雨上がりの午後

Chapter 331 「義母」を動かした「娘」の来訪

written by Moonstone

 火曜日の夜。高島さんから電話が入った。シフト勤務の休日だった晶子も、携帯をハンズフリーモードにして同席する。

「本日、メモリカードを受領して内容を確認しました。」
「早かったですね。」
「新京市と京都の距離ですと、1日あれば郵便は届きます。録音・録画共に十分証拠となる品質でした。」
「良かったです。」

 これでひとまず証拠隠滅の恐れはほぼなくなった。警察への相談の実績と併せて、興信所が長らく晶子に付き纏っていた確かな証拠は、今後の戦いで貴重な手札になる。

「今日お電話したのはメモリカード受領と確認をお伝えすることと、一度打ち合わせも兼ねてそちらにお邪魔する日程を御相談するためです。」
「こちらに来ていただくんですか?」
「はい。」

 こういう場合、依頼者に相当する俺と晶子が出向くもんじゃなかったか?

「実は、めぐみがお二人に会いたいと言っているので…。」
「そういえば、学校は夏休み真っ最中でしたね。」
「はい。来週の週明けが2回目の登校日です。」
「今、私は会社が夏季休暇ですし、晶子、妻が今週の金曜から4日間の休みに入ります。その4日間でしたらこちらは構いません。」
「お二人が揃っている方がめぐみが喜びますから、是非その4日間のうちにお邪魔したいと思います。」

 元々出かける予定はないし、帰省は元から考えてない。更にこんな状況だから長期間家を空けるのは避けたい。来てもらうのはむしろあり難いし、めぐみちゃんも喜ぶならその方が良い。
 相談というレベルにも至らず、簡単に合意に至る。金曜に来て土曜に帰るという1泊2日の日程。1泊は高島さんが宿を手配すること。めぐみちゃんを泊めること。食事は全員揃っての昼と夜、めぐみちゃんの分の朝をこちらで−勿論実際は晶子だが−用意することがすんなり決まる。

「安藤ご夫妻の御自宅の場所はこちらで調べますし、安全の面でも御自宅でお待ちください。」
「分かりました。こちらで用意しておくものはありますか?」
「新規に用意していただくものはありません。万が一相手方から接触があるようでしたら、その録画録音をしておいていただくくらいです。」

 これまでどおりにしておけば良いってことか。高島さんが来ている時に接触してくるとは思えないし、もし交渉でもしに来たなら、高島さんとしては思う壺だろう。俺や晶子が下手に説得しようとしても無駄だと考えるべき。高島さんに追い返してもらうのが一番だ。興信所が付き纏っているならまずそんな展開はないと思うが。
 警戒を続けながらの日々が過ぎて金曜日。晶子は朝から食事の準備に忙しい。来るのがおよそ昼前だと昨日連絡があったから、昼飯の準備は勿論、夕飯の仕込みもしているようだ。俺はその間掃除をする。掃除と言っても普段が普段だから、全体に掃除機をかけるくらいで終わってしまう。
 料理、特に人に振る舞うものは完全に晶子に任せる。俺自身は全く不安はない。何しろそれを仕事としているくらいだから、俺があれこれ言う方がむしろ邪魔になる。1つ気になるのは、何を作ろうとしているかくらいだ。楽しみの裏返しでもあるが。

ピンポーン

 インターホンが1回鳴る。多分高島さんとめぐみちゃんだろう。念のためインターホンで確認するのはもはや癖のレベル。

「はい。」
「こんにちは。高島です。」

 声とモニターで確認が取れる。高島さんがめぐみちゃんを連れている。

「こんにちは。今迎えに行きます。」
「よろしくお願いします。」

 俺は家の鍵を持って、晶子に一声かけてからエントランスへ迎えに行く。こちらからエントランスの鍵を解除することも出来るが、それだと便乗して招かざる客が入る恐れがある。管理会社からも便乗進入を避けるようにと通達があるし、今は興信所の影があるから尚更遠隔解除は禁物だ。
 玄関を出て鍵を閉め、階段でエントランスに向かう。迎えに行くのは俺1人だから階段で十分。エントランスに出ると、オートロックのドア越しに高島さんが会釈し、めぐみちゃんが手を振る。俺は内側からドアを押す。内側からは押すだけで開く。一方通行みたいなもんだ。

「こんにちは。ようこそいらっしゃいました。」
「お父さんだ!」
「よしよし。案内しますのでどうぞ。」
「ありがとうございます。」

 駆け寄ってきためぐみちゃんを抱っこして、高島さんを招き入れてドアが閉まったのを確認してからエレベーターに向かう。それほど階数が高くないのと戸数も多くないから、2階3階あたりの住人は階段を使うことの方が多いようだ。今回は案内を兼ねてエレベーターを使う。
 3階で降りて、集合ポストと同じく「安藤」とだけ書いた表札を掲げた自宅玄関に向かう。一旦めぐみちゃんを下ろして鍵を開け、高島さんとめぐみちゃんを中に入れてから俺も入る。

