雨上がりの午後

Chapter 340 「娘」との時間3−夢が詰まった場所へ1−

written by Moonstone

「お父さん、起きてー。」

 めぐみちゃんの声で目を覚ます。パジャマ姿のめぐみちゃんが間近に居て、その後ろに同じくパジャマ姿の晶子が居る。まだ起きたばかりだろうか。

「おはよー。朝ご飯、食べに行こー。」
「何処に?」
「おばあちゃんが作ってくれてるよ。」
「さっき、高島さんが伝えてくれました。朝ご飯の準備が出来ているから着替えてダイニングに来るように、と。」

 何だか至れり尽くせりだな。兎も角、めぐみちゃんが楽しみにしていた時間が来たんだし、もたもたしてられないな。めぐみちゃんを向かい側にある自分の部屋に行かせて、俺と晶子は此処で着替える。ドアを開けると、めぐみちゃんが待っていた。一緒に行きたかったんだろう。

「おはようございます。」
「おはようございます。どうぞ座ってください。」

 ダイニングには高島さんと森崎さんが居た。やっぱり森崎さんは住み込みで働いてるようだ。その分、京都御苑の件以来姿を見たことがないめぐみちゃんの実の両親の立ち位置が哀れに思う。
 用意された朝飯は、ご飯と味噌汁、ハムエッグに漬物という立派なもの。腹ごしらえには十分だ。座る席は昨日と同じ。もはや定位置だな。

「今日は朝からめぐみと出かけるんですよね。」
「はい。今回のメインイベントですね。」
「行くところ決めてあるよ。凄く楽しみにしてたから、決めるのに時間かかった。」
「めぐみは、去年の10月頃から場所を調べていたんですよ。」

 2か月前から準備してたのか。寒さが増すにつれて俺と晶子が来る日が近づいて来る、と文字どおり指折り数えて待っていたんだろう。それを台無しにされかけたら、めぐみちゃんでなくても動揺するだろうし怒りもする。ましてやめぐみちゃんは、晶子と会って甘えることが出来なくなるかもしれないとなったんだ。激昂してもおかしくない。

「お父さんとお母さんが一緒だと、バスも電車も乗れるし、色んなところに行ける。」
「京都のバス路線は難しいからなぁ。」
「一方通行の路線があるのには驚きましたよね。」

 京都のバス路線は市内を網羅しているが、かなり複雑だ。一方通行の路線まであるのにはカルチャーショックだった。それでも、めぐみちゃんを伴って京都市内を巡りもしたんだから、勢いや責任感ってのは人間の能力を一時的に底上げできるもんだと思う。

「めぐみちゃんは、何処に行きたいの?」
「ユニバーサルスタジオってところ。」
「ああ、大阪の。」

 一瞬分からなかったが、直ぐ大阪の有名なテーマパークが頭に浮かぶ。京都から大阪に移動するから、バス路線で京都駅に行って、そこから大阪まで出て、と結構ハードルがある。めぐみちゃんにはまだちょっと厳しいか。だから俺と晶子が来る時に行きたかったんだろう。

「秋の遠足で行った。面白かったけどあまり居られなかったから、お父さんとお母さんが来た時に連れて行ってもらおうって決めた。」

 遠足でユニバーサルスタジオか。往復がバスだとして、往復の時間と解散の時刻を考えると−小学2年生だから夜遅くは出来ないだろう−遊ぶ時間は2,3時間と言ったところか。行動も制限があっただろうし、満喫したいと思っても不思議じゃない。

「お父さんとお母さんは、ユニバーサルスタジオの行き方って分かる?」
「それなら心配要らないわよ。行き方を調べてお父さんとお母さんに手渡しするから。」

 名前と所在の都道府県くらいはは知っているが、行き方は知らない。同じことを思ったらしいめぐみちゃんの問いかけに、高島さんが代わって答える。電車で行くしかないから、京都駅からのアクセスが分かればどうにかなる。高島さんに調べてもらおう。丸1日めぐみちゃんの思い出作りだな。

「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい。お父さんとお母さんから離れないようにね。」
「はーい!」

