雨上がりの午後

Chapter 321 離れた親子のひと時(前編)

written by Moonstone

 月曜日。普段はバイトが休みだから大学が休みの時は少しゆっくりするんだが、今日は朝から忙しい。

「お待たせしました。」
「十分間に合う。行こう。」

 珍しく着るものに迷っていた晶子は、めぐみちゃんと遊ぶ際に動きやすい服装を選択した。化粧は元々必要なければしない方だから、服を選べば着る時間はそれほどかからない。本格的な春が近いことを感じさせる暖かい陽気の中、俺と晶子は火元と戸締りを確認してから家を出る。
 3月最後の週、すなわち卒業したとはいえまだ学生としての籍は残っているらしい最後の1週間は、1年ぶりの京都訪問。前回は新婚旅行だったが、今回はめぐみちゃんに会うため。1年前、京都御苑での出逢いが契機になって1つの小さな命が輝きを取り戻した。その輝きを見に行くためだ。
 俺の通勤路線となる小宮栄方面の電車に乗り、終点まで乗る。3月も下旬だと学生は殆ど春休みだから、何時もより少し遅い程度の時刻に乗車しても混雑に苦しむことはない。あいにく座れるほどじゃないが、30分程度立ち続けることは4年間のバイト経験のおかげで全く苦にならない。
 高島さんとの日程調整で、昼を挟む形で行くことを打診された。めぐみちゃんの希望だと聞いたし、特に断る理由もなかったから承諾した。朝から出かけるのはこのためだ。晶子は土曜辺りから待ち遠しい様子だった。めぐみちゃんもこんな様子なんだろうか。
 小宮栄から10分ほど歩いて新幹線のホームに向かう。小宮栄と京都を結ぶ路線は、全ての新幹線が停車する。最速で1時間程度だが、途中の駅が少ないから各駅停車のこだまでも最速ののぞみでも大して変わらない。のぞみは社会人が多いと見て、こだまの指定席を購入した。
 予定どおり新幹線で小宮栄を出る。次第に加速が強まり、窓からの景色は近いほど見えなくなる。2人席の窓側に座る晶子の横顔は、明らかに弾んでいる。入学式の写真や年賀状を見てそこに写るめぐみちゃんを見て涙ぐんでさえいたくらいだ。自分を見て駆け寄ってくる様子を思い描いて楽しみなのは容易に想像できる。

「京都駅から市バスに乗るんですよね。」
「ああ。その様子だと路線番号は確認するまでもなさそうだな。」
「えっと…。地下鉄を使った方が少し早まるかもとか…。」

 図星だったことで少し動揺したらしく、晶子はいそいそとバッグから手帳を取り出して視線を落とす。手帳は見てないから知らないが、恐らく行程やめぐみちゃんと遊ぶことについて想像や希望も含めて書き連ねてあるんだろう。京都で1泊するし、昼時を挟むから昼間はほぼずっとめぐみちゃんと遊べる。
 小学生になって早1年が過ぎためぐみちゃんは、恐らく平仮名と多少漢字混じりの文章くらいは読めるようになっているだろう。あれだけ環境が悪かったのに祖母である高島さんの影響で本が好きだったから、読み書きを覚えることにさほど抵抗はないだろう。だからこそ、絵本を読んでほしいと言ってきそうな気がする。
 俺もそうだったが、親に幼い頃あまり遊んでもらえないと、遊んでくれる誰かが欲しくてならない時期がある。育児放棄とかはなかったものの、遊んでほしいのに相手にしてもらえないのは結構辛かった。俺は中学に入ってギターを知り、以降俺の遊び相手であり、人間関係を作るきっかけになったりもした。
 年長者や大人からすればくだらなかったり、自分1人で出来そうなものと思うのはある意味仕方ない。だが、そこであえてでも良いから合わせて時間を共にすれば、子どもは十分満たされる。子どもにとって親や大人と遊んだことは、何で遊んだかや何処で遊んだかより、誰と遊んだかが一番強く記憶に残る。
 めぐみちゃんは、高島さんから俺と晶子が会いに来ることを知っている。恐らく今の晶子と同じように、俺と晶子が来たら何をするか書き留めるなり高島さんに話したりして、心待ちにしてるだろう。1年前までの辛く悲しかった記憶を「あんな頃もあった」と思えるくらい、良い思い出をたくさん作ってほしい。俺と晶子がその一助になれるなら出来る限りそうしたい。