「晶子。高島さんとめぐみちゃんを案内したぞ。」
「はーい。今行きまーす。」

 声に続くように足音が近づいて来る。朝から着けているエプロンをそのままに晶子が姿を現す。その瞬間、めぐみちゃんの表情が最高に明るくなる。

「お母さーん!」

 めぐみちゃんは靴を脱ぎ棄ててしゃがんだ晶子に飛び込むように抱きつく。晶子はしっかり抱きしめる。

「ほら、めぐみ。嬉しいのは分かるけど、ちゃんと靴を揃えて脱ぎなさい。」
「あ、御免なさい。」

 めぐみちゃんは一旦晶子から離れて靴を揃え、改めて晶子に抱きつきに行く。

「御無沙汰しております。ようこそいらっしゃいました。」
「めぐみと共にお世話になります。」
「立ち話も何ですので、こちらへどうぞ。」

 俺は高島さんを案内する。晶子はしっかり抱きついためぐみちゃんを抱っこして高島さんの後に続く。リビングに通してひとまず座ってもらう。使うことはないだろうと思っていた座布団だが、晶子の提言どおり取っておいて良かったとつくづく思う。

「どうぞ、おかけください。」
「ありがとうございます。めぐみ。晶子さんの邪魔になるから一旦離れなさい。」
「もう少ししたらお昼御飯が出来るから、ちょっとの間離れててくれる?」
「うん。分かった。」

 再びしゃがんだ晶子からめぐみちゃんが離れ、高島さんの隣に座る。ちょっと背丈が足りないか。座布団をもう1枚追加。これなら良いか。キッチンに入り、先に茶を出す。

「良いところにお住まいですね。」
「ありがとうございます。」

 春にお邪魔した高島さんの自宅兼事務所のリビングは瀟洒な佇まいだった。こちらはカーペットを敷いて炬燵机と持ち込みの茶箪笥を置いただけの、良く言えば質素な、悪く言えば殺風景な佇まい。来客を想定してなかったのは裏目に出た感は否めない。

「お父さんとお母さんは、此処に住んでるんだね。」
「そうだよ。」

 高島さんとは対照的に、めぐみちゃんは麦茶を飲みながら頻りにあたりを見回している。そう言えば、高島さんの家に行ったことはこれまで2回あるが、めぐみちゃんがこっちに来たのは初めてか。どんな家に住んでいるのか来る前から興味深々だったんだろうか。友達の家に行くのとは違う気分だろうな。

「お待たせしました。」

 晶子が食事を運んで来る。人数が普段の倍であること、高島さんの食の好みを知らないのを考慮してか、大皿に敷き詰められた具が多彩なサンドイッチに、各自のコーンポタージュスープと野菜サラダ、そしてドリンクバーのようにオレンジジュース、アイスティー、アイスコーヒーがボトルに入れられて置かれる。

「わあーっ!凄ーい!」
「あらあら、随分本格的ですね。」
「飲み物も自由に飲めます。グラスは必要でしたら交換しますので遠慮なくどうぞ。」

 目を輝かせるめぐみちゃんと感心した様子の高島さんの向かい、俺の隣にエプロンを取った晶子が座る。全員揃って「いただきます」の後めいめいにサンドイッチを手に取る。めぐみちゃんは…ツナサンドか。ツナが好きなのは今も変わってないな。

「美味しい!」
「良かった。」

 一口食べためぐみちゃんが、最高の笑顔で言う。晶子は安心して待機状態から自分の食事を始める。めぐみちゃんがどれを食べても良いようにか、マスタードは控えめだ。どれも軽くトーストされていて食感も良い。これだけのパンを調理するのは相当大変だっただろう。

「流石に、お店で料理を任されているだけのことはありますね。大変美味しいですよ。」
「ありがとうございます。」

 満足そうに褒める高島さんに、晶子はめぐみちゃんの時とは違う反応を見せる。嬉しいことには違いないが、子どもが喜ぶのを見るのと義理の母に称賛されるのを見ることの違いというか。立ち位置は確かにそんな感じではある。
 大皿のサンドイッチは良い勢いでなくなっていく。まさか何も食べずに来たとは思えないが、美味しくて食が進むのはどちらにとっても良いことだ。特に入魂の勢いで作った晶子は、残されるより綺麗に平らげられた方が嬉しいに決まってる。自分が作ったものを捨てることになるのはかなり精神的なダメージが大きい。

「今日はどうやって此処に?」
「宿までは車で、そこからはタクシーです。」
「車ですか。電車かと思ってました。」
「私のような仕事ですと、クライアントとの打ち合わせなどで交通機関を待っていられない場合もありますから、車を使う機会は多いです。勿論、新幹線や飛行機も使う時は使いますが、最寄りの空港や駅からレンタカーで移動というパターンが多いですね。」

 弁護士というと事務所に鎮座して依頼者−クライアントというらしいがそれが来るのを待つという印象があったんだが、クライアントが遠方の場合もあるし、交通機関が潤沢じゃない場所、あるけど動いていない時間帯に呼ばれることもあるようだ。その際「電車が止まってるから行けません」じゃ話にならないから、車が必需品なわけか。
 京都から新京市まで車で来るのは、高速を使っても1時間以上かかると思う。高速に渋滞のメッカのような場所があるし、複雑なジャンクションもある。結構乗り慣れていないと運転だけで相当疲れるだろう。弁護士もやっぱり体力勝負の面があるようだ。
 出された食事は全部なくなった。と思ったら、晶子が席を立ってデザートを持って来る。半球状に盛られたバニラアイスにバナナやパイナップルが乗せられた、アイスフルーツパフェというようなものだ。随分凝ったものを用意してたんだな。

「わぁーっ!凄ーい!」
「これはまた、立派なものが出てきましたね。」
「暑い時期ですから、デザートもこういう冷たいものが良いかと思って用意しておきました。」

 フルーツパフェを彷彿とさせる盛り付けに、めぐみちゃんは大喜び。カップに盛り付けられているから上品さも感じられる。カップも事前に冷やしておいたらしく、アイスが溶け出すスピードがかなり遅い。アイスの甘みとフルーツの甘みと酸味が良い具合に絡み合っている。このまま店のメニューに出来そうだ。