 氷水のような冷気を吹き飛ばすように、めぐみちゃんの快活な声が響く。いよいよユニバーサルスタジオに向けて出発。今更だが、今の時刻は7時30頃。どうりで外があまり明るくない筈だ。1日たっぷり遊ぶめぐみちゃんの意気込みに押されての早起きだ。
 アクセスは高島さんが調べてくれた。京都駅から新快速で大阪に出て、環状線で西九条−こういう地名は京都を彷彿とさせる−という駅に向かい、そこでゆめ咲線という路線に乗り換えてユニバーサルシティという駅で降りれば到着。意外にアクセスが良い。
 めぐみちゃんが遠足で来た時はやはりバス。電車で大阪に出るのも初めてだという。こういう冒険のような体験は強く記憶に焼きつくもんだ。思い出作りには事欠かない。その分、俺と晶子は万一のことがないよう、しっかり行動しないといけない。責任重大だ。

「混み具合はどうだろうな。」
「多分、混んでいると思いますよ。正月休みに土曜日が重なってますから。」
「そう見た方が良いか。めぐみちゃん。お父さんとお母さんから離れないようにな。」
「うん。大丈夫。」

 今のところ、晶子がめぐみちゃんの手をしっかり繋いでいる。めぐみちゃんは晶子に一番懐いているからこれが一番良い。だが、楽しさや興味から来る興奮でいきなり走りだしたりする危険性はないとは言えない。何しろめぐみちゃんが2か月前から楽しみにしていた時が来たんだ。冷静で居続けるのが難しい。
 京都もそうだが、これから移動する場所は土地勘がないに等しい。しかも混雑していると見て良い場所を移動する。そこでいきなり離れてしまうと、分からなくなってしまう恐れもある。迷子として保護されれば良いが、その期待ばかりでいられないのも事実。現に、めぐみちゃんは俺と晶子が保護するまで京都御苑に放置されていた。
 まず京都駅行きのバスに乗る。これは割と簡単。自宅と高島さんの家の往復はこの路線を使う必要があるから、感覚くらいは覚えてないとどうにもならない。バスは空いているから、一番後ろの席に並んで座る。移動には十分な余裕があるし、安全を考えると出来るだけ固まった方が良い。
 程なく京都駅に到着。一括して運賃を払って降りる。此処からが神経を使う。京都駅は早い時間帯なのに人が多い。一口にJR線と言っても、京都駅が関係する路線は複数ある。切符は料金表を見て買えば良いが、ホームを間違うと明後日の方向に飛ばされるし、時間のロスでしかない。不慣れなところで間違いなく路線を選ぶのはなかなか神経を使う。

「大阪方面の次の新快速は…7時57分か。」
「本数が充実してますね。」
「1本ずれても長時間待たなくて良いのはありがたいな。」

 3人分の切符を買う。ホームは…5番か。改札を通ってホームに移動する。改札を通ってからの混雑が増して来たように感じる。京都を出発する人、京都に到着した人、京都で乗り換える人、色々だろう。
 5番ホームには結構人がいる。俺と晶子とめぐみちゃんが乗る電車は姫路行きとあるから、全部ではないだろうが、ユニバーサルスタジオに行く人も居るだろう。途中で乗って来る分も含めると、電車の混雑は間違いないと見て良さそうだ。

「電車はどれくらい乗るの?」
「おおよそ30分って書いてあったな。めぐみちゃんの授業時間はどのくらい?」
「えっと…、50分。10分休み時間がある。」
「授業時間の半分くらいか。お母さんの手を離さないで乗っていような。」
「うん。」

