・安藤さんは熱が高かったですし・・・。」
「ほうほう。互いに熱を上げて熱い夜を過ごしたってことか。」
「い、いえ、そういう意味じゃなくて・・・その・・・。」

 こ、困ったわ。どうかわしたら良いの?このままじゃあることないことごちゃ混ぜにされて潤子さんに伝えられかねない。
返答に困っていると、電話越しにもの凄い音が聞こえて来てマスターの「攻め」が止まる。

「ぐわっ!」
「何変なこと言ってるの!ここは怪しいお店じゃないんだから!」

 潤子さんが昨日の夜と同じように、マスターに一撃を加えたのね。た、助かった・・・。
私は胸を撫で下ろしながら、電話の向こうから微かに聞こえるやり取りを聞く。マスター、潤子さんにこっぴどく怒られてるみたい。
そしてガタガタと音がして、電話の主が代わる。

「もしもし、晶子ちゃん?」
「もしもし。」
「御免ねぇ、晶子ちゃん。変な電話に掴まえられちゃって。」
「いえ。」
「祐司君、食欲の方はどう?」
「はい、さっきお粥を。」
「熱はどう?多少は下がった?」
「はい、昨日戴いた熱冷ましが効いたみたいです。有り難うございました。」

 薬が役に立ったのは間違いない。昨日マスターと潤子さんが来てくれて助かった。
そうでなければ、最悪の場合救急車のお世話になるかもしれない程、安藤さんの具合は尋常じゃなかった。
熱が出るのはウィルスを殺すための体の防衛反応なんだけど、気絶するほど熱が出るなら多少は押さえないと、当の本人はたまったものじゃない。

「ところで晶子ちゃん、今日バイトの方はどうする?」
「私ですか?・・・まだ熱がありますし、もう1日お休みさせてもらおうかと・・・。」

 危機的状況は脱したとはいえ、安藤さんの具合はまだ予断を許さない。もう一日お休みをもらって、安藤さんの傍に居ないといけない。
その時、背後でごそごそと何かが動く音がする。振り向くとこともあろうに安藤さんが起き上がってベッドから出て立ち上がってる!

「井上・・・。」
「!あ、起きちゃ駄目ですよ!」
「昨日ほど酷くないから大丈夫・・・。それより、今日は店が忙しい日だから、バイトに行った方が良い・・・。」
「でも・・・。」
「俺は大人しく寝てるから・・・。」

 安藤さんはふらつく足取りで私の傍まで来て、受話器を私の手から取って電話を代わる。大丈夫かしら・・・?

「・・・もしもし。安藤です。・・・ええ、何とか・・・。それより店の方はどうです?・・・井上には俺の方からバイトに行ってもらうように頼みます。」
「・・・。」
「・・・昨日薬とか貰いましたし・・・大人しく寝てますから。」

 その言葉を最後に、安藤さんが押し黙ってしまう。何か決断を迷っているような感じ・・・。
どういうやり取りがあったのか分からないけど、ぐらつく天秤みたいな安藤さんを放ったらかしにして、暢気にバイトなんてやってられない。
少しの沈黙の後、安藤さんが迷いを振り切るようにはっきりした口調で言う。

「・・・大丈夫です。」

 全然大丈夫じゃない!私は思わずそう叫びそうになる。
お粥が食べられるようになった程度で、まだ熱もあるし、何よりふらついていた足取りが、今の安藤さんの状況を端的に示してるじゃないの!
そんな私の心の叫びが届く筈もなく、安藤さんと潤子さんの電話のやり取りは続く。

「・・・分かりました。・・・!な、か、帰るって・・・?!」
「?」
「・・・は、はい。有り難うございます。それじゃ・・・。」

 何を言われたのかしら?安藤さんはちょっと動揺した素振りを見せながら受話器を置く。そして額に手を当てて首を横に振る。
ほらやっぱり・・・!起きるのがやっとの身体なのにベッドから出て、私にバイトに行くように頼むなんて・・・無茶にも程があるわ!
私は安藤さんの身体を支えるように寄り添う。何時倒れるか分からないんだから・・・。

「まだ治ってないんですから、無理しちゃ駄目ですよ。」

 どうしても口調が強くなってしまう。安藤さんには申し訳ないけど、それだけ私が心配してることを分かって欲しい。
こんな状況の人を放ったらかしにしてバイトに行ける筈がないわ、やっぱり!

