雨上がりの午後

Chapter 318 相対的平穏の時間

written by Moonstone

 やれやれ…。やっぱりレクチャーは楽じゃないな。時間の関係で卒研の実質最終発表が終わってから、少しの休憩を挟んで本日午後のレクチャーをした。今回はマイコンだったが、マイコンもレジスタの設定やタイマ割り込みといった基礎かつ共通事項を終えると、アルゴリズムやハードウェアの話が入ってくるから難しくなる。
 今回はチャタリング(註:スイッチの切り替え時に接点(たとえばONとOFF)を行き来する現象。短時間(約数msec)だがスイッチに必ず付き纏う)処理を例にした外部入力の割り込みと待ち時間処理を題材にした。マイコンによって異なるディレイ(註:音楽ではこだまのような効果だが、電子回路では一定の時間待機することを指す)関数をどう扱うかを、チャタリング処理を焦点にしてレクチャーした。
 研究室はFPGAを使って定型の高速処理をするか、マイコンを使って多彩な機能を実現するかの2とおりに大別される。前者はスイッチで機能を切り替えることを基本的に考える必要はないが、後者はスイッチで起動したり動作モードを切り替えたりといったことをする。そのためにはチャタリング対策がどうしても必要になる。
 ディレイ関数はIDEによって異なるから当てにせず、クロックの周波数を元にforループ(註:繰り返し処理文の1形態。詳細は関連書籍をどうぞ)で調整するか、同じくクロックの周波数を元にアセンブラ(註:マイコンが理解出来る命令やその書式。C言語で記述してコンパイルすることはこの形式に変換することと同じ)のNOP(註No Operationの略で文字どおり何もしない命令。時間待ちやタイミング合わせに使われる)の繰り返し数を調整するかで対応することを念頭に置くことを説明した。アセンブラと出した瞬間、出席者が一様に嫌そうな顔をしたのが印象的だった。
 それを前提に話したチャタリング対策もそうだが、マイコンはどうしてもハードウェアの知識や感覚が必要だ。FPGAはもろにハードウェアだから何となく内部に処理回路をつけたり外付けの回路を用意する必要があると感じさせるが、マイコンは機能をプログラミングすれば良いと考えやすい。
 ところが実際のところ、FPGAは消費電流がそこそこあるのと、大規模なディジタル回路を構成するという性質上、多彩な機能を持たせるよりある処理を高速にさせることに使われる。それがデータの変換だったり解析だったりするわけだが、流れ込んでくるデータに定型処理を施して出力する役割が適している。
 マイコンは消費電力削減のモードが複数あったり、ペリフェラル単位で電源やクロックの供給をONOFF出来たりと、低消費電力を前提にした設計が施されている。それは複数の機能を切り替えるのは勿論、使わない機能をOFFにしたり、長期間操作がないなら電源を切るとかスタンバイにしておくといったことを想定している。
 その動作切り替えやスタンバイなどからの復帰には、大抵スイッチを使う。スイッチを押したら電源が入ったり切れたり、あるいはONにしたつもりがOFFになったり、モードが目的のところに切り替わるのが運次第なんてのは使い物にならない。それでも十分欠陥品だが、生命にかかわるようなものだと目も当てられない。
 そういったことも踏まえて、チャタリングがどんなものか、どう対処するかをレクチャーした。タイミングチャートも示して割り込みがかかってから一定時間待機するのに加えて、大気後のスイッチの状態を調べることも加えるとより信頼性が増すという話は、強い関心を持ったようだ。
 終わってやれやれなのは勿論だが、それで終わりとはならない。当然ながら明日以降もある。終わったら早速明日以降の準備だ。題材は決まっているが、先生や院生に修正されることはないものの−むしろこのままで良いと言われている−スライドを作るのはそれなりに手間がかかる。