 桜のつぼみがほころび始める頃も、京都を訪れる人の波は絶えない。平日とはいえ町には四方八方に移動する人が居る。俺と晶子はその波に乗って市バスに乗り、最寄りのバス停で降りる。京都市の一角にある高級住宅街。バス停から緩やかな坂を上り、そのまま道沿いに真っすぐ進むとひときわ大きな住宅の一部が見えて来る。
 要塞にも思える巨大な住宅の前に佇み、インターホンを押す。程なくマイクが応答があることを示すノイズを出す。

「どちらさまでしょうか?」
「おはようございます。安藤です。」
「安藤様ですね。ようこそいらっしゃいました。ドアを開けますのでどうぞお入りください。」

 応答が終わると同時に門がひとりでに開く。俺と晶子は敷地内に入る。後ろで門が閉まる音を聞きながら石畳に沿って歩いて行く。この住宅の玄関が近づいてくるにつれて、その前に人が居るのが見える。高島さんと…めぐみちゃんだ。

「!お父さんとお母さんだ!」

 懐かしい声がして、小さい方の人影−めぐみちゃんが駆け寄ってくる。屈んだ晶子にめぐみちゃんは一直線に飛び込む。めぐみちゃんを抱く晶子は眼を閉じて感慨に打ちふるえている。こうして見ると本当に離れ離れになっていた親子の対面だな。

「安藤さん。遠路ようこそおいでくださいました。」

 大きい方の人影−高島さんが歩み寄ってくる。

「社会人生活が始まる前の貴重なお休みを使っていただいて、ありがとうございます。安藤さんが来てくださることになってから、めぐみはずっと心待ちにしていて…。」
「こちらも妻が特に楽しみにしていましたから。」
「めぐみちゃん。大きくなったわね。」
「うん。学校に行くようになってから、背が伸びたんだよ。」
「お疲れでしょうし、ひとまずおあがりください。」

 晶子はめぐみちゃんを抱っこして立ち上がる。腰に来そうな体勢だが段階を踏んで膝を伸ばしていくことで対処する。めぐみちゃんは晶子にしっかり抱きついて離れる気配がない。確か、去年の京都旅行でも帰る前に会いに来た時、こんな様子だったな。めぐみちゃんの晶子への懐きぶりは本当に凄い。

「安藤さん。ようこそいらっしゃいました。」

 玄関では森崎さんが出迎えてくれる。高島さんが業務で不在などの場合に応対に出たのは専ら森崎さんだった。めぐみちゃんの懐きぶりを見ていても、高島さんが森崎さんを信頼しているのが良く分かる。俺と晶子は応接室に案内され、そこで紅茶とケーキを振る舞われる。めぐみちゃんの分もあるのは高島さんの計らいだろう。

「ご挨拶にこちら、お持ちしました。どうぞご笑納ください。」
「色々お気遣いいただいて…。ありがとうございます。」

 小宮栄の新幹線ホームで買った銘菓を差し出す。新幹線のホームに出たところで晶子がいそいそと買いに行ったものだ。めぐみちゃんと会うことで頭がいっぱいかと思いきや、こういう心付けを忘れないのは晶子ならではの心配りだ。しかも晶子ではなく俺が渡すようにした。すっかり妻としての立ち居振る舞いが身についている。俺もそれに依存しないようにしないと…。
 めぐみちゃんはケーキを食べるために、ようやく晶子から離れる。ソファとセンターテーブルの組み合わせは、まだ身体が小さいめぐみちゃんには少々厳しい。こぼさないようにめぐみちゃんも気を付けてはいるが、アンバランスな体勢からどうしても取りこぼしが出る。晶子はケーキを小さく切り取ってめぐみちゃんに渡し、こぼれたものは紙ナプキンで即座に拭き取る。めぐみちゃんを一晩預かった際の食事の時も、こんな風景だったな。