「久しぶりに立って歩いたから少し目眩がしただけだよ・・・。」
「さ、早く横になって下さい。」
「分かった・・・。」

 私は安藤さんの身体を横から両手で支える形で慎重にベッドへ誘導する。
安藤さんがベッドに横になると、私は捲くれ上がった掛け布団を安藤さんの肩口にまで引っ張り上げる。
その動作が荒っぽくなってしまうけど、どうしてそこまで無理をするのか理解できないもどかしさが頭を擡(もた)げてくるせいだから許して欲しい。
安藤さんが完全に布団に納まったところで、私は宣言する。

「やっぱり・・・私、バイト休みます。」
「・・・あんまり説得力ないけど、大丈夫だから・・・。」
「そんなにお店のことが大切なんですか?自分の身体がどうなっても?!」
「落着いて聞いてくれ、頼むから・・・。」

 どうしてそこまで安藤さんがお店のことにこだわるのか分からない私は、思わず安藤さんを問い詰める口調になってしまう。
安藤さんは穏やかな口調で−今の状況じゃ口調を強めることも出来ないだろうけど−私を宥めるように言う。これじゃ立場が逆じゃないの・・・。

「俺はどうしようもないとして・・・井上はバイトに行けるだろ?」
「行けます。けど、行けないです・・・。」
「昨日までならまだしも・・・今日は立って歩けて、多少は食べれるくらい良くなったから、付きっ切りでなくても大丈夫だ。」
「でも・・・!」
「いいから聞いてくれ・・・。バイトだからって本来そうそう休むべきじゃないって俺は思うんだ。俺みたいに病気なら兎も角・・・井上は健康なんだから・・・。」
「・・・。」
「それも二人同時に二日もなんて・・・マスターと潤子さんに、迷惑だと思うんだ・・・。」

 安藤さんの言うことはもっともなこと。今日は日曜日だから潤子さんがリクエストの選出対象になる。潤子さん目当てのお客さんが来るだろうから、
お店も忙しくなるに違いない。そんな状況で安藤さんに加えて私まで休むということになると、安藤さんが言うようにマスターと潤子さんに迷惑がかかる。
 安藤さんの筋の通った「説得」に反論できる余地はない。だけど・・・私は安藤さん、貴方のことが心配だから・・・。
そう思っていると、安藤さんが徐にベッドから手を伸ばして私の頬に触れる。
一瞬驚いたけど、熱を帯びたその手の感触が妙に心地良い。私は目を閉じてその掌に頬擦りをする。

「俺は本当に大丈夫だからさ・・・。」
「大人しく寝てなきゃ駄目ですよ・・・。」
「子ども扱いするなよ・・・。」
「自分のことガキっぽいって言ったじゃないですか・・・。」
「・・・よく覚えてるな・・・。」
「当たり前ですよ・・・。」

 感極まった私は、安藤さんの掌から離れて安藤さんに覆い被さる。さっきみたいに安藤さんが抱き締めてくれるのを待つことはしない。
安藤さんの多少落ち着いたけどまだ早い呼吸音が耳に届く。
私の胸は高鳴っている。安藤さんに気付かれるかもしれないほど大きく、強く・・・。
 こうして安藤さんと密着出来るなんて・・・。安藤さんが熱を出さなかったらこんなことは出来なかっただろう。
それ以前に気持ちがすれ違ったままだったかもしれない。
安藤さんと喧嘩になって、以来私が此処に駆けつけるまでまともに言葉を交わさなかったんだから・・・。
ああ・・・。安藤さんが一刻も早く良くなって、安藤さんが立っている時にこうして安藤さんに抱きつける日が来れば・・・。

「早く・・・良くなって下さいね・・・。」

 私は願いの全てを言葉に込める。これが今の私の気持ちの全て。
私の頭に何かがそっと触れる。安藤さんの手・・・?さっき私が頬擦りをした安藤さんの手が今、私の頭の上にある・・・。

「・・・ああ・・・。」

 安藤さんが私の言葉に短く答える。
私と安藤さんの頬が擦り合う。安藤さんが愛しくて愛しくてたまらない。
いっそこのまま時の流れが止まってくれたら・・・。私はそう思わずにはいられない。
それが不可能と分かっていても強くそう思うのは、壊せる筈のない障害さえも壊せるという自信めいたものがあるからなんだろうか?
夕闇押し迫る部屋の中で、私と安藤さんは触れ合いの時間を過ごす・・・。

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