 電車の中ではめぐみちゃんの関心を呼ぶものはないだろう。随分大きくなったとはいえ小学2年生だから、周囲を見るほどの身長はない。むしろ、周囲に圧迫されないかが心配なくらいだ。その辺は晶子が判断して抱っこするなりするだろう。場合によっては俺がするのも勿論ありだ。
 少しして、電車がホームに入って来る。ドアが開いて降りる人は少数。乗り込む人は多数。車内はこの時点でかなりの混雑になる。俺は晶子とめぐみちゃんを車内の奥、座席が並ぶ空間に誘導する。混雑する車内でこのあたりは最後まで比較的余裕がある。その上、自分が降りるまでの停車駅で邪魔になり難い。
 予想どおり、ドア付近はすし詰め状態だが、俺と晶子とめぐみちゃんがいるあたりはまだまだスペースがある。その場で身体の向きを1回転できるくらいはあるから、めぐみちゃんの様子を見ていられる。めぐみちゃんは吊皮に手が届かないから晶子の手だけが頼り。その晶子はもう片方の手で吊皮を握るから、大きく揺れて転びそうになったら俺が支える必要がある。
 電車が動き始める。車窓からの景色は高校の修学旅行以来のものだ。と言っても、あの時は車窓からの景色を眺めるより、耕次達とのトランプゲームや宮城との会話に夢中で、碌に見なかった。あの時から景色は変わっているだろうが、実質初めて見るようなものだから比較のしようはない。
 車内アナウンスが流れる。次の停車駅は…高槻?その次が新大阪、その次が乗り換え駅の大阪。殆ど停まらないんだな。この分だと、高槻での乗車分の混雑がピークになるかもしれない。否、新大阪は新幹線が停まるから、新大阪まで新幹線で来た人が乗り込んで来るか。

「お父さん。たかつきって何処?」
「高槻は、大阪府の北東−地図で言うと右斜め上にある町のこと。そこから左斜め下に進んでいくと、降りる駅の大阪っていう駅だよ。」
「じゃあ、大きい大阪と小さい大阪があるの?」
「そんな感じだな。大きい大阪が大阪府っていう括りで、その1つの町が小さい大阪、大阪市っていう町だから。」

 大きい大阪と小さい大阪っていうのは言い得て妙だな。大阪府を構成する市の1つが大阪市で、どちらも「大阪」が付く。面積も明らかに府の方が大きい。単純に「大阪」と言う場合、どちらかと言うと市の方が多いだろうか。
 電車はスピードを出して大阪方面を疾走する。めぐみちゃんは、晶子の手をしっかり握ってくっついている。身長差は丁度めぐみちゃんにとって専用の吊皮を提供する形になっている。晶子は時折めぐみちゃんに視線を向けている。色々な意味で一番めぐみちゃんに近いのは自分だという自覚があるんだろう。
 暫くして車内アナウンスで高槻が近いことが知らされる。大阪府下の自治体の位置関係の全容は知らないが、京都を出て大阪に差し掛かったあたりだということは分かる。とは言え、高槻がどんな町か全く知らないから、今は数少ない停車駅の1つがある町という認識しかない。
 電車が止まり、ドアが開く。ドア付近の混沌具合が一気に増す。少数だが降りようとする人がいる一方で、乗ろうとする人が若干居る。その上、出入り口付近の位置を死守しようとする人がいる。だから乗客の乗り降りがスムーズにいかない。
 これは珍しくない光景だ。毎朝の通勤で小宮栄行きの電車に乗るが、元々混み合う通勤時間帯の電車で人が多い急行停車駅では、途中で降りる人より乗り込む人の方が多い。更に、降りる時の利便を図ってかドア付近の位置を死守する人も多い。考えることはそれほど変わらないわけだ。
 どうにか乗客の交代が完了。ドアが閉まって再び電車が動き始める。車内の混雑は増したが、俺と晶子とめぐみちゃんがいる辺りはまだ多少余裕がある。奥の方に入れば座るのは無理としても周囲から圧迫されるような思いは相当な混雑になるまでしなくても良いのに、と考えるのは他人事だからか?

「お父さんは、お仕事電車で通ってるの?」
「そうだよ。朝は必ず混み合うから、電車の中はこんな感じ。」

 めぐみちゃんは首をかなり真上に近い角度に上げて尋ねる。こんな混雑は初めて…否、一時保護していた京都旅行中の地下鉄の車内で経験はあるか。
 俺が社会人になったこと、晶子も今までバイトしていた店で引き続き働いていることは、夏に一泊しに来た時にめぐみちゃんに話してある。社会人と言ってもピンと来ないと思って、仕事をしていて、電車で通っていると噛み砕いて話したことで、めぐみちゃんは俺の状況変化を理解したが、通勤は不思議そうだった。。
 めぐみちゃんは祖母の高島さんも実の両親も、自宅を兼ねる事務所で働いているから、通勤という概念があまり出来ていなかったらしい。風呂上がりに−話は風呂の時に出た−適当な髪を使って、俺と晶子の家と俺の職場の位置関係を書いて、1時間くらいかけて通っていることを話して納得した様子だった。