「祐司ー。」

 智一がパーティション越しに顔を出す。いきなり頭上から声がかかるとびっくりするから止めろと言ってきたが、どうも直らないまま卒業を迎えることになりそうだ。

「…何だ?」
「電気回路論Uのレポートなんだけどさ、良いか?」
「1つだけなら。ちょっと待って。今作ってるスライドをある程度固めておく。」

 スライド作りの最中に迂闊に中断すると、最悪何をしていたのか忘れてしまう。学会発表も経て、スライドは色々なフォントや色を使うより、同系色で固めるのを基本にして、ここぞというところで対照色を使うのが効果的だとか分かってきた。そうなるとテンプレートに出来る部分もあるから、それにメモ書き感覚でスライドのアイデアを書いておく。
 ソフトウェア上ですることだから、追加や修正は自由自在。取捨選択はどれだけでも出来るから、1枚に収まらない範囲でもひたすら書き込んで貼っておく感覚で使える。整理して見やすくしたりといったことは後で良い。その時忘れたくないスライドの流れやアイデア、要点といったものを忘れないうちに書き留めておく。

「どれだ?」
「これこれ。」

 RC回路の過渡応答(註:電子回路の時間経過による応答の変化。高周波回路や長距離伝送回路で重要な知識)か。これも院試の定番の1つなんだが、なかなか解けないらしい。もっとも担当教官が癖の強い人だから、講義を聴いてるだけじゃ分からないというのもあるが。

「電流をiとして、iを使って各部の電圧を表現すれば良い。直列回路だから基本そのまま足し算だが、C(註:コンデンサのこと。抵抗=R、コイル=L、コンデンサ=Cとアルファベットのみで表現することもある)だけ逆数表示になることに注意。」

 俺は要点を説明する。iを使った電源電圧=回路全体の電圧を表記して、iの微分方程式を解く。それを適当にグラフ化する。そうするとこのレポートの本題である、Cの両端における電圧が出来上がる。

「−こうなるわけだ。」
「おおっ!なるほどなるほど!」
「この本質は、Cが充放電される過程で入力波形の立ち上がりと立下りに時間遅延が生じる、言い換えれば鈍(なま)ってしまうってことだ。高周波回路とかで配線を太く短く、って言われるのは、配線がグラウンドとの間で持つCを極力少なくしたいからだ。」
「なるほどねぇ…。」
「もう1つ。逆に電源ラインに大容量のコンデンサを入れるのは、ICとかに近いところで電荷を供給出来るようにするためでもあるし、電源電圧の変動をCである意味飲み込むような形にすることでもある。このレポートの結果からも分かるように、Cが大きいと鈍り方が大きくなる。波形が伝わらないことを逆手に取るような格好だな。」
「凄ぇなぁ…。講義よりずっとよく分かる。」
「あの講義は自分で演習問題を解いて理解することを前提としてるからな。」

 定期試験は、レポートの題材にもなっている演習問題から出ている。だから演習問題を解けるようにしておけば満点も夢じゃない。演習問題のテキストは最初の講義で懇切丁寧に紹介されるが、何せ講義のテキスト以外に新たに演習問題まで、という気が起こるから、なかなか演習問題のテキストまで手が出ない。

「もう院試から3ヶ月以上経つのに、現実に講義受けてる俺より良く理解してるのは凄ぇよな。」
「演習問題を何度も繰り返し解いたから、ある意味身体で覚えてるところもあると思う。」
「その域まで達するのはなかなか…。さっきの発表も凄かったし。」
「夏の学会発表で基本部分は作ったから、1から作るよりはずっと楽だ。」
「はー、先手先手を打ったことが今になって圧倒的な差を生んでるってことかぁ…。」

 夏休みの約一月半は、今となっては大きなアトバンテージとなっているのは事実だ。俺の場合は学会発表が決まってその準備に追われた結果だが、約一月半という時間と、そこで学会発表に使えると客観的に判断されたレベルに高めたスライドと論文は、あと2週間程度ではまず追いつけないだろう。

