雨上がりの午後

Chapter 309 新婚生活と学生生活

written by Moonstone

 翌日。研究室の学生居室でPCに向かう。昨日の引っ越し作業でちょっと筋肉痛気味。プラスやや眠いのは夜の営みの余韻。自分で言うのも何だが、力仕事が続いた後で夜も頑張るのは若さならではか、と思う。
 学生居室には俺しか居ない。他の学部4年は実験室に籠っている。前期はどうにか単位が取れたようだが−取れないと留年=内定や進学取り消しと相成る−、後期もある。必須講義は勿論だが、選択講義も「選択」と言うほど選択肢は多くないし、選択講義も含めた単位数が卒業条件だから、足りなければ油断ならない。
 前期の分にしても追試やレポートで何とか合格という例も多いそうだし、後期も厄介な講義が多い。一方で研究室の中間発表が近づいている。指導役の院生も修士1年だと来年の修士論文や自分の就職までの実績に繋げるためにも、学部4年の尻を叩く。講義の合間は実験室で実験を繰り返すか、会議室で打ち合わせをするか、学生居室でスライドを作るかの過密スケジュールにならざるを得ない。数人は研究室に泊まり込むような生活をしているらしい。
 それらと比べると、俺は実にゆったりのんびりしている。学会発表を経て理論から実証まで進めたことで、基本システムはほぼ完成したからだ。今は音楽演奏に特化することを踏まえて理論面の補強とシステムの改良が主体で、それらも中間発表では時間の関係で補足程度に留める。俺はスライドを作ることとこれまでの成果を纏めることに大きな比重を置いている。
 成果を纏めることは、久野尾先生と野志先生を交えた4人の打ち合わせで決まったことだ。俺と大川さんの研究テーマは、俺と大川さんが揃って就職することで継承者が居なくなる。それに基本システムがほぼ完成したことで研究テーマ自体完了とする可能性もある。どちらにしても、大きな成果を残したこのテーマの集大成を残すべき、という結論に至った。
 残すことはたくさんある。システムのブロック図、各機能ブロックのVHDLソース、その解説、実験データとその条件、発表時のスライド、回路図や基板データなどなど・・・。大川さんの指示でフォルダをこまめに分けて残しておいて良かったとつくづく思う。フォルダから取捨選択して編集していけば良いからな。
 中間発表も、発表項目の候補が盛りだくさんで、取捨選択する状況だ。これも他のテーマからすると贅沢な状況。何としても中間発表である程度の進捗を示さないと格好がつかないし、前年までの焼き直しを卒論にするわけにはいかない。あと半年あるとは言え、既に半年過ぎた状況から一気に進めるのは無理というもの。学生実験のようにはいかない。
 よし、ちょっと休憩。朝からPCに向かっていて肩がこる。作業状況を全て保存してPCをロックしてから席を立ち、休憩室に向かう。カップは置いてあるし、緑茶から紅茶コーヒー色々ある。自動販売機は1Fに行かないとないし−研究室は5階−、1個100円以上するから、手軽さとコストを考えると自分で淹れた方がずっと良い。
 緑茶を淹れて休憩室のソファに座る。休憩室には誰も居ない。学部4年は全員来ているが実験か打ち合わせか講義かのどれかの筈。中間発表まで1週間もない状況では、午後からのんびりとはいかないだろう。そもそも家に帰る状況にない人も少なからずいるそうだし。

「あー、安藤君だー。」

 半分縋るような声がする。学部4年の2人が入ってくる。何だか憔悴してるな…。

「実験の連続で大変なんだよー。スライドも作らないといけないし…。」
「割り込み処理(註:マイコンのプログラミングで、主にメインルーチンの途中で特定条件(ある入力が入ったりタイマの値が一定値に達するなど)を満たすと駆動するサブルーチンの総称)が上手くいかなくてさぁ…。DSPも絡むからタイミングがシビアで…。」
「学生実験のようにはいかない。出来ることが分かってる実験とはわけが違う。」
「何とも厳しいお言葉…。」
「夏休みは丸々休める、ってそのとおりにしたら、こんな状況になるんだもんなぁ…。」