「無事大学を卒業されたそうで…。おめでとうございます。」

 暫くお茶会が進んだところで、高島さんが話を切り出す。

「今年いただいた年賀状で、10月に入籍と新居へのお引越しをされたと知って驚きました。卒業研究が佳境に差し掛かる時期ですから、卒業前に入籍するのは大変だったと思いますが。」
「1人だったら流石に引っ越しも無理だったと思います。妻が梱包や引っ越し後の開封と収納をきっちりやってくれたので、スムーズに動けたんです。」

 年賀状では10月の入籍と新居への引っ越し、そして揃って就職する旨書き連ねた。晶子との連名、しかも安藤姓を堂々と使っての年賀状を高島さんに送るのは正直勇気が要った。何せ法律のプロだから法律が相手にするしきたりとか慣習とかを熟知していて五月蠅いんじゃないかと思っていた。
 2日に今年初めて集合ポストを見に行った時に届いていた年賀状の中に、高島さんとめぐみちゃんの連名の年賀状があった。めぐみちゃんがいたって元気に通学していること、「お父さんやお母さんみたいになりたい」と勉強や家事の手伝いを率先してこなしていることが高島さんの達筆で書かれてあり、入学式の写真を載せた葉書の時よりずっと字が書けるようになっためぐみちゃんから、俺と晶子への感謝と会いたいことが書かれてあった。
 卒業後の短い春休みを使って京都に赴くことを決めたのは、年賀状を読んだ晶子が涙ぐんでいたこともある。入学式の報告以来めぐみちゃんが元気に楽しく過ごせているのか、常に気にかけていただろう。高島さんの保護下に入ったから杞憂だとも思うが、それまでがそれまでだっただけに完全に安心しきれなくても無理はない。

「お父さんとお母さん、引っ越したの?遠いところなの?」
「違う違う。安心して一緒に住めるように、同じ町の違うところに引っ越しただけ。此処までの距離は殆ど変わらない。」
「そうなんだー。」

 流石に入籍とかは分からないかもしれないが−夫婦と認識しているから入籍前後の違いを説明するのは難しい−、引っ越しというキーワードから俺と晶子が遠く離れて会いに来られないのでは、と感じ取ったんだろう。俺が答える前後の表情が不安と安堵を明確に表したことから、その心境の遷移が手に取るように分かる。

「事前のお約束どおり、昼食はこちらで用意させていただきます。」
「ありがとうございます。」
「それまではひとまず、めぐみと部屋で遊んでやってください。」
「分かりました。」

 めぐみちゃんはケーキを食べながら俺と晶子を交互に見てにっこり笑う。俺は思わず顔が綻ぶ。晶子は愛しげにめぐみちゃんの頭を撫で、口元についていたクリームを拭き取ってやる。はたしてめぐみちゃんはどうやって遊んで欲しいんだろう?晶子が手帳にしたためているであろう予想の範疇にあるだろうか?
 お茶会を終えた後、めぐみちゃんに案内されてめぐみちゃんの部屋に向かう。まずは勉強と寝るための部屋。机とベッドと箪笥があって、壁にはキャラもののポスターがあって、俺と晶子と撮影した写真がコルクボードに貼られている。俺の携帯で撮影した写真が此処で見られるとは思わなかった。

「綺麗にしてるねー。」
「うん。おばあちゃんが少しずつでも毎日掃除しなさい、って言うの。お母さんみたいになりたいならそうしなさい、って。」
「あー、それは一番的確だな。」
「ゆ、祐司さん…。」

 小学1年生−もうすぐ2年生だが、その部屋とは思えないほどスッキリしてるし、掃除も行き届いている。なかなか掃除の習慣は付き難いと思うが、幼少時からだとまた別なんだろうか。晶子は少々照れた様子だが、この習慣を根づかせれば晶子と同じようになれるだろう。晶子自身ちょこちょこ掃除してるし。