「御馳走様ー!凄く美味しかったー!」
「良かった。ありがとう。」
「大変美味しいものを用意していただいて、ありがとうございます。」
「お粗末さまでした。」

 量も質も大満足の昼飯が終わり、食器を片づける。量はさほど多くないから俺1人で洗うことにする。その間晶子はめぐみちゃんの相手が出来る。懐き具合は晶子の方が圧倒的に強い。その証拠に、キッチンから覗き見ると…。

「お母さんの料理、凄く美味しかった!お母さんって料理も上手なんだね!」
「喜んでもらえて良かった。」

 早速めぐみちゃんは晶子の膝の上に座って甘えている。晶子もめぐみちゃんに会いたがっていたし、丁度良い。洗い物を終えた俺は、改めて麦茶を淹れてリビングに戻る。

「お待たせしました。」
「お昼ご飯から直ぐで恐縮ですが、暫くの間、御主人と今回の件についてお話したいと思います。」
「晶子は同席しなくて良いんですか?」
「今回のような場合、当事者より御家族の対策が急務かつ重要であることが多いです。」
「…分かりました。」

 晶子には聞かせたくない内容もあるんだろう。俺は晶子に目配せする。晶子は意図を理解したらしく、小さく頷く。

「めぐみちゃん。別の部屋にたくさんの御本があるから、そっちに行こうか。」
「え?お父さんは来ないの?」
「お父さんは、これからめぐみちゃんのおばあちゃんと大事な話があるから、それが終わってから、ね。」
「うん。分かった。」

 めぐみちゃんはすんなり承諾して晶子に連れられてリビングを出て行く。北の部屋、すなわち実質晶子の書庫は小さいながらも一応エアコンがあるし、どちらも本が好きだから退屈はしないだろう。俺は晶子の夫として、高島さんから話を聞いたり情報を得たりしておく必要がある。

「…本来、めぐみの要望でお邪魔するだけにしたかったのですが。」

 静まり返ったリビングで、俺が1対1で向き合う高島さんが口火を切る。

「実のところ、これからの心構えや対策は、主に興信所の依頼元である奥様の親族が対象になります。」
「裏を取ったんですか?」
「はい。御主人に送っていただいた音声と映像を元に、該当する興信所−サービスエージェンシーに問い合わせました。依頼者の詳細は流石に向こうも明かしませんでしたが、奥様の親族が現在の住所と行動などを調べるために依頼したとの回答を得ました。」
「興信所がよくそこまで回答しましたね…。」
「安藤さんご夫妻の顧問弁護士であることと私の身分を伝えたら、スムーズに回答を得られました。依頼者の詳細までは個人情報を盾に引き出せませんでしたが、ふふっ、相手は相当驚いていましたよ。」

 高島さんは軽く言ったが、顧問弁護士って個人が雇用するには結構高額な筈。それ以前に、俺は顧問弁護士として報酬を払っていない。こういう時、どうすれば良いんだ?

「顧問弁護士と仰いましたが…。」
「最初のお電話で申し上げましたように、お金に関しては一切ご心配無用です。これはお二人へのささやかな御恩返しですし、めぐみの依頼でもあるからです。」
「めぐみちゃんの?」
「子どもというのは、大人が考える以上に勘が鋭いんです。最初のお電話を受けた時、丁度めぐみがリビングに居まして…。」

 高島さんは最初の電話−俺と晶子が今回の件を初めて高島さんに電話で相談した時のことを話し始める。
 高島は通話を終えて小さい溜息を吐く。当面の対策として幾つかのことを伝えたが、事態は芳しくない。このような事態はあまり扱ったことはないが、大抵かなり深刻だ。親族というのは親族であるがゆえに人間関係の距離感を無視したり、個人や家庭に平気で踏み込んできたりする場合がある。
 被害者が男性でも女性でも、ある思考が生きる田舎は重い足枷になる。その思考とは「男子は家を継ぐもの」「女子は子どもを産むもの」という概念が常識と位置付けられ、子どもはそのために生まれ成長するものであるというものだ。そこにそのような田舎にやはり常識として存在することが多い本家分家の関係が力関係を伴うと更に深刻になる。
 本家分家は元々、家制度の時代に原則長男が継承する血統である本家に万が一の事態があった際に、分家が婿養子となって継承したり子どもを養子に出したりするためのもの。だが、農業が国民における圧倒的に多い職業だった時代は終わり、相続は子どもが平等に行うのが原則になった。むしろ本家の人間は、固定資産税はかかるが大した不動産価値がない先祖代々の土地を継承するために、行動を制限されるくらいだ。
 だが、法律が大幅に変わり、時代が変わっても、人の認識まではそう簡単に変えられない。「地元」意識は大都市でも田舎でも強いところは強いが、田舎の「地元」意識は前時代の制度や法律を基にしている。更に先祖代々の土地という土地信仰とも言うべき思想が絡むと、先祖代々の土地を中心とする一族意識と力関係が存在する。
 詳細は調査しないと分からないが、恐らく晶子の出身地は先祖代々の土地を中心とする世界が全てとする地域なんだろう。そのような土地柄では、女子は後継ぎを産み育てるための存在であり、余所者の祐司と結婚したことは重大な背信行為と映る筈。興信所を使う理由としてだけは筋が通っている。