「内助の功を多分に発揮しているであろう晶子さんは元気か?」
「ああ。卒論の仕上げにかかってる。」

 何となく予想はしていたが、晶子関係に話を振られて内心ちょっと動揺した。年明けから晶子も完全に卒論モードに入り、今は仕上げの時期だ。進級に取得単位数の設定がない−そもそも進級自体に条件がない−文学部だと4年になって慌てて単位取得に追われることも多いらしいが、4年進級時点で卒論以外の全ての単位を取得していた晶子にその辺の隙はない。
 夫婦仲も至って良好。一緒に朝飯を食べて家を出て、月曜以外は揃って大学を出てバイトに行く。月曜は最近のレクチャーの準備と卒論の仕上げが重なったのもあって晶子が先に帰宅する形になっているが、家に帰って一緒に夕飯を食べる生活を続けている。誰にも言わないが、夜の営みも縮小してない。
 多分、此処で俺が話題にしないから冷却しているのかと思う向きもあるんだろう。晶子との仲や生活について言及しないのは、元々プライベートを晒すことに消極的なのもあるし、カップルや夫婦の惚気話の受け止め方は個人差が激しいから、不快に思う方を考慮している結果に過ぎない。
 第一、智一とて俺が毎日晶子手製の弁当を持ってきていることを知らない筈はない。多少前後はするが昼飯時はそれほど変わらないし、その時俺が弁当を持っていくのは智一も飽きるほど見ている。弁当がなくなったら晶子との仲を疑われても仕方ないが−現に晶子が寝込んだ時、何度「嫁さんと喧嘩したのか」と聞かれたか分からない−、変わらず弁当を持ってきている時点で疑う余地はないだろう。だが、それはあくまで俺の視点であって、他人からするとそうでもないんだろうか。

「文学部は進級の条件がないから単位の取りこぼしが結構多いそうだが、晶子さんはそんなことなさそうだな。」
「ああ。実際卒業に必要な単位は卒論のみだし。」
「そりゃ凄ぇな。だとすると、夫婦揃って卒業を待つのみってところか。」
「そうだな。」
「変な言い方かもしれないが、その割には何か淡々としてるって言うかドライって言うか・・・。もう直ぐ終わる大学生活への感慨みたいなもんがないな。」
「ん・・・。自分じゃ分からないが、そう見えるなら、卒業してからのことに意識が向いてるせいかもしれない。」

 4月から俺は高須科学に就職し、晶子は引き続き今の店で働き続ける。名実共に社会人としての一歩を踏み出す。今までのように一緒に家を出て一緒に帰って、といったことは当然出来なくなる。今までの感覚を続けていると「こんな筈じゃなかった」という思いからすれ違いが生じる恐れがある。
 必ず俺と晶子が集う場所として今の家に引越し、正式に夫婦としての生活を始めたことで、顔を合わせる機会がないということはなくなった。だが、朝出て夕方か夜に帰宅する俺と、昼前あたりに出て夜遅く帰宅する晶子とでは、生活パターンのずれはどうしても避けられない。
 この辺も、晶子とは勿論、マスターと潤子さんを交えて話し合いをしている。俺が3月末で退職するのは確定だからバイトの募集を始めたこと、俺が抜ける分の補充だけではなく2,3名ほど採用する構えであることがマスターと潤子さんから話され、晶子の勤務体系は新採用のバイトも含めて適時調整する方針だ。
 新採用のバイトにも最低限楽器が出来ることを求めるのは店のポリシー。果たしてうまく集まるのかとも思ったが、数件の問い合わせが来ていて、ピアノやエレクトーンが出来たり、高校で吹奏楽や合唱をしていた人も居るそうだから、それほど悲観しなくて良いかもしれない。従業員やバイトが晶子を含めて3人4人の体制になると、早番遅番などシフト勤務も可能になるし、ローテーションで不定期ながら定休日以外の休日も出来る可能性がある。
 その他、俺は晶子の出勤日には帰宅の際に店に立ち寄れば、そこで少なくとも食事は晶子と一緒に摂ることも可能だからそうしてみてはどうか、と持ちかけられた。店にとっては何ら不都合はないし、そこで短時間でも顔を合わせておけば晶子も安心出来るだろう、とマスターと潤子さんは補足した。
 晶子が作り置きすることも含めて改めて相談することにしているが、4月からの生活に向けて頭の切り替えや心構えをする準備段階にある。だから卒業旅行とか学生生活の締めくくりに何かイベントを、という感覚が生じない。もっとも晶子が「私に配慮して思い出作りとかでお金を使ったりしないでください」と言っているのもあって、何も出来ないのもあるが。