「学校の勉強はどう?」
「楽しい。国語と理科が特に好き。国語は教科書読んでるだけでも面白い。理科は色んなことが分かって楽しい。」
「そう。国語が好きなのは絵本が好きなことからも分かるわね。理科が好きなのはお父さんの影響かな?」
「うん。理科を勉強するとお父さんみたいに物知りになれる、っておばあちゃんも言ってる。」
「俺より素質があるかもしれないな。俺はあまり国語が好きじゃなかったし。」

 国語は教科書を読んでいればテストに対応出来るレベルだったが、どうも教科書に載っている小説とかが好きじゃなかった。国語を好きになれなかったのは、夏休みの読書感想文も一役買っていると思う。本を指定されるのも嫌だったし、「お利口さん」な感想を書かないといけない雰囲気はもっと嫌だった。
 めぐみちゃんが読書好きなのは京都旅行での一件で感じたが、それが持続したことで小学生になっても国語にアレルギーが出ずに済んでいるようだ。「国語」と言うくらいだからこれが出来ないとテストの文を理解できない。何処かで「成績を上げたいならまず国語を勉強しろ」と聞いたことがあるのも、その考えに立脚してるんだろう。
 めぐみちゃんは続いて遊び部屋に案内する。前回お邪魔した時に案内されて、絵本を読み聞かせた部屋だ。やはり絵本をはじめとする本が本棚に詰まっている。ぬいぐるみも幾つかあるが、その中にはあの時プレゼントしたキリンのぬいぐるみもある。1年経ってもまだ遊ばれているようで何よりだ。

「本がいっぱいあるなー。お母さんと同じだ。」
「本をたくさん読むと色んなことが分かるし、言葉遣いも良くなるから、お母さんみたいになれるよ、っておばあちゃんが言ってる。」
「凄い褒められようね…。でも、めぐみちゃんが読書好きで嬉しいな。めぐみちゃんがもう少し大きくなったら、本を貸し借りできそうだから。」

 本の貸し借りは、晶子にとってやってみたいことの1つだろう。ゼミが管理する書庫があるくらい本の数と種類には不自由しない環境だったが、その環境に浸るほど本が好きな学生ばかりかと言えばそんなことはなかった。「その大学や学部学科なら入れる」或いは「その大学や学部学科しか入れない」という偏差値前提の入学システムと、文系全体の学業に対する甘さが重なった結果だ。
 偏差値前提の入学システムの弊害は、学生実験と卒研を介して工学部でも十分感じたから偉そうなことは言えないが、文系は少なくとも大学に勉強をするために通っている雰囲気は薄かった。その雰囲気の中で本をたくさん読んで、互いに持っていない本を貸し借りして、ということは実質出来ない環境だったようだ。
 ゼミでの生活が本格化する3年以降は俺と実質的に結婚していること、4年以降は晶子が安藤姓を使い始めたことでよりその認識が強まったことで、「就職活動に失敗しても専業主婦という逃げ道がある」とのやっかみもあって、ゼミで浮いていた。そういう人間関係も本の貸し借りの障害になっていたと思う。
 めぐみちゃんの持つ本は、ぱっと見たところ絵本やもう少し字が多い本といったところ。だが、本が好きならもっと色々本を読んでみたくなって、読むために字も覚えるだろう。良い方向での相乗効果で、早ければ中学生になる頃には晶子と本の貸し借りが可能になるかもしれない。

「お昼まで何して遊びたい?」
「えっと…。本読んでほしい。」

 めぐみちゃんは本棚から1冊の本を取り出して持ってくる。「かいじゅうのくに」というタイトルで、表と裏の表紙には色も形も様々の可愛らしい怪獣が描かれている。
 めぐみちゃんから受け取ってざっと眺めてみる。1ページあたりの文章量はさほどでもないが、ページ数は以前に読み聞かせたりした絵本より多い。絵本よりもう少し対象年齢が高い本のようだ。このくらいだと小学1、2年生あたりの読書感想文の対象になりそうだ。