「おばあちゃん。」

 目の前に居ためぐみが声をかける。事務所が休みということで両親はめぐみを自分に預けて遊びに出ている。資格取得のための勉強も兼ねた仕事はきちんとしているから、外出を咎めることはしない。めぐみの親としての存在感は祐司と晶子に及ばないが、親になろうと模索しているのも感じている。

「お父さんとお母さんに、何かあったの?」
「え、ええ。ちょっとトラブルに巻き込まれたらしくて…。」

 興信所だの離婚届不受理だのは分からないだろうが、通話の一部始終で祐司と晶子に不測の事態が起こったことを感じ取ったらしい。めぐみは祐司と晶子をもう1組の両親と思っている。とりわけ晶子への懐き方は本当の母、すなわち自分の娘が遠く及ばない。
 離れているし祐司と晶子には自分の家庭と仕事があるから会える機会は限られている。しかし、めぐみは昨年の早春に娘夫婦に置き去りにされたところを偶然助けられ、愛情溢れる時間を経験出来た。それを契機に娘夫婦の金銭支援に終始し、めぐみを救えなかった自分を悔やみ、娘夫婦と自分の関わり方そのものを見直すことになった。
 めぐみがあの時祐司と晶子に助けられていなければ、最悪の事態もあり得た。めぐみも恐らくそれを覚悟していた。絶望していたというべきかもしれないが、そこから救って自分を愛情で包み込んだ祐司と晶子は、めぐみにとって間違いなく親だ。その親の危機を感じ取ったんだろう。

「お父さんとお母さんは離れていても会えるから良い。その時遊んでもらったり、本を読んでもらったり出来るから。でも、お父さんとお母さんが居なくなるのは嫌。」
「めぐみ…。」
「おばあちゃん。お父さんとお母さんを助けてあげて。」

 めぐみは自分の元に歩み寄り、必死に訴える。孫娘の切なる願いを叶えられず、本当の両親より慕っている祐司と晶子を助けずして、何が弁護士か。不安なのは祐司であり晶子であり、そしてめぐみだ。その不安を法的観点から解消するために、今自分が動かなければならない。否、動かずして何が弁護士か。

「めぐみ。貴女に心配されるようなことはしないわ。」
「お父さんとお母さんを助けてくれるの?」
「勿論よ。それ以外にない。」

 めぐみの頭を撫でて言うと、それまで不安一色だっためぐみの表情が一気に晴れる。めぐみのために、そして祐司と晶子のために出来ることはすべてする。それが電話口で言ったように祐司と晶子への大恩を少しでも返すことだ。

「めぐみちゃんがそんなことを…。」
「今お二人の力になれなければ、めぐみは一生口をきいてくれなくなるでしょう。」

 めぐみちゃんが高島さん側の会話だけで、俺と晶子の危機を感じ取ったとは…。俺と晶子はめぐみちゃんを救ったとか仰々しいことは考えてない。結果としてそうなったのは間違いないが、恩着せがましいことはしていないつもりだ。だが、それ以来めぐみちゃんは俺と晶子を、特に晶子を強く慕っている。
 以前も、めぐみちゃんは俺と晶子に会えることを楽しみに毎日を元気に過ごしていると聞いた。俺と晶子に遊んでもらいたい、褒めてもらいたい、そんな気持ちが向上心となって勉強も遊びも頑張って楽しんでいるそうだ。そのめぐみちゃんが、今度は俺と晶子を助けるべく立ち上がった。
 無償で顧問弁護士を、しかも就職したての20代前半の若い夫婦に降りかかったトラブルに対して最後まで面倒をみる弁護士はまず居ない。高島さんも職業として弁護士をしている以上、そう安易に無償で行動することはしない筈だ。それを突き動かしたのは間違いなくめぐみちゃんだ。

「このような形でしか、自分の力でお二人から賜った大恩をお返しできないのは、弁護士の因果だとは思います。ですが、めぐみのためにも、お二人を最後まで全面支援させていただくことを、改めてお約束します。」
「ありがとうございます。」
「御主人が獲得した証拠を得たことで、顧問弁護士として次の手を打っておきました。ですから、冒頭で申し上げたとおり、今後の心構えや対策は奥様の親族が対象となります。興信所が付き纏うことはない筈です。」
「そんなことが出来るんですか?」
「お二人の顧問弁護士として、お二人に対する一切の付き纏い行為を停止すること、少しでも該当する行為を行えば警察とも連携して法的手段を取ること。これらをサービスエージェンシーに警告として発しました。サービスエージェンシーはこちらの要求を受け入れ、お二人の調査行動から手を引くとして文書を締結しました。」

 流石は弁護士。一般人が事務所に出向いて直談判しても聞き入れられないようなことを承諾させて、文書で証拠を残すまでに至ったとは。興信所は警察と密接な関係があるから、違法行為として敵対することは絶対に避ける必要があると以前高島さんが言っていたが、それを盾に手を引かせたわけだ。
 興信所が手を引いたとなると、晶子の親族は別の興信所に依頼するんじゃないか?それに、そもそも晶子の親族が長期間興信所に調査させた理由は?それらは未だに不明のままだ。対策としては不要かもしれないが、何かそこに別の対策の糸口があるかもしれない。

「サービスエージェンシーに手を引かせたのは勿論ありがたいですが、他の興信所に依頼することは考えられないでしょうか?」
「勿論、ありえます。ですので、サービスエージェンシーに他の興信所にも奥様への調査行動を行わないよう根回しを求め、相手方は承諾しました。主だった興信所は同様の依頼を受けないと思います。」
「私が思いつくようなことは対策済みですか。」
「恐らくは。奥様への調査以来の理由については個人情報を盾に回答を引き出せませんでした。」
「向こうは個人情報を探って来るのに、変な話ですね。」
「それはごもっともです。そのような矛盾した事例は、法律ではよく見られることです。」