 学部4年は俺の向かいに座る。その手にはデバイスのデータシートや論文のコピーがある。悪戦苦闘している様子は感じられるが、尻に火が付き始めるまでのほほんとしていたのは本人だからな。学生実験が出来ることが分かっていることをテキストに沿って進めるだけだが、卒論からはそうはいかない。だが、学生実験で実験の基礎を確立していないと卒論は相当きついだろう。

「ちょっと…見てもらえないかな?」
「院生に相談した方が良くないか?」
「マイコンのプログラムそのものがよく分からなくて、院生の人もそれくらいは調べろって言うんだよ…。」

 それはそうだろう。どういうアルゴリズムにするかとか、割り込み処理を使った時に出て来るバグが出る原因は何かを追求するのが卒研なのに、プログラムが分からないんじゃ話にならない。俺が指導役だったとしても同じことを言うだろう。
 そう思っていたら、2人はそれぞれ資料を差し出す。「見てくれ」「助けてくれ」という無言の要求を感じる。俺だと何でも出来るし何でも分かると思ってるな…。今日は終日PC作業だから、暇潰しに見てやるか。分からないことは「自分で調べろ」で逃げれば良いし。

「…DSPはマイコン内蔵か。」
「そう。DSPのサンプルソースを組み込んでみると、出力波形がめちゃくちゃになるんだ。」
「出力がおかしくなる時の条件は?」
「えっと…。周波数が高くなると出て来るみたい。」
「それだけじゃ分からない。入力波形の違い−単純なサイン波と方形波とでは話が変わってくるし、周波数応答くらいはきちんと条件出しをしないと検証のしようがない。それくらいは実験で出して、波形をキャプチャして測定条件と共に纏めないと駄目だ。」
「院生の人と同じこと言うなぁ…。」
「自分では条件が分かってるんだとしても、だから相手も分かってると思うのは無理な話。こういう条件だと入出力特性が極端に悪くなる、入力波形とはこういう相関関係が見て取れる、くらいは纏めて提示しないと、相手は分からない。テーマを分かってる指導役の院生でもそうなんだから、テーマを知らない俺が分かる筈がない。」
「そう言われると身も蓋もない…。」
「俺は魔法使いじゃないからな。…それはとりあえず置いておいて、DSPを使った音声帯域信号の処理ってところか?」
「そう。」
「最高20kHzだとして…、DSP関数の処理時間が割り込み周期内で収まってるのか、D/A(註:ディジタル・アナログ変換の略。数値データをアナログデータに変換する処理で、A/Dとペアになることが多い)の応答限界も見る必要があるかな。」
「それってどういうこと?」
「…。」

 これは駄目だ。テーマについて議論する以前のレベルだ。何も分からず、分かろうとしないまま、ただ出て来る課題をやり過ごすことだけ考えてるんだろう。今まではノートを借りたり過去問題を貰って回答する練習をすればやり過ごせただろうが、卒研からはそうはいかない。その事実も分かってないような気がする。
 俺は紙とペンを持って来させて、概要を説明する。DSP関数に限らず、マイコンの関数には処理時間が必要なこと−この辺はハードウェアで構成するFPGAとかだとずっと速くなる−。大まかに一定の周期Tで割り込みをかけて、A/D→DSPやその他処理→D/Aとするだろうから、A/DからD/Aまで全ての処理をTの時間以内に終わらせないと、出力がおかしくなって当たり前なことをまず説明する。
 続いて、データシートからマイコンのA/DとD/Aの重要な特性を示して説明する。A/DとD/Aにはそれぞれデータを認識する時間、セトリングタイムが存在すること。その間は必ず入力やデータを保持しないとその後の処理がおかしくなること。これらを無視すると、関数の処理が間に合えばOKと思って割り込み周期を設定したら出力がおかしくなる恐れが高いこと。
 セトリングタイムの他、A/DとD/Aの処理速度を図るパラメータにサンプリングレートがある。kSPSかMSPSかで表される数値が変換の最大速度。例えば1MSPSなら1MHzまで応答出来る。それはセトリングタイムと密接に関係しているから確認は必要だが、これ以上の変換速度を出すのはどう足掻いても無理だ。