「電車に乗ってる時、どんなことしてるの?」
「んー。文庫本っていう小さい本を読むくらいだな。」
「お母さんから借りた本?」
「そう。お母さんはたくさん本を持ってるからな。」

 混み合う車内で大きなものは広げられない。広げるものは肩幅程度が限度だ。タブレットや携帯ゲーム機といった大層なものは持ってない。そうなると、広げるものは文庫本が関の山。だが、目との距離や片手でページを捲ったり出来ることと、電源もバッテリーも必要としない手軽さは、通勤の暇つぶしにぴったりだ。
 まだ晶子の親族との闘いが終結していないから、隙を見せると痴漢冤罪をかけられたり、ホームから突き落とされるといった危険がある。今の状況だと晶子の親族の側がそれどころじゃなさそうだが、危険要因を自ら招くようなことはしちゃいけない。だから、片手は必ず吊皮を握り、片手で本を読むようにしている。
 ホームで電車を待つ際には、万が一後ろから押されてもホームに落ちない距離を取るようにしている。おかげで小宮栄発の復路の電車でも座れる確率は半分くらいに低下しているが、危険要因を排除するために必要なコストと割り切っている。
 新大阪到着が近いアナウンスが流れる。もう新大阪か。車窓からの景色が目で追えるくらいになってくる。結構人がいるな…。やっぱり新幹線で新大阪まで来て、そこからユニバーサルスタジオに行く人も居るんだろう。

「お父さん。新大阪って大阪とどう違うの?」

 停車したあたりでめぐみちゃんが尋ねる。答える前に晶子にめぐみちゃんを抱っこして接近するように伝える。ドア付近は高槻より降りる人が多いが、乗る人は当然多くて時間がかかる。この間に混雑に押し潰されないようめぐみちゃんの安全を確保しておかないといけない。

「祐司さんの通勤の苦労を実感している思いです。」
「小宮栄から結構分散するし、もう慣れた。」
「お父さん。新大阪と大阪の違いって何?」
「ああ、勿論答える。忘れてないぞ。」

 俺はめぐみちゃんに説明する。新大阪は新幹線が走る路線の駅の1つ。新幹線が出来る前からあった路線の駅が大阪。これから行くユニバーサルスタジオは、新大阪からだと今乗っているこの路線に乗り換えて大阪まで行く必要がある。ユニバーサルスタジオと絡めて説明した方が理解しやすいだろう。

「今乗ってる電車以外で来る人も居るんだね。」
「勿論。例えば、飛行機で来る人はまた違う電車で来るし、車で来る人も居る。色々だ。」
「飛行機…。飛行機って乗ったことある?」
「否、未だにない。」
「お母さんもよ。」
「めぐみもない。」
「飛行機に乗るのは、もっと遠いところ−海を越えるくらい遠いところじゃないと使わないかもな。」

 親戚がほぼ同じ地域に固まっているせいか、盆正月とかに飛行機で帰省ということはない。これは晶子も似たようなもの。社会人になるまでは、親戚回りや帰省でもない限り、飛行機に乗る機会は殆どない。修学旅行で海外に行く高校や、卒業旅行というものもあるから全てではないのは言うまでもないが。
 めぐみちゃんの親戚関係は知らないが、昨日今日とこういう状況だから、近場に居るか付き合いがないかのどれかだろう。親戚付き合い、子どもにとって従兄弟が居るのが良いのか悪いのかは分からないが、年齢が増すにつれて居ない方が良いと思うかもしれない。
 新大阪から出たと思ったら、直ぐに大阪着。此処で乗り換えだ。やはり乗客も殆どが此処で降りる。めぐみちゃんを晶子に抱っこしてもらって良かった。こういう時は流れに乗れば移動はたやすいが、めぐみちゃんの移動速度だと追従出来ずに躓いたりしてしまい、大事故の恐れもある。

「晶子。このまま抱っこ出来るか?」
「私は大丈夫です。抱っこしていた方が安全ですし。」
「そうか。じゃあめぐみちゃんは頼む。」
「はい。めぐみちゃんは到着までこうしていようね。」
「うん。」