「分かった。どんな風に読めば良い?」
「怪獣がお話するところがあるから、それをめぐみと入れてお父さんとお母さんに読んでほしい。」
「去年この部屋で絵本を読んだ時みたいな感じか。」
「うん。」

 あの時はめぐみちゃんが生活拠点をこの家に移して間もない頃だったと思う。俺と晶子が保護したことで警察沙汰になった育児放棄と児童虐待で高島さんがついに強権発動し、娘夫婦、すなわちめぐみちゃんの両親を自分の事務所で働かせるため、この事務所兼自宅に引き取った経緯がある。
 京都旅行最後の日にお邪魔した時、めぐみちゃんは絵本の読み聞かせを強請った。遊んで欲しい内容が本の読み聞かせなのは1年前と同じだし、自分も配役に加わって読みたいと言うのも同じだ。「遊び」のイメージからはちょっと離れているかもしれないが、めぐみちゃんが望むことの相手をすれば「遊んだ」ことになる。

「それじゃ、まずじゃんけんで誰が何の役をするか決めようね。」
「うん!」

 めぐみちゃんは晶子の膝の上に座って、配役決めに臨む。配役はじゃんけんで勝った順で決めるから、自分と配役の性別や年代が一致するとは限らない。その一見無茶苦茶なところも含めて、めぐみちゃんにとっては読み聞かせの「遊び」なんだろう。だったら尚更拒む理由はない。

「−おしまい。」

 ナレーション−と言うのかは不明−役の俺が締めくくる。この「かいじゅうのくに」という本は初見だが、なかなか考えさせられる話だった。怪獣が国民の国が舞台で迷い込んだ人間に恋をした怪獣が、人間になって国を出ようとする話。怪獣が人間になれる方法はあるらしいが、当然ながら周囲は反対する。
 それでも何とかして人間になるため、国王に直談判して人間を苦しめる悪い怪獣を倒せば人間にすると約束を貰い、独りで怪獣の国を出て悪い怪獣をやっつける。国に戻った怪獣は国王に約束どおり人間にしてくれるよう頼むが、人間になれば怪獣の力は当然全て使えなくなる。力もないし炎を吐いたりすることも出来なくなる。
 怪獣は怪獣のままでいた方が幸せだし、人間に感謝されたのだからそれで良いのではないかと国王は説得するが、怪獣は人間になるために頑張ったんだから約束を果してくれ、と頼む。国王は説得を断念して怪獣を人間にする魔法をかける。人間になった怪獣は当然国に居られなくなり、独り旅立つところで物語は終わる。

「…この怪獣さん、女の人と結婚できたのかな?」
「…出来たよ、きっと。」

 俺は言う。生まれ育った故郷も仲間も両親や兄弟も捨てて、人間になって旅立った怪獣がハッピーエンドになることを願わずにはいられない。この物語は「その後」もあることを前提に作られ、読者に想像の余地を残したようだ。「その後」がどうなるのか、めぐみちゃんにも考えてほしいところだ。

「良いお話だったね。めぐみちゃんが選んだの?」
「ううん。お正月におばあちゃんが買ってくれた。こういう本も読んでみなさい、って。」
「こういう本を読んだら、この先のお話を考えるようにすると、もっと本が楽しめるよ。」
「んーと、どんなふうに?」
「感想文じゃないから、お話を考えるのはめぐみちゃんの自由だよ。国を出た怪獣さんがどんなところに行ったとか、こんなことをしたとか考えて、自分で好きなようにお話を作れば良いの。」
「何となく面白そう。お話考えて書いたら、お父さんとお母さんは読んでくれる?」
「ああ、勿論だ。」
「楽しみにしてるよ。」

 俺のように本を情報源だけとするなら違うが、本を読むことから本を書くことへと繋がるのは割と自然なことだと思う。いきなり重厚な作品が出来ると考えるのが間違い。話が発散したり、全く違う方向に突進したりするのも十分考えられる。書くこと、ひいては想像することそのものを楽しめれば良い。
 想像を巡らせることを小馬鹿にする風潮がある。想像に耽ってばかりで何もしないとか自分のすべきことから逃げてばかりとかだと流石に問題だが、想像が目標になったり思いがけない発見に繋がることは多い。そもそも想像とリンクしない創作はありえない。SFやファンタジーのみならず、教科書に載るような有名どころの文芸作品も全否定出来るんだろうか。