「うーん・・・。一応4月から親父達の会社に入る俺よりはるかに落ち着いてるなぁ・・・。」
「俺と晶子で生活を維持していかなきゃならないから、ある意味切羽詰ってるとも言える。」
「今も祐司と晶子さんの収入で生計立ててるんだったか。」
「ああ。仕送りはとっくに打ち切られてるからな。」
「でも、きちんと生計立ててられるんだし、祐司は正社員になるんだし、それだけきっちり腰を据えてりゃ悲観する必要はないように見えるがな。」
「油断禁物、ってやつかな。」

 大学生活に最低限必要な学費は既に払ってあるし、貯金は引越しの際に幾分取り崩したが、年末年始にまったく使わなかったのもあって殆ど持ち直した。生計費を一体化することで1人あたりの負担は減ったし、収入もバイトでは破格の待遇で相当額が入ってくるから、資金面はかなり潤沢と言える。
 だが、人生何が起こるか分からない。晶子の妊娠の可能性がまったくないとは言えない。そうでなくても、入院レベルの怪我や病気になると数万は簡単に飛んでいく。世間を見ると色々な詐欺師があの手この手で財産を毟り取る事件が勃発している。それを未然に防ぐにはやっぱり用心するに越したことはない。

「俺の心配も良いが、自分の卒研の心配をしておいた方が良いぞ。卒研の単位が出なかったら卒業出来なくなるんだからな。」
「あう・・・。ごもっとも・・・。」

 智一はすごすごと退散する。まったく手付かずでなければ卒研の単位がつかないってことはないだろうが、このままだと相当低くなることは間違いない。智一は卒業後就職、しかも親の経営する会社への就職だから成績はさほど問題視されないかもしれないが、進学組で卒研の単位が低いと修論を疑いの目で見られる恐れもある。
 卒研はある意味高校までの宿題や課題と似ていて、強引に終了としたり、次年度以降に引き継ぐという形で投げ出すことも出来る。だが、修論は修士という一定の存在感を持つ学位を授与するかどうかの材料。いい加減な修論においそれと修士を出すわけにはいかない。
 修士になって直ぐ、今までの人任せ・受身な姿勢を一転出来るかは正直怪しい。だが、修士になれば否応なしに責任は増す。あまり詳しくは知らないが、修士途中での退学はそこそこの数あると聞く。その理由も就職−主に公務員試験合格−なら良いが、修士の生活に耐えられずにドロップアウトの割合が結構多いらしい。
 そうならないよう対策を取るところまで面倒は見切れない。俺も修士に進学するならまだしも、就職で大学から離れるからどうしようもない。卒研の最終発表までのあと半月程度の合間、こうして今も準備しているレクチャーでひととおりの知識をつけて姿勢を抜本転換することを期待するしかない。
 俺も卒研の単位が出ることはほぼ確定したとはいえ、卒業まではやはり気を引き締めておいた方が良い。教員免許と国家資格関係の講義は今もあるし、最後の最後で単位を落として取れるものが取れなかったらあまりにも馬鹿馬鹿しい。

「祐司さん。こういう場合、グラフってどう作るんですか?」

 場所は変わって自宅。バイトが終わってから寝るまでの間、最近はこうしてリビングで2人向き合って卒論の仕上げをしている。

「ん?どれ・・・。」

 俺は晶子の側に回って見る。項目が3つあるデータをグラフ化したいのか。文学部の卒論だとデータやグラフとは無縁でひたすら文章を書き連ねていくだけと思っていたが、単語の登場頻度とかで結構出てくる。単語の登場頻度ならそれを抽出して傾向を考察したりする。やっぱり論文という以上単なる感想文じゃないわけだ。

「この場合、横軸にしたいものを最初に選択して、次に左側の縦軸にしたいものを選択して、ここで一旦グラフの形状を指定する。」

 項目が2つのグラフはウィザードに沿っていけば簡単に作れるが、それ以上になると少々ややこしくなる。グラフの多くは縦軸と横軸が1つずつで間に合うと見てこうしたんだろうが、複数のデータを扱う場合は不自由が多い。何も出来ないよりはましか。

「グラフを作ったところで、グラフをクリックで選択して右クリックでメニューを出す。『軸を追加』って項目があるから、それを選んで・・・。」
「こういうことが出来るんですね。」
「俺も最初は全然知らなかったけどな。・・・で、縦軸を選択して、グラフの該当部分を選択してグラフエリアにドラッグ&ドロップすると確認ダイアログが出るから、OKをクリック。これで完成。・・・グラフはこれで良いか?」
「ありがとうございます!グラフはこれで良いです。」
「こういうことなら助けられるから、遠慮なく言ってくれ。」
「はい。お願いしますね。」