 晶子にめぐみちゃんを抱っこしてもらうのには、安全確保は勿論だが、めぐみちゃんがぐずる確率をほぼゼロに低減できる副次的効果もある。京都巡りの時も晶子が抱っこしていたことで、めぐみちゃんは地下鉄でもバスでも大人しく乗っていた。めぐみちゃんにとって絶大な安心を齎す力が晶子にはある。
 以来、対面時にはまっしぐらに晶子に駆け寄るし、食事とかでない限り晶子にしがみついたままでいる。今もしっかり晶子にしがみついている。これならめぐみちゃんの安全も確保出来て、それ以外の不安要素も極力排除できる。良いこと尽くめだ。あの頃より大きくなっためぐみちゃんを抱っこするのが、晶子にとっては重労働だと思うが。
 俺は案内表示を見て環状線のホームに移動する。幸い、JRだと最寄駅まで買っておけば、一旦出て乗換路線の切符を買う必要はない。環状線のホームは…1番ホームか。一度3階に上って、ホームに近いエスカレーターで降りる形か。

「ホームが一か所に集まっていると、結構壮観な眺めですね。」
「小宮栄は彼方此方に分散してるからな。」

 小宮栄は俺が通勤に使っている私鉄の他、地下鉄の全路線とJR、更に他の私鉄の駅が集中している。しかも、幾度の合併と人口増加で継ぎ足して来たせいか、複雑に入り組んでいる。地下鉄でも路線によっては5分くらい歩かないといけない位置関係にある。
 これでも東京の駅寄りはまだましだろうが、もう少し集約するか計画的に出来なかったのかと考えることがある。鉄道は一度敷設すると変更は非常に難しい。ラッシュ時は分単位で電車が出入りする路線だともう変更は不可能。こういう分かりやすい作りは羨ましく思う。

「お父さんは、電車でお仕事に行く時、こうやって別の電車に乗るの?」
「ああ。この大阪みたいな大きな駅で1回別の電車に乗る。駅から会社までは近いけどな。」
「お父さんはお仕事に行くのも頑張ってるんだね。」
「最初はちょっと大変だったけど、慣れたよ。」

 エスカレータを降りて1番ホームに降りる。こちらもかなり人が多い。大都市大阪は当然人口も多い。市内近郊からユニバーサルスタジオに行く人も多いんだろう。

「電車がどっちに来るかって決まってるの?」
「どういうこと?」
「んと…。1つの場所で両側に電車が来る時、どっち行きの電車がどっちに来るか決まってるのか、ってこと。」

 1つのホームで正反対の方向に行く路線を受け持つ、つまり今居る環状線のようなホームの場合、どちらがユニバーサルスタジオ方面か決まっているかということか。めぐみちゃんに確認を取ってから答える。

「一時的に変わる場合もあるだろうけど、決まってる。」
「どうやって?」
「電車の走り方だ。電車は車と同じで左側通行だから、どちらの線路がどっちに行く電車なのかは自動的に決まって来る。」

 俺はホームを指さしながら説明する。左側通行と決まっている以上、例えばこれから乗るユニバーサルスタジオ方面の方向を向くと、向かって左側がユニバーサルスタジオ方面、右側がユニバーサルスタジオから遠ざかる方向−京橋方面とある−の電車が出入りする線路だと分かる。
 これは、環状線のように外回りや内回りという表現が使われるの電車が走り続ける路線の見分け方にもなる。環状線のホームに立ってどちらかを向くと、向かって左側が時計と同じ方向に電車が走る外回り、右側が時計と逆回転に電車が走る内回り。駅や方面をある程度把握しておけば、環状線で遠回りすることはなくなる。
 昨日、冬休みの宿題を見た時に算数で時間の読み方を扱ったのは丁度良いタイミングになった。時計を思い浮かべて時計回りと反時計回りが、それぞれ環状線で一定方向に走る電車に対応すること、時計盤の上に立ったと思って左側通行だということを踏まえると、電車がどちらを向いて走るかが見えて来ることを話すと、めぐみちゃんは完全に納得したようだ。