「失礼します。」

 ドアがノックされ、めぐみちゃんが応答すると森崎さんが顔を出す。

「お昼御飯の用意が出来ました。リビングにどうぞ。」
「もうそんな時間ですか。」
「はい。12時前です。あら。めぐみちゃん、その御本読んでもらったのね?」
「うん。お父さんとお母さんに読んでほしかった。一緒に読めて凄く楽しかったよ!」
「良かったね。」

 やっぱり楽しみにしてたんだな。だとすると、めぐみちゃんが文章が多い割に前回よりスムーズに読んでいた理由も説明出来る。俺と晶子と一緒に読むことを想定して、どの役に当たっても問題なく読めるように練習していたんだろう。読んでもらうことから一緒に読むことへ、自分が参加することの楽しさを味わいたい気持ちを感じる。
 昼からのことは改めてめぐみちゃんの要望を聞くとして、ひとまず休憩。森崎さんの先導を受けてリビングに向かう。リビングのセンターテーブルには、トレイに乗せられた4人分の食事が並べられていて、その1つの前に高島さんが座っていた。

「安藤さん、お疲れ様です。どうぞ召し上がってください。」
「ご丁寧にありがとうございます。」

 到着時のお茶会と同じく、高島さんの向かいに3人分、すなわち俺と晶子とめぐみちゃんの食事が並んでいる。俺と晶子はめぐみちゃんを真ん中にして座る。ミートスパゲティを中心にした料理は、めぐみちゃんに馴染み易くて食べやすいものを考慮した結果だろう。大人は十分対応できるから幼児に合わせた方がやりやすい。
 晶子はめぐみちゃんに紙ナプキンを付けてやる。ミートスパゲティのミートソースは結構飛び散りやすいし、服に着くと目立つしシミになる。めぐみちゃんの服がどんなものかは知らないが、春なのを反映してか淡い色でまとめられている。この色とミートソースの色は皮肉にも対照的。汚すのは未然に防止できるならそうするに越したことはない。

「新居はいかがですか?」
「良いところで、すっかり落ち着きました。」

 会話は俺と晶子の新居から始まる。前回と大きく違う点の1つだし、年賀状では引っ越した事実しか伝えてないから、高島さんが興味を持つのは至極当然だろう。

「卒業研究や就職活動を進めながら新居を探すのは、なかなか大変だったでしょう。」
「幸い私は就職活動がかなり順調に進んだので、内定が出てから妻と一緒に新居を探して、早々に引っ越したんです。年末年始の時期だとそれこそ大変なことになるでしょうから。」
「賢明なご判断ですね。めぐみと娘夫婦をこちらに呼び寄せた時は3月末、つまり年度末ですから、引っ越し業者の手配もギリギリでした。安藤さんご夫妻の行動力や決断力は私も見習わなければなりませんね。」
「勢いで一気に進めた面もありますから…。」
「それも重要なことです。契約など色々書類のやり取りがあって、こちらが思いのほか大変だったのではないですか?」
「はい。新居は賃貸なんですけど、不動産業者とやり取りする書類の多さには驚きました。話に聞いたところでは売買だと更に煩雑だそうですが。」
「その時に伺っているかもしれませんが、不動産の売買には登記という土地の戸籍や個人情報に相当するものの記載や変更が付いて回ります。それらは全て法務局−法務省の出先機関に提出する必要があって、私のような弁護士や司法書士など専門職種でないと出来ないこともありますから、手間も時間もかかるんですよ。」