 理由は分からないままでも、別の興信所が晶子の調査活動を始める危険性が相当低くなったのは大きい。興信所が依頼を受けないとなれば、親族が直接乗り出して来る可能性がある。そうなれば直接対決に繋がるだろう。高島さんが「今後の心構えや対策は主に晶子の親族が対象になる」と言ったのは、そういう理由だろう。

「主だった興信所は、今後の警察との関係を考えて、経営に損害が出る恐れがある依頼である奥様の調査活動は受けないでしょう。これまでの調査活動で少なくとも住所と家族構成、お勤め先と行動パターンくらいは相手方、奥様の親族も把握している筈です。」
「そう…でしょうね。」
「此処で疑問なのは、興信所が調査活動を開始してひと月半もかかっていながら、奥様の親族が何も手を打ってこない、せいぜい今回の警告などの決め手となった御主人在宅時の興信所職員の接触のみということです。」
「どういうことですか?」
「先ほど申し上げた調査活動の結果、すなわち住所と家族構成、お勤め先と行動パターンが把握出来たら、奥様の所在は十分掴めていると言えます。表現を変えますと、ひと月半も興信所を付けておいてそれらの情報の把握の域を出ていない、あまりのコストパフォーマンスの悪さです。」
「何処に居て何をしているのか分かったんだから、直接来て話し合いだとか持ちかけて来てもおかしくない筈、と。」
「はい。」

 確かにそのとおりだ。何処に居て何をしているか、どうやって移動しているかまで分かれば、2人揃っている時かどちらか1人の時を狙って押し掛けるには十分。ひと月半も延々と行動パターンを調べても、俺は通勤に電車を使わないと無理だし、晶子も出来るだけ街灯が多い場所を通っているから、行動パターンを変化させても大した目くらましにはならない。
 興信所の料金は知らないが、ひと月半も付きっきりで依頼すれば数十万は行くだろう。百万の桁が動いていても不思議じゃない。にも関わらず、何らアクションを起こさないのは考えてみればかなりおかしい。かえって不気味でもある。

「財力に十分な余裕があり、何か足を出さないか、御主人か奥様を屈服させるような弱みを握れないか、興信所にひたすら探らせていたとも考えられます。」
「変な話ですが、俺が通勤途中で浮気をしているとか、そういうことですか?」
「はい。御主人と奥様がなかなか尻尾を出さないが何時か出す筈だ、という思い込みにしたがって。ですが、御主人は高須科学という優良企業にお勤めで、奥様のお勤め先も学生時代からの継続である健全な飲食店。どちらもギャンブルや性風俗を嗜んでいるわけでもない。そうなりますと、そんな筈はない、もっとしっかり調べろ、と興信所に探らせ続けていた、と考えられます。」
「思い込みでそこまでするとは…。」
「俄かには信じがたいことですが、閉じられた狭い世界だけで生きていると、その世界が全てになります。その世界を脱して、失礼な表現ですが何処の馬の骨とも知れない男性と結婚までした奥様は、その世界の住人からすれば常軌を逸したことばかりです。ごくまともな調査結果が出ても、そんな筈はない、と認めようとしない。そう考えられます。」

 容易には信じられないが、高島さんの説明を聞くとそれが最も納得できる。ひと月半も調査活動をしていて、基本的な個人情報を掴めていない筈はない。なのに未だ晶子の親族からの接触はない。それは高島さんが言うとおり、調査結果が思ったとおりのものじゃなかったことで再調査を繰り返し依頼していたと考えるのが一番筋が通る。
 余程の嗜好の変化でも起きない限り、今の生活が変わる見込みはない。興信所も経営だから同じことの繰り返しでしかないものでも、報酬が支払われるなら遂行するだけ。その興信所も主だったところはある意味晶子の親族をブラックリストに入れたことで依頼を受けなくなるだろう。となると、次に考えられるのは…自ら乗り込んで来ることだ。
 そこまで暇があるのか、俺には甚だ疑問だ。しかし、ひと月半も興信所を付ける財力があるくらいだ。自分が求める結果を手に入れるためなら、興信所が使えないなら身内を派遣するなりするだろう。そんなことが何時まで出来るかは俺と晶子が考えることじゃない。

「興信所が使えないとなると、身内などを派遣して調査を継続するか、直接乗り込んで来るか、考えられるのはそういったことでしょうか?」
「恐らくそうなるでしょう。そこで御主人には、今後奥様の親族と対決するに際しての心構えなどをお伝えしたいと思います。」
「はい。」
「一切の妥協・譲歩はしないこと。泣き落とし・恫喝に動じないこと。直接会う場合は必ず私に連絡して同席させること。急に来襲した場合は絶対に中に入れないこと。順不同ですが以上です。」
「基本は、これまでいただいたアドバイスどおりですね。」
「はい。前2つは新規追加です。恐らく相手は何らかの譲歩を引き出そうと泣き落としや恫喝をしてくるでしょう。客観的視点に徹して動じず、言い換えれば機械的に対応することで、一切妥協も譲歩もしない、そもそも独立した生計を持つ家庭に干渉することは法的に許されないことを前面に押し出し続けてください。」
「分かりました。」