「お父さん、凄いこと知ってるんだね!」
「知っておくとちょっと便利なことだな。」

 まったく知らなかった分野についての驚くべき知識に接したことで、めぐみちゃんは目を輝かせて感嘆している。こういうちょっとした知識を伝えて大興奮なんだから、めぐみちゃんが新たな事実を発見したら凄いことになりそうだ。
 大人から見れば些細なことでも、子どもにとって未知で新鮮なことであることは多い。だから知的好奇心は子どもの方が強いんだろう。色々なことを知って自分の歩く道、ひいては自分自身を知る、というのは決して大袈裟とは思えない。自分が分からないと自分が今後どう生きて行けば良いか分からない。
 ホームに入ってきた電車に乗る。説明したとおり左側通行の原則に従って走っていることを確認出来て、めぐみちゃんは感激新た。混み合う電車もまったく気にならない様子だ。こうした刺激を齎すことを期待して、高島さんはめぐみちゃんが俺と晶子と一緒に行動することを歓迎しているんだろうか。
 ユニバーサルスタジオの駅、正確にはユニバーサルシティ駅には直ぐ到着。電車の中の人が一斉に同じ方向に移動する。俺と晶子は人の波に乗って移動する。電車を降りてホームを歩き、改札を通って地上に出る。一瞬視界が白一色に覆われる感覚の後、初めて見る光景が広がる。

「広ーい!大きな筒がいっぱいあるー!」
「ガスタンクかな。工場が近くにあるみたいだな。」
「ユニバーサルスタジオがあっちみたいですね。」
「凄く高いビルー!」
「マンション…か?」

 駅の出入り口から見える光景は、臨海工業地帯から整備された道路と高層ビル群に変わる。視点を180度変えただけで一気に変わるのは、近年整備された臨海地域っぽい。人の流れからちょっと離脱したが、氷河みたいにゆっくり移動しているし、移動は一定方向だから再び加わるのは容易だ。
 駅の北側に、めぐみちゃんが驚いた高層ビル群がある。マンションのようだが、駅に一番近い高層ビルはマンションにしてはバルコニーがない。マンションじゃないとするとホテルか?今の都心部マンションやホテルの売り文句の1つ「駅に直結」というタイプかもしれない。
 人波に乗って移動していくと、信号が見えて来る。片側二車線の車道を渡る格好で横断歩道がある。チラッと見た限り、ユニバーサルスタジオは道路を渡った向こう側に入口があるようだ。出来れば此処で渡っておいた方が良いが、人波は歩行者用信号の遷移にしたがって分離しているから、先でも渡れるようだ。
 幸運にも歩行者用信号が青になった時に到着。信号を渡って引き続き人波に乗って歩く。中央分離帯に大きな…ソテツが一定の間隔で植えられている。このあたりから買い物でも通勤でもない、違う場所に近づいているという感覚が強まって来る。めぐみちゃんは何かを感じたのか、ユニバーサルスタジオの方を食い入るように見つめている。
 ある一点に人が流れ込んでいく。目的地ユニバーサルスタジオに到着のようだ。まずはチケット購入か。結構高いな。これはこういうもんだと思う他ない。無銭入場なんて出来ないだろうし、仮に出来たとしても一生を棒に振るのと引き換えみたいなもの。あまりにもリスクが高い。

「チケット、買って来たぞ。」
「ありがとうございます。」
「カッコ良いー!」

 めぐみちゃんはチケットを見ただけで早くも興奮気味。学校の遠足で来た時は恐らく団体用のものだろうし、引率の先生が扱っただろうから、チケットを見るのはこれが初めてだろう。列に並んで入場。チケットは俺と晶子が持つ。めぐみちゃんはまだ晶子が抱っこ中だし、万一落とすと大変だ。

「違う世界に来たー!」
「広いですねー。」

 ゲートを潜るとそこは別世界。大通りに沿ってカラフルな店が軒を連ね、そこを多くの人が流れて行く。少し前まで高層ビルと工業地帯が混在する臨海地帯を歩いていたのに、ゲートを潜った途端に全く違う風景に変わる。こういうのも演出の1つなんだろうか。

「色んなアトラクションがあるみたいですね。」
「そうらしいな。何処に何があるか…。」

 俺はマップを広げる。高島さんが用意してくれたものだ。7つのエリアがあって、それぞれにアトラクションやレストラン、ショップやその他サービス施設がある。何処にどういうものがあるかは碌に予備知識を得ずに来たから、此処は以前来たことがあるめぐみちゃんの意向を聞くのが早道か。