 賃貸物件は不動産業者が仲介して大家と契約する形式ではあるが、大家はまず出てこないからほぼ不動産業者とのやり取りだけになる。大家、ひいては仲介する不動産業者としては家賃がきちんと払われれば良いから、その辺の確認が出来れば誰と誰がどういう契約をしようが自由だし、行政も関与しない。
 一方、売買となると登記が絶対に絡んでくる。この登記は法律に裏付けられたものだから、何か変更があるごとに行政に届出の義務が発生する。そしてそれらは多数もしくはややこしい書式の書類のやり取りで行われて、専門の資格を持つ人でないと出来ないことも多い。
 行政が関係することはおおむね法律関係の資格保有者が対応するが、弁護士は法律関係の資格の頂点と言える。ただ、弁護士は法律のプロとして登記以外に訴訟や弁護などすることは多岐に及ぶ。そのためかどうかは知らないが、司法関係の書類の作成や提出に絞った司法書士が登記関係を主体に請け負っている。
 正直、俺と晶子では不動産の売買、すなわち戸建てなり分譲マンションなりに住むことは時期尚早だ。俺が正社員になると言っても今年から1年目。しかも6月までは研修期間。足元がまだ固まりきらない状況で1000万以上の借金を持つのはかなりのリスクを伴う。
 第一、仮に買おうとしてもローンが組めるかどうかも分からない。渡辺夫妻の話では、銀行の審査はかなり厳しくて少しでも貸し倒れのリスクがあると判断されるとまずローンは組めない状況だそうだ。ローンを組める条件の1つは1つの勤務先での勤続年数だと言うから、今年1年目の俺ではまず無理だろう。
 何も慌てて買わなくても良い。まずは晶子と2人で新しい生活リズムに順応しつつ貯金額を増やし、十分な頭金が出せて無理のない生活が可能になってから探し始めても遅くない。今の2LDKの家でも子ども1人くらいならスペースはまったく問題ない。大きな金額が必要だから、晶子と十分相談して進めた方が良い。

「お父さんとお母さんは、今2人で住んでるの?」
「そうよ。」

 スパゲティを食べていためぐみちゃんの問いに晶子が答える。

「めぐみと同じように、おばあちゃんとかとは住まないの?」
「うん。暫くはお父さんと2人きりで暮らすよ。」

 晶子はいたって穏やかに答えるが、口調には明確な拒絶の意志が篭っているのを感じる。どちらも俺の勤務先が公務員でも誰もが知るような有名企業でもないこと、学生のうちに結婚すること、自分が知らない相手と結婚することなどで揃って難色を示した。
 学生身分のうちに結婚することには親でなくても賛否両論があるから、一概には言えない面もある。だが、親の示した難色は大半が自分達の見栄や世間体に起因するものだ。要は「自分が容認出来ないから反対する」というレベルのもの。正しいかどうか以前の問題だ。
 俺は学生のうちに結婚することになるのはまったく予想外だったが、親との衝突の結果大学を入り直して新京市に移り住んだ晶子は、次に帰省する時は結婚相手を連れて帰る時と決めていた。だから学生身分かどうかは無関係だし、かつて自分の恋愛を破壊した親が再度破壊しようとしていると感じれば絶縁も厭わない決意だった。
 仕送りが揃って翌月から打ち切られたのは、結婚するんだから自分達で生活費を稼げという叱咤激励と言うより、言うことを聞かないなら資金援助はしないという報復の意図が強かったと見ている。その意図は生憎揃って4年の学費を払い、引越しをしても十分生活出来るだけの金を貯め込み、さらに2人合わせて結構な額の収入がある俺と晶子には通用しなかったが、晶子は決して心境穏やかじゃない筈だ。
 今後親の方から何かしらの理由、たとえば定年退職なり閉店なりで生計費を十分得られなくなり、生活の手段として俺と晶子に同居を求めてくる可能性はある。だが、俺の側は所謂「嫁姑」関係が出来る。結婚報告の際のやり取りからして、まず円満な関係は望めない。晶子側も本来地元で就職・結婚の要員となるところを阻害した俺と円満な関係はまず無理だろう。
 今のように、援助も顔見世もなく絶縁に近い疎遠な関係なら、相手に直接接する機会がない分嫌な思いをしたり増幅させたりすることはない。だが、そんな関係の人間と同居となると、ただでさえマイナス方向に傾きやすい相手への感情が、些細なことで増幅しやすい。このまま絶縁に近い疎遠のままの方がお互いの精神衛生上も望ましい。