 俺は自分の席に戻る。卒論にOKが出て早速生協に製本を委託してきた俺は、今日からレクチャー用のスライド作りに全面シフトしている。文章とスライドでどちらが作りやすいかと聞かれれば、俺はスライドと答える。最初から最後まで話の筋が通る文章を書くのはどうも難しい。スライドも話の筋が通らないといけないが、文章で繋ぐより簡単に思う。
 せいぜい俺が管理するシンセ群と不揃いな茶箪笥くらいしかない、だだっ広いリビングに置いたコタツ机で、向かい合ってノートPCに向かう男女が、新婚2ヶ月ちょっとと言われてもにわかには信じられないかもしれない。だが、新婚であると同時に大学生、しかも卒業すべき4年生でもある。俺は特に卒業しないと次に繋がらないどころの話じゃない。

「今日はこの辺にしましょうか。」
「そう・・・だな。」
「お風呂の準備、してきますね。」

 とは言え、ずっとこうじゃない。晶子が本日分の終了を宣言して切り替えを図る。俺は没頭しやすいタイプだから、晶子のこういう誘導で規則正しく豊かな生活が送れる。そうじゃなかったら遅くまで没頭して、夜型にシフトしてギリギリまで寝こけるようになって、生活自体が総崩れになってるだろう。
 スライドは明日の分は出来たし、以降の分もアイデアを書き込んでスライドをおおむね並べるところまで出来た。念のため、USBメモリにも保存して鞄にしまっておく。俺は机に置かれた2人分のコップと皿を流しに持っていき、手早く洗う。給湯中だから、便乗して濯ぐ時に湯を使う。
 晶子と2人して歯を磨き、暫くリビングで待っていると、風呂の準備が完了したことを知らせるアラームのメロディが鳴る。晶子と一緒に脱衣場に行き、服を脱いで入る。俺が先に身体と髪を洗って湯船に浸かり、晶子が身体と髪を洗うのを待つ。晶子が髪を洗うのに時間がかかるから、俺が身体を冷やさないようにという晶子の気遣いだ。

「卒論、お疲れ様でした。」
「最終発表が終わるまでは気を抜けないが、ひとまず大きな山を越えた感じだな。」
「その分、レクチャーや準備が大変なのは・・・、理不尽と言うか何と言うか・・・。」
「卒論や学会発表みたいにチェックは入らないし、自由に出来るから、復習を兼ねてやってる。ペースも自分で決められるし。」
「無理だけはしないでくださいね。卒研のように義務じゃないんですから・・・。」
「ああ。それに、家に帰れば晶子のサポートが万全だから、身体も心も安らぐ。」

 晶子一番のお気に入り、「人間座椅子」の体勢で語らう。俺は晶子の柔らかさを前面で堪能できるし、晶子は完全に寛げるし、良いところ取り出来る。結婚前から始まってはいるが、帰宅して用事を済ませて風呂でこうしていると、使い古された表現かもしれないが、1日の疲れが吹き飛んでいくような気がする。

「私のサポートは、食事全般と間に合う程度の掃除洗濯くらいですから・・・。」
「それがなかったら、生活が成り立たない。サポートってのは決して金銭面に限った話じゃない。」
「私がサポートになってると思ってもらえてるなら、十分です。」
「晶子が毎日作ってくれる弁当は、味もさることながら弁当そのものが自慢出来る出来栄えだからな。俺も随分慣れたもんだ。」