「めぐみちゃんは、行きたいところってある?」
「んと…、恐竜がいっぱいいるところ。」
「恐竜?…ああ、このエリアか。」

 俺はマップから該当個所を探し出す。有名な映画「ジュラシック・パーク」を題材にしたエリアか。今居るエリアのハリウッド・エリアから見て一番遠い場所にある。

「よし。此処に行こうか。」
「めぐみちゃんも一緒に歩こうね。」
「うん。頑張って歩く。」

 晶子がしゃがんでめぐみちゃんを降ろす。めぐみちゃんは晶子としっかり手を繋ぐ。俺はマップを片手に道案内兼先導。めぐみちゃんが転んだりしないように、意識的に歩く速度を遅くしてめぐみちゃんの歩調に合わせる。今日の主役はめぐみちゃんだ。めぐみちゃんが怪我をしたりしたら無意味でしかない。
 町−敢えてこう言う−の風景があるところから一転する。西部劇のような雰囲気から、高層ビルも混じる都会的な雰囲気に変わる。ニューヨーク・エリアというらしい。独特の形状の建物もある。色々な人種や文化が混在するというニューヨークは、実際にこんな雰囲気なんだろうか。
 更に歩いて行く。風景がまた大きく変わる。サンフランシスコ・エリアというらしい。アメリカは元イギリスの植民地という認識が強いが、サンフランシスコなど東海岸や南部は元スペインの植民地だったと記憶している。地名もスペイン領時代の名残が随所に見られる。サンフランシスコもそうだし、ロスアンゼルスもそうだ。

「大きな博物館みたいですね。」
「エリアごとに雰囲気を変えているのは面白いな。」
「お父さんとお母さんが住んでるところには、こういうところはないの?」
「遊園地はあるけど、こういう場所はないわね。此処だって、お父さんもお母さんも初めて来るし。」

 新京市は複数の自治体が合併して出来た市だが、小宮栄に勤務する人−俺もそうなるとは当初は思わなかった−の住宅地という側面が強い。旧町村の地域はまだまだ田園地帯が多いが、そこに出来るのは大型ショッピングセンターか住宅地で、こういった大規模なテーマパークが出来る見込みはない。
 ショッピングセンターでも客が来ないと潰れるが、まだ日常生活に深く関係する「買い物」というものを扱うから、一定数の客が来る可能性がある。それに、駐車場をこれでもかと作っておけば、車で来る人が来やすい。駅前商店街の多くが大型ショッピングセンターに押されているのは、駐車場の有無や大小もある。
 一方、テーマパークが続くかどうかはかなりの賭けだ。テーマパークを作るには恐らく数十億とか巨額の資金が必要だ。しかも、客を飽きさせないようにアトラクションを設置したり交換したりといった工夫も必要だし、その都度巨額が必要とされる。そうしたら必ず客を呼べるかと言えば「?」だ。
 人口が多い都市に作れば必ず客が来るかと言えば、これまた「?」。現に、小宮栄の港付近に出来たテーマパークは、去年破産した。地下鉄の駅に近いし高速道路のインターからもそこそこ近いから客は来そうなものなのに、賑わったのは最初の頃だけ。負債額は数百億とか聞いてどんな額か想像するのが難しかった。

「…ちょっと待って。…道を間違えたらしい。」

 マップをよく見ると、目的地のジュラシック・パークの入り口は、サンフランシスコ・エリアからは行けないようだ。サンフランシスコ・エリアが行き止まりだから、逆戻りしてニューヨーク・エリアの分岐点−さっき通った大きな池の右側の道を進む必要がある。

「ジュラシック・パーク−恐竜がいっぱいいるエリアはこの池の向こう側からじゃないと入れないらしい。」
「それじゃ、戻ってあちら側に行きましょう。」
「バックしましょー。」