 俺と晶子に妥協や譲歩を迫るとしても、少なくとも夫婦関係については妥協も譲歩もあり得ない。そもそもれっきとした夫婦にこっちに別の結婚相手を用意するから別れろ、別れるなら幾ばくかの金を用意する、とか人身売買のような提案しか考えられないし、そんな提案を受け入れる余地はない。
 だが、自分が生きる狭い世界が全てと信じて疑わない人間なら、金を積むか脅すかすれば別れさせられるだろうと考えてもおかしくない。通常の思考じゃ理解出来ないが、通常の思考で理解しようとするから無理が生じる。相手は通常の思考じゃなくて世界独自の思考で生きる人間と認識するしかない。

「これらの心構えは奥様にも言えることですが、奥様にとってご自身の親族と対峙するのは無意識でも精神的に負担が大きくなります。そこで、御主人には奥様に心構えをお話するのに併せて、必ず奥様の味方であることを伝えて奥様の精神的負担を軽減する役割を担っていただきたいんです。」
「それは勿論です。妻との関係や生活について一切の譲歩も妥協もする気はありませんから。」
「それを聞いて安心しました。御主人が味方であることを確認出来れば、奥様が親族と対峙する気力が大幅に増します。表現は悪いかもしれませんが、御主人は奥様の強靭な足場になって、奥様が親族と真っ向から対決して闘えるようにしてください。」
「はい。」

 過去を振り返っても、晶子が不安定になったのは俺が離れてしまう、今の幸せが崩れてしまうという危機感が強まった時だ。過去は晶子の危機感が先行し過ぎた感があったのは否めない。だが、今回は現実の危機となって存在している。不安定にならないのは懸命に自分に言い聞かせているためだろう。
 絶縁したと言っても、興信所を付けられてまで居場所や勤務先、果ては行動パターンまで知られて良い気分はしない。ましてや、晶子は絶縁することを躊躇わずに今の幸せを手に入れた。俺がぶれることは、その幸せを足元から崩す致命的要因になる。

「私はお約束どおり、最後までお2人を全力で支援いたします。ですが、新京市と京都の物理的距離は変えられません。私が駆け付けるまでの間、御主人が奥様をサポートしてください。」
「はい。…妻をよろしくお願いします。」
「勿論です。お二人の顧問弁護士として全力を尽くします。」

 心強い味方を得た。後は予想される直接対決に向けて心構えをするのみ。今の幸せと生活を護るのは、最終的には自分自身。すなわち俺と晶子自身だ。

「寝ちゃった…みたいですね。」
「予想より早かったな。」

 高島さんとの打ち合わせを終え、全員揃って近くの公園に遊びに行き、高島さんも加えた晶子手製の夕飯を食べた。高島さんが宿へ向かった後は、殆ど本の読み聞かせ。この日のためにめぐみちゃんは本を持ってきていた。じゃんけんで役割分担をして読んでいくというスタイルで5冊読んだ。
 休みだからとあまり夜更かしはさせられないから、9時過ぎに全員で入浴。やや手狭だったが去年の春を思い出してめぐみちゃんは大喜び。そして揃って歯を磨いた後、俺と晶子を両端に、めぐみちゃんを真ん中にして「川の字」になってめぐみちゃんを寝かしつけた。
 公園に行く頃からめぐみちゃんは終始元気いっぱいで、この興奮をずっと引っ張って寝られないんじゃないかと思った。だが、その分疲れたらしく、5分程度ですんなり寝息を立て始めた。元気に遊んでたくさん食べてぐっすり寝る。これが子どもの仕事だと思う。
 俺と晶子はそっとベッドから出てリビングに入る。リビングには炬燵机を挟む形で2枚ずつ並ぶクッションと、その脇に置かれた可愛らしいリュックがある。高島さんとめぐみちゃんが居て、此処で食事をして話をして、本を読み聞かせた僅かに残っている。
 食事で座っていたクッションに並んで腰を下ろして、俺は今日の高島さんとの話の内容を伝える。晶子は真剣な面持ちで一言たりとも聞き逃すまいとしている。

「いよいよ、ですね…。」
「直接乗り込んで来る予想は出来る、か。」
「ええ。高島さんのお話も、そう考えるだろうなという気持ちです。自分達が生きる世界が全てと信じて疑わない人達ですから…。」
「…。」
「でも、負けるわけにはいかないです。めぐみちゃんと遊んだりして…、祐司さんと一緒に親になりたいって気持ちが更に強まりましたから…。それを自ら潰すことはしません。」
「高島さんが心強い味方であるのは間違いない。だが、根本的には俺と晶子が一致団結して相手の要求を退けることが必要だ。それが出来ないと高島さんも弁護のしようがなくなる。」
「めぐみちゃんの気持ちを無駄には出来ません。絶対…。」

 晶子は俺の肩に凭れかかり、腕を絡めて来る。俺は晶子のウエストを抱いて軽く引き寄せる。興信所が使えないとなれば、まず直接乗り込んで来るだろう。俺と晶子は受けて立ち、一切の妥協も譲歩も受け付けずに退ける。全面対決の準備は整った。この気持ちを忘れなければ必ず勝てる。否、勝たなきゃならない。

「さて…。晶子はそろそろベッドに戻って。」

 暫しの時間の後、俺は晶子に言う。めぐみちゃんの生活リズムを維持するには、何時もの調子では居られない。

「え?祐司さんはどうするんですか?」
「此処で寝る。寝転がれば十分寝られる。」
「そんなこと…。」
「あのベッドで3人寝るのはちょっときつい。晶子がついていた方がめぐみちゃんが夜中に起きても安心だろうし。」