「入力周波数が20kHz上限だとすると、40kHzは必要。周期は…250μsecか。今のプログラムはどうなってる?」
「こうなってる。」

 と言って、さっさとソースリストを見せて来る。此処を直せとか指示して欲しいんだろう。学生実験で指示待ちだったか、データだけ貰って実験した気になっていたかのどちらかだろう。

「同じC言語でも開発環境やデバイスによって一番重要な定義部分が違ってくる。割り込み関数なんてその最たるもんだ。すぐさまソースリストを見せてどうにかしてくれ、って思っても無理な話だ。」
「…本当に院生の人と同じこと言うよなぁ…。」
「実際そうだからだな。レジスタ(註:マイコンのピンの入出力方向や機能選択、例えばA/D変換の動作を決定する専用の情報群。メモリ内にあり、マイコンのプログラミングの大半はレジスタ定義に費やす)の定義や割り込み関数をきちんと把握してないと、マイコンのプログラミングは出来ない。」

 学生実験でもマイコンのプログラミングはあったし、その時の指導教官は野志先生だったんだがな…。ざっとソースリストを見る。定義はとりあえず無視して−これらが正常かどうか1つ1つ照合する気はない−、メインルーチンと割り込み関数−大体名前から想像は出来る−を探し出して流れを見る。

「…プログラムそのものは、詳細は別として大きな問題はなさそうだな。てことは、さっき言ったように割り込み周期の間に処理を実行出来てない可能性がある。」
「どうやって測定すれば良い?」
「空いてるピンを出力にして、割り込み関数に入った時にON、出る時にOFFするようにして、DSP処理でも別の空きピンで同様に設定して、オシロで観測すれば良い。ついでに、DSP関数を入れたらおかしくなったんだから、DSP関数をコメントアウトした時と比べてみること。それらの結果を比較すれば、DSP関数にどれだけの時間が必要か、割り込み時間内に全ての処理が出来てるかが分かる。…学生実験でも処理時間の計測方法としてあった筈だが。」
「学生実験はグループの人に任せてたし、そんなところまで憶えてないよ。」
「卒研はそうもいかないぞ。あとは自分で測定して、その結果からどうすれば良いか考察することだな。」

 やっぱり人任せか…。工学、特に実験が絡む分野は自分で実験してその結果を分析することが基本中の基本。就職でも院でも完全に工学と縁を切らない限り変わらない。こんないい加減なことをしていても単位数を満たせばひとまず進級は出来るんだよな…。ソースリストを突き返して終了とする。
 2人はすごすごと休憩室を出ていく。何だか一気に疲れが増して思わず溜息が出る。俺は此処で休憩をしているんであって、他のテーマの面倒をみるために待機してるんじゃないんだがな…。院生の人の根気強さというか我慢強さには敬服するばかりだ。

「おっ、安藤君。おはよう。」

 声の方を向くと、飯田さんが入ってきたところだった。

「おはようございます。」
「僕と入れ替わる形で学部4年2人が出ていったけど、安藤君に教えてもらっていたってところかな?」
「そのとおりです。」
「学生実験や講義のようにテキストに懇切丁寧に書いてあるわけじゃないし、院生もあれこれ教えてはくれないから途方に暮れたんだろうけど、それが普通なんだよね。」
「はい。大学だったらまだ何とかなるかもしれませんけど。」
「院生も自分のテーマにつく学部4年のレベルは実際についてみないと分からないし、学部4年のレベルは大きく違うからね。」

 飯田さんは俺の向かい側に腰を降ろす。飯田さんも久野尾研唯1人の博士課程とは言え院生だから、指導テーマがある。博士論文は更に審査が厳格だし、その一方で学部4年の指導もあるから大変だろう。もう博士論文の審査は終わって修了見込みだそうだし、海鳴大学の助教着任も決まっているから、その辺は要領が分かっているのかもしれない。