 元気いっぱいのめぐみちゃんの掛け声で回れ右。正直安堵する。目的地で遊ぶことだけじゃなく、そこまで行くこと、その過程でのハプニングもめぐみちゃんにとっては楽しいことなんだ。俺と晶子と一緒に遊びに出かけられることそのものが楽しいんだ。それに救われた格好だ。
 ラグーンという池の周囲を反時計回りに歩いて、分岐点で本来の道に入る。右手側がハリウッド・エリアで左手側がニューヨーク・エリアという場所を通り過ぎて、また違った風景が現れる。玩具箱みたいな雰囲気のこのあたりは、ユニバーサル・ワンダーランドというらしい。
 このユニバーサル・ワンダーランドは、入場していく−時間帯が速いから退場していく人は殆ど居ない−幼稚園や小学校低学年あたりらしい子どもの比率が最も高いように見える。有名なキャラクターものが犇めいているからだろう。めぐみちゃんが夏に来た時に持って来たリュックにも、その中の1つがついていた。
 恐らく遠足で来た時は平日だからもっと空いていただろうから、ユニバーサル・ワンダーランドにも行っただろう。にも拘わらず最初にジュラシック・パークに行きたいと言っためぐみちゃんは、単に「可愛い」だけでは興味を惹かれないんだろうか。

「小さい子も多いですね。」
「こういう場所は、子どもが何度でも行きたいようにするのが繁盛する秘訣なのかもしれないな。」

 有名なキャラクターものが集まるユニバーサル・ワンダーランドは勿論だが、今まで歩いて来た中でもめぐみちゃんと同じくらいかそれより小さい子どもの姿が目立つ。家族連れが多いのもあるだろうが、小さい子どもが居ると子どもが行きたい場所でないと行くだけで苦労するという。
 子ども自体には購買力はないが、親が買い与えることが出来る。子どもが欲しがれば親もある程度妥協する。更に、余程近くなければ大抵1日がかりになるから、食事など家族やグループ共通の出費も見込める。こういうテーマパークは、出費させるには兎に角人が来ないと話にならない。
 小宮栄の港付近のテーマパークは、子どもが何度も行きたがるようなものじゃなかった。風景や建物に関心を持つのは、中学生あたりからだろう。「○○したい」を躊躇なく言い出せるめぐみちゃんくらいの年代の子どもが大人を引っ張ってこないと、テーマパークは成功しないと考えて良さそうだ。

「お父さん、お母さん。あれ。」

 ユニバーサル・ワンダーランドを過ぎてアミティ・ビレッジというエリアを半分ほど過ぎたところで、不意にめぐみちゃんが足を止めてある方向を指さす。ラグーンを背にしてスペースに、やはりめぐみちゃんと同じくらいかそれ以下の年齢の子どもが集まって、頻りに歓声を上げている。
 ラグーンを背にした壁には所狭しとぬいぐるみが並べられている。特定のキャラクターものではないようだが、可愛らしいぬいぐるみだ。めぐみちゃんは有名なキャラクターより、こういうものの方が関心を惹かれるんだろうか。京都動物園に行った際のキリンのぬいぐるみもそうだったし。

「行ってみようか。」
「うん。」

 遠慮気味だっためぐみちゃんの表情が再び綻ぶ。最初にジュラシック・パークに行きたいと言ったから、そこから逸れることに罪悪感があったんだろうか。今はめぐみちゃんが主役なんだから、彼方此方に関心が向いても咎める理由はない。今日1日しか居られないから優先順位を付けた方が良いと思うくらいだ。
 俄かに浮上したスペース−マップには「アミティ・ボードウォーク・ゲーム」とあるスペースに近づく。小さい子どもの歓声が凄いのは、景品のぬいぐるみを貰った時もそうだが、ゲーム中の興奮も大きな理由だと分かる。簡単に言えば、祭りの縁日の屋台のようなもので、ゲームをしてその結果に応じて景品のぬいぐるみが貰えるシステムらしい。

「お父さん、お母さん。やっても良い?」
「頑張って何かぬいぐるみを貰って来ようね。お父さんとお母さんは此処で応援してるから。」
「うん!頑張って来る!」

 晶子から挑戦の是非を飛び越して激励を貰っためぐみちゃんは、受付の列に走っていく。俺と晶子はめぐみちゃんの順番を待ちながら見守る。生き生きしためぐみちゃんを見られるようになって本当に良かった。それも2年前の早春、晶子がめぐみちゃんに手を差し伸べたあの時から始まったんだよな…。
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