 3人揃って寝るのは物理的な問題がある。寝返りを打ったらめぐみちゃんが潰されちまう。高島さんが全面委任して預けて行ったのに、そこで怪我でもさせたら話にならない。

「…分かりました。」

 暫く悩んだ末、ようやく晶子は了承する。冬なら兎も角、夏はクッションを枕にして寝転がれば寝られる。多少の寝心地の悪さは寝れば気にならないし、一晩くらい問題ない。

「でも…、その前に…。」

 晶子は俺から離れたと思いきや、パジャマのボタン外していく。何故かそれを冷静に受け止めている俺が居る。

「めぐみちゃんを預かっていて…、子どもを早く持ちたいと思うようになりました…。」
「…決心はついたのか?」
「私が仕事を休んでも生活出来ないわけじゃない…。検診などで市の補助もある…。それに…、子どもを持たないことが親族に付き纏われる原因の1つかもしれない、と思って…。子どもが居ないうちなら連れ戻せると思っていても不思議じゃありません…。」
「…。」
「だったら…、子どもを産んで育てられる体力が十分あるうちに…、この人との子どもが欲しいと思える夫が居るうちに…、夫との、祐司さんとの子どもを作っておきたい…。」

 俺は晶子を抱き寄せてキスをする。そのままゆっくり晶子を押し倒す。めぐみちゃん、少しの間起きてこないで…。

…。

 身体の硬直が解けると同時に深い吐息が出そうになる。晶子を強く抱きしめて唇を覆うことで堪える。マウストゥマウスのように晶子と呼気をやり取りしているうちに、呼吸が鎮まっていく。声を出さないようにと晶子が唇を強く結んだり、指を口に押し当てて塞いで堪えるのを見ていたら、今回も全力になった。

「待って…。」

 俺が晶子から身体を離そうとすると、晶子が小声で訴える。

「もう少し…、このままで居させて…。」

 俺は再び晶子と密着してしっかり抱き締める。晶子の両腕が俺の背中をしっかり抱き締めるのを感じる。最中は晶子の手を握るようにしていた。それが晶子の幸福と快楽をより増幅することを踏まえてのもの。単なる義務的な繁殖行動じゃないことを俺自身感じたかったのもある。
 暫く抱き合った後、俺はゆっくり晶子から身体を離して上体を起こす。それに続いて晶子を抱きかかえて起こす。近くに脱ぎ捨てたパジャマの下と下着を取って、晶子の分を渡す。服を着ながらふと気になって後ろ、めぐみちゃんが寝ている寝室の方を見る。…ドアは閉まったまま。大丈夫だったようだ。

「去年の新婚旅行を思い出しました…。」
「シチュエーションは殆ど同じだな。違うのは…場所と、俺と晶子の関係か。」

 旅行の2日目だったか。実質的に観光初日でもあったが、最初に訪れた先である京都御苑でめぐみちゃんと出逢った。そのまま一晩預かることになって、急遽絵本を買ってきて読み聞かせたし、他に客が居ないのを利用して全員一緒に風呂に入った。めぐみちゃんが寝た後で声を殺して2日目の夜を営んだ。
 あの時、めぐみちゃんは幼稚園だった。あれから1年経ってもう小学校2年生。読み聞かせは読み合わせになり、読む本も漢字が増えていた。めぐみちゃんは着実に成長している。子どもの成長はあっという間だと言うが、その一部しか見ていない俺でもそれは実感する。

「それじゃ…おやすみ。」
「はい。おやすみなさい。」

 寝る前の挨拶を交わし終えた直後、晶子が俺の頬にキスをする。俺はお返しに近い方の晶子の頬にキスをする。晶子は嬉しそうに微笑んで、いそいそと寝室に戻っていく。ドアが音もなく閉まり、静寂がリビングを支配する。
 さて…寝るか。枕はクッションの1個を2つ折りにすれば良い。この時期床にごろ寝すれば寝られる。カーペットが敷かれた床は少々硬いが、一晩くらいどうってことない。今晩の営みで…子どもが必ず出来るとは限らない。シチュエーションとしては文句なしだが…。

Fade out...

「お父さーん。起ーきてー。」

 ん…?この声は…めぐみちゃんか?急速に浮上した意識が開いた視界には、めぐみちゃんが映る。それに隠されて少しだが晶子も見える。

「おはよー、お父さん!」
「ああ、おはよう。元気だな。ぐっすり寝られたか?」
「うん!凄く良く寝られた!」

 俺は上体を起こす。と同時に身体からタオルケットが落ちる。晶子がかけてくれたんだな…。ようやく晶子の全身が見られるほど視界が確保出来る。昨夜の余韻は微塵も感じさせない。

「おはようございます。朝ご飯はもう直ぐ出来ますから、着替えて待っていてください。」
「ああ、分かった。」

 俺はタオルケットを軽く畳んで寝室を経由して脱衣所に向かう。衣類は寝室の肩側の壁を埋め尽くすクローゼットに集約されている。顔を洗って服を着替えるだけだから、時間はかからない。着替えて廊下経由でリビングに出ると、朝飯が出始めていた。