「これから卒研の最終発表まで、安藤君は他の学部4年に追い回されるだろうね。」
「自分のテーマもあるんですけど…。」
「安藤君は実質完了としても良いくらいだし、極端な話、現状を纏めたものを卒論としても間違いなく評価10が出る。しかも卒業に必要な単位数は満たしてる。そういった情報は院生経由で直ぐ伝搬するから、それだけ余裕があるなら面倒見てくれってなるだろうね。」
「うーん…。」
「大体フラグシップはそうなるもんだよ。どの研究室も学生のレベルはピンからキリまであるし、今までの感覚が残ってる学部4年は尚更、ピンのレベルの学生に依存せざるを得ないからね。僕もそうだったし、大川君もそうだったよ。流石に院生になると自分でやれ、で片付けられるけど。」

 やれやれ…。今までの纏めも決して楽じゃないし、俺も取捨選択出来るレベルとはいえ中間発表の準備のもある。自分のことに専念したいところなんだが、他の学部4年がそうはさせてくれないのか。他のテーマの詳細は知らないから、開発環境の使い方やバグの洗い出しくらいしか教えられないと思うが。
 そもそも、今の時期になって開発環境の使い方が分からないとか、プログラミングのバグを洗い出すための実験の手法が分からないとか、そんな状況で良いんだろうか?今度の中間発表は学部4年前期分の総括という位置づけでもあるらしいし、ある程度は進捗がないとこれから益々きつくなるだけだろう。

「まだこの研究室は楽だよ。物性関係だと実験の準備や工作で研究室が住居になることも珍しくないから。」
「増井研や澤田研あたりですよね。」
「そう。あの辺は研究装置自体を自作することから始めるからね。工作工場に行かない学生は学生じゃない、とか平気で言われるし、そうしないと独自の研究は出来ないってスタンスだからね。うちも回路基板は極力自分で作るようにしてるのは、回路を作れないと分かるものも分からないからだよ。」
「テキストやシミュレーションだけでは分からないこともある、って言いますよね。」
「テキストは外乱要因を省いた純粋モデルを使っての基礎理論だし、シミュレーションもどんどん性能は向上してるけど、完全にデバイスを再現出来ないからね。そこまでしてたら時間がかかり過ぎるし。デバイスモデルはシミュレーションで必要な部分以外は省いてるから、基板にした時の不具合要因までは再現しきれないのは当然だよ。」

 デバイスもそうだが、基板面積を有効利用したり−そうしないとコンパクトに作れない場合は多々ある−、高速にデータや信号を送受信する回路だと無駄に長い配線がアンテナになってノイズを拾ったり、伝搬遅延を引き起こしたりする。そういったトラブルは対処が難しいし、シミュレーションでもモデルを作り難い。
 回路基板の製作は試作過程で何度か体験して、夏休みに学会発表の準備をした際に設計段階も体験した。回路図を描くのとでもかなり感覚が違う。単に部品を並べて配線するだけでも、ある程度動く回路は出来る。だが、高速だったり高精度だったりする回路基板は部品配置からきちんと考えないと性能を引き出せない。
 夏休みは学部4年が居なかったし、工作工場もかなり空いていたから、自分で設計したものを基板に起こしてもらって実際にはんだ付けして動作試験をするところまで経験した。今動いている回路の一部は、何度かの試作を経て出来た俺の設計したものも含まれている。それがきちんと動作して目的の機能を実現しているのはなかなか感慨深い。

「安藤君は夏休みにうちの研究室では僕以来の学部生の学会発表が決まって、そのためにずっと頑張ったからね。基板を設計段階から手掛けたり、出力音声のスペクトル解析もしたり。あそこまでやったから、学会発表も十分様になったんだよ。その経験は就職してから確実にアドバンテージになるよ。」
「なれば良いですね。また1から勉強でしょうし。」
「なるよ。間違いなく。回路基板を作る過程が設計段階からひととおり出来るのは、大学を出ていても意外と少ないんだ。特に安藤君がアンプ部分で手掛けたようなアナログ回路は希少だよ。スライドの準備や纏めに飽きたら、気分転換がてら色々やってみると良いよ。」
「どういう回路基板を作れば良いでしょうか?闇雲に作っても…。」
「丁度うちの研究室は音声や電波の信号増幅が何らかの形で必須だから、アンプ回路とフィルタ回路が良いね。月刊エレクトロニクス(註:作中の世界にある電気電子関係の専門月刊誌)を参考にパラメータを決めて作ってみると良い。費用は研究室から出してもらうように僕から頼んでおくよ。僕が持ってる学振(註:日本学術振興会の略称。大学や研究所の研究者の研究資金である科学研究費補助金(科研費)を取り扱う)の研究費も出すようにするから。」
「研究テーマに直接関係ないのに、良いんでしょうか?」
「アンプ回路やフィルタ回路は音声や電波に限らず、物性やパワーでも必須だから、電気電子共通だよ。それらのサンプル回路が特性と共に揃っていれば、うちの研究室に限らず重要な資産になる。デバイスや部品は余程特殊なものとか出鱈目な数を大量購入しなければ安いもんだし、利用出来るものは利用した方が良いよ。」