「そうなんだー。じゃあ、めぐみの弟か妹は何時出来るの?」

 俺は思わずスープを噴きそうになる。こういうストレートな物言いは婉曲とか控えめとかに無縁な幼児ならではではあるが、さっきまでめぐみちゃんの立場から見て祖父母に当たる親族との同居について話していたのに、一気に方向転換されると対応がままならない。

「んー。もう少し先かな。まだ引っ越して1年も経ってないし、お父さんはこの4月から大きく生活が変わるから、それに慣れるのが一番大事だからね。」
「そっかー。お父さんが居ないとめぐみの弟か妹は出来ないんだよね?」
「勿論そうよ。お母さんだけじゃ出来ないことは多いから。」
「めぐみの弟か妹が出来たら、めぐみに見せてくれる?」
「勿論よ。めぐみちゃんはお姉ちゃんとして可愛がってあげてね。」
「うん!めぐみ、弟か妹に絵本読んであげたり、遊んであげたりする!」

 元気良く宣言しためぐみちゃんの頭を、晶子は微笑みながら撫でる。自分が大切にされ、愛されていると実感出来るようになっためぐみちゃんは、やがて出来る弟か妹、すなわち俺と晶子の子どもを大切にすることへ意識が向いている。他人に対する見方や接し方が世代で受け継がれるというのは本当のようだ。
 晶子自身は子どもを作る気満々。俺を早々に「確保」したのも浮気や浪費のリスクが低く、安心して子どもを産み育てられると判断したからだし、法的な出産の条件は揃ったから、後は経済的な環境さえ整うのを待つばかりだ。
 めぐみちゃんに会わせるなら、今回のように休暇を取ったり週末を利用するかで十分可能だし、費用面はさほど問題にならない。それに、わざわざ悪い感情を増幅したり相手の見栄や世間体に付き合うより、めぐみちゃんに会わせる方がずっと良い。
 あと10年、否、6年くらい経てば、めぐみちゃん1人で新京市に来ることも可能になるだろう。そうなればより交流しやすくなる。俺と晶子の子どもに兄弟が出来るかどうかはまったく分からないが、どちらにしてもめぐみちゃんが兄弟の1人として接してくれれば、円満な人間関係に育まれるだろう。
 親族の数は円満な人間関係とはまったく関係ない。親族が多い環境で育った経験上、成長するにしたがって見栄の張り合いや世間体の保持が前面に出る。冠婚葬祭ではそれらが露骨に出る。しかも口は出しても金は出さないを地で行く。そんな連中が多くても有害無益でしかない。
 現金な見方をすれば、自分達に害をなすかなさないかで付き合いを持つ親族を選別することは必要だと思う。昔のように一族が同じ地域かせいぜい隣の集落に居るくらいの距離的にも密接で、協力が必要な農業と他には畜産くらいで生計を立てるしか選択肢がなかった時代は我慢してでも付き合う必要があったかもしれないが、今はその必要はない。
 冠婚葬祭にしても、俺が今まで列席した経験の範囲内でも主賓を祝福したり偲んだりするより、招かれた親族がいかに満足できるかに焦点が当てられている気がしてならない。そのために神経を削って金を出すのは無駄でしかない。人付き合いは必ずしもすべてが円満になるわけじゃない。

「めぐみはお姉ちゃんにになる気でいっぱいね。お姉ちゃんとして恥ずかしくないようにしておかないといけないわね。」
「うん!お姉ちゃんになったらいっぱい遊んであげて、お勉強教えてあげたり出来るように頑張る!」

 元気とやる気いっぱいのめぐみちゃんの返事で、高島さんは嬉しそうに微笑む。高島さんもめぐみちゃんが元気に学校に行き、何か目標を持って生きられることは大きな安心材料に違いない。高島さんの保護観察の下でめぐみちゃんが怯えたり妙に大人びた処世術を持たなくて良くなったことは、多くの良い副作用を生んでいる。
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