 どうも気恥ずかしさがあった晶子手製の弁当は、今や生活に欠かせない。卒論を仕上げながらレクチャーの準備をして質疑応答までこなし、更に各自の研究テーマの相談に乗ったりするのはなかなかハードだ。そんな張り詰めた心を癒すのは昼休みに食べる晶子の弁当だ。
 主に煮物類の作り置きも組み合わせたメニューは、彩りも綺麗で食欲をそそる。仕込みも含めると見た目には手早く効率的でも、相当な手間がかかっている。主に土日に行われるそれを晶子がしている間、俺が洗濯物の取り込みやちょっとした拭き掃除や片付けをするんだが、その間晶子の手が止まっているところを見ることは少ない。コンロが全て稼動しているところでも、使い終わった調理器具を洗っていたりするから、手が止まっているところを見たことは殆どない。
 以前、この弁当を買えるものなら買いたいと研究室の学部4年に言われたことがある。仮定の話として幾ら出せるかと尋ねたら1000円は出すと答えが返ってきた。生協の食堂の日替わり定食は400円だから、その倍以上の価格を出すという第三者の査定は、客観的に見ても美味そうなことの証明だ。

「毎日大変だと思うけど、これからも作って欲しい。必要に迫られない限り、外食する気になれない。」
「勿論ですよ。お弁当作りを含めた祐司さんのサポートの立場は、どんなにお金を積まれても譲れませんから・・・。」

 俺の右手でじゃれていた晶子は、その右手を自分の頬に持っていく。晶子はこの体勢の時、俺の手でじゃれる。大抵は右手を使う。左手は俺が晶子のウエストを抱え込んでいるのもあるし、ギターで音階を決める方の手ということで、じゃれるのであっても無闇に触れるのは憚られるらしい。
 今振り返ると、婚姻届の提出と新居への引越しは良い時期だったと思う。それより前は、俺は学会発表で大騒ぎだったし晶子は就職活動に奔走していた。それより後は卒研卒論の追い込み。卒業間際だと転居シーズン真っ只中だから、今の家はまず契約されていただろう。
 前の俺の家で住み続けながらという手もあるにはあったが、両方の親に実質難色を示され、保証人契約も危うい状況では結婚生活の基盤自体が危うい。今の家は渡辺夫妻に保証人になってもらったから、仕送りを止める手を使った以上、両方の親に他に打つ手はない。
 両方の親の動向は興信所とかを使って調べてないから−確か結構な値段だと聞いた−まったく分からないが、今のところ何の音沙汰もない。俺と晶子が意地を張っていると見ているか、貯金でどうにかやりくりしていると見ているか。後者はそのとおりだが、兵糧攻めを狙ってのことなら残念ながら目論みはうまくいきそうにない。
 こうして2人の収入を合算して十分な生活が出来て、引越しで使った貯金も速いペースで戻せている。引越しで家具や家電を新調せず、それぞれの使えるものを持ち寄って不用品は処分するかリサイクルショップに売るなりしたから、その分出費を抑えられたことも大きい。
 俺は晶子の強力なサポートが受けられる。晶子は居場所が得られる。共通の帰る場所が具体化する。そんなギブアンドテイクが合致して成立しているこの生活。派手さや豪華さはないが、きちんと維持出来て満足出来ている。向上するのも大変だが維持するのも相応に大変だ。転落や後退はあっという間だが。
 風呂から上がり、寝巻きを着て戸締りと火の元を確認してから寝室へ向かう。0時前後に消灯するのは生活リズムとして確立されて久しいのもあるし、殆どの場合、夜の営みがあるからだ。ベッドに入って程なく、俺は晶子に乗りかかる。キスすると首に晶子の両腕が回る。
 ただ服を脱いで脱がしてセックスするだけじゃ、義務的なものになる。そうなると「処理」が先に出て愛情が消えていく。どうしても欲が先行しがちな男としては、逸りがちな気持ちを鎮めるのも兼ねている。何度かつけたり離したり、吸ったり舌を入れたり、入念に・・・。
 キスを終えた後、晶子の服を脱がしにかかる。晶子は適時身体を浮かせて円滑に脱がされていく。俺も平行作業で脱いでいき、ベッドの外に出していく。完全に脱がし終えたところで身体を起こして晶子を上から観察する。豊満な裸体が暗闇の中でほんのり光っているように見える。扇情的であり綺麗でもある。

「何時見ても綺麗だな・・・。」
「嬉しい・・・。好きにして・・・。」

 晶子の訴えるような誘うような言葉で、俺は再び晶子に覆い被さる。晶子の熱い吐息とシーツと身体が擦れ合って生まれる音だけが浮かぶ中、俺は晶子の身体を堪能する。濃厚な夜は始まったばかり。全てを出し切るまで今夜の営みは続く・・・。
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