 確かに電子部品は安い。OPアンプでも余程特殊なものでなければ大抵単価は数百円レベルだし、抵抗やコンデンサは単価数円が普通。ユニバーサル基板を使って作る試作レベルなら、基板も含めて2、3000円程度で出来てしまう。
 音声帯域のアンプは可聴領域をきちんと増幅できることが最優先。だから周波数は20kHz程度で十分で、ノイズ関係のパラメータの方が重要になる。そういったOPアンプの特性を踏まえてサンプルの回路を作ることは、決して無駄じゃない。

「大川君には僕から話しておくよ。勿論必須じゃないから、気分転換くらいの気持ちでやれば良い。」
「やってみます。」

 仕事が増えたような気がしないでもないが、回路基板を設計からするのはなかなか楽しかったりする。講義は当然ながらテキストを使っての理論だけだし、学生実験もはんだ付けはごく一部で、既に動くことが分かっている基板だった。それでも当時は十分苦労したが、楽しさは少なかったのも事実だ。
 中間発表のスライドは概ね出来て調整や取捨選択をする段階。スライドの流れそのものは出来てるから、それを崩さないように強調したいことや前面に出したいことを選ぶようにすれば良い。費用の面も心配しなくて良いようだし、俺からも大川さんに話を通して取り組んでみるとするか。
 引っ越し後初のバイトが終わった。「はやぶさ」が今日のBGM。

「引っ越してみてどう?」
「大学や店への経路が新鮮に感じますね。店は今日が初めてですから尚更。」
「この道で良かったかな、とか思って、到着するまでちょっとおっかなびっくりでした。でも、今までと違う風景ばかりで新鮮ですよ。」
「落ち着くまでには少しかかるだろうけど、2人で協力していけば問題ないわね。」

 目まぐるしい速さで荷物の搬出から搬入まで終わり、その後は細かい部分の配置を決めて移動させた。食事や入浴はその合間を縫ってしたような感覚だ。荷物が少なかったことと大きなものはある程度配置出来ていたから、2日目にしては随分整然としている部類に入るだろう。

「大学へはどの駅を使ってるの?」
「胡桃町駅のままです。」
「ちょっと遠くない?」
「そうでもないですよ。少し坂を上ることが加わったくらいです。」
「胡桃町駅からだと大学まで急行で1駅で行けますから、少し遠くなっても胡桃町駅の方が便利なんです。」
「2人はまだまだ若いから、坂が1つ増えて少し遠くなっても大したことないか。」

 一応最寄り駅は白木駅ということになっているが、普通電車しか停車しない。その上、どうも急行とそれ以外との乗り継ぎがあまり良くない。それなら少し早く出て胡桃町駅まで走った方が良い。俺は4月からも通勤で電車を使うから、乗り継ぎで時間を食うより少し早く出る方を選ぶ。

「今の自宅の周辺は大きな家が多いんですけど、やっぱり車通勤なんでしょうかね。」
「否、まず電車通勤の筈だよ。鷹田入に大きな家を構える住人は小宮栄に新京市の中心部に職場がある。新京市の方はまだしも、小宮栄の方に車で通勤するのは時間とガソリンのロスだ。」
「混雑が凄いんですか?」
「通勤時間帯は高速を使わないとかなり早く出ないといけないだろうね。高速に乗ったとしても肝心の小宮栄で渋滞に巻き込まれるっていうどうしようもない事態も珍しくない。」