「これ、全部お母さんが作るの?」
「そうよ。」
「凄ーい!旅館やレストランみたいだねー!」

 ご飯に味噌汁、目玉焼きに小松菜の和え物、それに浅漬けといった定番メニューだが、出来栄えはめぐみちゃんを歓喜させるもののようだ。無論美味いし盛り付けも綺麗なんだが、見慣れているからめぐみちゃんの喜び具合が新鮮だ。俺も最初に見た時はびっくりしたっけ。
 俺と晶子が何時もの位置に向かい合って座り、晶子の隣にめぐみちゃんが座って「いただきます」。めぐみちゃんは元気良く食べる。話を聞くと、朝にご飯を食べることは少ないそうだ。ご飯の時は味噌汁に茹で卵がつくくらいだというから、これだけ食卓に並べば驚くのも自然か。
 こうして3人で朝飯を食べるのは、新婚旅行の時以来。めぐみちゃんの食べっぷりが良いのは変わらないが、あの時より落ち着いて食べるようになった気がする。端的に言えば「上品になった」。生活が落ち着いて不安材料がなくなったことで、立ち居振る舞いを身につけるようになったんだろうか。
 どちらかというと、成長したからだろうか。最初の出会いから1年半くらいが経ち、めぐみちゃんも小学校2年生になった。学校生活も満喫していると今年の年賀状に書いてあったし、物凄い勢いで色々なことを吸収しているんだろう。それが食べ方にも表れているなら、やっぱり成長したと見る方が理に適っている。
 暫くして全員食べ終わる。食器の片づけは俺がする。この時期の食器洗いは水が冷たくなくて楽だ。リビングからはめぐみちゃんが朝飯の出来栄えと味を称賛する声が聞こえる。普段食べないようなメニューが並び、それを俺と晶子で食べるのには特別な感慨があるんだろう。
 そう言えば、昨日の夜寝る前に、めぐみちゃんが日記帳を広げていたな。今は夏休みの時期だし、小学校あたりの宿題と言えば日記が定番の1つ。俺はどうも苦手で適当なものになりがちだった覚えがある。めぐみちゃんの日記は全部見てないが−見るものでもないと思う−、広げたページは結構書き込まれていた。
 昨日の分には、俺と晶子の家に遊びに行ったこと、一緒にご飯を食べたこと、公園に遊びに行ったこと、夜に本を読み合わせたことがぎっしり書き込まれた。1日1ページのよくあるタイプの日記帳は、昨日と今日が特に充実した内容になるかもしれない。夏休みの思い出作りになれたのなら良いことだ。
 それより驚いたのは、めぐみちゃんの文章は小学校2年生の割には漢字の割合が高めだったことだ。去年の年賀状では平仮名のみのたどたどしいものだったが、見違えるほど文章の体裁を成していた。聞けば、本をたくさん読めば俺と晶子に褒めてもらえると高島さんに言われているそうだ。
 めぐみちゃんの急速な成長には本当に驚かされる。次に会えるのは正月とかになるだろうから、数か月は間が開く。その間にもめぐみちゃんはどんどんと新しい知識を吸収して、自分のものにしていくんだろう。今度は本を読み合わせることから俺と晶子にお気に入りの本を紹介したり、得た知識を披露したりするかもしれない。
 今回の事態は何時終わるか分からない。だが、必ず終わらせてめぐみちゃんに会いたい。その時…もしかしたらめぐみちゃんに弟か妹が出来るかもしれない。そんな未来を作るのは…、俺と晶子だ。絶対に負けられない。めぐみちゃんのためにも、俺と晶子のためにも…。
 めぐみちゃんと高島さんを乗せたタクシーが走り去っていく。タクシーが見えなくなるまで見送った後、俺と晶子はエントランスに入って家に戻る。昼前に高島さんがタクシーで迎えに来て、昼飯を4人で食べてからめぐみちゃんを連れて京都に戻っていった。
 リビングに入ると、何だか寂しい。ついさっきまでめぐみちゃんが居た空間は、再び俺と晶子だけの空間に戻った。それが何時もの空間なのに、何だかぽっかり穴が開いたような気分だ。

「めぐみちゃんが元気いっぱいでしたから…、一気に寂しくなりましたね…。」
「存在の大きさの表れだな。」

 めぐみちゃんは終始元気いっぱいだった。タクシーに乗る前に晶子に抱きついたが、次に会う時まで元気で居るね、とまで言った。たった1泊2日だが、濃密な時間と記憶を残していった。成長の結果が随所に見られた分、その分めぐみちゃんが居なくなったことが強い反動のように感じるんだろう。

「あんなに小さくて弱々しかったのに、大きくなって元気になって…。それは嬉しいことなのと同時に、寂しいことなんだなって…。」
「小さかった頃はもうないからな。でも…成長してるって嬉しいことだ。本当の親じゃない俺と晶子を、今もお父さんお母さんと呼んで慕ってくれるめぐみちゃんが、あんなに元気になったんだから。」

 俺は晶子の肩を抱く。小さい頃は絶対に戻ってこない。だが、小さくて弱々しかっためぐみちゃんが元気に駆け回り、貪欲に知識を吸収していっているのは、めぐみちゃんが今を生きて成長している証。それを喜ばしく、微笑ましく思い、寂しく思うことはあっても、後悔したりすることはない。
 そのめぐみちゃんが、今度は俺と晶子を助けようと高島さんを突き動かしてくれた。今度会える時に「ありがとう」と言うために、もっと成長した姿を見られるように、迫りくる敵と真っ向勝負して勝つ以外にない。それがめぐみちゃんの厚意に応える唯一の方法だ。

「今度は…私達が成長したところをめぐみちゃんに見てもらう番ですね。」
「ああ。一致団結して闘おう。俺と晶子の未来のためにも、めぐみちゃんのためにも。」
「はい。」

 晶子は力強く返事をする。成長したと言っても晶子に甘えていた様子は最初の頃と変わらない。めぐみちゃんが子どもで居られるのは、晶子が母で居られる環境であることが必要だ。それは取りも直さず、今の生活を護ること。そのためには闘うのみだ。
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