 小宮栄は電車で行くもの、という認識がある上に車を持っていない俺には想像しか出来ないが、小宮栄は地下鉄と同じく環状になっている部分もある高速道路が走っている。上手く使うと厄介な信号待ちや一方通行に振り回されることなく目的地に辿りつけるらしいが、渋滞やら公害やらが頻発しているという。
 その小宮栄は大企業の本社や大規模な支社のビルやオフィスが多い。鷹田入はそこに勤める人が小宮栄より安く土地を買えるってこともあって−もう1つは地域有数の進学校をはじめとするレベルの高い学区でもあること−大きな家が多い。だから通勤ラッシュを尻目にゆったり車通勤と思ったが、そうでもないのか。

「祐司君は車通勤することを考えてるの?」
「いえ、ただ鷹田入で大きな家を持つ人は通勤ラッシュを尻目に車通勤かな、と思って。」
「あの辺の住人が車を使うのは、休日の行楽か子どもの塾の送迎だよ。新京市方面もそうだが、車で行って渋滞や事故に遭遇するリスクをわざわざ取りに行くようなことはしないよ。」
「なるほど…。」
「塾の送迎って、このお店に来る中高生は自転車か徒歩で通ってるんじゃないんですか?」
「祐司君と晶子ちゃんはまだ知らないかもしれないけど、新京市にある大きな塾に通ってる中高生を持つ親御さんも鷹田入には多いのよ。」
「鷹田入が住宅地なのは俺と晶子も住み始めたくらいでも分かるくらいですけど、結構人口が多いんですね。」
「鷹田入は広いわよ。祐司君と晶子ちゃんが住むような世帯向けの賃貸物件や分譲マンションも多いし。何処も教育熱というか進学熱が高めなのは共通してるけど。」

 俺と晶子が暮らし始めた鷹田入は、まだほんの一部しか知らないんだな。新居の賃貸マンションも2LDKだから夫婦子ども1人の世帯なら十分住めるだろうし、今後子どもが出来たらそういった子育て事情に関わることになるだろう。両親が新京大学卒となると、子どもにはどう映るんだろう?
 そう言えば、晶子は子どもの教育をどう考えてるんだろう?子ども好きなのは前の京都旅行でもよく分かったが、その子どもの教育をどうするかまでは分からない。子どもの教育はやがて迎える子どもの自立のためだ。その辺を勘違いして自分のステータスと見なす親が多いのも事実だし、俺の親もそのクチだが、そうはならないでほしい。
 店を出て帰路に就く。ぼうっとしていると前の俺の家に行ってしまいそうになる。そのくせまだ新居への経路が確定していないから、頭の中に「家から店にはこの道を行く」と記憶を上書きするように意識する。あっという間に引っ越しとなったから、まだ頭が完全に順応出来ていない。
 徒歩での移動時間はおよそ倍になった。基本住宅街を通るんだが、車が時折通る南北の大通りを南進することが後半に加わった。こちらは歩道があるからそこを通れば良い。夜遅い住宅街は、偶に車が通るくらいで本当に静かだ。一定間隔で灯る街灯が眠り始めている街の一部を照らしている。
 マンションに到着。外から見ると、周囲の低木に埋め込まれたような照明に照らされて、文字どおり「館」に見える。オートロックを解除して晶子を先に入れて中に入り、エントランスが閉まるのを確認してから階段に向かう。少々手間だが、オートロック解除中に潜入される犯罪もあるから、晶子を護るために必要なことだ。
 鍵を開けて中に入る。室内はかなり収束に近付いている。少ないとは言え荷物は2人分あったし、本やCDといったこまごましたものが多い分段ボールの数はそれなりにあった。北側の部屋に集約していたそれらがかなり片付き、リビングとキッチンと寝室の和室は十分体裁が整っている。

「随分片付いたな。晶子1人でこんなに出来るのか。」
「今日は私も大学に行きましたから、本とかCDとかお皿とか細々したものを仕舞ったくらいですよ。」
「それでも朝はもっと段ボールがあったし、晶子が色々してくれるおかげで生活が早く軌道に乗せられる。」
「此処は祐司さんと私の家ですから。」

 引っ越し前から晶子は乗り気だった。梱包と開封は契約や手続き以上に面倒なんだが、晶子は大学に行く時間を絞ってまで率先して実行した。晶子は今まで俺の家に住みついてはいたが、どちらかと言えば客の立場だった。でも、晶子の新生活への意気込みは残り少ない大学生活など足元にも及ばなかった。
 昨日は終日引っ越しだったから俺も大学を休んだが−休んでも卒研は全く問題ないレベルにある−、晶子は引っ越しが終わった今日も大学に行く時間を絞っている。「引っ越し荷物の開封や収納がある」としてコアタイムにほぼ絞っている。卒論以外の単位を全部取っているし、卒論自体も結構進めていたから、コアタイムに絞っても進捗に問題はないそうだ。
 晶子が「お疲れ様」の準備をする間、俺は風呂の準備をする。風呂も幾分広くなった。やっぱりこの辺も単身者向けか世帯向けかで違いが出るところなんだろうか。軽く全体を洗ってから湯船に栓をして給湯器のボタンを押すだけで準備が始まるのは同じ。本当に便利だ。薪をくべながら温度調節をしていた時代だったら到底毎日入る気にならない。
 リビング中央のテーブルに向かう。今までリビングとダイニングが同一場所だったから、十分な場所が確保出来た今も結局これまでと同じくちょこんと鎮座している炬燵机が食事や憩いの中心地だ。これから徐々に家具を買ったりしていくだろうが、一番最初はダイニングのテーブルと椅子かもしれない。

「…晶子。1つ聞きたいことがあるんだ。」

 乾杯をして一息吐いてから話を切り出す。

「何ですか?」
「今日のバイトが終わってからの話で、中高生の塾通いが出たけど、晶子は子どもの教育をどう考えてるんだ?」
「まずは…出来るだけ色々させてみて、その上で本人が望む方向に進ませてあげたいと思ってます。何に適性があるかは全く分かりませんし、親が強制するのは一番良くないですから。」
「塾通いもか?」
「本人が行きたくて、きちんと目標がある−成績を上げたいというのでも勿論良いですが、それらが分かったら通わせてあげたいとは思います。」

 本人次第というスタンスか。晶子が子どもに鞭打って「良い学校、良い会社」に入れようと血道を上げる様子は想像出来ないが、これも実家時代の窮屈な記憶故のことだろうか。「良い嫁」になるよう色々な教育や躾を受けて来て、それが役立っている面もあるが、その分抑えつけられたり諦めざるを得なかったものも多いだろう。

「鷹田入は教育熱の高い地域ですから、此処に住み続ける限りは必然的に巻き込まれることになると思います。塾に通うにしても、成績を上げて受験に備えることの他に、友達も行くからとか、大人で言うところの付き合いみたいな面もあるみたいです。ですから、子どもを応援することはしても追い立てることは極力しないようにしたいんです。」
「中学生からの塾通いも、この辺に限ってはもう当たり前みたいな雰囲気だからな。」
「お店自体が鷹田入に近いですし、近くに大きな塾があって、そこに通っている中高生のお客さんが多いですからね。」

 何時まで此処に住むかは分からないが、2LDKという間取りは一昨日までの俺の自宅と比べれば格段に広いし、子ども1人くらいなら居ても問題ないだろう。晶子がどれだけ今の店で働けるかにもよるが、このまま住み続けて鷹田入りを学区に含む小中学校に通うことは十分考えられる。
 そうなれば、否が応にも進学熱や教育熱の渦に巻き込まれることになる。子どもを「良い学校、良い会社」に入れるべく血道をあげて周囲としのぎを削るのは、多くの場合母親だ。夫同様子どもも自分のステータスや勲章の1つと見なし、自分のステータスや勲章を余所の女である子ども−厳密には息子の妻に奪われると見なすことから嫁姑の争いが絶えないんだが、女性ならではの激しい同調圧力や見栄の張り合いに、晶子が何処まで自分と子どもを守れるだろうか?
 信用がないわけじゃない。大学で同調圧力を撥ね退け続けている実績もあるし、それを継続するのは並大抵の意志じゃなかったことは想像出来る。それを子どもが出来ても貫徹できる可能性は十分ある。だが、子どもを可愛がることが子どもを「良い学校、良い会社」に入れることが幸せと思い違って、教育熱の渦に飛び込む危険もある。

「子どもを産んだら勝手に育つわけじゃありませんから、どういう姿勢や方針で育てるかは漠然とでも考えておいた方が良いですね。どうも私は子どもを猫可愛がりしてしまいそうな気がします。」
「バランスだろうな。何か悪戯したとしても両方が叱るんじゃなくて、片方がフォローに回るとか。人の生命や財産に関わることなら話は違うが。」

 1人だとそういったバランスが取り難いかもしれない。片方が叱ったら片方がフォローといったことを1人2役でこなすのは至難の業だ。折角2人居るんだから、役割はその場その時で違っても子どもを追い詰めないようにしないといけない。そうすれば塾や習い事に無理やり通わせることにもなり難いだろう。

「祐司さん、子どもの教育についてもしっかり考えてくれているんですね。」
「細かいフォローとかは俺の性格上無理だろうけど、何も考えずに子どもを作るだけ作って晶子にお任せ、ってのはしたくないから、こういう方針で育てた方が良いとかくらいは考えておこうと思ってな。」
「お金の問題をきちんとしておくのは勿論ですけど、子どもを育てることもきちんと考えておかないといけませんよね。子どもを産むことばかりが先行してました。」
「それだけ子どもを欲しがってるってことかな。」

 今までは事実上夫婦だったとは言え、単に「男の家で同棲しているだけ」という冷めた見方も出来た。あの状態で仮に子どもが出来たら間違いなく出来婚だし、周囲は表面上祝ったかもしれないが、内心「同棲して子どもが出来たか」くらいの冷めた見方をしただろう。
 それが婚姻届を提出したことで、子どもが出来たとしても出来婚ではなくなったし、「結婚も早かったが子どもが出来るのも早かった」という感じの見方になるだろう。たかが婚姻届、されど婚姻届、か。それだけ婚姻届の意味、ひいてはその背景にある民法という法律が強固な社会的信用や夫婦関係の確実な裏付けになっているという証拠だろう。
 俺と晶子の家にあった家具や荷物を取捨選択して、持ち込んで各部屋に配置しただけの新居は本当に広いし、閑散としている。無駄にものを増やすのは収拾がつかなくなるが、此処で2人の生活の拠点を作り上げていき、新たな家族を迎え入れる…。本来、新婚生活ってのはこういうもんなんだろうな。

「子どもと言えば…、京都の高島さんに伝えないといけないな。」
「あ…、そうですね。手紙の方が良いですよね。」
「電話でも良いけど、こういう場合は手紙の方が良いだろうな。」
「卒業してから、ご挨拶に行きたいですね。」
「引っ越しも完了したから、日帰りくらいで挨拶に行けるだろう。」

 京都旅行の大きな出来事と言えば、めぐみちゃんとの邂逅だ。2日目の朝に京都御苑に赴いた時に偶然出くわし、1日預かってから両親を含めた保護者と言える祖母の高島さんに引き渡した。あの時は晶子が居るから大丈夫だと思っていたが、今思うと結構無謀なことをしたと思う。
 子どもの世話の仕方なんて全くと言って良いほど知らなかったし、めぐみちゃんがアレルギーを持っているとかそういう情報を全く持っていなかった。食べ物のアレルギーは最悪死ぬし、そこまでいかなくても病院搬送の事態となったら、俺と晶子はただじゃ済まなかっただろう。
 幸いにもめぐみちゃんにはアレルギーはなかったし、あの年代の子どもにしては目を疑うほど聞きわけが良かったことで、大した苦労もなく面倒を見られた。あの出来事を経て子どもを持っただけで親になるわけじゃないこと、晶子の子ども好きが結婚したいがためのアピールじゃなかったことも分かって、結果として良い経験になったのは間違いない。
 俺が間もなく中間発表を控えているし、いきなり京都に出向くのは無理がある。だが、少々先走ったかもしれないが婚姻届を提出して正式に夫婦になったこと、新居で生活を始めたことなど、伝えたいことは色々ある。そして、卒業してからにでもめぐみちゃんに会いに行こうと思っている。そうしたいのは晶子も同じだろうし…。
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